大阪 美の探求者たち
時空を超える美意識
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精霊火 2022
カタチとココロを未来へ
リニューアルした藤田美術館
国宝「曜変天目茶碗」をはじめ、国宝9件、重要文化財53件、総数2000件以上の優れたコレクションで知られる藤田美術館。大阪を代表する実業家・藤田傳三郎のコレクションを所蔵し、長年「蔵の美術館」として愛されてきました。2022年4月、新しくモダンな美術館に建て替えられ再スタートしました。
暗黒の宇宙に浮かぶ美しい星雲のようにも見える「曜変天目茶碗」。光を当てると浮かび上がる不思議な光彩は、極薄膜の光の干渉効果から生まれる構造色と考えられています。12世紀、中国建窯で焼かれた同種の曜変天目茶碗は世界に3例しかなく、その全てが日本にあり国宝に指定されています。こうした貴重な作品は「藤田箱」と呼ばれる黒漆に金蒔絵を施した箱に納められています。
藤田美術館は大阪城の北、JR大阪城北詰駅のすぐ近くにあります。もとは人形浄瑠璃「心中天網島」の舞台となった大長寺のあった場所で、明治18年の水害で甚大な被害をうけた大長寺の土地を藤田傳三郎が買い上げ、寺には安全な代替え地を寄進しました。傳三郎は明治26年から、自ら図面を引いて自邸を建て始めます。そこに20を超える茶室を建て、茶の湯三昧の日々を送りました。網島には井上馨をはじめ政財界の大物が次々に訪れ、傳三郎はほとんど屋敷から出ずに丁寧に応対したと伝わります。新しくなった藤田美術館。内と外がシームレスにつながり開放感あふれる土間が広がります。入り口には受付がなく、スタッフにキャッシュレスで入館料を払う仕組みです。休館日は年末年始のみで、19歳以下は無料になっています。
土間の入場は無料で、館内に設けられた「あみじま茶屋」では、ワンコインで抹茶や団子のセットを頂けます。あみじま茶屋の藤田義人さんは「開館以来、インスタ映えを狙って来る若者が増えています。美術館を建て替える際、美術・骨董ファンだけでなく、古美術に触れたことのない若い方、敷居が高いと思っている方にこそ訪れてほしいと考えました」といいます。あみじま茶屋はその接点となる場所で、外からもよく見え、美術館と知らずに入ってくる人もいます。スタッフも茶道や古美術に詳しくない若い人が中心で、来館者と同じ視点でコミュニケーションをとり、共に学んでいくことを期待しているそうです。広い土間や広間では様々なイベントが開催される予定です。藤田美術館に隣接して、大阪市「藤田邸跡公園」があります。建て替えを機に塀が取り払われ、自由に行き来できるようになりました。建物の設計・施工は大成建設で、お互いに意見交換しながら、新しい美術館の姿を探っていったそうです。
Vol.38
原作:タカハシヨウイチ はら すみれ絵 : タカハシヨウイチ
家に電気をひく方法三角山のふもとの電気の木の林へ行き、よく光っている若い枝を折って持ち帰ります
※ちゅうい※かならずゴム手袋をしましょう切り口をさわると感電のおそれあり
枝は家からはすこし離れたところに植えること!なぜって電気の木はカミナリを呼ぶのですまちがって家の方に落ちては大変でしょう?
網島は古くから大川の名水に恵まれ、茶の湯が盛んな地域だったようです。明治43年頃から新本邸の建設が始まり、藤田邸跡公園の入り口となる表門(上)をはじめ和洋接客室、玉突き室、茶室などを備えた関西最大級の和風建築は「網島御殿」と呼ばれます。網島町の大半を占めた広大な庭園は、梅園梅叟により作庭されました。
川沿いの平たんな砂地に築山で起伏を設け、水を引き込んで池や滝、川の流れを作り出しています。昭和20年6月の大阪大空襲によって表門や蔵、多宝塔、東邸(元太閤園)を残して、藤田邸は全焼しましたが、西邸跡は大阪市長公館(現ザ・ガーデンオリエンタル・大阪)となり、奇跡的に残った蔵は藤田美術館として公開されました。
藤田美術館のシンボルである多宝塔は、大正7年頃、高野山・光台院から傳三郎の長男平太郎が移築したものです(大阪市の指定有形文化財)。美術館の建て替えに合わせ補修を行い15mほど曳家されています。藤田傳三郎は天保12年(1841)、幕末の長州・萩に生まれ、生家(現香雪園)は城下で醸造業を営み、近くには奇兵隊を組織した高杉晋作の家がありました。傳三郎は明治の大実業家のなかでも資料が少なく、青年期の記録はほとんどありませんが、倒幕運動の中心にあった長州で、幕末の志士と共に活躍したと考えられています。
明治維新後、萩の若者は東京へ出て役人を目指
すことが多いなか、傳三郎は実業の世界で国の発展に貢献する道を選びます。明治2年、長州藩から払い下げられた武器を一手に買い受け、大阪に運んで資金を得ました。萩出身の山田顕義(陸軍中将、日本大学の学祖)の知遇をえると、山田から軍靴の製造をすすめられ、陸軍に物資を調達して財を築いていきます。土木建築へと事業をひろげると、北陸線・柳ヶ瀬トンネルの難工事や琵琶湖の水を京都へひく琵琶湖疎水トンネル、大阪市街の橋の架替工事などを請け負いました。
幼い頃から天性の蒐集癖があったと回顧する傳
三郎は、事業の成長と共に、仏画や仏像の蒐集をはじめます。快慶作の重要文化財「木造地蔵菩薩立像」は奈良・興福寺に伝わった名品で、寺院維持のため70点以上の仏像を売却したもののひとつ。実業家茶人のリーダー的存在だった益田鈍翁が一括購入したものの内の一体と思われます。
明治維新と共にはじまった廃仏毀釈や廃藩置県など、社会構造の急速な変化によって、藩主、武家、豪商、神社仏閣に蓄積された美術品が一気に失われ、金銀をとって捨てられたり、外国人に安く買われ海外に流出しました。傳三郎は、社会制度や秩序が回復し、美術品の価値が認められる時代が必ず来ると信じて、その時に備え自ら蒐集をすすめるという、未来を見据えたビジョンをもっていました。そのため藤田コレクションの特徴のひとつは、個人の趣味趣向だけではなく、将来に残すべき美術品を古代から近代まで、体系的に蒐集していることといわれます。1136年、藤原宗弘によって描かれた国宝「両部大経感得図」は、密教で重要な大日経と金剛頂経の伝来を描いた障子絵で、善無畏が北印度乾陀国金粟王の塔下で大日経供養法を感得し、龍猛が南天竺の鉄塔で金剛頂経を相承したという2つの光景を描いています。平安時代に鳥羽上皇によって創建された奈良(天理市)の内山永久寺のお堂にありましたが、明治7年に廃寺となってしまいます。残された本作は平安時代に描かれた数少ない作品として国宝に指定されました。
明治17年、傳三郎は政府から小坂鉱山(秋田)の払い下げを受けると、銀・銅の生産で日本有数の鉱山に成長させます(鉱山事業はDOWAホールディングスに継承)。運輸では、明治15年琵琶湖の太湖汽船(琵琶湖汽船の前身)、明治17年阪堺鉄道(南海電鉄の前身)、明治19年山陽鉄道(JRの山陽本線の前身)、土木では、大倉喜八郎と組んで、明治20年日本土木会社(大成建設の前身)、メディアでは大阪毎日新聞(毎日新聞社の前身)を再興。金融では明治30年北浜銀行(三菱UFJ銀行の前身)、電力では明治39年宇治川電気(関西電力の前身)、繊維では明治15年大阪紡績(東洋紡の前身)を設立というように、近代化に必要な事業を次々に打ち立てます。
