春分 2022
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時空を超える美意識
ロシアのウクライナ侵攻と共に、フィンランド、エストニア、ラト
大きく変化するロシア隣国の情勢
ビアなどロシアと国境を接する国々は大きな変化を迫られてい
エストニアは、バルト海を挟んでフィンランドの対岸にある国で、人口約132万人、面積約45,000㎡の小国でありながら、IT立国として世界から注目されています。2004年、EUに加盟し、通貨はEUROを使用しています。ペイプシ湖を挟んでロシアと接し、EU圏の東端を担っています。
エストニア独立への道程
エストニアは古くから、デンマーク、ドイツ、スウェーデン、ロシア帝国などの戦乱に巻き込まれ、国家として樹立されたのはおよそ100年前の1918年でした。エストニアの特徴は、それまで一度もエストニア人の独立国家をもった経験が無いことです。
エストニア民族はフィンランドと同じウラル語族に属し、起源500年頃にエストニア民族へ発展したと考えられています。13世紀に入るとドイツ騎士団による布教戦争が本格化し、1219年にデンマーク軍がエストニア北部を占領。1346年にはドイツ騎士団がエストニアを買い取ります。こうしてドイツ貴族がエストニアの支配階級となり、1918年までの700年間継続しました。19世紀の中頃、エストニアの農民たちに民族としての目覚めをうながした偉人が、カール・ロバート・ヤコブセン(1841〜82)でした。当時の農民たちは帝政ロシアのもと、バルト・ドイツ人の支配下にありました。新聞や書物はドイツ語で書かれていましたが、ヤコブセンはエストニア語の新聞や農民向けの教科書を発行したり、学校教育を実践しました。
ドラゴンシリーズ 90
ドラゴンへの道編永遠の旅路吉田龍太郎( TIME & STYLE )
わずか
週間で世界は激変した。ぜったいにあり得ないだろ
うと思っていたロシアのウクライナ侵攻が本当の現実となってしまった。私たちは大きな時代の転換期を迎えていることをしっかり認識すべきだろう。私たち人類は平穏に自由と平和を享受することはできなくなることを自覚しなくてはならない。
ロシアのウクライナ侵攻は、これまでの世界各地の限定した地域紛争とはその意味と影響が全く異なっている。日本もまさにその直接の影響下にあり、大袈裟ではなくその戦下にあるのである。ロシアと中国の船艦が狭い津軽海峡を武器を積載した多くの軍用車を乗せて横断するようなことは、これまでの領空海の侵犯と言うレベルを越えてロシア軍がいつ日本領土に侵攻してもおかしくないような状況なのだ。
認めたくはないが事態はとうとう第
一気に来てしまった。ロシアから見たら日本は最も近い敵対国アメリカ側の大きな要塞のような存在であるし、危害を加えても直接的な反攻を恐れる必要のない国が日本と言う存在だ。
ロシアのウクライナ侵攻は離れた国で起こっている戦争ではなく、北海道や北日本と隣接し戦後から現在まで北方領土問題を抱えている隣国の侵略戦争なのである。そういう意味で、ロシアにとって地理的にも時間的な意味でも E Uの国々よりは、遥かに日本の方が侵攻しやすいと考えるロシア中枢の人々が存在しても不思議ではない。それくらい世界と日本の状況は逼迫していると私たちは自覚した方が良い。
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次世界大戦の寸前まで
第二次世界大戦が終わり、アメリカとソ連の冷戦は続きながらも世界は平
和を取り戻しつつあった。しかしイラク湾岸戦争やイラン、アフガニスタン紛争、イスラエルパレスチナ戦線、シリア内戦など中東で繰り返されてきた戦争、現在も続くミャンマー軍事クーデターも現代の国際社会に多くの傷跡を残し、その深い問題は今も解決していない。
ロシアの侵略はクリミア半島にはじまり、民族や地域的な紛争を越えて全世界を巻き込み次第に拡大しながら、現在のウクライナに続いている。
ロシアは中国や中東諸国、北朝鮮を後楯にしてウクライナからアメリカ、東欧諸国、 E U、全ての国々を巻き込み、世界を冷戦時代に引き戻し再び大きな対立を生み出してしまった。中国がこの状況でロシアの支援をすることになれば、世界はますます混迷した方向へ向かってゆくだろう。そうならないことを願うだけだ。戦争によって肉親を失った恨みの連鎖は、更なる恨みを生み出しながら続いてゆく。
今もロシアはウクライナ全土に侵攻し、多くの市民を犠牲にする攻撃の手を緩めてはいない。戦後から 1 9 8 0年代後半までソ連とアメリカの冷戦が続き、ソ連と東ドイツなど東欧諸国を中心に構成された社会主義国は、アメリカ、ヨーロッパを中心とする資本主義の国々と長期にわたって対立しなが
ら、核保有を抑止力とする政策を推進してきた。ペレストロイカによりソ連は解体され、ベルリンの壁が崩壊し、東欧諸国も次々と社会主義を離れて
E Uに加盟した。それが戦後から
流であり、ポーランド、ハンガリー、チェコ、スロバキアもその流れの中で資本主義へと移行し、ロシアの隣国ウクライナも影響下から離れ、 EUの仲間入りをして自由を獲得しようとしていた。
ウクライナからの数十万、数百万人にのぼる多くの避難民をポーランド、ハンガリー、チェコ、スロバキアをはじめドイツ、オーストリア、イタリア、
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年の大きな潮
まだ初々しい
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フランス、オランダなど E U諸国の市民が自宅に自主的に受け入れを行っている。会ったこともない人々、言葉も文化も違うウクライナからの避難民を多くの E Uの人々が自宅で保護している姿や、国境でのボランティアの姿は E U諸国の成熟した社会性と人間性を垣間見るものであり、これまでの西欧とロシアの対立が残してきた歴史観を共に背負っているように見えるのである。日本政府や日本人に海外から突然逃れてきた言葉の通じない、文化の違う避難民を自宅に受け入れる寛容さがあるだろうか。
