Colla:J コラージ 時空に描く美意識













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小春日和 https://collaj.jp/ 時空を超える美意識 秋のメモリアル Memory of fall 第1部 白井晟一クロニクル 2021年 10 月 23日(土) . 12 月 12 日(日) 第2部 Back to 1981 建物公開 2022年 1 月 4 日(火). 1 月 30 日(日)※詳しい日程はホームページでご確認ください。 建築家・白井晟一を様々な角度から紹介した展覧会が、渋谷区立松濤美術館で開催中です。同館は40年前、静岡の芹沢.介美術館と同時期に設計されました。東京飯倉のノアビル、長崎佐世保の親和銀行と並ぶ、後期の白井晟一を代表する作品です。悲願の美術館設計を叶えた白井が「全力を出し切った」といった松濤美術館。外壁の「紅雲石」は、今も明るい色調を保ちます。 天然石オニキスの光天井が来館者を迎えます(オニキスのガラス板サンドイッチ)。当初計画は入り口をまっすぐ進み、扉の向こうに伸びるブリッジを渡って展示室へ向かう設計でした。 《ノアビル》1/50模型 制作年:2013年 監修:岡.乾二郎 制作:上村卓大(元武蔵野美術大学彫刻学科研究室助手)ほか  会期は2部構成で、第1部白井晟一クロニクル(2021年10月23日.12月12日)は、白井晟一の生い立ちや作品を多数紹介し、その実像にせまります。東京・飯倉交差点《ノアビル》(1974)の模型は、上村卓大 元武蔵野美術大学彫刻学科研究室助手ほかの作品で、彫刻家によって制作された珍しい建築模型です。 「サロン・ミューゼ」と呼ぼれる2階展示室。壁にベネツィアンベルベットを張り、de Sede製革張りソファ、柱・梁にブラジリアンローズウッドを使った空間は、内装に高島屋工作所、家具輸入にモビリアが関わった高級ホテル並みの仕様で、展示室でありながら当初はカフェも営まれていました。白井は区民がゆったり芸術と過ごす、サロンとしての美術館を構想したようです。左は白井晟一の初期代表作《秋ノ宮村役場》(1950)。上は鉄骨造住宅「SH」シリーズで知られる建築家 広瀬鎌二が描いたと思われる秋ノ宮村役場や自作《SH-3》などの図面です。同館学芸員木原天彦さんによると「広瀬鎌二アーカイブズ研究会」の調査によって、白井との関係を示す図面が発見されたそうです。白井の設計は、広瀬はじめ優れた建築家、棟梁、技術者に支えられ影響しあったことが分かってきました。《四同舎》《稲住温泉》など秋田県湯沢市に現存する1950年代の白井作品は、実物に触れることのできる貴重な建築です。今回は小誌コラージ白井晟一特集(2012年8月号)の写真が展示に採用されました。展覧会のタイトル「白井晟一入門」には、展覧会を入り口として実際の建物を訪ねて欲しいという願いが込められているそうです。《稲住温泉》は現在改装され、共立リゾートにより高級旅館として運営されています。白井晟一の重要な仕事のひとつ、書籍の装丁。白井晟一に松濤美術館の設計が任された経緯については、建設準備懇談会のメンバー土方定一(当時・神奈川県立近代美術館館長)との関係など諸説ありますが、「装丁」や「書」といった多彩な活動と出版、美術界におよぶ人脈が、白井と美術館をつないだのは確かなようです。 白井晟一のヨーロッパ留学中の記録や近藤浩一路による《土筆居》の暮らしぶりを描いた日記など、ここでしか見られない貴重な資料。 今回明らかになったことの一つが、画家近藤浩一路と白井の関係でした。同館学芸員平泉千枝さんは関係者へのインタビューから、その影響が予想より遥かに大きいことを実感したそうです。近藤は大正時代に漫画記者として読売新聞に入社し、朝日新聞の岡本一平(岡本太郎の父)と「一平・浩一路時代」を築いた人気作家でした。白井晟一の姉清子の夫として義弟のヨーロッパ留学を支援し、処女作となる《近藤邸》(後の河村邸)を任せ、その後も文人、芸術家、出版人と幅広い近藤の人脈が白井の創作活動を支えました。