挑戦するアグリカルチャー
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Original Mind Farmers
神嘗月 2022
武蔵の小京都 小川町
里山が育む有機野菜
横田農場
埼玉県中部に位置する比企郡小川町。東武東上線の主要駅のひとつで、江戸、川越、八王子、秩父をむすぶ秩父往還、八王子街道、鎌倉街道の中継点として「武蔵の小京都」と呼ばれました。
横田農場 2022年初春
小川町で代々農業をつづける「横田農場」を訪ねました。小川町は1970年代から有機農業への取り組みをはじめ、いまは約70軒が有機農業を実践する町として全国に知られています。
横田農場をはじめて訪ねたのは2月。梅も咲き始めた小春日和の日でした。30年ほど前から有機農業を実践する横田農場は、地元で古くから栽培されている「在来種」に力を入れています。農作業の合間をぬって農場を案内してくれた横田岳さんが、200〜300種の「種」を保存する冷蔵庫を見せてくれました。横田さんは自分たちで育てた野菜から種を採り、翌年の種蒔きに利用する「種採り」を行っています。
横田農場がある小川町の青山地区。秩父山地の外周部は「武州山の根」と呼ばれ、小川町は手漉き和紙「細川紙」の一大産地として江戸とのつながりが強い地域でした。ここで古くから作られてきた大豆「青山在来」は、緑と黄色の混じった色合いが特徴。昔はこさ豆といわれ、条件の悪い畑や畔に植え味噌にしました。種を冷蔵庫に保管しても、多くは数年で発芽率が下がってしまいます。「作る人と食べる人がいないと、在来種は残せません。野菜の種だけを種子バンクに保管しても、一世代途絶えてしまったら食べ方が分からなくなってしまい復活は難しい」と横田岳さん。国立農研機構で保存されている「武州寒菜」(小松菜の在来種)の種を入手して育ててみたものの、どの段階で収穫してどう食べたかが分からなかったそうです。横田さんは近隣の農家を訪ね、古文書や残された種を調べてきました。葉物野菜は種が残りにくい一方、大豆やアズキなど食べる部分が種にもなる作物は残りやすいとのことです。横田さんが、歩いて5分ほどの里山を案内してくれました。ここに有機農業を支える大切なものがあるそうです。この地区の本来の植生はヤブツバキやカシなど常緑樹の暗い森ですが、古くから人の手の入った里山にはコナラ、クヌギなどの落葉樹が多く生え、大量の落ち葉に覆われていました。この森で集めた落ち葉を堆肥にして畑に蒔くことで、里山からはじまる「循環型農業」が行われてきました。木を伐ったあとから新芽が横に伸びることで、植生が広がります。伐った幹は、薪や炭焼に利用されていました。
まるで公園のような広場に、フカフカとした落ち葉がひろがります。横田農場は里山から大量の落ち葉を集め、堆肥を作るという大変な作業を続けています。里山は手入れを続けないと植生がすぐに変わってしまい、元に戻すのは難しいそうです。里山に人が入ることは、イノシシやシカなどの野生動物を遠ざけ農作物の被害を防ぐことにもつながっていました。
ピーマンの種は横田農場で種採りしたものです。よく育ったものから種を採り、長い時間をかけて土地にあったものに改良していきます。
次に、落ち葉を集めたハウスに案内されました。里山の落ち葉を温床に厚く敷き詰めると、細菌が働いて熱がでてきます。その熱を利用してピーマンの種を発芽させていました。植物は光合成によって太陽光や二酸化炭素から炭水化物など有機物を合成し葉や幹をつくります。細菌が植物の有機物を分解すると、溜め込まれた太陽エネルギーが熱になって出てきます。それが温床が暖かくなる仕組みで、もともとは、寒さに弱いサツマイの種芋を保存するための工夫だったそうです。石油や電気を使わずに2カ月ほど暖かさを維持できます。
温床で使い終わった落ち葉をハウスの外に出し、2年ほど屋外で管理すると腐葉土ができます。植物は光合成によって有機物を合成する「生産者」と言われます。一方、人間は植物から有機物を摂取する「消費者」で、植物がなければエネルギーを得られません。そして人間や動物の出した二酸化炭素を植物が吸収し、太陽光とあわせ光合成によって有機物を合成します。こうした生態系の循環が有機農業の根幹にあるのです。横田農場の麦畑。米が貴重だった頃は、小麦から作ったうどんやすいとんが主食でした。10月に大麦、11月に小麦を蒔き、ローラーで麦踏みをすることで、強く丈夫な麦に育ちます。周辺の土は石間(いしま)と呼ばれ、石を多く含みます。
流星のしっぽをつかまえに行こう
Vol.40
原作:タカハシヨウイチ はら すみれ絵 : タカハシヨウイチ
ヴェネツィア出身で、歴史に名を残す真のダンディ、カサノヴ
ァ(1725〜98)。その回想録にある有名な逸話のひとつに、二人の修道女を相手に、牡蠣とシャンパンで、かなりエロティックな遊びを「3人で楽しむ」というものがある。また別の逸話では、フランス大使(駐ヴェネツィア)の「恋人」である修道女とカサノヴァが、鏡が張り巡らされた秘密の小部屋で楽しい一夜を過ごす、というものがある。実はその小部屋は隣室から密かに部屋の様子を覗き見することができるようになっていて、修道女が燃え上がる様を当のフランス大使は密かに覗き見していた。カサノヴァは後にその事実を知ることになる。それにしても、そのような「奔放な修道女たち」が、当時のヴェネツィアには本当に居たのだろうか? 今から四半世紀ほど前、夢中になってこれを調べてみたことがあり、後にヴェネツィアを訪れた時、その修道女たちが居たという女子修道院がある島を訪ねてみたくらいだ。結論から言
えば「奔放な修道女たち」が実際にいたことは、まず間違いない。
では、なぜ当時のヴェネツィアの女子修道院は、そんな状況になっていたのか。大きな理由がある。当時、女子修道院に入るのは、主として貴族階級の子女たちだった。院に入る年齢は十歳前後〜十代半ばくらい。年若き思春期の姫様たちが、ご本人たちの意志とは無関係に修道
