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宝の海道をゆく新潟〜佐渡へ
時空にえがく美意識
6月号 浜萱草 2015
http://collaj.jp/
「 NEUTRAL AND INDIVIDUAL 」(中庸と個別)をテーマとした、アクトリフォーム&インテリアのショールームが、新潟市西区の流通センターにオープンしました。 インテリアデザインは橋本夕紀夫さん、コーディネートは TIME & STYLEが担当し、オープニングには橋本夕紀夫さんや吉田龍太郎さんも駈けつけました。頸城(くびき)建工が運営する「リフォームのアクト」は、新潟で年に 4000件以上を手がけ、新潟・長岡・上越エリアに7店舗を展開する地域一番のリフォームショップです。
エントランスに置かれた大きな御影石と長いテーブルは、ダイニングレストランを思わせます。アクトは「一輪の花からはじまるリフォーム」をテーマとしていて、ユーザーの 9割近くが新たな個所のリフォームをリピートするそうです。このショールームはスタッフがライフプランナーとなり、ユーザーを招いて暮らしの楽しみを歓談するサロンとして企画されました。
頸城建工社長・福田孝則さんは「ライバルはディズニーランド」と語ります。小〜中規模のリフォームを在宅しながら無理なく進め「家族でハワイに行くよりリフォームの方が楽しい」と感じてもらえるサービス業として成熟させたいそうです。そのためにはスタッフのマナーも重要で、リッツカールトンを超えるを目標に小笠原流作法の研修なども行っています。
生活を充足させるためには、家具や小物も大切です。TIME & STYLEの家具はリフォームとのコラボによって、新潟の生活者にどのように受け入れられていくか楽しみです。
パーティのために、福田社長の出身地から珍しい頸城牛などが取り寄せられました。旧頸城村は現在の上越市直江津付近の地区です。春の新潟は鯛のシーズンというこで真鯛のカルパッチョや、10数種類の新潟・佐渡の地酒も供されました。
頸城建工には、リフォームの他に公共事業部があり、田園の整備事業などを手掛けています。米どころ新潟の農業を支えてきた企業のひとつでもあるのです。書棚の中心に埋め込まれた煖炉は、実際に火を起こせます。
橋本夕紀夫さんがインテリアショールームを手がけるのは久ぶりで「ニュートラルでありながら個性的な、人の交わりによって成長する、何かをしたくなる空間」になるよう心がけたそうです。橋本さんと福田社長の出会いは 2014年ドイツ・フランクフルトの国際見本市Anbiente会場でした。「福田社長の熱い思いは伝わってきたものの、最初は何をすればいいかイメージできなかった。しかし互いの思いさえあれば、こうしてカタチになっていくことを学ばせてもらった」といいます。日本で初めて「Suzusan」の照明器具を扱っています。Suzusanはドイツ・デュッセルドルフを拠点とし、名古屋「有松絞り」の伝統技法を利用したテキスタイルや照明器具を提供する歴史ある企業です。糸をくくる作業を紹介したVTRも上映されました。
▲橋本夕紀夫さんデザインの「ぐるり」。YOnoBIプロジェクトから生まれた秋田・大館の曲げわっぱの新技術と、LEDを組み合わせた照明器具です。中心には一輪の花が挿されていました。
夕暮れがせまり、屋外に設けられた浴槽にはフローティングキャンドルが灯りました。パーティのにぎわいとともに新潟の夜はゆっくりと艶やかに更けていきます。
新潟市の繁華街古町(ふるまち)で昭和 8年から続く「港すし」。名物のイカや岩牡蠣、ボタンエビなど佐渡前の海の幸を頂きました。
小林 清泰アーキテクチュアルデザイナー ケノス代表
2015年 5月 1日〜 10月 31日の 6カ月にわたり開催中のミラノ万博。「地球に食料を、生命にエネルギーを」をテーマとして、世界から約150カ国・地域・国際機関が参加し、110haの巨大会場に建てられた著名建築家によるパビリオンや、各国料理を楽しめるレストランも話題です。5月下旬に会場を訪れた、小林清泰さんの最新レポートです。
今回の万博で一番驚いたのは、iphoneと ipadの普及でした。もちろん会場内は全て WiFiがフリーで使用できます。大人も子供も、ところ構わず皆が iphoneや ipadで写真や動画を撮って楽しんでいる様子はとても印象的でした。ちなみに「日本館」でも iphoneにアプリをダウンロードするといろいろ楽しめる工夫がありました。丁度イタリアは夏休み前の時期で、幼稚園児から高校生くらい迄の子供が大変多く、まさに会場内はお祭り騒ぎでした。
イタリアは万博を経済再生の起爆剤として、国を挙げて力を入れている様子が伺え、美食の国ならではの食材も多く紹介されていました。
会場の入り口。セキュリティーチェックは長蛇の列。
イタリア館は有害ガスを不活性化する新素材を外壁に採用して、未来的なエコロジカル建築をアピール。NEMESI STUDIO。立て式で、天井一面にフランスの食材を吊り下げている。
会場内のレストラン「イータリー」というコーナーでは、イタリア各地の食事とワインを提供。イタリア館では全面鏡張りの部屋でイタリア各地の世界遺産映像を次々に紹介し、観光立国をアピールしていました。