2022年1月4日(火).1月30日(日)の第2部では、展示室を開館当時の姿に戻し、白井晟一作品として体験する試みが行われます。中央吹き抜けのブリッジは普段は通行出来ませんが、会期中は開放され、白井が気に入っていたと伝わる地下2階の「茶室」が初公開されます。屋上から地下2階まで建物の中心を貫くシリンダー状の吹き抜けは、館内全体に光を届けます。区民向け絵画教室がひらかれることもある地下2階にも自然光が降り注ぎ、地下空間であることを忘れそうです。松濤美術館の当初案(上図面)には、地下1階の展示室に階段が描かれています。来館者は入り口からまっすぐ進んで露天のブリッジを渡り、左写真のバルコニーから展示室へと降りていく計画でした。白井は敷地が住宅密集地にあることを強く意識していて、ブリッジによって非日常への切り替えを狙ったのかもしれません。 地下1階展示室では吹き抜けの空間に、親和銀行、サンタ・キアラ館など代表作を紹介。茨城キリスト教大学《サンタ・キアラ館》(1974)のスケッチに書き込まれた細かな指示からは、現場で指揮をとった次男.磨氏への思いが感じられます。サンタ・キアラ館は礼拝のほかコンサート、講演会、結婚式にも活用されています。親和銀行本店(1970) アンビルト作品を代表する《原爆堂計画》(1955)。有名な鉛筆描きのパースは大村健策さんにより描かれました。大村さんは白井のアトリエ兼自邸《滴々居》で暮らしながら、薄いトレペに硬い鉛筆で描く製図法を習得し、白井の世界観を図面で表現できた数少ない所員でした。原爆堂は実現しませんでしたが、そのフォルムは《親和銀行本店》(長崎県佐世保市)に受け継がれたと考えられています。 机のうえ ちらばった星356つぶ Vol.28 原作: タカハシヨウイチ 寧江絵 : タカハシヨウイチ ドラゴンシリーズ 86 ドラゴンへの道編父の記憶吉田龍太郎( TIME & STYLE ) 25 僕は 僕の人生で父と過ごした時間は本当に僅かな時間だ。脳裏に浮 かべることができる父の姿は限られている。しかし、父が死んで 年以上経過したが、時間が経つほどに父のことを本当に身近に 感じるようになってきた。不思議なのだが、一緒に過ごしていた時より、父と話していた時よりも、もっと身近に父を感じる。時々、これは自分の生きている時間なのだろうかと疑いたくなる、もしくは父の時間の延長時間の上に僕がいるだけでは無いだろうかと言う錯覚に陥る瞬間がある、何とも不思議な感覚だ。 代中頃に自分の失敗で致命的と言えるようなミスを犯し、 最悪の状態となり カ月の長期入院をした。当時、僕の住んでい た南青山のアパートの4階の部屋でアルコールランプオイルを誤飲して吐血して気を失ってしまった。その時はとても危険な状態だったはずが、ふわふわと幸せな気分がして危険な状態の中で冷静な自分がそこに立ち、客観的な感覚でもう一人の自分が存在し、 自分で自分を観ているような気持ちがした。正直に死に対しての恐怖と言う感覚よりも、自らが前向きに死を待っているような感覚がありその先はどうなっているのかを知りたいと言う欲求さえ存在するような、恐怖感などは全くない気分でいた。 その時、意識を失う危険な状態だったこともあったのだろうが、同時にそれまで留保してきた自分のうしろ姿を返り見る感覚を解放するきっかけになったのかもしれない。 若い時は自分を振り返ることが恐ろしく、前しか見れないような精神状態だったようで足元や後を振り返るとそこには恐ろしい何かが存在しているような感覚を常に持っていた。 子供の頃、夜中に田舎のおばあちゃんの真っ暗な旧家のトイレから走って振り返らず逃げる時のような、僕は何となく自分の後に横たわっている恐ろしいものに目を向けることなくその存在に 30 3 気づきながらも見えないふりをしていた。 正直に自分自身のことなど全く信じていなかったし、自分のことを信じる根拠など微塵にもなかった。 しかしそんな時にも父は僕の前に時々現れて、諦めるなよ、前を向けと一言だけ言って小遣いを渡してくれた。父は達筆な力強い文字で良く短い手紙をよこしてくれた。そこには実直な綺麗な文字で「諦めるなよ」と言う意味のことが必ず書かれていた。 短かった時間の中で父が僕に与えてくれた手紙や言葉の記憶は時間と共に鮮明になってゆく。