Colla:J コラージ 時空に描く美意識

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5月といえば新茶の季節。国内有数の茶どころ牧ノ原台地には、まるで緑の絨毯を敷きつめたような茶畑が広がっていました。大井川の西部、静岡県・島田市から菊川市、牧ノ原市、御前崎市まで、南北25km・東西8kmにまたがる広大な牧ノ原台地には、約5000ヘクタールの茶畑があり日本一の生産量を誇っています。 牧ノ原の茶畑の歴史は明治のはじめ頃からと、静岡県のなかでも新しい産地です。畑のできない荒れ地だった台地を茶畑に変えたのは、明治維新に翻弄されたエリート武士たちでした。 慶応3年(1867)最後の将軍・徳川慶喜は、大政奉還により駿府(静岡)に移りました。近衛兵を勤めてきたエリート武士達も同行し「新番組」となりますが、明治維新によって失職し生活の道を絶たれてしまいました。そこで明治2年(1869)新番組隊長であった中條景昭は、牧之原台地における茶畑開墾の許可を得て資金などを調達します。その頃全国で士族救済のための「士族授産」事業が進められ、士族による農地の開墾が試みられますが「武士から農民になる」ことに成功したのはごく一部でした。そのなかで中条達は深刻な水不足や荒れ地との闘いに粘り強く立ち向かい、明治6年には茶の収穫に成功します。そこには身分を取り払った中条の卓越した統率力があり、士族授産事業で最も成功した例ともいわれています。 渡船や橋が禁止され「越すに越されぬ」と詠われた大井川ですが、明治維新により大量の川越人足(川を渡るための人足)が失職しました。その救済に尽力した仲田源蔵により、沢山の川越人足達も開墾に加わりました 牧ノ原市の観光茶園「グリンピア牧之原」では、春から秋にかけて、茶摘みを体験できます。上から4枚目の茶葉(一芯三葉)の下をポキンと折るようにと教えてもらいました(「折り摘み」といいます)。 明治期の日本にとって生糸と並んで「煎茶」は重要な輸出品で、主な輸出先はアメリカでした。「ボストン茶会事件」の影響もありアメリカでは紅茶は好まれず、コーヒーの他は緑茶がよく飲まれていました。日本の煎茶は横浜や清水港から送られ、牧ノ原台地の茶畑も輸出に支えられていました。実は一般の日本人は煎茶を飲む習慣があまりなく、天日乾燥の茶葉や薬草を煮出して飲んでいたようです。煎茶が当たり前の飲み物となったのは、意外にもアメリカのおかげだったかもしれません。 茶畑の所々が茶色く見えるのは、樹高50cmほどの高さまで刈り落とす「中切り」を行った所です。数年に1度切ることで、機械で刈りやすく整えると共に茶木の健康を保つのです。 お茶を製造法で分類すると「発酵茶」「半発酵茶」「不発酵茶」があります。摘み取った茶葉は急速に酸化発酵をはじめます。それを完全に進行させるのが発酵茶で、その代表は紅茶です。 半発酵茶は醗酵の途中で加熱して止めます。ウーロン茶などが半発酵茶です。不発酵茶は醗酵させずに加熱するもので、釜で茶葉を炒る「釜炒り製」(中国や台湾の緑茶に多い)と茶葉を蒸す「蒸し製」があります。日本茶は不醗酵茶の蒸し製で、牧ノ原や掛川、菊川などでは、蒸す時間を長くした「深蒸し」が有名です。よく蒸すことで苦みがとれ、濃くまろやかな味になります。このように世界には様々なお茶がありますが、元々の茶木は全てツバキ科の植物でほぼ同じ木といえます。 【 茶畑を歩くと相良(さがら)町の三角点を見つけました。牧ノ原市は2005年に榛原町と相良町が合併し誕生しました。相良町には田沼意次がおさめていた相良城がありました 】 【 遠州七不思議のひとつに数えられる「子生まれ石」。河原の崖から球や繭の形をした石が生まれるように落ちてくることから、子宝を授かるようにと祈る人が絶えません 】 茶畑のなかに立つ赤い櫓(やぐら)は「相良油田石油坑」です。太平洋岸側で唯一石油を産出した場所で、近代化産業遺産にも指定されています。最盛期の明治17年には721kl(ドラム缶約3600本)を産出し、油井240坑、従業員600人に及び、油井を試削した跡が今もあちこちにあるそうです。昭和30年頃まで産出は続き、現在はこの機械掘井戸だけがのこされ、イベントなどにあわせて石油の汲み上げが行われています。 石油坑のそばに「手掘り井戸」の小屋が復元されています。最盛期にはこの小屋があちこちに並んでいました。中には人が入って掘っていった井戸と、大きな踏鞴(たたら)があります。穴は数10mから200m近くまで掘られ大変危険な作業だったようです。井戸の中には石油性ガスが溜まるため、酸欠にならないよう数人で踏鞴を踏みパイプで空気を送ったのです。牧ノ原台地周辺の「相良層」は泥岩と砂岩が折り重なった第三紀中新世に堆積した岩盤で、石油は砂岩の層から出るそうです。相良層は御前崎市にある中部電力浜岡原子力発電所の基礎岩盤ともなっています。 相良油田の石油は赤褐色に透きとおる、世界でもまれにみる良質な油でした。製油しなくてもランプや発動機に使えるため、近所の農家は米などを石油にかえ使ったそうです お忙しそうですね、すこしお疲れですか。ひと休みして話を聞いていきませんか。私は「話の星屑屋」です。遠い異国でその昔、暖炉の炎を前にして、食卓囲んで飛び交う話の数々。そんな話って、その場で消えちゃうと思うでしょ。ところがこれが、長い年月経るうちに、いつか空に昇って星屑になる。そして毎年七夕(たなばた)に近い夏のある晩、夜空一杯に散らばって、無数の光をキラキラと放ちながら銀河の果てに舞い散っていく。こいつをね、星籠を背負って拾い集めて歩いています。するとたまに酔狂なお方から声が掛ります、「星の話を聞かせてくれ」と。で、こんな場所をお借りして、星籠の中から物語を取り出して、皆様にお聞かせするってわけです。きょうの話は「海亀のスープ」。そんな料理は聞いたことがない? この贅沢な料理を知らないなんて。まあ、私の話を聞いて下さい。そしたら、きっとこれから、いいこともありますよ。 『バベットの晩餐会』という映画、ご存知ですか。日本でも20数年前に公開されて話題になりました。舞台は、19世紀末ノルウェイ、海辺の寒村。主人公はバベットいう名の、ちょっと疲れたフランス人の中年女。彼女はパリの騒乱を逃れて、わずかなつてを頼って身ひとつで村にやってくる。そこで頼み込んで牧師館の女中として働かせてもらうことで、なんとか暮らしを立てていく。こうして何年かを経た後バベットは、フランスで買ってもらった宝くじに当選、しかも賞金はパリに戻って遊んで暮らすに充分な金額。なのに、そのお金をすべて使って、お世話になった村人たちを招いて感謝の宴を開こうと心に決める。バベットは実は、パリの超一流レストラン「カフェ・アングレ(英国亭)」でシェフを務めていたという経歴を秘めている。なので、この宴のために「これぞ本物のフランス料理!」