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ヨーロッパ中世のパノラマ
5月号 麦笛 2015
http://collaj.jp/
時空にえがく美意識
中世ヨーロッパは、西ローマ帝国の滅亡(5世紀)からルネッサンスを迎える15世紀までの1000年にわたる長い狭間の時期であり、ヨーロッパにとって暗黒の時代といわれてきました。しかし近年は、宗教をはじめとして農耕、民族、国家、言語、社会インフラ等々を形づくり、現代ヨーロッパを理解するにためには不可欠な時代として評価されています。今月は堀米庸三著「世界の歴史3 中世ヨーロッパ」を底本として、中世ヨーロッパを俯瞰したいと思います。紀元前から地中海世界の覇者となり、2世紀には東西ヨーロッパ、アフリカ沿岸、中東域までを制覇したローマ帝国。帝国は各地の衛星都市にローマ風の建築とインフラ(劇場、浴場、水道など)を持ち込み、ローマを中心とした大道路網、情報網を築きました。その高度な建築・土木技術と、それを支える数学や材料(レンガやローマン・コンクリート)を駆使し、水道橋やドーム建築、上下水道など、現在にも通じる社会インフラを構築していました。
ローマ帝国内で信者を増やしつつあったキリスト教徒は、多神教を重んじるローマ人やディオクレティアヌス帝による大迫害を受けながらも、313年、コンスタンティヌス帝が発布したミラノ勅令によってローマ公認の宗教となります。ローマの西方植民地の中心だったフランス・リヨンでも、長きにわたりキリスト教徒は弾圧されてきました。ローマ劇場の近くに建つフルヴィエール大聖堂には、ローマ時代からのキリスト教布教の絵物語がモザイク画で描かれています。
フランス・リヨンのフルヴィエール大聖堂(19世紀)
KENOSデザインの「 鮮 DO!エブリイ海田店 」
ストアオブザイヤー 2015受賞
KENOS(代表:小林清泰さん)が、店舗デザインやネーム開発、サイン計画等を手がけた「鮮 DO!エブリイ海田店」(広島市)が、ダイヤモンド・チェーンストア誌主催「STORE OF THE YEAR 2015」店舗部門第一位を受賞しました。この賞は読者の投票によって年間の優秀チェーンストアを選ぶもので、28回目です。
同店は「鮮 DO!」というネーミングのとおり、近くの漁港で水揚げされたばかりの魚や、収穫 24時間以内の採れたて野菜などを提供する「超鮮度」を全面におしだし、各テーマごとに工夫された特徴あるイメージによって、買い物に楽しさを与えています。エブリイ(本社・広島)のような地域スーパーの受賞は久々の快挙で、地域性を活かしたスーパーへの関心の高さを示す結果となりました。
ローマ帝国を脅かした玉突き現象
375年、北アジアの遊牧騎馬民族であったフン族(一説には匈奴の子孫)は、ヴォルガ川(ロシア西部の大河)を渡り東ゴートの地を占領します。東ゴート族は西ゴート族の地へとなだれ込み、居住地を追われた西ゴート族は、ローマの許可を得て数万人規模でドナウ川を越境しローマ帝国内に移住しました。これが「ゲルマン民族大移動」の始まりとなり、難民の措置に苦慮した東ローマと西ゴート族の間で起こった戦闘(アドリアノーブルの闘い)によりローマ皇帝ヴァレンスは戦死してしまいます。敗戦のニュースは帝国やゲルマン人全体に伝わり、相次いだ諸民族による侵攻は395年、東西ローマの分裂を招きました。ゴート族をはじめとするゲルマン人はバルト海周辺をルーツとする民族で、中東欧一帯に広がっていきました。多神教を信じる彼らは、神の子孫とされる王のもとで血族で結ばれた部族集団を作りあげ、牧畜を中心に肉、乳、チーズを主食として、麦類やいんげん類を栽培する農耕も行っていました。土地不足などで部族紛争の激しかったゲルマンでは強靭な戦闘集団が組織されていたため、兵士不足に悩んでいたローマはゲルマン人を辺境に定住させて屯田兵とし、正規軍に採用することもありました。民族大移動の頃には将軍や宰相にとり立てられる者もいて、ローマはすでに内部からゲルマン化していたのです。
目指すは地中海
ゲルマン人が目指したのは温暖な地中海沿岸、そして穀倉地帯として栄えたアフリカ大陸のチュニジアでした。アメリカ開拓時代のように家財を荷車に載せ、家畜や家族を連れて移動し、時には荷車を砦として闘います。民族大移動後、パンノニア(ハンガリー周辺)に定住した東ゴート族は 493年、東ローマの要請により北イタリアを征服し東ゴート国を建国します。軍を率いた英雄テオドリック大王は、少年期を人質としてコンスタティノーブル(東ローマの首都)で過ごしたローマ化されたゴート人で、ローマの法律、政策にそった治世を行いました。やがてゲルマン諸国は人口でも圧倒するローマ文明に飲み込まれます。6世紀はローマ人にとっても精神転換の時期となり、戦乱の世を避けるように、ローマの名門貴族がこぞって教会の門をくぐり修道院に入りました。529年にローマ南方カッシーノに生まれた聖ベネディクト修道院は、「服従、童貞(純潔)、清貧」を戒律とした厳しい共同生活を営み、修道士たちは農耕、園芸、工芸、建築、書写などあらゆる労働に従事しました。こうした生活スタイルが支持を集め西方に広まっていくと、農耕は荒れ地開墾の手本となり、修道院所有地の経営は領主たちの規範となります。また教育や布教にも力を入れ、西ヨーロッパは修道院によりキリスト教共同体へと作り上げられていくのです。ランゴバルド族はスカンジナビア半島から南下した後に東ゴートが去ったパンノニアに移り住み、ユスティニアヌス1世のイタリア遠征に従軍しました。イタリアの魅力を知ったランゴバルドは皇帝の死後、5万の兵を引き連れて北イタリアを征服し200年続く王国を築きました。この事件は、第一使徒ペテロの後継者として高い権威を誇ったローマ教会に、大きな契機を与えます。ローマ教会は、東ローマ帝国と教義面やコンスタティノーブル教会との権威争いで対立し、ランゴバルドの脅威から身を守るため新しい後ろ盾を求めます。それが西ローマ帝国の滅亡後、急速に領土を拡大していったフランク王国だったのです。
ピピンの寄進とカールの戴冠ドイツ・ワイマルのワイマル城(15世紀)
ライン川の下流に定住していたフランク族は西ローマ帝国の滅亡に乗じ、現在のフランス、ドイツ西部、オランダ、ベルギー、スイスなど、西欧世界の大半を征服します。ローマ教会は大きな力をつけたフランク王国に近づき、国王ピピン 3世に「ローマ人の保護者(パトリキウス)」の称号を与えランゴバルドへの遠征を依頼。ピピンは大軍を率いてアルプスを超えランゴバルド軍を破り、イタリア中北部の広大な土地をローマ法王に寄進します(「ピピンの寄進」)。ピピンの子カールは 50回以上の遠征で領土を広げ、800年のクリスマス、聖ペテロ寺院のミサでローマ法王から突然の戴冠うけローマ皇帝に任じられます。この事件は世俗権をにぎる「皇帝」を、法王権を司る「ローマ法王」が権威づけるという関係を生み、現代につづくヨーロッパ史の始まりともいわれます。カール大帝はキリスト教世界の統一を目指しますが、東ローマはカールの皇帝権を認めず、やがてキリスト教はギリシャ正教とローマ・カトリックに分裂し、東ローマは古代ローマと西アジアを融合したビザンツ文明を、フランク王国はローマ、ゲルマン、カトリックを融合した「カロリング・ルネサンス」を築きます。
