コラージは下記オフィシャルサポーターの提供でお送りいたします
|
Colla:J について
|
定期配信のお申込み(無料)
|
オフィシャルサポーター
|
プライバシーポリシー
みんなちがってみんな山口
維新の志士〈萩〉 と 金子みすゞ 〈仙崎〉
https://collaj.jp/ 若夏 2024
この国のかたち
〈 萩 〉江戸時代から変わらない、古地図が今も使える町中国地方の大国 毛利家が日本海の小さな三角州に滅封されたのは
1600年代はじめのことでした。
関ヶ原の敗戦をきっかけに誕生した城下町〈 萩 〉
萩は阿武川下流の三角州に築かれた城下町です。築城のきっかけとなったのは。1600年関ヶ原の合戦でした。戦国時代、中国地方を制した毛利家当主・輝元は、豊臣五大老のひとりとして関ヶ原の合戦で西軍総大将を任されます。徳川家康と密約を交わし実際には出陣しなかかったものの、西軍の敗北によって120万石から37万石への滅封という重い処分をうけました。築城の候補地として山口、防府、萩を挙げますが、当時、地の果てともいえる萩の地に押し込められました。
▼江戸の古地図と今の地図を比べても、道路はほぼ変わりません。
阿武川が橋本川と松本川の 2つに分かれた三角州に、〈萩〉の城下町は築かれました。西側には萩城と上級家臣(家老など)が暮らした堀内(三の丸)、その外側に町人町、中間に寺町、萩往還沿いに宿場、そして川沿いに下級士族の屋敷が並んでいました。中央の低地は田畑に利用され、その真中に藩校「明倫館」があります。約 5万人の藩士を抱える長州藩にとっては狭い土地で、町人地や農地に比べ武家地の割合が多いことが古地図からも分かります。明治以降の公共施設や新市街は主に農地を利用して広がり、鉄道(山陰本線)が町中を通らなかったこともあり、古い城下町が残りました。城下町づくりは湿地帯の埋め立てからスタートします。日本海に突き出た指月山が築城の場に選ばれ、戦国時代を思わせる天然の要塞が築かれました。領国を4分の1、石高を3分の1に減らされ農民となって藩を支える下級武士もいました。そうした土壌から「倒幕」は長州藩の国是となります。不便な土地柄を逆手にとり、秘密裏の新田開発や下関の交易によって長州藩は徐々に富を蓄えます。
日本3大藩校のひとつ
明倫館
明倫館は長州藩の藩校として1718年に創建され、現代の萩中心地に移転したのは1849年、湿地にシダを敷き詰め地盤改良を行った約15000坪の敷地に約11000坪の建物を新築した大規模な藩校でした。幕末の長州藩は北前船交易などで 100万石規模の経済利益をあげ、教育に力をいれました。吉田松蔭はわずか 9歳で兵学師範に就任しています。昭和10年、明倫館跡地に木造 2階建ての明倫小学校が建てられました。梁間9.5m、桁行100mほど1、2階あわせて約 2000㎡の大規模木造校舎で、1階は簓子下見板張り2階は漆喰壁という城郭風のつくりでありながら、屋根は洋トラス組でフランス瓦を葺いています。いまは観光拠点「萩・明倫学舎」となり、世界遺産ビジターセンターや幕末ミュージアム、観光案内所、レストランのほかギャラリーとしても活用されています。この日は「手仕事の力」と題して、萩焼九郎房はじめ島根県松江市 火の川焼松江陶苑など 5窯元の展覧会が開かれていました。
Vol.59
原作:タカハシヨウイチ はら すみれ絵 : タカハシヨウイチわたしの背中に羽が生え
百花の蜜を吸いにいく
▼ 石碑「明治維新胎動之地」揮毫は佐藤栄作元首相。
