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伊勢国生みし半泥子 時空を超える美意識 https://collaj.jp/麦秋 2025 川喜田半泥子への旅 ネクタイを締めたまま「ろくろ」に向き合う男性は、伊勢国有数の豪商といわれた川喜田家 16代当主・川喜田久太夫政令です。別名を半泥子(はんでいし)。明治 11年(1878)11月、江戸時代から続く木綿問屋・川喜田商店の御曹司として津市で育ち、戦前から戦後の銀行経営に卓越した手腕を発揮しました。その一方で、「東の魯山人、西の半泥子」と称されるほど、陶芸をはじめとした独創的な活動は、いまも輝きを放ち続けています。 近鉄特急「ひのとり」 名古屋駅から津駅までは近鉄特急ひのとりで約 45分。ビスタカーやアーバンライナー、青の交響曲(シンフォニー)などユニークな列車で知られる近鉄ですが、ひのとりは「くつろぎのアップデート」を目的に開発されました。先頭と最後尾のプレミアム車両は眺めのいいハイデッカー構造。本革張りの電動リクライニング&伸長レッグレストシートを採用。バックシェル構造なので、後席を気にせずに背もたれを倒せます。デッキには無料のロッカーやコーヒーベンダー、ベンチスペースも用意され快適な列車の旅を楽しめます。 津市の語源は、港として栄えたことにあります。古くは安濃津と呼ばれた中国交易の拠点のひとつで、港周辺は伊勢神宮の荘園として神宮と深いつながりをもっていました。足利義政はじめ室町幕府の将軍たちも伊勢参宮の際は安濃津に宿泊し、江戸時代になると「伊勢は津でもつ、津は伊勢で持つ」と唄われるまでに発展しました。 Vol.71 原作:タカハシヨウイチ はら すみれ絵 : タカハシヨウイチ 新しいスニーカーで歩くバス停までの道にはハリエンジュの花の匂いと見あげる広い青空 ▲ 藩士たちの暮らした一番町界隈。 津城を築いたのは織田信長の弟・織田信包でしたが、関ケ原の戦いの際に行われた籠城戦によって城や町は荒廃します。その後、徳川家康の命により藤堂高虎が入城しました。戦国時代以降の近代城郭を開発したことで知られる高虎は、本拠地である津城を改修すると、海岸に近かった伊勢街道を城下町に近づけ、道をまっすぐに直し多くの参宮者たちを城下町に引き込み宿屋や商店を活性化させます。また津と伊賀を結ぶ伊賀街道を整備し、津の海産物と伊賀の木綿など農産物の流通が盛んになりました。 百五銀行と半泥子 津城からは、三重県のトップバンク百五銀行の本店が見えます。明治11年(1878)創立の百五銀行は今は数少ないナンバー銀行のひとつで、創立と同じ年に生まれた川喜田久太夫政令(半泥子)が 6代目頭取(1919〜1945年)をつとめました。本店のデザインは、藤堂高虎により築かれた津城の石垣や掘、名産品の伊勢型紙など、三重の歴史文化を取り入れています。 ▼ 本店新築の際に、内堀の石垣が発見されました。 本店内の「百五銀行 歴史資料館」(見学は予約制)は、150年近い同行の歩みとその歴史背景を解説しています。広報 IR課の渡邉康人さんと、小寺美貴さんがご案内くださいました。ナンバー銀行とは明治 5年の国立銀行条例にもとづいた金融機関で、東京で渋沢栄一が設立した第一国立銀行から京都の第百五十三国立銀行まであり、紙幣の発行権をもちました。合併などにより、創設当時のナンバーを守る銀行は 4行だけ現存します。▲ ○に×のマークが目立つ百五銀行の店舗(津駅西口支店)。 ▼ 明治期に百五銀行が発行した国立銀行紙幣。 百五銀行創設の中心になったのは藤堂家をはじめとする士族たちで、初代頭取には元城代家老で、四千圓を出資した藤堂高泰が就任。2代目頭取となった岡嘉平治は魚問屋の出身で、市場の符牒に由来する「○に×」(百五を示す)のマークを考案します。この印は「毋(ぶ)」にも似ることから、銀行経営は「毋望之福」(望まずして福が到来する)が大切で、自ら儲けようとせず「ご得意懇切主義」であるべきと岡は行員に説いたそうです。 創立 4年後の明治 15年、百五銀行に大きな危機が訪れます。東 京の第四十五国立銀行が密かに過半数の株を買いすすめ、乗っ取り を画策したのです。その危機を救ったのが「伊勢商人」でした。商 人たちは資金を拠出して株を買い戻すことに成功。5代目頭取として 酒・米・肥料などを扱う川喜田四郎兵衛が就任し、士族の商いに民 間の経営ノウハウが導入されました。 その跡をついで大正 8年、6代目頭取となった川喜田久太夫政令(半泥子)は大正 13年に本店を丸之内岩田川沿いへ移転し、三重 県初のエレベーター付き 4階建鉄筋コンクリートビルを建てます。昭和初期の金融恐慌では多くの銀行に預金者が殺到し、破産する銀行が相次ぎました。半泥子は取り付けに備えて自らの株式を担保に、日本銀行から多額の支払準備金を借り入れ「最後の一銭まで払うように」と行員に厳命しました。百五銀行にやってきた預金者は、羽織袴で平然とした半泥子の顔色を見て、安心して帰ったそうです。半泥子は「安全第一百五銀行」の看板を掲げ「安全第一・百五銀行・頭取川喜田久太夫・資本金一千万円」というキャッチフレーズが街で流行するほど、その信頼は県民に浸透します。なお川喜田家の本業である木綿商 川喜田商店は、別の銀行と取引をしていたと言います。同族会社への甘い融資が原因で破綻する銀行が多かったためです。今も「預かったお金は全責任をもって、いつでも返せるよう運用する。それがあたりまえ」という半泥子の教えを守り運営されているそうです。 戦争が進むなか、忘れ去られた小倉織 半泥子(川喜田久太夫政令)の大きな功績のひとつに、三重県内の銀行との合併を円滑にすすめたことがあげられます。明治 38年の亀山銀行を皮切りに、大正時代には桑名銀行、尾鷲銀行、紀北商業銀行、八十三銀行、伊賀上野銀行などを次々と合併。昭和に入ると大蔵省が掲げた「一県一行主義」の方針に沿って勢南銀行などを合併し、資本金 1千万円を超える規模にまで成長させています。合併に際して半泥子は各地に足繁く通い、現地行員や地域の有力者と対話を重ね、相互理解を重んじました。また高橋是清、山本達雄、土方久徴、渋沢敬三といった日銀総裁や大蔵大臣らとも親しく交流し、中央との信頼関係を築きます。昭和 13年には、300年以上続いた川喜田商店を閉鎖し、長男・壮太郎とともに銀行業に専念。やがて太平洋戦争が始まると、政府主導の貯金拡大運動に応じ「何がなんでもことしゃ五億」という標 江戸時代の貴重な大判・小判を展示。 語を掲げ、見事に預金総額 5億円を達成したそうです。 名物ブラックカレーは「黒いカレーができないか」という半泥子の一言から、初代の猪俣重勝料理長が試行錯誤して完成させました。松阪牛脂や小麦粉、スパイスなどを1カ月かけて煮込むそうです。 