またミラノ市内では、「最後の晩餐」にちなんで、ドゥオモ広場に隣接する美術館で「ダ・ヴィンチ展」を開催。世界各地に散らばっている作品を極力集めた見応えある展示のようです。時間がなく見ることが出来ず残念でした。訪れた市内のギャラリーでは、「最後の晩餐」の食卓をテーマに若手デザイナーによってデザインされた様々なテーブルを展示し、それをオークションにかけて販売していました。
パビリオンは全体に木造建築が多く、特にフランス館は構造も含めて有機的な形を見事に表現。エントランス空間の天井にまで埋め込まれた食材には圧倒されました。
テーマ館のパビリオン「0」は子供たちにも分かりやすいよう、食生活の歴史や進化、現在の問題点等をアーティスティックな演出で見事に表現していました。 つづく
レオナルド・ダ・ヴィンチ「最後の晩餐」。
新潟沖に浮かぶ S字型の島「佐渡」は、東京 23区の1.4倍の面積がある大きな島です。人口は約 6万人、2004年までは両津市、相川町、佐和田町、真野町、小木町など10市町村に分かれていましたが、今は佐渡市に統合されています。佐渡の中心部を抜ける350号線は、新潟市の古町から海道を渡り新潟の直江津にいたる国道で、その一部を担う佐渡汽船のジェットフォイルに、信濃川河口に位置する新潟港から乗り込みました。
かつて流人たちが命がけで渡った日本海も、今はあっという間に越えてしまいます。乗船して1時間も経たないうちに、大佐渡、小佐渡の 2つの山脈が見えてきました。1000m前後の山の頂にはうっすらと雪が残り、波間からイルカたちの群れが出迎えてくれました。
山はおのづから高く、海はおのづから深し。語り尽くす、山雲海月の心、あら面白や佐渡の海、満目青山、なおおのずから、その名を問えば佐渡という、金(こがね)の島ぞ妙なる
世阿弥 金島集より
尖閣湾揚島遊園両津港
相川
佐渡金山
真野町佐渡歴史伝承館
宿根木
小木港
ケン太とかすみの住むマンションは、
られた。公団スタイルながら、エントランスと中庭にケヤキの大木(港区保護樹木・三本)が在り、周辺環境に与える恩恵は計り知れないものがある。ただ、傾斜地を埋め立てた土地なので地盤はゆるめだ。建築としての耐震性も弱まっていただろう。大げさかもしれないけれど、
3.
の大震災が起きた日は、この世の終わりさえ覚悟
した。
弱い揺れも響くので不安に思っていた所、管理組合の対応素早く、耐震補強工事を終え、今は揺れ方の違いを身を持ってありがたく感じている。お隣との協議しかり、管理組合の活動は多忙を極めていた。定例理事会の開催、樹木の手入れ、清掃やメンテナンス、一年を通したイベント交流、茶話会、機関誌の発行など各理事の負担を考えただけで頭がさがる。組合員でもないまだ新参者のふ
たりではあるが、それでも住民同士、
コミュニティというもを遠目に見つつ、最近は少し距離が近づいた気がしている。その糸口こそ、お隣の工事という出来事の中で、互いに関わった情報を交換し合い、共有した結果ではないかしらと思う。
生きるという困難の先には、いつも光が見え隠れしているみたいだ。お隣のコージ君たちや奇しくも同じ住民となった諸先輩、アドバイスを頂いた皆さんとの経験をふまえ、来るべきお向いとの困難に立ち向かおう ……。そんな風に静かに決意する、かすみとケン太だった。
11
45
年代に建て
年に及び築いた
佐渡といえば、やはり佐渡金山でしょう。島の西部、佐渡の奥座敷といわれる相川に金鉱が発見されたのは関ヶ原の合戦の翌年、慶長 6年(1602)年。30年ほどの全盛期には金が年に 440kg、銀が 40tあまりも採れ「黄金白銀花咲く佐渡は、これぞみ国の宝島」と歌われました。初期の江戸幕府は、佐渡の金山によって支えられていたのです。三浦治兵衛ほか山師 3人は相川の濁川で鉱石を見つけ、谷間を迷ううち金の露頭を発見しました。これが有名な道遊の割戸で、金脈を掘り進め山を2つに割ってしまいます。崖に点々と見えるのは狸掘りのあとで、身体がやっと入る狸穴をタガネとツチ頼りに鉱脈にそって堀りすすめ沢山の命が失われました。上図は1695年に描かれた金山の断面図で、坑道の総延長は 400km以上(相川から東京までの距離に相当)にもなります。
江戸初期に掘られた宗太夫坑に入ります。当時のままの固い岩盤をタガネで手掘りした坑道です。間歩(まぶ)と呼ばれた坑道には発見した山師の名が付けられ、技術は石見銀山(島根)から伝えられました。シキ(鉱区)には大工頭(現場監督)がつき、坑道を掘る金穿大工や鉱石を運ぶ荷揚げ穿子、支柱工事を行う山留め大工など様々な職種を管理していました。坑道が深くなるにつれ鉱山は湧水の噴出に悩まされます。幕府は江戸から無宿人を送り手桶で水を汲み上げる過酷な労働に当たらせましたが、問題解決のためスクリューの原理を利用した手回しポンプ「水上輪」を開発します。さらに1691年から5年をかけて掘られた約1kmの「南沢疎水坑」には世界最高水準の測量技術が用いられ、現在も坑道の水没を防いでいます。
▲ 昭和12年に建設された「浮遊選鉱場」。
▼ 慶長 6年(1601)に設置された佐渡奉行所。