院に送り込まれる、という場合が大半だった。なぜ、そのような残酷なことが許されていたのか。その背景には、当時のヴェネツィア貴族子女の「極端な結婚難」があった。嫁に行くための持参金の額が異様なほどに高騰し、どこの貴族の家でも、「嫁に出すことができるのは子女ひとりのみ」という事態になっていたのだ。何人か娘のいる貴族の家では、両親が子供の頃から様々な要素を見極めながら「将来嫁に出す娘」を選んでいた。それ以外の子は、適齢となったら女子修道院に送り込む。当然、両親そして姉妹間で様々な心の葛藤が生まれたことは言うまでもない。
ただ、彼女たちは決して「身ひとつ」で送り込まれたわけではない。修道院に対するそれなりの「持参金」はもちろん、豪華な衣装や贅沢な身の回りの品々を持ち込み、個室が与えられる場合も少なくなかったと言われるほどで、今我々が一般に想像する「女子修道院」とは、かなり様相が異なるものだった。敢えて言えば、世間から隔絶された「神聖な祈りの場」というよりも、「行く先なき貴族子女の避難所」という色彩が色濃くあった。それにしても、
お菓子売り場の窓口に坐る修道女。
この姫様たちが自身の贅沢な品々を持ち込むために使用された「長持ち」(衣装・道具箱)。これが、本来であれば結婚の時に婚家に持参する衣装道具箱(美しい装飾が施された実物をあちこちの美術館で見ることができる)と同様のものが使われた、というから驚く。姫様たちの思いは、いかばかりであっただろうか。こうした背景を知れば、「奔放な修道女たち」の存在は、悲しいほどに納得が行く。カサノヴァと一瞬の逢瀬を楽しむことくらい、許されて当然ではないか。
少し前の時代のスペインやポルトガルでも、ヴェネツィアに類似する「貴族子女の結婚難」という状況があり、女子修道院は貴族子女の避難所となっていた。貴族階級の所領と爵位の相続に関して、長男一子相続制度が確立。次三男は、爵位と財産を次ぐことがなくなったため、貴族子女の結婚対象となる男子の数が限られるようになったことが一番の背景としてあった。高貴な家柄の子女として生まれたゆえの悲劇というほかない。一方、イベリア半島の場合には、特に、キリスト教徒がイスラーム帝国を半島から追い落とす 15世紀末前後から、修道院の設立が急増している。男子修道士たちは、いまだ半島に残る多数のイスラーム教徒とユダヤ教徒に対して、カトリックへの改宗を迫る中心勢力となっていく。悪名
高き「異端審問」である。
一方、同様の背景から、女子修道院の新設が特に目立ったイベリア半島南部では、そこに興味深い食文化が誕生する。粉と卵と砂糖と油脂を素材とする、多彩な焼き菓子の数々だ。その
お菓子をつくる女子修道院。
女子修道院の焼き菓子。
多くはクリスマスを始めとする様々な祝祭の際に作られる特別なもので、聖人様の名前や女子修道院の名称で呼ばれるものが多い。その製法が修道院から流れ出て、現在では地域の名物となっているものも珍しくない。こうした女子修道院を原点とする様々な焼き菓子。その背景には、思いもかけない歴史が秘められている。
まずはその素材。修道院の焼き菓子には、卵の黄身が多用されるものが多い。実は当時のスペイン・ポルトガルでは、驚くべきことに、「卵黄がだぶつく」という状況が生まれていた。食用の鶏卵はともかくとして、卵白が多様な用途に利用されていたからだ。ワインの不純物処理剤、衣服をピンと仕立てる「糊」、工芸品の接着剤等々、現在では思いも及ばないような多彩な用途に卵白が利用されていて、いわば「工業用の卵白利用」が盛んだった。そういう場では「卵の黄身」は不用品であるため、多くが飼料に回されたりしていたほどだった。「卵黄より卵白が大切」という、現代とは正反対の状況だったのだ。
女子修道院は、このあり余る卵黄を、焼き菓子づくりに利用し始めたのだ。次いで、油脂。女子修道院は、焼き菓子に使う油脂としてラード(豚脂肪)を多く用いるようになる。これは、元々オリーブ油が使われてきたところを、敢えてラードを使用するようになったものだ。焼き菓子やパイへのラード使用は欧州に広く見られ、植物油利用よりもラードのほうが濃厚な味わいとなることは間違いない。現代ではラード使用は健康面から忌避される場合が多いが、味覚の点ではラードの魅力は捨てがたい。ただ、当時の女子修道院がラードを利用したのは、そのような味覚重視のためではない。表向き「家族揃ってカトリックに改宗しました」と世間体を繕う「隠れイスラーム教徒」や「隠れユダヤ教徒」をあぶり出す目的が秘められていたのだ。言うまでもなく、イスラームとユダヤの両教徒にとって「豚肉は禁忌」。子供の頃からその教えで育った人間にとって、表面上カトリックを装うことはできても、ラード入の焼き菓子を食べることはできなかったらしい。いわば「焼き菓子の踏み絵」としてのラード使用だったのだ。
こうした多様な焼き菓子について、先程「元々オリーブ油が使われてきた」と記した。当時新たに誕生した女子修道院が多かったことを思えば、焼き菓子作りの「伝統」があったわけではない。では、各地に続々と誕生していく女子修道院のそれぞれで、一気に独自のお菓子作り研究が花開き始めた結果だったのだろうか。決してそうではない。
これら焼き菓子の大半は、すでに広くイベリア半島の各地で作られてきた伝統的なものが元になっていた。それは半島の大半を長年に渡って支配してきたイス
ラーム帝国の中で育まれてきた、洗練された食文化に原点がある。また、イスラーム帝国の元で、自身の宗教文化の保持を制限的ながらも容認されていたユダヤ教徒(セファルディ)の食文化を取り入れたものも少なくなかった。アーモンドの多用、砂糖の多用、そして、
お菓子をつくる修道女。
アーモンドを使った焼き菓子。
ミルフィーユ状の焼き菓子。これらはすべて、イスラーム帝国の洗練された食文化の中で誕生したものだ。
