Colla:J コラージ 時空に描く美意識
















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稲刈 2021 https://collaj.jp/ 時空を超える美意識 持続可能な世界へ向かう北の大地 北海道旭川、東川、鷹栖 北海道立北の森づくり専門学院(旭川市)百年先を見据えた森づくりをすすめるため、林業の幅広い知識と技術をもった人を育成する専門学院が、2020年、旭川市に誕生しました。 森林の再生と未来を担う人づくり 北海道立北の森づくり専門学院は林業の即戦力を育てる専修学校として、旭川の林産試験場に隣接して建てられました。北海道では輸出のために原生林の木が大量に伐採され、その後、植林をした人工林が伐採の時期を迎えています。伐採が遅れると木が腐り、経済価値が失われ森林整備の資金が得られず森林が荒廃してしまいます。豊かな森を保つには、林業を経済的に成り立たせ、植林と管理に投資するサイクルを続ける必要があります。そのために森林調査、伐採、管理などを行う即戦力の育成が急がれているのです。 教務課長の佐藤圭さんが、建物を案内してくださいました。設計は遠藤建築アトリエ(札幌)で、北海道のカラ松CLT(直交集成板)、トド松・カラ松コアドライなどを多用しています。 ▲北海道を代表する樹種の見本。▼ロッカーにも木質材料が使われていました。 約1300㎡のうち約1000㎡が木造で、中心部はCLTの大面積パネルを使った壁構造。周辺部にコアドライの在来工法を用いたハイブリッドな構造です。広い実習室の天井は、CLTのパネルを金属プレートで組んだ梁によって支えています。 同学院は2年制、1学年40人の少人数で実習が3分の2を占めます。2年生は北海道30カ所ほどの林業会社などで約3週間のインターンシップを年2回行い、マッチングが良ければ就職することも想定されてます。カリキュラムは森の基礎知識から調査、育苗、管理、伐採、植林、木材加工までを学べ、隣接する林産試験場では製材の実習も行います。林業の仕事は多方面にわたり、インターンシップや実習を通して自分に適した分野を見つけることが可能です。フィンランドの林業学校と提携し、オンライン会議でカリキュラムなどの相談をしているそうです。 ▲学院では実物の重機も経験できます。 学院にいち早く導入されたのが、ずらりと並んだ林業機械のシミュレーターです。従来は就職してから学んでいたハーベスターなど重機の操作をあらかじめ習得することで、現場ですぐに操作できるようになるそうです。シミュレーターは実機と全く同じ操作で作業ごとのプログラムがあり、動画の解説を見てから課題をクリアすると次のステップに進みます。林業は作業の安全や効率を高めるため、機械化、自動化がすすんでいて、人が歩いて調べていた森林調査にもGPSやドローンが採用されています。卒業生には先端技術を林業の現場に伝え、近代化をリードする役割も期待されています。 外では2年生の加藤さんが、チェーンソーの自主練習をしていました。学院には全国から様々な人が林業を学びにやってきます。多くは高卒、大卒ですが、社会人も40歳まで入校できます。就職は林業会社だけでなく、商社や苗木の会社を目指す人もいるそうです。 加藤さんは東京の高校を卒業後、チラシを見て説明会に出たのがきっかけで同学院に入りました。父親の実家が北海道にあり、道内の森林組合を志望しているそうです。林業はとても幅の広い仕事で、各地域で森の特性や職種も異なり、その未来を築くため様々な個性をもつ人が求められています。 EXHIBITION 渋谷区立松濤美術館開館40周年記念 白井晟一 入門 第1部 白井晟一クロニクル 2021年10月23日.12月12日 第2部 Backto1981 建物公開 2022年 1月4日.30日 土・日曜日、祝日と最終週(第1部 12月7日.12日、第2部 1月25日.30日)は「日時指定制」 数々の伝説的な建築作品と逸話を遺し、今も人々に疑問を問いかけ続ける建築家白井晟一。松濤美術館は晩年の代表作として、開館40周年を迎えました。それを記念した展覧会は2部構成で、第1部は白井晟一のオリジナル図面、建築模型、装丁デザイン画、書などの作品を中心に展示されます。第2部は松濤美術館の展示壁をとり払い、白井のイメージした開館時1981年に近づけ非公開の「茶室」も特別公開。美術館自体が白井作品として展示されるほか、愛用品、美術品がインスタレーションとして再構成されます。 写真中央《石水館(静岡市立芹沢.介美術館)》1979.81撮影古舘克明右上《サンタ・キアラ館》茨城キリスト教大学チャペル1973.74撮影村井修右下《懐霄館(親和銀行電算事務センター)》1973.75撮影柿沼守利  童謡詩人 金子みすゞの世界 上川倉庫蔵囲夢デザインギャラリー 金子みすゞの展覧会「童謡詩人金子みすゞの世界展2021」が旭川駅近くの上川倉庫蔵囲夢デザインギャラリーで開催されました(2021年7月17日.8月1日)。旭川では2000年の「童謡詩人金子みすゞ展」をきっかけに「旭川みすゞ会」が発足。理事長原田直彦さん、代表村田和子さんを中心に20年にわたる活動を続けてきました。 金子みすゞの生まれ故郷山口県仙崎は、捕鯨や漁業で栄えた街で、毎年クジラを弔う「鯨法会」がひらかれています。こうした環境がみすゞ独特の命への思いを育んだと考えられています。 私と小鳥と鈴と金子みすゞ 私が両手をひろげても、お空はちっとも飛べないが、飛べる小鳥は私のように、地面を速くは走れない。 私がからだをゆすっても、きれいな音は出ないけど、あの鳴る鈴は私のように、たくさんな唄は知らないよ。 