Colla:J コラージ 時空に描く美意識

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花の香つなぐ王子〜田端時空を超える美意識 ht t ps://col laj.jp/ 卯月 2022 Click コロナ禍の影響をもっとも強く受けた業種のひとつがLive Houseでした。現在ライブの制限はゆるまったものの、 自主的に観客数を限定するなどの努力が続いています。そんななか、これからのライブの姿を模索する「八木のぶお +松井智恵美」のライブが4月8日、東京・高円寺駅近くに47年続くライブハウス「JIROKICHI」で行われました。 高円寺ジロキチ Live HouseとArtistの新たな試み 日本を代表するハーモニカ奏者、八木のぶおさん(左)。14歳からブルースハープを始めカーティス・クリーク・バン ドで活躍。TV「北の国から」「探偵物語」のテーマ演奏、北野武監督「HANABI」の挿入曲(作曲:久石譲)、 「ニュース23」のテーマ「翼」(詩・曲:武満徹、歌:石川セリ)、美空ひばりの「愛燦燦」など誰もが耳にした演奏 で知られます。一方、Digital Live Painting共演者・松井智恵美さんは、京都で舞台照明を手掛ける照明のプロで す。京都のライブハウスで八木のぶおさんと出会い意気投合、今回は2回目のセッションとなりました。 八木のぶおさんは、1990年代のニューオリンズジャズフェスティバルへ3年連続出演。ドクタージョンやネビル・ブラ ザーズと共演しました。東ヨーロッパ各国を巡るコンサートなども含め、国際的に活動されています。武満徹記念館 完成コンサートでは小室等さんと、横浜BLITZオープニングコンサートでは、ミッキー吉野さん、ジョー山中さんたち と共演。あの井上堯之さんも参加したバンド・ENTRANCEでの活動も新たな試みでした。JIROKICHIでは40年ほ ど前からライブ活動を続け、最近は宮古島のミュージックコンベンションに参加するなど新境地をひらいています。 松井智恵美さんは、八木のぶおさんの音楽に合わせたライブペインティングをプロジェクターで舞台に投影。さまざ な生き物たちの絵や模様が舞台を彩り、音とともに躍動します。今回のライブはJIROKICHIのYou Tubeチャンネル で同時配信されました。10台以上のiPhoneを配置し、映像を切り替えながら迫力あるライブ映像を生配信。当日か ら数日間の配信を行い、オンラインショップで「後売りチケット」(映像を観てからチケットを購入する)を販売する 形です。自宅に居ながら生ライブの感覚を共有し、アーティストやライブハウスを応援できます。 ipadの画面を指やペンでなぞって映像を変化させたり、iPhoneで写したガラス器の映像を重ね合わせたり、美しい い映像が次々と投影され、絵と音のシンフォニーを奏でます。松井さんは事前の打ち合わせなしで、インスピレーショ ンだけで描きます。音楽を聞くと色のイメージが浮かび、八木さんの演奏はずっと絵を描き続けられるそうです。 コロナ禍によって舞台照明の仕事が減る一方で、ライブ配信が盛んになったこともありデジタルライブペインティン グの活動が増えたと松井さん。「映像が音楽にイメージを与えてしまうことがあるかも」と心配する松井さんですが、 「映像によ観客の意識が分散され、自由な音づくりに挑戦できる。ミュージシャンと共演するのとは全然違う」と八 木さん。1時間以上休憩なしで続いた音と絵のセッション。息つく暇なく演劇か映画を観ているかのようでした。 白井晟一建築で仏教を見る 渋谷区立松濤美術館「SHIBUYAで仏教美術」 ― 奈良国立博物館コレクションより 昨年10月から開催され、話題を呼んだ「白井晟一 入門」展。その舞台となった白井晟一設計の松濤美術館で、5月29日まで仏 教美術展を開催中です。正倉院展でも知られる奈良国立博物館から選りすぐりの名品83件が渋谷にやってきました。数々の展 覧会に収蔵品を貸与してきた同館ですが、意外にも収蔵品だけの名品展を東京で開催するのはこれが初めてだそうです。 前期:4月 9日(土)~5月8日(日) 後期:5月10日(火)~29日(日) ※会期中、一部展示替えあり 土日祝日・最終週は日時指定予約制です。 右 《薬師如来坐像》 銅造 奈良時代 8世紀 重要文化財 (画像提供 奈良国立博 物館 以下同) 左《泣不動縁起( 部分) 》 紙本著色 室町時代 15 世紀(前期 展示場面)。祈祷する陰陽師安倍晴明のまわりに鬼やもののけが見えます。 展示の中心は平安、鎌倉、室町時代の仏教美 術です。12世紀の《辟邪絵》は、天刑星や毘沙 門天が人々に不幸をもたらす悪鬼を退治するさ まを描いたもので迫力があります。9世紀の《如 意輪観音菩薩坐像》は左右6本の腕をもち、如 意宝珠や輪宝によって人々を救うとされます。そ の他11世紀に作られた国宝の皮革製仏具《牛 皮華鬘》、13世紀の雅な宮廷生活を伝える藤 原定家の日記《明月記断簡》、7世紀飛鳥時代 の《観音菩薩立像》など、遠く飛鳥の時代から 日本人の心に仏教が深く刻み込まれていく過程 を、都会に居ながら感じられます。 右 《如意輪観音菩薩坐像》 木造 古色(現状) 平安時代9~ 10 世紀 重要文化財 左《辟邪絵 天刑星(部分)》 紙本著色 平安~鎌倉時代 12 世紀 国宝 (前期展示) 大吉朋子 Tomoko O yoshi フリーランスになってからは、時間の決まった仕事以外の時間はすべて自分 でプランできるため、良く言えば自由。真面目な性分にとっては、いつも何かし なければ、という強迫観念に近いものすらあり、オンオフという感覚がほとん どない。もはや「休み」と言うことに、やや後ろめたい気持ちを持ってしまうこと すらあったけれど、年齢を重ねるごとにずいぶん気楽になった。 一番の趣味はサーフィン。始めて18 年ほどになるものの、いまだにビギナー 気分が抜けない。とはいえ、お気に入りのロングボードで、春夏秋冬どの季節 でも海に入る。