工房楽記『 ふじのリビングアートギャラリー完成! 』
鈴木 惠三(BC工房 主人)
地元の鉄人あまの氏+ユンボ タケシ+スタッフ10名のチカラで、なんとか出来た?正しくは出来つつある。骨組みから、約 1ヶ月のスピード施工。4月 25日からの「ありがとうバザール」に間に合った。次は、7月4日からの展覧会 絵本作家の「西村繁男+いまきみち 2人展」に向けて、ギャラリーとカフェを、ちゃんと作るのだ。6月の毎週(火)は、リビングアートの日。スタッフ皆で、ギャラリーとカフェ作り。カフェは、あの有名な日本橋・赤木屋珈琲店から借り受けた大型焙煎機がドーンと中央へ。
「多分、きっと、大丈夫だろう。」楽観的である。
「作る」って、あれこれ、いろいろ心配してもダメだと思っている。思いつきで作り始めればいい。コンセプトなんて言ってたらダメダメ。作りながら、考えればいい。作りながら、修正していけばいい。作らなければ、見えてこない。
「人生は、試作の積み重ね」見えてくるのを、素直に信じればいい。冷静に、客観的に発見すればいい。どんどんチェンジし、深まるんだ。そして、それを、やり続ければいい。こんないいかげんで、モノづくりをやっている。ところで、このリビングアートギャラリーで展覧会をやらないかな ?約40㎡、期間は約1ヶ月間.2ヶ月間、有名?無名?関係なし。おもしろければ、場所代は無料。DMとポスターは作ります。
《展覧会予定》 7月.8月=西村繁男 +いまきみち 2人展 9月.10月=地元の油絵画家 母袋さんの展覧会スケジュールは決まってませんが、
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予定として、「モザイクアート」展
・「
ガイネの楽器と歌」展
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上田麻朝の「腰あたりのいい椅子」展
・「
アートのハート」展
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藤本均の「マグカップ 100」展
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元橋充の「100の木の箸」展
オイラの知り合い、仲間に声をかけているところです。「ふじの」の山の中から、小さな発信をしていきたい。
7世紀のはじめゲルマン人にかわりヨーロッパを襲ったのは、アラブ人でした。アラビア半島からペルシアに攻めこみ、東ローマの商業地域であったシリアやエジプトを征服し、一時は東ローマの首都コンスタティノーブルに迫ります。首都陥落は防いだものの、経済上重要なオリエント地域を奪われ東地中海の制海権を失ったことは大きな打撃となりました。一方、西へ向かった軍は、北アフリカ北沿岸を征服しつつイベリア半島(スペイン)に達し、西ゴート族を征服。こうして地中海はイスラム教徒の手に落ち、西ヨーロッパはエジプトのパピルスや香辛料、オリーブオイル、絹、などを運んでいた海上交易ルートを失います。洞窟住居「サッシ」で知られるイタリア南部の山岳都市マテーラ。旧市街にたつ岩山は、洞窟を掘りぬいた石造のドゥオモ(聖堂)です。8世紀頃、イスラムから逃れた修道僧が自然の洞窟を住居にかえて住み着きはじめたといわれています。一方イスラム教徒は商工業者には寛容で、現地人も税を納め服従すれば生業を続けることができました。また異教徒の科学知識や哲学についても、教義に背かないものは積極的に吸収し、数学などの分野はヨーロッパを遥かに上回っていました。イスラム教徒の収集したギリシャ・ローマの古典はラテン語に翻訳され、後世のヨーロッパに古代文明の知識を与えることとなります。フランク王国カール大帝の死後、後継者たちはその重荷に耐えかね 843年のヴェルダンの条約で国は 3つに分割されます。東フランクと西フランク、その間に挟まれたロタールの国は、現在のドイツ、フランス、イタリアの国境に相当します。9世紀後半から10世紀前半にかけては、異教徒の侵略を受け続けた暗い時代でした。なかでも北欧のノルマン人(ヴァイキング)は造船と航海技術に長け、喫水の低いヴァイキングシップを操って川を遡上し内陸の街や修道院を襲います。特に大西洋に注ぐ河川の多い西フランク王国の被害は大きく、襲撃の多い夏になると修道士や住民は内陸奥地に疎開する生活を送りました。
孤立化する中世社会
一方、東フランク国の脅威となったのは、ハンガリーを拠点としたマジャール人でした。イスラム教徒たちもチュニジアを本拠として 846年にはローマへ侵攻します。街を焼き払い略奪を繰り返す異教徒たちに対抗するには、城壁を築くことが不可欠でした。これが従来の田園の風景を一変させ、城塞を中心とした地方小権力が乱立します。封建社会のはじめ、地中海の制海権を失った西ヨーロッパは周辺から閉じ込められ、ドイツの中心を流れるライン川より西側では人口が減少し、最大の都市でも数千人規模で、村と村は広大な森林で隔てられてしまいました。中世は各地域が驚くほど孤立した時代だったのです。ローマ時代に整備された道路や橋梁、駅逓などのインフラは失われ、領主や聖職者たちは散在した各領地を行脚し、物資を確保しながら租税を集め支配を保っていました。この行脚政治が、封建社会のルーツとなります。一方、国家を超えた組織力をもつ僧侶たちは各地を移動し、その際に国際語として使われたのがラテン語でした。また商人たちは利益を求めて困難な旅を続け、真摯なキリスト教徒たちは聖地巡礼の旅に出かけましたが、旅人が追い剥ぎに遭わないのは珍しいくらいで、時には経済的に困窮した貴族や騎士、傭兵、逃亡した農奴なども追い剥ぎと化しました。
法外な通行税などをとる領主も多く、沢山の通関が設けられていました。徒歩税、橋税、車税などきりがなく、商人が旅の途中で支払う額は膨大になりま、遠隔地の製品は膨大な値段で取引されました。こうした中、陸路よりも河川の方が、安全に大量の荷物を運べる手段として利用され、ライン川やセーヌ川、ドナウ川など川沿いの街を発展させることになりました。ヨーロッパは今でも、河川を利用した船舶輸送が大きな役割を担っています。
ドラゴンシリーズ
ドラゴンへの道編
孤独は良いよ。
先月のコラージで僕が会社の内部状況のことやら、財務の引き継ぎが上手
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く行かなくて買掛担当者が不在であることなどを書いたこと。昨年、僕が何度も手術して何ヶ月も入院していたことなどを書いたものだから、コラージを読んでいただいた方々からオメエの会社は大丈夫か ? オメエの命は大丈夫か、生きているかい ? と沢山の励ましのお言葉と、会社の内情をあまり詳しく書くとお取引先が心配するよ。みっともないよ。とアドバイスいただ