毎日、刻々と侵攻を進めるロシア軍がウクライナへの攻撃を停止することを願いたい。
いずれの条件であろうが、まずはロシア軍の侵攻を停止することが最優先であり、これ以上犠牲者を出してはならない。私たち一人一人が願い、全世界の人々が望み、願うことしかない。私たちは世界中の人々がこれまでのよ
うに平穏で自由な日常を取り戻すことを願い、人々が日々の幸せを取り戻すことだけが望みだ。そして今、核兵器が使われる危機に立っている。どのような事態であっても絶対に使ってはならない。いかなる政府や思想や宗教であろうが、どのような理由であれ核兵器を所有することがあってはならないし、使用することがあってはならない。
歳の経済学部に通う大学生が握ったことのない機関銃を胸
に抱え、祖国ウクライナの志願兵としてロシア軍が侵攻してくる最も壮絶な最前線に立っている姿が映し出された。
彼らは祖国を守るために
歳の若さで決断し勇気と覚悟を持って立ち上が
ったが、彼らにはこれから青春の中で沢山の楽しいことが待っているはずだ。この若者たちの姿を見ると我が息子が戦場に立っているようで胸が強く締め付けられた。これから楽しいことを、夢をもっと見続けて欲しい。
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「Kurgja FarmMuseum」は、ヤコブセンの実験農場を体験型の博物館とした施設です。木造2階建ての製粉所には、水力で動く巨大な粉挽き機や製材機が設置されています。ヤコブセンば農業の近代化に必要な技術・設備のモデルを示し、自らも研究をすすめながら酪農学校の設立を目指していました。
貴重なエストニア牛が飼育され、糞を堆肥として利用するなど、ヤコブセンが提唱した循環式の酪農を実践しています。
農民が領主から開放されるには、知識力と経済の自立が必要と考えたヤコブセンは「農夫が金持ちになる方法」や「牛と収穫が農民の富になる方法」といった経済の教科書をつくり、女性教育にも力を入れました。
6月の下旬、真夜中まで明るい北欧やバルト三国では夏至祭が開かれます。博物館では、古来からの夏至祭を体験するイベントがひらかれました。夏至は干し草づくりを始める日で、この時期のやわらかな干し草は来春生まれる仔牛、仔馬のために保管されます。大鎌で草を刈り、冠のように編んでから牛舎に向かいます。
焚き火に火をつけ、周囲をまわりながら古来の歌を唱えます。ロシアの支配下では夏至祭は禁じられ、森の奥地に隠れて集うこともあったようです。1882年、カール・ロバート・ヤコブセンは41歳の若さで肺炎をこじらせ、夢半ばにして急逝しました。その後、帝政ロシアはロシア化政策を強め、農民の自主的な活動が停滞します。強制的にロシア語教育を導入し、学校や報道でのプロパガンダを徹底し、ロシア正教以外の宗教を弾圧しました。それと同時に、エストニア人の強制移住やロシア人の入植が行われました。
年9月
前回に続いて、1870年パリのクリスマスの話。普仏戦争(フ
ランス対プロシア+南ドイツ)「セダンの戦い」で「フランス皇帝を捕虜にする」という歴史的な勝利を収めたプロシア側は、フランス側の全面降伏を求めてパリを完全封鎖。この都市封鎖は1870
19日〜翌年1月
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日の降伏受諾まで4カ月と2週間弱の間続
いた。その間に餌(えさ)が枯渇したパリ市内の動物園では、市民の人気者だった2頭の象を筆頭に多くの動物を殺処分し、その肉を販売するに至る。これを聞き及んだ市民たちの落胆は大変なものだった。惨めな窮状に喘ぐ市民の情勢は封鎖されたパリから気球や伝書鳩によって逐一フランスの各地に伝えられた。この情報伝達のや
(南ドイツ)はじめドイツ語圏の領邦諸国が統一国家を樹立することに合意。新たに誕生したドイツ帝国の初代皇帝(カイゼル)としてプロシアのウィルヘルム1世が即位する。ここに初めて現在我々が「ドイツ」と呼ぶ国家の原型が誕生する。和暦では明治3年。我が国は近代国家としてようやくよちよち歩きを始めた段階で、この年日本は初の駐ドイツ公使を派遣している。
問題はこの初代ドイツ帝国皇帝の即位式が挙行された場所だ。これが何と、パリ郊外ヴェルサイユ宮殿の「鏡の間」。太陽王ルイ世以来西ヨーロッパはもちろんロシアに至るまでの欧州宮廷文化の規範となってきたヴェルサイユ宮殿、その公式儀礼の中心となってきた「鏡の間」で、初代ドイツ帝国皇帝の就任式が行われるとは。敗者の屈辱ここに極まる、というほかはない。
り方をめぐって興味深いエピソードが山ほど残されている。こうした状況下、降伏受諾直前の1月 18日、フランス側にとって
極めて屈辱的な出来
事が起きる。宰相ビ
スマルク率いるプロ
シアと、それまでプ
ロシアとは一線を画
してきたバヴァリア
前回ご紹介したイラストで、歩哨が警備するパリの街路の側溝に
ヴェルサイユ「鏡の間」でひらかれたウィルヘルム1世戴冠式。
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多くの市民が身をかがめて、下水溝を覗き込んでいるイラストがある。あれは「自分たちが食べるために」ドブネズミを市民たちが追い求めている姿を描いたものだ。その中にシルクハットに似た帽子をかぶる男二人が描かれている。この手の帽子を身につけているのは、少なくとも封鎖前であれば、それなりの立場にあった男であることを暗示している。しかし人間イザとなれば裸の生存本能をむき出