橋本雅邦「山水図双幅」(明治期)。
「あみじま茶屋」では、注文ごとに目の前でお抹茶をたて、団子を焼いて、来館者をもてなしています。茶屋利用のみは入館料無料で、散歩の途中にふらりと立ち寄る人も多いそうです。カウンターの左官仕上げは、久住有生さんによるものです。
茶杓で抹茶をすくい、釜から柄杓でお湯を汲み、茶筅で立てるという一連の所作を見て、茶道具に興味をもつ若い人もいるようです。道具には谷松屋戸田商店の扱う、谷本貴さんの伊賀焼や、川合優さんの木の盆など現代作家作品が使われています。同店は松平不昧公の御用を務めた歴史ある道具商で、傳三郎の時代から藤田家へ出入りしていました。現在、館長 藤田清さん(5代目)と戸田商店 戸田貴士さん(16代目)は緊密な関係を築いています。昭和29年に開館した藤田美術館は、大阪大空襲で焼け残った邸宅内の蔵を改装し、展示室として利用していました。京都帝大教授で鉄筋コンクリートの権威日比忠彦設計による日本最初期の鉄筋コンクリート建築で、焼夷弾の炎に耐え貴重なコレクションを守りました。作品保護のため夏・冬の開館が難しかったこともあり、今回の建て替えは通年開館が目的のひとつとなりました。展示室の入り口には蔵の扉が再利用され、中に入ると蔵の梁材が来館者を迎えます。床にも蔵の古材が使われ、壁・天井の左官仕上げは久住有生さんによるものです。
まず出迎えてくれたのが、藤原藤房自筆の書状(鎌倉時代重要文化財)。藤原藤房は後醍醐天皇の側近で、夏の終りに季節の花を贈るといった内容がのびやかに書かれています。展示室はひろいワンルームで、可動壁で仕切られています。展示を3つのテーマに分け、1カ月ごとにひとつのテーマを変えることで、展示替のための休館期間がない美術館を可能にしました。取材日は「水」、「花」、「傳」の3テーマの展示でした(「傳」は7月31日に終了。8月1日から「獣」に変わりました)。立体作品は360度どこからも見られる独立したケースに展示されています。無反射コーティングの高透過ガラスなので、ガラスがないように感じられます。
展示室内はスマホで撮影できます。解説のキャプションは最小限で、詳しく知りたい場合はQRコードを読み込み、スマホで見るようになっています。「花」のテーマで展示された尾形光琳「桜狩蒔絵硯箱」(江戸時代)は、金の地に貝殻や金属板で文字や人物をあらわし、『新古今和歌集』にある藤原俊成の歌「復や見ん 交野のみのの桜狩 花の雪散る春のあけぼの」の世界を表現しています。
「傳」のテーマで展示された「唐物肩衝茶入銘蘆庵」。元は薩摩の島津家伝来の茶入で、西南戦争の戦禍によって付属品が焼かれ本体だけが残りました。これを入手した傳三郎は 趣向をこらした仕覆や牙蓋などの付属品をつくり、自号である「蘆庵」と名付け大切にしました。拭き漆のような赤く透明感のある肌に一筋の釉が流れています。30代のころ西南戦争で政府軍に軍服や食糧、軍靴を納入した傳三郎にとって、この茶入は特別な意味をもつものだったのでしょうか。傳三郎は、朝日新聞の村山龍平たちが組織した実業家茶人の会「十八会」に参加し、第六会(明治35年)では席主となり客をもてなしました。傳三郎は三千家のひとつ武者小路千家(むしゃこうじせんけ)の磯矢宗庸(いそやそうよう)に学び、皆伝を授かっています。「砧青磁袴腰香炉 銘 香雪」。傳三郎はこの香炉を気に入り、新しく銀製の火屋(ほや)や牙蓋をつくって自号のひとつ「香雪」の名を与えました。この形の青磁は、中国古代の三本脚の調理器具鬲(れき)が変化したもので、13世紀頃に中国・浙江省の龍泉窯でよく焼かれました。日本には鎌倉時代に伝来し香炉として使われました。
長男平太郎、次男徳次郎はこれらのコレクションを引き継ぎ、自らも蒐集品を追加し充足を図りました。例えば国宝「曜変天目茶碗」は、大正時代に水戸徳川家の売立があった際、長男平太郎が入手しています。傳三郎が遺した「多年蒐集した物品を、一定の方法・設備により常に公衆の展覧に供し、研究に貢献することを期待する」という思いが子孫に受け継がれ、藤田美術館として実現されているのです。
「傳」に展示された「利休茶杓 銘 藤の裏葉/東方朔」(上)と「本手利休斗々屋茶碗」(左)。茶杓は千利休の手作りで、豊臣秀吉に贈った会心の作といわれます。節が高く持ち上がった蟻腰で、鋭い漕先を鋭角的に曲げています。斗々屋(ととや)茶碗は利休がその美を見出した高麗茶碗で、茶碗のスタイルのひとつとなりました。これはその本歌ですが、写しにくらべると、とても明るいつややかな枇杷色であることが分かります。この茶碗は利休から古田織部に渡され、朝鮮出兵の資金を得るため織部は一時手放しますが、それを内緒で買い取った小堀遠州が帰国した織部に贈ったという逸話が残されています。新生した藤田美術館の試みは、これからの美術館のスタンダードになり、道具にまつわる数々のストーリーを後世に伝えていくと感じました。
心・体・思考の健康をデザインする
大吉朋子(写真・文) Tomoko Oyoshi
とっておきの休み時間5時間目 Yoga
ヨガ
ヨガを始めたのは 17年ほど前。幼い頃から両親ともにヨガを日々ごくふつうに取り入れていたこともあり、ヨガの存在は知ってはいた。それでも特に興味をもつことはなかった。そんな私が、今ではヨガは生活の一部となり、人へ教え伝える側にも至る。ヨガの学びを通して、私の心、体、思考は大きく変化していることを実感している。
20代が終わる頃、体(と心)のメンテナンスをかねて、ヨガ教室に月2回通い始めた。先生は70歳を超えた
くらいの女性。しなやかに体を自由に扱う姿に驚いた。それでも、しばらくは教室に通うことが少し面倒で、何が
いいのかよくわからず、やる気は盛り上がらなかった。
通い始めて数カ月の頃、ある出来事が起きた。生まれて初めての急性胃炎。前日までピンピンしていたのに、朝
目を覚ましたら体が動かず、ものすごく具合が悪い。体の感覚が鈍くなり、顔、指先、腕が硬直していった。そ
れからの数日間、ひたすら吐き気がして気持ち悪い。医者にもらった薬を飲むとさらに具合が悪くなる。体に力が
入らず、頭も体もふわふわしていた。仕事には出かけたものの、どうやり過ごしていたのか記憶はない。体の真ん
中が壊れると全身のバランスや平常心が失われるのだと初めて知った。
その最中、ヨガ教室の日がやってきた。薬もダメ、何をどうしたら良くなるのかわからず、藁をもすがる思いで 90
分のクラスに参加し、自分の体と呼吸に一生懸命集中した。
レッスンが終わるとなんとなく体が軽い。そして、立ち上がった途端、「おなかがすいた」と思った。いつも通りのレッスンだったけれど、ついさっきまで、気持ちが悪くてどうしようもなかったのに、その感覚が何もない。
私の体に何が起きたのか心底不思議だったけれど、救われた思いでいっぱいだった。90分間、私は自分の体を快復させようと、ただただ先生の声に集中して体を動かし、吸う・吐くを繰り返していただけだった。
数年経ってもその体験が脳裏から離れなかった。しだいに、私の丈夫な体を何かに活かすことを考えるようになり、ヨガ指導者になる勉強をしようと思い至った。ヨガの達人でもなく、超ビギナーのわたしが。