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いたりした。まったくその通りである。我が輩は後先を考えずに生きてきたツケが体にも頭にも会社にも回ってきてしまった。『アチョー』である。
さて、春の気持ちいい日々が続いているが、退院した僕は 年分の時間を取り戻すべく、世界中を、日本中を、失った時間を取り戻す勢いで動き回っている。昨年の数カ月間の入院と共に失った大きな時間と同時に別の意味で貴重な時間と経験もした。二十歳からドイツで滞在した 年間の時間の意味は、ドイツ語が話せるようになったことや、ドイツ文化にどっぷりと浸かり、外国の慣習やドイツの生活文化を肌で感じ取ること、日本を外から客観的に見つめることにも繋がった。当時のベルリンの壁の崩壊から東西ドイツの統一、冷戦の終結へむかう世界を肌に感じながら、生きている実感を時代の変革のなかで感じ、人間の強い意思と民衆の感情の流れによって世界や物事が動いて行くことを知った。
しかしだ、僕がドイツでの 年間の時間で得たものを一番に挙げるならば、それは『自分の内面に向かう時間を得ること』。これを出来たことがドイツの生活で僕が獲得した最大の経験だったと感じている。特に 歳からの数年間はほとんど日本人に会うことも無く、日本語を話すこと無く過ごした『孤独』という時間がとても貴重な体験だったように感じている。もちろん、沢山の
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吉田龍太郎( TIME & STYLE )
手紙を日本語で父や片思いの女の子に毎日のように書き続けた。
日本人は協調性を重んじ、その時代性や周辺環境に順化し、安心感を持つような社会風土があって、そんな社会は表面的には協調性を持っているように見えるが反面、同調できない者は徹底的に学校や社会から排除されることになる。都会だけでなく田舎の中にも存在する沢山の孤独な少年少女は未来の自分を描くこともできなければ、心を解放することができる場所や相手を持っていない。日々を忙しく周りに同調してゆかなければ生きて行けない社会が、僕の抱く抽象的な日本社会像だ。 歳までの自分も同じように、時代性や社会に同調して生きていた。
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それはそれで社会を知ると言う意味で得ることは沢山あったのだろうが、外側ばかりを見るばかりで、果たして自分の内面に向き合うこと自体を放棄してしまっていた。時々 RCサクセションを聞いては自分の中の社会に対しての鬱憤を晴らすのが精一杯できることだったし、部屋に籠ってデビューした頃の村上春樹なんかを読んでは、何となくナイーブな自分に浸っていた。常に内面と言う本質自体が日本では表面的な捉え方だった。自分が何者なのか。自分は何がしたいのか。と言った根本的なことさえも、進学して優良企業に就職するとかいったようにパターン化していた時代だった。個々で深く内面に問うて考える時間的な概念が存在していない時代だった。しかし、今の日本は変わったし、人も社会も自由になってきた。
周りに同調する必要の無い社会が存在し、個々の考えに基づき行動して生
きてゆく。そこには孤独が付き纏うが、同時に大きな内面の自由も存在する。
日々を自分自身とじっくりと向き合い会話することができる。自分以外に相
手が存在しない孤独な時間。不自由さの中には、最大の自由が存在し、様々
なことを深く想像することや何度も同じことを考え続けることが出来る。同
調することや、社会との関わりを放棄した時に人間は本当の自由を得ること
ができるのかもしれない。若い時間には、そんな不毛に思える時間の中にこそ、
自分自身が眠っていた。
一人で静かな南ドイツの黒い森の中のベンチに寝そべって青空を見上げ、木々の間を流れる真っ白な雲と新緑の音連れの中から現れた子鹿の姿を、いつもドイツの時間の象徴として思い出す。孤独は苦しい。しかし、孤独の先に大きな想像の世界が広がっている。
農民の苦難ブリューゲル「農民の婚宴」ウィーン美術史美術館
中世は社会は「働くもの」(農民・市民)、「闘うもの」(騎士)、「祈るもの」(聖職者)で構成された三身分社会で、つねに「終末感」をもった時代でした。地震や洪水、家事、落雷、疫病、飢饉に見舞われ、対抗手段をもたない中世人は教会で祈りを捧げるしかなく、それが教会の力を強めました。では 9割以上の人口を占める農民たちはどのように暮らしていたのでしょうか?農民の記録はほとんど残っていませんが、領主から見た農民は収入の手段でしかなく、苦しむべくして同情に値しないものと考えられました。教会は清貧を教義とする点では農民と同じ立場でも、荘園経営の上では常に重い税を掛け続けました。
たとえばモンサンミッシェル修道院の記録では、領主の草刈り、乾草運び、穀物収穫、豚税、固定地税、畑の囲い込み税、結婚税、耕作賦役の他、共同の粉挽き場やパン焼き竈の使用料などなど、労働や物品、金銭など様々なものを納めなければ、修道院にあずけた担保を没収されました。農民の対抗策は、逃亡か一揆でしたが、12、3世紀になり開墾事業が活発化すると各地で農民を誘致する領主が増え、自由を与え勧誘する領主も現れ始めます。
自立救済権(フェーデ)
法は「神の裁き」と考えられていた中世では「神明裁判」が頻繁に行われました。例えば殺人が行われた場合も、遺族が訴えないかぎり警察が犯人を探し逮捕することはありません。遺族は直接加害者に賠償を請求したり、報復を行いました。たとえ裁判が開かれても、多くは「くがたち」(神明裁判)によって有罪・無罪が決められました。これは釜の中から石を拾い上げたり、熱した鉄をもって一定の距離を歩いたりして、生死によって有罪・無罪を決めるものです。騎士たちにとっては戦争も神の裁きを決める方法で、自立救済権(フェーデ)をもった軍人は、フェーデの元で村を焼き払うことも容認されていました。
「保護」と「従属」の封建社会ドイツ・ヴュルツブルクのマリエンベルク要塞
こうした時勢のなか軍事力のない農民たちは、教会や領主の保護に頼るしかなくなります。これを「托身」といい隷属者になることを意味しました。托身者は主人のために労働を行い、主人は保護を与えるという関係が活立されます。騎士たちは托身によっても自立救済権を確保できましたが、農民はそれを奪われ隷属階級、農奴となっていきます。このような戦乱からの「保護」と「従属」の関係が築かれていったのが、中世封建制度の特徴なのです。
