5月号 雨月 2011
宇野亞喜良 3つの貌
時代を超え、様々なジャンルで活躍するイラストレーター・宇野亞喜良さん。ここ1年ほどの間に出版された3冊の本をとおして、イラストレーター、キュレーター、エディターという宇野さんの「3つの貌」を追いました。
『アンティークシルバー物語』は、著者・大原千晴さんの書くエピソードを読むことで、過去のポートレートを写すのとは違う、内面に踏み込んだ描写ができた。描写的な表現を好む、僕の性格が活きた例だと思う。 -宇野亞喜良-
大原千晴著「アンティークシルバー物語」(主婦の友社)は、西洋銀器を歴史的な人物からひもとく一冊です。王侯貴族や職人、実業家といった18名の登場人物。彼らがどのように銀器を使った生活様式を確立したのか、様々なエピソードを元に解説しています。
宇野さんの人物描写は、時代背景や空間、人間の内面に迫り、変化に富んだ画法によって、今までにない絵物語の世界を創造しているようです。
隔月刊誌イラストレーションの連載を一冊にした『ぼくが誘惑された表現者たち』。1年に6人ずつ40人近く、自分でもよく取材したと思う。イラストレーターという職業には、依頼主の要求を分析・理解して、的確にヴィジュアライズする機能が必要。けれどもっと人間の情念や狂気といった変則的なものを表現する人達がいる。そこを紹介したいと思って始めた連載です。 -宇野亞喜良-
イラストレーター達はイラストレーション学ともいうべき同じ方向にむかいがち。しかし受け取る人達にとっては、ファインアートや写真、テキスタイルの柄など、テーマの表現にジャンルの壁はないというのが本音、と宇野さん。ある種「異能」なアーティスト達を自らたずね、彼らの作品や生き方に対する思いを、同じクリエーターという立場から丁寧に書き綴った一冊が「ぼくが誘惑された表現者たち」です。本書の出版と連動し3月1日〜4月10日まで、東京・南青山のビリケン商会にて「宇野亞喜良がコンタクトした異能のアーティストたち AQUIRAX CONTACT」が開催されました。
実際にアーティスト達に会ってみると、しっかりとした社会的常識を持つ人達が「これをやらざるを得ない」という感覚で作品に取り組んでいる。一種変わり者と思われている人達に、社会性を与え「この人とこの人がコラボレーションしたら面白い」という機会を作りたい。キュレーションという仕事にひかれるのは、いろんな作家の作品を集め空間を埋めること。サーカスの興業主のように、面白い空間を作りたいという思いが強いんでしょうね。イラストレーションという仕事のシンプルさに反発する面もあると思う。共鳴しながら集めていくことで、ある意味自分を投影しているのかもしれません。 -宇野亞喜良-
『ぼくが誘惑された表現者たち』
ワイズ出版
本書に登場する作家達の実作がビリケン商会のギャラリーを埋め尽くしました。
1934年3月13日名古屋市に生まれ、今年喜寿を迎えた宇野亞喜良さん。父は室内装飾業を営み、母は喫茶店を経営していたそうです。
ぼくの父親はカフェや寿司屋の内装を手掛けていた。高校生の頃は、辞書で寿司という字を引いて、楷書・行書・隷書の書体を拡大して描くような手伝いをしていました。わざと墨で汚して古色をつけたり、拭き取って下地を見せたり、いま手掛けている舞台装置と近い作業をしていたのかもしれません。そのころ師事していた画家の宮脇晴氏は、建築家・宮脇 檀氏の父上です。