鈴と、小鳥と、それから私、みんなちがって、みんないい。 上川倉庫蔵囲夢には、明治30年代のレンガ倉庫を利用した「大雪地ビール館」「デザインギャラリー」「コレクション館」「リハーサルホール」があります。 Time & Style The Suite room 皮革の源をたどって家具、バッグ、服飾、靴、財布、ベルトなど生活に欠かせない皮革。コラージは2021年4月号で、日本最大の革産地姫路を紹介しました。 北海道畜産公社/作田畜産今回は皮革になる前の、原皮の産地 旭川を訪ねます。上は北海道旭川市の作田畜産から姫路の皮革工場に運ばれた牛の原皮です。姫路には100社以上の製革メーカーがあり、日本・世界から牛の原皮が集まります。原皮は毛や皮下脂肪を取り除き、フレッシング、スプリッティングなどの工程を経て、大きなドラムを回転した「クロムなめし」によって、ウェットブルーと呼ばれる薄いブルー色のなめし革になります。その後、絞り、シェービング、染色など沢山の工程を経て皮革となります(左下のリンクからコラージ2021年4月号参照)。 北海道 旭川市東鷹栖 北海道畜産公社上川工場(旭川) 昭和54年、旭川市に設立された北海道畜産公社上川工場。1日平均、牛100頭、豚300頭のほか、羊たちが上川管内からトラックで運ばれ、と畜解体処理されています。 公社のルーツ札幌畜産公社は、ホクレン、札幌市、雪印食品により昭和32年に設立され、釧路、北見、上川、十勝へと工場を拡大。上川工場(旭川)は牛については北海道で約7割のシェアをもち、年間約2万頭を扱うそうです。工場に入る前に不織布カバー、長靴、ゴム手袋、ヘルメットで全身を覆い、手洗い、長靴の消毒を行いました。工場はHACCP(ハサップ)に基づいて衛生管理され、旭川市保健所の職員が常駐して衛生、生体検査などを日々行っています。 トラックで搬送された牛、豚、羊がケージに移されていました。ここで生体検査を行い、一晩を過ごしたあとと、と畜解体処理されます。午前は牛、午後は豚、羊を扱っています。 ▼主に食肉用に飼育されるサフォーク種の羊もいました。 牛で数が多いのは去勢されたホルスタインのオス(18.20カ月)で、体重750kg前後が標準です。その他6.8歳のホルスタイン経産牛(メス)、黒毛和牛(25.35カ月)もいます。耳の黄色い耳標にある個体識別番号が、事前に申請された番号と一致するか確認します。アニマルウェルフェアの観点から、ケージで過ごす間に水をとれるようになっているそうです。▼ と畜銃。空気圧によって針が飛び出す仕組みです。 ケージで一晩を過ごした牛たちは、と畜解体処理場へ向かう坂道を一列に歩いていきます。処理場に入ると、と畜銃を眉間にうって(牛の場合)、仮死状態にして放血してから後ろ肢を吊り上げます(豚など小動物は電気ショック)。ストレスを与えず放血することが、肉の品質を大きく左右します。血液は粉状に乾燥して、産業廃棄物として適切に処理されます。 放血された牛はコンベア方式で次の工程に運ばれます。大きなカニ爪のようなカッターで肢を切り落とし、後ろ脚から皮を剥いでいきます。この工程は特にベテラン社員が行い、肉も皮も傷つけないよう先輩から技術を教わるそうです。刃物や手のひらを頻繁に熱湯や消毒液で消毒するため、蒸気がもうもうと出ています。衛生管理の徹底ぶりを感じます。 上下するリフトに乗って上から下へ皮を剥ぎ、ローラーに皮を巻き取っていきます。剥ぎとった生皮は階下にある作田畜産の原皮加工場にダクトで送られます。 ▲ 内臓の一部はラインで処理され食用として出荷されます。 ▼ 枝肉は冷蔵室に送られ、肉の加工工程に入ります。枝肉の状態でA5などの格付けや業者間の取り引きが行われます。 胸骨を割ってから頭部や脊髄を除去し、内臓を摘出します。バンドソーで背割すると2分割された枝肉になり、洗浄した後に冷蔵室へ送られます。生体の時は750kgだった体重が枝肉で420kg、骨や脂身をとり部分肉になると300kg程度になります。なお公社はと畜解体処理を行うだけで、家畜や肉の取り引きは行っていません。 オルテの丘2021 埼玉県大宮市から北海道美瑛町に移住した小宮輝夫・富久子夫妻が、16年の歳月をかけて築いたオープンガーデン「オルテの丘」。 BOOK REVIEW 富良野のレストラン ル ゴロワが、20年以上つづく定番レシピを公開 『 レストラン「ル ゴロワ」のレシピから 季節のごはんと暮らし方 』 大塚健一・大塚敬子 朝日新聞出版刊 1997年表参道にオープンし、三國連太郎さんはじめ沢山のファンに愛された大塚健一・大塚敬子夫妻のレストランルゴロワ。馬と一緒に暮らしたいという敬子夫人の長年の願いをかなえ、新鮮な食材に恵まれた北海道富良野に移転オープンして3年がたちました。本書は前半は移住にともなう波乱万丈のエピソード。後半はルゴロワサラダ、ハヤシライス、グレープフルーツのプリン、そば粉のパン、かぼちゃのスープなど、つくり続けられてきた絶対おいしい定番メニューの作り方を、大塚シェフが紹介します。 ▲ 作田畜産の作田清治さん。  ▼ と畜解体処理場とつながったダクトから生皮が落ちてきます。 と畜解体処理場の階下に、作田畜産の原皮加工場があります。同社2代目作田良治さんは上川工場設立の際に、原皮加工場を建物内に設けることを提案。と畜場と直結することで、解体から20分以内の塩蔵処理を可能にしました。生皮はバクテリアによって急速に劣化するため、いち早く塩蔵することが重要で、生皮の鮮度が皮革の品質を大きく左右します。 ▲ 生皮をフォークリフトに積み込みドラムに運びます。 ▼粒子の細かい食用塩をドラムに投入します。 