封建制度の背景には、貨幣経済の混乱があります。経済の安定しない中世社会では、貨幣で役人や軍人を雇うことは難しく、城のなかで養うか、土地を与えて自活させるしかありません。騎士たちにとって厚い石の壁で囲われた城塞の暮らしは、快適なものではありませんでした。煙突のない煖炉の熱は大半が外に逃げ、窓は小さく、床は多くが土間で、藁や藺草を敷いていました。椅子といっても領主以外は背もたれのないベンチしかありません。
こうした城で、騎士たちは一日の大半を屋外で過ごし、鬱憤を晴らす手段はトーナメント(馬上試合)でした。有力な領主の結婚式や子息の騎士叙任式にはトーナメントはつきもので、ルールーはほとんどなく、殺略や放火、武器を奪うことも問われませんでした。騎士や領主にとっても格好の稼ぎどきで、格闘税をもうける領主もありました。もう一つの楽しみは狩猟です。婦人や子どもも伴い鷹狩が盛んに行われました。畑を荒らされる狩りは、農民にとっては苦労の種でした。騎士の食事は肉食が中心で、豚や羊などの家畜に飽きると盛んに猪や鹿などの野生動物を狩りました。
ドイツ・ヴュルツブルクのシュピタール堡塁
このような封建軍隊は、領主にとってはなはだ非効率でした。大量の食料を消費するのに加え、年間で戦争に従事できる日数が数十日とは決められていて、それを超えると戦線を離脱してしまう家臣もいました。機動力の乏しい封建軍隊に変わり、重宝されたのが傭兵たちでした。ソルジャーの語源は給料(ソルド)を受けるものから来ています。戦争後は村々を襲って略奪を繰り返す傭兵も多かったようで、大抵は没落貴族の子息たちが隊長として傭兵を束ねていました。
60
60それでも地球は回ってる
第二部「ジーノ編」 8 ホノルルの長い夜2
野田豪(AREA)
PM 6:45
廃墟のビル。割れたガラスの隙間から東洋人の男が街を見下ろしている。日本の公安が動き出した。その事実は彼に些かの動揺ももたらさなかった。白い顔に浮かぶ赤い唇を皮肉の形に歪ませただけだ。 HPDのトム・フォードは使い物にならなかったな。背後に控えるリオ(馬)に言葉をかけた。ドアにもたれかかり腕組みをする男 ……リオは微笑したまま何も言わない。卓上の花瓶に黒い花が生けられている。男はその花を右手で握りつぶした。黒いコートを羽織ると男が言った。「行くぞ。これが最期だ」クロが動いた。もちろんリオ(馬)の戦略通りであった。
PM 7:00
マイルで疾走するキャノンデール。コートの肩ポケットに収まっているジーノの携帯が震えた。ジーノはキャノンデールのハンドルを手放さず、肩を耳につけた。通話ボタンを押す時だけ左手を使った。ロックマンだった。「ようやくつながったなジーノ、無事か ?」ようやくつながった ?ロックマンから着信などしていないが ……。ザザッ。小さいノイズが走る。「 ……初めてあなたの声を聞いた。 Mr.ロックマン」「質問に答えなよジーノ。俺はお前の体を心配してるんじゃないんだぜ ?ナツキは無事かと聞いている」ザザッ。今度は間違いなくジーノの背後のソーマの木がざわついた。葉擦れのノイズがどんどん大きくなって行く。ちょっと待て。「なんと言った ?ロック ?」なぜロックマンはたった今トムによって工房が襲われたことを知っている ?「ナツキは無事だ。今、日本の公安と HPDのトムが面倒をみている」「なんだと ?」「落ち着いて聞け、ロック。どうやらトムを使ったナツキ強奪劇はフィッシィングだ」リオはこんなにも速く手を回していたのか。まずい。「何を言っている。ジーノホワイト ?奴の狙いは
ナツキだろう。俺を拉致するのにあれ以上の餌はない」「違う。 Kurosakiの狙いはあなただけなんだ、最初から。いいか良く聞け。余計なことは言うな。まず今その車を運転しているのはお前の側近だな ?」「Yes.」「ニケという頭の切れる女だ。そうだな ?」「だからどうだっていうんだ ?」「いいか今から言うことを良く聞けよ」
PM 7:03
リオ(馬)独白「トムが失敗する ……そんなことはもちろん織り込み済みだ。問題はジーノをナツキ固めに向かわせるだけで良かったのさ。あれだけナツキ誘拐の粉を見せてきたのだ。間違いなく奴らはナツキ周辺を固めてくるだろう。しかし、そこじゃな
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いんだな、こちらの狙いは ……。リオが獰猛な歯を見せて笑った。仕上げは上々
さ、ロックマン、あとはお前の首たった一つで事足りるのさ。お前は今ニケの運
転で高速道路をかっ飛ばしているよな。時速は ? は越えているか ?」
PM 7:05
呆然とした顔でロックマンは携帯を切った。シートベルトを外した。ウインド
マイル(約 140キロ)。「ニケ …お前」ニケがケタケタと笑いだした。ロックマンが左手でサイドブレーキを引いた。同時にニケがハンドルをギュウッと握りしめた。同時にロックマンが窓の外に飛び出した。ニケは女神の悲鳴を聞いた。恍惚の中、世界が反転する。ふわっと体が軽くなったと思った次の瞬間、彼女に永遠の暗闇が訪れた。
PM 7:06
ジーノ独白「リオ ……お前がロックマンを狙うということは、インビジブルの幹部以下、相当根深いところまでがお前らホクに調略されたということだ。ソーマを使ったのか、薬漬けにしたのか。いや、その両方なのだろう。ナツキの隠し場所をネタにロックマンを傀儡として組織の合一に利用。その後二人とも始末する。大まかに言えば。そんなシナリオだと考えていたよ。なるほど、事故に見せかけた暗殺か。確かにあからさまな殺しでは、後々インビジブルの中から大きな抵抗勢力も出てこよう。内々にそして騙し騙し事を運ぶには、仲間幹部の運転する車での死亡事
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ウを下げた。ホノルルの熱波が車内に吹き荒れた。チラリと計器を見た。時速
故が最も手っ取り早い。リオよ、より速くよりシンプルな見事な戦術だ。確かに僕は裏をかかれたといっていい。今回は僕の負けだ。しかしな、なめるなリオ。僕じゃない。ロックマンの身体能力をだ」
PM 7:06
ニケは右利きだ。必ず右にハンドルを切る。だとすれば、この速度。必ず車体は左側を浮かせる。おそらくタイヤが地から離れるのは 3/4回転後だ。助手席の窓から抜けたロックマンは車の上やや左側面に立った。数コンマ /秒。その面が地面と平行になるはずだ。高速の車が横転する時、その回転速度は思ったより遅々と回る。ロックマンはその回転の中、周囲を確認する。後続車の位置、ガードレールの位置。車は回りながら、ガードレールの方へ滑っている。その外側。緑の下生えが見えた。土だ。あそこだ。膝をギュウと曲げて、タイミングを計った。飛んだ。射出されたように体が跳ね上がった。高高度の中、着地地点を探す。ビッグクリフを飛ぶプロスキーヤーのごとく、ロックマンは空中で一定のバランスを保っていた。驚嘆に値する身体能力であった。マロニエの木が眼前に迫る。確信した。生き残ったぞ。腕で顔を被う。太い枝を右手で掴んだ。バキッと音を立ててその枝が折れた。次の枝に背中を打った。