という、凝りに凝った料理とワインから成る驚くべきメニューを考え出します、「心からの恩返し」として。 超一流のレストラン「カフェ・アングレ」(当時実在の店)のシェフだったという凄い女性が、自分のそれまでの人生をすべて賭けるという意気込みで催すこの宴。その冒頭を飾る料理、それが今回のテーマ「海亀のスープ」なのです。 日本でグルメを自称する人でも、海亀のスープとなると、実際に食べた経験のある人は、そう多くはないはず。でもこのお料理、英仏両国では19世紀後半以降しばらくの間、最も洗練されたグルメ料理を代表するメニューだったのです。それにしても、海亀を料理素材にするなんて、さすがはパリ。「フランス料理は凄い!」そう思ってしまうところですよね。ところが、このお料理、意外なことにフランス生まれじゃありません。その故郷は、英国の貴族社会です。実はイギリス貴族は昔から、かなりのグルメです。「料理がダメなはずのイギリス」で、なぜ「海亀のスープ」などという高級グルメ料理が誕生するのか。それがなぜフランス料理になっていくのか。ここに「フランス料理の秘密」を解く歴史の鍵が隠されています。これからの数回は、この素朴な疑問を解く歴史への旅となるはずです。 ところで、バベットほどの女性がなぜ花の都パリを去らねばならなかったのか。それは、「パリ・コミューン」(1871年)と呼ばれる革命運動のため、パリ市内が半内戦状態に陥るからです。超一流レストランが落ち着いて営業を続けることなど、到底困難な状況だった。だから、バベットはパリを逃げ出さざるを得なかったわけです。歴史物語「レ・ミゼラブル」のすぐ後の時代で、明治維新の3年後のことです。このパリ・コミューンという運動は、いわばフランス革命という大地震の「最後の余震」といっていい出来事で、これでひと区切りが付く。1789年のフランス革命に始まり、1871年のパリ・コミューンの騒乱鎮圧までの80年間、ナポレオンの興亡をはさんで、フランスの政治情勢は混乱が続きます。その結果フランス経済は国際社会の中で低迷を続け、技術革新の面でも特に英国に、大きく後れをとってしまう。 そして、このことは、フランスのグルメ料理の展開を考えるときに、とても重要なポイントになります。というのも、贅沢な料理文化が誕生するためには、食べることにお金を使うことを惜しまない、豊かなパトロンが必要だからです。革命後のフランスでは、この層が薄かった。それまで贅沢文化を支えてきた王様や多くの貴族がギロチンの露と消え、海外に逃亡した貴族も数知れない。では、いったい誰が革命後誕生した高級レストランのお客だったのか。それ以前に、当時のレストランとはどんなものだったのか。 次回に続きます。  卓上のきら星たち ☆くずの1 海亀のスープ   大原千晴(食文化ヒストリアン) お忙しそうですね、すこしお疲れですか。ひと休みして話を聞いていきませんか。私は「話の星屑屋」です。遠い異国でその昔、暖炉の炎を前にして、食卓囲んで飛び交う話の数々。そんな話って、その場で消えちゃうと思うでしょ。ところがこれが、長い年月経るうちに、いつか空に昇って星屑になる。そして毎年七夕(たなばた)に近い夏のある晩、夜空一杯に散らばって、無数の光をキラキラと放ちながら銀河の果てに舞い散っていく。こいつをね、星籠を背負って拾い集めて歩いています。するとたまに酔狂なお方から声が掛ります、「星の話を聞かせてくれ」と。で、こんな場所をお借りして、星籠の中から物語を取り出して、皆様にお聞かせするってわけです。きょうの話は「海亀のスープ」。そんな料理は聞いたことがない? この贅沢な料理を知らないなんて。まあ、私の話を聞いて下さい。そしたら、きっとこれから、いいこともありますよ。 『バベットの晩餐会』という映画、ご存知ですか。日本でも20数年前に公開されて話題になりました。舞台は、19世紀末ノルウェイ、海辺の寒村。主人公はバベットいう名の、ちょっと疲れたフランス人の中年女。彼女はパリの騒乱を逃れて、わずかなつてを頼って身ひとつで村にやってくる。そこで頼み込んで牧師館の女中として働かせてもらうことで、なんとか暮らしを立てていく。こうして何年かを経た後バベットは、フランスで買ってもらった宝くじに当選、しかも賞金はパリに戻って遊んで暮らすに充分な金額。なのに、そのお金をすべて使って、お世話になった村人たちを招いて感謝の宴を開こうと心に決める。バベットは実は、パリの超一流レストラン「カフェ・アングレ(英国亭)」でシェフを務めていたという経歴を秘めている。なので、この宴のために「これぞ本物のフランス料理!」という、凝りに凝った料理とワインから成る驚くべきメニューを考え出します、「心からの恩返し」として。 超一流のレストラン「カフェ・アングレ」(当時実在の店)のシェフだったという凄い女性が、自分のそれまでの人生をすべて賭けるという意気込みで催すこの宴。その冒頭を飾る料理、それが今回のテーマ「海亀のスープ」なのです。 日本でグルメを自称する人でも、海亀のスープとなると、実際に食べた経験のある人は、そう多くはないはず。でもこのお料理、英仏両国では19世紀後半以降しばらくの間、最も洗練されたグルメ料理を代表するメニューだったのです。それにしても、海亀を料理素材にするなんて、さすがはパリ。「フランス料理は凄い!」そう思ってしまうところですよね。ところが、このお料理、意外なことにフランス生まれじゃありません。その故郷は、英国の貴族社会です。実はイギリス貴族は昔から、かなりのグルメです。「料理がダメなはずのイギリス」で、なぜ「海亀のスープ」などという高級グルメ料理が誕生するのか。それがなぜフランス料理になっていくのか。ここに「フランス料理の秘密」を解く歴史の鍵が隠されています。これからの数回は、この素朴な疑問を解く歴史への旅となるはずです。 ところで、バベットほどの女性がなぜ花の都パリを去らねばならなかったのか。それは、「パリ・コミューン」(1871年)と呼ばれる革命運動のため、パリ市内が半内戦状態に陥るからです。超一流レストランが落ち着いて営業を続けることなど、到底困難な状況だった。だから、バベットはパリを逃げ出さざるを得なかったわけです。歴史物語「レ・ミゼラブル」のすぐ後の時代で、明治維新の3年後のことです。このパリ・コミューンという運動は、いわばフランス革命という大地震の「最後の余震」といっていい出来事で、これでひと区切りが付く。1789年のフランス革命に始まり、1871年のパリ・コミューンの騒乱鎮圧までの80年間、ナポレオンの興亡をはさんで、フランスの政治情勢は混乱が続きます。その結果フランス経済は国際社会の中で低迷を続け、技術革新の面でも特に英国に、大きく後れをとってしまう。 そして、このことは、フランスのグルメ料理の展開を考えるときに、とても重要なポイントになります。というのも、贅沢な料理文化が誕生するためには、食べることにお金を使うことを惜しまない、豊かなパトロンが必要だからです。