Colla:J コラージ 時空に描く美意識















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ペンケパンケ 2021 https://collaj.jp/ 時空を超える美意識 東京で中川を感じる ナカガワのナカガワ(下高井戸) 北海道・中川町に行ってみたいけど、今はなかなか難しいという方におすすめなのが、東京・下高井戸駅に近い中川町のサテライトスペース「ナカガワのナカガワ」。中川町産のハチミツ、ソーセージ、野菜、工芸品などが揃い、ウッディな店内で中川の空気感をあじわえます。地元商店街や日本大学文理学部との関係で、この場所が選ばれたそうです。 ▲辻井淳也さん(辻井養蜂場)とコラボした「森蜜」もこ ▼ かごあみ絲(藤田紗織さん)のカゴが商品の展示に使こで買えます。中川町の旬の情報も紹介。われていました。工芸家のアクセサリーも揃っています。 ▲お店の目玉はソフトクリーム。前号で紹介した丸藤牧場など、中川から直送された牛乳を使っています。さっぱりしてコクのある、何個でも食べられそうなソフトクリームです。 中川町で、感じるワーケーション JR旭川駅から天塩中川駅へは特急で約2時間20分。乗換なしで迷う心配はありません。中川町営のアクアリゾートポンピラアクアリズイングは、自然豊かな環境のなかで、家族でゆったり、ワーケーションを楽しめます。 かつて川は、人の移動や物流の中心を担っていました。中川町の中心を流れる天塩川と安平志内(あべしない)川。その合流点にはかつて「オフイチャシ」がありました。チャシとはアイヌ民族の築いた聖域であり、城でした。オフイチャシは最大級の規模があり、2本の川に削られた小高い段丘に幅4.5mほどの壕を掘り、木柵をなかに数件のチセ(家)があったようです。チャランケ(談判)の場であるとともに、サハリン、アムール川下流域との交易の場にもなりました。 天塩川から見る山と森 カヌーくだり 北條 元さん天塩川は士別の北見山地から北上し、天塩町で日本海に注ぐ全長256kmの大河です。下流域には明治30年代から入植がはじまり、沿岸の町と河口を全長15mほどの長門船が結びました。国道や鉄道の物流を、かつては天塩川が担っていました。 天塩川と安平志内川の合流点に集合して、天塩川のカヌーくだりを体験しました。ガイドして頂いた北條元さんは、北海道大学中川研究林で技術室長をつとめながら、カヌーを通じて天塩川の魅力を伝えています。まずはパドルの漕ぎ方をレッスンしてから救命胴衣をつけコースの説明を受けました。この日は川が穏やかで流速4〜5km/h、約7kmを1時間半で到着する予定です。雨が少なく川が渇水しているので、浅瀬に気をつけるよう注意されました。 北條さんが手作りした木製カナディアンカヌーに乗り出発です。北海道の名付け親といわれる松浦武四郎は、安政4年(1857)に天塩川河口から3人のアイヌ民族と一緒に丸木舟(チプ)に乗り、川を遡りながら流域を調査しました。松浦武四郎が遺した「天塩日記」には、この場所の近くで6月10日くらいに野営したことが記録されています。 天塩川のようにゆっくりとした幅の広い川は日本には珍しく、まるで湖でカヌーを漕いでいるようです。かつて天塩川流域のアイヌ民族は、川沿いにコタン(集落)を形成し、サケ、マス、貝といった川の恵み、クマ、シカ、ウサギ、山菜、果実、樹皮など山の恵みを得て暮らしていました。その頃の天塩川は大きく蛇行し、大雨や雪解け水が洪水を引き起こし橋が流されることもありました。昭和のはじめから川を直線的にする河川改修がはじまり、その姿を大きく変えました。 天塩川で30年以上カヌーを楽しんできた北條さんは、川の変化を見続けてきました。川が氾濫したり土砂が瀬に溜まったり、川の姿はどんどん変わります。河川改修工事によって本流を広げ流れをよくすると、災害が減る効果のある一方で、支流から水が流れ込みやすくなり、支流の水量が減少してしまいます。本流の変化が水量のバランスを崩し、森の環境や魚・水生昆虫の生態に影響を与えることもあるようです。 北條さんの合図でカヌーが集まってしばしの休憩。流れがゆったりしているので、おやつを食べたり、飲み物を飲んだり、カヌーの上で思い思いのひと時を楽しめます。 浅い瀬をのりきるとゴールまでもう少しです。 ポンピラアクアリズイング近くのカヌーポートに到着しました。カヌーを川から引き上げます。 北條さんと北海道大学の同僚たち。3人一緒の川くだりは久しぶりだそうです。川面にただよい森を眺めていると、大自然と身体が一体になるように感じました。最近の研究では、アメマス、サクラマスなど海から遡上する魚が山の栄養素となり、森の樹々や昆虫の生育に欠かせないことが分かってきました。全てが密接な関係をもつ自然を体感した1時間半の旅でした。 まかせたぞ !).ver(たまご型孵化ロボ せいめいは とうとい そしてヒヨコは かわいいんだ Vol.27 原作: タカハシヨウイチ 寧江絵 : タカハシヨウイチ 昭和7年8月14日早朝、旭川駅を出発した斎藤茂吉は、昼過ぎ佐久駅に到着。