1 ~ 2 月は外で着替える時に一瞬気合いがいるけれど、天気の 良い日にほどほどの波があったら寒さは二の次、冷たい海水に体が絞られ、ほ んとうに清々しい気持ちになる。そうはいっても私はいわゆる「サーファー」で はなく、”ちょっとそこまで” くらいの感じでサクッと海に行って帰ってくる、とい うスタイルが好きで、サーファーらしい感じはほとんどないと我ながら思う。 とっておきの休み 時間 1 時間目 SURF Day 心・体・思考の健康をデザインする 不思議なことに、仕事や予定が入っている時にかぎっていい波がある。どういう巡りあわせになって いるのか、このパターンがとても多い。海の近くに住んではいないから、海行きの選択肢がない日 は波情報を見ないようになったけれど、うっかりすると1カ月くらい海から遠のいている時もあり、まぁ それでも幸せに暮らしているものの、なにか体内に溜まってくるものがあるから海に入りたい欲求が強 まってくる。 先日、1 年に3回あるかないかの良い日に巡り会った。 その日は「海DAY」と思って予定していて、前日までの波予報もまずまずで、早起きして波情報を 見ると、なんと湖のような海面が映っている。画面をアップにして海面を見ても期待うすな感じ。こ れはあるあるとはいえ少々がっかり。もやぁ~っとしつつも、自然のことはどうにもできないので海行 きをあきらめて仕事を始めた。すると、なんだかサクサク仕事が進んで午前中でひと区切り。ふと、 波情報をチェックしたら、なんと波がある感じ。もうよけいな事は考えずにさっさと準備して海へGO。 そこそこオンショアが吹いているものの、いい感じで乗れている様子。しかも、遠目にみるとあまり 良くないからか、海がとても空いている。暖かい日で海水温度も冬モードから変わってやさしい。「あ りがとう~」と心で叫びながら、空腹に耐えられるまで波乗りをした。青空広がる午後の太陽のもと、 ガツガツした人もいない、それぞれが自分のペースで波乗りに集中して楽しんでいる感じはほんとう にサイコーだった。 この日の海は私にとって最高で、とにかく気持ちが良かった。数日たった今もまだその余韻を感じ られるくらい。その日の朝、期待が膨らんでいただけに少し残念な気分にもなったけれど、その後ま ったく期待しないところでタイミングがあったものだから、清々しさがまた格別だったのだなと思う。 自然を相手にする楽しみは、絶対に人間がコントロールできないも のと自分が、時々絶妙にタイミングの合う瞬間に出会えることかと思う。 その幸せな瞬間をまた味わいたいと思ってやめられない。そして、相 手に「委ねる」感覚が、自分を潔くもさせ、謙虚な心構えへとあらためる。 これは日々の生活でも仕事でも、とても大切なことだとつねづね思う。 海に入って得ること学ぶことはとても多い。遊びのようでありながら も、自然との向き合い方から様々な気づきがあり、人間観察好きな私 としては生身のその人が見えてきて、とても興味深く勉強になる。そし て体も鍛えられる。 なんでも手軽に多くの情報や知識が手に入る今、過剰な期待や思 い込みがしんどい気持ちや負の感情、思考を生み出しているように思 うけれど、そんな時にはできるだけ早くその場所から離れて、外の空 気を感じて深呼吸してみたらいいと本気で思う。できれば軽く体を動 かしてみると、少し前までのモヤモヤした気持ちが、ふわっと宙に浮 いて軽くなっていく。 私にとってSURF Dayは体を動かす最高の時間であり、「心と思考」 がクリアな、健康な自分であるために欠かせない時間でもある。 はじめまして、大吉朋子と申します。今回が記念すべき連載第1 回目となります。「心と体と思考の健康」をモッ トーに、ウェブデザイン・ヨガ指導・カウンセリング業などを営み、日々過ごしています。私の学ぶ『ヨガ数秘学』 では2022 年4 月はスタートのエネルギーに満ちた月で、実にグッドタイミングとなりました。次号はヨガ数秘学 のお話もご紹介していきますので、お楽しみに。それでは皆さま、どうぞゆるめにおつきあいくださいませ。 しゅっぱーつ 雨だって へっちゃら 大行進! 原作: タカハシヨウイチ はら すみれ 絵 : タカハシヨウイチ Vol.34 南青山の閑静な住宅街。建築家 玄・ベルトー・進来さんは、築50年のマンションを美しくリノベーションしました。テーマ は「アフターコロナの生活空間」。寝室、リビング、ダイニングの境を無くし、玄関〜バルコニーの風通しをよくしたオープン 空間で、床には殺菌性のたかいリノリウム床材を全面に段差なく貼っています。 インテリア撮影=Nacása & Partners Inc. 中道 淳 ダイニングの壁掛けテレビは、 寝室に角度を変えられます。 玄・ベルトー・進来さん アフターコロナを見据えたリノベーション 浴室 洗面所 多目室 食堂 厨房 AFTER BEFORE 寝室 玄関 玄関側にあったキッチンは、リビング側に移設されました。玄関側の多 目的室には、レンジフードの排気を通す長いダクトが見えています。狭い 廊下や段差のないオープンなプランなので、車椅子でも移動できるよう 工夫されています。キッチンやテーブルには、玄・ベルトー・進来さんが デザインした有田焼の食器セットが置かれていました。バルコニー側 玄関側 床に隙間なく貼られたリノリウム床材は掃除しやすく、ペットが居 ても安心です。ダイニング、バルコニー、多目的室には、玄・ベルト ー・進来さんがデザインした家具を置いています。 ピンヒールチェア ウルフチェア「MZA有明」のためにデザイン。 ダイニングテーブル リビングと境目なく置かれたベッドの隣にはバスルームがあります。シャワーを備えた洋バスで、窓から景色を 眺めながらゆっくり過ごせそう。バスルームの黄色と、ベッドサイドのPEACEナイトテーブルが空間を和ませて います。ビンテージマンションの古い間取りを、アフターコロナ時代にマッチさせたリノベーションです。 和多田アヤさんの写真展「 TALKING TO THE DEAD」が、渋谷公園通りのギャラリーTrue Romance Art Projects で、4月1日〜17日まで開催されました。