革命後のフランスでは、この層が薄かった。それまで贅沢文化を支えてきた王様や多くの貴族がギロチンの露と消え、海外に逃亡した貴族も数知れない。では、いったい誰が革命後誕生した高級レストランのお客だったのか。それ以前に、当時のレストランとはどんなものだったのか。 次回に続きます。  資生堂企業資料館 新作パフューム「掛川グリーンティーオードパルファム ふじのくに」。資生堂と掛川商工会議所とのコラボレーションにより、掛川茶と茶花から香りをとった初めての香水です。 茶どころ掛川の資生堂掛川工場に隣接する「資生堂企業資料館」を訪ねました。 創業120年の記念事業として平成4年に誕生した「資生堂企業資料館」には、銀座に創業した明治5年(1872)からの貴重な史料が展示されています。資生堂の創業者・福原有信は、日本で初めて西洋医薬の調剤薬局を銀座に開店しました。有信は海軍病院薬局長にまでなった西洋医薬のエキスパートで「日本薬局方」(医薬品の品質規格書)の制定に尽力したり、日本初のビタミン剤といわれる「脚気丸」を海軍軍医総監・高木兼寛の新学説を元に開発したり、西洋医薬の質の向上と普及につとめました。 その一方で、薬局の一角に「ソ−ダ・ファウンテン」を開設。米国のドラッグストアにヒントを得たもので、色々な味のソーダ水とアイスクリームを販売しました。これが評判を呼び「資生堂パーラー」のルーツとなったのです。 有信の後をつぎ資生堂初代社長となった福原信三は、明治41年(1908)米国コロンビア大学医学部に留学し、ニューヨークの化粧品会社などでヘアトニックなど最新の化粧品を学びます。その後ヨーロッパへ渡り、ニューヨークで知り合った画家・川島理一郎とのつながりで、藤田嗣治(レオナール・フジタ)や梅原龍三郎などとの親交を深めます。大正4年(1915)には事業の主体を化粧品に移し、翌年「資生堂意匠部」を発足。当時の写真には信三と共に、川島理一郎、水木京太(劇作家)、小村雪岱(日本画)など、日本の近代芸術を支えた人々が写っています。 第一次世界大戦後の経済恐慌のなか、大正9年の広告で信三は『私達は今 景気不景気を考へるより、流行を考へねばならぬ立場にあります そうしてどうにかして何か新しいものを生み出して流行界に多少の貢献をしたいと思って居ります』と宣言します。この決意は今も資生堂に息づいているそうです。 昭和3年(1928)「資生堂パーラー」が誕生し、最先端モードの中心としてモボ・モガや文化人の集うサロンとなりました。当時の化粧品業界は「東のレート、西のクラブ」といわれる2大メーカーが席捲し、資生堂は化粧品よりパーラーのイメージが強かったそうです。併設の「陳列場」は輸入小物の展示とともに、若手芸術家のギャラリーとして無償提供されました(資生堂ギャラリーの前身)。また美容科・美髪科・子供服科の「3科」も開設し、福原信三の提唱した「ものごとはすべてリッチでなければならない」を具現化する場所となりました。企業文化誌「花椿」の前身となる「資生堂月報」や「御婦人手帖」には、パリのモードから住宅の間取りまで生活全般の最新情報が掲載され、ライフスタイル提案型企業としてのルーツを見られます。 昭和9年(1934)、地下鉄の銀座駅が開業した年に「ミス・シセイドウ」第一期生9名が誕生します。7カ月に及ぶ厳しい訓練を受けた彼女たちは、全国で「近代美容劇」を上演し、来場者に美容のアドバイスを行いました。これは美容部員のルーツといわれています。 昭和12年(1937)、全国のチェインストア展開を契機に「花椿会」が結成されます。会員には企業文化誌「花椿」の購読や美容講習会、講演会などのサービスが提供され、「花椿ポイント帖」のポイントを貯めると記念品をもらえました。山名文夫デザインの西陣織ハンドバックや、後の人間国宝・富本憲吉が1万5千個も作ったといわれる七宝焼の帯留めなど、プレミアムのつく本物の工芸品を提供していました。 昭和7年(1932)に誕生したおなじみ「ドルックス」は、はじめ最高級品化粧品としてデビューしました。山名文夫による「唐草模様」は資生堂ブランドを象徴するものになりましたが、すでに大正時代から資生堂の広告やパッケージには唐草模様がよく使われています。アールヌーヴォーの優美さとアールデコの軽快さを融合したデザインは、独自の「資生堂スタイル」を生みだしました。 また印象的な「資生堂書体」は、代々のデザイナーにより洗練され山名文夫によって確立されました。資生堂の新人デザイナーは、今も資生堂文字のレタリングを練習するそうです。この文字や唐草模様の中に、初代社長・福原信三からつづく資生堂の美意識が詰まっているのでしょう。 静岡県・牧ノ原の茶畑は新茶のミドリに美しく彩られていました。その一方、福島第一原発から約300kmも離れた足柄で、生葉から暫定基準値を超える放射性セシウムが検出され話題となりました。 いま食品の安全性をどう考えるべきか、長年「食」の安全を追ってきた編集者・唐沢 耕さんに伺いました。 Colla:J編集局(塩野):福島第一原発の事故が起るまで生活の中で放射線量を意識するとは思ってもいませんでした。特に「食」の問題については、数十年単位で尾を引きそうです。農産物、海産物ともに放射性物質と無縁で生きることは無理と思われるいま「食の安全」をどう考えていくべきと思われますか? 唐沢:汚染物質を取り込む割合は「呼吸8割、食べ物・水2割」といわれています。放射性物質も同様です。今は呼吸が心配ですが、長期的に考えると「食」や「水」の問題が大きくなるでしょう。低線量被爆についての詳細なデータは出てきませんが、私はどこかにあると思っています。なぜなら農薬の場合はラットなどを使って、数十日間の反復投与試験や何世代もの遺伝調査などが行われます。放射性物質についても同じ実験を必ずしているはずです。 編集:それが公表されない以上、農薬などの基準を参考にして自己防衛していくしかないかもしれません。ところで、農薬の安全性はどのような基準で決められているのでしょう? 唐沢:代表的な基準としてADI(アクセプタブル・デイリー・インテーク=1日あたりの許容量)があります。使用できる農薬や食品添加物には必ず「しきい値」があります。しきい値とは、これ以上摂取すると健康に影響がでるという値です。子供や老人、妊婦などで感受性(薬剤の影響力)は異なりますから、最も感受性の高い人を想定して「安全係数」を設けています。例えば一般成人に害の無い量を1ミリグラムとした場合、一般成人のなかでも感受性の高い人を想定し0.1を掛けます(0.1ミリグラム)。さらに子供や老人、妊婦などを想定し0.1を掛けます。そうすると0.01ミリグラムがADIの基準となります。つまり安全を考えて100分の1の値とするのです。いま日本で認可を受けた農薬は全て、この考え方に基づいて残留基準値を決めています。また輸入野菜に使われた農薬など、国内基準のないものは一律0.01ppmという厳しい規制を受けます。 