スペインやポルトガルの女子修道院では、こうした焼き菓子の数々を、カトリックの季節の祝祭や聖人様たちと結びつけた。こうして焼き上げたおいしいお菓子の数々を、信者や修道院を支えてくれる主要なパトロンである、カトリック貴族や上層の市民たちの元に届けることで、絆を深める大切な一助としていた。現在ではすっかり「昔からのカトリックの伝統」と思われている女子修道院で作られる様々な焼き菓子。実は、彼女たちが嫌った隠れイスラーム教徒や隠れユダヤ教徒という「敵の文化」の長い伝統の中から誕生したものだったのだ。
従って、これらの焼き菓子の原点を更に追い求めていくと、その道は当然、イスラーム帝国の故郷である中東へと至ることになる。カトリックの修道女の中には、男子修道士たちに伍して、スペイン・ポルトガルが植民地として開拓し始めた中南米やインドや東南アジアなどの諸地域におもむいて、新たにそこで女子修道院を開設していったケースも珍しくない。その結果、世界各地に散在する女子修道院にも、ローカル化しながら、この焼き菓子の伝統が伝わっている。日本のカステラについては諸説語られているが、
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世紀アジアのいずれかの女子修道院
から、という道筋を想像してみるのも面白いのではないだろうか。
10月のはじめ、横田農場は収穫の秋を迎えていました。無人販売所には、茄子やビーマン、ニンニクなどが並びます。
ジャガイモはジャカルタから、カボチャはカンボジアから、ポルトガル人によって伝えられたという説もあります。
納屋にはタカキビや青山在来大豆の枝豆、ジャガイモ、カボチャなどが収穫されていました。タカキビは中国ではコーリャンと呼ばれお酒の原料となりますが、日本では餅にしたり白米に混ぜることが多いそうです。もともと日本の在来野菜は、ミツバ、セリ、フキ、ウド、ワサビなどだけでしたが、稲作をはじめ世界各地の様々な作物を導入し、食生活を豊かにしてきました。
広々とした横田農場。青山在来大豆やアズキ、米などが収穫期を迎えます。青山在来は甘みの強い大豆として人気の品種となり、小川町の多くの農家で栽培され、豆腐や味噌づくりに使われているそうです。
アズキの出来具合を確認する横田岳さん。カメラで畑の写真を撮りInstagramなどで情報発信を続けています。野菜の販売は主に提携会員制で、農場の活動を支援する会員に向けて野菜セットを直接送っています。定期的にイベントやワークショップ、農作業体験を開催し、会員とのコミュニケーションを大切にしてきました。
丹精して育てた古代米(緑米、黒米、赤米)が収穫期を迎えました。週末のワークショップで、会員たちが手刈りするそうです。昨年、黒米の中からでた背の高い変異種を育て様子を見ています。こうした米や豆、野菜を選別して種採りし、長い時間をかけて土地に順応させることで、日本の農家は様々な品種を育ててきました。火山噴火や洪水など天災があると、栽培する作物を変えることで飢饉を乗り越えました。いまは温暖化や台風など気候変動に対応した品種改良がスピートアップし、種苗メーカーから種を購入することが主流となっています。
横田岳さんは10年ほど前まで、実家の畑を手伝いながら東京・練馬の自転車クラブチーム「ラバネロ」でプロ選手を目指していました。「今の農業は、石油やビニール製の農業資材を沢山使っています。将来の持続可能性を考えると、石油や資材は出来るだけ使いたくない」と横田さん。キャベツをモンシロチョウなどから守るネットにも、耐久性の高いものを選び、5年以上使い続けているそうです。
耕地が狭く、稲作に向かない小川町では、江戸時代から紙漉きが盛んで、味噌、醤油、造酒、養蚕などにより現金を得て年貢を納めました。付加価値の高い野菜を作り、積極的な情報発信を続けるのは昔からの工夫の延長にあると横田さん。里山の管理や腐葉土など大変な手間のかかる有機農業ですが、化学肥料を使う慣行農業は大産地との競争になってしまいます。
ナスは様々な品種を栽培しています。紫色のナスは、横田農場の変異種から生まれた「牛若丸」。丸いナスは香川で育てられている「三豊ナス」。珍しい緑色のナスもあります。
種採り用に大きく成熟したナス。これをドロドロにしてから種を採り保存し、翌年の種まきに備えます。固定種は収量が下がり手間もかかるため、種採りを実践する農家は少ないようです。実は江戸時代から種採りを専門にした「種屋」があり、六斎市などで地元の種を売っていました。それが遠方へ流通することで多様な野菜が全国へ広がりました。
ピーマンの畑では「不耕起栽培」が試みられていました。通常は耕運機などで畑を耕すことで土中の細菌が養分となり、土地が柔らかく雑草も少なくなって作業しやすいといった効果があります。一方、不耕起栽培は耕さないことで土中の細菌やミミズなど自然の
不耕起栽培の試み力を活かし、耕運のエネルギー(石油)を使わず、水の使用量が少ない農法として欧米で導入が進んでいます。土が乾きにくいかわりに、雑草が生えやすくなるそうですが、サイネージタープを畑に敷いて光を遮ることで、農薬に頼らず雑草を抑えることも可能です。インゲンの棚には、沢山の実が成っていました。実を採ることで子孫を残すために花をつけ、光合成によって蓄えられたエネルギーが実になっていきます。日本の食料自給率は30〜40%といわれますが、農薬、化学肥料、資材、石油を輸入に頼っているかぎり、それが途絶えれば農業は成り立ちません。また有機農業といっても、余った食料の残渣や畜産の堆肥を利用していては、結果的に輸入に頼ることになります。いかにして日本の農業を持続していくか、横田さんの挑戦は続きます。
AREAの椅子展.椅子からひも解く
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年の歩み.