ヨガインストラクター養成講座へ通い始めるも、趣味とは勝手が違う。ポーズひとつ見てもまったく違う。とにかく自分の体で覚えるしかないと、毎朝、日の出頃からヨガの練習をした。とはいえ、毎日練習をしても大きな変化はすぐには現れない。そして、めげずに数か月続けていくうちに、しだいに私の中で何か変化していく感覚を覚えるようになっていった。毎日の、ほんのわずかな変化も注意深く観察し、変化の理由を考え、次に生かす。その繰り返し。この頃から、私の中に「どんなに小さな変化も原因や理由を探り見逃さない」という意識が、自分でもわかるくらいに芽生えてきた。
そして、私の中で小さな確信がでてきた。「言い訳をしなくなった」ということ。 自分はいかに「言い訳」をしているのか、と、実感せざるを得ない感覚が巡ってきた。
自分の体を注意深く観察し分析していくと、何か問題があるとすれば、必ずそこには原因や理由がある。原因や理由がわかると、おのずと解決方法が見えてくる。そして、体のことを見ていながら、これは仕事や日々の出来事すべてに当てはまるのだということに、カチッと思考が繋がっていった。
ヨガはサンスクリット語で「つながり」を表す言葉。ヨガを通して、今なお進化中ではあるけれど、日々あらゆることの「つながり」を実感している。ヨガと出会い、私の思考はとてもシンプルになっている気がする。
ヨガ数秘学
大吉朋子
2022年 8月は5のエネルギーが流れます。
「5」は体を表す数字。8月はじっとしているよりも、行動する、運動する、変化する、旅をする、作ってみる、教える、など、体をつかうことがおすすめです。いつも慎重に考え物事を進める方も、8月は「ひとまずやってみる」。動いてから考えるくらいでちょうどいいです。暑くて集中力キープも大変な時期だからこそ、動いてやってみて、リフレッシュ。難題だって、動いてみたらすんなり解決するかもしれませんよ。
2022年 9月は 6のエネルギーが流れます。
「6」は心の数字。外に向かっていたエネルギーを心で感じる時です。8月の行動や活動から生まれた感情や思いなど、さまざまなことが心にあふれていませんか?9月はそれらに思いを寄せる。定まらなかった心も、しだいに決心へと変わるかもしれません。美しいものを見たり、感じたりするのもおすすめの 9月。心が動くことをぜひされてください。おうちを心地良くしておくこともGOODです。
【 8月生まれの方へ ワンポイントアドバイス 】
とてもエネルギーの強い方々。パワフルですが、それゆえに「〇〇すぎない」ことが大切です。「怒りすぎない」「怒りをためこみすぎない」「やりすぎない」など。大きなエネルギーは爆発すると自分も周りも大変ですから、エネルギーの発散は小出しにすることがおすすめです。
高麗橋ビルディング(旧大阪教育保険会館)
明治末から昭和の初めにかけて建てられた貴重なビルディングが、大阪北浜から船場にかけて残されています。高麗橋ビルディングは、東京駅の設計で知られる辰野金吾と、その教え子である片岡安による辰野片岡建築事務所の設計で、明治45年に竣工しました。「辰野式」と呼ばれる赤レンガに白い花崗岩のラインを入れたスタイルの典型例で、角に出入口を設け装飾を集中させ、ファサードを印象的なものにしています。今は「オペラドメーヌ高麗橋」として利用されています。
日本基督教団浪花教会
昭和5年、住宅や教会建築で知られるウィリアム・メレル・ヴォーリズの設計で建てられたプロテスタント教会で、高麗橋ビルディングに隣接しています。全体はチューダー様式を思わせ、ゴシック的な柱が天に向って伸びた垂直性の高いデザインです。礼拝堂には先の尖った美しいステンドグラスが並び、背後にパイプオルガンが備えられています。
大阪府立中之島図書館
明治37年、ネオ・バロック様式の図書館として、野口孫市(住友営繕)によって設計され、住友家から大阪府へ寄贈されました。野口孫市は明治32年に住友に入り、住友銀行建設のためヴィクトリア朝末期のロンドンを視察しています。明治39年にはサンフランシスコ地震の調査に派遣されるなど欧米建築の造詣が深く、辰野金吾から将来を嘱望されますが、46歳の若さで亡くなりました。
大英博物館図書室などを視察したであろう野口孫市が、その手腕を存分に発揮した重厚な空間です。
北浜レトロ(旧桂隆産業ビル )
大坂取引所の向かい、大きなオフィスビルに挟まれるようにアフタヌーンティーで人気の紅茶店「北浜レトロ」があります。明治45年、株の仲買業者が建てた煉瓦造のビルで、正面入り口を花崗岩で縁取りし、4本の柱で梁を受け止め、2階には大きなアーチ状の窓を開いています。
旧大阪農工銀行
大正4年、辰野片岡建築事務所(辰野金吾+片岡安)によって設計された大阪農工銀行は、元々、辰野式と呼ばれた赤レンガ建築でしたが、道路の拡幅をきっかけに昭和4年、銀行建築を多く手掛けた国枝博によって改修され、アラベスク模様の装飾やクリーム色のタイルが施されました。平成25年、このビルはマンション「グランサンクタス淀屋橋」に建て替えられましたが、外壁が保存されました。新築マンション部分を同系色にして、窓を縦長に見せることで、新旧の違和感を無くすよう工夫しています。
伏見ビル
船場の伏見ビルは大正12年、ホテルとして建設され、今はテナントビルとして使われています。設計は辰野片岡建築事務所出身の長田岩次郎。コーナーの隅丸に水平リブの飾り線をつけ、3階窓の上部に飾りの丸窓を設けるなど、アールデコの影響が見られます。柔らかな曲線が狭い通りにゆとりを与えています。
新井ビル
大正11年に建てられた新井ビルは、エンデ・ベックマンに学んだ河合浩蔵の設計で、元は銀行建築でした。昭和9年に新井証券が買い取りオフィスとして使用されましたが、現在は人気洋菓子店「五感北浜本館」として利用されています。新井の先代社長新井真一氏は、通産省でグッドデザイン賞の設立に関わり、世界デザイン会議の際に、丹下健三、清家清との関係を築いたそうです。それは後に、大阪万博にも役立てられることとなります。
ドラゴンシリーズ 94
ドラゴンへの道編吉田龍太郎( TIME & STYLE )
ガラクタ蒐集
も
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飛騨高山に出張に行くと時々、昔から通っている古道具屋を覗いてみる。東京や京都の骨董屋は格式が高く品物も良いのだが値段が高い。知人の作家からは『お前はなー古くて良いものをもっと身銭切って勉強せんといかんよ。』と言われる。確かに自分の身銭を切って良いものを知らなければ、良いものを作ることも出来ないとは昔から言われてきたことだ。古くから有名な京都や東京の骨董屋には、美術館収蔵品のような文化財クラスの骨董品があり、店主と仲良くなるとお店の奥から仰々しく取り出して見せてくれる。
神々しく気品溢れる品が、丁寧に箱書された中から慎重に取り出される。でも、そんな素晴らしい品々はなぜか僕の性には合わない。美し過ぎるものは自分の素が庶民なので身体にしっくり馴染まない。なんだか工芸的な視点で美術品としての価値は理解できるのだが、自分が欲しいのは実際に日常で使える古道具(ガラクタ)なのだ。自分の性根がガラクタなのだからしょうがないと言うものだ。
ところで高山の古道具屋や骨董屋は安くて良い道具が沢山あるのでおすすめだ。新しく何かを作りたい時のヒントになる種として、ものづくりのアイディアの参考にした、古い行燈や春慶などの漆器の多くは、高山の古い街並みの中に今で
