コラージ能登半島地震レポ「穴水」2024_02_03
コラージ能登半島地震レポ「門前 浦上」2024_02_03
Kumiko Partition 伝統的な組子細工のパーティション。紐蝶番によって角度を自由に変えられます。
Kaya Mosquito Nets 夏の風物詩 蚊帳をアレンジ。茶室のような方形で、麻布に包まれた結界を生み出します。
Moon on the Lake 彫刻作品のようなブロンズの脚に、北海道産タモ・ナラの天板が載っています。
Sheep chair ピーター・ズントー設計によるランスの別 Bollard 波止場の係留杭(ボラード)
荘に置かれたダイニングチェアを製品化。柔らかな膨ら をモチーフにしたブロンズ製のスツール。 Takete クラーソン・コイヴィスト・ルーネによって設計
みを再現するため、レザーを手縫いで仕上げています。 されたホテル「K 5」(東京都兜町)のチェアを製品化。
リニューアルにあたっては環境負荷を減らすため、分解・組み立てできるシステムキッチン・家具の特性を活かし、旧ショールームの展示品を出来る限り再利用したそうです。上の無垢板スライド式キッチンは旧ショールームの展示品でしたが、構成を変えることで生まれ変わりました。スクラップ&ビルドが当たり前だったリニューアルに対し、一石を投じるショールームとなりました。
2024年1月1日 16時 10分 能登半島地震
元旦の能登半島を襲った震災は、各地に甚大な被害をもたらしました。コラージ取材班は1月下旬から2月のはじめにかけて、氷見、七尾、穴水、天領黒島などをめぐりました。住宅や港の被害状況を中心にレポートします。
取材協力:森 博樹
黒島剱地漁港
七尾湾
志賀町に位置する志賀原発は 2011年から停止中で、長年にわたり敷地内の断層が活断層か否かを議論しています。2016年に原子力安全委員会は活断層と考えるのが合理的という判断をくだし、断層の上にある1号機は廃炉、志賀原発2号機も大幅な改造が必要という方向にありましたが、2023年、北陸電力は断層にトンネルを掘って独自の調査を行い、その報告をうけた委員会は活断層ではないと判断を覆し再稼働への動きが高まっていました。
国土地理院「だいち2号」観測データの解析による令和6年能登半島地震に伴う地殻変動。赤色の部分は 2m以上隆起した地点です。海岸線だけでなく内陸の地盤も隆起していることがわかります。
ニュートラルマインド
4月から 5月、新学期や新年度のフレッシュな空気感から、確実に次の段階へと移り変わる季節。爽やかな季節である一方、いつの頃からか「五月病」というのも、季節の言葉として身近になりました。
新年度となる4月は、新生活がスタートしたり、新しい職場、不慣れな環境など、知らず知らずのうちに無理をして、ストレスをためてしまう時期でもあります。5月になると、それらのストレスが疲労感や倦怠感、食欲不振、睡眠不足として現れ、しだいに無気力な状態になっていく、これらの症状を「五月病」と呼ぶようになったようで、病名診断によっては適応障害となることもあるようです。
新しい環境での生活や仕事は、新鮮な気持ちで取り組むポジティブな面と、不慣れなことへの不安や難しさなどのネガティブな面が見事に混在しています。思っている以上に心や思考の疲労が蓄積しますし、さらには季節の変わり目でもあり、寒暖のジェットコースターは、じわじわと自律神経へのダメージも引き起こしたりするわけです。
鈍感力も必要、などとも言いますが、すべてが鈍感ではいただけないものの、鋭すぎてあまりにも繊細な感度を持ち合わせていると、確かに現代社会で生き抜いていくには相当ストレスフル、鈍感くらいがちょうどいい、なんていう事も多いと思います。とはいえ、「鈍感」という響きに抵抗があったり、とにかく真面目、何事も一生懸命、というタイプが多いとされる私たち日本人。そんなタイプはやはり、変化の大きい時期には、元気なつもりでも疲れて過ぎてしまう傾向が強いのかな、と感じます。
そこで、この5月に意識したいのが5月のエネルギーでもある「ニュートラルマインド」。ネガティブでもポジティブでもない真ん中というマインド。良し悪しのものさしではなく、そのものをそのまま、ただ見る、という心持ちや感覚です。
私たちは日々、無意識のうちに良い悪いのジャッジをかなり繰り返していると思うのですね。気分や体調、言葉、行動、考え方、態度、性格、人格、天気、状況、環境などなど、良い or悪いという括りで語ることって結構多いものです。もちろん、事実としての善悪はありますが、善と悪で括らずに見過ごせることも意外に多いのでは?とも思うわけで、しかも、善悪で括らない方が気持ちや心は楽で、本質的なことが見えやすかったり、とか。
