Colla:J コラージ 時空に描く美意識

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時空を超える美意識 https://collaj.jp/ 薄氷 2023 Click アールヌーヴォー都市 魅惑のリーガ 前号に続きラトビア特集です。首都リーガは、世界一のアールヌーヴォ参考文献:Art Nouveau Architecture in Riga J.nis Krasti..ー建築都市として知られています。その多くは1900年代初めに建てられ、市内に800棟以上現存しています。今月はアールヌーヴォー建築や市内に点在するマーケットなどをご案内します。世界遺産となった旧市街(リーガ歴史地区)には300棟ほどのアールヌーヴォー建築があります。その傑作のひとつが、 Konstant.ns P.k..ns(1859〜1929)設計のレンガ造アパルトメント(1902年)です。 P.k..nsは1862年設立のリーガ工科大学で建築を学び J.nis Friedrichs Baumanis の事務所につとめたあと、1886年に独立しました。リーガ独特の民族ロマン主義を打ち立て、神話的なモチーフをファサードに散りばめています。特に柱状の女性像はリーガで最も美しいといわれ、各窓の上に全て異なった顔面や植物を配置するという凝りようです。これらの彫刻は元々の図面にはなく、建設中に追加されていきました。 P.k..nsはリーガ市議会の議員もつとめ、銀行の評議員やリーガ・ラトビア協会のスポークスマン、新聞の発行にも参加し、集合住宅のほか銀行、労働者向けアパート、公共建築などリーガで最も多作な建築家のひとりと言われます。 鍵穴状の窓の上に立つ3人の男性像が特徴的な建物(1903年)。ルネサンス様式とバロックを折衷した彫刻は彫刻家ZygmuntOttoの作品です。建物の設計は Heinrihs ..ls(1829-1909)とFridrihs.efelsによるもの。. .lsはドイツ・ハンブルクに生まれ、サンクトペテルブルクで建築を学びました。1853年からリーガで働き、50軒を超えるアパートメント、工場、学校、銀行、教会、公共建築を手掛けています。 .efelsはドイツの建築学校で学び、サンクトペテルブルクで建築士の資格をとります。1900〜1904年まで.efelsの事務所に所属し、独立しました。 旧市街のSmil.u iela 8には、アールヌーヴォー建築の典型例が並んでいます。左の建物は1902年、Heinrihs . .lsの設計で、彫刻家ZygmuntOttoとOswald Wassilによりファサード一面に彫刻が施され、室内装飾はM.Lotzeによってデザインされました。中央の建物は8年後の1910年、Ernests Polis(1872-1914)によって設計された新古典主義建築です。 リーガ初の相互信用組合銀行として、VilhelmsBokslafs(1858-1945)によって設計された銀行建築(1912年)。ファサードにはウィーン分離派オットー・ワーグナーを彷彿とさせる金色の装飾モザイクが施されています。Bokslafsは中世の歴史建築を学び、新古典主義とアールヌーヴォーの折衷様式で知られます。ネオゴシックの傑作「ラトビア芸術アカデミー」も彼の作品で、歴史的な城の修復や、工場、教会、学校など多彩な建築を手掛けました。裕福なバルトドイツ人家庭出身のBokslafsはドイツに移住し、第二次世界大戦の空爆によって亡くなっています。 上は、ロシアの建築家NikolajsProskurnins設計の保険会社の建物(1906年)。大聖堂広場に面し、古典主義建築にアールヌーヴォーのモチーフを散りばめています。リーガ駅の裏(南側)に高くそびえる科学アカデミー。旧ソ連がスターリンの時代にソ連本土だけでなく、ポーランドなど東欧諸国に建てさせた高層建築で、スターリン様式と呼ばれます。 追いかけっこしましょよーい どん! Vol.55 原作:タカハシヨウイチ はら すみれ絵 : タカハシヨウイチ 心・体・思考の健康をデザインする とっておきの休み時間 23時間目写真&文大吉朋子いよいよ はじまる 2024 新しい年が始まり、暦の上ではすでに 2024年が動いていますが、エネルギーの切り替わりは春節(旧正月)の頃。そして、2024年は 2月がスタートのタイミングでもあります。 2024年は始まりから心痛むことが続き、一方で情報そのものやその受け取り方の重要さもあらためて感じるところです。大きな事が起こるとふだん以上にさまざまな言葉が世の中に溢れるわけですが、首をかしげることも多く、正義とは紙一重の、言葉が行き過ぎるものもあれば、偏ったもの、真実であるのかないのか不明なものなど、受け取る側の注意深さが試されるようだと実感します。 2023年はコミュニケーションがテーマの一年でした。世の中が言葉や声を積極的に出していくことで活性化し、2024年に現実化していくこともあります。一方で、行き過ぎた言葉や声は暴力へと姿を変えることもあり、2024年の強いエネルギーとともに暴走する、ということには注意が必要です。 残りの1月は、不要なエネルギーを脱ぎ捨て、心も体も思考も身軽になっていきたい時です。さまざまなものを捨てても本当に大切なものは残ります。大事な事に心を寄せながら、自分自身を新しい年のエネルギーへと衣替えし、清々しい2月を迎えていきましょう。 2024年最初ということで、今年1年のエネルギーについて、です。 2024年に世界全体に流れるエネルギー『グローバルイヤーナンバー』は、 2+0+2+4=「8」 となります。「8」は、生命力(プラーナ)、パワー、呼吸、男性エネルギー、父性、怒り、争い、お金、 ビジネス、ボス、という数字で、とてもパワフルなエネルギーを表します。 2024年は社会全体にエネルギッシュな空気が流れ、物事を実現する、目標を達成するといったエネルギーが満ちています。自分の周りに流れるエネルギーがとてもパワフルなため、個人的にエネルギー不足を感じたとしても、周囲に流れる活気や元気に背中を押され、自分自身にもいい影響があるかもしれません。一方で、強いエネルギーのバランスが崩れると、正義や情熱から怒りが生まれたり、他者との争いへ発展することもあり得ます。「エネルギーのコントロール」をすることも、とても大切な要素となる1年です。 怒りの感情が溢れたり、怒りっぽいという自覚のある方は、「深呼吸する」を習慣にされることをおすすめします。怒りのエネルギーで自分が満たされている人は呼吸が荒く浅いです。実際に胸周りの筋肉も強張っていることありますょ。