通常の塩蔵は生皮に粗塩を振りかけるだけですが、作田畜産では皮なめしのドラムを利用して手間をかけて塩蔵します。最初にソーダ灰を入れたドラムを回し、洗浄と共に毛穴を広げます。次に細かな食用塩のドラムを回すことで、塩をスピーディーに浸透させます。3交代18時間で、毎日200頭分の皮を加工し、夜間には北見などからも生皮が運ばれてきます。 ▲豚皮の加工も行っています。 ▼ 塩蔵された原皮は姫路などの皮革メーカーに運ばれます。 「北海道北部、東部の牛の皮は、世界的にみても最高レベルの品質です。肌がきめ細やかで厚みがあります」と作田さん。その品質を保ったまま、いかに迅速に皮革メーカーに届けるかを探求してきたそうです。もし生皮を原皮に利用できないと多額の処理コストがかかるため、皮の有効利用は畜産農家、公社にとっても重要な問題です。世界的には環境汚染や児童労働の温床になっているという指摘もあり、トレーサビリティできる国産原皮の価値が高まっています。 ▲ 作田清治さん(右)とTime&Style吉田安志さん(左)。  ▼ レトルト食品の製造も行っています。 創業100年を越える作田畜産は、元津軽藩の半農半士の家に生まれた作田松三郎氏によって創業されました。青森から北海道に渡った松三郎氏は、旭川陸軍第7師団の軍馬を集める仕事をはじめ、軍需の波にのり天塩など各地に広大な牧場を取得して、馬や牛を樺太、満州へと送り大成功しました。しかし終戦後はGHQによる農地解放で牧場の大半を失い、畜産、油脂製造、原皮販売、食肉卸、肉の小売りへと業態を変化させていきました。 ▲ 海外輸出向けの原皮は、水分量を少なくするそうです。 ▼冷凍倉庫に保管されたボックスミート。 上は姫路の倉庫で、作田畜産の原皮をなめしたウェットブルーを検品している所です。シミやキズ、バクテリアの汚染が少なく品質の高さが評価されていました。3代目の作田清治さんは父良治さんから、美味しい肉を売るという商売の根本を教わったそうです。「肉屋は看板を見ろ」という言葉があり、食肉の良し悪しは肉屋の信用で判断するしかないという意味です。近年欧米ではヴィーガンなど食肉を避ける動きがありますが、世界的には経済発展した国で食肉が増える傾向にあります。地球温暖化に対する畜産の影響を抑えるために日本ができることは、まずフードロスを無くすことと作田さんはいいます。。 るカナメ、実りの十月と言えるかもしれません。 しかしながら、もう中旬すぎというのに一向に涼しくなりませんねぇ。窓を開けてもここちよい風が入ってこない気がします。 その原因は何なんでしょう。気候変動はとどまることを知らず地球を傷つけ破壊しはじめました。夏の長引く日照りによる作物への影響、水産物では秋の味覚に欠かせないサンマや鮭にまで及び、海水温上昇による影響は台風や長雨など自然災害発生を誘導します。この世界の、生きとし生けるもの全てが危機にさらされてる状態なんですね。政府・省庁はこれら各地域の事象に対し調査・研究を深め、もっともっと対策をすすめるべき。でなければ地球号まるごと沈没しちゃいそう。 国民が暮らす環境整備をこそ推し進めなければならないのに、それでなくともせまいニッポン。なぜにぎゅうぎゅう詰めで暮らす自国の都心上空へ、しかも超低空飛行で大型旅客機を飛ばさなければならないの? オリンピックの損失を、ただただ回収するのに必死か?とどまらぬ地球温暖化+新型コロナ感染、そのうえ羽田新航路による心身へのダメージ。国民はこのとても酷い環境のなかで辛抱し、 その19 青山かすみ 2 年に渡り懸命に生き抜きましたよ! しかし現在の政府は相も変わらず焦って、経済回復まっしぐらに走り出そうとしてる?まずは、ちゃんとちゃんと都道府県の環境整備をなさってください。ジェット機から撒き散らされる二酸化炭素排出削減に務めることこそ が政府の役割なはずでしょう?加えて 年に及んだコロナ禍不況は貧富の二 極化をますます促進させてしまいましたよね。サービス業へのダメージは目に見えるが如く。飲食業はここもあそこも閉店の張り紙で溢れ、出前はじめましたの看板なども増えてきました。いかに死活問題かが伺えます。 その一方、はびこるウーバーイーツ。私達はもちろん利用しませんが、ある日突如、玄関前に大盛りカレーがでんと鎮座おわしまして、廊下でカレー臭が充満してました。店に連絡するとウーバーイーツの「置き配」とのこと。そしてなんとウーバーからは「自分で破棄してください」。ウーバーは回収しないし、配達パートナーの連絡先は個人情報で教えられないって……。苦情は警察に相談して下さいと言われる始末。さすが米国資本、日本人との直接対話は避けて法の抜け道をうまく利用するわけね。飲食の「置き配」は迷惑行為になりかねません。和歌山毒カレー事件を彷彿とさせる体験でした。 解雇による人あまり現象はどう解決してゆけるでしょう。ウーバーのようなブラック海外企業が増えるのは当然です。働き方改革という名の隷属的労働を合法化した政権は、来たるべき未来に長く険しい道のりを遺したといえそうです。国民ひとり一人が自分の考えをもち、誇りを持って生きられる世の中にならなければ、生まれてきた意味がありませんよね。 2 1990年から3年に一度、30年にわたり続いてきた国際家具デザインコンペ 国際家具デザインコンペティション 旭川 2021 ティション旭川。2021年の入賞入選作を紹介したIFDA入賞入選作品展が 旭川デザインセンター旭川デザインセンターで開かれました(9月26日まで)。同センターには家具 やクラフトのメーカー約30社の常設ブースがあり、製品の購入もできます。 審査委員は建築家 藤本壮介さんはじめ、デザインミュージアムデンマーク館長 アン・ルイス・ソマーさん、デザイナー マイケル・ヤングさんなど。