私は「あるがまま」という表現が好きで、口に出さないまでも頭の中でよく登場させます。「あるがまま」は、その対象と自分との間に少し距離をもってとらえる言葉と言いますか、仮に自分のことであっても、いくらか距離を置いて捉える感覚。そのいくらかの距離こそがポイントで、何事も自分の中に引き込み過ぎず、思いやこだわりにはめ込まず、何も色付けすることなく、ただ捉える、という感じ。
「しんどい」「つらい」と感じる時って、思っている以上に自分の枠にはめて考え込んでいたり、自分のルールか
ら抜け出せずいる時だったりするのかな、と想像します。まぁ、その思考サイクルにハマってしまったら、なか
なか簡単には抜け出せないこともありますし、距離をとるだなんて難しい、のかもしれませんが。
想定外の疲れや違和感を感じたら、そこを見逃さず、自分のこともまわりのことも、まずは ”あるがまま”を眺め、静かな心で過ごしてみる。これはシンプルだけど、言うほど簡単でもないし、できないこともあるかもしれません。ただ、自分の内側や思考のザワつきや変化は自分自身でしかわかりませんから、おかしいなという時には自分のSOSをお見逃しなく、今の自分を頭の上から眺めてみて、自分に「どう?」と聞いてみるのはいかがでしょう。
明治になると北前船は衰退し交易先の北海道などへ移住する住民もいましたが、高度経済成長期になると半数以上の世帯がタンカーや捕鯨船の船員として活躍し多くの家が建てられます。地域の建物は明治期から吉田一族が多くを担い、伝統的な家並みが自然と守られてきました。その外観的な特徴は屋根の黒瓦、外壁の南京下見板、窓にはめられた格子にあります。間取りはザシキ、チャノマ、ナンド、カッテ、トオリニワという基本形に加え、家の規模によってナカノマ、ミセノマ、カンチョウバ、ハナレが加わります。
「能登ふるさと住まい・まちづくり支援事業」などを背景に、建築の専門家を招いた修復相談会が定期的に開催されるなど、伝統建築を出来るだけ壊さずに修復して活用しようという機運が盛り上がりました。それを受けるように輪島市は「輪島市復興計画素案」のなかで、角海家を中心とした魅力あるまちなみの再生を図ることを提案し、「黒島地区まちづくり協議会」が発足すると伝建地区選定を目指した活動がスタート。復興のマスタープランといえる「黒島地区復興まちづくり計画」が策定されました。
蝶の羽音がしてみあげた空に春の風が吹いている
Vol.58
原作:タカハシヨウイチ はら すみれ絵 : タカハシヨウイチ
表札を掲げた勝手口は、坂道(北側)の途中にあります。
粟津邸は読売ランド前駅に近い多摩丘陵の斜面に建ち、地盤をできるだけ傷つけないよう傾斜に沿った設計となっています。南側の庭には、土の流出を防ぐため芝生を植えていました。手前の陶製ガーデンファニチャーは、粟津潔さんのデザイン。原広司さんは「敷地の一部を長方形の囲いで囲み、敷地の傾斜に合わせ各部屋を配置するという手法を初めて採用したのは粟津邸でした」(Hiroshi Hara: The 'Floating World' of his Architecture Academy Press刊より)と語っています。
一歩中に入ると半円形のドームに青空が広がり、入り口から階段を降りたホールは、個室、リビング、寝室などへつながっています。もう一段階段を降りれば、粟津潔さんのアトリエに出ます。空間を左右対称にした理由について原広司さんは「対称性が古典主義の手法としてモダニズムの時代には避けられていたこと」「内部を渓谷の谷のような空間にしたかったこと」をあげています。半円ドームの天窓は代表作「梅田スカイビル」のシースルーエレベーターを彷彿とさせ、谷間を降りていく階段は「京都駅」大階段のイメージとだぶります。
1972年から 40年近くにわたり、この天井の高いアトリエが粟津潔さんの創造の場でした。サンパウロ・ビエンナーレ出品作「グラフィズム3部作」もこのアトリエで刷られています。大きな 2つの天窓と北側の縦長窓からは、柔らかな自然光が注ぎます。建設当時まわりには森が広がっていましたが、原広司さんは将来の宅地化を予測し、窓や明り採りを天井に集中させることでプライバシーを確保しながら大気や自然を感じられる都市型空間を実現したのです。「未来の建築をさぐる」ため原さんは 1970年代初頭から世界各地の伝統的な集落を巡る旅をはじめました。「この家には、そうした集落の原型が感じとれます」と粟津ケンさん。
粟津ケンさんの部屋。テーブル足元の窓を開けると父の仕事場が見えます。実はこの部屋と向かいの書斎は木造で作られ、子供が家を出た後は解体し、アトリエとホールを一体にした大空間が現れる構想がありました。しかし部屋はそのまま残されています。