いつもの呼吸の5倍から10倍くらい、ゆっくりと吸って吐いてを繰り返してみてください。だんだん自分の中の怒りの温度が下がってくることを感じられると思います。もし感じないようであれば、感じられるまで続けます。何かを実現したい、達成したい、やり切りたい、という方は、ぜひ今年のエネルギーの波に乗っていきましょう。明確な目的や目標があるとエネルギーの波にもうまく乗れます。もし、目的も目標もなく、なんとなく定まっていない…という場合には、エネルギーが停滞したり暴走したり、ということにもなりやすいですから、何か自分の中でひとつ目標をつくってみてください。 「8」のエネルギーが成熟すると、 ″博愛″ともいいます。そして、「8」の数字の形のように、そのエネルギーは巡ります。人への優しさは自分への優しさとなり、人への厳しさは自分への厳しさにもなります。何事も過剰になりすぎず、純粋なエネルギーとともに、がんばる時とリラックスする時を上手くMIXさせることがポイントです。 これらは世界全体に流れるエネルギーのお話ですが、もうひとつ『パーソナルイヤーナンバー』という個人の今年のエネルギーの数字もあります。これは誕生日ごとに、ひとりひとり異なります。 次回は「パーソナルイヤーナンバー」についてお伝えしていきたいと思います。今年もよろしくお付き合いくださいませ。 『戦艦ポチョムキン』など歴史的な作品を生み出した映画監督セルゲイ・エイゼンシュテインの父ミハイル・エイゼンシュタイン(1867-1920)は、リーガで活躍した建築家でした。白と淡い青のアパルトメントはアールヌーヴォー建築の代表作として世界的に知られ、Alberta iela(アルベルタ通り)周辺に集中しています。 Elizabetes iela10bのエイゼンシュテイン作品は、アールヌーヴォー建築の代表作として世界各国の建築の教科書に掲載されています。物憂げな人物の顔、鬼瓦のような怒りの顔、羽を広げた孔雀、兜をかぶった兵士、燃える炎の盃、知恵の神のつかいミミズク、自由の女神など、様々な意味をこめた質の高い彫刻がファサードを覆い尽くしています。 1900年代初めに建てられたアールヌーヴォーのアパルトメントが並ぶアルベルタ通り。多くは裕福な実業家によって建てられました。現在は賃貸住宅やブティックなどに使われています。アルベルタ通りに並ぶエイゼンシュテインの5棟のアパルトメントは、1903〜1904年に建設されました。裕福な実業家達はファサードの豪華さを競い、新進気鋭の若き建築家に設計を依頼したのです。エイゼンシュテインはサンクトペテルブルクの出身で、土木を学んだのちにリーガに渡りインフラ整備の世界で活躍します。転機となったのは富裕層出身の女性との結婚で、リーガの上流社会に出入りするようになったエイゼンシュテインは、実業家や医師といったパトロンを得ました。5棟のアパルトメントの間取りはほぼ同一です。内部はU字型プランで、各フロアに2家族分の居室が対称的に配置され、通り側には豪華な内装のリビングがあります。その一方、奥の寝室、洗面所、メイド部屋、キッチンなどは中庭に面した質素な作りです。階段は中央に置かれ、奥のキッチンには主に使用人が使う裏階段があります。 玄関のスフィンクスが特徴のアパルトメント。ファサードの豪華さに比べ、中庭側の仕上げはとても質素です。建物の多くはレンガ造で、その一部には街を囲んでいた城壁を取り壊した際のレンガが使われています。 Yuko HiSamoto 久元祐子さんがいざなう歴史的楽器の楽しみ モーツァルトとベートーヴェン この記事は YouTubeと連動しています。久元祐子さん 国立音楽大学・大学院教授、ベーゼンドルファー・アーティスト、左下リンクの You Tube動画と合わせてご覧ください。日本ラトビア音楽協会理事、PTNA(全日本ピアノ指導者協会)評議員。 ベートーヴェン ピアノ・ソナタ全 32曲に挑戦する ピアニスト久元祐子さん 天才音楽家モーツァルトが、生涯に作曲したピアノ・ソナタ18曲の全曲演奏を、2016年〜 22年の間、6回にもおよぶコンサートで達成されたピアニスト 久元祐子さん。その後、2023年11月からは、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ32曲の全曲演奏会にも挑まれています。久元さん愛用の歴史的ピアノコレクションを拝見しながら、全曲演奏に挑戦された経緯や作曲家とピアノの魅力などを伺いました。 2023年11月7日、サントリーホール・ブルーローズ(東京・赤坂)にて「久元祐子ベートーヴェンピアノ・ソナタ全曲演奏 次回Vo l.2は、2024年9月7日です。 1」が開催されました。 .l会Vo 久元祐子さんは現在、国立音楽大学教授をつとめながら、ウィーン放送交響楽団、ハイドンフィルハーモニー、ラトビア国立交響楽団など海外のオーケストラと多数共演するほか、歴史的なピアノや作曲家の自筆譜の研究でも注目されています。近代ピアノのルーツといえるクラヴィコードから、バッハやモーツァルトが愛用したチェンバロ、ベートーヴェン、シューベルト、リスト時代のフォルテピアノなどを演奏し、100年以上前の作曲時の音色を再現される久元さんのピアノレクチャーコンサートも人気を集めています。 久元祐子さんのアルバム〈ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第8番「悲愴」&第12番「ワルトシュタイン」〉マイスター・ミュージックMM - 4092 フランスウンターリンデン美術館に収蔵されている1624年ヨハネス・ルッカースのチェンバロを、2015年マルク・デュコルネが復元制作。 Q:久元さんがピアニストを目指されたきっかけは何でしょう。 一番のきっかけは口下手なことです。ピアノを前にすると、のびのびと、音を通じて会話ができる楽しみがありました。母はピアノが好きで家にアップライトピアノがあり、近所の先生に教えて頂いて練習が嫌と思ったことは一度もありませんでした。生まれたのは九州・博多で、父の仕事の関係で、東京・横浜・川崎を転々としました。レンゲ畑の中で雲を眺めたり、自然を見るのが好きな子でした。川崎のカリタス学園を経て、東京都立芸術高校へ進み、両親から浪人は絶対にさせないと言われ頑張って東京藝術大学音楽学部(ピアノ専攻)に入りました。 Q:とくに影響を受けた演奏家はいらっしゃいますか? 父親がよく、イングリット・ヘブラーが弾くモーツァルトのLPを楽しんでいたので、なんて透明な世界だろうと思っていました。また第九の演奏会に行く前にLPを3回も4回も聴いたりして、好きな曲を繰り返し聴くところはちょっと受け継いでるかなと思います。