編集:3月21日〜月末にかけて東京でも一時200Bq/Lを越えるヨウ素131が検出され、ミネラルウォーターが店頭から消えました。水道のヨウ素131の暫定基準は一般が300Bq/L以下で、幼児は100Bq/L以下と3分の1でした。農薬と同様に考えると幼児の基準は30Bq/L以下になりますね。 唐沢:農薬の基準も各国で異なります。例えばミツバチの大量死で問題になっている農薬「ネオニコチノイド」について、作物によってはEUの500倍という値が日本の基準となっているものもあります。ネオニコチノイドの人体への影響が報告され、果物や茶木への使用禁止を求める声も高くなっています。農薬はこうした問題が起るたびに基準を見直したり、禁止されたりする歴史を繰り返しているのです。 編集:不思議に思ったのは水道水の暫定基準が引き上げられたことです。原発事故以前はWHO基準相当の「ヨウ素131=10Bq/L、セシウム137=10Bq/L」だったものが「ヨウ素131=300Bq/L、放射性セシウム=200Bq/L」に変更されました。20〜30倍の数値です。また「公衆の被爆線量の限度は1年間に1ミリシーベルト」だったものが、福島の小中学校では1年に20ミリシーベルト以下とされ、保護者をはじめ海外からも大変な反対を受けました。結局文部科学省は5月27日、学校で受ける被爆線量の目標値を1ミリシーベルトとしました。NHK・ETV特集「ネットワークでつくる放射能汚染地図」では、アスファルトの街中よりも土の校庭の方が放射線量が高いと報告されています。 唐沢:出来るだけ線量を低くする措置を早急にとるか、それでも放射線量の高い地区では子供たちを疎開させるべきだと思います。第二次世界大戦末期の疲弊した日本でも、子供たちを都市から地方へ疎開させました。現代の方が遥かに豊かなのに国家の力で疎開できない訳はありません。いま忘れられているのは「予防原則」だと思います。農薬や食品添加物などの規制は全て「予防原則」で成り立っています。厳しすぎるかもしれないけれど、何も起らないのが一番いいという考え方です。例えば宮崎で鳥インフルエンザや口蹄疫が発生した際は、厳しい立入り制限や徹底した消毒が行われ、大量のニワトリや牛を処分しました。宮崎の畜産家は大打撃を受けましたが、被害の拡大を防ぐためには仕方ないといわれました。今回の原発事故ではこの原則が崩れ「ただちに影響のないものは食べても大丈夫」「被災地の作物を食べて応援しよう」といわれます。本来、被災地の応援と食品の安全性は別問題です。 編集:5年程前に水俣を取材した際、水俣湾を網で封鎖して水銀に汚染された魚を取り尽くして破棄した話を知りました。最近やっと水俣の魚は安全だと言われるようになりましたが、50年以上の歳月がかかることに慄然とします。 唐沢:マスコミもようやく「生物濃縮」のことを解説するようになりました。プランクトン→小魚→中型魚→大型魚と、食物連鎖によって毒性がどんどん高くなっていく現象です。農作物もほぼ同じ現象が起ります。作物の中で濃縮され、収穫後の葉や茎は畑で腐って土に還ります。そこに含まれた放射性物質は土の表層に滞留しつづけます。25年経ったチェルノブイリでも土壌の放射線量はなかなか落ちてくれないようです。こうした情報が日々溢れているにも関わらず、正確な判断や行動を出来ない人が多いと感じます。事故直後に東京から西日本に非難した大使館の方が、予防措置としては正しかったのではないでしょうか。 編集:特に20代〜30代の若者層の危機意識が薄いように思えます。 唐沢:事故直後に行った料理の撮影で、若いスタッフから「福島の野菜を応援したい」という声があがりました。平常時よりもはるかに高い値を持つ野菜を「食べましょう」と紹介するのは、メディアとして許されないというのが私の意見です。しかし今は「風評被害」を助長していると非難されます。 編集:科学的な視点と心情がまぜこぜになっているようです。 唐沢:一方で、有機農法をすすめてきた農家には絶望感が広がっています。私は栃木県に有機農法の田んぼを借りて毎年お米を作ってきました。そこで調べた土壌の放射性セシウムの値は275Bq/kgでした。2km離れたところでは1000Bq/kgも計測されました。放射性セシウムは土壌の10分の1の値が玄米に吸収されるそうなので、収穫したお米は100Bq/kg前後と推測できます。国の暫定基準500Bq/kgよりは低いものの有機農法を支持する消費者には提供したくないという気持が強いのです。 編集:安全意識の高い生産者ほど打撃は大きいですね。国は5000Bq/kg以下の土壌では作付けしても問題ないといいますが …… 唐沢:農薬の場合は、どのような農薬を何回使ったかという情報の「見える化」が進んでいます。値段も高く、形が悪くても無農薬を選ぶかどうかは、消費者に任されています。放射性物質についても農薬と同様、消費者の選択を可能にすべきです。 編集:今は現状の放射線量に応じて、暫定基準値を引き上げているとしか思えません。 唐沢:細胞分裂が不活発な年齢の高い方は放射線のダメージが低いともいわれます。しかし幼児や子供のいる家庭では、出来るだけ影響の少ないものを選ぶべきでしょう。いずれにしろ個人の判断ですから、その判断基準となるデータをはっきり示すことが、農畜産物や魚の消費を支えていくことになります。原発で失墜した国際的な信頼を取り戻すためにも、食品の安全については「予防原則」を徹底して守るべきです。出荷を停止する地区や作物の種類を区分けして公表し、農業や漁業の補償をしっかりと行う必要があります。今回の措置をあやまれば日本のクリーンなイメージは永遠に崩れ、農作物輸出の道も閉ざされます。まずは自国民の安全を徹底して守る姿勢を示すことが信頼回復の第一歩と感じます。 2011年3月28日「すべての水俣病被害者の救済」を掲げたノーモア・ミナマタ国家賠償等請求訴訟の大阪訴訟が勝利和解しました。この訴訟からも分かるように、1956(昭和31)年に水俣病が公式に発見され50年以上たってからも、患者の認定や補償問題をめぐる闘いは続きました。 チッソ水俣工場から排出されたメチル水銀は、魚介類の体内で生物濃縮され、それを食べた人達に「メチル水銀中毒」を引き起しました。また母体から胎児にまで障害を与えた例もあります。水俣湾では水銀ヘドロを取り除く浚渫・埋立て工事や、汚染された魚の捕獲が行われました。熊本県が水俣湾の安全宣言を出したのは、1997(平成9)年になってからでした。水俣病がもっと早く公認され魚の摂取を取り止めれば、被害の拡大を防げたかもしれません。 厚生労働相のホームページから。チェルノブイリによるヨーロッパなどの放射能汚染をふまえ、セシウム134と同137の合計値が370Bq/kgを越える輸入食品は、空港や港から差し戻す措置を続けていました。 福島第一原発の事故以降、国産の野菜や穀類、肉・卵・魚などに含まれる放射性セシウムの摂取制限は500Bq/kgになりました。