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しにして生き抜く道を探る動物と化す。一見紳士然とした彼らでさえ下水溝を覗き込んでドブネズミを捕まえてこれを食べるところまで追い込まれていた。実際この封鎖期間中パリの街頭でドブネズミが売られている様子を描いた絵も残されている。普仏戦争の年前、ナポレオン1世が全ヨーロッパをその支配下に置くのではないかと思われるほどの勢いで「栄光のフランス」の威光を光り輝かせていた時代があったことを思えば、信じられないほどの零落ぶり。当時「文化的洗
練度」では世界で並ぶものなしと考えられてられていた華の都パリ。世界の人々にとってパリは今の何十倍も光輝く圧倒的な存在だった。それが「田舎者ドイツ」にねじ伏せられて、市民はドブネズミあさりをする有様。国や都市のおだやかな日常など、戦となれば一瞬にして消え去ってしまう。今私達がウクライナで目にしている通りだ。
ネズミを食べることができる
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ならば象やオオカミやラクダの肉だって。1870年パリのカフェ「ヴォワザン」のクリスマス・ディナーでは「動物園で売りに出された様々な動物の肉」の料理が出されている。この特別ディナーのメニューには「戦意高揚」「反プロシア軍」「政府への皮肉」といった要素が秘められている。例えば「封鎖日目」と特筆大書されていること。また「ネズミに射すくめられた猫」という料理名は「本来ありえない状況」を意味していて「ネズミ=プロシア、猫=フランス」という意味だったとか。だが、食料の欠乏甚だしい戦時都市封鎖下のパリでエリート顧客層が大金を支払って、この驚くべきディナーを楽しんでいるわけで、決して誰もがこれを歓迎したわけではなかった。同じ頃、市民救済のために設置された地区のスープキッチン。ここで提供されるひと椀の汁を求めて、雪の残る真冬の街頭で、小さな子連れの母親たちが長蛇の列を作る姿を描いた絵が残されている。この列に並ぶ人々は「ヴォワザン」のクリスマス・ディナーの話
パリの街頭でさばかれるドブネズミ。
を聞いてどう思っただろうか。「上流階級と金持ちたちは許せない!」怒りと憎しみの炎を心の奥底で燃え上がらせたに違いない。
この4カ月を超える期間続いたパリ庶民の飢餓体験。その心理的影響の大きさは計り知れない。降伏受諾から時を経ずして「パリ・コミューン」と呼ばれる革命的な市民の暴動が勃発する。フランス革命から年を経て、モンマルトルを中心に市民が武器を持って街路を封鎖し革命を求めて立ち上がった。その原動力はパリ市民の飢餓体験と、プロシア側の捕虜となった帰還兵たちの怒りにあり。私はそう思っている。歴史上庶民が飢餓に追い込まれる例は珍しくない。古くは中国黄巾の乱(西暦184年)、アイルランドのジャガイモ飢饉(1845〜9年)、我が国では大正7(1918)年の「米騒動」、百万人近い餓死者が出たと言われる第二次大戦下ドイツによるレニングラード包囲戦(1941〜4年)。近年で
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は1977年と2008年にエジプトで起きたパン暴動。現時点で特筆すべきは
1932〜3年にかけてウクライナで起きた「ホロドモール」と呼ばれる極めて悲惨な飢饉(詳しくはウィキペディアを)。歴史的に密接不可分の関係にあったウクライナとロシア。それがなぜ現在あのような状況になっているのか。その遠因を知る重要な手がかりになるはず。飢餓を知らない私たちは、今改めてその歴史に心する必要がある。
結果から言えば、モンマルトル
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を中心に立ち上がった多くの労働者からなる革命運動は、マクマオン元帥率いる政府軍の巻き返しにより徹底弾圧されるに至る。その過程で、わずか数カ月間の間に万5000人を越す革命参加者が命を落としたといわれる。最も熾烈な戦闘が行われたモンマルトルの丘の上に建立されたサクレ・クール寺院は本来、この革命的な内戦の犠牲者を鎮魂するため建立されたものだ。一方、普仏戦争で捕虜となった後パリに戻り、マクマオン元帥付きのシェフの下で働いていたのが、やがてフランス料理の世界に大革命を起こすことになるオーギュスト・エスコフィエだ。リッツとエスコフィエの二人は普仏戦争とパリコミューンという大激動の時代を見事に生き抜くことができたおかげで次の時代の主導権を握る。現代に続くパリの美食文化が真の意味で花開くのは、この激動の時代を経た後のことになる。普仏戦争とパリコミューンをめぐる様々な出来事は、食も政治も人間の生き方も、2022年を生きる私たちに数々の貴重な教訓を与えてくれる。
スープを求めて長蛇の列を作る母親と子供たち。
バルト海に浮かんだようなエストニアの首都タリン。旧市街には、中世一の高さを誇ったといわれる聖オレフ教会の塔がそびえます。
首都タリン
バルト海の要衝であるタリンには、古くからエストニア人の砦が築かれていましたが、1219年にデンマーク王ヴァルデマー2世によって征服され、「デンマーク人の城=TaaniLinn」がタリンの名の元になったと言われています。
タリンに最初の学校が設立されたのは13世紀中頃。大聖堂と共に、ドイツ人貴族や都市市民のためのラテン語学校が開かれました。その後、宗教改革の波がやってくると、ルター派のプロテスタント教会は、エストニア人が聖書を読めるようエストニア語教育に力をいれます。16世紀にはエストニア語の聖書が翻訳され、地方領主には学校の設立が義務付けられました。
城壁の上から、カソリック系の修道院「ドミニコ修道院」が見えます。13世紀初頭からドミニコ修道院はキリスト教布教をはじめますが、16世紀はじめ、ドイツ・ルター派による宗教改革により1524年に破壊され、大部分は廃墟になりました。その修道僧居住区が公開されています。神秘的な祈りの場は、タリンのパワースポットです。