ウィーンの三羽烏と呼ばれるピアニストのひとりイェルク・デームス先生には、夏の期間中、別荘でしごいて頂きました。全部の音符に指使いを振った楽譜を渡され「明日の朝返してくれればいいから、全部写していいぞ」と言われ徹夜して写しました。先生は自分の音を磨くため指使いも改良し続けていて「これは75歳で古いか 2023年7月2日(日)紀尾井ホール「ハイドン・フィル2023ジャパンツアー」指揮:エンリコ・オノフリ 撮影:横田敦史 2023年7月24日(月)東京文化会館小ホール「日本モーツァルト愛好会第525回例会久元祐子の奏でる典雅なモーツァルト.2台のフォルテピアノ弾き比べ.」 撮影:横田敦史 ら、こっちの80歳から書いた方を写しなさい」というくらい妥協しない姿には本当に感動したものです。 Q:ウイーンの演奏と日本の演奏が異なる点はありますか? 日本人のDNAには、盆踊りやお囃子のような2拍子が刻まれていると思います。一方、ウィーンの方にはワルツに代表される三拍子があります。また19世紀のウィーンのピアノには「モデレーター」と呼ばれる装置がついているものがあり、弦とハンマーの間に布がせり出してきて、柔らかな弱音に変化させてくれます。夢のような弱音へのこだわりがあるのですね。例えばこの1829年製ウィーンのベーゼンドルファーは、ウィーン式アクションでハンマーを跳ね上げて音を出します。時代が進み、大勢の人に聞いてもらうため音を大きくするニーズが高まると、音量を上げるためハンマーを大きくしなければならず、ハンマーが重くなって調整も難しくなってしまいました。その結果、ハンマーを突き上げてパワフルな音を出すイギリス式アクションに淘汰されていくのです。今も世界有数のピアノメーカーであるベーゼンドルファー社は、ピアノを1台作るのに100年かけると言われます。南アルプスの北斜面に植栽した樹齢90年のスプルースを、含水率の少ない新月の晩に伐採し、5年ほどかけて自然乾燥させた木を使うからです。ウィーンの人たちはこうした伝統を守る精神をとても大事にしています。例えば世界的に有名なウィーン楽友協会も築150年以上経ち、色々と不便な点はありますが誰 ▲久元祐子さんの愛器「ベーゼンドルファー280VC PyramidMahogany」。ウィーンのベーゼンドルファー工房の技術者の方々と、繊細な音とパワーを両立したピアノを追求したそうです。 ▲1829年、最初期のベーゼンドルファー社製ウィーン式フォルテピアノ(製造番号63番)。フォルテピアノは弦が全て平行に張られているのに対して、現代のピアノは弦が交差しています。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の本拠地ウィーン楽友協会。久元祐子さんはベーゼンドルファー・アーティストの称号を授与されています。 も建て替えようと言わないですよね。 Q:歴史的な楽器に興味をもたれたきっかけを教えてください。 モーツァルト時代のピアノは5オクターブしかなく、その音域の限界ギリギリまで使って作曲しています。次の時代を担ったベートーヴェンは鍵盤楽器が大きく変化した時期を生き抜いた音楽家で、その変遷が作品に反映されています。ショパンは自分のピアノに合わせたペダルの記号や強弱を楽譜に書き込んでいます。このように、作曲家が生きた時代の楽器を演奏することから、様々な時代背景を学ぶことができるのです。 Q:ピアノ・ソナタ全曲演奏に挑戦された理由はなんでしょう。 やはり全部弾いてみないと分からないからです。モーツァルトのそばには小さな頃から鍵盤楽器があったので、その内なる声が直接的に聴こえてきます。演奏することでモーツァルトの人生を一緒に旅してみたい、譜面から作曲家の魂を見たいと思い追いかけています。白黒の音符にも、経験が増えることで色が見えてきたり、音形から息遣いが聴こえてきます。何百、何千回と弾いてきても、ベートーヴェンのピアノ・ソナタから、若い頃は気が付かなかった点を発見したり、コンサートで聴いてくださる方と音楽を共有することで、見えなかったことが見えてきます。モーツァルトのピアノ・ソナタは18曲でしたが、ベートーヴェンは32曲もあります。今までの演奏を壊してゼロから始めるつもりで、異なる楽譜の版を比べて指使いを見直したり、そういうことをいま積み重ねています。エイゼンシュテイン作品とは雰囲気の異なる建物は、Ei.ens Laube(1880.1967)の作品(1908年)。フィンランドで民族ロマン主義に触れたLaubeは、リーガ工科大学を卒業後すぐに独立し、第一次世界大戦後にはラトビア大学創立に参加して建築家学部長になります。ラトビア固有のトラバーチンやスレート、木、銅など天然材料を使い、海外の模倣ではなく、民族の独自性を表現した建築を目指し80を超える高層集合住宅や公共建築を設計しました。記事の執筆や出版も手掛け、建築界の思想的なリーダーとして活躍します。第二次世界大戦中ラトビアがソ連に占領されるとドイツに亡命し、戦後は米国に渡って1967年ポートランドで亡くなりました。 中世の城郭とアールヌーヴォー、新古典主義を折衷したようなロマン主義建築(1903年)は、ラトビア建築界の重鎮 Konstant.ns P.k..ns(1859-1928)の自邸兼集合住宅でした。設計にはEi.ensLaubeも参加し、2階には P.k..nsの自邸兼アトリエがあり、現在はリーガアールヌーヴォー博物館として公開されています。芸術家や作家と親交の深かった P.k..nsは彼らにスタジオを提供し、芸術家コロニーのような場所になっていました。一歩中に入ると、華麗な螺旋階段に魅了されます。 P.k..ns自邸の向かいには、アールヌーヴォーグッズや書籍、絵葉書などを扱うショップ Art Nouveau R.gaがあります。 当時貴重品だったパイナップルがモチーフになっています。 Roche Bobois新作パーティ Roche Bobois TOKYO(東京神宮前)で、新作披露パーティー -Soir.e de No.l -が開かれました。会場ではフローリスト・岡本美穂さんがフラワーアレンジメントのパフォーマンスを披露しました。岡本さんはパリに渡り、フローラル界の巨匠ジョルジュ・フランソワ氏に師事。今は外苑前にアトリエをかまえ、ギャラリー、ショップの装花や雑誌などの撮影現場でも活躍されています。パリスタイルを習得した岡本さんのアレンジが、パリ生まれの Roche Boboisを彩りました。 ポルトガル出身のアーティストJoanaVasconcelosがデザインしたユニークなフォルムの「BOMBOM」に、パステルカラーのアウトドアバージョンが加わりました。 