10月15日(土)〜31日(月)まで、AREA20周年記念「AREAの椅子展」が、 AREA Tokyo(東京都港区北青山)、AREA Tokyo Osaka(大阪市中央区平野町)で開催されています。初代の「chair A-1」から最新作「chair A-26“銀山”」まで、全ての椅子に座って比べられます。好きな椅子に投票するアンケートも行われていました。
北欧名作椅子やウィンザーチェア、寺社建築などをモチーフとして、ホゾ組み、曲げ木、削り出しといった職人技を駆使したAREAの椅子は、20年で30種類近くに増えました。一脚ごとに異なったストーリーを持つ椅子たちは、開発された時代の空気をまとっているようです。今はヨーロッパにも輸出され、様々な空間を彩っています。
心・体・思考の健康をデザインする
写真&文 大吉朋子7時間目
とっておきの休み時間
ヨガ数秘学から眺める10月
2022
「ヨガ数秘学」は、生年月日からその人の今、未来、過去、強み、弱み、エネルギーの流れなどを読み解いていくユニークなシステムですが、そのほかにも、毎月お届けしている「月」ごとのエネルギーや、毎日のエネルギーもそれぞれにあります。もちろん、その1年を表す数字のエネルギーもあります。
地球全体に流れるその月のエネルギーは「グローバルマンスリーナンバー( GMN)」、自分自身のその月のエネルギーは「パーソナルマンスリーナンバー( PMN)」といい、簡単な足し算で出すことができます。
10
例えば 2022年 10月の GMNは、2+0+2+2+10=16=1+6=「7」となります。
(ヨガ数秘学では1.11までの数字を使い、11より大きい数字は2桁の数字を足して11以下の数字としてつかいます。)そして、10月1日生まれの方であれば、GMNに自分の誕生日の数字をたすと PMNとなり、7+10+1=18=1+8=「9」がその方の 10月のエネルギーと出てきます。
1.11までの数字にはそれぞれに異なる要素があり、イヤーナンバー、マンスリーナンバーやデイナンバーなどの自分の外側に流れるエネルギーは、その時に強まっているエネルギーとして日々意識して活かしてみると良いョ、というわけです。
そして、毎年「10月」は、ヨガ数秘学では特別な月と捉えます。翌年のエネルギーを反映する鏡のような時間で、師匠のタイラーは「10月1日にどう感じたかを忘れないで!」などと言うくらいです。
10月は、さまざまなことや、今の自分により意識的になってみることをおすすめします。10月を通して、上手くいっていることはそのまま継続し、上手くいかなかったことは修正する、という考え方がヨガ数秘学のルールとしてあります。10月を終えた時、来年のエネルギーのゴールが見えているようだと GOODなのです。
数字というのは面白く、現実的にはひとつひとつの事柄に数字が付いてまわっているわけではありませんが、あらためてその時の流れや雰囲気や自分の行動を眺めてみると、その時の数字の要素にリンクしていることに気がつきます。
一年のエネルギー(グローバルイヤーナンバー/パーソナルイヤーナンバー)は、1月1日に突然切り替わるのではなく、毎年 10月から 2月頃にかけて徐々にシフトしていきます。2022年は「6」の年で、2023年は「7」の年となります。
「7」はコミュニケーション、発信、内省を表す数字。2022年、心に溢れたさまざまな思いを、2023年は言葉や音によって世界に向けて発信していく、そんなエネルギーが流れる時間となっていきます。
10月の自分はどんな感じであるのかを、ぜひ眺めてみてください。
ヨガ数秘学
大吉朋子
2022年10月は7のエネルギーが流れます。
「7」はオーラの数字。オーラは心臓から3mほど発されるエネルギー。外界との境界線、コミュニケーションを表します。心に沸き上がった思いは言葉や音にして伝えていきましょう。自分自身の内省を深める時間、ひとりの時間を持つこともおすすめです。他者との距離感を程よく保つことが快適さにつながります。
2022年11月は 8のエネルギーが流れます。
「8」はプラーナの数字。生命力、パワー、実行力を表すエネルギー。2022年 4月頃から始めたことがあれば、一旦集大成として仕上げてしまうタイミングでもあります。力強いエネルギー溢れる時期ですから、エネルギーの流れに乗って、やりたい事も実現化してみることがおすすめです。
【 10月生まれの方へ ワンポイントアドバイス 】
器の大きいエネルギーを持つ 10月生まれ。それが故、自信を無くすと器を小さくしてしまいます。 ”根拠のない自信のなさ ”から自分を解放し、自分を信じることを忘れずに。プライドは捨て、失敗を恐れず、完璧を求めすぎず突き進むことが大切です。
ヤギの母娘がやってきた
真鶴オリーブ収穫の秋
真鶴オリーブ園
JR東海道本線 真鶴駅に近い「真鶴オリーブ園」が、3回目の収穫シーズンを迎えました。今年からヤギの母娘「マナ」と「ユキ」が参加して、一層にぎやかなオリーブの収穫になりました。
マナとユキは、静岡のヤギ牧場からきました。彼女たちの使命はオリーブ園の草取り。毎日もりもり草を喰んでいます。
雨上がりの朝。生まれて半年ほどたった名古屋コーチンたちは、毎朝、卵を生むようになりました。名古屋コーチンの卵は薄い桜色をしているのが特徴で、黄身の割合が多く深いオレンジ色をしています。地面を熱心に突いてまわるコーチンの活躍で、害虫が少なくなったそうです。オリーブの宿敵アナアキゾウムシも食べてくれそうです。
▼アナアキゾウムシの幼虫は木の根元につきやすいため、根元をすっきりさせて、日々チェックすることが大切です。
スタッフの佐藤貴一さんは朝早く、ヤギたちに水を与え、草を食べて欲しい場所に連れ出します。日々の剪定や手入れを続けることで、オリーブの実が大きく育っていきます。アナアキゾウムシを駆除するため多くのオリーブ園がスミチオンという殺虫剤をつかいますが、真鶴オリーブ園は、無農薬栽培を続けています。
真鶴オリーブ園では、無農薬栽培のオリーブ葉を使ったオリーブ茶を作り、サポーター会員に配布しています。オリーブ茶はポリフェノール豊富で抗菌、抗ウィルス作用があり、血圧を下げたり免疫機能を高める効果があるといわれます。
展示会レポート 物流自体が「商品」となる時代をうつす
Logis Tech 2022 TOKYO
Report by HERMINE