輸入制限と比べると130Bq/kg高い値です。 この夏を乗りきる、本当に効果のある節電方法は? 「食品商業」(商業界刊)という月刊誌の依頼で、今夏に政府が予定している電力消費量削減をテーマにした原稿を執筆した。現状(5月末)、東京電力管内では「7月1日〜9月22日(平日)の9時 から20時、大口・小口・家庭の種別にかかわらず一律15%の抑制」が求められている。 ※4月時点は「500kW以上の大口需要家は25%、500kW未満の小口需要家は20%。一般家庭は15〜25%」だった。 震災後に各地で行われた「計画停電」は記憶に新しい。社会の混乱を招きながら非常手段をとった背景には、電力というエネルギーの特殊性がある。昨年の夏、東電管内の最大電力供給量は6,000万kWであった。それに対して最大使用量のピークは5.999万kWとギリギリまでいった。使用量が供給量を上回ると、その瞬間にかつてない大停電が発生するのである。2003年8月14日の夕方に起きたアメリカ北西部からカナダにかけた大停電では、港、鉄道、工場、信号機、商店、住宅の電気が全て止まり、両国で約5,000万人が影響を受けた。復旧には2日ほどかかり、電力供給システムの問題点が表面化し、スマートグリッド構想に注目を集めるきっかけとなった。 こうした危機回避のためとはいえ「計画停電」が大きな非難をあび、様々な憶測をよんだ原因のひとつは「他の手段はなかったか。果たして効果はあったのか?」という点だろう。真夏の電力消費量をグラフで見ると、朝方や夜の時間帯に比べ14時〜15時頃のピークが圧倒的に高く、気温のピークと電力消費のピークはほぼ同調していることが分かる。効果的な節電のポイントはピークをいかに抑えるかにあり、ピークさえ凌げば、他の時間帯に経済活動を阻害するような過剰な節電を行う必要はない。一方で、たとえ25%以上削減したとしても、朝方や深夜の節電ではあまり効果はないことになる。 「食品商業」の原稿は主にスーパーマーケット向けに書いたので、スーパーにおける消費電力の多い機器は何か?という所から解説した。スーパーのような大空間ではエアコンや照明に注目しがちだが、実際は半分以上が「冷凍機」や「冷蔵ショーケース」によって消費されている。次に照明が2割ほど、意外にも空調は1割ほどである(もちろん業態によって大きく異なる)。冷凍機を止めることは難しいが、冷蔵ショーケースの温度設定をこまめに見直し、詰め込みすぎないように気を付ければかなりの量を節約できる。またコンビニの普及した現在、スーパーで販売する飲料水やビールなどを、消費電力の大きなオープン冷蔵ケースで陳列する必要があるかも疑問である。照明は節電をアピールしやすいが、実際の効果はそれほどでもない。しかしON・OFFをコントロールしやすいから、ピーク時には出来るだけ照明を落す努力もできるだろう。日本の店舗はそもそも「冷やしすぎ」「明るすぎ」の傾向が年々顕著になっていた。これを契機に、店舗設計の段階から反省する必要があると思う。 被災地ではスーパーやコンビニの再開が、市民生活復活の象徴のように報じられた。今後は電力会社の電力(オフサイト)に頼り切った店舗のありかたが見直され、太陽電池や燃料電池などの自家発電(オンサイト)によって最低限の電力を確保するなど、天災に強くいち早く地域に貢献できる店舗への転換が進むだろう。(詳しくは「食品商業 」6月号をご覧ください) 自らの絵のために額縁を作り、煖炉の前でカメラを見つめる画家の姿。1942年頃、第二次世界大戦の影響でパリから帰国したレオナール・フジタ(藤田 嗣治)を、写真家・土門 拳が東京のアトリエで撮影した一枚です。箱根・仙石原のポーラ美術館で開催中の「レオナール・フジタ 私のパリ、私のアトリエ」展では「陶磁器のような肌」と評されたフジタの乳白色がどのようなテクニックで生まれていったかを、土門 拳の写真や光学調査から解明する試みが行われていました。 質の高いフランス印象派の絵画などで知られるポーラ美術館。その記念すべき収蔵品第一号は、40年ほど前に故・鈴木常司氏(ポーラ・オルビスグループ前会長)が購入したレオナール・フジタ作「誕生日」だったそうです。1950年以降の作品を中心に収集をすすめ現在110点。特に連作「小さな職人たち」は世界最大のコレクションを誇ります。 会場を入ってすぐのコーナーは、フジタが親交をむすんだ1920年代エコール・ド・パリの画家達の絵で飾られていました。モディリアーニやキスリング、ピカソ、パスキン、ドンゲンなど、きら星のような才能がフジタを認めたのは何故か?サロン・ドートンヌで成功し欧米の人気者となった理由は? その答は西洋と東洋をまたにかけたフジタ独自の画法にあると、同館の学芸員・内呂博之さんはいいます。 画法を決して明かさなかったフジタのテクニックは、長きに渡り研究者の興味をひいてきました。 「フジタは麻布を買ってきてフレームに張り、下地を塗ってカンヴァスを作っていました」と内呂さん。1910年代、大半の画家が既製品のカンヴァスを使うなか、フジタは18世紀の画家と同じようにカンヴァスや絵具を自作し、歴史的作品をつぶさに観察することで西洋画の技術を深く身に付けたのです。 パリに来て10年後に描かれた「五人の裸婦」は、白い肌の女性達のバックにフランス19世紀以前の「民衆芸術」を象徴するジュイ布(フランス更紗)を描いています。これはフジタのフランス文化への深い理解をアピールするもので、さらにフランス(西洋)と対比的な東洋的画法(乳白色と黒を多用)によって、芸術家仲間や批評家から評価されたのではないかといいます。 さて本展をきっかけに、フジタの画法の秘密がまたひとつ明らかになりました。土門拳撮影の写真に、タルク(滑石の粉)から作られる「シッカロール」が写っていたのです。これをカンヴァスの表面に擦り込むことで、墨の細い線を油絵の具の上に引くことが可能になります。またぼかしの技法には、木炭の粉を使っていたことも分かりました。透明感のある白い肌は、まるでカンヴァスに化粧を施すようにして創られていたのです。 ポーラ美術館は本展に際し、収蔵品の中から戦後の6作品を選び光学調査を行いました。フジタは帝国陸軍軍医総監の子息であり、第二次世界大戦を経緯に帰国したときも、相当な愛国心をもって戦争画家としての務めを果たしました。「アッツ島玉砕」は凄惨な肉弾戦を、「サイパン島同胞臣節を全うす」では自決する女性や子供も描きます。画面は暗い茶色に覆われ、戦争の悲惨を描こうとしているようにも見えます。 戦後日本画壇から戦争協力への責任を追求されたフジタは、GHQの支援でニューヨークに渡りました。左の「ラ・フォンテーヌ頌」(1949年)はその頃に描かれ、壁面には寓話「カラスとキツネ」の絵(ギュスターヴ・ドレの挿絵か?)が掲げられています。