全国から山師や商人、鉱夫たちが相川に押し寄せ、寒村は人口 5万人を超える超過密都市に変貌します。金脈を掘り当てた金児(山師)の生活は江戸にひけをとらないもので、鉱夫や船員を相手にした遊郭も栄えました。鉱山の操業は幕府から明治政府、宮内庁御料局、三菱に引き継がれ平成元年まで続き、約 400年で 78tの金と 2300tの銀が産出されました。
技術者のなかには西洋の精錬技術を持った隠れキリシタンもいて、金山近くの旧道にはキリシタン塚も残ります。鉱夫たちは坑道で肺を侵され、放蕩な暮らしのなか短い命を散らしました。
仮面をつけた神妙な儀式は「やわらぎ」と呼ばれる神事で、金穿大工が中心となり、山の神々の心を和らげ安全に採掘できるよう、また鉱脈が少しでも軟らかくなることを祈って神社に奉納されました。
急激に増加した人口を賄うため幕府は新田開発をすすめ、漁民を誘致して造船や漁村の開発も行いました。海辺から山へと続く海岸段丘には、今も田園風景が続いています。
「机に向かって本を読む」ということを、した記憶がない。いつだって外で遊んでいた。自転車、野球、虫捕り、縁日、根津美術館の庭でザリガニ採りに皆で夢中になっていたこともある。その一方で、年がら年中「病気」で学校を休んでいた。もちろん「仮の病気」だ。
「病気」になると、枕元にあれこれ本を積み上げて読む、これがきまりだった。だから「本は、熱っぽいボーっとした頭で、寝て読むもの」と、大学生になるまでずっとそう思っていた。そんな状態で本を読めば、夢とうつつの境がおぼろになる。自分が眠っているあいだに夢を見たのか、それとも、眠りに就く前に読んでいた本の世界を思い出しているのか。記憶をたどってみても、曖昧模糊。夢とうつせみ、このふたつの世界の間を、物語の記憶は浮遊することになる。「こんなこと実際にはあるわけがない」と思いつつも、「ひょっとしたら、起こりうるのかもしれない」というようなお話。「病気」の時
3
には、そんなお話を好んで読んだ。たとえば、星新一のショートショート。三十代半ばの父親が小学校 年生位の息子を連れて近所に散歩に出る。広い表通りに至ると、大きな道路工事が続いている。父は思う。そういえばこの道路工事、もう何年も続いていて一向に終わる気配がない。いったいいつ完成するのだろうか
子供の頃、学校の宿題や試験前のにわか勉強をするときを除いて、
つ息子を見ると、息子も、同じことを言う。その瞬間、父は思い出す。自分がこの息子の年頃に、自身の父親に連れられて、同じ場所に立った記憶があると。そしてさらに思い出す、あの時も今と同じように、表通りでは道路工事が行われていた。一体いつからこの工事は続いているのか ……。確かそんな話だった。当時、都心部は、そこらじゅう道路工事が行われていて交通渋滞が日常茶飯事だった。それだけに、この話を読んだ時ちょっとゾ.っとした。
大学生になってからは、病気になる必要がなくなり、机に向かって、そして溜まり場の喫茶店で、さらには、ごくたまに大学の図書館で、本を読む習慣ができた。もう頭はボーっとしていない。しかし、この年頃に至ると今度は、そのクリアーなはずの頭から現実感を失わせてくれるようなお話を「夢中で」読んだ。その代表が、安部公房。当時書籍化されていなかった作品を求めて、駒場の近代文学館まで出向いて、古い雑誌に掲載された作品を読むほどのめり込んでいた。安部公房をして「ストーリー・テラー」などと評したら、文芸評論
安部公房
星新一
『 他人の顔 』
『 おのぞみの結末 』
新潮文庫
新潮文庫
…
と思いつ
家から大目玉を食らうかもしれない。しかし、この大作家は、「嘘を真のように語り得る」非常に優れたストーリー・テラーであると思う。ちょうど同じ頃、初めて英語のペイパーバックを一冊読み通すことが出来た。カート・ヴォネガット・ジュニアの『チャンピオンたちの朝食』だ。真黄色なツルツルの表紙、大きめの文字、ところどころに著者が描いたいたずら書きのようなイラスト。ヴェトナム戦争中であったからこそ、
あの皮肉の痛烈さに引き込まれて読むことが出来たわけで、果たして今読んで面白いかどうか。子供の頃 SF大好きだった私には、 SFパルプライター出身というその作風が性に合っていた。その後十年ほどでヴォネガットは評価が急上昇して「文豪」扱いに。世間の評価とは、わからないものだ。いずれにしても英語の本に対する抵抗感が一切消え去ったのは彼のおかげだ。
み進むうちに、いつかドイルの原作を読みたくなるという一書であって、「異色のホームズ物語入門書」といっていい。
コナン・ドイルというと、霧煙るロンドンを馬車で行くヴィクトリア時代の人、みたいに思われるかもしれないが、彼が亡くなったのは 1930年。既にヘミングウェイやフィツジェラルドさらにはジェイムズ・ジョイスがパリで活躍し始めている時代だ。つい先日 BBCのラジオ放送で、ドイル本人の肉声の録音を耳にした。最晩年の録音らしいが、極めて発音明瞭で、声もしっかりしている。壮年期は身長 180cmで、体重約百キロ。この堂々たる体躯で、子供の頃から抜群のスポーツ万能。フェアな闘いを愛する、非常に男っぽい男で、ボクシングで海の荒くれ男を簡単にブチのめしたりしている。今私は名探偵の物語よりも、原作者コナン・ドイルという男の人生をたどることに夢中だ。
コナン・ドイル
『 シャーロック・ホー
ムズの冒険 』
新潮文庫
D