PM 7:10
携帯が鳴った。ジーノが応答する。「ジーノか ……生きてるぜ ?」口の奥で安堵の声を飲み込んだ。「あなたのことだ。ハリウッドも真っ青のアクトを演じたのでしょう」「さあな」「さあ、次はこちらの番です」今ここの位置をそちらの携帯に転送しました。すぐに来て下さい」「ジーノてめえ ……」「はい。今晩中に終わらせるつもりです」「ケッ ……いい考えだ」ロックマンはノキアをしまうと、軽々と走り始めた。走りながら狼のように咆哮する。久しぶりに晴れ晴れとしたいい
気分だった。 ■
騎士をめぐる宮廷恋愛物語(コートリー・ラブ)には、女性の積極性がよく表れています。領主の若い娘たちは、城を訪問する騎士に心ときめかせました。武具を外し、入浴や寝室を整え、夜のマッサージまでが大切なつとめでした。そうした中から、後世に伝えられる激情的な愛の物語が生まれています。この背景にあったのは、戦乱で失われていった慢性的な男性の不足です。中世はつねに女性の人口が圧倒的に多く、未婚女性も沢山いた時代でした。
村の司祭
華麗なローマ法王庁をキリスト教圏の頂点とすれば、村々の司祭は最末端の役割を勤めました。その役割は村人の悩みを聞いたり、問題を解決したり、洗礼から結婚、埋葬まで、村人の生涯の全てに関わりました。しかし当時の生活を記録した史料はほとんど残されていません。その理由のひとつは、彼らは領主の親族から選ばれることも多く、教区の収入を管理することが一番の仕事だったからです。司祭になるための資格試験もラテン語が少しと賛美歌数曲
を知っていればよいというもので、説教は各地を回る説教師に任せっきりの司祭もいるなど、今では考えられないことが行われていました。
修道院の暮らし
一方修道僧は、修道院の壁の中で集団生活をつづけ、その様子はヴァイダ・ラースロー監督の映画 「汚れなき悪戯」に描かれています。清貧を標榜する一方で、
「ピピンの寄進」以来増え続けた領主からの土地や財産の寄進により、豪奢な暮らしをおくる修道院も少なくありませんでした。中世に破壊された水道下水設備や建築土木技術などどローマ伝来の知識や技術、財宝を保護する役割も果たし、ワインの栽培・醸造技術を進歩させて、現在も有名なワイン産地を開発したのも修道院でした。一方で建物の改装、装飾などに金をかける乱脈経営から、高利貸しに資金を借り、経営に息詰まる修道院も現れます。
修道院の果たす大きな役割のひとつに「社会奉仕」があります。ひとつは貧困層を救うセーフネットの役割で、パンや肉を配り、その支出も相当なものとなりました。これは貴族や領主が搾取した富が、修道院を介して社会に還元されていたとも考えられます。もうひとつは旅人の保護でした。交通インフラの崩壊した 9、10世紀において、修道院は旅人にとって貴重な宿となり移動ルートを確保した功績は大きなものでした。
表参道の交差点から根津美術館方面へ向かう通りに
は、名だたるファッションブランドが軒を連ね、一種独特の空気感を醸し出す。田舎育ちのケン太とかすみにしてみれば、まさかこんな超おしゃれな界隈に住むなんて夢にも考えていなかった。人との縁、地の縁と
は不思議なもので、かれこれ
年以上暮らしたことに
なる。二人が移ってきた当時は、お向いの官舎も建って間もない頃で、その敷地には大きなサクラの木、美しいイチョウ、梢に集まる小鳥たちのさえずりまで含め、近隣のオアシス的役割を担ってくれていた。
ところが、である。あの東日本大震災のあと、いつの間にか官舎から人影が消えた。庭の雑草もほったらかし。無人状態になったとはいえ、管理ぐらいして欲しいと思った矢先の知らせだった。立派な地下駐車場を備えた超頑丈な官舎を壊し、マンションを建てるのだという。日本人ってなんでも壊して建て直せばいいと思っている?建築物はただのお金を生み出す道具
ではないはずでしょ。お向いの計画を知った時点から、二人にやり場のない怒りが吹き出した。今度ばかりはお隣の工事と勝手が違う。長年向き合った建物の解体工事を目の当たりにしなければならないからだ。
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外敵の侵攻が一段落した11世紀頃から、社会の安定は人口を増加させ耕地の拡大をもたらします。11世紀の半ばから13世紀半ばまでは大開墾の時代といわれ、ドイツ東方では東方植民事業が進められました。森林や荒れ地を開墾し、沼沢地は干拓され、ヨーロッパの風景を変えていきます。開拓農民に対しては、税の軽減や自由身分を与えるなど特典を与える領主もいました。
中世の農業革命といわれるのが「三圃式農業」の普及でした。従来は農耕地 1/2、休耕地 1/2を繰り返していたものが、冬穀・夏穀・休耕地(放牧地)のローテーションを組むことで農業生産の効率が飛躍的に高まりました。一方都市部では商工業が発展します。道路は改良され橋が掛けられ、国王や領主は通行税や商業の課税を得るため、都市化を熱心に進めました。地中海の海路についても、レコンキスタ(国土回復運動)によりイスラム勢力から拠点を奪還することで地中海交易が復興します。フランドル地方の特産品「毛織物」など、手工業や交易の活性化は貨幣経済に安定をもたらしました。
十字軍の熱狂
11世紀末の西ヨーロッパを熱狂させたのが、十字軍による聖地エルサレムの奪還でした。東ローマ帝国皇帝から依頼をうけたローマ法王ウルバヌス 2世は1095年、諸侯にたいして聖地奪還を呼びかけ翌年には十字軍が出発します。外敵によって閉じ込められていた西ヨーロッパ人が、反撃の狼煙をあげた第1回の試みとなりました。以来 170年にわたり様々な思惑をのせた十字軍が組織され、その旅程で異教徒に対する略奪や殺戮を繰り返しました。十字軍の熱気は民間に伝搬し、ついに少年たちが率いる「少年十字軍」が組織されました。少年少女は船で移動中に誘拐され、奴隷としてイスラムに売られました。十字軍によって力をつけたローマ法王の権力は、11世紀末から12世紀にかけて最盛期を迎えます。全ヨーロッパからの租税収入は大変なもので、どの君主も及びませんでした。この豊富な財源を利用して法王は政治的な指導者の立場を確立し、有名な「カノッサの屈辱」以来対立していた神聖ローマ帝国(東フランク王国)との溝を深めることとなりました。一方で12世紀の末頃から、フランス・リヨンを中心に「リヨンの貧者」(ワルド派)と呼ばれる宗教運動が起こります。密集して暮らす都市生活者に対し、新興派閥が信仰を流布しやすい環境が生まれていました。
リヨンの貧者フランス・リヨンのサン・ジャン大聖堂
清貧の思想を説いたワルド派は聖書の教えを重んじ、誰にも分かりやすい口語に訳して、聖書にはない地獄や煉獄を否定します。ワルド派の創始者はリヨンの裕福な商人であったピーター・ワルドーで、1170年頃に霊感をうけて財産の全てを慈善事業に投じ民衆による宗教団体を設立します。最初この運動はローマ法王にも承認されていましたが、その聖書主義によって対立し破門されます。ワルド派は宗教革命の先駆者ともいえるでしょう。