津で一番の洋食店といわれる「東洋軒本店」。ルーツは明治 22年に創業した東京の東洋軒(三田)で、昭和 3年、川喜田半泥子のすすめによって百五銀行本店内に誘致されました。昭和 55年には百五銀行伊賀上野支店の建物を移築し、現在の店舗となりました。落ち着いた店内で、旬の素材を生かした洋食を頂けます。東京で使われていたオールドノリタケが展示されていました。 千歳山 石水博物館 津城から南へ 2kmほど離れた千歳山には、かつて津藩が設置した公園がありました。明治になると開発計画がもちあがり、川喜田半泥子は美しい自然を守るため千歳山 3万坪を購入し洋館と和館を建てます。やがて千歳山は皇族、政治家、財界人、陶芸家が訪れる文化サロンとなり、現在は川喜田家の蒐集品や半泥子の作品を収蔵・展示する石水博物館が所在しています。博物館のルーツは半泥子が私費 50万円を投じて昭和 5年に設立した財団法人石水会館です。戦前の石水会館は 3階建ての公会堂や旧川喜田邸、テニスコートなどを備えた総合文化施設で、展覧会や演劇、音楽会、講演会、小児健康診断、京都から講師を招いた茶道、華道教室が開かれました。岩崎家が静嘉堂文庫を財団法人化する際の参考にしたとも伝わります。 尋常中学時代の半泥子。津で初めて自転車に乗り、カメラを趣味にしていました。 明治11年(1878)、江戸時代から続く三重県有数の木綿問屋川喜田家に生まれた川喜田善太郎は、わずか1歳で父親久太夫政豊を亡くし、川喜田家16代久太夫政令となります。尋常中学で藤島武二に絵を習い、カメラを趣味にした川喜田少年は、40歳のころ内田魯庵、泉鏡花、鏑木清方、岡田三郎助達が参加した「集古会」の会員になると旧家に残る桃山時代の名品を見てまわり、それが川喜田家伝来の品々に目を向けるきっかけとなりました。昭和 5年には千歳山に書物約2万点と数万点にも及ぶ商業文書、重要美術品 22点を含む美術品を収蔵するための「千歳文庫」(右)を建てます。エレベーターを備えた鉄筋コンクリート4階建てで、平成 21年には耐震改修工事が行われ築 95年を経た現在も収蔵庫として活用されています。 歌川広重の「東都大伝馬街繁栄之図」。大伝馬町(日本橋本町 3丁目付近)に並ぶ、木綿問屋や紙問屋などの 7割は伊勢商人でした。太鼓幕には川喜田家の屋号も見えます。 ▲ 祇園祭礼図 伝 長谷川久蔵(桃山時代) ▲ 半泥子筆・久田宗也賛「三聲生図」(さんろうせいず)昭和 16年半泥子と茶の湯の師である久田宗也、陶芸家初代小西平内の 3人で、「音曲」について語り合う様子を半泥子が描いています。 ▼ 千利休書状 古田織部宛 利休自身が「音曲」を絶賛した自筆の書状です。 展示の目玉のひとつ千利休 竹一重切花入 銘「音曲」は、利休が豊臣秀吉の小田原攻めに随行した際、伊豆韮山の竹でつくった 3つの花入のうちのひとつで、蒲生氏郷から藤堂家へと伝わり、明治 4年川喜田家に下賜されました。当時の当主 14代 川喜田久太夫 政明(石水)は、江戸の人気歌人 井上文雄に学び、幕末に流行した本草学(博物学)に造詣が深く、北海道の名付け親松浦武四郎の幼馴染で様々な情報をやりとりしました。茶道では表千家10代吸江斎の直門となっています。半泥子は祖母から聞いた14代の功績を敬いました。ちなみに石水会館の名は祖父の号と同様に、会館のそばを流れる岩田川の美称からとったと言われます。川喜田家が江戸に木綿の店を開いたのは1626年頃と考えられています。伊勢国の津や松坂に本拠を置く商人は「江戸店持ちの伊勢商人」といわれ、江戸の店を優秀な番頭に任せ、主人は地元に居て江戸からの報告を受け的確な指示を出しつつ、商人仲間や文化人たちと俳諧、和歌、茶の湯の集まりをひらいて情報交換を行うサロン文化を築いていました。そのなかで豊臣秀吉の書状や樂家 道入の黒茶碗 銘「むらくも」など、川喜田家にも数々の名品が集まるようになります。 昭和 11年、半泥子は紺野浦ニ(こんのうらじ)というペンネームで、川喜田家はじめ江戸で活躍した伊勢商人の記録をまとめた『大伝馬町』を出版します。祖父・石水も、歌人として生きた 9代爾然斎(じねんさい)および 10代潭空(たんくう)を顕彰し、歌集「爾然斎玄無法師家集」や「涌蓮大徳和歌短冊帖」を刊行しました。爾然斎(1685〜 1755)と潭空(1709〜 91)は早くに隠居して京都嵯峨に隠棲しながら京都歌壇で活躍し公家とも交流しました。半泥子にはこうした川喜田家の探究心と風雅の血が流れています。※『大伝馬町』は展示されていません。 竹川竹斎の射和萬古 江戸時代を代表する茶人松江藩主松平不昧の所持と伝わる宇治産の茶臼です。射和(いざわ)村(現在の松阪市射和町)の豪商竹川竹斎から川喜田家14代石水に贈られたもので、箱には竹斎が「かたみに参らす」と書いています。竹斎は江戸の両替商竹川家 7代当主で、蔵書1万数千冊を地域に開放した図書館である「射和文庫」を創設し、明治になると伊勢茶の栽培を推奨して輸出事業にも挑みました。勝海舟とも親しくその活動を支え、また萬古焼を復興した「射和萬古」を手掛けました。石水に嫁いだ竹斎の妹 政に育てられた半泥子は、 祖母から聞く竹斎の業績に強い影響を受けています。 射和萬古寿老人香合 (江戸後期)竹川竹斎は萬古焼の始祖沼波弄山の手法を継ぎ、自邸の窯で萬古焼復興を試みました。多彩な色使いで、顔の表情は非常に精細です。 津の商人たちは表千家とのつながりが深く、川喜田家の当主たちも表千家宗匠の指導をうけ、取り交わした書状や許状類も展示されています。江戸後期になると関西では煎茶が流行し、さらに明治の前期には最大のパトロンであった大名や武士階層を失った茶道界にとって、川喜田家はじめ地方の商人が支えとなったと龍泉寺さん。14代石水が千家十職に特注した茶箱は、8代中川浄益 (湯沸)、樂家 11代慶入(茶碗・茶巾入)、11代 飛来一閑(茶器)、8代 黒田正玄(茶杓)、6代 土田友湖(袋)、11代 駒沢利斎(箱)と贅沢な顔ぶれ。こうした道具を発注して、千家の職方を支援したのです。 憧れの光悦 半泥子は江戸時代前期の芸術家、本阿弥光悦を目指しました。刀剣鑑定の家に生まれながら、書、陶芸、漆芸など多くの作品を遺した光悦に自分の姿を重ねたのかもしれません。光悦は徳川家康から拝領した京都鷹峯(たかがみね)に芸術家や職人を集めます。やがて半泥子も同じ夢を抱くようになりました。 伝 本阿弥光悦 赤茶碗 銘 「松韻」江戸時代前期「松韻」の銘は半泥子の茶の湯の師11代久田宗也による。 半泥子は朝鮮で焼かれた高麗茶碗のルーツをさぐるため、昭和 12年、朝鮮半島ムアン郡の荷苗里で登り窯の廃窯を築き直し、ろくろを使って現地の荒土で茶碗をひきました。