豪雨で渦巻く天塩川を渡り、4時間をかけて安平志内川沿いの道をのぼり、志文内(現・共和)に着きます。岐阜からの移民が多い志文内は明治40年代から入植がはじまり、もとはアイヌ語「シュプンナイ」(ウグイのいる川)から、志文内(しぶんない)と呼ばれましたが、昭和になり「協力して平和な部落を築く」ことから共和と命名されました。 斎藤茂吉の歩いた中川 茂吉小公園 うつせみのはらから三人ここに会ひて涙のいずるごとき話す 斎藤茂吉 日本を代表する歌人で精神科医でもある斎藤茂吉は、志文内の診療所で拓殖医をしていた実兄・守谷富太郎を、山形で旅館を営む実弟・高橋四郎兵衛と共に訪ねます。実に17年ぶりの再会で、志文内に5日間滞在した茂吉は50首以上の歌を詠み、当時の中川の暮らしぶりを活写しました。診療所のあった場所は「茂吉小公園」となり、まわりには診療所の防風林が残っています。中川町では30年近く、全国から短歌を募集する斎藤茂吉記念短歌フェスティバルがひらかれています。▲ 守谷富太郎(右)、斎藤茂吉(左)。昭和7年。 ▼ 志文内の診療所。昭和20年頃。 公園にはイチイ(アララギ)の木が残されています。このとき51歳の茂吉は欧州留学から帰国し、東京・青山脳病院の院長となり、短歌誌「アララギ」の中心人物として知られた有名人でした。一方兄・守谷富太郎は苦学して30歳で医術開業試験に合格し、利尻島、磯谷村、秩父別、志文内で僻地医療に従事してきました。茂吉の訪れた日は大雨が続き、川が氾濫して中川全域に大きな被害を出しました。深夜、緊急事態に呼び出される兄の姿は茂吉にも大きな影響を与え、志文内での再会以降、頻繁に手紙をやりとりし互いの歌を批評しあいました。開拓地の厳しさを詠んだ富太郎の歌は、『北海学園大学人文論集』に470首あまりが残されています。 午前二時すぎとおぼしきころほひに往診に行くと兄のこゑする 斎藤茂吉 ▲ 富太郎の医療器具(中川町エコミュージアムセンター)。 ▼ 発掘されたアンモナイト(中川町エコミュージアムセンター)。 当時の志文内は小中学校、郵便局、商店、駅逓がある大きな集落でした。食いしん坊で知られた茂吉は、ヤマメやイワナ、マス、ヤマブキ、手作り豆腐に舌鼓をうちます。その後、兄から塩漬けや粕漬けのヤマメ、イワナが頻繁に送られ、アララギ派の面々にも振る舞われました。明治の頃から安平志内川ではアンモナイトが発掘されていて、富太郎は集落の人や子供からアンモナイトを買い取り茶の間いっぱいに並べていました。茂吉も50cmほどのアンモナイトを3個もらっています。 ゐろり火にやまべあぶりていまだ食はず見つつしをれば楽しかりけり 斎藤茂吉 志文内から2kmほど上流のワッカウエンベツ川と安平志内川の合流点には、ダベシという酋長がおさめるアイヌコタンがあり、入植者に小屋や丸木舟の作り方、漕ぎ方、野草の食べ方などを教えていたと伝わります。ダベシ自身もまた船頭として安平志内川、天塩川を往来し、味噌や塩など生活必需品を部落に供給していました。耕作地が少なく、稲作の難しい志文内では、薄荷や除虫菊、燕麦が作られました。 ひろびろと拓けて行けるうまし田に幾年もつづき稻は稔らず 守谷富三郎 IFFT/インテリア ライフスタイル リビング  2021年10月18日(月)〜20日(水) 10月18日から、2年ぶりの開催。約300社が出展。東京ビッグサイト南展示棟で開催 毎年秋の恒例イベント、IFFT/インテリア ライフスタイル リビング(主催:日本家具産業振興会、メッセフランクフルトジャパン)が2年ぶりに開催されます。日本各地の家具メーカー、テキスタイル、テーブルウエア、雑貨、生活用品、エシカルアイテム、建築部材など、家具・ライフスタイル用品が集まる一大イベントの再開です。 ■ イベントの目玉(詳しくは左下のリンクから、ホームページでご確認ください) 1 )デザイナーと企業の出会い。特別企画「+TALENTS(プラスタレンツ)」 若手デザイナー、ベテランデザイナー、建築家がプロトタイプや新作を発表。企業との出会いの場を創出します。建築家芦沢啓治さんが会場を案内する「建築家向け出展ブースツアー」もひらかれます。 2)「ETH ICAL」ゾーンの新設 持続可能な社会を目指す「エシカル」ゾーンが新設され、エコ、省エネ、リサイクル、アップサイクル、サステナブル、フェアトレード、オーガニック、地方創生、伝統工芸などのエシカル製品が16社から出展されます。 3)地域限定オンラインツアー 東京から離れた地域のバイヤーへ向けたオンラインツアー。県をまたぐ仕事を止められている方や行きたいけと不安という方に向けて、Zoomを使い約1時間で4社の希望出展者をツアーします。参加費無料で、事前の登録が必要です。 2019年の会場。 IFFT/インテリア ライフスタイル リビング  出展社のピックアップ 2021年10月18日(月)〜20日(水)東京ビッグサイト 南展示棟 家具産地から、大型パビリオンが出展 .騨..連合会旭川家具.業協同組合静岡県家具.業組合徳島県...