5月5日こどもの日
NHK
夜7時のニュースが終わって、国谷
キャスターの番組かと思ったら、祝日特番で「歌謡チャリティーコンサート」(鹿児島市民文化ホールで収録)が始まった。普段こうした「歌手勢揃い番組」は、まず観ない。でも、番組の冒頭、舞台に並んだ出演歌手たち、それが不思議な組み合わせだったので、テレビを消さずにいた。番組内容は、 NHK厚生文化事業団のホームページに、次のように紹介されている。「このコンサートは平成 年から毎年開催しているもので、毎回 組前後の歌手がオーケストラの演奏をバックに名曲の数々を披露するコンサートです。今回は ……(中略)石川さゆり、市川由紀乃、華原朋美、クリス・ハート、伍代夏子、鈴木綜馬、鈴木雅之、谷村新司、
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徳永英明、元ちとせ、秦基博、莉奈のみなさんが出演 ……」
普段なら瞬時にスイッチオフ。でもなぜかこの晩は「あの人は今」的な興味もあって、最後まで見た。出演歌手 人の中で、5人は「今も元気にやっています」という懐メロ組。今もお元気なのは結構ですけれど、歳月の積み重ねが生み出す「歌の深み」が、まるで感じ
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で、どうしようもないくらい本物。これから幾つもの花を咲かせ続けていくことだろう。そして、もう一人が驚くなかれ、華原朋美だった。少し前から噂はあった「朋ちゃんが歌えるようになった」と。「歌えるようになった」ことで噂になる歌手というのも、幸せという
か不幸というか。朋ちゃんの場合は、その両方だろう。それにしても、
まさか華原朋美の歌に心が動かされることになるとは、思ってもみ
なかった。
彼女は今、真剣に歌と向き合って、ことばに気持ちを込めて、丁
寧に歌を歌っている。あの音痴で、薬物依存で、スキャンダルまみ
れの潰れかかった「歌手」だとは、とても信じられず、耳と目を疑
った。しかし間違いない。修羅場を越えて、華原朋美は生まれ変わ
ったのだ。その歓びと自信が、歌を通してストレートに訴えかけて
くる。
その前日「 Beyond the Lights 」(日本未公開)という2014年
の映画を観た。ミニー・ドライヴァーがステージママで、娘を子供の頃からその内面を無視して、ガチガチに自分の思う型にはめて、「売れる歌手」に仕立てることに成功。娘は見事、エロティックを売
デビュー20周年記念「ALL TIME SINGLES BEST 」華原朋美
られない。あとの5人は「真面目に歌手を続けています」組で、ああそうですか、という感じ。で、残る2人の歌に、私の琴線が共鳴して心が動かされた。ひとりは、元ちとせ。これはもう歌うために生まれた人り物にするヒップホップ系の大スターとなる。しかし、自己の内面とあまりにかけ離れた、巧みな演出で作り上げられた虚像を演じ続ける人生に耐え切れなくなり、自殺未遂。高級ホテルのバルコニーから飛び降りかけたところを、ガードマンに助けられ、やがて彼との恋愛を通して、初めて自分の気持ちに正直に生きる道のあることを知る。母親という枷から逃れることで、本来の自分を取り戻し、新たに素直な気持ちで歌に向かうことで再生していく、という物語だ。
朋ちゃん復活劇も、新たに2枚のベスト盤リリースや小室某との TV共演等、この映画の物語的な「巧妙な復活作戦」の存在が見え隠れしている。しかし、いくら演出してみたところで、それだけでは決して、生であれだけの歌を聴かせることはできないはずだ。歌手は、歌がすべてだ。歌さえ良ければ、多少の演出があろうと、また御乱行があったとしても、一向に構わない。芸能人なのだから。それより何より、あのへたっぴいが、ここまで歌えるようになるまでに、どれほどの修練を積んだことか。それこそ「死ぬ気で」頑張ったのではないだろうか。華原朋美にはおよそ似つかわし
アズナヴール(2015年)ピアフとアズナヴール(1950年)
くない、「人生は我慢と修練」と
いう言葉が頭に浮かんだ。
ところで、きのうユーチューブ
で、驚くべきビデオクリップを見
た。フランスの歌手シャルル・ア
ズナヴールの「新アルバムの予告
ビデオ」だ。御大は齢九十歳!で
ある。楽器演奏ならまだしも、
九十歳にして新作が出る歌手なん
て、これまで聞いたことがない。
その録音風景と、アルバムタイト
ルにもなっている「アンコール」
という歌を全面に出した、2つの
クリップがアップされている。歌
というよりも「語り」に近い。が、
まぎれもなくアズナヴール節は健在だ。はじめて彼の歌と出会ったとき、私は小学校六年生だった。シルヴィ・ヴァルタン主演の映画『アイドルを探せ』の中で、アズ
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ナヴールが歌った『思い出の瞳』という曲だった。
今から十年前、御大八十歳の誕生日を記念する一大コンサートがパリで開かれている。当時のシラク大統領夫妻を客席に迎え、フランスのシャンソン界挙げての一大行事という趣で、これで引退するのだな、と思った。その「引退興行」に至るまでの約十年間がアズナヴールの歌手としての絶頂期だ。七十歳代が黄金期という見事さ。これは、フランク・シナトラに匹敵する。そのアズナヴールが昨年、アメリカでツアーを行った。 歳である。衰えながらも昔の歌を、きちんと舞台に立って、深みをもって歌っている。1時間を軽く越えるショーではないだろうか。これには驚かされた。そのビデオを見て、彼はシナトラを越えた、と思った。かつてシナトラの伝記を書きたいと資料集めに奔走していたシナトラ狂が言うのだから、間違いない。
音楽はもう打ち止め、と思っていたけれど、数年前から徐々にまた重いビョーキが再発し始めている。結局、三つ子の魂百まで、なんですね。
この時期の中世都市の姿をみてみましょう。14世紀頃の都市の周りには、城壁から数キロに渡る農耕地が広がっています。農民たちは作物を都市の市場に運び、換金して日用品や塩などを買います。農民の家は小屋に近いもので、窓ガラスはなく干し草を詰めて風を防ぎ、火を炊くと煙がもうもうと立ち込め、ススで真っ黒になります。粗末なテーブルとベンチが土間に置かれ、ワラを詰めた袋をベッドの代わりにしてました。主食はオートミールやライ麦の黒パンや小麦の白パンで、たまに鶏や豚、羊、牛を食べられるようになりました。また豊かな農民のなかにはコミューン(自治体)を組織し自由をえる農民も現れます。農村を過ぎると、みすぼらしい小屋が並ぶ一帯があります。ここは下請けの手工業者が暮らす町で、住人は朝早くから男女を問わず都市の工場へ出かけていきます。いよいよ市壁に囲まれた都市の城門が見えてきました。外敵の略奪や戦闘から身を守るため、城壁や堀は中世の都市にとって不可欠なもので、戦闘が起こった際は城門を閉めてから木の橋を落とし、城壁に空けた小さな穴から敵兵を撃ったり、タールや熱い油を流して城壁をよじ登る兵を防ぎました。