1810年代後半、バルト海沿岸では都市化や工業化がすすみ、労働者を確保するための農奴解放が実施されます。大学で高等教育を受けたエストニア人エリートも登場し、エストニア人としての自意識を確立していきました。民族自立を求める動きのなか、民族の父と呼ばれるヨハン・ヴォルデマル・ヤンセン(1819〜90)は、現在も続く国民的一大イベント「民族歌謡祭」を組織し、エストニア初の週間新聞ベルノ・ポスティメースの中で、エストニア人という言葉を初めて使いました。
エストニア国立図書館。1918年のエストニア建国時に、臨時政府によって最初の国立図書館が創設され、エストニア語の全出版物を収集しました。ソ連の支配時代に出版物は全てロシア語の書籍に置き換えられ、エストニア語の出版物は閲覧できなくなりました。
アレクサンドル・ネフスキー大聖堂は、帝政ロシア時代の1894年に建設されたロシア正教会の教会です。ロシア支配を連想させるとして、独立後には解体も計画されました。現在は歴史的建築として修復されています。
1881年、ロシア皇帝に即位したアレクサンドル3世は本格的な
ロシア化政策を推進し、民族運動は一時衰退しますが、それと同時にバルト・ドイツ人勢力もおさえられ、エストニア人にも土地を購入して地主化する農家が生まれます。一方、工業化によって都市に暮らす労働者は徐々に団結し、ヤーン・トニッソンとコンスタンティン・パッツという世紀末エストニアの民族指導者が現れ、1918年の独立宣言へとつながっていきます。
タルトゥのシンボルである、丘の上の大聖堂(トームキリク)。13〜15世紀にかけて、難工事の末に完成しますが、16世紀の宗教改革によってルター派の焼き討ちにあい廃墟となっていました。19世紀初めに聖堂の一部は再建され、タルトゥ大学図書館となりました。現在は歴史博物館に利用されています。
「UMB ROHT」ラム肉の赤ワインソース。
Peter ZumthorとTime & Style Zumthor House Haldenstein, Switzerland(2005)新作家具を発表Peter Zumthor自邸
スイスの建築家 Peter Zumthor(ピーター・ズントー)の家具を、Time & Style が3年半の歳月をかけ製品化しました。Zumthor自邸でのインタビューが、左下のリンクからご覧頂けます。
Therme Vals Vals, Switzerland(1996)温泉施設 テルメ・ヴァルス
PeterZumthorは1943年家具職人の家に生まれ、青年期には家具製作やデザインを学びました。Zumthorの家具は特定の建築プロジェクトのために設計され、建築と同様に長い年月をかけて試作を繰り返します。今回はそれらの家具から寝椅子やテーブル、スツールなどをピックアップし、日本の技術や素材を使い、編集・再構成されました。
Valserliege type -1 Chaise longue
Zumthorの代表作温泉施設「テルメ・ヴァルス」のシェーズロング。製品化にあたり材質がブナ無垢材に変えられ、曲げ木職人の手仕事によって体に馴染む緩やかなカーブが造形されました。フレームに刺さったように見える金属脚は、アトリエ・ピーター・ズントーによってデザインされた取付金具をさらにブラッシュアップし、木部と脚が美しく馴染むように開発しています。
New atelier Haldenstein, Switzerland(2015)New atelier Haldenstein, Switzerland(2015)
家具開発のために何度もアトリエ・ピーター・ズントーを訪ねた吉田龍太郎さんによると、アトリエの広い模型室には木材、金属、タイル、レンガ、左官材など様々な素材がストックされ、建築模型を実際の建築と同じ材料で制作しているそうです。なかには10年以上も模型を作り続けている作品もあり、美術館での展覧会にも使われています。
Atelier Zumthor working table
アトリエや自宅で使われている幅2.4mの大きなテーブルです。幕板などを全て廃し、ナラの無垢板に4本の脚を付けただけの造形は、 Time &Styleで開発した取り付け金具とTime & StyleFactory(北海道・東川町)の高度な職人技によって実現しました。ビーズワックス仕上げと鉄水仕上げがあり、丸い脚と四角い脚があります。日本で試作品を製作し、スイスのアトリエへ運び、Zumthorのチェックを受け、修正を行うことを何度も繰り返すことで、建築作品と同じ精神性を感じさせる家具が生まれました。
Serpentine Gallery Pavilion London, UnitedKingdom(2011) ©Giorgio De Vecchi-1
夏至の湿原コンサート
真夜中3時頃、夏至のH.passaare湿原では、Suure-Jaani音楽祭の一環「夜明けコンサート」が開かれます。気温10℃以下の湿った地面の上、思い思いのスタイルで開演をまちます。
エストニア国立シンフォニーオーケストラのメンバーによって結成された「湿原オーケストラ」。楽器の音あわせが始まると、霞がかった湿原の大気に、音が吸い込まれていくようでした。エストニア国立テレビ局の女声合唱グループによる合唱は、まるで天使の歌声でした。小鳥のさえずりのような、それでいて力強いソプラノが、ほの暗い湿原にひろがっていきます。
「目覚め」をテーマとした曲が演奏され、日の出とともにコンサートは終わりを迎えます。霧のたちこめる木道を歩き、家路につく人がいる一方で、泉を泳ぎ、身を清める人たちもいます。
白い馬にのって翔けていくわこもれびの道森をぬけてあなたの家まで
Vol.33