中心のホールから個室、リビング・ダイニング、キッチンなどへ移動する、ひとつの集落をおもわせる配置になっています。粟津邸には、針生一郎さん、泉真也さん、川添登さん、一柳慧さん、勅使河原宏さん、山下洋輔さん、寺山修司さん、篠田正浩さん、永井一正さん、北川フラムさんなど多方面のクリエイターが訪れ、近所に暮らした富岡多恵子さんも遊びに来て、公共の場のようだったそうです。アトリエにあった 3500点以上の作品、資料は金沢 21世紀美術館に寄贈され、2007年「荒野のグラフィズム:粟津潔」が開かれます。その 2年後、2009年に粟津潔さんは亡くなりました。その後十数年の休眠期間をへて、粟津邸は 3年前に空き家になります。そこからケンさんは元アトリエ・ファイの松本鋭彦さんと協働しながら、粟津邸を竣工当時の姿に戻したそうです。粟津邸最長の住民といえるのが、ギリシャリクガメのマランダです。音楽家の小杉武久さんによってイランから持ち込まれ、亀をよく描いていた粟津さんに手渡されたそうです。粟津邸竣工時の建築雑誌『SD』(1972年 9月号)には、驚くことにホールの片隅にいるラマンダが写っています。それから50年以上、日々をこの家で過ごしたマランダが冬眠から目覚めるところに遭遇できました。
粟津潔さんは、ジョナス・メカスさんと同じ「BOLEX」の16mm撮影機を愛用されていました。
壁に和紙を貼った和室は、茶室としても使えるよう炉が切られ、釜を釣れるようになっていました。粟津潔さんは、勅使河原宏さんや、寺山修司さん、篠田正浩さんの映画、舞台の美術、ポスターを手掛ける一方、自身でも「ピアノ炎上」(出演:山下洋輔さん)などの映像作品を残しています。グラフィック、写真、映画、文章と広範囲におよぶ仕事とその影響力の解明は、これからのテーマです。改修後の公開日には沢山の建築関係者が詰めかけた粟津邸。原広司さん「反射性住居」の第一作であり、京都駅や梅田スカイビルのルーツともいえる初期作品であることは誰もが認めるところです。粟津邸の大きな特徴は半円形のドームや大きな天窓、縦方向に光や風を導く「有孔体」ですが、それだけに雨漏りなどの問題も多く、メンテナンスには多額の費用がかかると粟津ケンさん。この貴重な建築遺産を未来へつなげるため、企業のバックアップやクラウドファウンディングなど様々な方策が必要とされています。
前回に引き続いて、イングランド・チューダー朝(
16 0 3)のお話。本誌の読者なら「チューダー様式」と聞けば
写真のような外観の建物を思い浮かべる方が多いはず。例えばシェイクスピアの生誕地として知られるストラットフォード・アポン・エイボン。この一大観光地の中心街にはこうした建物がずらりと並んでいます。シェイクスピア(1564〜1616)もまた、この時代の人です。そしてこの大劇作家は子供の頃、ヘンリー 8世の娘にしてチューダー朝最後の王様エリザベス1世のお姿を実際に目にしたことがあったに違いない、と言われています。
エリザベス1世 1533〜(
1603)は 1575
年、
「女王の恋人」との噂が名高
かったレスター伯爵ロバー
ト・ダドレー(1532〜 15 8 8)の招きに応じて、その居城ケニルワース城に
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日間滞在します。バーミンガ
ムから南東
に位置する
この城は当時、堀と湖に囲まれた水辺に浮かぶ幻の如き風情で知られていて、 15 6 3年に女王がお気に入りの伯爵にご褒美として与えたものです。ダドリー伯爵は拝領後手を尽くして城の修復にあたり、その見事さは広く知られるものとなっていました。この頃、臣下の招きに応じて各地の館を訪ねるということをエリザベス女王は毎年のよう
に行っていましたが、
日間
もの長きにわたっての滞在と
いうのは極めて異例です。伯爵はこの滞在中に女王との婚約を成
就することを目論んでいたと言われています。なので、この
間は、これでもかというほど凝った催しが連日行われています。
中でも、女王が城に到着する初日、城に入るまでの歓待の演出が見事であったことが記録に残っています。城の周囲の堀や池にギリシア神話をモデルとした女性たちが乗る船を浮かべ、外部から城へと続く長い橋にも同様に神話に題材を得た飾りつけや人物や音楽を奏でる人々配されていて、その夢幻のような演出された
10 km
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1485〜
日
ありし日のケニルワース城ストラットフォード・アポン・エイボンの建物
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空間が、ゆっくりと城へと向かう女王一行を迎えています。これが日間の豪華なショーの始まりでした。