僕が入院した数カ月の時間の経過の中で、不思議な出来事がたくさん起こった。危険な数日間は本当にどこに自分が存在しているのかが分からないような浮いているような感覚が続いたが、次第に自分を取り戻しベッドの中で自分自身を自覚するようになった。 その頃から今度は自分が明瞭な意識を持ちながら、目の前に存在しない人がは っきりと現れて、ずっと僕の方を見続けている時間が訪れた。僕のベッドの前にその人はずっと立ち続けていた。そして夜になると病室の中を大きな無数の白い柔らかそうな塊が流れのように入ってきては外に出て行くような日々が続いた。その中でも僕をじっと見つめるその人は、父が好きだった画家のデューラーのようなキリストのような姿をしていた。 その幻想の中に僕が見たことのない赤茶けた道の風景が現れ、道路を開拓するような景色が現れた。それは僕が見た景色ではなくて、僕が生まれる前の風景。親父がブラジルで働きながら見た風景なのではないだろうかと結びつけて考えるようになった。定かではないが、そんな気がした。 僕と父の距離感と言うのは今もそんな幻想の中で結びついている。父の記憶は僕の記憶と重なっているように思えるのだ。これまで自分自身の歩いてきた人生と時間は彼の時間と人生の延長線上にあるように感じる。全く結び付きの無い出来事なのかもしれないが、実際に結び付きのある記憶よりももっと深いところで繋がっているように。 AREA Tokyo Design Award 2020 受賞作品が製品化されました。 AREA Tokyo × 武蔵野美術大学の産学共同プロジェクトとして昨年スタートした「AREA Tokyo DesignAward」。昨年の審査会で選ばれた5作品のうち2作品が製品化され、AREA Tokyoに展示されました。 福島拓真さんのサイドボードは、福島さんの金賞受賞作「SPL IT」につかわれた、塗装のひび割れを作る技法を応用しています。塗膜に水性メディウムを挟むことで、予想できない美しいひび割れが生まれます。深治遼也さんのスタンドライトは直接光、間接光、2種の光源が360°回転して空間を演出します。土台に stand light ALIENATION(エリアネーション)は無節4寸のヒノキ柱を使っています。 D=深治遼也 w750×d120×h1765 ¥135,300(税込)AREATokyo店内には、ソファのコンセプトモデルが展示されていました。「東苑」は、背、座、本体の3パーツで構成されたモジュラーソファで、ユーザーが自由に組み変えて使えます。ソファからデイベッドにチェンジしたり、座面を1段に低くしたり、クッションだけ別室で使ったりと有効利用できます。生地の色には日本の四季を表現した配色(立春、穀雨、白露、秋分、大暑、大寒、冬至など)がラインナップされています。 AREATokyoの向かいには、ソファSOLの専門ショップ「SOL STORETOKYO」がオープン。SOLは10年以上つづくロングセラーで、100種類以上あるカバーリングの張り地「JACKETCOLLECTION」を自分で交換できます。季節ごとにJACKETを替えることで、部屋の雰囲気を四季にあわせて変えられます。 50周年を迎えたロッシュボボアのソファ「MAH JONG」。新しくパネル式の脚付きベースが選べるようになり、高田賢三さんデザインのファブリック「UMI」(上)などが追加されました。 真鶴オリーブ園に収穫の   が来た。 JR東海道線真鶴駅に近い「真鶴オリーブ園」。昨年初夏に開園し、2回目の収穫を迎えました。真鶴オリーブ園は、真鶴半島を一望するミカン畑2,700坪をオリーブ園に転換した、真鶴の千年先を見すえたプロジェクト。沢山のサポーターの支援を得て、完全無農薬、有機栽培、除草剤不使用のオリーブ栽培を進めています。 3次元曲面に形作られたキッチンコテージの屋根は「シェイク」と呼ばれるレッドシダーで葺かれています。キッチンにはガゲナウのスチームオーブン、食洗機、クッキングヒーターなどがビルトインされ、使い心地を試せます。調理器具の使い方をレクチャーするワークショップもひらかれました。 ▲苦土石灰をまいて土壌を改良しています。