世界から588点の応募があり、ゴールドリーフ(金賞)には渡辺賢さん「cubicle」(上)が選ばれました。▲ ナンナ・ディッツェル「BENCH FOR TWO」 入賞入選作品展にあわせて、コンペティション30年の歴史を振り返る「デザイナーとつくる、暮らしのストーリー」展がひらかれました。1990年第1回の金賞となったナンナ・ディッツェルさんの「BENCH FORTWO」は、コンペティションから生まれた名作椅子です。第1回のシンポジウムには、喜多俊之さん、ジョナサン・デ・パスさん、鈴木庄吾さんなどが参加していました。1999年には日本最大の名作椅子展となった織田憲嗣コレクション「1000脚展」が開催されました。 机のうえ ちらばった星356つぶ Vol.28 原作: タカハシヨウイチ 寧江絵 : タカハシヨウイチ 鷹栖町の米づくり農家 沢口 仁さん(上川郡 鷹栖町) 旭川市内を流れる石狩川を越えて西へ進むと、上川の米どころ鷹栖町があります。この地で稲作農家4代目の沢口仁さんを訪ねました。初代の曽祖父は富山・砺波の出身で、19歳のころに養祖父母に連れられて入植したそうです。今は15.1ヘクタールの水田で、ゆめぴりか、ななつぼし、きらら397を、年間90トンほど生産しています。 大きく蛇行するオサラッペ川は、鷹栖町のシンボルであると同時に氾濫を繰り返してきました。河川改修工事による川の直線化が進み、全長55kmから半分近くまで縮まり洪水の被害は減りました。沢口さんは北海道大学で農業経営学を七戸長生ゼミで学び、太田原高昭ゼミにもオブザーバー参加したそうです。沢口さんの北野地区では平成25年から、国交省北海道開発局旭川開発建設部によって、国営緊急農地再編整備事業が進められています。田畑のひと区画を大きく広げるため、表土を一旦.ぎ取り地盤の高さを揃え、用排水路を地中パイプ化するという大規模な工事です。作業効率化による後継者不足の解消や耕作放棄地の発生予防も期待されます。上のGoogle Mapで従来の区画との違いが分ります。 農地再編整備事業の工事費は国、北海道、鷹栖町、生産者が負担して行われ、北野地区の耕作者と地権者で組織された促進期成会のもと691ヘクタールの改良に取り組んで来ました。 明治40年代に建てられた築百年を越える農作業小屋は、鷹栖町の移り変わりを見守り続けてきました。 整備された水田は1区画が広くなり、農業機械を入れやすくした半円形の出入り口から、あぜ道がまっすぐ伸びています。用排水路は地中化され、バルブを開けると水が勢いよく吹き出してきました。田植え機などの作業効率があがり、用水・排水を埋設する事で草刈作業が楽になる。パイプライン化で水を有効利用できる。水持ちが良くなるといった効果があり、水田に12m間隔で設けた暗渠によって水を抜いたり、張ったりをコントロールできます。工事終了後1年目は重機で土が固くなってしまい耕しにくかったそうです。収量は一時的に落ちましたが、2年目は土壌分析に基づいて地中の窒素分を調整し、3年目の今年は質、量ともに豊作だったとのことです 沢口さんは、キュウリのハウス栽培にも力を入れています。ハウスは5棟あり、5.11月までで40トン近くを収穫します。毎日の見回りを欠かさず、枝を剪定したり、古い葉をとって新芽を伸ばしたり、ミネラルやアミノ酸を土壌に与えたりと、まっすぐ美味しいキュウリを育てるのは大変な作業です。夏の最盛期は収穫と出荷が続くため、主婦の方々がパート勤務で汗を流します。 コロナ下、ほとんど自宅に引き籠りの中で、挑戦した ことがいくつかある。芸能人の中にも出番のなくなった時間を自宅で過ごす中で、手間暇かけて料理を作る様子がテレビで紹介されていたが、私の場合は手間暇というより道具から整えなければならない。緊急事態宣言中に通販で買った鍋やプライパン、調理器の箱がリビングの片隅に山積みとなっている。ステーキ用の厚いフライパン、点心用の蒸器、ポトフの深なべ、炊き込みご飯の土鍋、すき焼き用南部鉄鍋、うどんすき鍋、しゃぶしゃぶ鍋。 らっきょう漬け、生姜の甘酢漬け用大小ガラス瓶、ザワークラウト、キャロット・ラペの千切り器、シャーベットも作れるカプセルカッター ……などなど。 押入れを片付けていたら、手の込んだ料理の切り抜き が出てきた。 年も昔だが、忙しい中でもいつかは作っ てみたいと切り抜いていたのだろう。 昔の新聞の文字は小さいが丁寧に手順が書いてある。しかしメガネをしてそれを読みながら計量するのは容易ではなく、ざっと書き写して手元に置いてやってみた。 箇条書きにした手順を一通り頭に入れて、野菜を切ったり茹でたり、水にさらしたり、調味料の計量にも結構時間がかかる。初めて作る料理は途中で味をみるが、よくわからない。出来上がった料理は美味しいものばかりではない。 切り抜きを読み返してみると、茹でた後に水気を絞ると書いてあるのを見落としたり、塩でも揉むのを忘れたり、斜めに切るのをそのままにしたり、上手に仕上がらないのも無理はないと、自分を慰め再挑戦するも、何かしら忘れて、またもや失敗。よく作る料理は計量カップで測ることもなく、茹で加減も塩加減も適当。まぁ自分好みで仕上がるが、新聞切り抜きの料理はそうはいかない。鍋と調理器を揃えてもうまくいくものではないということをこのコロナ下で何度も学習した。 1つだけどうしてもやりたいことがあったが、なかなか手が出せなかったことがあった。それはぬか漬け。母がいた頃は食卓にはいつも漬物があった。しばらくは母 40 秋の夜長 の糠床で漬けていたが、いつのまにかその糠床も無くなった。