秘訣名探偵の人生訓』という一冊が 6月1日に発刊された。翻訳は私が担当した。一冊の本を翻訳するというのは初めての体験で、とてもいい勉強になった。当然ながら翻訳のために、名探偵ホームズ・シリーズの原作者コナン・ドイル( 1859. 1930)の作品と、幾つも出ているドイルの伝記、その他様々な関連書籍と資料を読むことになる。その結果発見したことがある。それは何かというと、翻訳の過程で読んだあらゆる書籍と資料を含めて、コナン・ドイル本人が書いた文章が、「ダントツに面白い !」という事実だ。それともうひとつ。ドイルの作品はホームズものに限らず、現代的な感覚にあふれている、ということ。だからこそ、著者 .アコードは、ホームズの物語に現代の我々が参考にできる人生訓が秘められていると説く。この本は決して、シャーロッキアンの皆様が喜ぶような、ホームズ・シリーズの分析本ではない。むしろ、名探偵物語を一度も読んだことがない人が、様々な人生成功へのヒントを読
カート・ヴォネガット・
ジュニア
『 Breakfast of
Champions』
Dial Press Trade Paperback
BOOK Preview
『シャーロック・ホームズの成功の秘訣:名探偵の人生訓』 デヴィッド・アコード 著 大原千晴 訳 大修館書店刊
「 獲物が出てきたぞ。返事は無用! さあ、起きて、さっさと服を着て! 」
獲物(難事件)を最高のご褒美とするホームズにとって人生の「成功」とはなにか。それを紐解くことで、自分なりの生き方を実践する方策を提案した本です。ヴィクトリア朝階級社会のなかで、生まれつきの貴賎を問わず、厭世的でありながら女王や貴族にまで最高の探偵と認められ、報酬を求めないかわりに、あるときは多額の小切手を受け取ることもあるホームズ。その行動原理や友人ワトソンを例としたパートナーの条件をあげながら、各章には有名な事件で発せられた格言を散りばめています。訳者の大原千晴さんは「ドイルの著作を沢山の人に読んで欲しい」という願いを込めて翻訳を進めたそうです。ホームズシリーズで大きな成功と生活の安定を得たドイルでしたが、その後も戦地におもむき従軍記を書いたり、現実の冤罪事件を解決したり、晩年は批判をものともせず霊界の研究に熱中するなど、あくなき挑戦を続けました。その生き様こそ、一番の手本になるのではと感じました。
本書を 3名の方にプレゼントいたします。コラージ編集局 Eメール collaj@collaj.jpへ「ホームズの本希望」とお書き添えのうえ、お名前とご住所をお送りください。ご応募お待ちしております。
地質学者・脇水鉄五郎氏によって命名された「尖閣湾」は、相川から北の海岸地帯外海府に位置します。日本海を隔て朝鮮半島や中国大陸と対峙し、粛慎(みしはせ)人が流れ着いた伝説も残っています。
日本海の荒波に削られた岩肌には、点々とサンゴ礁の跡が見られます。沖合を流れる暖流 (対馬海流)により、佐渡は新潟本土に比べ温暖で雪も少ないそうです。ソラスズメダイなど熱帯魚も暖流にのって佐渡を訪れますが、冬を越せないため死滅回遊魚とも呼ばれます。
尖閣湾沿岸の外海府海岸には、安寿と厨子王で知られる達者集落や姫津集落など漁村が並んでいます。「達者」という名は、厨子王が瞽女となった母と再開し、嬉し涙で眼がひらいたことから付けられました。姫津集落はイカ釣りで知られる漁村で、佐渡金山発見の 3年後、佐渡奉行所により招かれた島根からの漁民によって村がひらかれたため、石見姓が多いそうです。かつては許嫁制度があり、サザエやワカメの収穫時期を決めた厳しい掟に守られてきました。黒ぐろとした「能登瓦」は風雪に強く、冬の強風から家々を守っています。
細長いうなぎの寝床状の家々が並ぶ佐和田地区。佐渡奉行所の定めた「家の間口 3間(約 5.4m)までは無税」という決まりから、京町家のような中庭を持つ家が多く建てられるようになりました。表通り側からミセ(土間)やオエ(居間)、ヘヤ(座敷)、台所が連なり、通り土間でつながっていて、中庭を隔てて裏側には納屋や土蔵があり、そのまま浜辺に出られる所もあります。幅の狭い敷地が連なるため、現在では駐車スペースの確保が課題となっているそうです。
それでも地球は回ってる
C
第二部「ジーノ編」 9Aホノルルの長い夜3
野田豪(AREA)
OK
PM 7:12
ギャリッとキャノンデールが逆ハンドルを切って止まった。今回は時間だ。時
間との勝負なんだ。絶対長引かせちゃいけない。その点をリオは分かっていない。
あいつは僕とソーマの戦いを楽しもうとしている。だからだ。そこに隙が出来る。
僕は敢えてこの戦いではソーマを捨てる。暴力だ。原始的な手段で、いまここで
決着をつける。それが出来なければ ……負ける。僕らは負けるだろう。ジーノの
顔が変わっている。温和な笑顔がなりを潜め、代わりに剣呑な表情が表面に現れ
ている。
「まずは Step 1」
口の中でジーノがつぶやく。
有事にお前がどこで指揮を取るか ……調べはついてるんだよ」もうずっと前か
ら内偵は進んでいた。リロイを憶えているか ?ああ見えてあいつは執念深くてな。
お前の居場所、廃墟のこのビル。奴はお前らが出てくる裏口まで調べ上げてくれ
たぜ ?ビルから飛び出して、ビルの間を走る黒いスーツの2人連れ。その背中を
ジーノの目が捉える。
「次だ、Step 2は上から」Igot.