軒近く残っている古道具屋のガラクタの中に埋もれてい
るのを買ったものばかり。行きつけのお店が出来てから、そこの古物商の頑固な店主と顔見知りになり、欲しいものをジャンジャンリクエストできるし、僕の好みを察して必要なものを探して用意してくれる。購入する際も『おじさんちょっとまけてよ。』と交渉すると、渋々だがいくらかの値引きもしてくれる。
そんな古物商のおじさん達から色々な貴重な現地情報を聞き出すこともできる。それに昔の道具の使い方や地域の風習、お祭り、土地の歴史背景なども詳しく教えてくれる。時には高齢の職人方を紹介してもらったり、今ではもう出会うことが困難となった、地元の桐を使った桐箱職人の工房まで軽トラの荷台に乗せて色んな人たちを訪ね歩いてくれたり、素敵な出会いとものづくりもそこから生まれた。
いま思えば古道具が好きと言うよりも、そんな古物商のおじさんたちの古道具と同じ埃臭いガラクタ同士が持つ共通した存在感が心地良くて色んな会話を楽しんでいたのかもしれない。
まだ日本が工業化されていない時代に作られていた様々な道具類。職人さん達が幼少時から自分の手を使い長い時間を掛けて培われた術で作られた道具類は、職人の技術力が高いほど完成度が高くて同じように見えるのだが、工業生産によって作られてきたものとは違った「発する匂い」とも言えるような佇まいを感じることができる。人間の手で作られたものはその作り手による個性と技量があり、またその熟練度によって制作できる数にも限りがある。
その時代に作られ長い時間を掛けて使用する中で刻まれた傷や、多くの人々が毎日のように使うことで磨かれてきた艶や角が削り取られて自然にできた柔らかな手触り感が存在する。
自然界から生み出された木や草や石や土から生み出されたもの、そしてその素材を使って丁寧に時間を掛けて伝えられて作られてきたものは、長い時間の経過と共にその表情や触感に深みを増す。そのようにして用いて作られてきた素材は、使う人間の手や身体にも優しくなじみ寄り添うものになる。
昔の人々のように自分の手を使い、必要なものを生み出し、その生み出したものを長く大切に使用する。時代の変化と共に生み出されてきた効率化の為の工業化も必要な進化ではあるが、多くの矛盾を抱え終焉を迎えようとしている現代社会の中、価値観を見直して時代を遡って引き返すとか転換するとかの、最後のチャンスなのかもしれない。
朝日新聞の創始者のひとりである村山龍平。若き日から刀剣、仏教美術のコレクションを始め、50歳を過ぎてからは茶道に邁進しました。その足跡を紹介する中之島香雪美術館は、大阪市北区中之島の「中之島フェスティバルタワー・ウエスト」4階に平成30年オープンしました。ちなみに向かい合う「中之島フェスティバルタワー」には、朝日新聞大阪本社やフェスティバルホールがあります。中之島香雪美術館には、村山龍平記念室(左)と展示室(上・下)があります(写真は特別展「陶技始末.河井.次郎の陶芸」2022年6月18日.8月21日)。
村山龍平は幕末の1850年、伊勢田丸(三重県玉城町)の武士の家に生まれました。明治維新後は一家で大阪に移住し、若き龍平は西洋雑貨店「田丸屋」を立ち上げ成功します。大阪商法会議所で財界のリーダー五代友厚や藤田傳三郎との関係を築くと、明治12年、29歳の時に朝日新聞を創刊。共同経営者の上野理一たちと共に新しい新聞づくりに邁進します。創刊号を友人で人気役者の芦屋鴈治郎が梅田駅で配ってまわり、きれいな印刷などにより部数を伸ばしますが、ライバル紙との競争は激しく、龍平は「紙面改革」に取り組みます。金融・商品市況を扱う、小説を多く掲載する、東京や朝鮮、中国に特派員を送り電報で事件をいち早く報道するといった、現代的な新聞の原型を社員と築きました。この時代は、インテリ層向けの大新聞と、庶民向けの小新聞に分かれていましたが、朝日新聞はそのどちらでもない、事実を公平に報道する姿勢を表明していました。東京朝日新聞を創刊すると、龍平は東京築地に移り住みます。早朝、全新聞に目を通し、出社すると会計や営業の進捗を報告させ、原稿の集まり具合を確認し、記者から事件の報告を聞き、夕方自宅に戻ると翌日の紙面をチェック。築地精養軒で食事をとり、各界のリーダーとビリヤードなどをしながら貴重な情報を収集。その後また自宅で幹部社員と会議といった過酷な日々を送っていました。
「金梨子地蔦紋唐草蒔絵衛府太刀拵」大正時代重要文化財「稚児大師像」鎌倉時代
多忙な日々のなか、龍平は少年時代から熱心に研究していた刀剣の蒐集をはじめ、これが最初のコレクションになりました。明治20年代からは、仏教美術、絵画へとジャンルをひろげます。そのきっかけのひとつは、明治21年から近畿で始まった社寺古美術調査と考えられています。廃仏毀釈によって寺院から多くの美術品が流出しましたが、フェノロサ(米国の東洋美術史家、岡倉天心とともに日本美術を高く評価した)などの影響から見直され、政府は仏教美術の調査、保護に乗り出しました。
重要美術品菩薩立像中国宋時代12世紀
九鬼隆一、岡倉天心、フェノロサなどによる調査が始まると、各新聞は記者を派遣し記事を載せました。なかでも朝日新聞は増ページをして、調査の随行記や優等とされた文化財を掲載します。その後、岡倉天心たちが日本・東洋の美術を紹介する豪華な月刊誌『國華』を創刊すると、龍平は個人でその経営を引き受け、多額の資金を提供し続けます。今も『國華』は現存する世界最古の美術雑誌として、朝日新聞社から100年以上にわたり刊行が続いています。御影の旧村山家住宅は国の重要文化財に指定されています。
龍平は明治33年、神戸の高級住宅地となる「御影」にいち早く数千坪の土地を取得し、洋館と和館、2棟の茶室を建てました。洋館を設計した河合幾次は、明治25年帝国大学工科大学造家科を卒業し、逓信省技師などを歴任。大阪で河合工作所を開いて、大阪中央電話局、大阪商船会社本社・門司支店などを手掛けています。村山邸洋館は地形の段差を利用して、地階と1階をレンガ造、2階は木造のハーフティンバー風にまとめ、屋根は銅板葺の寄棟造りで、リゾートの別荘を思わせます。
内装は明治のインテリアデザイナーの草分け小林義雄が担当しました。2階の居間は龍平が日常を過ごしたお気に入りの場所で、煖炉や縦長窓、ドレープカーテンなど本格的な洋式でありながら、竹をモチーフにした装飾をあしらうなど東洋趣味をとり入れています。その一部が、中之島香雪美術館に再現されています。小林義雄は幕末の丹後に生まれ、明治2年に上京して慶應義塾で学んだ後、渡航先のアメリカで室内装飾に魅せられます。明治11年、大蔵省商務局へ出仕しメルボルン万国博覧会に随行すると、帰国後、本格的にインテリアデザインを手掛け、宮内省に出仕して北白川宮邸、有栖川宮邸の内装や家具デザインを担当しました。和館を手掛けた藤井厚二は、京都府大山崎町の自邸「聴竹居(ちょうちくきょ)」で知られています。広島の酒造家に生まれ大正2年東京帝国大学工科大学建築学科を卒業すると、竹中工務店に入社。朝日新聞社大阪本社や橋本汽船ビルを手掛け、退社後は欧米視察を経て京都帝国大学の建築科教授となりました。村山邸和館は竹中工務店時代の作品で、玄関棟、書院棟、茶室棟を長い廊下で結び、自然の地形を生かした配置です。書院棟は南向き斜面に建つ4層の数寄屋造りで、当時の和風住宅と異なる複雑な構成。1階に50畳近い大広間、3階の望楼からはかつて瀬戸内海を望められました。村山邸を追うように御影には住友本家や野村徳七、大林賢四郎などが邸宅や茶室を建て、阪神間の高級住宅地となりました。