いつかは漬けるときがくると容器だけは綺麗に洗って置いたが、結局そのまま仕舞い忘れ。デパートに行けば浅漬けもぬか漬けも売 20 っている。わざわざ自分で漬けることもないと思っていたが、美味しそうなナスやキュウリ、谷中生姜が出てくると、食卓にあったぬか漬けを思い出す。自分で漬けたらいつでも食べられると、糠床の作り方を読んでみたが、容器を探すまでには至らなかった。 が、とうとう見つけた。糠床と容器が一緒に売っていた。食べ頃のきゅうりと人参、大根が上に乗っていて、「一人〜二人用の初心者向け」と書いてある。最初は横目で素通りしたが、なんとも美味しそうな糠床と白い容器。引き返して売り場に並んだ。マシ 40 ュルームや椎茸のぬか漬けを買う人はリピーターのようで、糠も買っていた。昆布や唐辛子の入れどき引き時はと聞いている。店員さんはテキパキと答えながら、注文の品を包んでいる。もうこれは買うしかない。初心向けとあるの指差し、「これをください」と言うと、ベテランさんが出てきて、ビデオを見せながら、塩はつけすぎず、糠に入れるときはキッチンペーパーで拭いてから、四隅にキッチンペーパーを入れて冷蔵庫に入れる。と要領よく説明してくれた。今更聞けないぬか漬けのつけ方だが、歳を取ってもこういうことはプロに聞くべしと、糠の足し方、塩の塩梅を教えてもらった。白い容器の中には糠床と今日食べる三色の野菜にナスを足してもらい、追加用の糠の入った紙袋を受け取ると、なんだかとても嬉しい気分になった。 代の頃、給料日になると友人たちと銀座に行ってはよく器を見て歩いた。持ち手がついた深い緑の器、これにお漬物を入れたら美味しいだろうなと一目で気に入った。がそのときは買えなかった。何ヶ月が過ぎてまたそのお店に行ったらまだあった。その時に買った緑の器は手元にある。代の頃、京都に行った時に清水焼の小さな小鉢を見つけた。その時もなぜかお漬物を入れたらおいしいだろうなと、結構な値段だったが、そのときは迷わず買った。2つとも買っておいてよかった。 秋の夜長、お漬物と熱燗か焼酎のお湯わりがあれば言うことなし。焼酎はもちろん芋焼酎。炙ったイカがあればなおよし。お月様がひときわ美しい、秋はしみじみやってくる 鷹栖町郷土資料館昭和53年に開館した「鷹栖町郷土資料館」は、明治20年代から始まった開拓の道のりを知ることができる資料館です。北海道では無理といわれた稲作を実現し、水を求めて送水 オサラッペ物語 開拓 130年管を作り上げた町民の労苦を今に伝えています。鷹栖町の歴史は明治24年、今は旭川市となっている旭橋周辺に埼玉から小暮粂太郎さん達が移住したことから始まりました。開拓者は3万坪を与えられ旭川側から開拓が進んでいきましたが、明治35年陸軍第7師団の拠点ができると、石狩川の西側が旭川に編入され今にいたります。屋外展示された水車は、昭和29.53年まで稼働した鷹栖水力発電所の発電用水車です。戦後の電力不足を解消したいと鷹栖農協初代組合長広瀬仙太郎さんの発案で農業用水を利用した落差5.5mの水力発電所(出力1080kW)が建設され、2400戸へ250kWほど送電し残りは北海道電力に売電しました。 大正時代の家を再現したコーナー。この頃は畳ではなくムシロを敷いていました。開拓当初、北海道では寒冷地に適した麦や馬鈴薯が奨励されましたが、それでも米を食べたいという農民の欲求は抑えられず、明治26年には山崎千松さんが水稲の試作に成功します。山崎さんは岩手の出身で、札幌の駒井覚助さんから籾五升を譲り受け、沢水を利用した水田に植えて秋には種籾を収穫できました。それ以降、岩手・山梨・石川・徳島・広島など各県の開拓団が移住し、田中農場、宮腰農場、松平農場など大規模な農場が創設されます。 水田の拡大にともない問題となったのが農業用水の不足です。石狩川から農地までは地形のアップダウンや川があり、通常の水路は通せません。そこで計画されたのがサイフォンの原理を利用したパイプラインです。近文第二土功組合により大正6年、コンクリートパイプ製の灌漑溝が作られましたが、漏水がひどく大破しました。そこで内径5尺のトドマツ製木管が考案され、大日本木管近文工場で製作されました。溝を付けた板材を現地で組み上げ鉄輪で締め付けるもので、急なカーブに木管が耐えるのかと心配されましたが、全長1km近い行程に勢いよく水を送ることに成功しました。 陸軍で栄えた旭川には、大量の軍馬が集められ農耕にも使われました。町には沢山の蹄鉄屋があり、蹄を焼く匂いが漂いました。終戦を迎えると大量の軍馬が民間に払い下げられます。 鷹栖の水田は粘土質が多く、排水のための暗渠配管を施工していました。その耕しくにい土壌には力強い道産子馬が欠かせません。農耕馬は田畑だけでなく、土木工事や森林伐採でも活躍し、冬になると農家の男たちは馬を連れて山に行き、伐り出した丸太を馬ソリに載せて運ぶ出稼ぎ労働をしていました。昭和30年代になるとトラクターが導入され、馬たちは町から姿を消していきました。 ( 80 昨今誰もが、以前とは気候が大きく変わってきたな、と感じて いるはず。東京で夏の暑さが 度なんて珍しくなく、雨が降れば、 記録破りの豪雨で被害続出。海水温の上昇で潮の流れと魚の回遊に変化が出て、旬の魚が獲れない。 カリブ海から米国南部では巨大ハリケーンの被害が恒例化。アメリカ西海岸では熱波と干ばつで山火事が多発。湖や川が干上がり、鮭の遡上が困難に。また地下水枯渇で農業にも大きな被害。スペインやギリシアさらにはシベリアでも同様で、山火事により広大な森林が焼失、アルプスでは氷河の面積が大幅減少、ドイツやベルギーでの大洪水、アフリカではイナゴの異常大発生、雪しか降らないはずのグリーンランドで雨……。