左手のノキア。 GPSの点滅が足を止める。「 」ショートメールが
その画面に割り込んだ。ビルの上を見上げる。キャサリン花蓮が遥か上方の部屋
のバルコニーから手を上げた。花蓮は左手の iPhoneを後ろに投げ捨てると
両手でセブロ 2-6 を構えた。公安採用の対人ライフル。極大射程がクロの
頭部をロックする。リオの足下で地面が弾けた。威嚇射撃。リオが上を見上げた。
「Step 3は前方の刺客」
足の止まったクロとリオの前方に黒いモッズコートの大男がフラリと現れた。右手にシグ。カイトだ。クロとリオは上、後ろ、前から囲まれた形となった。ジーノの後ろに足音のない気配が近づいてきた。「いつぶりだ ?クロぉ 」日本語だった。「もうこれで終わりにしようぜ ?」ジーノの後ろにロックマンが飄々と立っていた。その後ろに肩で息をする HPDトムフォード。「これでチェックメイトだ」
クロとリオは完全に足を止められた。伏兵はいない。いるはずがない。自分の頭脳を過信しすぎたな。クロ、リオ ……。お前らは3つの間違いを犯した。トムの良心。ロックマンの身体能力。そして僕のソーマを過大評価したことだ。「みなさん勢揃いで ……」!!リオが陽気な声で言った。クロは半分目を閉じてあたりをうかがっている。
「リオ、お前は荒川警部補殺しの件だ。わかるな ?」カイトが吠える。「日本の警察はしつこいねぇ。ありゃもう時効なんじゃないのかい」カイトが肩をすくめた。「そうだっけ ?」誤認逮捕狙いだ。チッ。リオが舌をならした。「公安の出る幕じゃないだろ」カイトがククッと笑う。心の中でつぶやく。夏姫殺し、お前らがまだ幼い俺たちに植え付けた虚無感。そこを根っこに今、俺と花蓮はここにいるのさ。公安の駒になってもよ、あの時奪われたモンを取り返しにきたぜ ?「その理由は隣にいるてめえのボスに聞きな」カイトの返答にリオがかぶりを振った。「公安はフォックスフェイス一人じゃなかったってことね。はいはい。どうも俺は昔っから味方に信用されないんだ。なあ、ボス、あんたは知って…」その瞬間大口径の銃声が辺りに響いた。リオがいきなり真横にぶっ飛んだ。ほぼ同時に上方から銃弾が飛んだ。クロの右手が後ろに弾けた。花蓮の放ったサイレントバレット。ライフル弾が見事にクロの拳銃をぶっ飛ばした。「リオッ」ジーノがリオに駆け寄った。胸にデカい穴が開いていた。リオ ……。「ジーノ ……」口から赤い泡をこぼしながらリオがジーノを見上げた。「お前との遊びは ……こんなんじゃなかったはずだがな。普通の戦争しやがるとはよ、やっぱり ……お前はすげえなあ・ ……」そうだな。僕もじっくりとお前との心理戦を闘いたかったよ。でもな ……「もう眠れ」ジーノの優しい言葉にリオがケッと口元の笑いを歪めた。体からズル
ッと力が抜けた。
ジーノはリオをゆっくりと地面に寝かせると、膝をついた姿勢でクロを見上げた。そのジーノをクロの瞳がジッと捉えた。右手から大量の血を流したクロがジーノに向かって、ボソボソと何かを呟いた。しかし、日本語のわからないジーノはクロが何を言っているのかまったく理解が出来ない。どうやらクロはジーノを説得しているらしかった。気づいたクロが英語に切り替えた。「民族の再興をお前の手で ……」クロ ……。ジーノは首を振った。それがお前の切り札か ?それが、遥か昔、日本でリオをたらし込んだ、お前の野望か ?「No」ジーノが再び頭を振った。なぜお前がドラッグを作ったのか、それをなぜわざわざハワイに持ち込んで黒組織を作ったのか、なぜ日本の公安がそれを追ってここまできたのか。
「No」ジーノはもう一度そう言うと、目の前に転がっている大口径のコルトを拾い上げた。全部分かってるんだ。僕はそれを全部知っている。僕だから知っている。クロの額に銃口をピタリと合わせると2、3歩後退った。「クロ、夢物語なんだよ、そんなことできやしない。少なくともお前には」
クロが嘲りの笑みを浮かべ首を振った。
「いつか ……迎えに行く」
クロは小さく言うと、トムに向かって顎をしゃくった。
トムフォードがゆっくりと前に出た。
「ジーノ ……」
泣きそうな顔をジーノに向けた。
ジーノはゆっくりと頷いた。
「トム、お前の仕事だ」トムはクロの左手を掴み手錠をかけた。同時にクロの右手の止血を始める。あちこちから今気づいたように沸き上がるサイレン。警察車両の大軍が近づい
てきている。「クロぉ、俺は馬鹿だからよ。お前の考えてることなんて昔っからまったく分からなかったよ。でもよ、日本にいたガキの頃から俺はいつでもお前のことを尊敬してたんだぜ ? いつかお前に追いつきたいってよ。だけどよ、俺にはアラウラや夏姫やナツキがいたからな。あいつらがいつも俺を止めるのさ。俺が危なっかしいとこに立つと、そっから先は行っちゃいけねえってよ、だからよ ……本当は俺がお前のそういう役になってやればよかったんだ」
ロックマンは笑いながら泣いていた。「ごめんな」 ■
かつて佐渡の国府が置かれた真野地区には、都から送られた流人達が暮らしていました。静かな山里に佇む「岩抱きの梅」は、鎌倉時代、順徳天皇お手植えの梅と伝えられます。佐渡に流されたのは、貴族や政治犯、宗教家、芸術家などで牢屋に繋がれることはなく、島民は流人を分け隔てなく受け入れました。なかには赦免された後、佐渡に戻ってくる流人もいたようです。