萩城下町から松本川を渡った旧松本村には、1857年吉田松蔭がひらいた松下村塾があります。久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、吉田稔麿、山縣有朋など尊王攘夷や明治新政府の要人として活躍する若者たちが、ここで吉田松蔭の教えをうけました。2年足らずの間に松蔭は「草莽の民」である下級武士や農民に、別け隔てなくこの国が進む道を説き、一斉に立ち上がるべき時であると唱えます。松下村塾や松蔭の実家 杉家の建物は明治になっても大切に守られました。▲「花月楼」は 7代毛利重就の茶室を、松下村塾出身の品川弥二郎が自宅に移築し、松蔭神社に再移築されました。品川は明治維新を生きぬき新政府で農業振興に努めました。
明治 40年には伊藤博文たちの尽力で、松蔭神社が創建。吉田松蔭を主祭神として維新で活躍した 53柱を祀ります。松蔭は1830年、半農半士の武士杉百合之助の次男として生まれました。父は畑仕事をしながら「四書五経」を口移しで教え、6歳のとき松蔭は叔父 吉田大助家へ養子に出されます。吉田家は山鹿流兵学師範の家柄で、家督を継いだ幼い松陰は叔父の玉木文之進から厳しい教育を受け、11歳で藩主毛利慶親への御前講義を行い秀才の名をあげました。19歳で藩校明倫館の兵学師範となり、海防掛として異国船対策を任されます。1850年当時、各藩は近海に出没する外国船対策に追われていました。松蔭も長州藩沿岸をつぶさに観察し、九州平戸や肥後の海防論者を訪ね、旧来の兵器や兵法では異国に太刀打ちできないとの思いを強くします。
松陰の東北遊学
水戸藩の藩校「弘道館」。
藩主の参勤交代に同行し江戸に出た松蔭は、佐久間象山に師事して最新の西洋事情や洋式砲術を学ぶ一方、薩摩の宮部鼎蔵たちと東北旅行を企画し、藩の許可を得る前に出発してしまいます。この旅の成果は大きく、尊王攘夷(天皇を尊び、外国勢力を追いはらう)の本拠地である水戸に1カ月ほど滞在し、水戸学派の会沢正志斎と 6回も面会。会沢は『大日本史』を編纂し、水戸藩校「弘道館」の初代教授頭をつとめた人物で、1851年当時70歳でしたが、22歳の松蔭に酒を振る舞い談論を重ねました。会沢の『新論』は欧米への危機感をもとに、上巻は古事記など「国体」、下巻は海防を解説しています。松蔭は『新論』を実父から暗唱させられていたので、その著者と出会った感激は想像できます。
勝手に江戸を出た罪で松蔭は浪人となりますが、実父の杉家に戻り日本書紀 30巻、続日本書紀 40巻を通読。「皇国の皇国たるを知らずんば、何を以て天地に立たん」という思いを強くします。西洋列強から国を守るには、徳川幕府と諸藩、士農工商といった区別なく国が一体となるべしと考えた松陰は、藩主毛利敬親から10年間の遊学を許されると 2度目の江戸へ出向き、佐久間象山と浦賀のペリー艦隊(黒船)を目の当たりにするのです。
吉田松陰の実父、杉百合之助の家は、江戸時代から変わらずこの場所に建っています。
黒船の浦賀来航から半年後、ペリーの再来航によって日米和親条約が結ばれます。開港された下田に向かった松蔭と弟子の金子重輔は、1854年 3月、下田港弁天島沖に停泊する黒船に小舟で向かい旗艦ポーハタン号に乗船。「合衆国に連れて行って欲しい」と嘆願しますが、和親条約を結んだばかりのペリーは諍いをさけ、2人を福浦の港に戻しました。
伊豆下田・蓮台寺温泉には、皮膚病を患った松蔭が入っ
た共同温泉や松蔭が隠れた医師・村山行馬郎の家(吉田
松蔭寓寄処)があります。深夜、村人の温泉に入ってい
た松蔭を咎めた村山でしたが、松蔭の憂国の思いを聴き、
彼らを自宅の 2階に匿います。しかし密航に失敗した松
蔭たちは下田奉行所に出頭し、江戸小伝馬町の牢屋敷に
送られました。本来なら死罪でしたが、老中阿部正弘の
計らいで国許預けになり、萩 野山獄に移されます。「海外を知りたい」という松陰の思いは、長州からロンド
ン留学を果たした長州ファイブ(井上馨、遠藤謹助、山