この時期から下地の鉛白(シルバーホワイト)は物資不足からかジンクホワイトに変わったことが調査から分かりました。 終戦直後、フジタは「私たちの家」と名付けたマケット(模型)を制作しました。右はこのマケットを描いた作品「室内」(1950年)で、先の「ラ・フォンテーヌ頌」もこのマケットを背景に描いています。やがてパリ郊外の古い一軒家に落ち着いたフジタは、20歳以上年下の君代夫人と手作りに満ちた生活を築きます。作品の額縁から日用品、室内装飾、果ては死後の住み家としての教会まで。全てを創造した生き方は今もなお人々の心をひきつけます。 お酒にまつわるのは忌まわしい想い出ばかりである。まさに酒は災いのもと。お酒はロクなことは無い。2000年4月、南青山の根津美術館の脇に2店舗目となるショップオープンの準備に取りかかる為に近所のみゆき通りのアパートに引っ越したばかりの頃、友人のワイスワイスの佐藤社長が引っ越し祝いに素敵なオイルランプのキャンドルと中国茶セットを手みやげに遊びに来てくれた。それからしばらくしてミラノサローネから戻り、体は疲れ切っていたがいつものように友人達と夜な夜な飲みに繰り出して朝方にアパートに戻り、眠気覚ましに朝風呂に入った。お酒の入った体に熱いお湯は余計にお酒の循環を促進し、体中が火照る。風呂から出ておもむろに冷蔵庫を開け、1リットルのペットボトルのミネラルウォーターをボトルから一気飲みした。『ゴク、ゴク、ゴク、ゴク』一気飲みの冷水は火照った体に美味い?はずなのに。『ヌルリ』とした不吉な喉越しに嫌な予感が走った。その嫌な後味の中でも冷静さを保ちながら、恐る恐るミネラルウォーターのペットボトルをそーっと眺めると、見慣れないシンプルデザインのペットボトル。『ま、まさか?』恐る恐るそのペットボトルのデザインを読み解くと、ドクロのロゴマークと火気注意のロゴマークが目に飛び込んできた。『子供の手の届かないところに保管してください』の注意書きが。『冷静に、冷静に』自分に言い聞かせた。どうしよう? 自分に冷静に、冷静にと言い聞かせながら、3分の1程度は飲み干したペットボトルをしばらくの間じっと見つめながら、頭の中を走馬灯のように(まさに走馬灯と言う表現をこの時に実感した)色んな想定が渦巻いた。もしかすると、まだ間に合うかもしれない。風呂場で飲んだものを吐き出そうとしたがダメだ、出ない。火照った体で冷たくなったペットボトルの中身を大量に摂取し過ぎてしまっていた。ペットボトルのラベルにあるお客様ナンバーに電話してみても、早朝4時にはアナウンスだけが空しく繰り返すだけ。でももしかするとこのまま何事も無く体を通過して出てくれるかもしれない。お酒もアルコールと言えばアルコールの一種じゃないか!と言う僅かな『不幸中の幸い』を期待しながら途方に暮れていると、体中から一気に滝のごとく流れるように汗が吹き出して来た。『や、やべ。』宮崎弁も出る。『吉田さん、終了でーす。』という地獄からの声が聞こえたようだった。しかし、大量の汗だけでは、デビルは許してはくれなかったのです。息苦しくなり咳き込んだ途端、怪獣がウルトラマンに炎を浴びせかけるように大量の血が僕の口から放射状に吐き出されたのです。『吉田さん、お疲れさまでーす。』とデビルが微笑んだ。そのままであれば、今、こうして文章を書いてはいられない。しばらく気を失って眠っていたらしい。それから数時間後に携帯電話の音で目を覚ますと、自分で吐き出した血の中に横になっていることに気がついた。『まだ、生きてる。』しかし、そこまで追い込まれながら考えたことは、こんなあり得ない失態で救急車を呼ぶのは恥ずかしいという、そんな状況に及んでもそんなことを考えている自分自身にも驚いた。 それから何とか立ち上がろうとするが、力が入らない。やっとのことで血で汚れたシャツを取り替えて、サンダルと寝間着のまま以前お世話になったことのある表参道の岡林医院に、やっとのことで辿り着いた。岡林先生に事情を話すと、すぐに血液検査をしてCTスキャンをしてくれた。途端に先生が看護婦さんに『直ぐに救急車手配して、大至急お願い』という指令が下された。『吉田さんね、肺がね。ほとんど溶けてね。真っ白になってね。危ないから直ぐにね。青山病院に入院だからね』そのまま、一番近い青山こどもの城の裏にある『青山病院』のナース室の隣にあるICUにベッドが設けられた。それから数日間が山場だった。みるみる内に体から脂肪が無くなり、70キロくらいあった体重が1週間で50キロ台まで減っていった。僕の両方の肺の片方は完全に溶けて真っ白になり、もう片方の肺は半分くらいが溶け出していた。その間、病院のベッドでは不思議な体験をすることとなった。最も命の危機であった最初の1週間の間、ICUのベッドの上で体は苦しいはずなのに、気持ちはなぜか晴れ晴れとして、全くの不安感が無く、フワフワとした幸せな気持ちでいた。ホースを口から肺に入れて行う肺洗浄などの処置も本来はとても苦しいらしいのだが、危険だった1週間の間、苦しみは無く、なぜか全てを受け入れることができた。それから約40日間、青山病院に入院することになったのだが、始めの1週間に体験したことは今でも鮮明な記憶として焼き付いている。信じがたいかもしれないが、その1週間の間、僕のベッドの前にはまだ出会ったことの無い男の人がいつも立っていた。じっと僕の方を見つめながら無言で。真っ昼間もずぅーっと。そのことはベッドにいる時には誰にも話さなかったが、あまりにも長い間その男の人が立っているので、僕はスケッチブックにそのままの姿を写生した。その男の人は長い髪のキリストのような姿だった。その時、すごい絵描きは普通の人が見えないものを描くことができる目を持っているのかもしれないなどと考えた。そして夜になると隣のベッドの男の人が発作を起こして心臓マッサージで緊迫した状況となったりした。ベッドの中でも沢山の不思議な体験が続いた。しかし、怖さや不安を感じることは無く、何かに守られているような幸せな気持ちが続いた。また時にはまだ見たことの無い風景が自分の目の前に広がり、そこは赤土の開拓地のような場所で、人々が動きながら道を切り開いているようだった。 つづく 6月15日から26日まで、東京・表参道のスパイラルガーデンは、帽子デザイナー・平田暁夫さんの帽子で埋め尽くされます。準備も大詰めを迎え活気づく平田さんのアトリエ「オートモードヒラタ」(Boutique Salon CoCoの上階)を取材しました。 前号でご紹介した平田暁夫さんの大規模な展覧会「ヒラタノボウシ」が、表参道スパイラルホールにて6月15日から開催されます。アトリエには会場構成をデザインしたnendo 佐藤オオキさんによる巨大な模型がおかれていました。熱可塑性の白い不織布(旭化成・スマッシュ)の帽子約4000個を使い、スパイラルガーデンに帽子の海を出現させます。 麦藁を編んだブレードをミシンで丹念に縫っていく最高級のストローハットは「ミシンの芸術」といえます。