業協同組合連合会 KINJO JAPAN / 錦城護謨 JAPAN STYLEゾーン 岩田三宝製作所 JAPAN STYLEゾーン 歴清社 ACCENTゾーン hito/toki/ 若林佛具製作所 MOVEMENTゾーン 前田源商店 金照堂 PETARI ラ シエスタ | ハンモック 飛騨産業 ligne roset ETHICALゾーン CREATIVE RESOURCEゾーン KITCHEN LIFEゾーン ジャパン/(株)アンプス 協同組合 .騨 ..連合会 HOMEゾーン HOMEゾーン 自然を活かす中川町有林 多様な樹種の森を歩く 中川町役場産業振興課 高橋直樹さん 中川町は「林業のまち」として栄えました。大量の丸太を筏に組み、天塩川河口の港から本州へ出荷。良質なアカエゾマツは高級建材、楽器材に使われ「天塩松」と呼ばれました。中川町には約2,000haの町有林があり、年間8,000〜10,000㎥の森林が生長します。中川町役場産業振興課の高橋直樹さんが最初に案内してくれたのは、町有林ではじめて家具用広葉樹の伐採を始めた森でした。戦後、北海道の各地で、広葉樹が欧米向けに伐採され、その後カラマツなどの針葉樹が植林されました。中川町有林では木を全て伐り倒さず、天然更新を促すことで、多様な樹々の育つ付加価値の高い森づくりを進めています。 未来の森を築くアダプティブ・マネジメント なにげなく見える森の景色も、他とはちょっと異なります。北海道の山の多くはクマザサに覆われています。クマザサの下には日が入らないため、木の種子が落ちても芽が育ちません。そこでクマザサを表土ごと取り去る「掻き起し」という作業を行いました。残されたカエデ、クルミ、カツラ、ヤチダモ、ハリギリなどが母樹となり、その子供たちが自然に生えてきました。その一方で、アカエゾマツの計画的な植林も進めています。こうした森林の管理方法はアダプティブ・マネジメント(適応的管理)と呼ばれ、いま林業界で注目されています。 「北海道には沢山の広葉樹、天然林資源があるにもかかわらず、本州に倣ってスギ、ヒノキの針葉樹人工林、いわゆる美林を育ててきました。しかし豊かな天然林資源は素晴らしい種子源でもあります。天然更新した森の状況に応じて、何を活かし、何を伐るかの判断を繰り返します。最初に目標林形を立てないと自然まかせになってしまいますから、計画に従って判断することが大切です」と高橋さん。ここでは町有林の計画に従い、アカエゾマツの樹下植栽と呼ばれる施業を行っています。アカエゾマツは長寿命で価値が高いので、社会情勢が変わっても計画が継続される可能性が高いと考えているそうです。アカエゾマツのまわりに天然更新した広葉樹の幼樹が育ち、将来は混交林になると思われます。 河川の多い中川の森は、傾斜が急で複雑な地形をしています。森林の整備や木の伐り出しを効率的に行うには、作業路の計画が重要になります。図上で何度も検討し、冬の間に現地を確認し、夏の手前に細かな土地の起伏や水の流れを判断し、必要な規格の路網をつけていきます。 つかれつつ佐久に着きたり小料理店運送店蹄鉄鍛冶馬橇工場等々 斎藤茂吉 天塩川と安平志内川の合流点に違い佐久地区は、かつて林業で賑わう町でした。木工場では建築向けの構造材や造作材が生産され、佐久駅から貨物に載せて出荷されていました。昭和7年、兄の診療所で5日過ごした斎藤茂吉と高橋四郎兵衛は、佐久駅から汽車に乗り、稚内、樺太へと向かいました。▲ JR佐久駅の「佐久ふるさと伝承館」。北海道の薄荷(はっか)というと北見が有名ですが、かつて中川は北見に並ぶ薄荷の産地でした。明治42年、中川に入植した岐阜出身の田中篠松は、板谷農場で薄荷の作付け、精油技術を習得し、北見に農地を得て移住します。研究を重ね「田中式薄荷蒸留機」の開発に成功しました。薄荷油は、石油缶(18リットル)が、昭和9〜11年には180円〜240円で売れました(米1俵60kgは12円)。天塩中川駅や佐久駅前には旅館、料理屋が繁昌し、放蕩三昧で身を持ち崩す人もいたといわれます。 ふもとまであをあをしたる薄荷畑のうへにいつしか白雲の見ゆ 斎藤茂吉 伝承館には様々な生活道具、仕事道具が展示されています。田中式薄荷蒸留機は、木の蒸籠(せいろ)に帽子のような蓋をかぶせ蒸気漏れを防ぐことで、薄荷蒸留の効率を従来より3倍も上げたそうです。蒸籠に薄荷をぎっしり詰め、足で踏んで香りを出してから鉄釜で蒸します。水蒸気が導管を通り、水で冷やされた螺旋状のパイプで液体になります。共和地区、板谷地区といった山間の集落では、運びやすく高収入につながる薄荷が盛んに栽培されました。 かはかみの小畑にまで薄荷植ゑてかすかに人は住みつきにけり 斎藤茂吉 9月18日〜10月18日まで中川の作り手たちが参加した「森のギャラリー」がオンライン開催されます。工芸家たちの作品が発表され、ネットで購入もできます(左下のリンク)。 根本から倒れ、となりの木に寄りかかっているカエデ。傷んだカエデは木の幹から小枝を出し、銘木といわれる「バーズアイメープル」になるそうです。ただしこの太さでは良材にならないため、従来はパルプ材にされました。しかし、工芸材料としては一級品になる可能性があります。