Roche Bobois TOKYO、AREA Tokyo、Teriorなどの運営会社株式会社CROWNが社名変更し、株式会社 NODA Japanになりました。 代表取締役会長 野田 豪(前代表取締役社長)取締役社長   所 奈津子(前取締役副社長)取締役副社長  生田 アツヒサ(前取締役常務)専務取締役   佐々木 志緒常務取締役   松江 祐二郎取締役本部長  江口 将人取締役本部長  笹木 直(新任) SachaLakicデザインの人気作「BUBBLE」に、毛足がながく肌触りがいい「BUBBLE2」が加わりました。球体で構成されたフォルムが身体を優しく包みこみ、体圧を心地よく分散します。 .genskalns Market リーガの街には魅力的なマーケットが沢山あり、ラトビアの名産に触れながら市民の暮らしぶりを体感できます。アーゲンスカルンス市場は、1898年から120年以上つづく老舗のマーケットです。 市の中心部からダウガワ川を渡った西側の住宅地で、大学病院や公園も多く暮らしやすい街です。ラトビアの食料自給率は90%以上あり、野菜や肉(主に豚肉)、魚、小麦などの大半は自給されています。一方オレンジ、レモンなど柑橘類や南国の果物、香辛料などは輸入品です。1990年の独立回復後、旧ソ連の影響が強かった重工業の衰退にともない、オーガニックな農業やサスティナブルな林業に転業した人も多いようです。 新鮮な野菜やイモ類の豊富さに目を奪われます。肉は豚肉が多く、ハム、ベーコンなど加工肉も沢山売られていました。 2階のフードコートでは、ファミリーが食事を楽しんでいました。ピザなどライトミールが人気ですが、バルト海で捕れた魚の燻製といった、伝統的な食べ物を試食するコースもあります。この建物は1914年にReinholdSchmaelingの設計で建てられますが、痛みがひどかっため2018年から改修工事がはじまり2022年に再開しました。 ReinholdSchmaelingはリーガ市の主任建築家として、多くの公共建築をてがけました。外壁は赤レンガ積みを白漆喰で仕上げ、内部は鉄骨造になっています。この建築スタイルは病院や学校にも応用されました。マーケットの隣に建つリーガ電波塔は旧ソ連支配の時代に、独立回復を呼びかけるゲリラ放送を行っていました。 ドラゴンシリーズ 111 ドラゴンへの道編吉田龍太郎( TIME & STYLE ) 辰年のドラゴン 僕には何かに向きあって懸命に努力したと言う記憶が無い。 今もそうなのだけれど自分の仕事も含めて何かの人生の命題や課題に向き合い努力して生きてきたと言う意識が無い。これまで色々なことがあったような気もするが、今も少年時代から青年期と成年期を経てひとつながりに続くように変わらないフラットな人生を歩いていると感じている。 そんな自分の平坦な意識はこれからも変わりそうにもない。2009年から続く、コラージに毎月何かを書こうかと言う感 覚は、この 年間の時の経過を長期的に意識させてくれる。毎 月半ば近くになるとコラージのことを思い浮かべ、同じようなタイミングで編集者ナシオさんからそろそろ時間ですよと言うメールが届く。そのことで自分の人生の時間経過を少しだけ意識するものの、そこに向き合う感覚は毎回初めてのように新鮮であり時間の経過と蓄積とは比例しない。 僕の人生も同じように少年期、青年期、成年期、そして今、この時間の流れの中で感じる自己の存在に対する意識に変化はなく、何かに集中したと言う記憶も、向き合って努力したと言う感覚も、変化して成長したと言う感覚もない。果たして自分は誰なのだろうかと言うほど自己への意識が薄いのだが、けっして自己の存在を意識しないわけではない。 今、幸運にも自分が今日まで生きることが出来て、時間が経ってもやはり人間の根っ子の原点のようなものは変わらないと言うことを知りとても驚いている。しかしそのような意識に根強くあるものは自己の根本的な弱さなのではないのだろうか、弱さとは何かの困難に向き合い立ち向かうような強さに相対するものではなく、自己の喜びに向かおうとする高揚感や興奮する抑えられない感覚そのもの、それは若い頃から全く変わらない短絡的で幼稚な感覚と行動であると言う認識から来るものだ。困難に立ち向かいその局面を克服するような強固なものはではなく、困難には向き合えるだけの技量の無さからくる、自らの本性が求めるものにしか向き合えないひ弱さからくるような、流れに身を任せて時間と共に生きると言うことのような気がしている。 15 25この日本での年間の年末年始は例年、東京で過ごすことが多かった。年末の 12月31日までお店は営業し、月日から年始始業をする。僕が何をするわけでも、できるわけもないのだがお店で年末年始に働いてくれているスタッフのみんなに挨拶するくらいでは全く足りないのだけれど、それくらい 21 30 はと思いながら年末年始にお店に行くことは弟と交代しながら続けてきた。今年からは弟はアムステルダムとミラノ勤務となったこともあって、全店舗 3 をまとめてくれる松崎くんが僕に任せてくださいと言ってくれた言葉に甘え 4 ることにした。 7 1 そして年末年始は母が一人で暮らす宮崎の実家に戻り、二人きりで過ごす 2 ことにした。親父が生きていた最後の年齢に近づきつつある僕と随分と歳を重ねた母が一緒にゆっくりと二人の時間を過ごすことはたったの日間だったが、それはまた僕は自然に小さな頃の自分に戻り、母が若い歳代の頃に戻ったような時の流れを送り過ごす二人だけの時間となった。 20 母は朝から早起きをして自分の人生の第二の舞台となったハーブや果物が窓の外に広がる大きな畑で土や植物と交わりながら、父が居なくなったこの 30 4 年間を過ごしてきた。畑で土をいじる母を見ていると、父との生活の重み 63 を失った母が父の存在に代えて後半の人生を生きるために土と植物との日々の生活を見つけたのだと感じた。母は父を愛してきたように大切に大切に土に向かいそこに生きる愛おしい植物一本一本に丁寧に水を与えていた。 そこには若い頃、父と母が自分たちの人生を始めることを決め、植物を植え、子供達を育て、その土地で生きてきた生活の延長線上に今も母がそこにいることを感じた。そうなのだ、今でも母はまだ父と共にこの土地で日々を暮らしていると言うことの、魂の感情をようやく知ることができた。母は自分が丁寧に自然の中で育てた新鮮な野菜を摘んできて、朝晩の食事のサラダにしてくれて、お正月もお雑煮を作ってくれて、二人で元旦を祝った。 大事にしている畑に面して年前に母に新しい家を建てた。父が年前にこだわって建てたモダンなコンクリートブロックと銅板葺屋根の母屋はそのままに残し、その隣により母の畑に近い場所に小さな平屋を建築家の新関謙一郎さんの設計で作った。