国内最大の物流関係見本市「国際物流総合展」が、2022年9月13日〜16日、東京ビッグサイトで開催されました。2018年以来、4年振りの本格的対面開催となった今回は526社の出展があり、4日間で6.1万人が訪れました。ここ数年、物流の分野は目まぐるしく変化しています。コロナ禍以降、実店舗販売から宅配へと販路は加速度的にシフトし、それに伴って、多種多様なモノを、人手を省きながら、個別に運ぶ技術が求められています。それに加え、低炭素社会、労働安全衛生、人手不足など、物流が抱える課題に対する様々な回答が見られました。
オペレーター不足を加速する「2024年問題」
人手不足は物流の分野でも顕著です。特にリフトを使った業務には運転資格が必要なため、オペレーターの確保が難しくなっています。また、2024年4月より、トラックドライバーなどの時間外労働が規制強化される「2024年問題」も深刻です。これらへの回答として、トラック荷役などに使うフォークリフトを自動で動かす技術が提案されていました。定置荷役の無人オペレーションリフトは1980年代から存在しますが、経路に制約がありました。近年は自動運転技術が発達し、それを支えるセンサー類の充実で、より高度なオペレーションを担えるリフトが登場しつつあります。
TOYOTA L&F「トラック荷役対応自動運転フォークリフト」
2019年から実証実験を重ねていたカウンタータイプのフォークリフトに加え、今回はより小回りの利くリーチタイプが登場しました。3D -LiDARを用いたトラック位置検出、ガイドレスでの自動運転に加え、画像認識・ディープラーニングを活用したパレット位置・姿勢検出技術や、パレットまでのアプローチ走行経路の自動生成方式が採用されました。当初の作業時間は有人での約5倍かかりましたが、現在は2倍程度に短縮できたとのことです。
住友フォークリフト
「自動リーチフォークリフト」
ナビゲーションで必須となる自己位置把握のた
めの装置や、自動荷役、安全性確保のためのセ
ンサー類が多数付いています。TOYOTAの自動
リーチフォークリフトと共に、完全無人専用機
ではなく、オペレーターが乗車しても操作できる
兼用タイプです。現在有人リフトを使っている現
場への導入をしやすくするための仕様だと思わ
れます。
Agilox社(オーストリア)「自動運転リフト」
三菱Logisnext「自動リーチタイプフォークリフト」
欧州らしいスマートな外観デザインが目を引きます。パレット人間が搭乗しない、無人車専用に開発された独自のデトラックと低揚高(1.6m)のカウンター式フォークリフトの自ザインです。自動運転のためのL iDARを安定して固定動機です。前後左右、その場旋回など小回りが効き、相互通するための構造物が目を引きます。高価なセンサーの信で効率を高められます。Wifi環境と電源、パソコンとブラ数を極力少なくするため、見晴らしの良い位置にセンウザソフトがあれば導入可能な簡便なシステムも特徴ですサーを設置するよう各社工夫しています。
物流の現場を無人化する
倉庫や工場内のものを運ぶ「搬送業務」に関しても、無人化の流れは明らかです。「AGV」という無人搬送車は昔から存在しましたが、誘導には磁気テープを床に埋設する必要があり、ルート設定の自由度や柔軟性に限界がありました。ここでも自動運転技術を背景に、周囲の環境や状況を把握し、自ら判断して走行する無人車が各社から登場しています。
ラックと無人車を組み合わせて、モノの流れを効率化するシステムの提案も、各社で見られました。取り扱う物の大きさや重さ、数量規模、輸送密度など、様々なパターンがある顧客それぞれの事情に応じて、効率を最大化できる最適な機器の組み合わせを構築するソリューション提案が物流を支配する時代になりつつあります。
オカムラ「かご車牽引AGV」
Mech-Mind「3Dビジョンによるばら積みピッキング」
市場などの物流現場で一般的な「かご車」と呼トラックや搬送車、コンベアなど、多様な物流機械の結節点をばれるラックを牽引するタイプの搬送車です。か自動化できる移載ロボットもありました。扱う荷物の種類によご車を移動させるだけといった、比較的単純なって、様々なアタッチメントが用意されています。重量物の移し作業は人間がする作業では無くなりつつあるの替えなどの単純な重労働から人を解放してくれるでしょう。かもしれません。
電動化による低炭素社会への対応
コマツ「大型(2.5〜3.5トン)電動車」
大型の電動フォークリフトは、新型のバッテリーと充電器により、パワーや充電時間の短縮などの性能をアピールしていました。
6年前(開催回にして3回ほど前)までは、物流機械の花形としてエンジン式、バッテリー式共に多くのフォークリフトが展示されていました。今回は国内大手の展示は数台、それもエンジン式は殆ど見られず、大半が電動車となりました。中国メーカーは、依然として多くのフォークリフトを展示していましたが、こちらもエンジン式は皆無。元々、電動化については乗用車よりも遥かに早く、市場に占める電動化率も高かったフォークリフトですが、今回の展示会では、その流れが更に加速していく印象を受けました。CO2削減の具体的な目標が強制力として企業に課せられてきた事が背景にありますが、技術の進化により電動車の性能がエンジン車に近づいてきた事、自動化のための制御に電動車の方が親和性が高いなどの事情もあります。
現在でもパワーや稼働時間、耐久性などの点で大型フォークリフトはエンジン車に残された最後の分野ですが、バッテリの性能向上や高効率のモーターなどにより、高負荷作業の現場にも対応できる電動車が現れつつあります。
コマツ「電動建設機械」
パワーが必要なシャベルカーなど建設機械はエンジン式が主流ですが、稼働時間に制約はあるものの、電動車には静粛性などエンジン車にはない有用性があります。
住友フォークリフト「新型電動カウンターリフト」(来年後半発売予定)リチウムイオンなど電池の改良に加えて、IPMモーター(回転子側の磁石に永久磁石を使うもの)の採用によって10%程度の性能向上が見込めるそうです。
ユキちゃんも窓の外からブリーフィングに参加。
オリーブ畑にでて、1つ1つの実を手作業で摘み取ります。1カ月前に比べると、赤く成熟した実が多く見られました。
オリーブはギリシャ発祥といわれます。数千年前から人々は、神々
がもたらす大切な恵みとしてオリーブを摘みとってきました。