原作: タカハシヨウイチ 寧江絵 : タカハシヨウイチ
梅田正徳さんデザインの花の椅子製作は宮本茂紀さん
SAKURA
PEONY
梅田正徳(うめだまさのり)さんの花の椅子PEONYとSAKURAが、東京アートフェア2022(3月10日〜13日)に出展したイムラアートギャラリーで発表されました。花びらのような複雑なクッションを形にしたのは、日本初の家具モデラー宮本茂紀さん(ミネルバ)です。
食器「ムツゴウロウ」やロボットを思わせる家具「GINZA」のミニチュア。
1970年代にエットレ・ソットサスと協働し、80年代メンフィス・グループに参加した梅田正徳さんは、1988年東京デザイナーズウィークで「月苑」や「浄土」といった花シリーズの椅子を発表し世間を驚かせます。今回はより繊細で複雑な花びらのようなクッションが、宮本茂紀さんの協力により実現しました。PEONYとSAKURAは、3月15日〜26日までイムラアートギャラリー(京都市左京区丸太町通川端東入東丸太町31)で展示されます。
今月の茶道具 2
古備前水指 銘 青海こびぜんみずさし めい せいがい重要文化財 徳川美術館蔵
戦国時代の茶人武野紹.(たけのじょうおう)が所用したと伝わる水指です。紹.は堺の豪商で武具を扱うと共に、京都の公卿 三条西実隆から和歌などを学びました。南宗寺の禅僧大林宗套にみちびかれ茶の湯へ進み、信楽、瀬戸、備前など日用品を茶器に見立てたり、3畳・2畳半の小さな茶室を作ったり、竹を削り茶杓をつくったり、青竹を蓋置にしたりと創作を重ねる一方、のちの戦国武将に愛された数々の名物を見出しました。こうした創造性や見立てが弟子の千 利休へと伝えられます。シンプルな「古備前水指 銘 青海」は日用品を流用したようにも見えますが、整った口造りなどから、はじめから水指として作られたと考えられています。室町末期から戦国時代につくられた古備前の代表作であり、和物茶陶のルーツを示す作品といわれます。茶道の水指は、柄杓で水を汲み茶釜に足したり、茶碗や茶筅を洗うための水を蓄える器です。
SERGA村の礼拝堂
セト地域の小さな村。ソ連支配を生き抜いたロシア正教の礼拝堂を訪ねました。
村長をつとめるエーリ・リーナマエさんが、礼拝堂を守っています。肉親が眠る教会は礼拝堂から8kmほど離れていて、今はロシア領のためビザがないと行けません。ソ連時代には村に2カ所のコルホーズ(集団農場)が置かれ、移住者も含め500人以上が農業に従事しました。1950年頃、リーナマエさん一家はやむなく農地や家畜を供出してコルホーズで働き始めますが、野菜や穀物の配給はわずかで、ロシア側に牛乳を売って暮らしたそうです。リーナマエさんはソ連時代に郡長をつとめていました。
第二次世界大戦後のソ連時代、銀行や大企業は国有化され、農民が所有できる農地は最大30ヘクタールに制限されました。土地のない農民には10ヘクタールの土地が分配されますが、自作農に対する課税率が上げられ、食料は手元に残りませんでした。1950年に始まる強制移住策により2万人以上の農民がシベリアに強制移住され、それを怖れた農民たちは、あわてて集団農場へ加盟したのです。
1992年、エストニアの独立によってコルホーズは解散し500人以上の農民が失職します。ソ連時代から村長をつとめてきたリーナマエさんにとって大問題でした。土地や家畜は過去の記録を元に農民に返還されますが、都会に移住する人も多く、今はわずか19人となってしまいました。それでも「今の時代がいい」とリーナマエさんはいいます。
P.hjaka manor。バルト海の魚のマリネ。
タリン駅近くの再開発地域「テリスキヴィ(煉瓦)」。赤レンガの鉄道施設が、カフェやコワーキングスペース、若手クリエーターのショップ、デザイン事務所などに改装され、タリンで最もホットなスポットとなっています。
カフェレストラン F-Hoone。
朝のカフェでは、父親と子供の姿をよく見かけます。少子化対策としてエストニアでは「親の収入」と呼ばれる制度があり、出産後の休業に対し、出産前の給料を一定期間、国が補助します。これは父親の育休にも適応されます。
内田 和子
つれづれなるままに
第回
ひな祭り
御年歳になる友人からラインで、ひな祭りの歌と動画が送られてきた。お雛様を飾ると家の中がパッと明るくなるが、片付けを思うとちょっとしんどい。
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飾っても独りで見るだけならばとためらっていたが、可愛ら
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しい歌をなんども聴いているうちに、思い切って押入れの箱を開けた。3年ぶりのお雛様である。
♪ 灯りをつけましょ ぼんぼりにお花をあげましょ 桃の花 ♪
お殿様には、烏帽子をかぶせ、笏を持たせ、刀を差し、お姫
様には冠を乗せて、扇を広げお道具を一式揃えて雪洞を飾る。なんとも楽しい気分になるのが不思議である。妹に「お雛さま飾ったよ」とメールをすると、娘と孫を連れてやってきた。妹のところはいたずら盛りの猫がいるので、飾れていないとのこと。3歳になる孫は、保育
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園でも楽しいひな祭りをやったようで、飾り菓子を袋いっぱいに持ってきて、お雛様の前に飾った。バァバとママと3人並んで、満足げにいい顔をして写真に収まった。お雛様を飾るとやっぱり家の中がパッと明るくなる。お菓子で所狭しとなったお雛様の写真を、動画を送ってくれた友人に送った。「素
敵なお雛様ですね。良い雰囲気を持っていらっしゃる」と返事があり、あちこちのご友人に転送したとのこと。幾つになってもひな祭りは女の子を喜ばせるようだ。2日後、妹から
「飾りました」とメールがあった。猫が手を出さないように苦労したようだ。