平田暁夫さんはストローハットに、アトリエで自作したシルクの花を飾り付けていました。「これはアールデコのバラをイメージしています。軽やかに見せるバランスが大切」と平田さん。帽子に命が吹込まれていく瞬間です。 帽子自体の形だけでなく、顔の影の出来方や輪郭の見え方、服装との調和など様々な要素に気を配りながら、帽子をかぶる人のことを第一に考えたフォルムを丹念に模索していく。その姿勢は、展示会用の作品に対しても変わりませんでした。 藍色の帽子はラオスで織られた手織りのツムギと麻布を使い、綿のやわらかさを麻のパリッとした硬さで引き立てます。斬新なフォルムと伝統的素材が出会う、新しい世界の誕生です。 丸いテーブルを囲んで、様々な種類の帽子が創られていきます。テーブルの下にはアトリエの財産である沢山の木型が置かれていました。平田暁夫さんは昭和37年からフランスに渡りジャン・バルテ氏に学びます(前号25ページ参照)。そこで初めて「スパットリー」(木の繊維を編んだシート)と出会います。日本では固い木型を元にしていたのに対し、本場フランスはこのシートを使って、より自由な造形を創りだしていました。 平田さんは帰国後もスパットリーを使った造形を続けます。いくつもの型(チップ)の曲線や曲面を組み合わせ、通常より多くの工程をかけながら、「型にとらわれない形」を追求していくのがこのアトリエの特徴といいます。アトリエの後継者である石田 馨さんが解説してくれました。 1995年パリ個展のために制作された「雨月物語」は、230mものブレードを使用した大作です。内側に本物の金箔を貼り、日本の美意識を表現していました。「頭の形は全員違いますから。日本人は頭が横広で、欧米の帽子をかぶると広がって格好悪い。頭の形に合わせれば、帽子のしゃれっけを崩さず格好良く見える」。平田さんはパリでル・メートル(巨匠)と呼ばれ、作品は一級の美術品として扱われます。しかし平田さんにとっての帽子は、あくまで身に付ける人のためにあることが伝わってきました。 6月15日(水)〜26日(日) ヒラタノボウシ 平田暁夫の帽子展 〜伝統のフォルム・未来へのエスプリ〜 会  場:スパイラルガーデン(東京都南青山5-6-23) 会場構成:佐藤オオキ(nendo) 特別協力:三宅一生、会場協力:ワコールアートセンター 素材協力:旭化成せんい、制作協力:バキュームモールド 照明協力:マックスレイ あの丘を越える。それしかないだろう。 瞬時の判断と同時に動く体。相手の大剣が空を切る。 鼻先に風圧。 たった今自分の首があった所に敵の顔が割り込んでくる。 恐怖と歓喜に窮まった顔。 褐色の肌に乾き固まった血がこびりついている。 唇が捲れあがり、大きな犬歯が覗く。 強大な戦士の脇をすり抜けて、走り出す。 あちこちで重い金属がぶつかり合う音が湧きあがっている。 指笛。 ミハエルは丘を指差した。 この判断に気づく者はいるだろうか? 足元に滑り込んでくる影。 なぎ払いの剣筋を飛んでかわす。 このままあの丘まで走る。 豹のような素早さで草原を駆け抜けた。 右斜め前。飛び込んでくる鉄鱗の兵士。 すれ違いざま、左脇の下から剣を入れる。 敵の腕が上方に跳ね上がる。 つんのめる格好でたたらを踏む。 剣を持って行かれた。 体勢を立て直し再び走り出す。 目の端でスクワイア(見習いの騎士)のガキが長槍を食らう。 水風船の破裂したような音。 死音。 バフに矢が当たり、体ごと放り出される。 軌道の先にオークの古木。 くそ。完全にピックアップされている。 ジグザグに走る。 累々と横たわる死体に足を取られながらもミハエルの速度は変わらない。 この脚だけだ。こいつのおかげで俺はどんな戦場からでも帰還できた。 信頼できる唯一の ……、ほぼ同時に襲いかかってくる二つの影。 バックステップでかわす。 左手で相手の甲冑の隙間に指を入れ、脚を払う。 体勢を崩し半回転した体を後ろに投げ捨てる。 もう少し。 あの丘を越えれば、深い森が広がっているはずだった。 森に入れば生き延びることが出来る。 「‼」 ふと視線を落とした足元。 青い里花。 朝露の水滴。鮮烈な青。 ミハエルは急に視野狭窄に襲われる。 アドレナリンの噴出と酸素の欠乏。 幻覚。 どこか遠い街のフラッシュ。 仲間の呼び声が遠くに聞こえる。 アッコンの黒人は/今日も動かない/ バルバロイの石像のように/ 朽ち果てるまで/そこに立ち続ける/ そして、明は女を探している。 娼婦を探している。 地下カジノの顔なじみが口々に言う。 「お前の都合じゃ会えないよ。」 「彼女は天の使いだからさ。」 「扉をあけるつもりかい?」 「契約は済ませているのかな?」 自分の体に群がる兵士。 まず、甲冑の隙間に短剣を入れられた。 大きな肉を飲み下せない、そんな違和感。 その後、たくさんの刃が体に潜り込んできた。 異国の兵士は はにかみながら 彼の神の名を口にする。 雨雲が近づいてくる。 大気に混じった水の匂い。 明は玲子と雨の歩道を歩いている。 「何かひどく大きなモノの生成があって。」 「うん。」 「その過程の片すみに。」 「うん。」 「俺とお前がいて。」 「うん。」 「それはすごく不可分なんだ。」 「うん。」 「 ………… 。」 「聞いてるよ ?」 「あのさ ……。」 剣士の網膜に映った最後の映像。 完璧にバランスの取れた …… 絵画。 退廃の先の風景画。 「結婚しよう。」 ごめん。 だいぶ時間がかかった。 「玲子 ?」 青い青い青い、 海が広がる。 「遠州からっ風」で知られる御前崎の浜岡砂丘。防風林を抜けて海岸へでると遠くに浜岡原子力発電所(浜岡原発)が見えました。 2011年5月6日、内閣総理大臣からの浜岡原発運転停止の要請に対し、5月9日、中部電力は運転中の4、5号機の停止と、定期点検を終えた3号機運転再開の見送りを決定しました。コラージ取材班が浜岡を訪れたのは、運転停止が決定された直後の5月10日でした。 一般人は近づけない原子炉の炉心。浜岡原子力館の目玉は日本で唯一の原寸大「沸騰水型(BWR)原子炉モデル」(浜岡3号機のもの)です。福島第1原発とほぼ同じ炉心を見られるとあって、来館者は昨年よりも増加し世界各国のメディアが取材に来たと館長の占野政善さんはいいます。 中心にあるカプセル状の「原子炉圧力容器」は、高さ約22m、直径約6m、厚さ約16cmの鋼鉄製で重量は約750tあります。ウラン燃料を詰めた燃料棒が納められ、容器内の3分の2ほどは純度の高い水に浸っています。運転中は約70気圧、約280℃という高圧・高温になり、発生した蒸気は「気水分離器」になどによって水分をとってから、赤い配管を通ってタービン建屋へと送られます。タービンを高速で回し発電を行った蒸気は「復水器」で海水によって冷やされ、水に戻してから再び炉心へ送られます。 圧力容器を囲んでいるフラスコ状の「格納容器」は鋼鉄製で、厚さ2mの鉄筋コンクリートで囲われています。