近代以前の絵画は、イラストレーションと同じ性質を持っていると思う。肖像画はパトロンの要望に応じて書かれていたし、宗教画はキリスト教を解説する絵物語の役割が大きかった。近代に入っても、例えばマチスのロザリオ礼拝堂は、絵を一色で描きステンドグラスの光で色を添えている。空間を全体で表現している所がイラストレーションの世界だと思う。若い頃、灘本唯人、和田誠、横尾忠則たちと「東京イラストレーターズ・クラブ」を結成してから、生涯イラストレーターという自分のタイトルははそのままで行きたいと思っている。 -宇野亞喜良-
イラストレーションの枠を越え、様々なジャンルへの挑戦を続ける宇野さん。特に舞台にかける思いは強く、舞台美術から衣裳デザイン、役者のメーキャップ、ポスターデザインまでを手掛けています。
舞台美術をやっている時は、脚立にのって6、7メートルあるパネルに直接絵を描いたりする。身体はきついけれど、何も考えないで瞬間的に手が動いてしまう。自分の中に意外なパワーがあることが面白い。口で説明すれば若い人がやってくれるんだけど、結局は自分の手で描いてしまうんです。 -宇野亞喜良-
フランスで「ル・メートル」(巨匠)と称される帽子デザイナー平田暁夫さん。西麻布交差点近くの「Boutique Salon Coco(ブティックサロン ココ)」は、オートクチュールの帽子作りでは世界一の評価をうけ、皇室をはじめ世界中のセレブから愛されてきました。
"平田は70年も一生懸命、身を粉にして、帽子を創っているのに、本の一冊もつくれない”という妻の「ぼやき」にやさしい宇野亞喜良さんが反応して、一肌脱いで下さったのが始まりで、ずい分いろんな方のご協力により、思いがけない楽しい本が出来上がりました。
-平田暁夫-『平田暁夫の帽子』あとがきより
大正14年(1925)、長野県飯田市生まれ。86歳になった今も、毎日仕事場に通い続ける平田暁夫さん。実家は祖父の代から続く指物師で、手先の器用さを見込まれ、昭和14年、14歳のとき銀座シャロット帽子店に弟子入り。「その時まで、帽子を被った女性なんて見たこともなかった」と平田さん。
戦後の焼け野原から再起して独立し、1955年「アトリエ・ヒラタ」を設立、確かな技術に裏付けされたセンスあふれる帽子は、著名なファッションデザイナーやエディター、カメラマンから圧倒的な評価を得ます。しかし平田さんには満足出来ないことがありました。帽子はやはり西洋のもの。本場フランスの帽子作りを知りたいと渡仏したのは昭和37年、37歳の時。オートクチュールの一流作家ジャン・バルテ氏に師事し、伝統的な帽子作りを一から学び直します。「モードを作る人は取り組み方が違う。彼らの作ったものを世界中が真似します。デザインが売れるんです。日本では一流と思っていたが世界は違っていた」。帰国後、西麻布に帽子教室を開校。3000人以上の弟子を育てながら「Boutique Salon COCO」を開店します。フランスの伝統的な帽子作りが失われていくなか、その火は遠く離れた日本の地で受け継がれているのです。
5年ぶりで、ミラノ・サローネにやってきた。
1980年頃、初めて来て以来、30年間で8回目である。
・まずは30年来の友人に逢った懐かしさ。
・友人は、変わっているようで、変わってないうれしさ。
・もちろん表面は変わっている。カッコ良くオシャレになっている。
こんな状況なのにミラノに来てしまった。
友人の村澤さんがBC工房のスタッフのために、昨年12月に安ホテルをとってくれた。
あまりの安さに、オイラもいっしょに来てしまったのだ。
「アモーレ日本」のステッカーを貼った車も走っている。
ミラノでも日本を心配してくれている。
地球はひとつ、を感じる。
無垢板テーブルを作り、チーク材のごっつい安楽椅子などを作るBC工房には、
ミラノは関係ない?