姉、兄、妹のところは女の子が生まれたときに父がそれぞれ7段飾りのお雛様を贈った。私は残念ながらその機会がなかったが、兄弟のところでお雛様を飾ると、両親の付き添いで一緒に見に行ってそれでよしとしていた。しかし、父が亡くなった1月、電車の中でお雛様の広告を見つけ、お雛様が買ってもらえなかったのは私だけだったと急に思い立ち、日の法要を済ませたその足で浅草橋の人形店に出向いた。年前のことである。
85歳の友人から贈られた梅の写真。
不思議と父が一緒にいるような感じで、7段飾りじゃなくてもいいけど、お顔のいいのがいいねと、お内裏様だけのお雛様を選んだ。冠には家紋が入り、2月中旬に大きな箱が届いた。が、忙しさにかまけてなかなか開けることができない。母が気にかけ、妹が一緒に箱から出して飾ってくれたのはひな祭り直前のこと。幼い頃、我が家には大叔母からもらったお道具がいっぱのお雛様があって、並べて遊んだ記憶があるが、いつしかそれも無くなっていた。我が家で飾るお雛様は数十年ぶりだった。妹を急かして出したお雛様、ゆっくり楽しむ時間もないままその年の夏に母は亡くなり、1度だけのお雛
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様だったが、その時母は大層喜んで、ひなあられや桜餅を買ってきて供えたと後に聞いた。母に見てもらえたのはよかったと今更ながらに思う。
お雛様を飾るきっかけを作ってくれた友人から、私の送った写真をあち
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こち送っているうちに何処かへ紛れたのでもう一度送ってくださいと連
絡があった。とてもいいお顔なので、もう一度見
たいと ……嬉しくて、つい「来年も飾れたら、女
子会やりましょう」と返事すると、絵文字で、わ B
ーいわーい、と返事がきた。そして、その方の友
人が私の写真を見て何十年ぶりかで飾ったという、
ひな壇の写真を添付してくださった。あちこちの「女の子」がひな祭りの輪を楽しむ様子が伝わって
くるようでもあった。
5日、埃をはらい、お道具を1つ1つ小箱に入れ、最後にお雛様のお顔を覆い、また来年お会いしましょう。と箱に収めた。コロナ続きで人も呼べないと思っていたが、今年のお雛様はずいぶんの活躍をしてくれた。妹の孫が楽しいお菓子を持ってきてくれたのをきっかけに、歳の友人仲間がみんなで写真を楽しみ、ひな祭りの輪が広がり、来年には女子会の約束もできた。
その方から、
『私のお雛様は五段飾りで、とてもいいものでした。蔵の二階に大事に
やわらかい紙で包み、しまっていました。歳の三月、29の爆撃で
家もろとも焼かれてしまいました。そのカ月後終戦になりました。雛
の焼かれる様子が何年経っても思い浮んでいました。それ以後お雛様は
持ちませんでした。皆んなお雛様にまつわる物語を持っているのですね。
昔を思い出すキッカケをつくってくれましたね。』と、ラインで満開の
梅の写真が添付されてきた。
戦争で失ったものは何年経っても消えることはない、愚かな出来事になすすべがないまま、流れるニュースに終息の兆しがないのか探す毎日、ウクライナの人々の平穏な日々が一日も早くくることを心より祈るばかりである。
エストニアのアニミズム
エストニアのアニミズムは、Maausk(マー・ウスク)と呼ばれます。マーは大地、ウスクは宗教を示し、大地のお父さん、お母さんから植物、命が生まれるという考え方です。聖なる森HIISでは、ハーブやキノコをとってはならないという決まりがあるそうです。、樹齢200年の聖なる木(エルム)は、心の悩みや身体の悪い所を解消すると信じられています。
十字軍によってキリスト教が伝えられる前、エストニアの人々は自然界の全てが霊魂を持つというアニミズムを信仰していました。シャーマンが集落の精神生活を導き、神聖な森で儀式が行われ、教会や宗教的な組織も存在しませんでした。ソ連時代に宗教が禁止されたエストニアでは、独立後、エストニア本来の宗教観であるMAAUSKへの関心が高まっています。
分断されたSETOMAA
エストニアの東南部、ロシアと国境を接する地域に、約3500人のセト民族が暮らすSETOMAA(セトマー)があります。セト民族は、ロシア正教を信仰しセト語を話します。エストニアがソ連支配から脱却するとセトマーはエストニア側とロシア側に分断されました(右地図の緑色がセトマー、赤い点線が国境線)。
セト民族の歌「セトレーロ」の合唱団。セトレーロは、セト民族が日常生活の中で歌い継いできた民謡で、2009年にユネスコ無形文化遺産に登録されました。セトの料理にはソバの実を沢山使われます。エストニアでソバを食べるのはセト地域だけで、ロシアから来た習慣と考えられています。
ロシア領内を通るサーツェのブーツ
セト地域の首都ペッツェリは現在ロシア領になっていて、両国間にはいまも領土問題が横たわっています。第二次世界大戦後の1945年、エストニアはソ連に支配され両国間には国境線が引かれましたが、連邦構成共和国のひとつとして自由に行き来できました。しかし1991年にエストニアが独立すると国境を超えることが自由に出来なくなり、セト地区はエストニア側とロシア側に分断されたのです。セト地域には「サーツェのブーツ」と呼ばれる一画があります。ロシア領がブーツ状に飛び出した場所で、その中にエストニアの道路が約800mにわたり続いています。
ロシア領内に入る手前には、徒歩や自転車で領内に入ってはいけないことを説明した看板が立っていました。
エストニア最大の湖、ペイプシ湖にはロシアとの国境線が通っています。伝統的な小魚のスープには、煮干しのように乾燥させたペイプシ湖の魚を使いますが、漁は難しくなっているそうです。ロシアのビザをとり、セト民族の首都であるペッツェリの市場へ魚を買い出しに行くこともあります。