父の作った母屋には今でも幼少の頃の思い出が沢山染み付いている、その母屋の奥の一室に父の書籍や昔の通知表や写真などが残されている部屋がある。その中で僕が高校生から歳くらいまで日本からドイツに行く前の〜年間に、父が僕に送り届けてくれた沢山の手紙を発見した。僕が歳でドイツに行く直前に、宮崎の実家に送った全ての所有物にあった僕宛の便りを保管してくれていたものだ。僕が高校生の頃から、東京で新聞配達をしながら浪人していた頃も、そして大学に入学してからも大学に全く行っていなかったことが判明した時も、どこに住んでいるのかも何をしているかしれない時も、僕の借金の通知しか実家に届かなかった時も、どんな時にも親父は丁寧で几帳面な美しく強い筆圧の文字で僕に「前向きな気持ちと信じている」と言う便りを毎月のように何度も何度も送ってくれた。 僕は母屋にあった父からの僕宛の手紙を、母には無断で東京に持ち帰ることにした。母に言えば、大事な父が母屋から離れてしまうと悲しむと思った。今その沢山の父からの手紙は自分の東京のアパートで、大切に箱に入れて保管している。まだ全ての手紙をゆっくりと読み返したわけではないけれど、僕の中には確実に父そのものが存在しており、その父と自分が同化する感覚が存在する。僕自身が記憶にある父の晩年に近づきつつある今、父がそのままに自分の中に生き続けているのではないかと錯覚してしまう。 父が生前によく言っていたことは、世代を越えて受け継ぐ大きな何かが無ければ一人の人生だけで行うことは難しい、その夢は世代と場所を越えて受け継がれるものであると。そしてそのような感覚に似た誰かの存在を感じる時がある。 そんな正月の元旦に、母と二人で車で 1時間くらい離れた神社に初詣に行った。のんびりとして走る帰路に、突然ラジオ放送と携帯電話から、記憶の奥に眠っていた大きな地震の警報音が何度も繰り返して鳴り始めた。初めはどこでどのような規模の地震だか分からなかったのが、 N H Kラジオ放送の悲鳴に近い女性アナウンサーの絶叫で僕はその地震の大きさを感じ一気に東日本大震災の記憶が蘇った。しかし、その能登半島の地震は誰かが想像するものよりも、もっと深刻で大きな被害である事実を僕らは次第に知ることになる。 能登半島の地形は起伏があり、海と山々の交わる自然の美しい場所であり、日本の中でも伝統的な生活文化や慣習が大切に受け継がれてきた土地である。人間の想定を超える大きな土地の隆起に伴う地盤の崩壊は、多くの建物を倒壊させ、地盤や道路など生活の基礎を破壊し尽くしてしまった。そこに長年住んできた人々は生活基盤を失ってしまい、本当に沢山の人々が家族を失い、家屋を失った。しかし、そのような厳しい環境下でも多くの人々は自分の住んでいた場所から離れようとしない。 今も地震が続いているその土地の生活復興はとても厳しく困難が伴う。しかし地震が続く今も、その土地に住む人々は生まれ育った土地から離れず、混乱した厳しい状況の中で、自分たちの生活の立て直しに向けて動き始めようとしている。 Abgunstes mui.a 1780年から続く領主の館(マナーハウス)が、いま文化交流の場として再興されています。 ドローン撮影 ©.SKYSCAPE ラトビア南部の田園地帯にたつ「アブグンステマナーハウス」。オーナーのアスナーテさんが、玄関で迎えてくださいました。 都会で暮らしていたアスナーテさんの家族は2016年、廃墟同然だった240年前のマナーハウスをオークションで落札。家族で移住して、領主館や納屋を修復しました。納屋の屋根は崩れ落ちていたそうです。 92 これからの生き方に大切な手がかりを与えてくれる一冊の本 に出会った。そこに登場する主人公の極めて個性的でおしゃれな生き方を知って、「こんな爺さんになりたい!」と思ったほどだ。著者はニューヨークの地元紙ニューヨーク・ポストの寄稿記者であるイザベル・ヴィンセント。この女性記者が、自身の親友の父親との交流を綴った回想録で、タイトルは『エドワードとデイナーを』(”Dinner With Edward”by Isabel Vincent)。残念ながら未邦訳。 本書の面白さについては、月刊『英語教育』(大修館書店)の 2023年 月号で触れている。ただ、1200字という字数 の制限から、その魅力のごく一部しか紹介できなかったので、ここで改めて、そのエッセンスをご紹介してみたい。 話の主人公は、著者の親友の父親で、名前はエドワード。長らく夫婦でニューヨークで暮らしてきたが、長年連れ添った最 愛の妻を亡くし、 歳で一人暮らしとなってしまう。その住ま いはイーストリバー越しにマンハッタンの国連ビルを遠望する、ルーズベルト島の古びたアパート。「老齢の父の暮らしぶりが心配なので、時々様子を見に行ってほしい」と、結婚してカナダに住む親友か ら頼まれる。 代前半の著者 イザベルは、ひとり娘をかかえながら、自身の結婚生活はもはや泥沼で、離婚必至という状況。多忙なジャーナリストとしての仕事と、壊れた私生活のプレッシャーに押しつぶされそうな日々を送っている。それでも、親友への義務感から、 歳のエドワードの様子を見に行くことにする。初めて出会った日からイザベルは、エドワードのことがすっ かり気に入ってしまう。それどころか、このお爺さんとの面会は、思いもかけない形で、イザベルの人生に幸運をもたらすことになる。やがてエドワードと過ごす時間は、日々ストレスと闘うイザベルにとって、欠かすことのできない「救いのひととき」 となっていく。なぜ 歳の老人との面会が、忙しい記者イザベ ルにとって「救いのひととき」となっていくのか。それはエドワードが極めて個性的で豊かな人間味溢れる爺さんだからだ。著者が描き出すその人物像を知れば知るほど、読者は熟年を豊かに生きるお手本として学ぶべきことが多い、と思うはず。 10 92 40 92 では、エドワードは一体どのような人物であるのか。ケンタッキー州ナッシュ 70 ビルの、比較的貧しい家の出身。学校での勉強は苦手で、なんとか高校を卒業して世に出る。背が高く見かけがいいため、その後出会った妻と共に役者をめざす。一時はふたりで映画界での活躍を目指して西海岸ハリウッドで奮闘する。この頃のエドワードは、芸能界での一攫千金を夢見るチャラ男だったらしい。しかし、共に芽が出ずに挫折。その頃カップルには相次いでふたりの娘が誕生し、生活の基盤を固めるべき時が到来する。ここに至ってエドワードは、夢を追い続けることは諦めて、ニューヨークで地道な仕事で一家を支えていこうと決心する。 貧しく、学歴もなく、何か身についた技術があるわけでもないエドワード。配管工、仕立て職人の下働き、家具職人見習いなど、手当たり次第に様々な手職仕事を転々としながら、一家を支え続けることになる。