その何日目でしたか、近隣のそれなりの市民たちに見物が許された催しがあり、シェイクスピア少年は周辺の町の有力者であった父親に連れられて、その催しを見に来ていたことがほぼ確実だと言われています。研究者によれば、その催しの様子が作品の一部に反映されているとのこと。残念ながら、この野心家のダドレー伯爵のもくろみは見事に外れて、エリザベス女王との婚約はかないませんでした。それどころか伯爵は、莫大な費用をこの日間のために使ってしまったため家産が傾き、やがて女王の気持ちも冷めて、最後は宮廷から遠ざけられてしまうことになります。英国の歴史に残る女王と臣下の、ちょっと悲しい恋の物語です。
ところで、このエリザベス女王の宮廷で、「食」に関連して興味深い記録が残さ
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れています。まず、女王は晩年歯の状態が極めて悪かった。原因はただひとつ。若い頃からの大の甘いもの好きがもたらした結果です。特に砂糖を使ったお菓子です。砂糖は
14 9 2年コロンブスがカナリア諸島からサトウキビをアメリカに
持ち込み、その後カリブ海の島での栽培が大成功し、あっという間にカリブの島々
でスペインによる砂糖プランテーションが続々と開発されていきます。
灼熱の下でのサトウキビの栽培・収穫・砂糖の原料となる樹液を煮出す作業は、極めて過酷な肉体労働です。これを担うためにアフリカから多数の奴隷を強制的にカリブに連行して働かせた暗黒の歴史は、現在に至るまで様々な問題の原点となっています。こうしてカリブの海から
大量にもたらされるようになった砂糖は、欧州の味覚を一変させる巨大な影響を今に残すことになります。
ところで、華やかなエピソード一杯のエリザベス1世ですが、その実像はかなりストイックな面もある大変な努力家であったと感じられます。まず、朝早起きだった。確かヴェネツィアの大使だったと思いますが、女王との接見のために指定された時刻がなんと、朝の8時。その時刻に参上してみれば、その時点で女王は既に様々な仕事を処理した上で朝食を済ませた後だったとのこと。早朝から国務に励む日常だった、ということです。
華奢な体つきでしたが、人並み優れた運動神経に恵まれ、踊りと狩りが大好きだったといわれています。女性ながら狩りでは自身で弓を引いて獲物を射貫き、仕留めた獲物の頸動脈を自らナイフで切り裂いた、と言われています。また狩りの日に森の中で素晴らしい朝の食事を摂ることを楽しんでいた様子が、絵物語として残されています。宮中宴席で行われた舞踏では、ヴォルタという踊りを、ダドリー伯爵などを相手に好んで踊っていたとのこと。これは回転とジャンプが連続する激しい踊りです。
仕留めた大鹿にとどめを刺す女王
もうひとつ、
女王の食事に関して、興味深いお話を。特別なゲストを迎えての「政
務としての公式晩餐会」や宮廷舞踏会などの特別な催しでもない限り、女王は日常、ご自身おひとり又はごく限られたお気に入りの側近と共に食事をすることと好んだと言われています。そして特に夕食後はお気に入りの芸人(道化的なコメディアン)をはべらせて、その漫談的な話芸や、面白い町の世間話を聞くことを楽しみにしていたとのこと。
一方、父親であるヘンリー 8世の時代の初期まではまだ、臣下一同に加えて滞在中の賓客さらには宮殿に常駐する下級貴族に至るまでが、一同打ち揃って宮殿の大ホールで食事をするということが日常的に行われていました。ところがヘンリー
8世時代の後半には、国王は臣下一同とは別の場所で、妃と共にプライヴェ
ートに食事をするようになっていきます。その頃、古い臣下がこの傾向を嘆いて「国王陛下におかれましてはできるだけ、かつてのように臣下一同と食事を共にする機会をお作りになられるべきです。そ
うしてこそ一同の気持ちもひとつになりますので」と進言しています。「常日頃から同じ釜の飯を共にしてこそ、戦で一致団結して戦える!」と訴えたわけです。こうした中世以来の「古き良き会食の習慣」もヘンリー 8世の治世の後半以降は急速にすたれていき、エリザベス1世の時代には、特別な賓客を迎えての公式晩餐会でもない限りは、大ホールでの国王臨席の食事の機会は例外的なものとなっていました。もはや臣下からの進言が行われる余地もないほど、国王と臣下一同が揃って食事を共にするという機会はなくなっていた、ということになります。その背後には大きな宮廷貴族社会における政治的な要因(変化)が隠されているのですが、話が長くなるので説明は省きます。
最後にちょっとした雑学的知識を一つ。チューダー朝のチューダーというのは家名すなわち苗字です。「バラ戦争」の最終的な勝利者にして「赤いバラ」を旗印としたヘンリー・チューダー( 1457〜が
15 0 9)の苗字です。この貴族武将
14 8 5年、イングランド王ヘンリー7世として即位することで、チューダー