こうした木を丁寧にピックアップし、中川の工芸家に提供する試みを進めています。樹齢数百年は経つと思われるハルニレの大木。周囲のミズナラなど良材は伐られていて、この木がなぜ残されたかは分かりませんが、先人が後世のために残してくれたのかもしれません。森には沢山のメッセージが託されています。 森の中には、ヤチダモ、ミズナラ、オニグルミなど1カ所に生えて純林を形成しやすい樹と、キハダ、サクラ、センなど1本づつ点在する樹があります。人が利用するときは、まとめて利用できる純林の方が都合がいいですが、最近はGPSやドローンを利用した森林調査のハイテク化によって、1本、1本の木を個別に管理する技術も向上しています。中川町有林は家具メーカー Time & Style、家具作家の宮地鎮雄さん(工房宮地)、旭川家具工業協同組合と連携して木材を供給し、1本の樹を大切に扱っています。盛りを過ぎたチシマアザミの花の側で、シナの木が白い花を咲かせ始めました。前号で紹介した辻井養蜂場の蜜蜂たちも、こうした花々から蜜を採っています。アザミからシナへと開花の時期をずらすことで、蜜蜂による受粉の機会を増やしているのです。 田中信彦のうつわ 2021年8月28日(土)〜 9月26日(日) Time & Style Residence(東京・二子玉川) Time & Style Residence 二子玉店(玉川高島屋S・C南館6F)で、「田中信彦のうつわ」展を開催(9月26日まで)。同店での個展は今年で7回目となり、ドットや刷毛目模様の新作を発表しました。個展を楽しみに待つファンも多いそうです。 色のうつわ ふたもの(青) 色のうつわ 一輪ざし 田中さんの代表作「色のうつわ」シリーズ。土作り、ろくろ、絵付け、焼成を全て作家自身が行うことで、長年研究された釉薬、やわらかなフォルム、マットな質感が相まって、唯一無二の色を生みだします。 ▼ 田中さんの作陶風景を上映。 リニューアルしたTime & StyleResidenceは、パーティションがなくなりオープンで明るい空間に。家族連れも気楽に入れる場所になりました。田中信彦さんの作品は、個展初日で数百個も販売されたそうです。 クルミの森 牧場の跡地などを森林に変える試みも行われています。ここでは難しいといわれる広葉樹クルミの育林にチャレンジしていました。町民を対象にした植樹祭も毎年ひらかれます。 中川町の工芸家がここで樹皮を採取し、作品に活かすこともあります。適切な太さの枝をとり、切れ目を入れると樹皮だけがツルッと剥けます。木をまっすぐに育てるには枝打ちが欠かせませんが、工芸材料をとることが枝打ちを兼ねるというメリットもあります。クルミの樹皮は空気に触れると黒くなり、これを丸めて干して使います。 樹々は水と太陽光、二酸化炭素によってエネルギーを作り、幹や枝葉に蓄積していきます。植林や造林によって樹を増やすことは、未来にむけて生きているメガソーラー施設をつくることともいえます。 ここで採れた蜂蜜はチシマアザミのもので、わずかに緑色がかっているのが特徴です。 森の散策のあと、すべて中川町産(オールナカガワ)の食材、薪を使ったバーベキューを楽しみました。薪は中川産の広葉樹(ミズナラ、イタヤカエデ、ヤチダモなど)です。白樺樹皮の焚付の上に井桁に組んで、着火したらフイゴで空気を送ります。中川の特産品をつくる匠舎(しょうや)のソーセージは、北海道産豚肉に行者ニンニクやハスカップなどを練り込んだオリジナルレシピ。串に刺して薪の火で炙りワイルドに頂きました。広葉樹の薪は熱量が多く、パリッと仕上がります。 厚切りベーコンにスティックセニョール、インゲン豆、ズッキーニなど、中川では露地もの夏野菜も豊富に収穫されています。 N Y Cのおしゃれなコンデ・ナスト社が発行するグルメ雑誌「エ ピキュリアス」編集部による「牛肉拒否宣言」。その背景の読み解きを続けます。前回に引き続いて、特に養鶏施設における「アニマル・ウェルフェア」について。 畜産福祉の充実を求める消費者側の声の高まりを背景に、養鶏施設に関して新たな設備基準を設けようという動きが、 E Uを中心に強まりつつある。ここまでは、先月号でお話した通り。では、この国際的な流れが我が国に、いかなる影響を及ぼすことになるのか。実は既に、その影響が出始めています、驚くべき形で。 昨年(2020年)末、我が国でも最大規模の養鶏&鶏卵会社 のトップ A氏( 87 歳!)が、当時の Y農林水産大臣( 大金を積んで、ある政治的な請託(依頼)を行なった。これが露見して両者が本年1月、贈収賄の疑いで起訴されたという事件、覚えていらっしゃいますか。この事件は知れば知るほど興味深い 背景が浮かび上がってきますが、それはさておき、いったい A氏は、 Y農水大臣に対して、何を依頼したのか。依頼の核心は、養鶏&鶏卵の飼育鶏舎に関して今後国際標準となりそうな、畜産福祉の充実を求める新設備基準問題です。「この新基準案の鶏舎水準が、そのまま日本国内で法制 化されることがないように、業界を代表して働きかけたもの」と言われています。