真野地区の「佐渡歴史伝説館」では、鎌倉〜室町時代
に佐渡に遠流された歴史的人物を知ることができます。
慶子女王は順徳天皇の第一皇女で、1225年に佐渡で生まれ、62年の生涯を佐渡で閉じました。順徳天皇をはじめ都から流された人々によって伝えられた京文化は、佐渡に根をおろし今に伝えられています。
京なまり ありて懐かし 佐渡ことば その言葉ゆえ 君を忘れじ
吉井 勇
順徳天皇が佐渡に流されたのは鎌倉時代の1221年。思ひきや 雲の上をば 余所に見て
父である後鳥羽上皇と共に鎌倉幕府討伐のため承久の乱
を起こしますが、鎮圧され佐渡に遠流されました。 真野の入り江に 朽ち果んとは
赦免され京に戻ることを願い続けた順徳天皇でしたが、順徳天皇配流から21年が過ぎた頃、自ら食を断ち崩御しました。
『風姿花伝』など、能の世界を大きく発展させた世阿弥(観世元清)は、室町時代の1434年 72歳という高齢で佐渡へ流されました。時の将軍・足利義教に疎まれたためとも言われます(都に帰れたかは不明)。一説には日照りに悩む農民のため雨乞いの舞を舞ったところ、たちまち大雨が降りだし、雨のなか農民はその姿に見とれたそうです。佐渡奉行所の初代奉行・大久保長安により佐渡に能楽師が定住し、市井の人々にも広まりました。「能はやるものだ」といわれる佐渡には、今も30以上の能舞台があり、6月から 8月にかけては多くの薪能が市民により上演されます。佐渡歴史伝説館には佐渡を代表する工芸家・佐々木象堂
(人間国宝)の記念館があります。皇居の屋根を飾る代表作「瑞鳥」をはじめ、ろう型鋳金によって作られたアルカイックな魅力をもつ作品を堪能できます。
佐渡を代表する陶芸「無名異焼」の玉堂窯元を訪ねました。無名異とは金山の坑道でとれる酸化鉄の泥で、昔は薬としても利用されていました。これを陶土と混ぜて1200度 Cの高温で焼成したのが無名異焼です。通常の陶土よりも収縮率が高く3割以上も縮み、叩くと金属音がします。玉堂窯元では釉薬を使わず伝統的な登り窯で焼くことで、自然な窯変を活かしています。無名異を採るには佐渡市の許可が必要で、窯元が共同で採取しているそうです。
浜辺には、浜萱草(ハマカンゾウ)の花が咲き始めました。
ドラゴンシリーズ
ドラゴンへの道編
旅と迷い道
久しぶりの一人旅、車でゆっくりと景色を眺めながら窓を開けて、風で髪
の毛はあっちこちに流れ飛び、アデランスも一緒に飛んで行ってしまうそうな、田舎道の初夏の空気を吸い込みながら、心からゆったりとした気持ちのドライブ、一人旅と言っても出張ですが。
こんなことを書いてしまうと、もう今後は何も書けなくなっていってしまい、自分の首を締めてしまうことになる。しかし、僕の中で起こっている切実で明確な変化から逃げることはできないので、今日は僕の心の内を書いてみようと思う。
簡単に言ってしまえば、分かりきったことで、それは素晴らしいことなのだが、人は確実に一人一人が違う訳で、お互いを理解することができないものなのだと言う事実を最近になって改めて、強く感じるので
ある。その想いと確認するような出来事が続く。面白い、しかし、同時に不毛であるし、寂しくもある。しかし、それは真実である。
僕も普段から前後を考えずに言葉を発し、文字にしても不毛な文脈で他人を困惑させていることだろう。そんな自分のことを省みても、人間同士は本当になんともお互いを理解することが難しい存在同士なんだろうかと、今頃になってその深い悩みの中で迷走しているのが今の自分なのです。まだまだ、若きウェルテルなのです。
そっと、隣の人を見てください。じっと、静かにその人の心の中を読み取ってみてください。きっと、とっても恐ろしくなって、息ができないほどの恐怖感で頭がおかしくなってしまうと思います。
人は人に対して、優しさや愛情を注いで一生懸命に生きている。心から優しい純粋な人も、根っから冷酷な人間も存在する。人間も多種多様であり、その生き方もそれぞれです。一度、その違いを意識し始めて、他人の言葉や自分の言葉を反芻して読み込んでしまうと、生き方や言動を意識し、考えて
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吉田龍太郎( TIME & STYLE )
生きてゆかざるを得ないのです。
他人の言葉はその人に対して大きな影響を否応なしに与えてゆきます。それによって生きることに対する希望を取り戻す人もいれば、不用意な言葉は感受性の深い人を深く傷つけます。言葉はそれだけ強いプラスとマイナスの力を持っています。
人生、仕事、友情、人は血の繋がった家族も含めて、人間との関係の中で生き、そして助け、助けられて生きています。そんな友人や知人など全ての人々との関係がとっても自分自身の中で危ういものとなっていることを白状します。ゲロ。反面、これまでにはなかったほど人に対して深く強い繋がり、これまで感じることができなかった強い想いを感じることがあるのです。これは相反する事実です。