運転中は火災防止のためチッソで満たされていて、ほぼ1年に一度行う定期点検の際はチッソを排出して放射線量を下げてから作業員が中に入り、点検や部品交換、燃料の交換などを行います。 福島や浜岡で使われている「沸騰水型原子炉」の場合、制御棒は下から上へ水圧によって挿入されます。制御棒によって中性子は遮断されウラン燃料の「臨界状態」を停止します(スクラム)。 福島第一原発では、この制御棒は上手く作動したものの、冷却機能を失ったため「崩壊熱」が発生し、高温となった燃料棒の被覆管(ジルカロイ合金)が水素を発生したことで今日の事態に至りました。「燃料棒は熔解しメルトダウンした」と報道されたことから、形を留めず圧力容器の底に溜まっていると予測されます。さらに格納容器に複数の穴が開いている可能性も東京電力から示されました(5月25日毎日新聞社)。 浜岡原子力館は、こうした報道を目で見て確認できる貴重な場です。東京電力などのPR施設が休館するなか「浜岡は正しい知識を伝える場として運営を続けたい」と占野館長。 テレビなどでよく見る図解とは異なり、実際の建屋内には無数の配管が縦横無尽に張り巡らされています。それぞれの配管は地震の際にぶつかったり、建屋の影響を受けないように設計され、ダンパーで振動を吸収するようになっていました。 浜岡原発が停止の要請を受けた原因のひとつは、近い将来に高い確率で起るといわれる「東海地震」です。浜岡原発の3〜5号機は、2005〜2008年にかけて、1000ガルの地震動にも耐えられるよう莫大なコストをかけて「裕度」を高めるための工事を行いました。また1、2号機は経済性の問題などから運転を終了し、30年程かけて解体される予定です。原発を立地する4つの条件である「広い敷地」「冷却水の確保」「強固な岩盤」「住民の理解と安心」のうち、住民の安心を第一に考えた措置といわれています。 その後、2009年8月に起きた「静岡沖地震(駿河湾地震)」で御前崎市は震度6弱を計測しました。原子炉は緊急停止し、最新の5号機では他よりも強い426ガルの振動により、タービン建屋内の設備が一部破損しました。各施設には重要度に応じた耐震基準が設けられていて、タービン建屋はBクラスだそうです。 右の写真は格納容器を囲んでいる厚さ2mの鉄筋コンクリート壁で、岩盤に直接接した厚い基礎から立ち上がっています。建築基準法の3倍以上の強度を持たせるため、直径約4cmのとてつもなく太い鉄筋を使っていました。 左の写真は原子炉建屋の模型です。厚い壁が格納容器を囲んでいることが分かります。建屋の上部には「使用済み燃料プール」があり、ウラン燃料を交換する際は「格納容器」と「圧力容器」の蓋を開け、水の中に閉じ込めたままプールに運びます。 下にあるドーナツ状のものは「サブレッションチェンバ(圧力制御室)」です。事故により格納容器の気圧が上がった際は、ここに気体を逃がしプールの水で冷やして圧力を調整します。また圧力を調整しきれない時は、プールの水を通して放射性物質を減らし「排気筒」から気体を放出します(これを「ウェットベント」といいます)。一方、サブレッションチェンバの水を通さずに直接放出することを「ドライベント」といい放射線量は高くなります。 サブレッションチェンバの水は炉心の冷却にも使用されます。黄色の細い配管は「非常用炉心冷却装置(ECCS)」のひとつで、ポンプによって加圧した水を勢いよく炉心にスプレーします。こうした冷却装置が何重にも用意されていて、正常に働けば約24時間で100℃以下の冷温停止状態になるそうです。 福島第一原発では、地震や津波の被害によってポンプや電源装置が働かなくなり、全ての冷却システムが正常に機能しなくなりました。その教訓から浜岡原発では様々な対策を立てています。 中部電力は福島第一原発の事故をうけた緊急安全対策を3月15日に発表しました(左はそのリリースの一部です)。その中心は津波対策で、 1)津波による浸水防止のため、海面から12m以上の高さをもつ「防波壁」を1.5km以上にわたり建設。 2)海水系ポンプを津波から保護し冷却水を確保するため、高さ1.5m、厚さ8cmの壁で周囲を囲む。また、ポンプの予備部品を備蓄する。 3)原子炉建屋内のディーゼル発電機などを浸水から保護するため、防水構造扉の信頼性を強化する。 4)発電機車や可搬型発電機を配備し、外部電源喪失やディーゼル発電機が作動しない場合に備える。 5)敷地の高台に「非常用ディーゼル発電機」を設置して、万一の際はすみやかに電源を供給する。 などを2年をめどに実施するそうです。 「元々浜岡原発の前には10m以上の砂丘があり、想定される最大級の津波も防ぐことができるが、さらに裕度を高めるための対策」といいます。 こうした緊急対策とはべつに1、2号機の運転終了をを補うため平成30年代前半を目標とした6号機の建設(リプレース計画)や、使用済み燃料を貯蔵する「乾式貯蔵施設」(再処理工場へ運ぶまでの一時貯蔵所)など、浜岡原発では様々な計画が進んでいます。 浜岡原子力館には「プルサーマル計画」や「高レベル放射性廃棄物の地層処分」などの展示もあり、きちんと見ると丸1日かかります。 福島第一原発事故が終息しないまま、「原発三法」による地方交付金や作業員の雇用問題、夏場の電力不足など様々な報道がされるなか、正確な情報を得て自分の考えを整理するために、浜岡電力館は最適な場所であると思いました。 各電力会社は地域独占を認められるかわりに、電力の安定供給を義務づけられ、原発は40年以上に渡り安定供給を支える「国策民営」事業として進められました。そして福島の事故により、多くの人々が原発の恩恵とそのリスクを自覚しました。原発と共にどう生きるか? 自分の求める未来をはっきりとイメージすることの大切さを実感しました。 「古今和洋」なる、あやしげなSHOPを作った。 工房のある街、「ふじの」である。 SHOPというより、倉庫である。 おもしろギャラリー「古今和洋」とは? ひとことで言えば「何でもアリ」のガラクタ屋。 「機能が決まったモノたち。」 この機能を、モノたちから切り離したら、どうなのか? が、テーマである。 機能がハッキリしないモノが、作りたい。 機能がハッキリしないモノを、見つけたい。 どうも、この頃、モノのチカラが弱まっている気がする。 モノのチカラがなくなっている。 モノに魅力を感じなくなっている。 モノが、もっとイキイキするには、 「機能という足かせ」を取ったらどうか、と考えた。 「どう使うのかは、あなたがイマジネーションして?」 使い方が決まっているモノを、作り手が作らされている現状。 作り手のエネルギーが弱まってるから、 使い手を刺激しないモノが多い。 使い手を、作り手がもっと過激に刺激するのだ。 「作り手よ、大志をいだけ。」 「作り手よ、過激派になれ。」 モノが売れないなんて、嘆くな。 使い手に合わせたモノなんて作るな。 自分が作りたいモノを作れ。 マスターベーションこそが、文化を生み出す。