手が痛くなるような砂混じりの土で茶碗、小壺、鉢を100個以上つくり、登り窯で素焼き、本焼きをして、12日間も電気のない宿直小屋で過ごし古窯の発掘調査も行っています。そこで得た成果は、陶芸雑誌『焼きもの趣味』の 32頁にわたる「朝鮮窯たきの記」にまとめられました。こうした研究に熱中する一方で半泥子は、夫や息子を戦争に出した家族の慰問行脚をはじめ、3000軒もの家族を訪ね慰問金を届けています。半泥子は先代にならい、表千家の重鎮11代久田宗也から月に1度の出稽古をうけ、台子の点前まで習得しています。その一方、近所の農家を茶室に呼んでテニスウェアで茶を点てることもありました。下の掛け軸は昭和 17年、京都府知事安藤狂四郎(元三重県知事)の招きで三千家の宗匠が揃った茶席に招かれた際に、表千家 13代即中斎、裏千家 14代 淡々斎、武者小路千 9代 愈好斎が一文字づつ筆をとった貴重な「雪月花」の書です。 乾山の研究本阿弥光悦たちの琳派を継承した尾形乾山(けんざん)についても半泥子は大きな関心をもち、昭和 16年には池田成彬(三井財閥総帥・日銀総裁・大蔵大臣)から乾山直筆の秘伝書『 陶工必用 』を借りて写真撮影し、その筆跡を自ら筆写すると、その書に魅了されます。ついで京都の法蔵寺境内で乾山の窯跡を調査して、大量のサヤや窯の壁の破片、寿老人の顔の破片、建水、鉢、茶碗の蓋、向付の皿など様々な陶片を発掘しました。これらの調査を元に半泥子は「乾山陶場の図」を描いています。 尾形乾山 色絵草花文鉋目皿(江戸中期)それぞれに牡丹、百合、萩、立葵、蔦が描かれています。絵付は兄・光琳が手掛けることもありました。 半泥子は後日、窯跡の第一発見者である春日純精青年を訪ね、その人柄や発掘品に感動しています。調査を元に書かれた昭和 18年刊行の『乾山考』は、乾山研究の古典的名著です。尾形乾山は兄・光琳と共に京の呉服商「雁金屋」に生まれ、本阿弥光悦の遠縁にあたります。莫大な遺産を相続しながら、芸術の道を選んだ生き方に半泥子は共感を得たようです。こうした学究の血は半泥子の子にも継がれ地理・文化人類学者 川喜田二郎が編み出した「KJ法」は、調査・研究成果の情報整理や発想の手法として企業人にも活用されています。 ※『乾山考』は展示されていません。半泥子の茶碗( 半ば泥みて、半ば泥まず )半泥子は 38歳の頃、千歳山に大江新太郎設計による洋館や書院作りの和館を建てました。和館には、東伏見宮が宿泊し、以降、皇族や財界人が伊勢参宮の際に立ち寄るようになります。この頃から半泥子は千歳山の土を使った楽焼を手掛けるようになり、48歳のとき千歳山に石炭式の両口倒焔式窯を築き、初めてろくろを使った作品「初音」をひきます。以来、84年の生涯で焼いた茶碗は 3万点を超えるといわれます。 半泥子の代表作 粉引茶碗 銘「雪の曙」(昭和 10年代)。指の跡や切れた口縁をそのまま残して景色とするところに、自らを「無茶法師」と称した半泥子の魅力があります。 半泥子 灰釉縮れ水指(昭和 23年) 古伊賀水指銘「鬼の首」は、京都の美術商土橋玄庵に半泥子が懇願して手に入れた逸品。一方、半泥子の作品「灰釉縮れ水指」は鬼の首に習いながらも、灰釉がはがれて素地がむき出しになっています。半泥子は歴史的な作品に学びながら約束事に縛られず、新たな境地を切り拓きました。半泥子の特徴のひとつは、日本だけでなく朝鮮、中国、米国など様々な地域の土を使ったことです。カラフト、米国コロラドスプリングス、中国長城、朝鮮半島荷苗里、ベトナムサイゴンなど各国の土を試し、身近な千歳山や津市内、伊賀、鈴鹿、伊勢外宮の土も使っています。 半泥子は「山から採ったままをザッと使う方が面白味がある」といい、自然味のある土を好みました。また備前、萩、唐津、信楽、瀬戸、美濃などの産地を訪ね、陶芸家と交流し、窯の構造や釉薬、焼成などを研究して、昭和 8年には登り窯とろくろ場「泥仏堂」を築きました。さらに翌年、自らの設計で千歳山に 3室の登り窯をつくります。半泥子はひとつの碗に、異なる土や釉薬を使ったり、陶片をはめた碗を好んで作りました。片身替茶碗銘「寝物語」(左上)は、美濃塩川の土と千歳山の土を左右で合わせた茶碗です。「寝物語」とは近江と美濃の国境に隣接した旅籠同士で、隣国の人と寝ながら話した逸話から来ています。呼継茶碗銘「ねこなんちゅ」(右上)は、荒川豊蔵の窯場付近で発見した古瀬戸の陶片に、千歳山の土を継ぎ足して焼いた「珍 ワン」。犬ではなく猫に見せたら何と呼ぶか、という所から「ねこなんちゅ」と名付けられました。呼継茶碗銘「いざよい」(左下)は、茶溜まりに釉切れを起こし、口も欠けるなど普通は失敗作とされますが、別の陶片を金継することで見事に生かしています。片身替茶碗銘「布袋和尚」(右下)は、左右で別々の表情をもつさまが布袋を思わせます。戦禍を共にくぐり抜け、半泥子が愛用した茶碗です。 織部 IHS茶入 (桃山時代) 古田織部が所持したと伝わる古伊賀水指の名品「破袋」を写した半泥子の「慾袋(よくぶくろ)」。昭和 15年 3月に旧津藩主の藤堂家で「破袋」を拝見した半泥子は翌月から写しの制作にかかり、3点できたうち1点を俳句の師である桑名の梶島一藻に、1点を備前焼の名工金重陶陽に贈ります。残り1点「慾袋」は裂け目を漆で継ぎ、金で青海波を描かせました。当時は「破袋」が重要文化財に指定される前で、半泥子は織部の自由な作風にいち早く注目していました。 黒織部茶碗 銘「暫(しばらく)」(桃山〜江戸初期) 桃山時代に古田織部が指導した織部焼には南蛮風のデザインがよく見られます。織部 IHS茶入はイエズス会の紋章「IHS」(イエス・キリストを表す)を彫った茶入です。黒織部茶碗銘「暫(しばらく)」の柄は、歌舞伎十八番「暫」の三升文に似ています。 半泥子は千利休「音曲」に学んだ竹一重切花入をいくつも 半泥子 志野茶碗 銘「不動」(昭和 10年代) 作っています。下は銘「瀧つせ」(昭和 10〜 20年代)。 戦争が激しさを増す昭和 10年代。半泥子は海軍に千歳山の洋館や飛行機、高射砲を寄付し、国の方針に従い預金倍増に奔走する一方、作陶への熱意はより高まり「百わん造れば百の悟り、千わん造れば千の悟り」といった境地に至ります。朝起きるとろくろに向かい、10時頃銀行に行き、帰宅後はネクタイのまま作陶し、仕事の相談をろくろ場で受けることもあったようです。左上の志野茶碗は長女の嫁ぎ先である松山で空襲に遭い、2度焼きされて引き締まった姿から「不動」と名付けられました。右上の高麗手茶碗 銘「雅茶子」は高台が象の脚のようで、戦後復興のシンボルとなった象の花子(ガチャコ)から付けられました。この本歌は現在荏原畠山美術館蔵となっている割高台茶碗と考えられ、古田織部が所持した大名物を半泥子はある入札会で見ています。