ただエドワードは、秘められた豊かな才能の持ち主だった。まず、手が器用。手仕事は何をやっても簡単に身についた。視覚的・美的な感覚に優れていて、色の取り合わせやデザイン感覚が必要とされる仕事ではこれが大いに役立った。当然、身だしなみにはうるさい。また日常的にニューヨークの様々な美術館に足を運び、一流のアートに触れる機会を絶やさずにきている。一方、言語感覚に優れていて、本を読むことが好きな上に、詞を書くことを続けてきた。図書館通いが日常で、書評雑誌を定期購読して、気に入った本は次々と借りて読む。かつて夢見た芝居の世界も、映画も見続けている。しかも、人への思いやりの情が深い。ただ、貧乏なだけだ。 もうひとつ特筆すべきことがある。それは、料理。極めて優れた味覚の持ち主で、手が器用。当然料理の腕は半端ではない。しかもプロとは違って、効率や経営なんて余計なことを考えずに、時間を惜しまずに、ひたすら美味しいものづくりに邁進する。彼が本格的に料理を始めたのは、妻が体調を崩したことがきっかけだった。これがエドワード歳の時のことで、以後彼が一家の料理を担当することになる。そんな年齢から料理を始めて、ちゃんとした料理ができるようになるのだろうか、と思われるかもしれない。だが、人並み外れた優れた味覚があり、感受性が豊かで、しかも手が器用であれば、十分に可能だ。なにより、「妻と子どもと友のためにおいしい料理を作ろう!」という大きな目的があるのだから。 驚くべきことにエドワードが作る料理は、彼が子供時代にしっかりと舌に刻み込んだ、ニューオリンズのフランス料理店「アントワーヌズ」(Antoine's)の料理が基礎となっている。子供の頃よく叔母さんに連れて行ってもらった店で、エドワード少年の舌には、この店の料理がしっかりと刻み込まれていた。一帯がフランス領であった時代の流れをくむ店で、創業1840年。南北戦争のはるか以前から続く、米国でも有数の歴史的な伝統を誇る超有名なレストランだ。ニューオリンズはジャズで知られるが、この店の個性的で本格的なフランス料理、そして、黒人とのクレオール文化が生み出した独特の料理など、グルメタウンとしても知られている。エドワードは思春期に覚えたこのグルメな味覚を、歳を過ぎてニューヨークのアパートで再現することからスタートする。 そして妻の逝去で迎えた 92歳の孤独。おいしい料理を作る目的が失われてしまった。もう料理をやめようかと思っていた時に現れたのが、娘の親友であるイザベルだった。時々様子見にやってきてくれるイザベルのために、エドワードは心を込めて、すばらしいディナーを準備する。アペリティフから最後のデザートまで、 92 すべて独力で素材を買い集め、何から何まで一人で調理し、素晴らしい料理を作り上げていく。 イザベルはその料理に圧倒される。というよりも、その料理に込められた優しさに、仕事の厳しさと壊れた家庭のすさんだ暮らしの寂しさが癒やされていく。単に料理がおいしいだけではない。歳に至るまでエドワードが積み重ねてきた人生の洗練が、共に過ごす時間の中に一杯に込められている。エドワード 70はスマホもパソコンも持たない。テレビもめったに見ない。空いた時間は本を読む。知人の世話には手間を惜しまない。大切な連絡は、手書きで手紙を書く。便箋と封筒は最上級の質のものを使う。デジタルでは替えがたい、重々しい手触りのある暮らしの充実感。それが一人の男に体現されている。 一方のイザベルはといえば、「自分は時代の最先端を走っていながら、なんと侘しい暮らしをしているのだろうか」という思いで一杯だ。エドワードからズバリ指摘された「ダサいファッション」。仕事中心で、家庭も自身の身だしなみもかえりみないさびしい暮らしぶり。それを思えば思うほど、エドワードのおしゃれで豊かな生活感覚に惹かれていく。たまにエドワードが他の女性とディナーを楽しんでいることを知ると、嫉妬したりしている。エドワードに恋心を抱いているのではないかと思われる記述さえ見られる。だから思うのだ「私もエドワードのような爺さんになりたい!」。 こうして著者は、エドワードによって「人生の大切な要諦」を教えられることにより、自身の壊れかけた人生を新たに作り直していくことになる。本書の各章のタイトルは、序章と終章を除いてすべて、ディナーの料理名で構成されている。また、各章ごとに、登場する料理のレシピが紹介されている。多少料理を知っている人であれば、その洗練と手順の周到さに驚くはず。世界有数の激しい競争社会の頂点とも言える都市ニューヨーク。そこで、お金もなく、学歴もなく、地位もない無名の男が秘める、限りない心の豊かさと暮らしの洗練。どうすれば、その高みに到達できるのか。本書はそのヒントを教えてくれる。 古い木造建築群をリノベーションしたカルン Kalnciema ツィェマ街区では、毎週土曜日にマーケットが開かれています。 Quarter Market カルンツィェマ街区は市の中心部からダウガワ川を超えて2.5kmほどの場所にあり、古い木造家屋が並ぶさびれた一角になっていました。2001年から地区の所有者となったM.rti.. & K.rlis Dambergs兄弟や建築家達によって、18世紀末に建てられた古典主義様式の木造住宅がリノベーションされると、毎週土曜日に開かれるマーケットが話題となります。今では年間10万人が訪れる人気スポットとなり、地域の住民も増えているそうです。 ▼ナマズの燻製はハンノキ、クルミ、シラカバで燻煙するそうです。スライスしてサラダやブルーベリーと合わせて食べます。 農家、畜産家、漁業者、工芸家、アーティストなど様々な人が出店しています。ラトビア名産といえば何といってもハチミツです。冬菩提樹、ツツジ、ソバ、レンゲなど、様々な種類のハチミツや蜜蝋のロウソク、花粉などが売られていました。昔ラトビアでは、ミツバチが木のウロに作った巣からハチミツをとっていて、各家のウロが決まっていました。他の家のウロからハチミツを盗むと、厳しい罰を与えられたそうです。ちなみにラトビアの養蜂家は日本とは異なり、養蜂地の移動はしません。 ▲ラトビアの素朴な陶器。店の方が鳩笛を吹いていました。 ▼購入した食品をデッキで食べることもできます。 左はクルゼメ州の伝統菓子「スクランドラウスィス」のお店。ジャガイモとニンジンを合わせた素朴なお菓子で、おばあちゃんのレシピを守っているとのこと。お祭りの時に紅茶と一緒に食べられていました。上はラトビアの主食「黒パン」。市場では大きな黒パンを切って量り売りしてくれます。 上は大麻食品の店。定番の大麻バターのほか、大麻ケーキや大麻チョコ、大麻ペースト、大麻ジャムなど色々な大麻食品が並びます。右はラトビア名産の琥珀アクセサリー。