ソ連時代のエストニアでは急速な工業化がすすみ、沿岸部では大規模なオイルシェールの採掘と発電が行われ、深刻な環境問題を引き起こします。1960年代には環境保護団体が結成され、ソ連初の自然公園「ラヘマー国立公園」が1972年、エストニア北部の海岸沿いに設立されました。やがて環境保護の活動は、民主化運動の土壌ともなっていきます。
Primeval Valley HolidayComplexのスモークサウナ棟。エストニアでは今も、サウナのルーツといわれるスモークサウナが愛好されています。スモークサウナには煙突がないのが特徴で、薪を窯で5時間以上燃やし続け、モクモクと上がる煙をサウナに閉じ込めます。サウナが温まったら窯の火を消して煙を外に出してから入ります。サウナは聖域としてとらえられています。サウナに入る時は挨拶をして、騒ぐことは厳禁。出産や病気の治療が行われ、結婚初夜にサウナに入り、亡くなるとサウナで身体を清める。生から死を司る場と考えられていました。大きなサウナには周辺の農家が集い、話し合いの場にもなりました。
春を謳歌するシンフォニーは、いま何処で奏でられてると言えるんだろう。音楽や文学、バレエに演劇、さまざまな芸術を育んだ大国がどうしちゃったの?メディアから流れるニュースさえ、世界同時にオリンピックからウクライナで起きた戦禍の場面に切り換わった。これってまさに天国と地獄の絵面じゃありませんか? 世界中がコロナ感染に我慢しながらの二年、そのストレスから開放されたいモードが充満し始めた矢先を狙い撃ちするかのようなやり口に思えてなりません。世界の大国ならばその自負と自覚を持って、弱いものイジメはやめていただきたい。
花粉舞う弥生の空に飛び交い始めたのは、春を告げる小鳥たちのさえずりでもなければ子ど
「どん底」や「白夜」、「罪と罰」に「戦争と平和」、「白鳥の湖」チャイコフスキーなどなど、お宝ザクザク持ちでしょ?ロシアならではの知恵と美をこそ武器に持ち替えてほしいです。
春3月、北国では雪解けの季節。暑さ寒さも彼岸まで、日照時間が畳の目ごと長くなってくるからふしぎ。ふきのとうや山菜も顔をのぞかせてくれて、桜の開花もたのしみに。その24溜まりに溜まったざまざまなストレスや不安を払拭するかのように、週末ともなれば以前にも
増した人出が見られます。そしてあいも変わらずその頭上を様々な旅客機や日米のヘリが超低空飛行で飛び交います。ウクライナの現状のように爆弾が落とされてないだけで、何らかわるものではありませんよね。戦後 77年を過ぎて、焼け野原から立ち上がった日本。その間、夏青山かすみオリンピックを二度開催できたんだけれども、2月の北京オリンピックを含め、なにか後味の
南風なれども
悪いものになってしまった気がしてならぬ。世界に配信されるオリンピックがスポーツに限られてしまってるけど、そろそろ方向転換の時期が来てるんじゃない? 文化芸術分野へ変えてみてはどうでしょう。とりかえばやしてゆきましょうよ〜。世界の文化人たちよ、黙せず声を届けてくださいね〜!
3月2日、思いがけなく私の敬愛する音楽家・武満徹さんのコンサートに出かける機会を得ました。
東京オペラシティコンサートホール・チケットには「弧(アーク)」のタイトル。その当日、ギャラリーのオーナー W御夫妻が行けなくなり、偶然にも写真展の作業をしていた私共にこの幸運が舞い降りることに。指揮者はシンガポール国籍のカーチュン・ウォン氏。ピアノ・高橋アキさん、演奏は東京フィルハーモニー交響楽団のみなさんでした。「地平線のドーリア」(1966)、1曲目のストリングス(10分)には間に合いませず、その点が悔やまれます。写真展を直前に、このコンサートは大いな
る感動とメッセージを私たちに運んでくれました。
何度も何度も繰り返し聴き込んだ愛すべきアルバムに、武満さんの「MI・YO・TA」というアル
バムがあります。何年かぶりに聞きたくなりました。彼が人間の暮らしの未来を危惧し、メッセージ
を込めて創造活動されていたんだと、こんな時代を迎えたからこそ気づかせていただきました。
写真展の間、私達はこのアルバムを流し、ご来廊者、スタッフのみなさまと同じ空間を共有でき
たものと思っております。何年ぶり、何十年ぶりの方々、初めてお会いできた方々と巡り合い、たい
へん貴重な時間をいただけたと存じます。祝花・美味しいお菓子も沢山頂戴いたしました。あらため
まして、この場を借りて御礼申し上げます。
Colla.J 創刊 15年記念
2022年 3月4日(金)〜3月12日(土)まで、
コラージのフォトコラージュ展ときの忘れもの(東京・本駒込)にてコラージのフォトコラージュ展が開催されました。ご来場頂いた皆様に感謝申し上げます。
出展作品は左下のリンク(ときの忘れもの)からご覧頂けます、
出展作品は左下のリンク(ときの忘れもの)からご覧頂けます、
Estonian National Museum
」によるものです。 .エストニア第2の都市タルトゥから北に約2km。ソ連時代の空軍基地跡地に、エストニア国立博物館があります。設計は建築家・田根剛さんが参加した「DGT
全長約360mにも及ぶ建物の下には湖があり、その部分は橋梁と同じ構造になっています。国立博物館コンペ(2005年)は、エストニア初の国際建築コンペで108案の中から選ばれました。
はじめてのエストニア国旗を作ったのは、タルトゥ大学の女学生でした。1884年、タルトゥ大学ではドイツ語だけの授業が行われ、バルト・ドイツ人の学生ユニオンが力を持っていました。それに対抗し、エストニア人学生が自らのユニオンを結成。その象徴となったのがこの旗でした。ソ連時代は住宅の煙突に隠され、1991年、独立運動の象徴として取り出されました。