朝の時代が始まります。この人の次男がヘンリー8世です。本来であれば長男すなわち「ヘンリー8世の兄」が「ヘンリー8世」として世継ぎとなるはずだったのですが、若くして亡くなってしまい、次男が王位を次ぐことになった。要するに、世に名高きヘンリー8世は、本来王様になるはずじゃなかった王家の次男だった、ということです。こうして、チューダー朝は、開祖ヘンリー7世、続くヘンリー8世、そしてその娘であるエリザベス1世という3人の突出した人物を輩出したことで、イングランドの歴史に巨大な足跡を残すことになります。その間に起きた「食」に関連する変化については山ほど語るべきことがあるのですが、今回はここまで。
道化の芸を楽しむ女王女王の寵臣レスター伯ダドリー
七尾市
氷見線の伏木駅(富山県高岡市)。平安時代の伏木には越中国(コシノクニ)の国府が置かれ、大友家持が国守として赴任しました。ここで詠まれた 223首もの和歌が「万葉集」に収められ全体の約 5%にあたることから、伏木駅
伏木は万葉の里として知られます。伏木は富山県のなかで特に地盤の液状化被害が大きく、伏木駅にも液状化の跡が見られ、電話ボックスや公共トイレ棟が傾きアスファルトには大きな亀裂が入っていました。
氷見観光の拠点となる「氷見漁港場外市場ひみ番屋街」までは徒歩 30分ほどです。祇園宮日吉神社(南大町)では石の柵が倒れ、向かいの土蔵も壁が落ちていました。
藤子不二雄 .さんの出身地である氷見には、様々なキャラクター人形が街角に点在しています。アーケード商店街まりんろーど氷見では、スーパーマーケットが営業していました。氷見市では上田子浄水場が被災し14000世帯が断水しましたが、市の水道課が不眠不休で漏水を調査・修復し、1月10日には約1万世帯が復旧。18日には全域で復旧しました。下水道の破損調査もロボットカメラなどによって続けられています。
▲ 比美乃江公園の展望台。 ▼氷見温泉郷総湯は1月13日から営業を再開。被災者やボランティアには無償で開放され喜ばれました。氷見市でもっとも被害の大きい地区のひとつ栄町新道。赤紙と呼ばれる被災建築物応急危険度判定の「危険」判定を受けた住居が並びます。海岸に近い栄町新道では、液状化によって大半の建物が傾いています。地盤がしっかりした道路に比べ、歩道から敷地にかけての液状化がひどく、側溝の蓋やマンホールが浮き上がっていました。
間口が狭く奥行きの深い長屋式の住居が密集しているため、解体によって隣接する建物が倒壊する恐れもあります。地域全体の区画整理を行うため住民によって「震災復興期成会」が結成され、協議が続けられています。新道地区77世帯のうち 39世帯が被災し、そのうち 30世帯は転出の意向を示したそうです。このままの状態が続くとゴーストタウン化する可能性も高いため、ブロックごとに解体し災害公営住宅を建てるといった方策が市に求められています。
明治 10年から続く井上菓子舗は、震災後も和菓子作りを続けています。幸い建物は使える状態ですが、床に傾きがあり障子も動かず、生活するのは大変とのことでした。栄町新道は高齢化が進んでいますが、元日は若い世代が帰省していたため震災時の避難が比較的スムーズに行えたといいます。氷見には波高 3mの津波警報が発令され、約6000人が高台のスポーツセンターなどに避難し一夜を明かしました。被害状況を的確に判断してもらうためには、内壁、柱、床、天井の写真を撮り、図面とあわせて調査員とイメージを共有することが大切といわれますが、高齢者には難しいこともあります。そこで「床が傾いている」「柱に隙間が出来ている」といった聞きとり調査から被害を把握する試みも行われています。国の被災者生活再建支援制度によって、住宅の資金として最大 300万円が支給されますが、2007年能登半島地震の際に設けられた県の「復興基金」や「義援金」等の追加支援が必要とされています。
寒の戻りと雨降りが続いたせいだろう。リセットされたみたいに桜の見頃は久方ぶりに入学式時期と重なって、そのあと初夏並に気温も上昇中。東北や弘前
の桜前線が GWに上陸となればいいのにね!お出かけもいいのだけれど・・・
何処もかしこも休日の混雑ぶりにはお疲れがどぉーっと出ちゃう年頃なのよ〜
今年もあっという間に五月の連休が目前となってまいりました。あまり急がず騒がず、どうかご安全にご無事にお過ごし下さいませ。能登半島では一日も早く水が使えるようになってほしい!ですね!ツツジ、タンポポ、ハナミズキ、フジと次々にバトンを繋ぐ花たちが、きっと私達の目を嬉しませ癒やしてくれるはず。
その45
青山かすみ
南風なれども
それにしても円安効果のおかげと言って喜んでいいのかどうか、外国からの旅行客がまたすごいわね。唐突に言語変換のスマホを見せられたりする経験もして少々びっくりでしたけれど。ボーダレスになり過ぎてもいけないんじゃないかなぁという気もしたりする今日此頃。こういった様々なコロナ明け反動現象を調整しておかないと、今後また痛い目に遭いますぞー
たまにはゆっくり、ゆ〜っくり亀さんの歩みのごとくゆきましょうよ!