貴重な茶碗や道具を自分なりの解釈で作ってしまうのも、半泥子流かも知れません。 半泥子 志野茶碗 銘「大さび」(昭和 20年代) 半泥子はろくろをひくことについて「急所にだけ力を入れ、そのほかは力を抜く。茶碗なら、まず高台をしっかりとしめる。ここが扇でいえば要にあたる。次に腰を張らせて十分に力を持たせる。それから力を抜いて、胴を無心で仕上げる。飲み口に達したら、キューッと一呼吸あるべきだ。」と語っています。戦後、銀行の会長を辞した半泥子の作風は、ますます自由度を増していきました。志野茶碗 銘「大さび」は失敗作にも見えますが、半泥子の跡を継いだ愛弟子 坪島.平に贈られています。 3 ■ 全部で 久しぶりにヴァチカンで教皇選挙「コンクラーベ」 中世末から続く秘密めいた儀式に世界中が大注目。その結果、史上 初めてアメリカ人教皇レオ 世が誕生することに。ヴァチカンに大 きな変化が訪れることになりそうです。ところで、この「コンクラーベ」、その歴史を食文化史の視点からたどってみると、面白い世界が見えてきます。というのも、コンクラーベという制度が始まる過程で、「食」(枢機卿の食事)が果たした役割が、思いのほか重要なものだったからです。今回は、そのあたりのお話から、さらにルネサンス期の枢機卿たちの食世界について、お話してみたいと思います。 ■枢機卿とは カトリック教会の枢機卿という存在は、ルネサンス期以前から、 「世俗政治権力」との結び付きが強く、枢機卿はその多くが、欧州 列強の王家や有力大名家の出身者たちで占められていました。王侯貴族出身者で、家の爵位を継がない次三男が多かった。こうした貴族出身の枢機卿の中には、自身が鎧甲冑に身を包んで騎乗し、数千の軍勢を率いて、対イスラームや、反ヴァチカン勢力との戦に出陣した「騎士枢機卿」もしくは「軍人枢機卿」とでもいうべき荒武者 的な「聖職者」さえいました。もっとも、我が国でも比叡山の僧兵や、石山本願寺という戦闘的僧侶集団が知られていますから、似たようなものですね。欧州の中世末期からルネサンス期は、我が国の戦国時代と同様「戦の時代」です。それを思えば、それなりの闘争心なくしては、枢機卿の任は務まらなかった、ということだと思います。 年掛かったコンクラーベ こうした背景があったため、当 時の新教皇選びは、有力諸侯同士の「宗教の衣をまとった政治闘争の場」という色彩が濃く、一歩間違えば現実の戦の原因となりかねない、激しい駆け引きが行われるのが常だったようです。ゆえに、特別抜きん出た有力候補がいないと、なかなか決着が付かない。そ れが極端な段階にまで至ったのが、 1268年 北北西約 70 kの場所に位置するヴィテルボという町で開かれた新 教皇選挙です。なぜ選挙がローマで行われなかったのか。当時世俗権力(王権)との対立から教皇庁のローマでの活動が困難となり、教皇庁はローマからの移転を余儀なくされたのです。その結果、 1257年から 1281年までの間、このヴィテルボに教皇庁が置かれるという事態となっていたからです。応仁の乱直前の京都みたいだったのかもしれませんね。この時の選挙に集合した枢機卿は 人もしくは 人。たったこれだけです。それなのに、話が すんなりとは、まとまらなかった。イタリア派とフランス派さらには神聖ローマ帝国系の枢機卿たちが互いに譲らず、何日経っても決着が付かない。最終的に6人の枢機卿で構成される「新教皇選任会議」とでも呼ぶべき委員会をつくり、決定を一任することに。その 14 18 19 が開催されて、 ヴィテルボのローマ教皇宮殿。 月にローマから 12 結果、 1271年の月に至って、ようやく新教皇グレゴリオ世が選出されました。実に選挙が始まってから2年とヶ月後! いくら何でもこれはひどすぎます。 ■枢機卿を兵糧攻めに(食事制限) これほど頑固な枢機卿たちに腹を立てたのが、地元ヴィルテボの住人たちでした。枢機卿たちに決断を促すため /住民たちは様々な手段を取っていますが、その中で 9 一番効果があったのが「食事制限」だったと言われています。最終的に枢機卿たちには、「パンと水」以外は供給されなくなったのです。もし、当時の枢機卿たちが農民出身であれば、「毎日パンと水だけ」で「大いに結構」だったはず。なぜなら当時 10 の農民にとってパンは、ちょっとしたごちそうだったからです。しかし、貴族出身の枢機卿にとっては、そんな食事は絶対に我慢できない。おそらく、1週間目くらいで音を上げたのではないでしょうか。 このとんでもない枢機卿選挙への猛省から、ヴァチカン自身が新たに教皇選挙施行規則を定めます。その中で最も面白いのは、一定期間経っても決まらいないと、その時点から徐々に選挙人たる枢機卿たちに供給する食事を制限するという「食事制限の規則」です。ヴィテルボでの制限が正式に規則に組み込まれた形です。これすなわち、ヴィルテボでの制限が実際に効果があった、という何よりの証拠です。 10 ではなぜ、その程度の食事制限が、枢機卿たちに圧力として効果があったのか。それは、中世からルネサンス期にかけての枢機卿たちの日常が、王侯貴族顔負けの素晴らしいごちそうに満ち溢れた世界だったからです。 ■枢機卿主催による皇帝歓迎の宴 1536年4月、聖週間(四旬節中)のローマにおいて、神聖ローマ帝国皇帝カール 5世( Charles V / Karl V)のための重要な宴席が催されました。この訪問は、フランス王フランソワ 1世( Francis I) とカール 5世の間で争われたイタリア戦争( Italian War of 1536〜 1538)の最中という、政治的に緊張した時期に行われたもので、皇帝は 1536年4月5日に壮麗な行列を伴ってローマに入市しています。この宴席の主催者は、当代屈指の聖職者であり、法学者、教会外交官、そして改革者としても名高いロレンツォ・カンペッジョ枢機卿( Cardinal Lorenzo Campeggio 1474〜 1539)でした。イングランド王ヘンリー8世の離婚騒動でヴァチカン側を代表して交渉を担当したことでも知られています。神聖ローマ帝国皇帝を歓待するという大役は、カンペッジョ枢機卿がローマ教皇庁内で占めていた高い地位を物語っています。 この宴席の料理を担当したのは、ルネサンス期イタリアを代表する料理人、バルトロメオ・スカッピ( Bartolomeo Scappi 1500〜 1577)。彼はカンペッジョ枢機卿に仕えた後、複数の教皇の料理長を務めることになります。そのため、その死後出版されたスカッピの料理書『オペラ:料理術の作品』(Opera dell'arte del cucinare 1570)は、当時の教皇と枢機卿の食卓を知るための最重要史料となっています。本書の中に、この皇帝歓迎の宴の詳細が記されています。