2005年のコンペでは敷地の設定は街中にありましたが、田根さんはグーグル・マップで滑走路跡を見つけ敷地として提案。ソ連時代の負の遺産であった軍事基地を”メモリー・フィールド(記憶の原野) ”としてとらえ、博物館を新時代のランドマークとして提案した点が審査員に評価されました。冷戦期のエストニアは東西冷戦の最前線として、ソ連の軍事拠点や弾道ミサイル基地が建設され、タルトゥには外国人が入れませんでした。2年間の徴兵義務があり、アフガン戦争で命を落としたり、チェルノブイリ原発事故には数千人の若者が送られたといわれます。
1918年、ロシア革命を発端としたエストニア独立戦争によって建国を勝ち取ったエストニアでしたが、第二次世界大戦が始まると、1940年ソ連はエストニアに侵攻し、約9万人のソ連兵を駐留させます。その圧力によってエストニアはソ連に併合され、エストニア・ソビエト社会主義共和国となりました。政治家や将校など8000人が処刑されたり収容所に送られ殺されまた。女性、子供、老人をふくむ数万人の市民がシベリアに強制移住させられ、鉄道や農場で働かされ、多くが飢えや寒さ、過酷な労働により亡くなりました。貨幣は価値を失い、物資は店頭から消え、スターリンへの個人崇拝が推奨されます。
やがて1941年9月、ソ連との不可侵条約を破ったナチスドイツ軍によりエストニアは占領されソ連軍は撤退。森に逃げのびた人々は「森の兄弟」と呼ばれるパルチザン活動に参加しました。第二次大戦の終戦後、エストニアは再びソ連の支配となり3分の1近い人口を失います。それを補うようにソ連から大量の入植者が送られ、ロシア人が政治や軍の中枢をにないエストニア人は排除されます。ソ連時代の本棚にはロシア語の本が並び、書籍や観劇、教育など、徹底したロシア語化よるジェノサイド「文化浄化」が進められました。
スターリンの死後、新指導者フルシチョフによる雪解けの時代が訪れ、1960年代には追放されていた作家や芸術家が活動を再開し、タリンはジャズ音楽のメッカとなります。禁書だったカフカ、カミュの本や、収納所の実態を描いたアレキサンドル・ソルージェニーツィンの「収容所群島」が出版され、1965年に就航したタリン〜ヘルシンキ間の旅客フェリーは、ソ連・東欧圏と西側諸国を結ぶ唯一の交通手段となりました。その一方でエストニア固有の文化や宗教は否定され、それに抵抗するように、エストニア人詩人ハンド・ルンネルや小説家ヤーン・クロスの歴史小説が人気を集めました。1989年の調査ではエストニア人の割合は62%にまで下がり、やがてロシア人を下回るという危機感がつのりました。
タリン郊外の「タリン合唱祭広場」では、5年ごとにエストニア最大のイベント「歌と踊りの祭典」が開催され、3万人以上の出演者と20万人の観衆が集まります。ソ連支配の時代、音楽祭のプログラムは当局によって審査されていましたが、それでも民族への思いを織り込んだ詩が人々を熱狂させていました。1985年、ゴルバチョフによるグラスノスチ(情報公開)とペレストロイカ(立て直し)による改革がはじまり、スターリン時代の犠牲者への追悼集会が開かれます。1986年からはシェールオイル採掘やリン鉱山に反対する環境保護が活発になり、1986年のチェルノブイリ原発事故により、意識の高まりは全国民に波及します。エストニアにはソ連初の海外との合弁企業が設立され、1988年にはエストニア創作家諸同盟の合同総会において、民主主義改革を求め、共産党を批判する発言が行われました。共産党員エトカル・サヴィサールによるテレビ生放送中の発言をきっかけに「ペレストロイカを支持するエストニア人民戦線」が誕生し、これはゴルバチョフの承認も得ました。人民戦線が1988年6月にタリン合唱祭広場でひらいた集会では、禁止されていた青、黒、白のエストニア国旗がたなびき、9月の大集会には国民の4分の1にあたる25万人が集まり大合唱を行いました。これが全世界の注目を集めた「歌う革命」の始まりとなります。1989年8月23日。エストニアのタリン、ラトビアのリーガ、リトアニアのヴィリニュスまで、人々が600kmにわたって手をつないだ「人間の鎖」。総勢200万人が各地で手をつないだ写真やビデオが展示されています。市民自らが映像を記録し、タイムラグ無く世界へ発信された初めての革命運動となりました。1989年秋にはベルリンの壁が崩壊し、独立が夢ではないことが示されました。そして1991年、エストニアはついに独立を回復しました。
もうひとつの常設展示「Echo of the Urals」は、フィン・ウゴル語を使用する民族を特集した展示です。フィン・ウゴル語は、ハンガリー語、フィンランド語、エストニア語をはじめ、スカンジナビア半島北部のサーミ人、ロシア領内のコミ人、ハンティ人、ウドムルト人、マリ人など少数民族の使う言葉として知られ、自国をもたないフィン・ウゴル語使用者は約250万人といわれます。
この展示の企画には、10年の歳月をかけたそうです。エストニア人がフィン・ウゴル語に注目する背景には、ソ連からの独立後、国民のルーツをどこに定めるかという課題がありました。住民の3〜4割をロシア系の住民が占め、第3の都市であるナルヴァは今もロシア語だけで暮らせます。独立後、エストニアの国籍取得を求めるロシア系住民に対して、政府はエストニア語の試験を行いました。様々な国家により支配されてきたエストニアにおいて、言語こそがエストニア人である証と考えられたのです。
エストニア人には、同じフィン・ウゴル語を話す民族へのシンパシーがあるといわれ、その思いが展示からも伝わってきました。独立直後はロシア系住民を排斥する機運が高まりましたが、国際的な非難もあり、国籍取得の条件は徐々に緩和されました。一方、ロシア系住民の中には仕事や親戚の都合でロシアとの行き来を必要とする人もいて、今も10%ほどが無国籍者となっています。無国籍といっても、税金や教育、社会保障などは国籍保有者とほぼ変わりありません。
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