龍平が茶道を始めたのは、50歳を過ぎてからでした。藪内流の藪内節庵を師として、多忙な生活のなかで朝9時.11時の間、節庵を毎日自宅に招いて稽古をつけてもらい、急な来客があっても稽古を中断しなかったそうです。茶室のひとつ「玄庵(げんなん)」は、藪内流「燕庵」の精巧な写しで、家元から特別に建設を許されました。茶室は和館の奥にあり通路でつながっているものの、茶会の際は檜皮葺の編笠門を入り口として、外露地に見立てた起伏に富む山林を抜けてたどり着く趣向となっていました。藪内節庵は龍平の茶道具購入には必ず立ち会うなど、財界人と交流し関西の茶道界を大きく盛り上げました。
明治35年には朝日新聞の共同経営者で、藪内流の兄弟子でもある上野理一と共に、藤田傳三郎など実業家茶人18名が参加した「十八会」を結成し、持ち回りで茶会をひらきました。実業家茶人たちが集い、所蔵する名品を互いに鑑賞して学ぶことを目的としました。
高橋義雄(箒庵)が編纂した大正名器鑑に、村山龍平の所蔵品が多数掲載されています。大正9年、高橋は御影の村山邸を訪れ、茶入と茶碗20点近くを熱心に撮影したことを日記に残しました。黒楽茶碗銘「黒光悦」は大正7年に高橋が入手し、同14年、村山に譲られたものです。
昭和47年には御影に(財)香雪美術館が設立され、村山コレクションの保存・調査を行うと共に、翌年、香雪美術館(現在は長期休館中)が開館しました。その後、平成30年に中之島香雪美術館が開館し、館内には茶室「玄庵」が再現されました。茶室・数寄屋研究の権威・中村昌生氏が監修し、材料や工法など目に見えないところまで忠実に再現され、踏石や灯籠、植栽など露地の様子も作り込まれました。茅葺きの入母屋造りで、にじり口が奥に入り込み、軒先をサルスベリの柱が支えています。室内は3畳の客座を中心に、右手には台目の点前座が設けられ赤松皮付の中柱が見えます。照明や映像の演出で四季折々の雰囲気を楽しめます。
アフガニスタンのバーミヤーン渓谷。切り立った岩山の側面に、
長さ1300mに渡って掘られた石窟群から成る一大仏教遺跡で知られる。ヒンドゥークシュ山脈の一角で、標高2500mの高地にあり、古来シルクロードの拠点都市の一つとして栄えてきた古都だ。6世紀後半〜7世紀前半に建立されたという、遺跡の目玉だった2体の巨大な仏像。これが2001年イスラム原理主義的なタリバン政権の手で破壊されたことは、我が国でも大きく報道された。その後米軍とタリバンの戦が続き、米軍撤退前後の首都カブール空港周辺での大混乱は記憶に新しい。それ以前はロシアが熾烈な戦いを繰り広げていて、結局は撤退。そのはるか以前には大英帝国が手を出していて、シャーロック・ホームズ最初期の作品に、アフガン帰還兵が登場する。このようにアフガニスタンは古くから係争の地で、ある意味ウクライナに似ている。実際長年に渡ってニュースで目にし耳にするのは、戦闘・テロ・爆発・部族紛争等々、荒れた話題ばかり。平穏な暮らしとは程遠い、貧しい危険な国、というイメージを抱きがちだ。
だが、アフガンの大部分の人々は、ごく当たり前の暮らしを続けている。つい最近、改めてそのことを教えてくれるユーチューブのドキュメンタリー作品を見た。バーミヤーン渓谷沿い奥地山村の、とある農家。その料理づくりの様子を紹介するものだ。撮影は2022年( Ebrahim Danishチャンネル左下のリンクからご覧になれます)。グーグル・マップで見れば一目瞭然だが、この一帯、緑が広がるのは、渓谷の川沿いのみ。あとは緑がまったく見られない褐色の裸の山脈が続き、高所では雪が残る。人間の暮らしには厳しそうな環境だ。作品に登場する一家の家は、急峻な斜面にへばりつくように作られた日干し煉瓦と泥壁で作られた淡い褐色の土の家。電気もガスもないようだ。が、水には恵まれている。近くの渓
流から引いているようで、直径
センチ弱のホースからは、途切れ
ることなく清冽な水が勢いよく流れ出続けている。蛇口なんて、必要ないのだ。この水が流れ落ちる下は、5m四方くらいと思われるプール状の「溜池」となっていて、そこに水が流れ込んでいく。この水が溢れないのは、流れ込む量の水が自然に流れ出ていく工夫がされているからで、溜池の水は常に新鮮ということになる。
ビデオは、主婦と十代後半とおぼしき娘のふたりが、料理の材料を準備するところから始まる。ふたりとも白人のように肌が白
く、いまだ歳前後と思われる母親は、日本に来れば雑誌の表紙
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を飾れるほどの美人だ。セリフは一切なし。おそらく、普段どおりに料理する様子を撮影させてほしいと依頼したのだと思う。ふたりは淡々と料理の準備を進めていく。用意された主要な野菜は次の通り。ジャガイモ・ニンジン・トマト・タマネギ・ピーマン・緑色唐辛子・カブ・ニラに似た野菜。これらを材料として、トマト味を基調としたカレー風味の野菜シチュー的な料理を作っていく。油と調味料以外は、全て家の畑で取れたものと思われ、いずれの野菜も大きく立派で新鮮そのもの。まず、ジャガイモ・ニンジン・カブの皮をむく。ジャガイモやニンジンを左手に取り、右手に持った小さなナイフで皮をむいていく。二人共、手が器用だ。次に、これを流れ出る水で洗う。トマトやピーマンは皮付きのまま、皮
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をむいたジャガイモは一個ずつ両手に取って流れ出る水の下で洗う。こうして一
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度洗ったものを、後でまとめて洗面器に入れて、水をかけ流しながら更に洗っていく。それくらい野菜洗いは徹底している。
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次に、野菜をカットする。洗い終えた野菜を、庭の一隅にある腰掛けられる場所に持っていき、高原の風が木立の間を吹き抜ける気持ちの良さそうな場所で、野菜を切り始める。右手に小さなナイフの刃を自分の側に向ける形で持ち、野菜を左手に持って、これを切っていく。その調理に「まな板は使わない」。ジャガイモとニンジンは、厚めの薄切り、トマトとタマネギは乱切り風に、それぞれの野菜に応じて食べやすい大きさに切っていく。その独特の包丁使いは、日本ではまず目にすることがないやり方なので、画面を見ながら、手を切るのではないかとヒヤヒヤする。だが彼女たちにとってはそれが「当たり前の包丁使い」なのであって、これは「調理文化が違う」ということに尽きる。では、なぜ、まな板を使わないのか。幾つか理由が考えられるが、話が長くなるので、先に進もう。