この宴席が行われたのは四旬節の期間中です。四旬節( Lent)とは復活祭(イースター)前の 40日間を意味します。この間キリストが荒野で断食と試練をくぐり抜けたとされることにちなみ、信者はこの期間中、肉食を避けることが求められる、という「肉食を避けるべき禁 ヴィテルボ教皇庁コンクラーベの間。 45 14 楽の演奏と共に行われ、進行上からは「全5場」、総計で200種の料理が準備されました36。その 2 0 0種は大別して、「クレデンツァ」から5コース、台所から7コースとなっています。キッチンは両者で別々です。では「クレデンツァからの料理」とは何か。現代の我々の基準で次の2種に分類できます。 ①果物・ナッツ・ビスケット・タルト等のデザート&お菓子類 ②暖める必要のない冷菜類(現代の立食宴席のビュフェの冷菜的料理)。 なお、ここで「場」という言葉を使用するのは、あくまでも私自身(大原)の独自の考えに基づきます。また、「クレデンツァ料理」「台所料理」という用語も同様に、日本語としては私自身の造語であること、ご了解下さい。 【宴席第1場】 [クレデンツァ料理コース 1/5]次のような菓子類を中心とした全種。ビスケット各種、マジパン各種、ひよこ豆のピューレ入りのプチタルト等 [台所料理コース 1/7]次のような料理を含む全種。ヤツメウナギのパイ包み、鯉のローストの冷製(砂糖&薔薇水かけ)、鱒(マス) のマリネー(マリネーソース及び砂糖添え) [台所料理コース 2 /7]魚のスープ、魚のシチュー(煮物)、魚のパイ、スパイシーな鱒のオーヴン焼き、スミレの花と香り米のパイ包み揚げ等。 [台所料理コース 3 /7] 軽い料理が数種出された。その後[クレデンツァ料理コース 2 /5]ここでは、果物、ナッツ類、果実のプリザーブ、ペイストリー類、最後にフレシュなフェネルで全種のデザートが用意された。 このデザートたる[クレデンツァ料理コース2]を食べ終えたところで、テーブルの上が一端すべて片付けられる。ここで本宴席の「序場」が終わり、ここから次の場「宴席第2場」へと移行する。[手洗いボウルとナプキン交換] 新たに手洗いのための薔薇水を満たしたボウルと、手拭き用の白いナプキンが持ち込まれ、卓上に並べられ、次の「第2場」が始まります。 もう十分でしょう。宴席「第1場」だけで、この凄さです。これが「5場」まで延々と続く。当時西欧の王侯クラスが特別なゲストを迎えて主催する宮廷宴席は、だいたいこんな感じだったとお考え下さい。では、なぜ、このような凄まじい宴席文化が誕生したのか。その背景にある、あれやこれやが面白いから、きょうも食の歴史を追い続けているわけです。欲的な期間」です。ところが、ルネサンス期には、本宴席のごとく、高位聖職者や王侯貴族の食卓では「作るのに手間のかかる贅沢で凝った魚料理の数々を楽しむ機会」となっていきます。たしかに肉は食べない、しかし…。 . ■宴席の概要 では、この「禁欲期間」に行われた皇帝歓迎の宴席で、実際どのような形で料理が準備されたのか、ご紹介しましょう。この「どこが禁欲?」そのものです。宴席は音 ヴァチカンの枢機卿たち。 20世紀を代表する住宅を、模型、写真、設計図、動画など、多角的な視点で紹介する「リビング・モダニティ 住まいの実験 1920s.1970s」が、6月 30日まで東京六本木の国立新美術館で開催中です。 ナンシーの家(1954)はフランスナンシー郊外の急勾配に、ジャン・プルーヴェが設計した自邸です。プルーヴェはアルミ家具やプレファブ住宅を製造するマクセヴィル工場の共同経営者でしたが、フランスアルミニウム公社との意見対立からその座を追われると、工場から回収した部材を利用して自邸を設計。崖の奥側に 27mの金属板ダブルフレームを立てて屋根を被せ、両側を石壁で塞ぎ、眺望の良い表側を全面ガラス張りにしています。この家の詳細図はなく、部材に合わせ現場で検討したと考えられています。 ルイス・カーン設計のフィッシャー邸。小さな森と小川に面した傾斜地に石を積み上げて地下室を作り、その上に 45度の角度で 2つの立方体を連結させ、吹き抜けの居間、食堂、台所などに工夫を凝らした大きな窓をあけることで、自然光や風、森の景色を存分に味わえる家としています。 ▲ 広瀬鎌二の究極的に細い鉄骨造住宅「SH-1」(1953)。▲ 菊竹清訓の自邸「スカイハウス」(1958)。 ▼ フランク・ゲーリー自邸はダッチコロニアル様式の住宅を増築。▼ 藤井厚二の名住宅「聴竹居」(1928)。詳細な模型が展示されています。 ▲土浦亀城の自邸はポーラ青山ビルに移築・公開されています(予約制)。土浦夫妻はフランク・ロイド・ライトに学び、この自邸ではドイツで考案された鉄骨造「トロッケンバウ」を木造に応用し、玄関から居間、ギャラリー、寝室へと半階ずつ上がるスキップフロアになっています。 三重県立美術館 三重県立美術は1982年に開館。設計は富家宏泰(富家建築事務所)です。京都を中心に2000棟以上を手掛け、京都の公的な建物の大半が富家による設計ともいわれています。 家具設計は剣持勇が担当し、代表作のひとつ「柏戸イス」が各所に置かれています。山形出身の名横綱「柏戸」にちなんだイスは、スギのムク材を大胆に使い、数十年の時を刻んでいます。 ▲ 元永定正 椅子(2002)▼ジャコモ マンズー ジュリアとミレトの乗った大きな一輪車(1973) 立命館大学の外壁に「泰山タイル」を使うなど、タイルづかいには定評があり、ここでも鮮やかな色彩のタイル画で空間を彩っています。2001年には坂倉建築研究所による前面増改築工事が行われ、柳原義達記念館が開館しました。 ▲ 八ツ木のぶ 象と人(異邦の夢)(2002) シャガールやキスリング、ミロ、ダリなどの作品のほか、三重県ゆかりの作家を紹介しています。中谷泰は松阪市に生まれ、いわさきちひろの師としても知られます。満州から帰国したちひろは中谷と出会い、絵のモデルにもなっています。終戦間際には一緒に満州へ渡ったこともあり、戦後も度々、仕事をともにしています。小林研三は1924年四日市に生まれ、桑名に移り住んで 18歳で二科展に入選。動物との暮らしのなかから生まれる温かな画風が特徴です。 曾我蕭白 奇想の絵師として話題をはくした 曾我蕭白(そが しょうはく)は、江戸中期に京都の商家に生まれ、10代で両親を失い絵師となりました。伊勢街道沿いの豪商や寺院に逗留しながら絵を描きました。「李白酔臥図屏風」は、月の下で眠る李白を描いたもので、三重県 伊賀市に伝来しています。 ▼韓信図屏風(1768〜1771頃) 心・体・思考の健康をデザインする とっておきの休み時間39時間目写真&文 大吉朋子 2025年 6月は「6」のエネルギーが流れます。「6」は心を表す数字。