今年は昨年に比べ、倍以上の収穫がありました。健康志向の食用油として「オリーブオイル」の世界的な需要が高まるなか、国際シンジケートによる食品偽装が問題となっています。産地を偽装したり、異なる油を混ぜたり、薬品で緑色に着色したりと手口は巧妙です。日本で市販されているオリーブオイルの多くは「エキストラバージンオリーブオイル」を名乗っていますが、オリーブの実から採れるオイルの量は8%ほどしかなく、左のカゴ一杯(約20kg)から最大1.6リットルほどしかとれません。エキストラバージンはさらにその上澄みのわずかな部分です。オリーブ園で実際の摘み取り作業を経験すると、安価なエキストラバージンオイルはありえないことが良く分かりました。
食事を終えるとすぐにオリーブの実を水洗いして、葉っぱや汚れ、傷んだ実を取り除く選別作業を行います。オリーブは収穫後すぐに酸化が始まるため、生の状態では鮮度を保てません。沢山の人が集まり丁寧な手作業を行うことが必要です。
その31
青山かすみ
秋の彼岸を過ぎても今年は暑い日がやけにダラダラ続くなぁと思っていたら、都心の秋本番は突然やってきた。実りの秋、日本の食料庫を担う北海道や東北では、雨量の多さが農作物の収穫に影響を及ぼしたと聞くが今後大丈夫だろうか。
世は温暖化とコロナ禍+ウクライナ戦争が加わり、物価の高
騰も信じがたいほど劇的な変容を見せ、ますます生き残りゲームの様相を感じさせる。豊かさと贅沢感に甘んじ、危機感を失いつつあったオリンピックムードも何処へ飛んでいったやら、、、、
国葬問題も含め苦い後味感を残す結果となった。今までは人が動けばお金が動く、お金が動けば人も動かせるの時代だったんだろうけれど。もはや人間が描く夢や希望は、お金次第からすでに移行を始めてるんじゃないだろうか?無論、地獄の沙汰も金次第。収入の問題は家庭を支える屋台骨として欠かせない基盤だけれど、最近とみにそんな考えが思い浮かぶ。見えるものから見えないものへの価値をも含んだ思考性だ。
まずは人としての内面や精神性の充足あってこそ、コミュニケーションが成り立つのだから。
「世はいかさま」と言いつつ辛口コラムを書いた山本夏彦翁の昭和の世から、すでにスマホ時代となって幾年月。いかさまを見抜き、浮かび上がらせる時代に入ったといえるのでしょうか。個人情報はあってないも同然。頭隠さず尻なお隠せず?情報は垂れ流され、なんでもオープンですか?しかし、それでいいかどうかは疑問ですよね。
情報がありすぎ、肝心かなめを見失っては身も蓋もない。スマホとにらめっこ人間ばかりではつまらないし、面白くもなんともないのである。情報の垂れ流しに流されない自分を持っていただければと思う。情報とは上手に使うべきものですから。
さて、この1カ月は北風ぎみの傾向と雨曇りおかげで、頭上を往く旅客機の飛ぶ頻度は少なめでした。が、国葬の前後頃ですよね。米軍ヘリによってもたらされる大胆かつ超低空飛行による騒音振動が凄うございまして、大変迷惑した次第です。ブンブンブリブリ言わせて飛びゆく様は、映画の中で観たベトナム戦争時を彷彿とさせ、アメリカの軍って当時のまんま?なの?と思っちゃう感じです。世界の大国を自負するならば、もっと紳士的であってほしいですし、せめて基本ルールは守りませんか?と申し上げたい。いわずもがなのはずでは?
現副大統領や大勢の要人をお乗せしたのなら、なおのことちゃ〜んと高度を守らなくてはいけないでしょうに。それでなくてもここは南風時、羽田新ルート域と重なる超危険域ですよ。目を皿のように慎重にも慎重を期した安全飛行をなさってくださらなければ、、、、、わたしは何度もジェット機と米軍ヘリのすれ違い飛行を目撃してるわけですが・・・・。
国交省の航空局も米軍も、事故が起こるまで飛行できれば OKじゃん?とでも思っているのかしらねぇ。日本政府と米国の関係がこんなことでは、世も末か?
毎日新聞取材班著 毎日新聞社刊 1700円+税「特権を問う」の一連の報道は、2021年度新聞労連ジャーナリズム大賞受賞。
2020年から毎日新聞が連載を続ける「特権を問うドキュメント・日米地位協定」を一冊にまとめた本である。米軍は安全保障を円滑にするという名目で、日米地位協定によって、日本の法律にしばられない様々な「特権」を与えられている。締結から 60年がすぎた今も性犯罪、交通事故などを日本人と同様に裁けないケースは後をたたない。本書は特に、東京上空を低空で飛行する米軍ヘリに多くのページを割いた。20名以上の記者が新宿、六本木に張り込み、ビルより低く飛ぶ米軍ヘリの姿を捉えようと奔走する。横田や横須賀などから毎日定期的に、六本木の米軍基地(赤坂プレスセンター)へ UH-1、ブラックホークが日本の航空法を無視した高度で飛来し、新宿副都心のビルの間をすり抜けていく。記者たちは決定的な証拠となる映像を新聞紙上だけでなく、ホームページや YouTubeなど多角的に公開し大きな反響を得た。その一方、米軍、国交省、外務省への取材では「低空で飛行する事実は認められない」と、そっけない返答に悔しさをにじませる。首都上空を旅客機が飛ぶ「羽田新ルート」とも密接に関連し、500m上空の旅客機を避けるため、米軍ヘリは 300m以下を飛行し、その側には 200mのビルが建つというアクロバティックな飛行が日々繰り広げられている。定期便の米軍ヘリは空飛ぶ宅配便やタクシーであり、日本の航空法にのっとって離着陸することは難しくないし、実務上の問題もほとんどない。あるのは米軍の特権をアピールするデモンストレーションだけだ。官庁はそれに慣らされているから、メディアが取材・報道を続け住民が声をあげるしかない。それは正しい日米同盟を維持することにもつながる。付近住民は必ずしも飛行禁止や基地返還を求めてはいない。米国本土では米軍も航空法を遵守しているから、同様に飛行して欲しいだけである。 (梨)
米軍ヘリ首都低空飛行に切り込んだ迫真の記録。
農業・レストラン・スポーツ・宿泊
楽しくやりがいのある人間空間
藤野倶楽部
2000年のはじめ、歯科技工所を経営する桑原敏勝さんが、趣味のためにはじめた「藤野倶楽部」。相模湖に近い相模原市緑区の藤野地区は、東京から約90分と至近ながら、里山に抱かれた日本の原風景を楽しめます。最近とくに目立つのが、ロードバイクに乗った皆さん。東京オリンピックのロードレース会場にも近い藤野は、交通量が少なく通年に渡って山坂道を楽しめる場所として人気が加速中です。藤野倶楽部にも自転車スタンドや工具キットが置かれるようになりました
20年の間に、藤野倶楽部のフィールドはどんどん広がり、無農薬・有機栽培野菜を育てる農業生産法人 藤野倶楽部となりました。名倉エリアの「安心農園」は、開園時から無農薬・有機栽培を続ける農薬フリーの農地。季節に合わせ様々な野菜を作っています。
食料自給率が30〜40%ほどしかない日本において、今の子どもたちは野菜が育つ姿を知りません。輸入に頼れなくなる将来にそなえ、藤野に根ざした安全な野菜づくりのノウハウや農地を次世代のために残しておきたい。そうした思いから藤野倶楽部「安心農園」は生まれました。