ある人へは、これまで抱いてきた気持ちを持ち続けることができません。それはその人が変わったわけではなくて、自分の視点が変わり、感じ方が変わっただけで本来の姿を見、あるべき形となっただけです。ですから、本質は何も変わってはいないのです。
良いと思ってきたことや、良いと思ってしてきたことが、本当に良かったのだろうか。自分は何のために、生きているのだろうかと。そして、これから人々からの言葉や行為を、どのように受け止めてゆけば良いのかと、自分を省みずに本音を言えば、正直に落胆することが多くなってきたのです。そして、同時に人間からこれまで以上により強く感銘を受けることも多くなりました。
普段は自分自身がそうなのですが、自分に甘いし、自己中心に考え、生きています。自分のことを考えても、他人に対しての行いも欺瞞であることが多く、計算されたものが多いと感じます。どんな組織でも、企業でも個人でも自分中心で、自分のことが一番の最優先事項なのだと言う事実から目を逸らしてはなりません。
そんなことを考えながら、田舎道をドライブしているのは、なんとも自己中心的な素敵な時間です。
そっと隣の人の心に耳を傾けてみてください。きっと沢山の言葉が溢れ出してくると思います。でも、心してかからないと大怪我をしてしまいますよ。人の心は自分の心の中と同様に恐ろしく、また、自己中心的なものなのです。まだまだこれから一人旅の迷走は続きます。今日はこの辺で。 iPadから送信
木羽(こば)葺き石置きの屋根が連なる「宿根木」の町は、佐渡西南部の小木地区にあります。日本海に開けた天然の良港は千石船の寄港地として栄え、やがて廻船業・造船業に乗り出した町は、佐渡の富の3分の1を持つといわれるほどに栄えました。
「宿根木」の町を、小木ふれあいガイドの佐藤さんが案内してくれました。
重要伝統的建造物群保存地区に指定された宿根木では、板張りの外壁や木羽葺き石置き屋根の復元が進められています。木羽葺は瓦が普及するまで一般的に使われ、スギを薄く割った木羽を葺き、丸石を乗せ押さえる工法です。今は石が落ちないよう穴を開け釘で固定しています。瓦に比べ傷みやすく、10年程で葺き替えが必要だそうです。港に面した町の入口には、海風から家並みを守る竹製の柵を設けています。かつて千石船で賑わった港には、240年前頃に建てられた御影石の船つなぎ石(しろぼうず)が残されています。浜では千石船の修繕や新造船の建設も行われていました。港から町へと続く小道は、いつの頃からか「世捨小路」と呼ばれ民家が密集し、古い酒屋や柴田収蔵(江戸期に世界地図を作成)の生家があります。港に近い佐藤さんのご自宅。わずか1ヘクタールほどの谷間に110軒が密集する宿根木では、庭のある家はごくわずかです。佐藤さんは昭和 30年代に東京へでて建設業に就いたあと、昭和 50年代に佐渡にもどり富山市で建設業を続けたそうです。宿根木は江戸時代に千石船の寄港地として賑わいますが、幕府の方策で寄港地は小木港に移り、船大工や航海術に長けた船乗りは自ら千石船を建造して廻船業を営み栄えました。明治になり廻船業が衰えると、農業や漁業へ転換しますが、出稼ぎや若者の流出も多くなります。こうした変遷のなか、宿根木の町並みは江戸時代の面影を残したまま今に伝えられました。
上下水が整備される以前は、台所の水を排水口に溜め畑に撒いていました。井戸水は貴重なもので、今の多くの家で利用されています。火事になると密集した町は丸焼けになります。以前は10時、12時、2時の3回、拍子木を叩いた夜回りが輪番制で行われていました。現在も10時の1回だけ行われ、80歳を過ぎると輪番を免除されるそうです。
▲ 高い位置の明かり採りは、紐を引っ張って開閉します。廻船業で財をなした高津清九郎家。1782年の記録では、北海道の松前からニシンや数の子、昆布などを仕入れ、秋田から新潟、敦賀、下関にまで寄港して販売したとあるそうで、佐渡でとれる米も主要な商品でした。玄関を入ったミセ(土間)には台所があり、囲炉裏をきったオマエ(居間)は床や建具、柱などを全て溜め漆で仕上げています。
プラタナスの公園は、神話的な彫刻に彩られています。
母屋の裏には宿根木では珍しい庭があり、岩の崖には低温の貯蔵庫が掘り抜かれています。
宿根木の伝統的な外壁は、スギ板を縦に張ったものです。板は相じゃくりで継がれていて、継ぎ目を1段ごとにずらすことで、雨水の侵入を防いでいます。こうした技法をこらした家々は、船大工の技術を活かし建てられました。宿根木で一軒だけの洋風の家は、大正10年に設立された郵便局です。佐藤さんが子どもの頃は、ここに電話を掛けに来ていたそうです。町の中心を流れる称光寺川。洗い物や洗濯物で人が集まり、生活用水にも使われた町の生命線でした。コンクリートで護岸した後はカニやハゼなど生き物が減り、海の魚も居なくなったそうです。川にかかる御影石の橋は瀬戸内から帰る千石船に積まれてきたもので、船主たちが町に寄付しました。空荷では船が不安定になるため、石をバラストとして積んだようです。