和多田アヤさんはポート レートを中心に活躍する写真家で、俳優、モデル、棋士、スポーツ選手、茶人など、独特のコミュニケーションスキルを駆使して幅広い分野の人々を生き生きと描くことで知られています。 和多田アヤ写真展 TALKING TO THE DEAD 和多田アヤさんはパーソナルワークとして「喪」と「家族」というテーマを探求し、母親との幼少期をたどる「彼岸の 花」や祖母、叔母の服をまとった従姉妹のポートレート「ママのクローゼット」などを創作してきました。今回展示さ れたのは、青森にのこるイタコの口寄せや民間信仰を写真集として残す「TALKING TO THE DEAD」プロジェク トのために撮り下ろされたもので、イタコが暮らす南部地方や口寄せが行われる恐山、川倉賽の河原地蔵尊などの 写真が並びました。書籍「TALKING TO THE DEAD」は現在制作が進められていて、出版費用を調達するため のクラウドファウンディングが行われています(詳細は左下リンク参照)。 作品に登場する90歳の中村タケさんは、最後の盲目のイタコといわれます。もともとイタコには盲目の女性 が多く、師匠から伝えられたイタコの証であるオダイジとイラタカ数珠をもっているそうです。中村さんは先 祖の口寄せだけでなく、家庭の揉め事、引っ越し、病など身の回り相談を担ってきました。和多田さんの視 点は霊場と共に何気ない街や自然風景をとらえ、生活の一部にあったイタコ本来の姿を伝えています。 飛鳥山の台地は、上野から日暮里、田端、上中里と続く丘陵の一部で、熊野から勧請された飛鳥(阿須賀)明神が祀られていたからと伝えられています。18世紀には徳川吉宗がこの地を 桜の景勝地にしようと1300本近くの桜や松、楓などを植え、名所として賑わうようになりました。飛鳥山の周囲には、料理や茶屋などもできました。 王子 飛鳥山をピクニック 当時から上野も桜の名所でしたが、宴会などで騒ぐのは禁じられていました。一方、飛鳥山は花見の弁当をもちより仮装して仇討の寸劇を演じたり、桜の季節になると大いに賑わいました。 王子 飛鳥山 渋沢栄一邸 晩香廬 1879年、澁澤栄一は飛鳥山に接客のための別邸を構えました。飛鳥山の風景を気に入った澁澤は庭園を整備して、日本館、西洋館、茶室などを次々と建設し、1901年からは自ら飛鳥山 に移り住み、91歳で亡くなるまで約30年を過ごしました。太平洋戦争の空襲によって多くの家屋を焼失したものの、晩香盧(ばんこうろ)、青淵文庫が現存し一般公開されています。 晩香盧は渋沢栄一の喜寿を祝うため清水組の清水萬之助から贈られ、清水組の技師長だっ た田辺淳吉の設計で、大正6年に竣工しました。外壁の隅に茶色のタイル製コーナーストーン をあしらい、壁はクリーム色の西京壁によってカジュアルな雰囲気をだしています。 暖炉は外壁のタイルと同じ仕様で、がっしりした雰囲気です。暖炉の脇には淡貝を使った小窓、左右のステンドグラ ス、暖炉道具を吊るすフックにまで、田辺淳吉の細やかな設計が見られます。構造には栗の木が使われ、木材にはナ タの削り跡を残したようなバンガロー風の意匠が見られます。 玄関を境に応接室と厨房、化粧室を分けたレイアウトです。応接室の天井は船底状で、小鳥や草花のレリーフを白い 漆喰であしらい、鍛鉄製のランプシェードには淡貝が使われています。 今回はオリア・ハーキュリーズの著書『Summer Kitchens』(『夏 のキッチン』2020年刊、未邦訳)から、その冒頭の文章(まえがき) をご紹介します。ウクライナ出身の著者Olia Hercules の名前をウ クライナ語で何と発音すべきが分からないので、彼女が名を知られ ることになったロンドンでの呼称「オリア・ハーキュリーズ」と記 載しました。Hercules すなわちギリシア神話の英雄「ヘラクレス」 と同じ綴りです。翻訳は基本的に「わかりやすさ」を優先した私(大 原)の「意訳」であること、ご了解下さい。ではさっそく、彼女が 語る言葉に耳を傾けてみましょう。  ----------------------------------------------------------------- 本書は「夏のキッチン」と題されていますが、単に「夏の料理」 をあれこれ紹介するという料理の本ではありません。これは、ある 場所を通して眺めるとウクライナ全域の食文化、風土、そして季節 の多様な様を知ることができるプリズムのような特別な場所につい て語った本です。 私はウクライナ南部にあるカ ホーフカ(Kakhovka)という小 さな町(現在人口約3万4千人) で育ちました。家には普通の台所 の他にもうひとつ、別のキッチン がありました。といっても決して 大したものではなく、庭にある小 さなレンガ造りの小屋。私達は これを「夏のキッチン」(litnya kuhnia)と呼んでいました。果樹 や野菜を育てる家庭菜園の隣にあ り、ごく当たり前の暮らしの日常 の一部で、何も特別なものではあ りません。 今私はロンドンに住んでいます。庭もなく「夏のキッチン」なん てとても、という環境です。でも、かつて「夏のキッチン」で過ご すことができた時があった。そこであれこれ料理づくりを思う存分 行うことができる場所があった。その思い出を振り返ってみると「夏 のキッチン」は、当時私達が思っていたよりもずっと豊かでぜいた くな存在だったのかもしれない、今はそんな思いが深まるばかりです。 ロンドンで友人たちに何気なく「夏のキッチン」についての話を する機会がありました。その時ふと、あの場所に秘められた特別な 魔法のような力、それが思い出されてきました。あの「夏のキッチン」 と呼ばれる場所、私の故郷の伝統について、もっと知りたい。そん な思いが炎のように燃え上がり始めたのです。そしてこれを調べ始 めてみれば、自分の無知の向こう側に、想像もできないほど興味深 い世界が広がっていることを知るに至りました。 