コミューン運動のはじまりドイツ・ローテンブルク
城門は日の出と共に開き日没には閉じられてしまうので、市民であっても日没後は出入りできません。城壁の近くには家に帰りそびれた住民や開門を待つ旅人を泊める旅籠もあります。城壁の近くに絞首台は、都市内で殺人や盗みを働いた犯罪者を処罰し見せしめとするものです。11世紀になると、個人間の報復合戦であった自立救済権(フェーデ)の停止を誓い合う「神の平和」と呼ばれる運動が盛んになり、市民による自警団が犯罪を取り締まりました。しかし支配者たちは、これを封建社会の主従関係を乱すものとみて市民との間に軋轢が生まれ、中世におけるコミューン運動(市民運動)のはじまりとなりました。城壁の上には見張り番が立つ塔がそびえ、城壁の上をぐるりと一周できる通路が整備されています。城壁は単なる壁ではなく、外敵を見張ったり、戦闘を行うための軍事施設で、その建設費や維持費は裕福な商人や手工業の親方が担っていました。平時には空堀の底は菜園として利用され、その地代は市の収入となり、塔の中は穀物や商品の倉庫、厩などに利用されていました。
ドイツの有名なことわざ「都市の空気は自由にする」は、都市に暮らす人々の自由を求める独立心を示し、これが中世を近世へと推し進める原動力となりました。都市を守ってくれる城壁は、都市の拡大を制限する壁でもあり、都市が栄えれば人口は増え街は過密化していきます。そのたびに城壁を取り壊し、新しい城壁を築くことで都市は拡張していきますが、城壁の拡張は一大事業で市民は莫大な税金を払わされることとなりました。城門をくぐると、その汚さと悪臭に現代人であればすぐ出て行きたくなるでしょう。今はロマンチックな城壁の街も、中世には石畳の道は限られ大半は泥と糞尿にまみれていました。羊や豚、鶏などの家畜も道路を自由に歩き、住民が窓から投げ捨てた生ゴミをあさっています。建物は上階にいくに従って迫り出していて、狭い道は昼間でも日が差しません。こうした事態に市も手を焼きますが、ゴミ回収のようなインフラはなく、水は井戸水に頼り上下水道はありませんでした。いったん火事が起こると火は瞬く間に広がり建物は道に崩れ落ちてきます。またペストのような伝染病も流行し、大勢の市民が命を落としました。
ウィーンの銀器工房ヤロシンスキー&ヴォーゴァン
通りには旅籠や居酒屋のほか、商人や手工業者の店が並びます。肉屋、靴屋、皮なめし、鍛冶屋、刃物の研ぎ屋、仕立屋、金銀細工師、大工、家具、陶芸、機織り、染色などなど、1階を店や仕事場にして、2階以上を家族や徒弟の住まいとしていました。一人前の手工業者になるためには、まず親方の家に住み込み、数年間の奉公を続ける必要がありました。家事手伝をしながら親方や職人の仕事を目で盗み、奉公を終えると職人となります。ここから一生懸命仕事にはげみ、同業者組合(ギルド)が定めた試験に合格し親方になるとギルドへの加盟が許され、製品を販売する権利を持てます。ギルドの結束は固く、自由競争を避けるため適正価格や作業時間は厳しく管理されていました。また組合の社会保険制度を設けるなど、現在も続くマイスター制度のルーツになりました。地中海交易によって富を蓄えた有力な商人は、市民自治の中心となり、市の行政を司る「市参事」の地位を独占し都市貴族層を形成していました。中央広場にそびえる市役所の鐘楼は市参事の権威を象徴し、参事たちは季節ごとに開かれる市を役所の上から見下ろしました。市役所の近くには、遠方からの商人や貴人を招き宴席をひらくホールもあります。以前は領主が貴族や騎士たちを招いて行っていた大宴席を、有力な商人たちが催すようになったのです。
ウィーンのペスト記念塔
ペストの流行と新市民
ペストの流行を呼び込んだのは、皮肉にも再開された地中海貿易でした。イタリア半島から上陸したペストの流行は、アルプスを越えて内陸にも入り込み、1348年にはフランス全土を犯し、スペイン、ドイツ、北欧まで伝播していきます。感染は貴族や農民を問わず一様に広がり、感染者の家を焼き払うことくらいしか出来ません。そしてペストの発生した都市を捨てて集団で逃げる聖職者や市民たちもいました。大流行による人口の急減は、働き手の減少した農奴の待遇を向上させ、解放運動を加速することにつながりました。農奴から自営農民や都市の市民になるものもではじめ、近代的な市民層を形成します。広場の市には、毛皮、織物、砂糖や香辛料、小間物、古道具、両替商が店を出し、魚や野菜など生鮮品を扱う露店の横を生きた羊や馬が往来しています。こうした活気ある都市も 5千〜 5万人規模の街が多く、大都市は限られていました。現在もドイツ(人口 8000万人)では、人口100万人以上の都市は首都ベルリン(350万人)、ハンブルク(177万人)、ミュンヘン(130万人)、ケルン(100万人)の4都市しかなく、中世都市国家の特性が残されています。
25周年を迎える Interior Lifestyle Tokyo 6月10日から
2015年6月10日(水)〜12日(金)10:00〜18:00(最終日は16:30 まで)
東京ビッグサイト西ホール全館 +アトリウム
今回で 25年を迎える「Interior Lifestyle Tokyo 」。4月下旬に開かれた記者発表の冒頭、見本市を主催するメサゴ・メッセフランクフルト代表・梶原靖志さんから25年を振り返るコメントがありました。25年前の初開催は幕張メッセで行われ、海外 330社、国内 24社という、今では考えられない国際的なイベントだったそうで、今年は国内623社、海外145社)、メッセフランクフルト関連のドイツ国外見本市としては最も長く続くイベントとなりました。アトリウムのディレクションは、マリメッコのショップデザインなどで知られる設計事務所 ima(イマ)。キュレーションをテーマにした出会の場になるそうです。
「食」をテーマとした新ゾーン FOODISTが誕生
▲ スイスからやってくる「PizziCutto」は、前後に揺らしながら切る円形タイプの包丁。面倒な野菜のみじん切りも楽にできそうです。もちろんピザのカットにも。
▲ 東京墨田区のホーロー職人とデザイナー小泉誠さんがコラボした「 kaico 」。職人技を伝える良質な地域ブランドとして、今年度の「すみだモダン」に認定されています。
▲若手を発掘するTALENTSコーナーの「Dye It Yourself」。ユーザー自身が染色して楽しむ新発想のプラスチック製家具をTAKT PROJECTが提案します。
▲平家の落人伝説でも知られる富山県の五箇山。「五箇山和紙の里」からは、minnaとコラボした「ブランド FIVE」が出展。障子紙を使った和綴じのノートです。▲倉敷の「三宅商店カフェ工房」は、二層に分かれたびん詰のジャムを出展。美味しさはもちろん、インテリアを飾るアイテムとしても活躍しそうです。