食べて楽しむ藤野窓から見る里山の景色が一番のごちそうです。
レストラン「百笑の台所」では、安心農園の野菜を中心に、ナチュラルな食材を使った健康的な料理を楽しめます。人気の蔘鶏湯(サムゲタン)は、高麗人蔘、なつめ、もち米、にんにくなどを詰めた丸鶏を熱々の石鍋で提供。「肩肘はらず美味しいものを家族や仲間と楽しみながら、藤野の心地よさを感じて欲しい」と桑原さん。藤野は中央道で東京とつながりながら、神奈川の水源を守るため山地の開発が制限され、豊かな緑がそのまま残った宝物のような場所なのです。
デジタル社会がすすむなか、野菜がどのように実るかを知らない世代も増えています。「デジタルがどんなに進化しも、自然の野菜を味わうことは出来ません。東京近郊に、それを感じられる人間空間をつくりたかった」と桑原さん。一人でするよりも、沢山の人に関わって欲しいと思ううちに、藤野倶楽部の規模がどんどん膨らんでいってしまったそうです。国際組織WWOOF(ウーフ)を通じて海外のウーファーを受け入れ、里山の暮らしや有機農業を世界へ伝えています。
宿泊施設に力を入れてきた藤野倶楽部。キャンプ気分を楽しめるテント「グランピング」をはじめ、モンゴルから直輸入した本格的な「ゲル」、天然杉の内装に地元画家の作品を飾った「ギャラリールーム」など、藤野の自然や文化を満喫できる多彩な宿泊体験を提供しています。テントを思い思いに電飾したり、Instagram映えスポットとしても人気が出ています。BBQ場は、家族連れやグループに人気です。ダッチオーブンを使った若鶏の「ローストチキン」やシカ肉、イノシシ肉のソーセージ(湘南ジビエ)も楽しめます。BBQ場は手作業で大谷石を削り、ひとつひとつを積み上げて作られました。
「百笑の台所」の一画にある美術ギャラリーでは、藤野で活動するアーティストをはじめ、全国各地の作家の個展をひらいています。太平洋戦争の頃、藤野には藤田嗣治など沢山の画家が疎開していました。今も画家、陶芸家、染織家、ガラス作家など沢山のアーティストが定住しながら作品づくりを行っています。
「百笑の台所」に隣接するテニスコート。藤野倶楽部は、ここからスタートしました。いまは全天候型オムニコートに改装され、仲間たちとゆっくりテニスや食事を楽しめる場所として、週末は予約が抽選になるほどの人気スポットになりました。
ドラゴンシリーズ 96
ドラゴンへの道編吉田龍太郎( TIME & STYLE )
彷徨う日々
マイン川の遊歩道には、縁石と川を隔てる手すりが無く、
そこに腰掛けて脚をダラリと川に投げ出しながら、水面に映り込む対岸の街と月の景色を眺めるのが好きだった。
水面に映る景色は、早く深い川の流れと共に消えてはまた現れる街の明かりと雲の中から見え隠れする月の光が反射して、右手に握りしめ空になったヘニンガービールの瓶をマイン川の流れに投げ込んだ。時々自分もドボンとその早い川の流れと共に、どこかに消えてしまいたい衝動に駆られる。川に掛かる古い鉄の橋には、実に寒そうにコートの襟を立てて足速に帰路を急ぐ人、足元のおぼつかない老人が時々僕の前を通り過ぎてゆく。
ただ夜の寂しげな景色を眺め続ける。縁石の上に仰向けに倒れ夜空を眺めると、そこには流れの早い真っ黒な雲と見え隠れする月、時々その間を横切るように鳥が飛び去って消えてゆく。そこには静かな時と雲と月と鳥と自分が存在する。
何も考えない。それが自分の大切な原風景の一つとなっている。僕は一人で晩飯を食べるのが好きだ。お金が無くて食事ができなくてもタバコだけは必要だ
った。
マルクを握りしめ街角のキオスクで赤のマルボロを
買った。タバコか食事にするかを時々迷いながらも、暗い街の道路脇にポツンと明かりを付けている寂れたギリシャ料理のお店が好きで、そこに行くと一番安いギロスかスフラキを注文した。
ギリシャ料理は独特の香辛料を使ってグリルする料理が多く、その付け合わせとして必ず付いてくるツァチィキはヨーグルトの中にきゅうりとガーリックを入れたもので、その白いヨーグルトソースをお肉につけて食べる。集中してゆっくりと味わいながらツァチィキをギロスやスフラキに付けて食べるギリシャ料理はまさに孤独王の晩餐のような至福の時間だった。食べる時は他のことは考えない。ジッとギロスの乗っかったお皿に意識を集中しそこに適量のツァチィキを丁寧
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につけ、大切に一口一口いただく。
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ある日、そのギリシャ料理のお店の人から、サービスで小さなショットグラスに入ったキラキラと光る白濁した飲み物が差し出された。そのお酒を一気に飲み干すとカッと熱くなるような強いお酒だった。ラクレットのような味の度近くあるウゾと言うギリシャの飲み物で、それ以来僕の大好きな食前食後酒となった。凍らせたショットグラスに透明なウゾを注ぎ込むと、白濁してキラキラとした結晶が出来る。その冷たいウゾを一息で飲み干すと、
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ギロスやスフラキの香辛料の味をさらに引き立てる。代の頃に出会ったギリシャ料理は最高峰のご馳走であり、永遠に大好きで美味しいもの、一人でお皿に集中して食べる。
時々、一人で同じ映画を何度も見に行った。イギリス映画やフランス映画
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が好きだったが、ドイツ語の吹替えになっているイギリス映画が時に好きだ
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った。その中でも同じ映画館で何度も通って見たのが「 Another country」と言うイギリス階級社会の寄 20宿舎生活と青年達を描いた作品なのだが、その映像と音楽が美しく、誰もいない映画館でほとんど一人ぼっちで最前列に座ってその映画の中に自分の身を投じた。 Another countryに流れる音楽とイギリス映画独特の深いコントラストのある映像と主人公の Rupert Everettと Colin Firthは若い時代の僕の中の美の定義となった。