ラトビアの海岸でとれた琥珀は、古くは古代ローマに運ばれていました。難波した古い木造船からとれる黒柏の木と琥珀を合わせたオリジナルのアクセサリーを制作しているそうです。 街区には建築センターやワインショップ、カフェ、アートギャラリーなどがあり、7棟の建物が公開されています。 カルンツィェマ街区に近い「神戸園」は、リーガ市と神戸市の姉妹都市関係を記念した公園です。阪神淡路大震災の際は、リーガ動物園から被災した王子動物園へ、メス象の「ズゼ」が贈られ神戸市民を勇気づけました。その返礼として王子動物園からリーガ動物園へ、ニホンザルの家族やタンチョウ、ショウジョウトキ、ワオキツネザルなどが贈られました。 今年の干支は「申辰(きのえ・ たつ)」、成長、変革の年といわれている。 「年賀状は今年限りに」というのも来るようになって、断捨離だの終活もそろそろと思うが、本屋に行けば、人生100年時代を象徴する、佐藤愛子、曽野綾子、養老孟司、樋口恵子、若宮正子等、ご高齢作家が笑顔満載を表紙に、同じようなタイトルで何冊も出版し山積みされている。それらを読めば、自ずと終活は後回しとなる。 「今日という日は、あなたの残り人生の最初の日」「三日坊主大い に結構、一日坊主でもよし」と聞けば、勇気凛々、なんでもやってみようという気にもなる。そうは言っても悔しいかな、親しい友の訃報も届き、気持ちのバランスを保つのは容易ではない。 その1皇居ウォーキング 元旦早々の能登半島地震、 きた場所が無惨な姿になっているのはどうにもやりきれない。ニュースを見続けるのも辛く、思い切って皇居一周のウォーキングに出た。一般参賀は能登半島地震で中止となったが、広場には多くの外国人が二重橋を背に記念写真を撮っていた。三の丸尚蔵館見学のために列を作るグループもあり、お正月を日本で過ごす外国人が多いことに驚いた。普段閉められている門も開放されていて、皇居内をゆっくりと歩くことができる。いつもは桜田門を入ってお堀一周のウォーキングだが、東御苑、 天守台に上る。芝生の広場で足を伸ばしてリラックスしているのは外国人ばかり、中にはトランプをしているグループもあり、天守台をバックにした皇居のお正月、なんとも不思議な光景だった。帰りは北桔橋門を抜けて代官通りへ。皇居の中は思った以上に広く、道に迷って予定外歩きとなるが、無事、2024年事始めのウォーキングは、13000歩を刻むことができた。 その2鉄道博物館見学 4年ぶりのバスツアーがお正月明けに再開されると聞き、高齢者ご一行で参加した。申し込み条件は、事前に健康チェッ ク。緊急連絡先の確認。お薬手帳の持参。当日は参加者 に看護婦が付き添い、職員が4名、 総勢 出発は9時、 分前に集合だが元気な高齢者は朝が早い。定 刻より早くに出発をして一路大宮へ。聞けば、コロナ禍でベテラン運転手やガイドさんがずいぶん辞めたそうで、バス会社の確保に一苦労したとのことだが、ガイドさん付きで首都 33 15 月に行って 二の丸庭園を見て、 名 名のツアーとなった。 10 28 高池袋から大宮までの街道筋と、博物館の概要を案内してくれた。鉄道模型が好きだった父が、まだ秋葉原にあった頃の博物館に行った話を思い出した。今回のツアー、最初はさして興味はなかったが、どこかで父と一緒に鉄道博物館を見たかったのかもしれない。1階には車両が展示されているが、階から4階まではそれぞれカテゴリー別になっていて中は広い。見学は自由。4階の歴史コーナーからスタート。明治維新後、外国に派遣された人たちの鉄道を走らせるための並々ならぬ覚悟、勤勉さ、賢さや技術力は相当レベルが高かったことが伺える。鉄道のための「時刻」もこの時代に示されたと知る。年代ごとの機関車模型も展示され、鉄道の発展も時代ごとにパネルで示され、それらをみるだ 60 けでも楽しい。昔の改札や駅舎、切符売り場が再現されている。戦時下の 2 駅弁の包み紙に戦争高揚スローガンが入っているのを初めて見た。鉄道ジオラマは山並みや川を背景に鉄橋、ビル群が設置され、その中を、山手線や在来線、新幹線が、新橋駅の発車メロディとともに走り出す。景色は夜明けから終電車まで、1日の時の移ろいとともに変化する、楽しい鉄道旅をしたくなる。父の鉄道模型はほんの小さなものだったが、電車を走らせながら、旅気分を味わっていたのがよくわかる。 その3囲碁体験 いつかはやってみたかった「囲碁」。若い頃読んだ沢村貞子の本に囲碁の話が出てくる。歳を取ったら、碁を趣味にしたいと・・・・・歳はとったが、囲碁をする機会はなかなかおとずれない。代半ば、ひょんなことで囲碁をやってみたいと口に出したら、囲碁の好きな女性は結構いることがわかった。お話をした方は私よりだいぶ上の方だが、若い頃から囲碁をされていたとのことで、お仲間も多くいらしたそうだが、だんだんとご高齢が進んでしまって、もうされないとのこと。「是非おやりなさい」「一緒にやりましょう」と言ってくださった。それからすでに5年近くなるが、囲碁教室も何となく行きづらくそのままになっていたが、囲碁体験の機会があると聞き、申し込んだ。碁盤に碁石を並べる決まりごとから、碁石の持ち方、マンツーマンで先生の打った後を追うのだが、迷いに迷ってなかなか打つ場所が決められない。当てづっぽで打つと、それは「死に石」になると。何のことだか・・・・・まだまだ用語までいかないが、持ち方一つ覚えただけでも、囲碁に触れたことは間違いない。その日のうちに「初めての囲碁」を入手した。碁石を触るのもまだ2回だが、碁石を美しく持てるようになりたいと思う。 新しい年の幕開けが悲惨な能登地震で始まり、何をするのも気鬱になるが、 「成長、変革の年」となれば、自らを奮い立たせて、前を向いて行くしかない。 元気でいれば能登へもまた行ける。和倉温泉に入って美味しいものも食べ に行ける。1日も早くその日が来ることを願う。 リーガ第一病院に近いEi.ensLaube設計のアパルトメント((1909年)。印象的な塔とレリーフが民族ロマン主義的な雰囲気を感じさせます。1900〜1910年にかけて、急速なピッチで集合住宅や公共施設が建てられた背景には、リーガの人口増加がありました。周辺農村からの人口流入により、19世紀末には28万人程度だったリーガの人口は、わずか15年ほどで50万人になります。1909年、AleksandrsVanagsとPaulsKampeによって設計されたアパルトメント。19世紀までリーガ市の人口比は、ドイツ系約40%、ロシア系約25%、ラトビア系約24%でしたが、1910年代にはドイツ系約13%、ロシア系約19%。ラトビア系約42%となります。