熱帯の国々の中には、屋外の日除けの下で簡単な料理をするのが 卓上のきら星たち 食文化ヒストリアン ★127 ウクライナ夏のキッチン その1 大原千晴 英国骨董おおはら 日常、という地域があります。それに比べると、ウクライナの「夏のキッチン」も また屋外の施設ではありますが、独立した建物で、最初から台所としての利用を主 目的として設置されています。夏は季節を通してここで料理をし食事をするのが普 通です。冬でも祝祭のシーズンで特に大人数の宴席を準備する際には、この建物が 使われます。 かつては家畜と共に人も暮らすことがあった掘っ立て小屋のような納屋。「夏の キッチン」はそこから誕生したものだと思われます。私が各地で訪れた「夏のキッ チン」の中には、築造以来なにひとつ変化していない建物も幾つかありました。建 物の素材と構造は地域により異なります。南部ではレンガ造りもしくは石造り。中 部から北西部にかけては木造もしくは土造り。同様にその呼び名も地域により異な ります。 ではなぜウクライナの家庭には「夏のキッチン」が作られているのか。その理由は、 この土地の気候にあります。ウクライナはロシアと同じく、冬寒冷にして雪に覆わ れる厳しい気候です。その一方で、季節により気候の変化は激しく、夏になれば別 世界。私が子供の頃は今よりも早く 夏が訪れたと記憶していますが、そ れはもう「敷石にひびが入る」また 「アスファルトが溶け出す」と言わ れるほどの暑さに見舞われることも あります。 夏の焼け付くような太陽の熱をた っぷり受け止める腐植土壌分の豊富 な大地。ウクライナの大地は、世界 でも有数の地味の豊かさで知られま す。その名も「黒土」別名「黒色の 黄金」。1940年代我が地を占領 したナチス・ドイツは、この「黒色 の黄金」を貨物車に満載してドイツ に運び出したと言われています。また1990年代ソヴィエト崩壊以降のロシアで は、この「黒色の黄金」が闇取引の対象とされていると噂されています。 第二次世界大戦後、ようやく経済復興の兆しが見え始めた頃、1950年代の焼 け付くようなウクライナの夏を頭に思い浮かべてみて下さい。若い新婚カップルが 都会ではなく田舎で新生活を始める。ひと部屋だけの小さな「仮設の家」。家財は、 間に合せのベッドに灯油ストーブくらい。寝るのも料理をするのも食事をするのも すべて、この小さなひと部屋で済ませる暮らし。土地を手に入れて家を建てる前に 子供が生まれていたとしても同じこと。家族揃って、この寝室兼台所兼食堂である 仮設のひと部屋で暮らし始める。石工がいる村なら、その部屋に大きな石造りのか まど(オーブン)が作りつけで置かれる。家族の人生も生活の糧も、すべてこの小 さなつつましい、ひと部屋の家を中心として、まるでマッシュルームが大地からあ ちこちに顔を出して育つように、この小さな家から生み出されていくことになるの です。 母屋を建てることができるようになるまでは、その仮設の小さなひと部屋での暮 らしが続きます。雪のない季節であれば、だいたい半年もあれば、主屋は建ちます。 大原千晴さんの「西欧食文化ヒストリー」講座 コロナ禍による休止から、2 年ぶりに再開! 早稲田大学エクステンションセンター(早稲田大学オ ープンカレッジ)中野校で開催されてきた大原千晴 さん「西欧食文化ヒストリー」講座が、5 月から再 開されます。ヴェルサイユ宮廷食文化、イスラームの 影響、新大陸アメリカ食材の衝撃、西欧絵画に描 かれた食卓など興味深いテーマを豊富な図案で解説。 全4 回 5/24、5/31、6/7、6/14、13 :00 ~ 14 :30 お申し込み・詳細は左下リンクを御覧ください。 もちろん場合によっては、1年以上掛かることもありますけれど。家の建築が進む 間家族は、庭に果樹を植え、野菜を植える畝の準備を進めていきます。そんな「家 づくり」は、そのすべてを自分たちだけでやっていく、というわけではありません。 村の隣人たちが、時には 50 人もの人々が、これを手助けしてくれます。例えば土と 藁でつくる土壁の建築資材となる干し草を持ち寄り、皆で歌いながら作業を進めて いくのです。その御礼? 皆が求めるのは、ちょっとしたお昼と夕ご飯。そして、 将来いつか同じように手助けをしてくれること。これがすべてです。こうして新た に母屋が完成したら、家族は揃ってそちらに移ります。そして、それまで暮らして きた「仮設の家」が「夏のキッチン」になるのです。 母がまだ子供だった1960年代の初め、祖父母が3ベッドルームの家を購入し ます。しかし、その家には二人にとって欠かせない夏のキッチンが付いていません でした。そこで祖父ヴィクトールは母屋を増築する形で夏のキッチンを新たに作る ことにします。しかし庭の中で一番増築するにふさわしいと思われる場所には堂々 たる黄桜の大木があり、その幹からは人間の太ももほどの太さの枝が四方に伸びて いました。木々を愛する心優しい祖父には、どうしてもその枝を切り落とすことが できません。では、どうしたか。驚くべき行動 に打って出ます。黄桜の太い枝をそのまま残し ながら、これを夏のキッチンの内部に取り込む 形で増築工事を行ったのです。壁の一面から太 い枝が室内へと貫き、これがそのまま屋根に向 かって天井から屋根へと貫通していく。こんな とんでもない設計の建物を実現させた祖父。そ の変人ぶりを教えてくれる逸話です。 しかしながら、ウクライナ各地の「夏のキッ チン」を巡る旅の途中で私は、これに負けず劣 らずとんでもない造りの夏のキッチンがある家 庭に幾つも出会うことになります。その底に流 れる心情は皆同じ。それは、大地の恵みに感謝 の念を込めて、できるだけ自然と調和しながら 生きていこう、という思いです。そこで暮らす人の周りを取り囲む、生きとし生け るものの全てに対して親密な想いを抱かせる。夏のキッチンには、その力があるのです。 祖父の時代ウクライナは、まだソヴィエトの一部でした。1980年代、国全体 に大きな変化をもたらすペレストロイカが始まった頃、私はまだ子供でした。でも、 覚えています。