一人の時間は僕に沢山のものを与えてくれた。代に過ごした海外での孤独な時間が自分にとってどれほどの意味があったのだろうか。いつも自分に対しての嫌悪があった。そして全く行先が見えなかったのが代の時間だった。何かを探すわけでも無く、何かの目的も無く、ただ時間と街中を彷徨った。夜中に目が覚めると寝静まった真っ暗な街を抜けて、マイン川のほとりに出る。誰もいない真っ暗な遊歩道を歩きながら、縁石に腰掛けジッと川の流れを見つめるだけ。何もしないし、頭の中は空っぽだった。ただ、水面に映る景色を眺めしばらくすると来た時と同じ道をまたアパートへと戻ってゆく。年以上が経過した今、代の頃のあんなに孤独で寂しかった不毛に感じた時間を喉の奥から、心の底から渇望している。
多目的な施設「結びの家」は、地域の防災セミナーやワークショップなど、人と人をつなぐイベントに活用されています。こうした施設は、藤野の大工さんや鉄工所など、地元の人達の力でコツコツと建てられてきました。
藤野では古くから緑茶を作ってきましたが、後継者がなく放棄される茶畑が増えていました。藤野倶楽部はお茶の木の有機無農薬栽培にとりくみ、摘み取りや製茶も自ら行っています。製茶した緑茶は「藤野里山茶」として販売。苦味のない新茶は、全国から注文があります。この秋からアフタヌーンティーセットも始め、平日午後の利用に力をいれています。
戦国時代の山里を感じる築150年の民家をリノベーションした宿泊施設「柚子の家」。戦国時代には山城があった歴史ある山里「菅井地区」に建っています。
広々とした大広間に、太い柱や梁、古い建具を残した「柚子の家」。目の前には丹沢につづく山々がひろがります。囲炉裏テーブルで炭火焼きを楽しみながらすごす夜もゼイタクです。
20年ほどまえ、一面のテニスコートから始まった藤野倶楽部。いまは市や県からも注目される存在になりました。桑原さんの思いを通貫するのは「楽しくやりがいのある人間空間をつくり、それを次代につなげること」。20年間、走り続けてきた藤野倶楽部を、次代へとつなげる様々な試みがはじまっています。
第 93回内田 和子
つれづれなるままに
11年目の復興をみる
【 3日目】ー前月よりの続きー
石巻のホテルを7時
分に出発。
今日は震災後一度も足を踏み入れることができなかった、双葉町と福島第一原子力発電所、そして2020年 9月竣工の東日本大震災・原子力災害伝承館(以下、伝承館)の見学となる。道路は整備され、バスはかなりのスピードを上げてひたすら南下する。名取、相馬を抜け、双葉町へと入る。新しくなった双葉駅、向かいには翌週開所となる役場が建つ。ここで原
発視察専用バスに乗り換え、原子力発電所へと向かう。帰宅困難区域に指定されている大熊町、富岡町一帯は、
前のまま凍りついていた。大きな地震と津波、そして原発が
あったことを嫌が応にも突きつけられる。立入禁止区域の様子は報道でも見ることができなかったが、国道6号線を走る光景はあまりに酷い。田んぼは一面雑草が伸びてどこまでも覆う。屋根が朽ちた居酒屋、閉ざされた工場や銀行。人々が顔を合わせ言葉を交わしたであろう店先の看板も落ちたま
ま。むしり取られたままの暮らしの跡があった。陸前高田の奇跡の 1本松から三陸海岸を走り復興の足跡を見てきたが、ここだけは全くの別世界。思考が止まり言葉を失ったまま、何かを感じ取ることすらできなかった。
原子力発電所では、廃炉に向けた現況の説明を受け、入所にあたり細かな注意があった。初めて入る中間貯蔵施設は撮影禁止、時計、携帯はもちろん、飴玉1つ持っては入れない。厳重な身体チェックを受け、線量計を持ってバスで移動する。テレビで見続けた原発現場、今は廃炉に向けて粛々と、淡々と作業が進められている。復興という言葉はここにはない。ただひたすら廃炉のための作業である。見ているのが辛い。時々線量計が音をならす。基準値を越えることがあるとのこと。ここに長く止まること
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▲ 除染で土を剥がされたり、草だらけの田んぼ。
後編
年
▲ 放置された店舗や工場。
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東北大震災の復興は各地域に大きな変化をもたらし、まだまだこの先の課題は多いが、福島の原発は、想像を超える大きな問題を私たちに突きつけている。双葉町の駅周辺には県外からも受け入れできる新しい住宅が建ち、町の復興に大きな期待が持たれているが、道路を挟んだ向かいには手付かずのままの廃屋があり、そのギャップにとまどう。後年、震災のことも原発のことも知らない世代がこの地に住み着いて、新しい街ができていくのかもしれないと、微かな願いをいだきながら双葉町を後にした。
震災から年、今回の視察は私にとっても1つの区切りとなった。改めて配布された資料に目を通すと、多くの方々が様々に関わって、復興を願って活動してきたことがわかる。この地の子どもたちが、明るく未来に向けて育っていってほしいと願う。
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知った。その時この女性の映像が流れ、体が震え頭が真っ白になった。以来、この映像が頭から離れず、復興支援活動の原点となっていた。この写真を見つけた時、息が止まった。この女性は保育園に通う男の子の行方が分からなかったそうだが、3日後に子供と再会ができたと説明書きがあった。年を経た視察の最後にこの写真と出会ったことは、私にとっては大きな救いでもあった。はできない。説明を受けながら、ふと遠くを見ると青い海が静かに広がる。かつて鳥の森と言われた場所は、子供達が写生に来ていたそうだ。地震がなく原発事故が起きなかったら、日本の繁栄を支えた美しい景色だったのだろうと、ふとよぎる。発電所の方の説明は丁寧ではあったが、なんとも重々しく複雑だった。ここでは笑うことが禁止されているのかもしれない。これも辛い。
最後は、伝承館の見学となる。原発現場でかなりナーバスになっているので、なかなか目に入ってこなかったが、内容の濃い展示が多く、短時間では見きれない。震災の全容がよくわかる。報道写真もたくさん展示されている。その中の1枚にクギづけとなった。それは、ちらつく雪の中、毛布をかけて呆然と立ち尽くす女性の姿である。震災の時、私は成田上空の飛行機の中にいた。横田基地を経由して伊丹空港に着き、夜中に大阪のホテルでテレビをつけて、初めて震災の惨状を
▲ 新しい双葉駅。
▲ 伝承館の展示模型。▲伝承館で見た地図。
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