いや、そうじゃないんですョ。
デザインの流れは、地球の回転に似ている。
ひとつの大きな流れが、地球全体にあると思う。
表面的なデザインの顔じゃなくてデザインの心というか、
デザインの本質、地球人の気持ちの感性は、国は違っても、スタイルは違っても、その時代の流れの中に漂っている。
だから、ミラノ・サローネに来ると、うれしくなる。
何を見るのではなく、何を感じるのか、である。
中国人のお姉ちゃんとお兄ちゃんと、オジさんが、デジカメで遠慮なく会場を撮りまくっている。
イタリア人も、もうあきらめ顔。
30年前、20年前の日本人も、こうだった。
上っ面のデザイン・トレンドを、手に入れることばかり追っていた。
デザインの本質を感じようとしていない。
オイラのミラノの師は、カシブチ先生とオオタニ先生。
会場のどこかで必ず逢う。
そして、今年の会場で感じたコトを教えてくれる。
オイラの感じているコトと重なることが多い。
カシブチ先生は、ミラノ・サローネ30回連続して来ている。
日本人No1。サローネの歴史をいつもミラノで講義してもらっている。
家具屋になる前から教えていただき、それでオイラはいつの間にか家具屋になってしまった。2人の先生は、オイラの恩人なのだ。
今回もオオタニ先生に、ゴチソーになってしまった。
出来の悪い生徒想い感謝。感謝。
それにしても、ミラノの物価は高い。
山の中で暮らしているオイラは、驚くばかり。食事代も高いけど、家具もずいぶん高くなっている。
今回、いちばん気に入った椅子は、日本円で約30万円。
とても買える値段じゃない。
日本の貧乏人は、およびじゃない。
チャイナとアラブのお金持ちが、
今年のミラノ・サローネの、いちばんのお客さんといったところかな?
「ミツバチの羽音と地球の回転」@藤野上映会
主催:トランジション藤野と藤野の仲間たち
協力:トランジション里山リレー上映会
この上映会は、3月11日東日本大震災以前から計画されていました。「震災により開催が危ぶまれたものの、この時期だからこそ意味のある上映会になった」と、トランジション・ジャパン代表の榎本英剛さんはいいます。
映画監督・鎌仲ひとみさんが来場し、舞台挨拶を行いました。「ミツバチの羽音と地球の回転」は、瀬戸内に浮かぶ「祝島」(広島から約70km)から始まります。島の対岸にある田ノ浦の浜辺では、中国電力の「上関原発建設計画」が約30年前から進められています。生活を支えてきた豊かな漁場を守るため、島の人々は反対運動を今も続けています。「生活手段である海や山の自然を奪われる」と老人達が連絡船に乗り県庁まで出掛けたり、身体をはって抗議を行う姿をカメラはたんたんと映しだします。生活を犠牲にした長い活動を続けるうち、島は乱され伝統文化も失われようとしていました。
その一方、国民投票で原発の廃止を決定したスウェーデンでは、風力や木質ペレット、バイオガス、波力発電、工場排熱の利用といった地域の特性に合わせたエネルギーの作り方を模索すると共に、自分の使いたい電力会社を選べるシステムを確立しています。そのスウェーデンでさえ原発の廃炉は計画通り進みません。無くすだけでも多大な努力と資金が必要となります。
「まずは原発のことを考え、話し合える場をつくりましょう」という監督の言葉が印象的でした。
光が溢れている。
砂混じりのアスファルトを。
踏む自分の足音が聞こえる。
熱が溢れている。
目の奥が赤くなるから。
何度もまばたきをする。
遠くで鳥の声がする。
甲高い音が空間を切り裂く。
真夏の一本道。
青山の街は今日も変わらない。
さわやかな初夏の大気の中で。
今日ものんびりと揺らめいている。
思えば、もうずっと長い間この街にいる。
そもそも …… 、彼は思う。
故郷とは比べ物にならない土地だ。
全てに満ち溢れている。
あそこは海しかなかった。
道路に汗が落ちる。
危険なくらいに、雲のないアオゾラ。
海沿いの国道に車はない。
音のない真昼。
遥か彼方に、海沿いの白い建物が見える。
もうずいぶん前から知っている。
今日はあそこに、あの廃墟に、
行かなくてはならない。
彼女が、待っているから。
防砂林の裏道。
誰も通ることのない道。
生きていくことが嫌になると。
決まってあそこに逃げ込んだ。
道が途中で途切れて …… 。
それでも、
夏草をかき分けて、
進んだ。
草の青い血。
濃くて甘い匂い。
微かに波の音が聞こえてくる。
やおら走り出す。
枯れ枝に躓き、蟻を踏みつぶした。
充満する夏の匂いが。
体中を満たしていく。
ずいぶん歩いて振りかえる。
ああまただ。
足元から伸びる影が。
遥か来し方から伸びている。
なだらかに白く伸びる砂丘。
群青色の海。
俺は、ただポツンと立って、
その世界を見下ろす。
辿り着いた廃墟の建物。
見上げると、
2階の窓ガラスの奥に人が見える。
階段を探す。
真夏の階段を探す。
ああ。そうだよ。
欲しがっているふりをして
その実、俺は。
何もいらない。
2階に続く外階段を、永遠に登る。
足元を見ながら、一足一足登っていく。
白い階段が、光っている。
もうこれ以上進むなと拒絶する。
玲子が死んだ?