棚が空っぽのお店、マヨネーズひとつを買うために、また、電気代 を支払うために、国中で多くの人々が長い行列に並んでいたこと。忘れられません。 でも、自身の食べ物を自分で育てる環境にあまり恵まれないモスクワやその他の都 市に暮らす人々とは違って、ウクライナの田舎に暮らす人々は、そんな狂騒の時代 を何とかうまく乗り切ることができていました。というのも、歴史的にウクライナ の人々の暮らしを助け続けてきた、夏のキッチンを中心とする、酪農・養鶏・養蜂 を含む農耕の力があったからです。ですから、「夏のキッチン」という言葉が現在 のように、いささかロマンティックな響きで語られるようなことがなかった時代。 そうした時代の夏のキッチンは、家族の暮らしと人生を支える屋台骨であり、厳し い労働の現場であると同時に、神聖と呼んでもいい場所であったと断言できます。                            以下、次号へと続く。 春の飛鳥山に、あがた森魚さん 「タルホピクニック」ギターを背負って飛ぶ練習 1972年の大ヒット曲「赤色エレジー」でデビューした、あがた森魚さん。今年はデビュー50年をむかえました。70代とな った今も50周年記念「わんだぁるびぃ2022ツアー」で全国を飛び回りながら、毎月1回のペースで王子・飛鳥山周辺を2 時間近くにわたって歩き続ける「『タルホピクニック』ギターを背負って飛ぶ練習」を開催しています。 この日3月27日(日)は桜が満開。沢山の花見客の間を、色々な楽器 をもった仲間たちとねり歩きました。「タルホピクニック」は、2020 年 6 月「ギターを背負って歩く練習」から始まり、20回以上続いています。 「タルホピクニック」を始め たきっかけは、コロナ禍によってライブ等が困難になったことでした。あがた森魚さんは、体力づくりのためにギターを背 負って飛鳥山を歩き始め、そのうちに歩きながらギターを弾くようになり、沢山のミュージッシャンが参加するようになりま した。今回のピクニックの様子はあがた森魚さんのTwitterでライブ配信されました。 つれづれなるままに 内田 和子 第 88 回 初めての俳句づくり 三年ぶりのボランティア活動、「俳句教室」に参加した。 区が主催するこの講座は多世代交流ということで、参加は 小学生以上、上は年齢制限なし。俳句だけに高齢者が多い のかと思ったが、参加の大半が小学生だったのには驚いた。 ボランティアの仕事は、俳句手帖を作るお手伝い。開始 30 分前に行って作り方を教わるが、セットされた和紙の小さ な穴に糸を通し、手帖を装丁するのは思いのほか難しい。 それほど小さい穴ではないが、糸がすっと通らない。こう いうことが苦手なのは自分でも承知していたが、なんどや っても通らない。結局担当スタッフに手伝ってもらって手 帖はできたが、すでに開始の時間となり、子供達が並んで いる。慌てて受付を始めたものの、名前を聞いても参加名 簿から見つけ出すの が難儀である。もた もたしていると自分 の名を指差してくれ るが、最近の子供の 名前はルビがなけれ ばとても読めない。 ひとりで来た子は 慣れているのか、さっさと参加費を出して席に座っていく。 なかには親の後ろでモジモジしている子もいる。促して席 まで案内。グループ分けしたテーブルには子供と一緒に高 齢者がチラホラ混ざっている。俳句手帖の糸通しは子供の 方が得意で、高齢者を手伝っている。 糸を通した和紙は、固結びや玉結びをして綴るが、それが 苦手な子供もいるので、ボランティアの出番は少しだけあ った。工作が得意な子も苦手な大人もみんな和気藹々、俳 句手帖ができたところで俳句の基本を講師が説明。質問に は子供たちが元気に手をあげ、大きな声で答えていく。季 語もよく知っており、俳句のコツもすでに心得ている。 うむ…これは手強い。ボランティアの私は何をすればいい のか……。 ひととおり基本を教わってから外に出る。区民ホールの裏 手にある清水門の前で「春の句」をつくる。清水門は九段下の交差点か ら大手町に向かうお堀端沿いにあり、 北の丸公園の入り口のひとつで ある。1年ほど前に散歩で見つけ門をくぐったが、公園に続く江戸城の ままの石段は勾配がきつく段差が高い。この石段を裃(かみしも)をつ けて毎日登城したのかと、当時の人は相当の健脚だったと思いながら歩 いた記憶がある。 その清水門を前に、それぞれ思い思いの句をつくっていく。 春の季語はそこかしこにある。 葉桜・イヌフグリ・菜の花・蝶々・春ツツジ・鯉・かも・桜ちる……時々 風が吹いて花びらが舞う。青空に白い雲、武道館の屋根が眩しい。それ らの情景を眺め、句をつくる。子供たちは出来たと言っては見せにくる。 いいんじゃない。子供たちの感性度は高い。子供のスピードに遅れをと り焦るが、なんとか課題の4句 を書き留める。教室に戻り、一 番いいと思う1句を筆で短冊に 書いて壁に張る。 子供達もみんな上手に筆を使っ て書いている。私も短冊を壁に 張った。参加者全員が順番に自 分の句を読み、講師が講評する。 思わず唸ってしまう、いい句も ある。ひとつひとつ丁寧に講評 されるので、みんな満足なニコ ニコ顔となる。 初めての俳句発表、子供たちと 一緒でなかったらとても人前で は詠めないが、大いに励みとなった。 近くの団地や高層マンションに住んでいる子が多いが、季語を見つける のが楽しいらしく「次は何時やるの!! 」と、講師を喜ばせる。 風に舞う桜を「雪のよう」と表現した男の子に、雪だるまの話をすると、 作ったことがないという。都心のアスファルトでは積もらないらしい。 空き地はのび太くんの世界でしか知らないという。 あぁ……… 後片付けをして、終礼をしてボランティアの仕事は終わり。帰ってから バタンキューだったが、子供たちからはたくさんの元気をもらった。 これから月1回の多世代交流会があるとのこと。ボランティア活動の再 開を大いに楽しみたいと思う。 パレードに沢山の子ども達も参加。みんなノリノリで付いていきます。満開の桜と音楽が年齢や立場の壁をとりはらい、春の暖かな風にのり、みんながふわっと一体になる心地よさを感じました。 