長谷川等伯「枯木猿猴図」(龍泉庵蔵) 妙心寺 龍泉庵
駅前の商業施設は再開しているもののトイレは使えない状態で、駅に簡易トイレが設置されていました。トイレの状況が、人々の行動を著しく制限することを実感します。駅周辺でも液状化によってマンホールが浮き上がり、3月になって水道は復旧しましたが、下水道は機能していません。バキューム車でマンホールを汲み取る様子も見られました。
創業 90年以上の昆布・海産物店しら井は、北前船によって北海の昆布が運ばれていた時代を彷彿とさせる老舗です。店舗に隣接する 3階建ての作業場・昆布保管用低温倉庫が大きく破損し、店舗に倒れかかっていました。
全国に知られる和蝋燭店「高澤ろうそく店」の店舗(登録文化財)が倒壊しました。幸い工場は倒壊を免れ、1月18日からパリで開かれた「メゾン・エ・オブジェ」に和蝋燭を出品し注目されたそうです。当面は仮店舗で営業を再開し、クラウドファウンディングの支援をもとに明治時代に建てられた店舗も今後再建される見込みです。
龍松山 東嶺寺は、鹿島半郡(七尾・能登島・穴水一帯)を治めた長氏の菩提寺です。長氏が仕えた七尾の畠山氏は上杉謙信によって滅ぼされますが、援軍に来た織田信長のもとで長連龍は数々の武勲をあげ、天正 8年(1580)信長から鹿島半郡約 3万石を与えられました。2代目の長好連は拠点を穴水から田鶴浜へ移し、3代目の長連頼は加賀前田家に仕えながらも田鶴浜への検知(改作仕法)を受け入れず有力農民と結託して独立国のように領地を運営しました。江戸時代の能登では「十村(とむら)」と呼ばれる豪農や帰農した武家が大きな力を持ち、加賀藩にかわって村の監督や徴税を担っていました。これは前田家への反発心の強い農民たちを懐柔するための施策ともいわれます。
穴水町はじめ奥能登に伝わる田の神様を迎える祭り「アエノコト」は、ユネスコ無形文化遺産に認定されています。12月 5日、裃で正装した男性が田の神様を自宅の風呂に招いたあと、山海の珍味が並ぶ御膳の前で一品ずつ料理を説明しながらもてなします。年を越しゆっくり休んでもらったあと、2月 9日には田の神様を田んぼに案内し豊作を祈るのです。地震で多くの農家が被災し、アエノコトの存続が危ぶまれています。
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ドラゴンシリーズ 112
ドラゴンへの道編吉田龍太郎( TIME & STYLE )
ミラノ
あれからもう年も時間が経ってしまった、まだウィルスが世界中で変異を繰り返し、学校も会社も世の中がリモートで外出することも難しかった2020年、毎月のように誰もいない静まり返った横一列に航空会社の受付カウンターが並ぶ搭乗ロビーを大きなスーツケースを転がし、そのガラゴロと寂しい音が響く大きな出発ロビーを一人でパスポートコントロールを経て搭乗ゲートに向かっていた。
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その感覚は何とも表現し難いのだけれど、真っ暗になった小学校の校舎に忘れ物を取りに行った時のような、喧騒の余韻が消え去った後に誰もいないはずの場所なのに誰かが存在するような、人々の動きが止まってしまった世界に波紋を起こさないように静かに密かに潜んで行く感じだったろうか。地上係員も搭乗客も誰もいない空港は戒厳令が出された土地のようで、静かな不気味さの中に向かってゆくような感覚でもあった。ウィルス感染が怖くなかったわけではないが、静まり返った世界の中で生命が一緒に止まってしまうような感覚のほうが恐ろしかった。静かすぎて立ち止まると呼吸できなくて死んでしまう魚のような。
それから自分の行動を肯定するように何度も閉鎖された国境を超えるために数日間の強制隔離を繰り返しながら、日本からイタリアやスイスへと出入国を毎月のように繰り返した。ウィルスが猛威を振るったイタリアへの入国条件が明確に定義されていない時期には、スイスのチューリッヒ空港から山越の氷河電車で国境警察にドキドキとしながら静かに国境を超えた。
辿り着いたミラノの街、ドゥオモ大聖堂の前の広場には人影もなく、普段は餌を求めて集まる鳩がたったの数羽だけ白い大理石の大聖堂の広場を寂しそうに餌を探して歩いていた。そんなミラノの街を朝から夜中まで歩き続けた。大きな通りから小さな通りまで一つの通りも見逃さないように、シャッターの降りた閉ざされた街を変に真剣な怖い目つきをした猫背の日本人が夜中の真っ暗な街を徘徊していた。