要するに、畜産福祉の充実に向けて、我が国でも養鶏施設の大変革が迫られることが必至の情勢となりつつある中で、是が非でもこれ を阻止しようとした。 歳で、業界のトップクラスが、政治家に 大金積んで、という構図です。 共に敗戦から立ち上がる中で成長してきたイタリアと日本。先月号でご紹介した E U R O V O社と Aフーズ社は、養鶏&鶏卵業界で、一方は欧州の、他方は日本の、共に業界のリーダー的存在です。それなのに、同じ問題に直面しながら、両者の取った行動は、正反対。資本の論理と畜産福祉の間で苦悩しながらも、何とか未来を切り開いていこうとする E U R O V O社。これに対して、是が非でも後ろ向きに現状維持を図ろうとした、 Aフーズ社。この事件で A氏は「あくまでも業界のためを思って行動したもので、私利私欲のためではない」と発言したとか。心底そ 87 70 歳)に 2021年1月、NHKの報道から。 の言葉に嘘はないと思います。すべては業界のため。では、卵を産む鶏の飼育環境への思いやり、消費者への心配り、そして世界の養鶏 &鶏卵業界の大きな流れ、という点については、どのようなお考えでいらしたのか。 EUROVO社と Aフーズ社、両者のこの極端な違いを生み出す背景は、一体何なのか。バブル崩壊以降続く「日本衰退」の一側面だと諦めるほかないのでしょうか。 このような状況の下で「一方的に生産者側に変革を求める」ばかりでは、何も解決しません。だいいち現在の鶏肉&鶏卵価格を考えれば、我が国の業界に余裕があるとは思えません。なので、その品質向上に必要であるならば、私たち消費者側も多少の値上げは受け入れることで、相応の負担をすべきだと考えます。鶏舎改造のための新たな設備投資、これに必要な資金については、政策金融公庫等の公的資金から十二分な低利融資を保証して頂く。また、経過措置として一定期間、政府から業界に対して補助金の支出を継続する。これくらいの優遇策を講じてでも、ここは畜産福祉充実の方向に進んで頂きたい。我が国の養鶏&鶏卵業界の皆 様には是非とも、先進国に遅れを取らず、より高い飼育水準を目指して頂きたい、と願うばかりです。 ところで、我が国の畜産に関連して、興味深い数字があります。2016年から昨年までの5年間の推移を見ると、牛肉・豚肉・鶏卵の3品目については、「日本からの輸出」が着実に伸び続けています。中でも鶏卵は、そのほとんどが香港向けですが、爆発的な輸出拡大で、この5年間で6倍弱にまで伸びている。今年4.5月2カ月間の輸出量に至っては、この2カ月間だけで、 2016年1年間の総輸出量を越えるという、驚くべき状況です。粉ミルク同様、日本産鶏卵への信頼度上昇が背景とのこと。もし今後もこの輸出拡大が続くとするならば、いつか、その鶏卵について畜産福祉の実施状況が問題にされる日がやってくるのではないでしょうか。というのも畜産福祉は、「人道主義的な措置」であると同時に、消費者がモノを選択する際の「商品の国際的な品質基準」となり始めているからです。例えば次のような形で。 最近都心のスーパーでは中級クラスの店でも、「放牧&有機認定」というオーストラリア産の牛肉を定番で置く店が増えつつあります。その謳い文句は「 10 0%牧草飼育・農薬不使用・ホルモン剤の投与なし・抗生物質不使用・のびのび完全放牧」。原産地オーストラリアの認証だけではなく、世界に冠たる U S D A(米国農務省)の有機認定も獲得しています。表面上の価格は安くありません。価格ではなく、品質基準で勝負している。牧草飼育牛、南仏と米国中西部オクラホマで食べたことがありますが、このオーストラリア産も前2者と共通する、独特のナチュラルな味わいと香りがある。その食感を含めて価格を評価するならば、飼 農水省発行の「アニマルウェルフェア」啓蒙パンフ。 育法がうたい文句通りなら、むしろ安いと感じます。ただ、日本の畜産環境の中で、肉牛についてこの路線で市場採算を達成するのは、かなり困難ではないかと思います。それに対して、養鶏&鶏卵そして養豚であれば、畜産福祉の充実を図ることは十分可能だと思われます。また、その飼育環境の豊かさを消費者に商品アッピールすることで、多少高価格でも市場で競争できるで可能性があるのではないでしょうか。 アニマル・ウェルフェア(畜産福祉)について、以上2回に渡って述べてきた問題点は、いわば「目に見えやすい部分の話」です。英語のウェルフェアという言葉には、大きく分けて二つの意味があります。一つは中世以来使われてきた、良い状態(人間ならば健康・幸福・富裕)という意味。もう一つは、世紀初頭から使われ始めた、社会福祉という意味。産業革命の結果、工場の一労働者となった人々の貧困や失業、劣悪な環境に置かれた子供達を救うためには、社会全体として責任を持つ必要がある、という社会背景から生まれたものです。ではなぜ、 20 この言葉が畜産の動物に対しても使われることになったのか。それは畜産業の集約工業化により、動物がモノ同様に取り扱われるようになったことが源です。これにより飼育動物が、生き物として非常に過酷な環境に置かれることになり、その結果、様々な弊害が生まれてきた。