子ども達は楽器にも興味津々。瓢箪などつかった西アフリカの楽器シュケレを鳴らしてみます。JR線の跨線橋では、高 速で走り去る貨物列車へ語りかけるようにセッション。 14時から始まったパレードも2時間近くになり、音無親水公園の橋のしたで最後のセッション。あがた森魚さん率いる「タルホピクニック」は沢山の人を巻き込んで、まだまだ続いていきそうです。 ロシア領内に入る手前には、徒歩や自転車で領内に入 ってはいけないことを説明した看板が立っていました。 王子 飛鳥山 渋沢栄一邸 青淵文庫 青淵文庫(せいえんぶんこ)は、関東大震災があった大正14年に竣工。渋沢栄一の80歳と子爵となったことを記念して門下生の団体「竜門社」から寄贈されました。青淵という名は、渋 沢栄一の号から付けられています。渋沢が道標とした「論語」コレクションの収蔵室を2階に備え、1階にはそれを読むための天井の高い読書室が設けられました。 外壁には月出石(伊豆天城産の安山岩)を張り、美しい陶板で開口部を彩っています。開口部の上部には渋沢家の家 紋と寿の字、竜門社の竜をアレンジしたステンドグラスがはめられています。タイルは京都の泰平居で焼かれました。 建物調査の際に、窓上部に取り付ける水平材「まぐさ」が発見さ れました。完成直前の関東大震災で被害をうけたものと思われま す。全体は煉瓦造ですが、マグサなどは鉄筋コンクリートです。 晩香廬、青淵文庫を設計したのが田辺淳吉です。 1879年東京・本郷に生まれ、東京帝国大学で 辰野金吾から建築を学び同期には佐野利器や 佐藤功一がいました。卒業後は清水組に入社。 1909年には渋沢栄一が団長をつとめた渡米実 業団に参加し、単身でロンドン、ベルリン、ウィー ン、ベネチア、フィレンツェ、パリ、ミラノ、ローマな どをめぐり、清水組の技師長となります。1920年 に独立し日本倶楽部、東京會舘、青淵文庫など を出掛けますが、関東大震災の復旧計画が多忙 を極め、過労により47歳の若さで亡くなります。 青淵文庫の隣には母屋の洋館があり、渋沢栄一は広い書斎 でプライベートな時間を過ごしていました。晩年になっても毎 日のように会合、式典に出席し多忙を極めた渋沢ですが、こ の書斎は唯一リラックスできる空間だったようです。フローリ ングにカーペットを敷き、小さな文机を置いて床に座りながら 使っていました。ほかに益田克徳のすすめで建てた茶室「無 心庵」もありました。益田克徳は明治の実業家茶人として知 られる益田鈍翁の弟です。 本日、南風なれども その25 青山かすみ 春爛漫と思いきや、夏来たりなば台風さえも早足か?、、^^; なにがやってくるか予測不可能な2022 年という感じです。我慢の2年も過ぎ、都心のカ フェ&レストランはどこも大入り満員。今までの反動をどうにも止めようがございません状態 といえましょうか。これってロシアとウクライナ国境付近で起きた出来事と相通じる人間的感 情なのかしら? などと思ったりしちゃう自分がいます。 身近なところではまず、横田基地から六本木基地(赤坂プレスセンター)に向かう米軍ヘ リ定期便の低空飛行。こちら日々一段と圧が掛かり、ヒドイ騒音と振動を響かせてること が挙げられます。また春の陽気とともに羽田新航路の低空飛行が甚だしく騒々しいのです。 新宿方面からカーブを描きつつ港区へ入るC ルートと渋谷区に入るA ルートがあるわけです が、その各ルート自体からまた2〜3パターンの枝葉ルートをバンバン飛行させてるのよね。 実のところ私たち住民はまんまとはぐらかされたとゆう訳です。港区と渋谷区ルートの境目が至近距離(たとえばAo ビルと青山学院大学)なものだから、青山通り(特に南青山三丁目交差点〜青山学院大学の間)には常に5〜6機 が飛び交ってることになるんですよね。これは実に信じられないほど怖い現実です。 そこへ+ヘリコプターが行き交い、そのまた上空を羽田発のジェット機が交差したりするのを、ちょくちょく見かけます。 武器を載せてるか人を載せてるかだけの違いです。ですから危険は私たちの超身近にあることを、ホント肝に命じなが ら生きなければなりませんよね。人や生き物を脅かす行為は即刻停止し、従来の海ルートへ戻すべきです。今のまま では大きな事故でも起きたら戦争と同様の国家犯罪になりかねません。ロシアやウクライナのこと言う資格はなくなりま すよ。世界中の人たちと生き物がヒステリーを起こし、ヤケノヤンパチをむき出しにしてしまったらこの世はどうなってし まうんだろう。心穏やかに人を愛せる世に戻してゆかねばなりません。 私たちひとりひとりが若者や子供たちに地球の未来を託せるよう、あらためるべきは示してゆきませんか。 田辺淳吉が渋沢栄一のために設計したもうひとつの 建物が「誠之堂(せいしどう)」です。大正5 年に 渋沢栄一の喜寿(77 歳)を祝い第一銀行員から 贈られました。外壁にはレンガ装飾による「喜寿」 の文字が見えます。元は東京世田谷の第一勧・清 和園の敷地にありましたが、渋沢栄一のふるさと埼 玉県深谷市の大寄公民館に移築されました。 埼玉県深谷市 誠之堂 「誠之堂」は第一銀行員達の寄付により建てられ、田 舎屋風の小ぶりなレンガ建築に仕上がっています。レン ガは日本煉瓦製造で焼かれ、あえて色ムラのある2 級 レンガを使うことで、渋沢栄一の質素倹約な姿勢が示 されています。色の異なるレンガをバランス良くアレンジ し、手間の掛かるフランドル積で積んでいます。内装も とても丁寧な造りで、構造は異なりますが築年の近い晩 香廬とも共通点が見られます。 玄関には、渋沢栄一を表した 「龍」と、栄一を支えた兼子 夫人を示す「孔雀」のステン ドグラスが嵌められています。 ヨーロッパ各地を視察し、アーツ&クラフツやセセッション、アールヌーヴォーに触れた田辺淳吉は、そのモチーフを随 所に散りばめています。師の辰野金吾が西洋の意匠を東洋風に変換したように、田辺も日本ならではのスタイルを模索し ていました。広間のドーム天井には漆喰で「鶴」や「寿」の図案がレリーフされ、縁には松葉が彫られています。 