2階の女が窓から身を乗り出して。
ほら、手を振っている。
少女のようなあどけなさに、心が震える。
「ねえ、見て。」彼女が指差したその先に、
一面のひまわり畑。
「あのね、私、本当はね。」
俺は成す術なく。
すべての世界をポツンと
ただ見下している。
突然携帯が凄
まじいノイズを発する。
耳をふさぎ、舞台中央に倒れる明。
凪「その先を聞いてはいけない。」
明「なぜ?」
凪「扉に気づくから。」
明「彼女は。」
凪「歌を失うから。」
明「俺の。」
凪「永遠に続く。」
明「たった一つの。」
凪「存在。」
2007年3月25日、石川県・輪島市沖40kmで発生したマグニチュード6.9の能登半島地震。輪島市をはじめ七尾市や穴水町で震度6強を観測。 死者1人、負傷者358人、全壊家屋684棟、半壊家屋1,732棟、一部損壊家屋26,901棟という大きな被害をもたらしました。
Colla:Jが輪島市を訪ねたのは、地震から約2カ月半後の6月上旬でした。古くから大陸や東北・北海道との海上貿易で栄え、北前船の寄港地として江戸や京文化の影響を受けながら独特の街並を形成してきた輪島市。外観からはほとんど分からないくらい、街の復興は進んでいました。
輪島とその周辺には「浜家造り」と呼ばれる民家が立ち並んでいます。日本海からの風を避けるため、海側の窓は少なく、外壁は下見板張りに押し縁をつけた切り妻屋根の家が大半です。1階には竪繁格子の入った窓を設け、3階建ての家も見受けられます。強い浜風にもまれながらも、線の細い奥ゆかしさを感じさせるつくりが輪島の家の特徴といえるかもしれません。
輪島市街を流れる輪島川。輪島市は川を挟んで河井地区と鳳至上町地区に分かれています。中心街のある河井地区は、明治末期に起った大火事によって9割以上の建物を焼失しました。一方の鳳至上町地区には築100年以上たつ塗師屋や、漆職人の工房、漆材料店などが並んでいます。地震で特に大きな被害を受けたのは、漆職人達が仕事場や保管庫として使っていた土蔵でした。
「志賀原発」のこと
能登半島の付け根にあたる石川県羽咋郡志賀町に、北陸電力の志賀原子力発電所があります。計画時には「能登原発」と呼ばれていましたが、1988年の着工時に突然、志賀原発と名称変更されました。この原発がクローズアップされたのは、1999年6月の1号機定期検査中に操作手順の誤りから3本の制御棒が炉から引き抜かれた状態となり「原子炉格納容器,原子炉圧力容器の上蓋を外した状態」で15分程臨界状態となった事象でした。北陸電力はこれのデータを隠蔽しながら8月には営業運転を再開しました。事象が明らかになったのは2007年。経済産業省の指示により1号機は運転停止となりました。
一方、2006年3月には、志賀原発2号機運転差止訴訟原告団が起こした訴訟に対し、金沢地方裁判所より2号機に対し運転差し止めが命じられるという画期的な判決がでました。しかし2審の名古屋高裁金沢支部は1審判決を取り消し住民側は逆転敗訴。2010年10月には最高裁が原告の上告を取り下げ2審が確定しました。こうしたもろもろの事象を抱えた志賀原発は、能登半島地震発生当時1号機、2号機ともに停止中でした。2011年4月26日現在、1号機は停止中、2号機は定期検査中です。
ずっと捜し続けてきたものが見つかったような気がしたのです。
これまで長い間、捜し続けて来たもの、それが何なのかは分からないながら、脈略無く、ただどこかに向い、模索してゆくことの延長線上に、ずっと捜し続けて来た『何か』を見つける事ができたような気がしています。今でも、言葉にすることは難しいのですが、自分の中に確実にその『何か』を感じる事ができるのです。その『何か』は延々と続く長い道のりで、辿り着くことのできないくらい遠く深い道である気がします。自分でもまだその全貌は掴み切れていませんが、自分自身にとって、自分の中で起こった小さな『革命』だと感じています。その小さな革命は同時に自分の仕事にとっての革命でもあるのです。何か大袈裟なことのように聞こえるかもしれませんが、自分の中に強く、新たな価値が生まれ、登るべき大きな山が現れたのです。