▼大変な畑仕事のあとは美味しい食事で疲れを癒やします。真鶴オリーブ園では、オリーブの里親を募集しています。里親になると毎年、オリーブの実などが送られます。里親のいる木には、ステンレス製のネームプレートが付けられていました。 枝についたオリーブの実が大きく育ち、日に日に成熟していきます。 ▼小松石を使った特製の石臼でオリーブの葉を挽きます。 葉を1.2週間ほど陰干してから、石臼でお抹茶状に挽きます。オリーブ茶は甘く、香ばしい独特の味わい。オリーブオイルに比べ2倍以上のポリフェノールを含み、抗酸化作用やコレステロール、血糖値を下げ免疫を向上する効果があります。 10月6日、オリーブの摘みとりが行われました。熟して美味しそうに見えるオリーブの実ですが、生のままでは渋くて食べられません。摘み取ったらすぐに水につけて酸化を防ぎます。摘み取りが1日で終わるよう、スピーディーに進めます。 水洗いした実のヘタを丁寧にとり、葉やゴミを取り除いて仕分けします。 オリーブの実の渋み(ポリフェノール)は酸性なので、アルカリ性の溶液につけることで中和させます。その他、重曹水、塩漬け、ワイン漬けなど様々な方法があり、味わいが大きく異なります。アルカリ溶液に漬けた後は、10日以上かけて水を数時間ごとに入れ替え茶色いアクを抜いていきます。数日間はほとんど睡眠をとれない大変な作業です。 アク抜きの後は塩水に漬け、徐々に塩分濃度を上げていきます。1.2週間ほどで美味しいオリーブ漬け(オリーブドルチェ)が出来上がります。そのほか真鶴オリーブ園では、ジューサーで絞った100%ミカンジュース、無農薬有機栽培のミカン、レモン、ハッサク、ネーブルオレンジ、ナツミカン、オリーブ茶、オリーブ苗木の販売を行っています。 ▲ 来年に備え、日々の剪定作業を続けます。 ▼オリーブの世話をしながらキッチンや家具の設計をします。 真鶴オリーブ園の園主牛山喜晴さんは、35年ほど前からオーダーキッチンやオーダー家具の設計・製作を手掛けてきました。今は新宿のショールームと真鶴のオリーブ園を行き来しながら、新しいワークスタイルを模索しています。オリーブの栽培は二酸化炭素の削減につながり、カーボンニュートラルの達成にも貢献しそうです 世の中になってしまったことを実感する今日此頃。ましてやこれからの季節、暖房を確保せねば冬を越せませんしね。 急にすゝめてもらわなければ。コロナ同様、命に直結する重要問題だから。 コロナ禍で培われた知恵、無駄な経費や消費エネルギー量の節約をこそ、日本が率先して世界に示すべき時と思う。緊急事態宣言時にはガラガラの列車だの、新幹線が何本も無駄に走ってて不思議でなりませんでした。緊急時だからこその機転を利かせ、宅配便や郵便、物資輸送などになぜ活用できないのかな、と。しかし最近では、埼玉を走る東武鉄道さんが道の駅の野菜を夕刻便に乗せて到着駅で販売し、喜ばれる取り組みをされているのだそう。イギリスでも廃線になった鉄道を復活させる動きが出始めたそうです。 2020年代を迎えたいまこそ、未来を見据えた在るべきリ・デザインの意味を考えてもらいたい。そういった教育をお願いしたいです。 その20 青山かすみ 文化の日以降、秋晴れが続いています。清々しい秋晴れは大歓迎なのだが ……あいも変わらず都心上空を低空で飛ぶ自国空襲に腹立しい日々です。 久しぶりに晴天の、青山墓地を散策していたときだった。神宮外苑の伊藤忠ビルの左横からジェット機が飛び出してきた。あゝ、もう三時かと思った途端、もう一機青山三丁目あたりから表参道方面へ斜めに向かう旅客機も、二機同時に見えたのである。青山墓地から空を見上げるとあまり視界をさえぎる建物がない。見通しがいいのだ。でも、さぞかし墓地で眠っておられるご立派な方々は騒音甚だしくご立腹のこととお察しいたす訳であります(笑 国道246、青山通りの賑わう頭上を、羽田新航路の トが飛び交うさま。その様子こそが見もの、といえそうです。電車に例えて言うなら、地下鉄銀座線の渋谷、表参道、外苑前、それぞれの駅上空を二機が、わずかな時間差で飛行していることになります。