吉永小百合さんの CMで有名になった三角屋。道の形状に従った緩やかな曲面で構成され、船大工の技量をよく表しています。基礎は石で築き、土台部分は横板で覆い、この板には船の廃材を使うこともあったそうです。以前は一人暮らしの女性が塩屋を営んでいましたが、大阪の息子夫婦に引き取られ、家は町に寄付されました。中心に居間があり、そのまわりに納戸や仏間、浴室などを複雑に配置しています。本堂は大正 12年の大火で焼け。14年に再建されました。
町の最奥に佇む古刹「称光寺」。岩を刳り貫いて設けられた墓所には花が絶えません。海で命を落とすも船乗りも多く、女性たちは毎朝花を供え航海の無事を祈ったそうです。称光寺の創建は 670年ほど前で、新潟から佐渡に渡った時宗の僧侶たちが開いたと伝わります。「念仏の島」と呼ばれるほど佐渡には多くの寺院が建ち、清水寺や長谷寺と名付けられた寺もあります。
▲崖を切り崩して建てられたような家もあります。
▼ 土蔵は板張りの上屋で覆われ、外からは分かりません。
村の共同井戸。江戸末期になると新田が開発され、谷の上に新しい集落が拓かれました。農業用水が整備されるまで、この井戸から水を汲み、石段を上がって畑に撒いていたそうです。
工房楽記ジャワの気まぐれシェフ
鈴木 惠三(BC工房 主人)
その大きさに圧倒される千石船は、宿根木の町をあがった小木民俗博物館「千石船 白山丸 展示館」にあります。全長は23.75m、最大幅7.24mで、約77トンの米を積載できます。
白山丸は、安政 5年(1858)に宿根木で建造された幸栄丸の図面を元に忠実に復元されました。宿根木では安永3年(1774)に船大工の棟梁と20人以上の弟子が集まり、以来、千石船(弁財船)の建造が始まります。復元計画は平成 4年から宿根木住民の発案でスタートし、岩手の船大工集団「気仙船匠会」や宿根木の町を調査してきたTEM研究所の協力のもと、小木の船大工とともに平成 9年から10カ月かけて建造されました。船大工たちは宿根木の民家に宿泊し、地元の婦人たちが食事などの世話をしたそうです。千石船(弁財船)は、一枚の板絵を元に日本独自の構造と技術で作られます。展示館には実物大断面模型も置かれ、造船用のツバノミや和釘、カスガイなども展示されています。厚い板を曲げたり繋いだり、巨大木造船を建造する技術力に圧倒されました。7月末の白山丸祭りでは船を屋外に曳き出し、帆が掛けられます。
新館は漁業や農業に使われた道具を陳列し、大阪の国立民族学博物館にも引けをとらない質の高い展示を行っています。
左上は、若手クリエイターを発掘する「TALENTS」に出展した「ろくろ舎」。代表の酒井義夫さんは越前漆器のろくろ師として働きながら、間伐材を利用した木地を感じられる製品を開発しています。今回出展したTIMBER POTはYoung Designer Awardを受賞し、Ambiente総責任者のニコレット・ナウマンさんからトロフィーを受け取ると共に、来年2月のAmbiente (フランクフルト)出展に招待されました。左下は、TAKT PROJECTの本多 敦さん。色素で自在に着色できるプラスティック製の椅子 Dye It Yourselfを出展しました。使い捨てというプラスティックのイメージを払拭し、新しい価値観を提案したいそうです。
▼播州刃物
Japan Styleに出展したTIME & STYLEは、新作の
「museums cabinets for private collection.」を発表。大切なコレクションのための、5面をガラス窓にしたミュージアムキャビネットです。扉は引き戸になっていて、膨らみをもたせたフレームには玉縁を設け、李朝や明朝をミックスした大陸的な雰囲気を感じさせます。三方どめや剣先どめなど伝統的な技法により頑丈につくられ、材料にはナラやヤマザクラ、カバなどの国産材を使っています。深みのある黒色仕上げは、ナラのタンニン成分を柿渋と反応させたもので、他にビーズワックス仕上げもありました。
TIME & STYLEは Best Buyer 's Choiceを受賞。
新設された「FOODIST」のコーナーには、三宅商店カフェ工房やコトハ:コーヒー、フロムファームなどが出展し賑わいました。ヨシタ手工業デザイン室の吉田守孝さんは、新潟県燕市のメーカーと協働し、ステンレスの丸棒を潰したラウンドバーを利用したキッチンウェアを制作しています。ソリッドな重量感と共に、丸みのあるエッジから暖かみを感じます。柳宗理さんに師事した吉田さんは、柳さんの思想をうけつぎ、世の中のためになる製品を増やしていきたいといいます。日本の磁器発祥の地である佐賀県有田からは、有田焼創業 400年事業実行委員会が出展。 ARITA SELECTIONプロジェクトには有田の窯元 20数社が参加し、オリジナルの豆皿を展示しました。手頃な豆皿をつうじて、有田の窯元に多くの人が訪れて欲しいという願いを込めているそうです。他に、まるぶんの ZOAは古伊万里の絵付け(総手描き)と、それをシンプルにデザインした絵柄を合わせてシリーズ化し、伝統とモダンを合わせる楽しみを提案していました。