これまで自分の中に在った『畏れ』を考えると、それは何かを失うことに対する畏れだったような気がします。それは向うべき遠く深い道のりが見えなかったことからくる畏れのように感じています。今、その畏れが消え去りました。『何か』が何なのかは自分でもはっきりとは分かりません。しかし、向うべき方向とその長い道のりを感じる事ができるようになって失うことに対する畏れは自然に消えてゆきました。ずっと捜し続けてきたものは、どこか特定の目的地ではないような気がしています。捜し続けて来たものは、その深く、長い『道のり』そのものである気がしていますし、歩きつづけることができること、そのもののような気がしています。物事の価値は、逃れようのない、ごまかしの効かない現実として脈略を持って目の前に提示されます。その果実から、その果実を実らせた幹そのものの実態を紐解くことがなされます。そこには何のごまかしもできない事実が存在しているのです。そして、それが自分達そのものであると思います。何事にも表現されたものには、その表現した者が投影されています。
これまで自分達が大切にしてきたシャープなエッジを『全ての製品』から捨て去りました。これまで私達の作る製品のイメージの代名詞がシャープなエッジに象徴されていました。そのエッジを製品の全てから消すことは、同時に私達の存在や特徴を消滅させること、そしてこれまで培ってきた多くのプロセス、そして最も失うことを畏れた多くの顧客の支持を失うリスクを伴っています。新たな価値を生み出す、その為に多くのものを犠牲にしなければなりません。また、現実には、これまで構築してきた生産のノウハウやその為に投資してきた型や在庫などの物理的価値を失うことにもなります。しかし、過去を捨て去る勇気が持てなければ、同時にこれまで築いてきた中に存在する本当の価値に気付くこともできなかったと思います。そして、今、全ての製品からエッジを取払い、新たに生み出した製品達からは、これまで大切にしてきた『佇まい』は消えなかったのです。ずっと捜し続けてきたもの、それは時間を掛けながら前に進んでゆく事のできる、長く深い道そのものです。それは、これまでの価値を捨て去り、前に進む『勇気』だったような気がします。
今、私達、全ての人々の心が揺さぶられて、生きることを見つめ直すことを迫られています。生きること、生きていることとは何か。そして、大切なこととは何か。全ての人間が自問自答しています。そして、それぞれが自分の答えを見出して、前に歩いてゆくしかありません。厳しい選択を迫られますが、それしか無いのです。自問自答を繰り返しながら、行ったり来たりの繰り返しが、私達の人生の現実のような気がします。その中から自分自身が歩いてゆく道を見つけてゆくしかないのです。多分、正しい答えや価値などは初めから用意されていないのだと思います。彷徨いながらも捜し続けること、失敗を繰り返しながら、負けを畏れずに捜し続けること、歩き続けることを諦めないこと、心が折れそうになっても諦めないこと、続けること。歩き続けることの中で学んでゆく数々の経験の一つ一つの通過点が繋がって、自分自身の生きてきた道を繋いでゆくのかもしれません。歩くことを止めなければ、人生の失敗はありませんし、歩き続けることの中で、必ず『何か』を掴むことができるのです。
来る5月20日(金)、東京六本木・MIDTOWNにて、これまで進めてきた新しい製品の全てを展示します。まだまだ続く、長く深い道のりの途上ですが、私達の『小さな革命』をご覧頂けますと嬉しいです。