1900年初頭のアールヌーヴォー建築はパリやウィーンの影響をうけた華麗な建築が多かったものの、ラトビア系オーナーの増加とともに、設計の多くをリーガ工科大学の出身者が担うようになり、地場の材料を使って伝統的モチーフをとりいれた民族ロマン主義的なデザインへと移行していきます。 リーガ第一病院。 設計:Aleksandrs Vanags   Pauls Kampe(1910年) 上はFr .drihs.efels設計の垂直性を感じさせるアパート(1907年)。階段の吹き抜けには、アールヌーヴォー調のステンドグラス窓が見えます。右はVilhelmsReslersとGvidoBerciの設計。民族ロマン主義の一例で、ファサードをザラザラしたダークグレーの漆喰、1階を天然石ブロックで覆っています。 この建物を手掛けた J.nisAlksnis(1869-1939)は、ドイツで建築を学びシベリア鉄道建設に参加したのち、1リーガで精力的に設計を行いました。垂直性の高いデザインに新古典主義の影響が見られます。 建築家AugustReinberg(1860-1908)の自邸として建てられた個人住宅で、非対称のファサードが心地よいバランスを保っています。側面には「Arbeit ist des BuergersZierder」(仕事は市民の装飾品である)の碑文が飾られています。リーガ工科大学で建築を学んだReinbergは、サンクトペテルブルクに渡り1894年王立芸術アカデミーで2級芸術家の学位を取得。リーガに戻ると建築家組合の会長をつとめリーガ建国700周年記念展(1901年)や国立劇場、ラトビア銀行など大プロジェクトを担いました。 AugustReinbergが設計したラトビア国立劇場。 ピアノの楽しさを極限までひきだすケイ赤城さんのプレイ。 ドラムの吉良創太さんは1989年生まれ。東京音楽大学打楽器科を経て、大学院在籍中に日本を代表するジャズベーシスト鈴木勲さんのバンドへ加入して本格的なプロ活動を始めました。2019年よりケイ赤城トリオに参加。自身の打楽器アンサンブル集団 DA.DA.DOUNを主宰されています。 ベースの若井俊也さんは1988年生まれ。3歳からピアノや作曲を学び、明治大学入学と同時にコントラバスを始めました。2013年ケイ赤城トリオのメンバーとして国内外のツアーやアメリカでのレコーディングに参加されています。 ラトビア人実業家の依頼で、AleksandrsVanags(1873 .1919)によって設計されたこの建物は、1906年に竣工しました。粗い質感をもつダークグレーのファサードには、ラトビアの民族模様にインスピレーションを得たジグザグ模様が付けられています。第一次世界大戦前にVanagsは約70棟のアパルトメントや教会を設計し、ドイツ軍によるリーガ占領中には、ベルリンで開催されたラトビア美術展に協力しました。ソ連占領時代はラトビア市の建築部門で働きましたが、反革命活動の疑いで逮捕され、46歳で銃殺刑となりました。 Ei.ensLaubeによるファンタジックな集合住宅(1908年)。中央の出窓の上には魔女の帽子のようなモチーフが見え、アールヌーヴォー独特の文様で彩られています。 ラトビア美術を展示したラトビア国立美術館(1905年)。設計者のVilhelmsNeimanis(1849-1919)は、サンクトペテルブルク芸術アカデミー出身で、美術史家としても知られていました。 その44 青山かすみ 昨年末から鼻風邪が抜けないまま辰年の元旦を迎えていた午後4時過ぎのこと。なんとはなしに付けてたTVから地震警報が鳴り響き出した。えっなに?、どこで地震?輪島?元旦早々にまた能登半島沖で?大きいやつ?そんな心のつぶやきとともにいつまでも続く警報音の長さとその音量が、ことの重大さをものがたっているようだった。最大震度がとてつもなさそうである。とっさに12年前の東北沖地震の記憶が蘇ったみたいに各局のアナウンサーが必死になって「津波がやってきます。早く逃げてください」と叫んだり呼びかけたり・・・・ 東日本大震災から一巡りしたんだなぁと、去年感慨深く思った矢先の能登半島沖だなんて。嘘でしょ?いやホントの話だ!そう、天災は忘れた頃にやってくるというけれど、昨年は特に能登の珠洲市や輪島で頻繁に起きていたことは間違いのないリアルだったと思う。なぜ日本は先手を打てないのか。今となってはそこの部分が悔やまれます。能登や輪島周辺の地震というものに、私たちはなにか慣れっこになっていたのかも知れません。 ここ数年の特徴として日本海側での雨量や積雪の多さには目を見張るものがあったし、いまだかつてない異常気象を感じたり、新潟県に見る液状化も見逃すことはできなかったはず。気象庁、環境省、国土交通省、防衛省など主だった各省庁がダッグを組み、このような危機的状況下に即時対応できる天災対策、地震対策、防災対策、人命救助に向けたもっと真剣な姿勢を見せてもらいたい、と痛感したしだいです。 今回は正月休み、またその夕刻時ということも重なり、スピーディなヘリコプター等上空からの出動や艦船による救助も叶わぬまま、初期対応の遅れが私達をイラつかせることに。後悔先に立たずを繰り返してはなりません。この元旦の経験を決して無駄にしないでいただきたく、切に願うばかりです。正月だろうとクリスマスだろうと人命救助や医療体制には、お休みタイムは許されません。官房長官が交代したばかりなどという言い訳はできないのと同じ。各官庁の指揮官的立場にいらっしゃる人たちの会見を見せられたところで、この国は大丈夫なの?の言葉しかございませんでしたわ。危機感のかけらも伝わってきませんでした。残念無念、これを機に私 共の今年のテーマは、念には念をと相成りました。 リーガ中央市場 リーガ駅に近い「リーガ中央市場」は、ツェッペリン号など巨大な飛行船の格納庫を利用したマーケットで、魚介館、野菜館、パン館、乳製品館、精肉館があります。その規模はヨーロッパでも最大級といわれます。 ▲ラトビアの珍味、ヤツメウナギのゼリー寄せ。 魚介館ではバルト海で捕れる生魚が売られています。バルト海は塩分濃度が低いため、汽水域には川魚も生息しています。カワカマスやコイ、ナマズなど淡水系の魚やタラ、カツオ、ヒラメ、ニシン、サバ、サーモンなど海の魚のほか、ラトビア名物のチョウザメもいました。ラトビア産キャビアはチョウザメを殺さないで卵だけをとる、独自の採卵方法で注目されています。 食卓に欠かせない酢漬けの野菜。ラトビア人の多くは甘酸っぱい風味が大好きで、極端に辛かったり、塩や香辛料の強いものは好まないため、日本人にも食べやすい味付けです。酢漬け野菜はナマスのような味でした。魚を燻製やオイル漬けにしたり、野菜を酢漬けにしたり、保存食としての食べ方が今も残っています。 【 Webマガジン コラージは、オフィシャルサポーターの提供でお届けしています 】