止まった世界の中で時間だけはたっぷりとあった。無意味に何度も同じ
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通りを行ったり来たりして、そんな行動を昼夜を問わず繰り返していた。そのようにして捉えた街には自分だけの中心が形成され、その中心から放射線状に方向性が施された。何度も迷った。そして何度も自問自答を繰り返す中で様々な不運と失敗と幸運との巡り合わせによってミラノの街で自分たちの場所に導かれたと感じた。
それは多分に偶然の賜物ではあるが絶対的な運命でもあるように、その偶然の必然が信じられるような出来事が重なり、神の存在のようなものを感じるくらい不思議な経験を繰り返した。2021年 8月にミラノに自分たちの空間を見つけることができた。大袈裟に聞こえるかもしれないが南青山もアムステルダムもミラノも同じように偶然と運命と必然によって引き寄せた空間だと信じている。
電気も照明も空調も何もないエンプティな空間の中にキャンドルを灯し、アムステルダムから急遽、製品を運び込み、コロナの中で開催されたミラノデザインウィークに初めて参加した。世紀に建てられた中世のアーチ型の連なる空間は、照明も電気も何の現代的な設備の無い静かな中世に作られた聖堂のように感じられた。朝は窓から差し込む柔らかな光の陰影が揺らぎ、夜はキャンドルがゆらゆらと揺れる灯りの陰影が静寂の空間に命の動きを宿らせた。
時が経過した石とレンガと石膏の空間は何もしなくても強くて深い優しい表情を持っていて、何もする必要はないと感じた。そのままの美しさを生かすことが最大の施しであると感じ、空間のそのほとんどは水回りや基本設備以外は何も触らなかった。触らないことは本当に大事なことで、触ることでそのものの良さを台無しにしている。昔、インドネシアの僻地を訪れた時に偶然に出会った小さな子供達の純粋な目の輝きを忘れることができない。
2021年月のデザインイベントが終わり、本格的に空間の窓枠を交換する工事や照明や電気、お手洗いの給排水など設備工事に入った。基本的な工事内容だけを記録した図面をもとに、壁面の仕上げや細かな仕様に
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ついては施工の進捗に合わせ、現場でイタリアの施工監督ロレンッオと、マエストロの棟梁たちと話し合いながらその場で細かな仕様を決めていった。
昔からイタリア人の計画は予定通りに進まないと言われてきたが、まさにその通りだと感じた。実はその理由と結果は全く評判とは違ったものだった。日本の施工は図面を完成させて、ほとんどの内容はデザイナーや施工会社が引いた図面の内容通りに寸分の違いもなく完成させる。しかし、現代日本で施される施工空間はどこか軽く味気ない空間が多い。
日本だけではないがそれは施主が自己表現するために全ての空間に施しをするからだ。日本は元来、素材を活かすことで空間や道具の時の経過と耐久性を見越した施しが行われてきたのだが、近年はそのほとんどの躯体を被せるように皮膜を施して空間を新しく生成してきた。少なくともそのような場合にも素材を考慮した構成があれば良いのだけれども、新鮮さとスピード感と効率化が現代空間の軽さの一因でもある。
イタリアでの施工で感心し納得できたのは、空間が持つ潜在的な力を見極めながら工事を進めることができたことだ。偶然かもしれないが、施工図通りに進まずに一つ一つの段階で工事がストップした。そのたびに空間のあり方を感じながら修正を加えたり、新しい発見があった。
そのようにしてミラノの空間が時間をかけて出来上がっていった。その空間は完成することなく、時の経過と共に、そこに存在する人間たちやそこに置かれる製品やそこを訪れる人々の姿といった積み重なる要素によって様々な表情に変わってゆく。空間に漂う空気はその様々なものを源として発生しているのだ。
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毎年お正月から2週間、国立博物館で展示されるという、長
谷川等伯の国宝「松林図屏風」が、今年は1月
が延びたと友人が知らせてきた。昨年