この日は庭で料理する。直径・高さほどの、脚のついた金属製の筒状の簡易コンロを使う。脚の付いた石油缶に穴を開け、上部はオープンで簡単な五徳が付いたコンロという感じだ。熱源は木の枝。母娘は共に慣れた手付きで、木の枝を折り薄板を割って火にくべていく。一帯の農家ではどこでも庭の一隅に、燃料用の木切れが大量に保管されているらしい。高度成長期以前、我が国の山間部でも農家が家の周りに薪を大量に備えていたのと同じだ。バーミヤーンでは、渓谷沿い以外には、山にまったく木が生えていない。干からびた裸の山地が続くのみ。だから決して「柴(木枝)は山で刈り放題」ではない。家が木造ではなく「土造り」であるのも、木材が限られるためと思われる。渓谷の川沿いだけが緑で覆われていて、その周囲の僅かな平地で、畑と牧畜が営まれている。そのかわり高地で乾燥度の高い環境だから、燃料用の木枝を置いておけば自然に乾燥して良い燃料となる。これにジャガイモなど栽培した野菜の茎と葉を乾燥させたものも着火用に使われる。もっともこちらは、牛やポニーのような馬の大切な飼料だ。一家が飼う牛は乳牛3頭。あとはポニー数頭、他にそれなりの数の羊にヤギそして鶏もいるみたいだ。そして犬。夫は姿を見せなかったが、夫婦と子供4人(女子1人と男子3人)。ドル換算の所得水準は低いに決まっている。だが、この画像を見る限り、「貧しくて暮らしが大変そうだ」などとはまったく感じられない。むしろ「地に足の付いた農家の暮らしの豊かさ」さえ感じられる。とまあ、ここまでは、実は話の前置きで、ここからが本題だ。
この日料理に使用された野菜を再度確認してみる。ジャガイモ・ニンジン・トマト・タマネギ・ピーマン・緑色唐辛子・カブ・ニラのような野菜。これらはすべて自分の畑で取れたものと思われる。この映像を見た多くの人々は、こう思うだろう。このアフガンの山奥の人たちは、この作品に登場するような材料を使って「地域の伝統料理」を作る暮らしを、過去幾百年もの昔から続けてきたのだろうなと。だが、それは、大いなる誤解だ。これは食文化ヒストリアンとして断言できる。なぜなら、上記野菜のうち、少なくともジャガイモ、トマト、ピーマン、緑色唐辛子については、今から250年前にはこの地に存在しないはずだからだ。この4種の野菜はすべて、中南米原産だ。南北アメリカ大陸原産の植物が、それ以外の場所にもたらされるのは、1492年コロンブスのアメリカ到着以降のことになる。これらの野菜がまず欧州にもたらされ、その後、欧州の植民地さらにその先へと、交易を通じて長い時間をかけて拡散していく。食用の野菜は、新たにもたらされてから一般に受け入れられるまで、かなりの時間が掛かる。誰だってそれまで見たこともない食べ物に対しては最初抵抗があるからだ。ジャガイモについては、1820年頃には、イランで栽培されていたことが確認されている。したがって同じ頃には、バーミヤーン渓谷にも、インドもしくはイラン経由で入っていたのではないかと言われている。トマト・ピーマン・緑色唐辛子に関しても、ジャガイモに前後して、この地にもたらされた、と考えられる。とするならば、せいぜい、この200年ほどの話、ということになる。現在バーミヤーン渓谷のジャガイモはアフガン全土の産出量の約7割を占める特産物となっていて、一部は輸出されているほどだ。それが、かつては、存在しなかった。
要するに、250年ほど前まで、このバーミヤーン渓谷の農民たちは、現在とは全く異なる食生活を送っていたはず、ということになる。ただ淡いオレンジ色のニンジンについては、アフガン地域原産と言われているし、タマネギについてはパキスタン地域原産説があるくらいなので、共にこの地域で古くから栽培されてきたことは間違いない。だが、今このバーミヤーン渓谷で広く親しまれている「トマト味を基調としたカレー風味の野菜シチュー的な料理」は、ジャガイモ、トマト、ピーマン、緑色唐辛子抜きでは、成り立たない。このように、「地域の伝統料理」というのは思いの外「新しい伝統」であることが珍しくない。
それにしても、現在でさえ、この山奥の地に行くのは大変だ。にもかかわらず、今から200年ほど前に、誰かが大切に、これら中南米原産の野菜の種もしくは苗をこの地に運んできたのだ。ここが単なる「山奥」ではなく、古来シルクロードの拠点の一つであったということも背景にあるだろう。アフガンからは、紀元前4千年頃と推定される銀製の皿が発掘されていて、現在も時々、古代遺跡から素晴らしい貴金属製品が出土する。戦争以外の側面に目を向けると、分厚い歴史文化の集積が秘められた地域だということが見えてくる。
船場ビルディング
大正14年、村上徹一によって設計された船場ビルディング。中に入ると細長い吹き抜けのパティオがあり、自然光が降り注いでいます。20年ほど前、環境デザイナー・二見恵美子氏が竣工当時の姿を取り戻す再生プロジェクトを企画し、ビルの魅力を引き出すことに成功。建築・デザイン事務所やギャラリーなどが入居するようになりました。
芝川ビル(旧芝蘭社家政学園)
昭和2年、船場の商家芝川又四郎により澁谷五郎&本間乙彦の設計で建てられた芝川ビル。インカ文明のような装飾が特徴で、商家といえば木造だった時代に芝川は耐火性を重んじて鉄筋コンクリート造としたそうです。一時は「芝蘭社家政学園」という花嫁学校にも利用されました。装飾などを竣工当時に戻す工事が進められ、今はおしゃれなレストランやショップが入る人気のビルです。
原田産業大阪本社ビル
昭和3年の竣工以来、100年近くにわたり原田産業本社として使われ続けているビルです。小笠原祥光の設計で、新古典主義風のファサードは、貿易商社としての信頼性と、昭和初期の洒脱な雰囲気を上手に融合しているように見えます。ワンオーナーが大切に使ってきただけに、竣工当時の内装が大切に残されています。
大阪農林会館
昭和5年、三菱商事大阪支店として建設された地下1階、地上5階の大型ビル。戦後、昭和24年には(株)大阪農林会館が取得し、農林関連の事務所として使われました。昭和47年からテナントビルとなり、ファション、アートギャラリー、クラフト、アクセサリー、ヘアメーク、古書など、若いオーナーのスタートアップの場として活用されています。
旧川崎貯蓄銀行大阪支店
大阪・堺筋に面した銀行建築で、今は人気のカフェ「パンとエスプレッソと堺筋倶楽部」として活用されています。昭和6年、地下1階地上4階の鉄筋コンクリート造。施工は竹中工務店。80年間銀行として使われ、2001年レストランに改装されました。1階は天井の高い吹き抜けの空間で、金庫室などが残され、連日長い列ができています。
内田 和子
つれづれなるままに
第回
楽しい夏のイベント
4回目のワクチンを打った途端にコロナ感染者が急増。行動制限はなく、各地で3年ぶりのお祭りが再開され、その賑わいがテレビで映し出されていたが、同時に医療逼迫の現場も報道され、高齢者の病院受け入れも困難とのこと、どうすりゃいいのさ、基礎疾患ありの高齢者は …… と、頭と体のバランスがとれないまま、酷暑の8月となる。連日の暑さで日常の買い物もままならない。行動規制は自分でかけるしかないと、出不精をいいことに自宅に引きこもっていたが、区の社会福祉協議会からイベント企画会議の知らせが LINEで届いた。