挙げていけばキリがありません。この地球規模での気候大変動、その原因は、地球温暖化であり、その最大の要因が、温室効果ガス累積量の増大です。もはや「対岸の火事」ではなく、私達の家の屋根そして足元に、火の粉が舞い落ちて来ている段階となりつつあります。 では、温室効果ガスとは、具体的に何を指すのか。その世界最大規模の発生源たる米国。環境保護庁の報告書によれば、 2019年米国での内訳は、二酸化炭素 %)・メタンガス( 10 %)・ 亜酸化窒素( 7 %)・フッ 素化ガス( 3 %)となって います。では、視点を地球全体に広げてみると、どうなるか。ミ ネソタ大学の研究グループが 9月 日に発表した研究結果が要注 目です。世界の専門家の間で「今後地球規模での温室効果ガス問題を考える際の基本資料となるだろう」との評価が発表直後から出ているもので、以下、その研究概要からの数字を元にして本題 に入ります。 なっている。この 地球規模では、温室効果ガス全量の約 35 35 %のうち、 21 %が畜産業から(注1)、 植物性の食用農産物の栽培から、残り %が綿花畑やゴムの木の 栽培農園から、という割合。ここでの要点は、「農業全体で発出される温室効果ガスの6割弱を畜産業が占めている」ということ。 これは地球規模での温室効果ガス全量の、約 畜産業だけで、これだけの割合に達している。見過ごしにできない数値です。 36 15 4 %が、農業が発出源と 10 %が %に相当します。 21 畜産の中で、近年生産量が急増しているのは鶏肉です。それにもかかわらず特 65 に肉牛が問題にされるのは、なぜなのか。それは、総体としてのガス排出量が突 g 12 出して多いのが、牛肉の飼育を原因とするものだからです。では、どれくらい突 12 99 出しているのか具体的に見てみましょう。以下、それぞれの農畜産物1を生産 65 することで発出される温室効果ガスの量を C O換算で推計した数値です(注2)。 g 10 食肉牛(㎏)、羊肉( 38㎏)、乳牛(㎏)、養殖エビ(㎏)、チーズ(㎏)、豚肉(㎏)、鶏肉(㎏)、卵(㎏)、米(㎏)、豆腐(㎏)、牛乳(㎏)、トマト(㎏)、トウモロコシ( 0.5 2㎏)、小麦&ライ麦(㎏)、大豆等の豆類(㎏)、 5 バナナ(㎏)、ジャガイモ( 10㎏)、ナッツ類(㎏)となっています。 25 33 なかなか興味深い数値だと思いませんか。牛肉の数値が突出して高いのは一目瞭然。豚肉の8倍強で、鶏肉の倍。我々の「主食」であるコメ1㎏と比べるな 24 2 らば、牛肉1㎏当たりの温室効果ガスの排出量は、 0.5 25倍にもなります。ご飯お茶碗に一杯分を炊くのに必要な米の量は、平 2均。牛肉といえば、薄切り肉で数 27 3 切れにしかなりません。それが、ご飯杯分の排出量に相当する、ということです。我々が日常、米と野菜と果物中心の食生活を営んでいれば、それだけで、温暖化ガス kg3 1 24 の発生はかなり抑えることができる、ということになりそうです。このように、食肉生産のための畜産業、中でも肉牛の飼育が、地球温暖化の見過ごせない要因となりつつあることが納得できました。 さて、肉牛の飼育については、もうひとつ重大な問題があります。それは自然環境の破壊です。どういうことか。例えば前回取り上げた、オーストラリア産の「完全牧草飼育・のびのび放牧牛」、一見理想的な牛肉のように思えます。しかし、数万頭規模の肉牛を「完全牧草飼育で、のびのび放牧」させるためには、広大な飼育牧草地を必要とします。牛は驚くべき量の牧草を食べて育ちます。現在、畜舎中心の飼育で一般に利用されるトウモロコシ主体の配合飼料を使わず、これをすべて牧草地での放牧でまかなおうとすれば、これに必要な広大な牧草地を用意する必要がある。また、必要となる水資源確保の問題も見過ごせません。 この問題に関して世界的に現在最も問題視されているのが、ブラジルのアマゾン熱帯雨林の開拓です。一箇所で肉牛十万頭を越えるという、巨大な放牧地の開拓。言うまでもなくアマゾンの熱帯雨林は、 C Oを吸収してくれる地球上でも貴重な森林資源です。それが食肉牛の放牧や、大豆・トウモロコシ栽培のために徐々に喪われつつある。これを嘆き、危機感を表明する声は、特に先進国の間に満ち溢れています。しかし、これはあくまでも、ブラジルという主権国家の国内資源の開発問題です。どこまで他国民が正義を振りかざして、その自制を求める資格があるものか。いささか考えさせられる点があることも事実です。では、どうすべきか。 85 この問題を探っていくと、こうした大規模密林開発に当たっては、その背後に、 15 世界的に十指に満たない、多国籍農畜産業巨大資本の姿が隠れている場合が大半であるようです。また、時には、どこかの国の商社の影も。これは考えてみれば当然のことで、誰かがそこで育った肉牛を買って売りさばいてくれるから、放牧地を開発して肉牛の飼育を行うわけです。「牛肉を食べたい」という私達の欲望が、巨大資本を動かす原動力だということになります。なので、あなたが巨大投資ファンドのマネージャーであるならば、資本の力を通してこれらの巨大企業に注意喚起をすることができるかもしれません。 昨今大流行の E S G(環境、社会、ガバナンス)投資ということになるわけで すが、果たして……。アマゾンで育てられた牛肉(さらにはトウモロコシや大豆) の経路をたどっていけば、巡り巡って私が、そうとは知らずに、その肉牛の一部 を日本のどこかで食べている、という可能 性だって大いに有り得ます。 現代日本の食材流通は、それくらい広範囲かつ多重的な位相で緊密に結ばれた国際的な食材交易ネットワークに組み込まれています。