▲ヨシタ手工業デザイン室による、新潟県燕の金属加工技術で作られたキッチンウェア。ステンレスラウンドバーを使い「手工業」の魅力を感じられる製品です。
教会建築の変化ドイツ・ローテンブルクの聖ヤコブ教会
12、3世紀の教会建築は、ロマネスク様式からゴシック様式へと変化します。11世紀以前の教会建築は石造りでありながら屋根は木造で、火災によって焼け落ちることも多くありました。建築家たちは石造の屋根を作ろうと、ロマネスク期の半円筒状のボールド屋根を編み出します。しかし半円筒の石造屋根を支えるためには分厚い壁構造が必要で、窓は小さく堂内は暗く重々しくなります。そこで半円筒を直角に交差させ、その四隅に荷重を導く方法を考案します。しかし当時の数学では交差した半円筒の接点を割り出せず、不安定な施工しか出来ませんでした。そこで重量を支えるためのリブを設けます。これがヒントとなり、まずリブを作ってから隙間を石材で埋めていく工法が開発されました。これにより柱で屋根の荷重を支え、壮麗なステンドグラスの大窓を設けられるようになりました。ステンドグラスは天井から降り注ぐ神の光を表現し、絵物語でキリストや聖人の物語を信者たちに伝えました。
ドイツ・ヴュルツブルクのマリエンベルク要塞
封建社会の崩壊
14世紀、中世を支えていた封建制度が崩壊の時期をむかえます。要因となったのは、商業の活性化や農作物の増産、貨幣経済の進歩、道路環境の整備がもたらした「中央集権」の発達でした。商人が力をもった都市は、国王から自由都市の特許状を得て領主や教会の支配を離れ、中央政権に直接租税を納め、軍事上の援助を行うようになります。これを元に国王は官僚組織を整備し、傭兵を雇えるようになりす。一方、封建領主や荘園から利益を得ていた教会や修道院は徐々に力を奪われ、農民たちは団結して解放運動を起こし、自営農民の地位を獲得していきます。
100年戦争を契機に中央集権を強化したフランス、イギリスに比べ、ドイツでは神聖ローマ皇帝の権威が弱体化します。しかし対フランス、イギリス外交を行うためには国王を置かなければなりません。そこで国王を7名の有力諸侯(選帝侯)によって選ぶこととなり、形式的な神聖ローマ皇帝の地位が生まれます。約 300もの諸侯や自由都市が乱立するなか、12、3世紀に開墾されたドイツの東方ではユンカーと呼ばれる土地貴族が権力を握り、第二次大戦終戦後にソビエトによる農地解放が行われるまで世襲的な支配を受けました。自作農へ転換した農民は社会主義化し、東西ドイツ分裂のルーツとなるのです。
風と熱で街の環境をシミュレート
第3回 A&Aイノベーションセミナー
▲ ㈱ソフトウェアクレイドル 吉川淳一郎氏による「STREAM」の紹介。街を流れる風の動きをシミュレーションした例。
CADを活用した設計技術の最先端を伝える「A&Aイノベーションセミナー」。3回目となる今回は、風と熱をシミュレーションした設計手法がテーマとなりました。
CADソフト「Vectorworks」と連携する熱環境シミュレーションソフト「ThermoRender」は、ヒートアイランド現象の要因となる建物の熱負荷を視覚的に表現できるシミュレーションソフトとして、ビルの設計や都市計画など多方面で活躍しています。しかしThermoRenderだけでは、空気の動き(風)までを含めた計算は出来ませんでした。そこで今回提案されたのが、熱流体解析ソフト「STREAM」との連携です。STREAMは空気の流れや熱の移動をシミュレーションするソフトで、工業製品から建築まで幅広いジャンルで利用されています。
▲ 会場はゲートシティ大崎(東京)。4月23日開催
▲ 東京工業大学大学院 浅輪貴史氏
「STREAM」はソフトウェアクレイドル(本社・大阪)が開発した国産ソフトです。Vectorworks、ThermoRenderと連携することで、「風」による変化が計算結果に加わり、より高度な温熱シミュレーションが実現するそうです。製品の機能紹介のあと、東京工業大学大学院准教授の浅輪貴史氏と、日建設計の永瀬 修氏から、STREAMとThermoRenderを利用した実例が紹介されました。浅輪氏は ThermoRender開発チームのひとりで、自然の中に潜むエネルギーを発見し、涼しさを得るシナジー効果について語りました。例としてあげたのは富山県の水田地帯で、水田からの冷気流が市街地のヒートアイランド化を抑制していることを、ThermoRenderとSTREAMを使った大規模なシミュレーションで検証しました。一方、永瀬氏は、都市再開発におけるヒートアイランド現象の抑制とCO 2排出量(エネルギー消費)の削減を包括的にシミュレーションする手法を発表しました。大崎駅西口再開発を手がけた際には、再開発による街全体の環境改善効果をシミュレーションしたり、NBF大崎ビル(旧ソニーシティ大崎)に採用され話題となった、気化熱を利用してビル外壁を冷やすバイオスキン(気化冷却装置)の検証にも、両ソフトを連携させて活用したそうです。
▲ 日建設計 永瀬 修氏
略奪と破壊のなか、大学を生んだのも中世という時代でした。12世紀の末頃にイタリア・ボローニャとフランス・パリに誕生した大学は「12世紀ルネサンス」ともいわれます。当時の学問は、ピエール・アベラール(倫理学)、ジョン・オブ・ソールズベリー(政治学)、シャルトルのイヴォ(法学)、イルネリウス(法学)、などによって代表され、イタリアやスペインのイスラム教徒を通してヨーロッパに持ち込まれたギリシャ・ローマ、イスラムの学問によって飛躍的に発展します。知識の流入は、古代の遺産を細々とつないできた修道院学校の枠をこえ、各地域から学生の集まる国際的な大学へと発展していきます。
ヨーロッパ最古の大学街といわれるボローニャは、法律学をはじめ一般教養、医学、神学など専門学科をもつ総合的な教育機関となりました。そのきっかけを作ったのは11世紀の後半、、ローマ法王と神聖ローマ皇帝が争った「聖職叙任権」をめぐる争いでした。その法的な根拠をもとめ、法王グレゴリー7世は自らの主張を立証するための法令を探し求め、ローマ時代の法典に根拠を発見します。ボローニャの法律学は、その頃から盛んになったといわれます。ローマ法を学ぼうと遠方から集まった学生たちは、地元民から身を守るため互助団体をつくります。これがユニバーシティと呼ばれ、大学の語源となりました。学生たちは団結して家賃や物価の値上げに対抗し、市とも交渉を行いました。当時のボローニャでは大学といっても校舎はなく、教授の自宅や教会、アーケード、広場など都合の良い場所で授業が行われました。学生たちは教授に対しても良質な教育を提供するよう要求を行い、満足できない教師の授業はボイコットして授業料を払いませんでした。一方、教授たちも「カレッジ」と呼ばれる共同組織をつくり授業の質を落とさぬよう教授の資格審査を行いました。各地の大学で研究されたギリシャ・ローマの古典は中世につぼみをふくらませ、ルネサンス(再生)の時代を花開かせる原動力となります。