英国の田舎屋をベースに、韓国・中国・日本など東洋のエ ッセンスを盛り込んでいます。深いひさしを設けた屋根は雄 勝産の天然スレート張りです。 Tanabata-kosyokai 広間のステンドグラスは中国漢代の祝宴をイメージ し、厨房で料理する様子や客をもてなす芸人、列席 する貴人達が描かれています。ステンドグラスの図案 や内装は「木のめ舎」で知られる室内装飾家・森谷 延雄が清水組在籍時代に手掛けたといわれています。 飛鳥山の近くに旧醸造試験所第一工場が残されています。明治 37 年大蔵省醸造試験所の試験工場として設立され、多くの官 庁を手掛けた妻木頼黄により設計されました。ドイツのビール工 場を手本にした煉瓦造りで、工場の中には原料処理室や旧麹 室、赤煉瓦の廊下が残され、各種イベントに貸し出されています。 王子 旧醸造試験所 第一工場 外壁上部はレンガを櫛形に並べたロンバルド帯風になっています。 敷地は幕府の滝野川大砲製造所だった場所で、製鉄のための反射炉がありましたが、明治となり反射炉の動力用 水車を転用した民間初の紡績工場「鹿島紡績所」が明治5 年に開業しています。その跡地に建てられた第一工 場では蒸米、製麴、仕込み、発酵、貯蔵など行われていました。工場内はリンデ式アンモニア冷凍機を用いた空 調設備を備えるなど、四季を通じて安定した清酒を醸造するための研究、講習が行われました。軍隊、工場、鉱 山などの発展とともに、日本酒の生産が各地で急増していたのです。現在は日本醸造協会により管理されています。 今月の茶道具3 黃伊羅保茶碗 きいらぼちゃわん 朝鮮16 ~ 17 世紀 東京国立博物館蔵 伊羅保茶碗は、朝鮮で焼かれた高麗茶碗の一種です。もととは生活雑 器でしたが茶盌として見いだされ、江戸時代初期には、茶道具として日 本からの注文で焼かれました。産地は韓国南東部の慶尚南道(キョンサ ンナムド)と推測されています。伊羅保という名は、ザラザラした砂混じ りの土の手触りに由来します。 古伊羅保、黄伊羅保、釘彫伊羅保などがあり、ロクロ目が筋立ち、伊 羅保釉(土灰釉)を高台まで薄く掛けています。「黄伊羅保」は黄釉を 掛けたものをいい、口縁の端はやや反っていて、ヘラで切れ込みを入れ た切り回し樋口になっています。また「べべら」と呼ばれる口縁の欠損を 故意につくるのも約束事になっています。 JR 田端駅を降り、田端文士村記念館のある江戸坂を上がります。 明治30 年代〜昭和初期にかけて、芥川龍之介、室生犀星、板谷波山など、 田端には沢山の文士・芸術家が暮らし、絡み合いながら創作に励みました。 文士・芸術家をつなぐ町 田端 田端駅前の深い切り通しができたのは昭和8 年。田端は 丘陵による坂道の多い街です。明治の30 年代から、東 西1km,南北700m ほどの狭い地域に、歴史に名を刻 む文士・芸術家たち集まりはじめ、数十人が家族と共に 暮らしていました。「田端文士村記念館」の地図を頼りに、 その住居あとを巡ってみました。 明治の終わり頃まで、田端は農村地帯でした。江戸時代 の地図では、寺院以外の場所は田畑や雑木林を示す緑 色に塗られ、今は暗渠になった谷田川(藍染川)が流れ ています。将軍のための「お鷹狩り場」であったことも自 然が残された理由のひとつで、工業化の進む王子や赤羽 に比べ、のんびりとした雰囲気がありました。 切り通しにかかる童橋(わらべばし)の近くに、童橋公園があります。その一画に、室生犀星の自宅にあった庭石 が置かれています。庭造りを趣味とした室生犀星は田端で何度か転居を繰り返し、そのたびに石や石仏をもちこみ 庭を作り直しました。田端を大きく変えたのは鉄道の開通でした。田端駅は明治29 年に開業。鉄道の分岐点と して操車作業が行われるようになり、鉄道関係者が駅近くの高台に屋敷を建て暮らすようになります。 小川三知のステンドグラス(鳩山会館)。 童橋公園に近い田端八幡神社の周辺には、山本鼎、小川三知、香取正彦、濱田庄司といった芸術家、工芸家 が暮らしました。陶芸家 板谷波山の誘いで田端に来た小川三知はステンドグラス工房「小川スツジオ」を設立し、 音羽の鳩山会館はじめ、全国各地に沢山のステンドグラス作品をのこしました。東京美術学校で板谷波山の同窓 生として日本画を学んだ後、アメリカへ渡りティファニー方式のステンドグラスを学んで日本に持ち帰りました。 山本鼎「漁夫」1904 田端小学校の近くには、自由画教育運動で知られる山本 鼎(かなえ)が暮らしました。木版工房の職人だった 山本鼎は、それに飽き足らず石井柏亭の洋画研究グループに加わり東京美術学校に通いはじめます。同じく田端 に暮らす倉田白羊と知り合い、石井柏亭の紹介で雑誌『明星』に初期版画「漁夫」が掲載され評判を呼びました。 明治40 年から山本鼎、石井柏亭、倉田白羊、小杉未醒たちによって創作版画の旗手となる美術雑誌『方寸』が 35 冊発行され『明星』を通じて交流のあった高村光太郎、北原白秋も寄稿しました。のちに『方寸』同人に北 原白秋などを加えた「パンの会」が結成されますが、山本鼎は石井柏亭の妹・光子との結婚を石井家から拒絶さ れたことをきっかけにフランスへ留学。フランスから機国後、北原白秋の妹・家子と結婚しています。 田端に芸術家が集まるきっかけを作ったといわれるのが、陶芸家 板谷波山です。東京美術学校で彫刻を学んだ板 谷は、卒業後、石川県立工業高校の彫刻科を担当するため金沢に赴任します。やがて彫刻科は廃止されますが、 板谷は窯業科の教師となり金沢に残りました。九谷、京都、瀬戸に出かけて精力的に陶芸を学ぶうち作陶にのめり こみ教員の職を辞して田端に上京。夫婦でレンガを運んで築いた窯は「夫婦窯」と呼ばれました。板谷を慕って明 治40 年に吉田三郎が東京美術学校に入学。近くに下宿して長く板谷家を支えました。それに続き田辺孝次、幸崎 伊次郎が上京すると、彼らを頼って明治43 年、金沢から室生犀星が田端にやってきます。 板谷波山の工房跡からポプラ坂を上がった田端児童館には、文士・芸術家が幅広く交流した「ポプラ倶楽部」があ りました。