今までの海ルートから、わざわざ都心に回り込み、むだな燃料を大量消費し、この二年間どれだけのエネルギーと排ガスを撒き散らし、多くの国民に負担と迷惑行為をかけたか … そんなおそまつな国がよくまあグラスゴー( COP 26 )に出席できたこと 恥を知るべきです。去年に比べ、どういうわけか今夏は少々遠慮気味に高 度お高めに飛行なさっておいででした。が、ここへきてまた、去年のような嫌がらせ行為的低空飛行に舞い戻った感じがビシバシするのよね〜これはいったいどういうメッセージと受け取ればよろしいのかしらね〜 C ルートと A ルー !! 1920年代、中央木工時代のトーネット風ブナ曲げ木椅子。部品の状態で欧米に輸出されました。 飛騨高山、旭川、静岡、徳島といった家具産地からの出展が、久々に一堂に会いしました。昨年100周年をむかえた飛騨産業は、ブナの曲げ木からはじまった歴代の椅子を展示。左は漆工芸家・人間国宝の黒田辰秋がデザインした「新宮殿のための椅子(3次試作)」で、皇居の「千草・千鳥の間」で今も使われています。完成品は朱溜蝋色の漆仕上げで、ホコリを避けるため土蔵で塗られました。黒田辰秋も作業を見守り数カ月滞在したそうです。 カリモクケーススタディは、建築家、デザイナーの住宅、店舗から生まれた家具を製品化しています。芦沢啓治さん「石巻工房」やブルーボトルコーヒーの家具が製品になりました。 カリモク家具は「共生型・循環型社会をめざした国産材活用への取り組み。」をテーマに、秋田のスギ、クルミ、カツラ、ホウ、ケヤキ、岩手のクリ、三重のヒノキ、宮城のイチイガシ、東大秩父演習林のサワラなど各地の木を使い、藤森泰司さんデザインのomi(オミチェア)を作りました。東京あきるの市のナラはサントリーの「天然水の森とうきょう秋川」で虫害防止のため伐採された木とのこと。条件の悪い木や小径木を有効利用できるデザイン、製造方法が求められています。 ▲ センター南駅近くの直営店「匠工芸 YOKOHAMA」。 ▼ クラフトチェアの座面は取り外し式になっています。 北海道旭川の「匠工芸」では、新社長・桑原強さんが「クラフトチェア」を紹介。デザインは小林幹也さんで、部材効率や製作の手間を気にせず、とにかく座り心地のいい椅子を依頼したと桑原さん。長年使って座面が傷んできた時に備え、座面を簡単に取り外して工場に送れるようにするなど、ひとつの椅子を大切に使うロングライフを意識した作りです。 旭川の木製クラフトメーカーSASAKICOGEIは、初めて人工大理石「コーリアン.」を使ったプロジェクト「supernova」を発表。デザインを倉本仁さんに依頼し、食器やオフィス用品を製作しました。廃棄されるコーリアンの端材やサンプルなどを重ねブロック状にして、木工の技術を応用して削り出すそうです。良質な天然木が希少になるなか、クラフトを次代につなげるサスティナブルなものづくりが試みられています。 今回初の試みとして、+TALENTSが設けられまし▲ We+の「Link」。廃棄建材を使ったプロジェクト。 ▲ トラフ建築設計事務所によるアウトドア家具。▼寺田尚樹さんとインターオフィスが開発したシステムソファ。 た。若い才能を発掘するTALENTSに加え、川上デ▼ 川上元美さんによる木の椅子。ザインルーム(川上元美)、we+、JIN KURAMOTO STUDIO、トラフ建築設計事務所、DRILLDESIGNなどベテランデザイナーが参加しました。 川上元美さんの YAMAHA CCC 静岡のデザイナー西田悠真さん(OTHERDESIGN)は、MDFの木質繊維を立体的に成型する技術を開発中。接着剤や加熱温度を調整することで、MDFをより有効利用する技術を確立し多くのデザイナーに応用して欲しいそうです。 奈良県吉野の山中にある維鶴(IZURU)木工は、良質な吉野スギ、ヒノキを生かした木の椅子工房です。今回はDIY用に開発したスツール「 Do kit yourself 」を出展。吉野ヒノキを贅沢に使ったフレームを組み立て、座面はペーパーコードを手で編みます。作り方はYouTubeを見ながら、時間はかかりますが愛着も湧きます。法隆寺にも使われている吉野ヒノキを長く使ってもらうためには、自分で作り、自分で直せるD IYが一番と考えたそうです。 