産業革命により人間である労働者が「工場部品」のごとく扱われることから生じた諸問題と、根っこは同じ。だからアニマ ル・ウェルフェア(動物福祉)なのです。 この問題を真剣に考え始めると、生き物の尊厳、最終的に「食べる目的で生き物を育てることの可否」という、人間の倫理の根幹に触れる問題に直面せざるを得ません。実際、動物福祉をめぐっては近年、古代の哲学や宗教思想に遡って、そのあり方を追求する論考が多くなってきています。米国を含めて西欧先進諸国では、それだけの深みで、この問題が語られている。その深みから発せられた「動物福祉」であり、その一環としての「飼育環境の改善を」なのです。雑誌エピキュリアスの「牛肉拒否宣言」に代表される「肉食忌避」という流れは、同じマグマから湧き出る流れに他なりません。だからこそ私は、これが「新たな革命の始まりの前兆」なのではないか、と感じているわけです。 さて、ここからは、動物福祉(アニマル・ウェルフェア)に続いて、食肉忌避派の人々が挙げる問題点「大規模畜産業がもたらす自然環境への悪影響」について考えてみます。具体的には、次のような問題です。大規模畜産業が温室効果ガスの大きな発生源となっていること。広大な放牧地と飼料栽培用の畑開発のために行われる、大規模な森林伐採という自然破壊。いずれも近年開発が加速して危機感が高まっています。                  京都・知恩院の放生会。 以下、次号へと続く。 道の駅 なかがわ 天塩川を挟んで、ポンピラアクアリズイングの向かいにある「道の駅なかがわ」。国道40号線(旭川市〜稚内市)を行き交う車が次々に入っていきます。中川の中心市街は川の対岸にあるため、町の情報を伝える大切な拠点になっています。 ▲サイクリストのため、サイクルステーションもあります。 夏の人気は水野農園「大ちゃんファーム」の100円野菜。キャベツ、きゅうり、レタスなど価格が高めの夏野菜も全て100円で、丸ズッキーニ、コールラビ、イタリアンパセリ、スイスチャード、ビーツなど珍しい野菜も。中川は露地野菜が育つ最北端ともいわれ、農薬の使用量が少ないのが特徴です。レジには手に野菜をもった人が沢山並んでいました。 道の駅からは、誉大橋の向こうに中川市街地、その向こうにパンケ山、ペンケ山が見えます。 レストランで頂くボリューム満点の焼きカツカレー。自家製ハスカップソースをたっぷりかけたソフトクリームも人気。 行者ニンニクパウダーなどスタミナ食品コーナーや町民陶芸クラブの展示販売コーナー、中川産の薪やトーチ、木炭も。 十勝から中川に移住した近藤さん。中川の人が気付かない、隠れた価値を発掘していきたいそうです。 ハスカップは実のままでは流通が難しく、生の実を食べられるのは貴重な体験です。アイヌ語では「ハシカプ」と呼ばれました。匠舎は行者ニンニクの加工からスタートし、一時は2トンもの行者ニンニクを採取・加工していたそうです。「ハスカップをソーセージに練り込んだのは、北欧でジャムとミートを一緒に食べることからヒントを得ました。地元の食材を活かした特産品をもっと開発して中川を訪れた人に提供したい」と近藤さん。 秋風うれしや、ほーい!ホイっ! 羽田新航路直下に住まう都民といたしましては、やっとそんな気分も味わえる?今日此頃となってまいりました、が。悪夢の残像のように頭をよぎる映像とは。これいかに? 2カ月間に渡ったオリンピック・パラリンピック開会式及び閉会式にて、選手団入場の際に行われ続けていた演出に対し嫌悪感をいだきました。パラリンピック開会式通路の両脇に立ち、意味不明な踊りをしていたのはボランティアさんなのか ……それともアルバイトさんだったのでしょうか。 ブルー系、斜め太めストライプ柄の衣装と、運動会でかぶるような帽子にプロペラを一枚付けた幼稚なデザインの被り物を身にまとい、手を上げるような風体の人たちがズラーッと並んでいて、この人達が目に入るだけで気分が滅入りました。訳のわからぬ団体のようにも見えました その18 青山かすみ し、今も思い返すだけで憂鬱になってしまうのがふしぎです。コロナ禍開催なのに、あの演出には閉口させられましたよー。羽田新航路下の国立競技場で、空港(パラ・エアポート)をテーマにした 演出とは。その無神経さに呆れたのでした。ホント、恥を知る国であってほしいです。 歓迎のセレモニー、お疲れ様のセレモニーとしてもう少し多様で効果的な演出があったはず。残念でなりませんよね.一期一会、時間はもう取り返せません。繰り返さぬよう精進なさってくださいまし! 誰が金だ銀だと決めたがるのに付き合わされるのも困りものです。メディアがオリンピック一色になっちゃうとうんざりですし、飽きてしまいます。パリにバトンは渡ったけれど、当面コロナ不況が尾をひきますからここ数年は世界的に見てもオリンピックなどに浮かれてる場合ではございませんね。 今月、ニューヨークで起こった 9・ 11 から 年の節目に、米国が大きな決 断を実行するに至り、オリンピックを終えた都心上空における米軍ヘリ活動がふたたび活発になりだしてきています。