「心」「感情」「思い」「気持ち」「癒し」「美しいもの」「家」「ホーム」などを表します。 5月はアクティブに過ごした方も多いはず。連休もあって、いつもと違う時間が流れ、いろいろな変化を感じた方も多いのでは?そろそろ体の疲れが出てくる時期でもありますから、動き回ったら少しゆっくりしましょうね、というのが「6」の役割でもあります。“まったりした時間 ”というのがまさに「6」の雰囲気ですが、せわしなく物事が進んでいく今の世界では、「ゆっくり」や「まったり」した感覚はもっとも遠い場所にあるような気もします。だからこそ、この時期はゆったりと、自分の心を感じる時間を大切にしたいところです。 「心」には形がありませんから、まずは自分自身の心を丁寧に観察して取り扱ってみる。そのためには意識的に心を動かすことも必要かもしれません。美しいものを見たり感じたり、自然の中に身を置いてみたり、ふだんとは違う世界観に触れてみるなど。時に心の動きに目を向け過ごしてみたら、意外な感情や思いが生まれていることに気が付きます。喜怒哀楽、いい思いもそうでない思いも、日々さまざまな現象が生まれては消え、強いものは残ります。それらの思いは自分の中に閉じ込めすぎず、心を開いておくことが6月のポイントです。 どんなに優れた仕事だったとしても、心を感じない仕事は味気ない。もちろん淡々と、あえて気持ちを乗せずにやる事も実際には多くあり、忙しさの渦中にいれば「心」どころではないのも確かでしょう。それでも、そんな時だからこそ、自分の心を置き去りにしないという意識を、どうぞお忘れずに。 心を動かす 6月。 いそがしくはないのですが。 私はいくつか意識的に使わない言葉や表現がある。そのひとつが「いそがしい」という言葉。大人になるとごく自然に口にする、働く人にとってはごく当たり前の、ほぼ自動的に使われている言葉のひとつだと思うけれど、私にとってはずっと、なんとなくフィットしない。「忙しい?」と言われると返答に困ってしまう。社会人になってこれまで、自分から「忙しい」ということはほとんどない。過去に何回か「これが忙しいという状態か」と我を振り返ったことがあったものの、よほどの状態でなければ使わず、使わないよう意識しているともいえる。そうなった理由は明白で、「いそがしい」を漢字にすると“心を亡くす ”だと知ってから。学校で習った時、なんとこわい言葉だろうかとイヤな印象を持ったことが記憶にある。 私の父は今でいうバリバリの外資系金融ビジネスマンだった。子どもの頃は自分とはまったく違う世界に生きている人間だと思っていたが、80歳を過ぎてきた今は、障害がありながらも心穏やかに過ごしている。大人になってようやく色々な話をするようになったが、父の人生は壮絶で、51歳でリストラされた頃が大きな人生の岐路となり、母にとっても大変な時期だったという。自分たちの生活だけでなく、子どもは双子(わたしたち)。何をするにも同時に二人分が必要となり、お金も同時に二人分かかる状況。 父がリストラされたことはずっと後に知るわけだが、その頃、毎朝の父のルーティンが変わったことには気が付き、仕事が変わったのだとうっすら聞いた気がする。そして母の仕事ぶりがかなり変わり、それまで以上に家にいる時間が少なかったし、いつも必死に何かをやっている様子が伝わってきた。ただ、そんな時でも、父も母も、娘たちとの会話に愚痴らしきは一切なく、ただただ慌ただしく日々を過ごし、私たち双子姉妹もそれぞれ学校の課題に追われ、あれよあれよと時間は過ぎていた。社会人になった頃、あらためてその当時の話を聞く機会があった。父の人生が、仕事だけでなく生き方や思考も大きく変化した時期だったこと。そして母は、父の収入が減る分なんとか稼がなければと、カウンセリングの仕事を 3倍に増やし、毎日「今日はどこへ行くんだっけ?」と、駅のホームで行先がわからなくなるほど、とにかく毎日が必死だったという。当時は母と話すことも多くなく、それぞれが何を思って毎日過ごしていたのかなどわからない。いつも通りと思っていた毎日に、まさかそんな事情があったのかと強烈な驚きがあった。のんきに過ごしていた自分を振り返り、とても居心地が悪かったことを覚えている。それでも母は「忙しい」とは言わず、愚痴もなかった。今思えば、あまりにも時間に追われ、そんな言葉を発する余裕すらなかったのだろうと思う。 なりふり構わず必死に取り組んでいた父と母。その人たちが「忙しい」も言わなければ、自分が置かれている状況を愚痴ることもなかった。二人とも「忙しい」の真っ只中にいたと思うけれど、無我夢中すぎてそれどころでなかったのだと、私は自分の状況と重ね合わせてリアルに想像した。自分が同じ状況だとして、同じ振舞いができるとはとても思えなかった。我が両親ながらにすごい人たちだと、一生懸命生きることの強度みたいなものを感じた。 この一連の出来事は今の私に大きな影響を与え、言葉ひとつにも意味を理解して使うことを教えてくれたと思う。もち ろん若い頃はまったくなっていなかったけれど、年齢を重ねるごとに実感してくる。慌ただしく思う時、「本当に ”忙しい ”(心をなくしている)の?」と自分に確認したり、今の何かに文句をいう必要性を自問したり。 そんなわけで、よく「忙しい?」と聞かれてしまうのだけれど、正直「忙しい」ことはなく、かといってヒマなわけでもないため、私の返答はおそらく相手のテンポとあわない妙なものになっていると思われる。それでも相変わらず問われるたび、歯切れの悪い言葉を返しその場の会話をやりすごしている。みなさん、なぜ「忙しい」がお好きなんでしょうかね。 半泥子のひらいた仙鶴窯(旧廣永窯) 戦後、川喜田半泥子がひらいた廣永(ひろなが)窯は、今も仙鶴(せんがく)窯として作陶を続けています。廣永窯設立のきっかけは、千歳山の日本家屋を進駐軍に接収されたことでした。一家は隣の小さな家に暮らしますが、米兵の喧騒に悩まされます。そんななか半泥子は津市郊外の廣永に6畳と4畳半、台所という百姓家風の家を建て「鳴穂堂」(なるほどう)と名付け、会津八一が揮毫した「金殿玉楼」(黄金や珠玉で飾った御殿)の額を掲げました。昭和 21年には津市分部 長谷山の山麓に千歳山の登り窯を移し「廣永窯」をひらきます。 初霜やほうれん草の紅ほのと 半泥子 半泥子は自然に囲まれた桃源郷のような山中に、本阿弥光悦が京都鷹峯に築いた芸術村を夢見たのかもしれません。近隣の農作業に触れ七輪で魚を焼いて暮らす生活は、作陶に新たな境地を与えました。半泥子は俳句を桑名の梶島一藻に学び、俳句雑誌『かいつむり』の同人となり沢山の俳句や句画賛、絵巻物に廣永の風景を描いています。 2万坪の苑内には、廣永窯の運営を長年担った藤田等風によって半泥子ゆかりの建物が移築されました。