ですから、「アマゾン密林の放牧地 21 開発なんて、私には関係ない」なんてことは、 軽々しく口にできないのです。そう、責任 の一端は、何も考えずに牛肉を漫然と食べ ている私自身にもあるのです。だから、グ ルメ雑誌エピキュリアスの「牛肉拒否宣言」(本連載第118回)ということになるわけ です。 先日、歳の日本人男性ボディビルダー の方のインビュー記事をネットで読みました。食事は長年、玄米と野菜と味噌汁 中心で、動物蛋白は一切摂らないとのこと。「それでも十分、これだけの筋肉を維 持できる、ということを皆様に強く訴えたい」と語っていらしたのが、その見事 な肉体の写真と共に印象的でした。私自身は今も牛肉を時々食べています。でも、 少しずつ減らしていこう、と思い始めています。 5回に渡って語らせて頂いた「肉食のモラル」、代替肉についても触れたいとこ ろですが、これはまた機会を改めて。では、ドトールで「大豆ミート・柚子胡椒 豆乳ソースの全粒粉サンド」に「きなこ豆乳ラテ」でも楽しみながら、次回の話 のテーマを考えてみることにしましょう。 (注1)本シリーズ「肉食のモラル」第1回(本年6月号)で挙げたエピキュリアス誌の宣言では、これが%。が、これは以前の研究に基づく数値。今回の新たな研究報告では、%。世界各地での食肉増産が背景にあり、この数値の上昇度に衝撃が広がっている。(注2)One World in Data, 2021。一部を除き、小数点以下、四捨五入。 北海道の原木丸太(中川〜東川〜世界へ)前号で紹介した北海道中川町有林の原木丸太が、東川町のTime&StyleFactoryに運ばれていました。原木は家具にTime & Style Factory北海道 上川郡東川町形をかえ、日本各地、世界各国の暮らしの中で使われます。 Time & Style は、家具に使う木材の国産化を進めています。北海道の森林では戦後1950.70年代にかけて外貨獲得のため大量の木が伐採され丸太のまま欧米に輸出されました。樹齢百年を越える北海道の広葉樹は、世界一の家具材として北欧家具にも沢山使われたのです。今、北海道の樹々の多くは、大量伐採後に植林されたり、自然更新した森です。 植林された木々の多くは樹齢50.70年を迎え、利用に適した時期「伐期」を迎えています。その一方で、国産家具メーカーの多くは海外から輸入した外材に頼っています。世界で最も森林に恵まれた日本で、なぜ外材を使って家具を作るのか? この矛盾を解決するため、 Time &Styleは北海道の原木丸太を購入し、製材まで一貫して行うことで、産地のはっきりした木を使うことに挑戦しています。 中川町有林で採れた丸太には「中川」のスタンプが押されていました。熱帯雨林の違法伐採やチルドレンワークが世界的な問題となるなか、天然木のトレーサビリティが大切になっています。Time&Styleでは、中川をはじめ北海道大学研究林(中川、雨竜)、当麻町など伐採地の明確なミズナラ、タモ、ニレ、センを独自のルートで入手し、1本1本の年輪を数え90年、80年、70年と木の歴史を感じながらものづくりを進めています。Time & Styleの吉田安志さんは「北海道の木と大雪山を望む環境が、僕らの家具の原点。森の恵み、水の恵みの循環で生きるアトモスフェアを世界に届けたい」と語ります。丸太は工場で板状に製材され、1.2年間屋外で天然乾燥します。Time &Styleの製材機は、バンドソーを横にして切るヨーロッパ式。どんな丸太にも対応しやすく、一枚ごとに厚みを調整できるのが特徴です。「従来は板の厚みによるデザインの制限がありましたが、板厚を自分たちで決められるようになり、家具デザインの発想が広がりました。木材のムダもなくなります」と吉田安志さん。トレーサビリティを明確にするには、製材.乾燥.製造を自社で一貫する必要があるのです。 製材した板材を丸太の順番のまま積み上げ1.2年間天然乾燥したあと、トドマツで作られた低温バイオマス乾燥機の中で1カ月ほど乾燥します。通常の人工乾燥機は60.70℃まで温度をあげますが、低温バイオマス乾燥は40℃ほどの自然に近い温度で木の繊維を傷めずにゆっくり乾燥させていきます。 ▲ 屋外で天然乾燥中の板材は含水率13.7%でした。 ▼バイオマス乾燥後は6.5%になりました。含水率は低いほどいい訳ではなく、低すぎると割れや反りが生じます。 家具に使う木材の含水率は7.9%が理想といわれます。木に含まれる水分には自由水と結合水があり、自由水は天然乾燥だけでも抜けますが、細胞内の結合水は人工的に乾燥しないとなかなか乾きません。製材担当の横山さんが板材の含水 やコストがかかるため、多くの家具メーカーは乾燥した板材を必要なだけ購入してるのです。 5%でした。このように製材、乾燥には大変な手間 .率を計ったところ、天然乾燥中の板材は13.7%、バイオマス乾燥後は6 Time & Styleでは、イタリアBoffi . DePadovaとパートナーシップを結び、世界各国のショップでTime & Style .ditionを展開しています。日本よりも乾燥した欧米に家具を輸出する場合は、含水率の調整や木の反り止めが必要になります。テーブルの天板は木目を合わせてから板に穴をあけ、金属のロットで串刺しのように固定して反りを防止しています。木材を有効利用するためランバーコアを芯にして、端部にムク材を仕込んで両面は厚突きの突板にした天板もあります。 ミラノデザインウィーク(2021年9月5日.10日)にあわせDePadova Santa Ceciliashowroomで展示されたTime & Style .dition。 