羽田新航路の方は選挙が間近に控えているせいか、遠慮気味な飛行になり つつあるのを感じます。音とは正直なもので、現状そのものを伝えるんですよね。みなさんもコロナ禍さまざまなストレスに見舞われておいでのことと思い ます。ワクチン接種は半分以上進んできたようです。まずご自分自身へご家族や友人へささやかなご褒美をしてあげましょう。 いままで気づいていながら手を付けられなかったことも沢山おありでしょう。身近な部分に目を向け、お直ししたり鍛えてみたり、思いっきり怠けてみたりを愉しみながら過ごしましょう。こうした機会になるべく後悔のない自分で居られますように . 20 ▲ 約7000万年前に生息したテリジノサウルスの爪の化石。巨大な鉤爪が特徴で中川で初めて発見された恐竜です。 中川は化石の町としても知られています。旧佐久中学校を利用した中川町エコミュージアムセンターは、宿泊研修施設を併設した自然誌博物館で、沢山のアンモナイトやクビナガリュウが展示されています。化石が多く発掘されるのはセンターの西側で、約1億〜6600万年前、中生代白亜紀の海で溜まった地層「蝦夷層群」が安平志内川などによって削られ、地表に露出した地域です。中川で25年にわたり化石発掘に携わってきたセンター長疋田吉識博士に案内して頂きました。 ▲コレクターの遺族から寄贈されたアンモナイトもあります。 ▼ 化石会が発掘した貴重な異常巻アンモナイト。 白亜紀は現在よりも気温や海水温が高く、炭酸ガス濃度は7倍以上。海水面が上昇し中川は海の中にありました。北海道北部の海面は26℃ほどと今の台湾と同じくらいで、温暖化した地球環境を知るうえで貴重な時代として注目されています。中川では明治時代の地下資源調査でアンモナイトが発見され、世界的に知られる採掘地となりました。地元のなかがわ化石会を中心に地域の人たちが発掘を行い、貴重なアンモナイトを寄贈して博物館の核をつくりました。「博物館にいても化石は見つかりません。汗を流して山を歩く人に化石はついてきます。中川の町全体がミュージアムです」と疋田博士。 大型アンモナイトの発掘には沢山の協力が必要です。山奥の現場まで歩き、表面の岩石を取り除いてから、鉄パイプを組んだアンモナイト神輿に載せて十数人でトラックまで運びます。夏場に印をつけておき、春先に雪の上をソリに載せて運び出すこともあるそうです。福岡出身の疋田博士は、北海道大学の大学院博士課程修了後、中川町「化石の里づくり構想」推進のためフィールド調査、化石の普及につとめてきました。疋田博士の専門とする二枚貝・巻き貝はアンモナイト絶滅後のホタテ、ハマグリ、アサリの仲間で、現在の貝と比べることで、貝が様々な形に進化したプロセスが分かるそうです。 センターでは毎年、研修施設に泊まり込んで発掘調査を行う「森の学校」を開いてきました。全国から小中高生が集まり、安平志内川をラフトボートで下り川原を調査して、ハンマーをふるって岩を割ります。子供たちが次々とアンモナイトを発見し、センターに持ち帰って化石クリーニングを行います。こうした体験をした子供たちのなかから、未来の研究者や化石ファンが生まれていきます。 アンモナイト化石の中には、虹色に輝くものがあります。アンモナイトの殻の内側には真珠層があり、その成分を保ったまま化石になったものです。珍しい虹色のアンモナイトは、中川の特徴として世界的に評価されています。 2体のエラスモサウルス  原図:望月直氏 昭和48年発掘調査の様子 化石の町中川を有名にしたのが、センターのシンボルマークになっているクビナガリュウです。最初の発見は昭和48年(1973)、天塩川の支流で高木栄一氏によって骨化石を含むノジュールが発見され、大きく新聞報道されました。北海道大学と地元住民が協力した北海道初の大規模な化石発掘とクリーニングにより、320点の部分骨が抽出されます。後年、クビナガリュウ研究で知られる佐藤たまき博士の指摘により、この骨は2体のエラスモサウルスであることが分かりました。平成3年には日本最大のクビナガリュウ(全長11m)が埼玉県の藤田敏明氏、山路徳次氏などにより発見されています。 つれづれなるままに 7月の末、福島県須賀川で行われた『二人の円谷』 という講演会に出かけた。 1964年の東京オリンピックマラソンで銅メダルをとった円谷幸吉さんと、特殊撮影の元祖円谷英二さんについて、友人の知り合いでもある元須賀川市立博物館長が講演するという。 直前に感染者が急増し参加をためらうが「こちらは全く問題ない。終ってから自宅で食事ができるように準備している。ワクチンも打ったことだし、講演者の方も楽しみにしているから、息抜きにいらっしゃい」と、コロナニュースを吹き飛ばす明るい声に縮こまっている自分が滑稽に思え、思い切って出掛けることにした。久しぶりの東北新幹線、朝早かったせいもあり、東京駅はオリンピックの警備をするお巡りさんが目立つ他は人通りも少なくホームもガラガラ。自由席車両はほ 駅には友人が迎えにきてくれていた。 コロナ騒動以来会うことかなわず、2月の福島地震で2階の本棚が倒れたまま、散乱した本を片付けに行く約束もそのままに、電話やメールで励ましあってきたが、ようやく顔を合わせることができた。