週 3回、予約制の見学会が開かれています(詳しくはギャラリー仙鶴へ)。 山里茶席 千歳山から移築された茶室「山里茶席」は、半泥子自らが設計・建設にも関わった茶室です。半泥子は木下長嘯子の使った旗立石(左)を手に入れると、千歳山の藤堂高虎ゆかりの松の下に置きました。木下長嘯子は細川幽斎に和歌を学び、近世和歌の先駆者として知られます。昭和13年、茶の湯の師匠である久田宗也と、武者小路千家家元の愈好斎がやってきて旗立石を手水鉢にして茶室を作るようにすすめられます。半泥子は千歳山のスギやヒノキを伐り、方眼紙に自ら設計図を描きました。4畳の茶室に3畳の水屋をつなげたシンプルな間取りで、大工の前田勇と共に半泥子もノコギリやノミを使って建築に参加。物置から障子や戸を見つけ出し、それに合わせて窓が抜かれました。天井には知人からもらった新薬師寺のへぎ板を張り、斜め格子の障子は伏見城の遺物と言われます。落成間際には小田原の茶人横井夜雨から前年に亡くなった益田鈍翁による「山里」の書が届き、半泥子を感激させました。 茶室びらきには横井はじめ雑誌『焼きもの趣味』の鈴木知足堂などが招かれます。茶碗、掛軸、花入、茶杓などが半泥 子の作で揃えられ、懐石には為賀(いか)夫人と娘たちが摘んだ野草が供され、茶碗は各自で持ち帰ることが出来ました。『焼きもの趣味』に連載された半泥子の「泥仏堂日録」は人気を博し、半泥子の交遊範囲をひろげることになります。 掛軸には豊臣秀吉の書状、茶碗は武野紹鴎所有と伝わる井戸茶碗紅葉山、炭斗は6代久太夫が八丈島を救済した時に島民から贈られた糸取籠と、川喜田家の歴史を示す名品も使われました。翌年には表千家家元即中斎や久田宗也などを招いた茶会もひらかれています。半泥子の著作『乾山考』の反古が、腰張りに貼られました。 千歳山には佐藤栄作(首相)、渋沢敬三(大蔵大臣)、谷川徹三(哲学者)、五島慶太(東急)、田邉加多丸(小林一三の弟)、服部玄三(服部時計店)、畠山一清(荏原製作所)が訪れ、家族ぐるみのもてなしを受けました。田邉加多丸来訪の際は、兄の小林一三から「手つくりの茶碗の尻を撫でながら無茶人たちのムチャクチャかな」という句の電報が届きました。一三は日独伊三国同盟の親善大使として榛名丸でイタリアに向かう途中で、半泥子は「無茶人の轆轤あそびを榛名にて伊太利たったりの君をしぞ思ふ」と返しています。茶室と水屋を引違い戸で仕切る実用的な作り。水屋には小さな土間と板の間があり、屋根は丸太と竹で組まれています。 「東に魯山人あり、西に半泥子あり」と言った田邉加多丸は 2人を会わせたいと画策しますが折り合いがつかず、結局は半泥子が単身、北鎌倉を訪ねました。魯山人は半泥子を歓迎し一期一会の宴がひらかれます。2人は古い掛け軸や絵画、茶碗など様々なことを「アゴのだるくなるほど」語り合い、昔のいい焼物は自然の味がそのまま出ている。作品のよしあしは技術よりも人格のあらわれであり、昔からの約束や型にとらわれない心の自由があることを互いに確認しあいました。昭和 12年、半泥子は初めての個展「泥仏堂無茶法師作陶展」を、学芸書院のすすめでひらきました。場所は東京赤坂・星ヶ丘の山の茶屋。推薦者は裏千家 石川宗寂、表千家 久田宗也、画家 岡田三郎助・鏑木清方・小村雪岱、作家 久保田万太郎、里見.、水上瀧太郎丸といった錚々たる面々でした。半泥子は売上をすべて学芸書院に寄付し、生涯にわたり自作を売った利益をえる事はありませんでした。 泥仏堂 千歳山にあったろくろ場「泥仏堂」の名を引き継ぎ、長男・壮太郎から寄進されたお堂です。 お堂のご本尊は半泥子が作った陶製の像で、80代になった半泥子はご本尊に来客の出迎えをまかせ、厨子の扉には「把和遊(ハウアーユー)」「喊阿厳(カムアゲイン)」と書いています。掛軸は禅語「一黙雷如」(いちもくらいのごとし)。黙することの重みには雷のような威厳があるという意味です。天井には半泥子が「魁」の文字を描いていましたが、後に愛弟子 坪島土平が鳥(鳳)を描きました。半泥子が廣永窯をひらいたきっかけのひとつは後継者の育成でした。千歳山の時代に半泥子と荒川豊蔵、金重陶陽、三輪休雪(後の休和)が結成した「からひね会」(昭和 17年)は才能ある陶芸家が交流し切磋琢磨する場となり、それぞれが独自の作品世界を築いて荒川は志野、金重は備前、三輪は萩の人間国宝になりました。半泥子は戦後の近代陶芸のトップランナーを育成した人物としても注目されています。 秋晴れやおれはろくろのまわるまま 半泥子 窯場 仙鶴窯の登り窯は半泥子の愛弟子坪島.平により築窯され五日窯(いつかがま)と呼ばれます。坪島.平は大阪の生まれで、戦中は山梨の航空機乗員養成所でパイロットの訓練を受けましたが終戦となり、18歳のときに母の疎開先廣永で半泥子と出会い弟子となりました。坪島.平と共に弟子になった吉田耕三は日本画家速水御舟の甥にあたり廣永窯を辞してから魯山人の星岡窯に入りました。その後、東京国立近代美術館の創立時から日本画と工芸を担当し、そのコレクションに半泥子の作品「志野茶碗 銘 赤不動」を加えています。50年以上前から坪島.平のもとで作陶に取り組んできた下田正人さんが、かつて半泥子のろくろがあった場所を教えてくれました。窯場には半泥子の使った登り窯の一部も残されています。若き日の坪島.平と吉田耕三は毎晩のように半泥子が暮らす「鳴穂堂」に通い、古い茶道具を見たり、半泥子作品の中からどの茶碗がいいか聞かれるなど、茶碗を見る力を鍛えられたそうです。 仙鶴窯を継いだ藤村州二(本名:周司)さんは福岡県 上野焼の窯元に生まれ1989年から坪島.平に師事。州二の名は上野焼が遠州七窯のひとつである所から名付けられたそうです。 藤村州二さん作の刷毛目茶碗。廣永窯で、半泥子も多くの刷毛目茶碗を作っています。 今年、仙鶴窯に新人 3名が入りました。これからの窯を支える若者たちです。 冴えかへるろくろの土のひきのこり 半泥子 大切な土練り。坪島.平が半泥子にどれだけ土を練ればいいか聞くと「この土でろくろを挽いたら気持ちいいと思った加減がいい」と答えられたそうです。 坪島.平記念館(幽照館)は、その作品や再現された陶房を見ることができます。幽照とは「優勝」をもじった半泥子の言葉遊びで、優秀な支店には「幽照」の額を贈っていました。 坪島.平は書斎を「陶斎」と名付けて創作にはげみました。デスクの後ろには半泥子と同じタイプの手回しのろくろが据えられています。定期的に個展をひらき作品を購入したファンには絵手紙で感謝を伝えたり、後進を指導しながら染付や金彩など新しい手法を模索して、半泥子の没後も約 50年にわたり窯の火を守りました。 10代から半泥子を追い続けた坪島.平でしたが、半泥子の没後、窯を継続するためには茶碗中心の世界に踏みとどまることは許されないと感じたそうです。