メモリアル 2012 白井晟一秋田の建築作品 コラージ 2012年 8月号で紹介した秋田の白井晟一作品をダイジェスト。写真や記事は 2012年 8月時点のもので、現在は変わっているところもあります。 四同舎湯沢酒造会館1959年、湯沢市の醸造業者たちの依頼で建てられた「四同舎」。入った瞬間、清廉な空気にうたれるエントランスホール。 シンボリックなファサード。黒い鋼板の角柱。割石調タイル。アールをつけた屋根。後期の白井建築の萌芽を感じさせます。 女性的なうねりをもつ階段ホール。南面した大小の窓からホールに光が降りそそぎ、教会建築を思わせます。 南面する大きなバルコニーを持つ 2階大広間。かつては酒造関係者の結婚式場としても利用されていました。 四同舎に近い両関酒造の酒蔵。 白井晟一の前期代表作「稲住温泉」。義兄(姉きよの夫)であり、育ての親ともいえる画家・近藤浩一路が、秋田と白井晟一を結ぶきっかけとなりました。近藤の絵を扱う画商・旭谷正次郎(横手出身)の紹介で 43歳の白井は文化講演会に呼ばれ、はじめて秋田を訪れます。その席で依頼されたのが、秋田での第一作となる「羽後病院」でした。その工事中に稲住温泉を訪れた白井は、当時のオーナー・押切永吉氏から旅館増築の相談を受け、以来 15年近くに渡り、宴会場や離れを手掛けます。 浮雲 1952年、当時の秋田にはないモダンな建物をローコストで実現したのが「浮雲(うきぐも)」でした。チロルの山荘を思わせるデザインで、2階に 54畳の和風大広間、1階にモダンなダンスホール、バー、卓球室などを備えた娯楽施設でした。窓枠や内装などにはクリ材が多用されています。押切氏は白井の手腕を高く評価し「秋ノ宮村役場」の仕事を紹介します。 このような僻陬の地にある温泉旅館には都会の人のリゾオトを目標とする場合と、地元の人々のレジャアを対象とする場合と、それにこの二つを兼ねたいという要求がある。 (中略)「浮雲」はとにかくこんな省慮を計画の土台にして始められた。(中略)旅館営業にとって建物は一番大きい資本であり、その六割を投資しなければならぬそうである。訪客の誘致のためには常に建物の趣好を新鮮にしなければならないが、この方針を営業的な意味で最も適確につかんでいる経営主にとって、建物の本質的な問題についての関心はない。(中略)この建物の施主はこの地方きっての建築通であり、施工者は不馴れな仕事をいとわず、誠実に責務を全うした。しかしこの温泉ホテルの訪客にとって、また経営者にとって果して有用であり得たか、またどのように不如意なものになるか、短い月日では分からない。 『地方の建築』(1953) 「無窓」(晶文社刊)から 1959年、54歳になった白井晟一は、稲住温泉の離れ 「嵐亭(らんてい)」、「.亭(かんてい)」、「漣亭(れんてい)」、「杉亭(さんてい)」の 4室を手掛けました。白井作品の住宅に見られるモチーフを随所に使い、4室とも異なったテーマをもっていました。嵐亭は入り口に一段上がった次の間を設け、離れらしさを演出しています。アーチ型の出入り口は、4室共に使われています。部屋に入ると衝立を兼ねた床脇が視線をさえぎり、太い磨き丸太がどっしりとした印象を与えます。。柱の先には木製デッキが客人を迎え、斜めのラインを活かし部屋の広がりを演出しています。 嵐亭の向かいにある「.亭(かんてい)」。簡素な木製ドアを開けると広々とした次の間がひろがり。左手は寝室へ、右手は居間へ続きます。次の間の障子から居間をちらりと見せ、期待感を高めます。居間の床の間は「釣床式」になっていて、畳の幅 2枚分の所に「落とし掛」を設け、畳スペースとしても使える合理的な床の間です。床脇はシンプルな衝立として、内側には貴重品入れを隠しています。 アーチ型の寝室への入口は高さ約 170cmで、少し頭をぶつけてしまうほどの低さです。一方、木製デッキに出入りする引き戸は、2枚開きの大きなガラス戸になっています。 REN TEI 漣亭 4室の「離れ」の外観は、凝った作りの内装に比べ、直線的でスッキリとしたモダンなつくりです。積雪を考慮した軒の深い、ゆるい勾配の切り妻屋根は秋ノ宮村役場とも共通します。