すぐに会場に向い受付をした。すでに前列には地元の方だろうか、元気なご婦人たちが席を占めていた。集まっている方の年齢はまちまちで若い方もいて、須賀川出身の『二人の円谷』の話が始まるのを待っていた。 この1週間前、父の本棚を整理していたら、偶然、円谷幸吉さんのことが書かれていた「明治百年100大事件」という本を手にした。オリンピックでメダルを取りメキシコを目指すも、ご両親に遺書を残して亡くなったことが、最後の章で取り上げられていた。明とんど空いていて、三人がけを一人でゆったり、久しぶりの遠出に緊張していたが、いささか拍子抜けしながら車窓の景色を眺めた。 郡山で大宮の友人と合流、須賀川へと向かった。 治100年を機に昭和 43 年(1968)に書かれたも のだが、国立競技場のトラックを走る円谷さんの写真 須賀川市の広報誌から。 ひとときの開放 も掲載されている。古い本の写真だから鮮明ではないが、競技場に響く歓声が聞こえてくるようでもある。大きな期待を一身に受けて、ひたむきに走り続けた円谷さんの姿がそこにある。スガさんではないが、東京オリンピック1964にはいくつか思い出に残っているシーンもあるが、円谷さんの自殺のことは正直あまり覚えていない。 講演は、健在される円谷さんのお兄さんからご提供された幼い頃の写真やマラソンを始めた頃の話、高校マラソンで才能を見出され、東北地域のマラソン大会での活躍、そして東京オリンピックで国立競技場に姿を現した円谷幸吉に歓喜するアナウサーを臨場感あふれる実況中継さながらに、「円谷幸吉」を締めくくった。 もう一人の円谷は、お馴染ウルトラマンの生みの親、円谷英二さん、特殊撮影の第一人者でもある。初めて須賀川に行った時、道路の両側にウルトラマンが並んでいて、田んぼ道にもウルトラマンがいるのには驚いた。須賀川がウルトラマン、円谷プロダクションの地だということをこの時知った。ウルトラマンについては詳しくないがたくさんのヒーローがいて、子供達に人気があると聞く。昔、職場で机の上にウルトラマンを置いていた人がいたのを思い出す。円谷英二さんの生い立ちや特殊撮影に至る話もあって、とても面白かった。好きなものを探究心と粘りで特殊撮影技術を開発し、世界に影響を与えたというのも興味深い。 講演後、講演者を囲んで友人宅の大広間で食事会、テーブルは一人一卓、ソーシャルディスタンスはしっかり守られていた。久しぶりのビールは手酌だが、前日から仕込んだという地元野菜タップリカレーと、手の込んだ料理に舌鼓しながら、地元偉人の続きを聞く。 開け放った窓から見える田んぼの緑、鳥のさえずり、美味しい空気に身も心も解放される。帰りには、採りたてのジャガイモ、トマト、かぼちゃをカバン一杯に詰め込んでくれた。 あれから2週間、友人から電話があった。「みんな無事です。コロナに感染していません。大丈夫ね!!」 人と会って喋って食べる。当たり前の日が早く来ることをひたすら願う。 東京都心のオフィスから一転、フライフィッシングを愛する野中豪さんは、地域おこし協力隊アウトドア観光振興担当として中川町で暮らしはじめました。協力隊の仕事のかたわら、フライフィッシングガイドとして活躍しています。 野中豪さんの車で中川町内の川へ。フライフィッシングは釣り場の状況を見て、最適なフライを選びます。この日はヒグマの毛のフライを使いました。学生時代から北海道に通い天塩川沿いで暮らしたかったという野中さんにとって、日本離れした山や川に恵まれた中川は理想の場所でした。地域おこし協力隊募集を知ると「自分のために用意してくれた」と思ったそうです。Instagramから。 野中さんがフライフィッシングに出会ったのは小学4年生の頃。富士山に近い忍野八海でフライフィッシングを見たときのかっこよさにひかれ、図書館で本を調べまくり、忍野八海に通いながら親切な釣り人から手ほどきをうけました。初めてのフィールドで25cmほどのヤマメを釣り上げた時の、全身の血が沸き立つような感覚を忘れられず、フライフ ィッシングの世界にのめり込んでいきます。 大学3年の野中さんは、ついにニュージーランドへフライフィッシング修行にでます。ワンボックスカーで暮らしながら釣り巡りをした幸せな1年でした。そのとき出会ったのがフライフィッシュガイドたち。川のそばで生きるにはガイドが一番と思いつつ野中さんは大手オフィス家具メーカーに就職。東京・赤坂で外資系IT企業や大使館の担当となり、将来を期待されていました。 2年間、都心で懸命に働いた野中さんでしたが「なぜ東京に居るのだろう。お金を儲けて余暇で釣りに行くよりも自然の中で生きたい」と思うようになりました。「今は、山や川が自分のオフィスのような贅沢を味わっています。自然の循環が自分の人生とシンクロしていると感じます」と野中さん。フライフィッシングを通じて、中川の森羅万象が身体に染み渡ってくるのかもしれません。目標は、数年の内に宿泊のできる拠点を設立し、中川に定住するベースを作ることといいます。 【 Webマガジン コラージは、オフィシャルサポーターの提供でお届けしています 】