5年前、「無理なく、楽しく、企画アイデアを出してください」とメンバー募集があったので手を挙げ、企画、運営サポーターとして、男性3名、女性5名のメンバーに加わった。何をやるのか勝手のわからないまま、夏祭り、秋の福祉まつりの準備や受付、くじ景品交換などをやっているうちに、だんだんとコツもわかってきたところで、コロナ。ここ3年ほどほとんど活動が中止になっていたが、その分を取り戻さんばかりに、毎週何かしらのイベントが計画されている。音楽あり、工作あり、絵画あり、塗り絵ありと高齢者を含む多世代で楽しめるようになっているが、今の時期は、高齢者の参加は少ない。そりゃそうだ。私もそちら側だが、サポーターメンバーはみな高齢者。にもかかわらず L I N Eの通知に、即「参加します〜」と、返事をしている。私よりずっと年上の先輩も元気な絵入りで「了解!」と返事をしている。コロナ急上昇中に子供が多く参加するイベント企画はためらいが大きかったが、しばらくおいて「参加します」と出した。夏休みに入った子供たちに楽しんでもらうイベント企画、メンバーは、アイデア豊富、口も手も達者、絵を描いたり、事前にネットで調べたり、ボランティアと侮ることなかれ、すごいパワーである。いくつかのアイデアの中から、「お絵かきフッシング」と決まった。次回はその準備、魚の型紙を切り
取り、色を塗る。プールを海に見立てて、海藻やヒトデも作る。釣り道具もお手製。子供相手なので危険がないように注意をして磁石をつける。魚にクリップをつけて、小さな子供でも釣りやすいようにする。半日がかりで準備を整えるが、まだ景品の準備はできていない。家に帰りすぐにシャワーを浴びて、しばし横になる。普段使わない脳と体が、目いっぱい働くのだから仕方ない。が、夕飯時の久しぶりのビールは心地いい。
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イベント当日は開始分前に集合、それぞれ役割を分担、地元大学生もボランティアで参加、子供たちと一緒に魚に色つけをしてくれている。できた魚を海に泳がせ、釣り糸を垂れて魚を釣る。魚と交換でくじを引き景品をもらう。景品は当日準備となったが、これが大ミソ。景品が欲しくて、子供たちは何度も魚釣りに挑戦。コツを覚えたのですぐに釣れる、で、くじを引いて景品交換、魚釣りから景品交換まで、エンドレス状態。これは想定外だが、子供にとってはたまらようだ。しかし、おかしなものでくじは小さな景品ばかりが出る。こちらは大きいのを渡してあげたいが、どういうわけか小さい番号が出る。それでも子供は、何度でも釣ってはくじを引き、嬉しそうに景品を受け取る。付き添いで来ていた親もいつの間にか真剣にくじを引いている。目のまわる忙しさだったが、景品がいっぱい入った袋を持って「ありがとうございました」と帰る笑顔に、こちらも笑顔になれるのは嬉しいものだ。
もう一つ楽しいイベントはプラモデル作り。会場にはプラモデルが山積みされていて、子供たちの目はランラン。秋葉原からプラモデルマニアのおじさんやお兄さんがたくさん来ていて、私たちサポーターはやることがなく、一緒にプラモデル作りに参加した。低学年用の山の中から「ピカチュウ」を見つけて初挑戦。ニッパーを使うのも初めてで、まとめて切り落として部品がわからなくなったり、図面の読み方がわからず何度もヘルプでお兄さんに助けてもらい、悪戦苦闘すること1時間、ようやく完成。気がつくと子供たちは相当大きな怪獣や複雑なロボット、戦車などを仕上げていた。日本のプラモデルは世界1だそうだが、私が作ったピカチュウでさえ、小さな穴に「パッチ」とハマらないと形にならない。小さな部材1つ1つがものすごく精巧にできていることに驚き、日本の技術の素晴らしさを実体験で再認識した。子供達は完成したものを動かしたり、すごく楽しそうだったが、今はプラモデルをやる子供達は少ないそうだ。アキバのプラモデル室はおじさんたちの集まる場所になっているようだが、手先と頭を使うプラモデルは、高齢者にはもってこいの楽しみになりそうである。当日参加のサポーターメンバーは、全員低学年用プラモデルを仕上げてご満悦。笑顔一杯で写真に収まった。
私鉄のビジネスモデルと茶の湯の関係
小林一三記念館「雅俗山荘」
大阪梅田駅から阪急宝塚線に乗り30分ほど、大阪のベッドタウン池田駅から徒歩約10分の所に小林一三記念館「雅俗山荘」があります。阪急の創始者として知られる小林一三(いちぞう)は、鉄道沿線に住宅地をつくり、都市のターミナル駅に百貨店を設け、郊外にレジャーランドをつくるといったビジネスモデルを明治・大正の時代に発明した人です。
昭和12年、池田市五月山に小林一三の新邸が完成し「雅俗山荘」と名付けられました。茶道具・美術品の保護と展示のため鉄筋コンクリートで建てられ、玄関には黄色の竜山石を張り、2階壁面にはハーフティンバー風の柱梁を露出させています。屋根はスペイン瓦型の黒い和瓦で、設計施工は阪急と関係の深い竹中工務店(設計・小林利助)によるものです。
吹き抜けの応接室では、大勢の客を呼んだ茶会も開かれました。雅俗山荘は昭和32年、小林一三のコレクションを展示した「逸翁美術館」として公開されましたが、平成21年に現在の逸翁美術館が建てられ、居住空間を再現して小林一三記念館となりました。邸内にはレストラン「雅俗山荘」があります。
明治6年1月13日、山梨県韮崎の豪商小林家(布屋)に生まれた男の子は、誕生日にちなんで一三と名付けられました。母きくのは一三を生むと21歳の若さで亡くなり、婿養子の父甚八は、実家に戻り再婚しました。残された一三と姉は、大叔父夫婦に引き取られ大切に育てられます。笛吹市八代町の自由民権運動家加賀美平八郎の私塾「成器舎」に12歳で入り寄宿生活を送りながら、当時最も進歩的な教育を受けました。
2階のプライベートな書斎や応接間はコンパクトにまとめられています。東京に出て慶應義塾に入った一三は、大茶人益田鈍翁の弟、英次の運営する寄宿舎に入りました。豊かな仕送りに支えられ、在学中は芝居や歌舞伎にでかけ、文学者を目指した一三は、現実の殺人事件をモチーフにした小説「練絲痕」を山梨日日新聞に連載。卒業後は新聞社を志望しますが叶わず、三井銀行に入行しました。大阪へ転勤すると慶応の先輩で後に「大正名器鑑」を編纂する茶人高橋義雄(箒庵)に命じられ、抵当となった茶道具の整理をしながら数々の銘品に触れました。藤田傳三郎の北浜銀行が設立され、一三が引き抜きの誘いを受けた時、高橋は思いとどまるよう書状でアドバイスしました。後に一三は書状を掛け物に仕立て、高橋を招いた茶会に飾り驚かせています。一三が鉄道にかかわるのは明治40年、失職中に「箕面有馬電気軌道」の経営に誘われました。一三は鉄道開業予定地に宅地を開発し、都市生活者に向けて「住宅地ご案内」パンフレットを配布。明治43年、池田駅の開業と同時に、駅に近接した「室町住宅」約200戸の販売を始めます。日本初の郊外型分譲住宅で、約100坪の土地に20坪程の2階屋を建て、一式2500円を10年の月賦で支払う仕組みでした。
室町住宅は、駅に近く電車は空いていて自然環境もいいと評判を呼び完売します。一三は次に、鉄道の終点となる箕面に動物園をひらき一大テーマパークにすると、宝塚には大浴場「宝塚新温泉」を設け、大正3年宝塚唱歌隊(後の宝塚歌劇団)を設立して劇場やホテルを建てました。また昭和4年には梅田新ターミナルビル建設にあわせ私鉄で初めての百貨店阪急百貨店を開業。鉄道を敷設すると同時に宅地を開発し、ターミナルには観光地やデパートをつくり、シナジー効果によって阪急を成長させていきました。都市近郊から都心に通勤し、休日には沿線の施設で余暇を楽しむという新たな社会像を描いたのです。このビジネスモデルは五島慶太(東急)や堤康次郎(西武)に継承され、東京近郊の私鉄開発に応用されていきます。