50年以上にわたり大切に使われ、厳しい環境に耐えてきました。廊下の突き当たりにある「漣亭(れんてい)」は、竣工当時の姿をもっともよく残した部屋といわれます。部屋のドアの左右に波板ガラスをはめ、ドアを入ると小上がりの和室(茶室)、ソファセットが見えます。通路に斜めの角度をつけ黒い壁紙を貼ることで、奥行きを感じさせます。竣工当時は各室に黒、赤など原色の壁紙をアクセントとして使っていたようです。 直径 16cmほどの太い磨き丸太が茶室に結界をつくり、空間を隔てています。水屋の隣に炉を切った変則的な作りで、気軽にお抹茶を楽しめそうです。床の高低、垂れ壁、素材、明るさなどを巧みに操り、洋と和を違和感なくミックスしています。床の間の天井には凹凸のある木製パネルを張っています。左側の小さな衝立と天井が呼応し、黒塗りの床は畳とフラットになっています。 杉亭外観。切り妻屋根は非対称に傾斜しています。 SAN TEI 杉亭 目の前に蓮の池が広がる「杉亭(さんてい)」。温泉水の熱により蓮の花を長い期間楽しめます。入口から奥まで土間が続き、池を眺めるデッキの役割を果たします。小上がりの和室(居間)は障子で見えなくなっています。 通り庭にそって部屋(ミセやオエ)を配置したプランは、秋田の商家にもよく見られます。和室(居間)は 24cmほど上がり、奥には水屋があります。土間や寝室の天井はクロス貼りで、緩やかに傾斜して視線を外へと誘導します。水屋。寝室の襖は 2枚引きになっていました。背の低い障子は、出窓のように外壁から飛び出しています。 天然温泉をひいた浴室。 秋ノ宮村役場稲住温泉は共立リゾートによって令和元年11月リニューアルオープンしました。この記事の内容は、2012年取材時のものです。 白井晟一前期の代表作「秋ノ宮村役場」(1951)は、解体の危機をのがれ稲住温泉に移築されました。積雪に配慮した軒の深い大屋根や、2階に張り出したバルコニーが特徴です。 一九五〇年の秋、村の民家にモチイフを得て、その年の初冬から 五一年の春、木の芽の萌える頃まで橇(そり)にのり、ゴム靴をは いてこの労作に通った。嘲笑も悪罵も今ではほほえましい想い出とな った。この建物もそれからもはや二度目の冬をむかえようとしている が幸に所期の目的は達し得たと思っている。雪深い秋田にもやがて はその風土自然に導かれるようなほのぼのとした建物が民衆を目標と してたくさんできるようになってくるように。渺たる一寒村の役場にす ぎないこの小作だが、この地方の人々の将来にとってその希望をしめ すささやかな道標ともなり得るならば望外のよろこびである。「秋ノ宮村役場」(1952) 白井晟一著『無窓』(晶文社刊)から 湯沢市を代表する酒蔵「両関」。緩勾配の切り妻の大屋根などに秋ノ宮村役場との共通点が見られます。秋ノ宮村役場は、村役場としての役目を終えてから事務所などに転用され、内装も大きく変わっていきました。道路拡張で取り壊し寸前だったものが稲住温泉に移築され、卓球の合宿場などに利用するため改装されました。窓を二重にするなど、断熱・積雪対策を施しつつ、オリジナルの部材を残し、必要な時は当時のまま復元できるよう工夫されています。 ローコストでも貧しくないもの、うつくしくてつよいものをつくれるのはどういうわけかときかれて何と説明したらよいか。まあ材料の選択按配や工法の工夫の一つ一つを探ってみるしかない。市場基準をこえた部材断面の大きさ。垂木構造と軒出の多い金属板葺の屋根。壁体の主張と開口面の収斂等いろいろあるだろうね。もちろんそういうファクタァはいつの場合でも、日頃肉体化しているはずの造形理念に直結する。自分にとっては不断で機敏なインスピレーションに支えられてるものといえるだろうが、どんなささやかな仕事でも、その成功、不成功は、それなりに自分の身体からでて、こうした部分部分に通じる構想力内実の過不足ない綜合が遂げられているかどうかということになる。創作工夫の真相ってこんなものではないのか。 「建築に思う」 白井晟一インタビュー 聞き手・宮嶋圀夫『白井晟一、建築を語る』(中央公論社刊)から 【 Webマガジン コラージは、オフィシャルサポーターの提供でお届けしています 】