明治33 年田端に暮らし始めた画家 小杉未醒(放庵)は、版画家 吉田博のすすめで小山正太郎の太 平洋画会に加入しました。冒険小説『海底軍艦』などで人気を博した押川春浪はスポーツマンとして知られ、明治 41 年に雑誌『冒険世界』の口絵に小杉未醒を起用しました。やがて押川春浪を中心に早稲田OB のスポーツマン が参加して、小杉未醒、倉田白羊、針重敬喜たちが加わり天狗倶楽部を結成。ポプラ坂にテニスコートやビリヤー ドが場を建てました。コートの周囲のポプラから「ポプラ倶楽部」と名付けられます。テニスコートの向かいには山 本鼎が「東京版画倶楽部」の看板を出して版画の頒布会などを行い、その資金をもとにフランスへ留学しました。 明治の末、田端に暮らし始めた室生犀星は萩原朔太郎と共に「感情詩社」を設立し、雑誌『感情』を出版します。 大正5 年から32 冊を発行し、室生犀星は「叙情詩集」、萩原朔太郎は「月に吠える」によって世に認められました。 この時期になると農家が学生相手の下宿屋を営むようになり、下宿「大盛館」には『風立ちぬ』で知られる小説家 堀辰雄が暮らしました。金沢で私生児として育った室生犀星は、小学校をでてすぐに裁判所給仕として働き、文学 雑誌の投稿で詩の腕を磨き、上京してからは詩集や詩の作り方の本を自費出版することで、詩人としての地位を自ら 切り開いていきました。雑誌『感情』の制作費を捻出するため中央公論に持ち込んだのが処女小説『幼年時代』で、 収入の安定した室生犀星は60 坪の庭付き一戸建てに家族と暮らしながら、庭いじりに精をだしました。 ▲ 下宿「大盛館」があった通り。▼室生犀星が暮らしたあたり。 谷田川(藍染川)が暗渠になった谷田川通り周辺には、小杉未醒、室生犀星、萩原朔太郎はじめ、雑誌『感情』 の同人 多田不二、倉田白羊、竹久夢二、岡倉天心、小林秀雄、田河水泡、村山槐多、直木三十五など錚々たる面々 が暮らしています。通りに建つ田端区民センターは小杉未醒の住居跡で、大正3 年、小杉は山本鼎の従兄弟であ る村山槐多を預かり、『武侠世界』の仕事を紹介したり、日本美術院の研究生として絵画を学ばせています。「田端 の崖」は第1 回二科展入選作となりました。区民センターの図書館には「田端文士芸術村」コーナーがあり、ゆか りの作家の作品や作品集、北区が発行した『田端文士芸術家村調査報告』などが揃っています。 村山槐多「田端の崖」 1914 田端名物の赤紙不動は、東覚寺の門の前に立つ一対の仁王像で、古くから悪い所に赤紙を貼ると治るとされてきま した。瀧井孝作の代表作『無限抱擁』には肺結核に苦しむ妻の母が、赤紙不動に願掛けする様子が描かれています。 室生犀星は隣家の広瀬雄(府立三中校長)に19 歳の堀辰雄を紹介されます。室生犀星は大正13 年から、芥川 龍之介、堀辰雄、萩原朔太郎を連れて軽井沢に毎夏通うようになり、その経験から堀辰雄の代表作「聖家族」が 生まれました。金沢から上京した中野重治、窪川鶴次郎、高柳真三が堀辰雄たちに加わり、室生犀星の家に入り 浸るようになり、そこから同人誌『驢馬(ろば)』が生まれます。題字は文士の信頼が厚かった下島勲医師でした。 赤紙不動から狭い道に入っていくと「天然自笑軒」のあった通にでます。天然自笑軒は宮崎直次郎による高級会席 料理店で、政治家や実業家にまじり芥川龍之介もよく利用していました。芥川龍之介が田端に越したのは大正3 年。 東京帝大2 年生のときでした。養父が宮崎直次郎に田端の土地を紹介されたためといわれます。当時は富農家が 大半の土地を持っていたため、人の紹介で土地を借り、自前の家を建てていました。大正4 年に「羅生門」、5 年 に「鼻」、「芋粥」を発表し、大正7 年、塚本文子との結婚式は天然自笑軒であげています。ここから芥川家にあが る「上の坂」のところには、鍛金家 香取秀真の工房がありました。香取は板谷波山の盟友で正岡子規の根岸短歌 会に参加し、歌人の道を歩みました。田端文士芸術村のパトロンともいえる鹿嶋龍蔵は、香取をよく旅行に連れ出 していました。龍蔵は鹿島組2 代目鹿島岩蔵の長男で、グラスゴー大学で造船を学びました。父の死後は姉の婿 である鹿島精一が跡を継ぎ、龍蔵は精一を補佐しつつ、書、篆刻、歌、舞、長唄、常磐津、狂言、テニス、ス ケートと多趣味の人として知られました。集まりの費用は鹿島もちというのが文士・芸術村の決まりでした。 「上の坂」をあがったところの芥川家住居跡では、北区によっ て芥川龍之介記念館の建設が予定されています。書斎を「我鬼 窟」と名付けた龍之介は日曜を面会日として、ここに沢山の文 士が集いました。エッセイ「田端人」(大正14 年)の中で龍之 介は、主治医で歌人の下島勲、鍛金家で歌人の香取秀真、画 家でスポーツマンの小杉未醒、紳士的なパトロン鹿島龍蔵、そ して室生犀星との交友が、自己形成に大きな役割を果たしたこ とを振り返っています。東京生まれで裕福な養家に育ち文才にあ ふれた芥川龍之介と、単身、金沢から上京した室生犀星が出会 ったのは、日夏耿之介の出版記念会でした。翌年には室生犀 星が自費出版した『愛の詩集』の出版記念会に、雑誌『感情』 の吉田三郎、萩原朔太郎、恩地孝四郎たちにまじり、芥川龍 之介も出席しています。その後の二人は、互いの違いを認め合 いながら、唯一本音を言い合える関係を築いていきました。 芥川龍之介は大正12 年に書斎を増築し執筆への意欲を見せな がら、昭和2 年に自死しました。室生犀星はしばらく追悼文や 座談会の依頼を断り軽井沢にこもりました。 「芥川は、仮に宜い加減なものを書いてよいときさへ、その手綱 を弛めなかった。少しずつの読者を年々に緊めつけ年とともに和 を増やして行く。」と芥川龍之介を振り返っています。 参考文献:田端文士芸術村調査報告第4 集 『田端文士芸術村小史』内藤 淳一郎 著 Copyrigt ⓒ 2022 Shiong All rights reserved 無断転載・複写を禁じます 【 Web マガジン コラージは、オフィシャルサポーターの提供でお届けしています 】