Time& Styleは来春。ミラノでの新店舗オープンを予定しています。Time & StyleFactoryではNCルーターを導入し作業の効率化をすすめる一方で、手仕事の技術継承を大切にしています。2年に1度の技能オリンピック家具部門にも出場し、第52回技能五輪全国大会では大谷周平さん、第57回では倉橋司さんが金賞を獲得、第58回銀賞の吉田理玖さんは、11月の第46回技能五輪上海大会に日本代表として出場予定です。 Time & Styleの家具の多くは鉄媒染液(鉄水黒)やビーズワックス、ソープフィニッシュなど自然な仕上げを施しています。鉄媒染液は木の自然な表情をひきたて、時間とともに色が変化します。ビーズワックスは、乾燥前の木に近い仕上がりになります。7:3で名寄産の食用ひまわり油とその近郊で取れた蜜蝋をブレンドしているそうです。 北海道立旭川高等技術専門学院からTime & Styleに移籍した吹谷眞一さんが、新作Structural tableを製作中でした。神社仏閣の屋根を支える雲肘木をモチーフにした複雑なテーブルです。吹谷さんは同学院で技能五輪出場選手の指導にあたり国際大会への引率も行いました。北海道は16年連続して全国大会出場を続けていて、全国にくらべ出場資格のある23歳以下の若い職人が沢山いるそうです。今は技術責任者として家具を製作しながら、後進の指導にあたっています。 ドラゴンシリーズ 83 ドラゴンへの道編はじめての街新しい街吉田龍太郎( TIME & STYLE ) 2017年 Time & Style 3 月、アムステルダムに 自社店舗を作りました。2016年 月にフランクフルトの見本 市アンビエンテに出展した帰路、アムステルダムの と言う展示会に参加しました。僕が 歳のとき、初めて海外に旅 して降り立ったアムステルダムの街に、 しい道の始まりです。 1984年の初春、アムステルダムの空港から電車に乗り換えて中央駅に到着し、駅前にあったホテルビクトリアに宿泊したのが初めてのヨーロッパでの夜でした。どこに泊まって良いかも分からず、目の前にあったホテルの看板に吸い込まれるように、高級ホテルとは知らず不相応で高額なホテルで苦い洗礼を受けました。アムステルダムの街、初めて見る景色は全てが新鮮で、眠ることを忘れ夜な夜な徘徊しました。駅前にある飾り窓に驚きながら、何度か危ない目に遭いながらも心臓から足先まで麻痺したよ うに震えるような感覚を今でも鮮明に憶えています。 そこを歩く多くの人々は、目玉は青くて背は大きく、歩幅は長く同じ地球上の人間なのか、自分の意識が分からなくなるような不思議な感覚に包まれ、見るもの触れるもの全てが新鮮でした。 街中の標識や信号、自転車、街路樹、バス、建物、全てが刺激 的で日本から持参したモノクロフィルム 全て使い果たしました。 その時に撮った写真のような新鮮な感性でモノを捉えることは今は出来なくなりました。アムステルダムの景色の中に在る石畳、街灯、看板、そして民家の窓中に見える人々の生活の風景は、それまで日本の生活経験しかなかった僕にとても刺激的で、その後の人生に重大な影響を与えるだけの強いインパクトのあるものでした。今でも新鮮に脳裏に刻まれています。自分を司る感覚の中 心にあるもののほとんどは代の頃に感じたもので、そこから全 21 2 20 32 20 の初めての Mono Japan 年ぶりに訪れたのが新 本ははじめの数日間で く新鮮さを失っていません。代が終わり理屈を積み重ねる経験が生み出すものや、知識で習得したものには本当の魅力は宿らないのではないかと思います。素 30 直に自分の奥底の中心にストレートに届くような刺激的な感覚は時間が経過した 21 32 今でも自分を支える大切なものだと思います。 1 2 それから年ぶりに訪れたアムステルダムの街は懐かしく、数日間、夕食後に旧市街から港街に出来た新しい街並みを夜中まで緊張しながら徘徊しました。それはドイツやヨーロッパの街を見慣れていた自分の、ボケて固まっていた頭に新 5 20 鮮で強烈な刺激を与えるものでした。 3 久しぶりに訪れたアムステルダムの街は、年の間に経験した多くのことを超越して、歳の時に感じたそのままの感覚を蘇らせました。この街であれば僕らがこの年間続けてきた生活に関わる空間や道具の感覚を共有できるのではない 32 だろうかと言う気持ちになりました。この街の生活者ならば自分たちの感覚を共有できるのではないだろうかと、衝動的ですがアムステルダムの街の人たちを対 6 4 象とした店舗を開きたいと思いました。その翌日には不動産会社を巡りながら店舗を探し始め、日後に街を車で走っている時、一棟の古い教会のような建物が目に入りました。なんとなく引き寄せられるように時計台のある古い建物に近づきました。そこは1800年代から数年前まで警察署として使われてきた街のランドマークでした。 同じ運河沿いの『アンネフランクの家』が見える時計台の建物。一瞬、『アンネの日記』の中に登場する耳障りな『教会の鐘の音』を思い浮かべました。その鐘の音は現在もその地区の人々の生活の時間を刻む役割を担っています。 そして、2015年にその建物がアムステルダム市から民間に委ねられたことを知り、そこに私たちの店舗を開きたいと思いました。201年の月に契約に漕ぎ着け、年後の2017年月、アムステルダムの店舗をオープンすることになりました。それから年後、同じような運命的な出会いと多くの偶然と幸運が重なり、来年の春、ヨーロッパの別の都市の新しい場所に私たちの新しい店舗をオープンすることになりました。 【 Webマガジン コラージは、オフィシャルサポーターの提供でお届けしています 】