象嵌、赤絵、染付、金霧彩など独自の世界がひらけたと感じたのは 50歳の頃で、そのとき改めて半泥子の凄み、食器やぐい呑みでさえも、その作陶精神が生きていれば茶碗に劣らない品格と力、味のあるものが出来ることに気付かされます。「師から継いだのは形でもなく、技術でもない。やきものは人間の生き方という信念であり、何ものにもとらわれぬ自在自楽の心そのもの」と語っています。 坪島.平 金霧彩象嵌鳥扁平花器 窯場のギャラリー「仙鶴館」では、仙鶴窯で制作される様々な作品を購入できます。仙鶴は千客万来をもじっており、半泥子が気に入っていた名前です。半泥子の戒名「仙鶴院半泥自在居士」にも「仙鶴」が使われています。店内に看板に書かれた「まからんや」は、たばこ屋の依頼で作られたもの。値段をまけられませんという意味ですが、商売替えされたので引き取られたようです。 廣永の田舎屋「鳴穂堂 お徳庵」が移築されています。広縁に囲炉裏を設けた独特の間取りで、居間の天井は漆喰を塗り込んだ珍しいものです。居間の隣には茶室があります。 鳴穂堂 お徳庵の茶室。掛軸には「お前 百まで」、床板に使われているのは「まな板」とのこと。 天神様の祠には、菅原道真公が鎮座されています。川喜田家の替紋は菅原家と同じ「梅鉢紋」です。祠を守る狛犬は坪島.平作ですが、もとは半泥子作の狛犬が置かれていました。今は津市街フェニックス通りの「ギャラリー仙鶴」に展示されています。 ギャラリー仙鶴 株式会社ちとせが運営するフェニックス通りの「ギャラリー仙鶴」は、半泥子の作品を展示するほか、坪島.平はじめ仙鶴窯の作品を展示・販売しています。ギャラリーの入口には、かつて仙鶴窯の天神様に据えられていた狛犬が鎮座していました。窯の焼成中、棚板が落ちて狛犬の頭にのり、口が閉じて「あ」が「うん」の形になっています。 椿を描いたステンドグラスは、長男・壮太郎と共に大正 12年、欧米を旅行した際の土産といわれます。自らは沢山の子どもに恵まれた半泥子ですが、本人は生まれて間もなく祖父や父を失い、母とも別れ、祖母政(竹川竹斎の妹)に育てられました。大勢の手代や女中に囲まれながらも孤独を感じていた孫の将来を案じ、祖母政は、津で初めての自転車や、家一軒分もしたカメラをはじめ、茶道、洋画、日本画、書、俳句など半泥子に多彩な趣味をすすめました。 祖母は孫の将来を憂い、半泥子 21歳のとき「政子遺訓」 を渡しました。不憫に思うあまり我儘に育ててしまったことへの詫びからはじまり、人から褒められても天狗にならず、立派に育って欲しいという願いが綴られています。その最後には「己を誉むるものは悪魔と思うべし。我を誹るものは善知識と思うべし。只何事も我を忘れたるが第一也」とあり、半泥子の人生哲学の基盤となりました。祖母は半泥子 27歳の時に亡くなりますが、その後、祖母を祀る霊廚 「紅梅閣」を千歳山に建てています。 半泥子 粉引茶碗 銘「お徳庵」 ▼半泥子の自画像。ろくろをひく姿を描いています。 戦後、千歳山の邸宅を米軍に接収された半泥子は、この茶碗銘「城代」(別名アメリカの留守番)を見張として邸宅に残しました。別名「アメリカの留守番」ともいわれます。半泥子は自ら設計した家をいくつも建て、東京一番町に建てた長男・川喜田壮太郎の和館は、五所平之助監督の映画セットに使われ田中絹代、上原謙、佐分利信などが訪れたそうです。壮太郎は日本銀行から百五銀行に移り頭取となりますが、アマチュア映画作家としても知られ、半泥子の作陶シーンや千歳山の暮らしを撮影した貴重なフィルムを残しました。禅との出会いが人生を変えたと半泥子は回想しています。30歳の頃、東京駒込の不動軒 勝峯大徹禅師(元京都南禅寺管守)に参禅し「内観法」を授かりました。その実践によって、楽観的で、思うことを恐れず言うようになり、思いきり泣き、腹の底から笑う、よく眠り、からだは堅く太ってきたと、銀行経営者にふさわしい人格への変化がありました。半泥子という号は 36歳の頃に京都大徳寺黄梅院の金陵好清和和尚からすすめられたもので「半ば泥みて、半ば泥まず」(没頭することは良いが、半分は冷静でいる)という教えから来ています。陶芸と銀行経営を両輪とした生涯を占っているようです。 半泥子 呉須赤絵茶碗 銘「龍田川」 坪島.平 染付吹墨蟹文輪花皿 坪島.平は、半泥子からは絵付について、上手な絵を描く必要はない。焼きものの空間にぴたっと入っている絵がいい。絵が焼きものの邪魔をしてはいけないと教えられたそうです。何回も下絵を描き、迷わずに描けるようになってから絵付を始めると語っています。 るんだよ !!! 青葉繁るる五月。お花見、連休と立て続く恒例行事を終え、ホッ ト一息。。皆さん、そろそろ今年前半のお疲れが出る頃ではありませんか?一年を通し一番過ごしやすい時期だからこそ、気も緩みがちにな るのよね〜 都心駅周辺での混雑ぶりはいまだかつてないほど。外国の方々もコロナ以降どんどん増加する一方。だからってこのままの状態でいいとは誰も思ってないよね。 南風吹く午後三時からの都心上空では、大型旅客機が超低空飛行で道行く人々の頭上をひっきりなしに三時間以上もの間飛び交って しかも六年に渡ってよ。最近の飛行においては益々低く その 60 青山かすみ ▲タピオ・ヴィルカラと陶芸作家の妻ルート・ブリュック。 ▼ヘルシンキのオフィスの扉。 フィンランドを代表するデザイナー タピオ・ヴィルカラの日本初回顧展が、東京ステーションギャラリー(東京駅)で、6月15日までひらかれています。ヴィルカラはイッタラ社のガラス製品が有名ですが、本展覧会では、磁器、照明器具、木のオブジェ、カトラリーなど多彩な作品を展示するとともに、ラップランドの静寂のなかで数々のデザインが生み出されていく様子を紹介しています。 ▲ リズミック プライウッド「ピュッレ/渦巻」(1954)▲「マドンナ」(1950)はマリアとキリスト像を彫刻しています。▼ リズミック プライウッド「孔雀の羽」(1970年代末)▼ 「エルク」(1948)は、銅盤ガラス彫刻による作品です。 ヴィルカラの代表作といえる「カンタレッリ」(1946)は、アンズタケの姿をモチーフにしています。成型合板の木を削り出した「リズミックプライウッド」は、木の断層が滑らかなフォルムを強調しています。 ▲ ケチャップ・ボトルのボトル(1960年代)▲ ヴィルカラからが愛用したハックマン社製のプーッコ(ナイフ) ▲ コンポジション(ローゼンタール製)、ホペアシーピ(クルタケスクス製) ▼ シーリングランプ idman社(1960)▼ ラップランド イナリの家でグラファイト鋳型を削るヴィルカラ ▼砂時計(1960年代) 【 Webマガジン コラージは、オフィシャルサポーターの提供でお届けしています 】