一三は東西の茶会に幅広く参加しています。松永安左エ門、畠山一清、五島慶太、服部玄三、團伊能、小西新右衛門、塩野義三郎、村山龍平、野村徳七、銭高久吉、湯木貞一、松下幸之助など、茶会をつうじて交流を広げていきました。小林一三記念館近くの「逸翁美術館」は、一三が蒐集した日本・中国・朝鮮・オリエント・西洋の陶磁器、日本・中国の漆芸品、古筆、古経、絵巻、絵画など美術工芸品約5500件を所蔵しています、
鉄道の経営が軌道にのり始めた大正4年頃、40代になった一三は裏千家・生形貴一宗匠から茶道を学び「逸翁」の号を授かります。大正11年頃からコツコツと茶道具を集めはじめ、初めて茶会を開いたのは大正13年、中国京劇界の大スター梅蘭芳を招き「梅蘭芳観劇茶会」を行いました。昭和16年には「芦葉会(ろうようかい)」を結成し、経営者、古美術商、雑誌編集者、お茶屋の主人など様々な人を集め、戦中、戦後の物資の苦しいなか、伝統にとらわれない工夫をして茶会を楽しみました。「芦葉茶会記」は鮮やかな色絵で道具や懐石料理を描き、同時の様子を伝えています。昭和15年、小林一三は政界に進出し、第2次近衛文麿内閣で商工大臣をつとめました。茶室「費隠(ひいん)」は昭和19年、京都から移築した2畳の茶室で、近衛文麿は費隠の扁額と、竹一重切花入銘「錦」、茶杓銘「代々」を贈っています。昭和20年12月、近衛文麿が自死した際、一三は前日会ったばかりの近衛の死に驚き涙したことを日記に書いています。「即庵」は三畳台目の和室のまわりに土間を設け椅子を置いています。お点前は畳座で行い、客は椅子に座るという画期的な間取りで、一三が提唱した「大乗茶道」の考え方を表しています。大乗茶道とは「茶を通じて芸術を楽しむ生活を日常とすること」を目的として、茶会で亭主と客が芸術品を介して精神交流するため、芸術にすぐれたものは旧来の茶道具でなくても使用できるとしました。昭和7年には梅田阪急6階に老舗古美術商の店を並べ、一角に茶室「福寿荘」を設けて茶の湯の稽古を行うなど、デパートという身近な場所で茶道を広める試みを行いました。
一三が晩年にひらいた茶会に「北摂丼会(ほくせつどんぶりかい)」があります。家庭での茶会を普及させるには、茶懐石の改善が必要と考えた一三は、丼料理を工夫することで、豊かで手間の掛からない懐石ができるかどうか、北摂の茶人を集め実証したのです。生涯最後の茶会となったのは、この丼会でした。小林一三が阪急で実現したビジネスモデルは、全国の鉄道が手本としましたが、小説や自伝、紀行など20冊以上の著書を出版し、宝塚歌劇団の脚本も自ら書いた一三は、本当に自分が楽しいことを、出来るだけ多くの人に提供することを目指した経営者であると感じました。
その29
青山かすみ
行き場をなくした地球温暖化は今夏、とうとう猛威を振るい出した。大陸の北西側から日本海へ吹き込み大暴れする大トラ。ちなみに冬季は "シベリアおろし"と呼ばれ、吹雪や大雪をもたらす。どうにもとめようがない?北から南に細長く、極東に位置する最果ての島国ですもの。北半球・南半球の影響をモロうけてしまったみたい。水害は想像以上、北東北と北海道では日照不足による農畜産への打撃も計り知れない……
ごまかしだらけの選挙だ、国葬だと言ってる間に自然災害への対策を早め早めに強化すべきだったのでは? 国民の生活と財産、何より大事な国土ををぜんぜん守ってくれてないよね.先手を打つことの苦手な日本人だからしょうがない?結局いつも後手ゴテの紋切り型なのよ。関東から九州にかけてはモーレツな熱波と湿気に覆われ、熱中症かコロナなのか判断できかねる不安が頭をよぎった人も多かったはず。酷暑の都心上空を超低空飛行の空襲と大気汚染を撒き散らしてるんだからコロナ感染が収まるわけ無いでしょうよ.と思うワケ。
自然災害&流行り病+北京オリンピック直後早々にはじまった戦禍による物価高騰を抑える術など、様々な難題を解決に導
く糸口さえいまだ見つけられないままだし、何度でも懲りずに言わせてもらいますけど、羽田へ向かう都心の飛行ルートをこのまま続けたら、人の寿命を縮める原因要因となります。そうなることが目的なのかしらと思われてもしようがないし、お国のために命の犠牲を払いなさいと言われてるようなもの。日本が本当に民主主義国家であるのなら、自国の空襲で人間の命を奪うことだけは絶対しないでと言いたい。せめてワクチン対応だけは欠かせないようですが。
西日さす猛暑の午後3時から6時過ぎまで、外苑前から青山学院までの青山通り上空には超低空飛行で旅客機が飛び交います。ここ港区は Cルートなんだけど、表参道駅から外苑駅までの一区間に、同時多発的な微妙な時間差で5.6機がバンバン飛び交ってるワケね。これは驚くべき事実であり、気がつけば飛ばす側の圧が強められてたし、悲しいかな嘆かずにいられない現実です。また Aルートらしき渋谷駅周辺では、道玄坂方面と公園通り側上空から飛来し、スクランブルスクエアを横切り飛んでゆきます。コロナ感染者数が過去最多になろうとも、お構いなしに飛ばし続ける国家を誰が誇れます?国民の命よりお金のなる木や自分のポジショニング保持が尊いことのようね。自国の陰湿な暴力的行為に皆さんは許容できているのかしら。3年目にしてますます不思議でならぬ。
高麗橋野村ビルディング
大正12年の関東大震災をきっかけに、東京を凌駕し東洋一の経済都市となった大阪は「大大阪」の時代を迎えます。震災でレンガ造が大きな被害を受け、鉄筋コンクリート造が増えるなか、このビルは昭和2年、関西モダン建築を代表する安井武雄によって設計されました。証券、銀行、保険、貿易と野村財閥を形成した野村徳七は安井を支援して、銀行建築などを任せています。ここは野村初のテナントビルで、奥行きがない敷地でありながら曲線や素材の使い方により豊かなボリューム感を生み出しています。
堺筋を挟んで、高麗橋野村ビルディングの向かいに三井住友銀行大阪本店があります。昭和5年の竣工で、設計は野口孫市の後輩にあたる住友工作部の長谷部鋭吉と竹腰健造です。
ネオ・バロックの造形は、野口孫市設計の大阪府立中之島図書館を彷彿とさせます。長谷部と竹腰は住友工作部の廃止後、日建設計のルーツ長谷部竹腰建築事務所を設立します。
大阪の金融街北浜を象徴する建物です。昭和10年の竣工で、長谷部竹腰建築事務所の第一作です。外壁は花崗岩張りで、簡素化された列柱が並びま大阪取引所(旧市場館)す。建物の前には大阪商法会議所初代会頭五代友厚の像が立っています。
大阪ガスビル
建築家・安井武雄氏の代表作で昭和8年の竣工。御堂筋のシンボル的なレトロビルです。1、2階には黒御影石を使い、上階の乳白色タイルとの対比で全体のフォルムを引き締めています。窓の庇は黒い水平線を描き、丸みのある柱との組み合わせによって、未来的な表情を見せています。昭和41年には佐野正一の設計によって北側に増築されました。
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