月、能登演劇堂でそ
の生涯を舞台で観ることができたが、訪れた七尾や珠洲、千枚田などの被害の様子が明らかなるにつれ、なんともやりきれない気持ちでいた。一緒に旅した友人たちもニュースを見て心を痛めていたが、言葉にはできず、それぞれ旅の思い出を重ねて、復興を祈るしかなかった。等伯が七尾出身ということもあり展示が延期されたようで、最終日、急ぎ用事を片付け、上野へ向かった。
国立博物館は、光悦と中尊寺金色堂の展示が始まったばかりで、チケット売り場は相当の列をなしている。覚悟をしてき
たが、
歳以上ならチケットは不
要。並ばずに証明できるものを提示して中に入れるとのこと。歳をとっていいこともあるんだと、初めて思った。とにかく松林図屏風だけを見ればいい。博物館の中は広い。すぐに辿り着けなかったが、奥の展示室に七尾の舞台で見た、六曲一双の屏風絵が圧倒的な存在感で迫ってきた。七尾出身の等伯を知ってか、最終日の人の波は途切れることはなく、全部を見渡すことは難しかった。がじっと待った。
分、一瞬人の流れが止まって、
枚全て目の中に収めるこ
とができた。波や風の音も聞こえてくるような、不思議な一瞬だった。もうそれだけで充分。また来年も来ようと、喧騒の上野公園を後にした。
能登地震から1カ月半、まだ避難所で暮らす方も多く、生活再建の目処が立たないとのニュース、ボランティアが現地で活動する姿も見るようになったが、朝市の元気なおばちゃんたちの声を聞くにはまだ相当の時間がかかるだろう。かつて金沢を旅した時に見た輪島塗や山中漆器、九谷焼、珠洲焼き、加賀友禅や和紙、竹細工などの工房の被害も大きいと報道される。加賀百万石で栄えた伝統工芸の再建、再興も容易ではないだろう。受け継いできた伝統文化を是非とも絶
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日まで展示
やさないでほしいと願いながら、人々の暮らしが落ち着いたら、元気なお
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ばちゃんたちの声が聞けるようになったら、昔買えなかった、金泊を纏ったお重や九谷焼の酒器を買いに行こう。そしてカニもたくさん食べに行こうと思った。
そんな中、能登応援ということで、国際フォーラムで展示会が開催されているというニュースを見た。コロナの感染が強くなったと聞き人混みは避けていたが、能登のニュースは毎日続き、寒い中での不自由な生活を見ると、できることはないかと思うものの、義援金と言っても大したことができるわけでもなし、現地に行っても何もできないし、工芸品を見にいって応援になるならと、マスクを2重にして出かけた。すごい人だった。というより、急遽開催したのか、狭い場所で通路幅も十分ではないため、人が店先で止まると、身動きができなくなる。店先には何百万という輪島塗りのお重や、高価な九谷焼の大皿、素晴らしい加賀友禅が飾られているが、手に取るのは憚れ、人が右往左往する中では、ゆっくりみることもできない。それでも少しづつ前に出て、買えそうなものを探したが、どれも0が1つ多い。
特別展示とあるので、ワケあり(箱がない。現品限り)商品とおもったら、材料が整わないので作れない。もちろん現品物も多いけど、倉庫にあるものを持ってきた、とのこと。これなら応援になるかもしれないと、輪島塗の「蝶々」の額と九谷焼の「福良雀」の額を買った。どちらも工房は大きな被害があったそうだが、職人さんは無事とのこと。お店の方も被害を受けながら、しんどい中での出展で相当疲れている感じだったが、「今度は金沢に伺います」というと、笑顔を返してくれた。蝶々は春らしい色合いで美しく、雀は雪の中で身を寄せ合って小枝に止まって愛らしい。こんな機会でもなければ買うことはなかったと思うが、工芸品で季節を楽しめるのもなかなかいい。開いた財布の口はそのままに、藍古九谷の小皿2枚も買うことができた。思い切って出かけたが、現地の人と触れることで、燻っていた思いもほんの少しだけ癒された。1日も早い復興を期待したいが、ものづくりの人たちの伝統技術をたやさぬよう願うばかりである。
月には石川県で伝統工芸展の全国大会が開かれるとのこと。合わせて加賀料理などの食文化のイベントも開催される。秋の金沢もまたいい。日本の工芸技術、伝統工芸の数々、ゆっくりと味わいに行きたいと思う。