尾庸三、伊藤博文、井上勝)に受け継がれました。野山獄に入れられた松蔭は囚人を相手に「孟子」の講義をはじめ『講孟余話』にまとめました。この経験が松下村塾へとつながっていきます。野山獄を出た松蔭は、杉家で「孟子」の講義を続けますが、聴講生が増えたため屋敷の隣に小さな建物を建てます。そして叔父 玉木文之進がひらいていた塾の名を継ぎ、松下村塾と名付けました。
松下村塾の門
身分を問わない松蔭のもとには農民、町人、博徒までが入門し、200人を超えて外に人が溢れました。師の言葉に従う一方的な教育ではなく、塾生同士の活発な議論が奨励されました。
松蔭は塾生達に、自らが思う新しい国のかたちを伝えます。
『講孟余話』のなかで松蔭は、宇宙の原理には特殊と普通の 2種類があり、日本の「国体」には「万葉一統,君臣一体,忠孝一致」という、他国には見られない特殊な要素があると訴えました。万葉一統は大和朝廷から今日まで天照大御神の子孫である皇統が続いていること、君臣一体とは主君と臣下が一体となり裏切ることがないこと、忠孝一致とは主君に忠節を尽くすことと、親に孝行を尽くすこととが同じであるといった考えです。これを欧米列強から守るのが尊王攘夷であり、皇王のもとでは全ての臣民が平等であると松蔭は唱え、多くの若者の心を捉えました。松下村塾の双璧と言われた久坂玄瑞、高杉晋作はじめ、伊藤博文、吉田稔麿、入江九一、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、渡辺蒿蔵、河北義次郎などが入塾し、なかには藩校明倫館から松下村塾に移る上級武士の子もいました。多くの若者が維新の動乱で命を落としますが、明治まで生き延びた伊藤博文、山縣有朋は総理大臣となり、司法大臣 山田顕義、内務大臣 野村靖、品川弥二郎など政府要人が次々に生まれます。吉田松蔭は幕府が結んだ不平等条約に反対するよう長州藩に提案しますが、態度を決めかねる藩にしびれを切らし江戸幕府の老中間部詮勝暗殺を企てます。それを知った藩は松蔭を野山獄に投獄し、塾は自然消滅しました。
心・体・思考の健康をデザインする
27時間目
写真&文
大吉朋子
とっておきの休み時間
「5」つくる、ということ。
「5」は Physicalbodyの数字。身体のエネルギーそのものと、身体から放たれるエネルギー全体をさし、強い身体、規律、活動的な身体、経験、先生(自身の経験から教える人)、犠牲を払う能力、スター(表現者)、変化、バランス、ものづくり、などの要素があります。5月生まれ、5日、14日、23日生まれの方は特に意識すると良い数字です。
私にとって、ヨガ数秘学でいう「5」は一番自分にしっくりくる数字で、(私は14日生まれ)なんとなくイメージしていた自分自身の性質に、数字の要素がぴたりとハマったという感じでしょうか。
「5の人」は動くことに抵抗がなく、じっとしている方がかえって落ち着かない。いつも活動的で、結果がどうあれ何ごとも「経験」として捉え、それを糧に次の経験へとつないでいく。アクティブでポジティブ。どんどんギアをあげて元気に動きまわる、という性質を持つ人たちです。また、「5」は″ものづくり″の数字でもあります。「つくる」という行為は身体を使って行うことから、そのように表します。
2024年4月5日.5月6日に開催されていた上野雄次展@粟津邸 「AWAZU HOUSEに生ける」にて。
上野雄次展@粟津邸 「AWAZU HOUSEに生ける」にて。
先月号で紹介された川崎市にある「粟津潔邸」。4月.5月初旬、華道家・上野雄次さんの展覧会が開催されていました。【粟津邸に生ける】というテーマで、なんと毎週作品が更新されていたそうです。各部屋の空間にあわせて花が生けられ、それらはいわゆる”生け花”とイメージするものとはまったく異なるインパクトのある世界。草花がみずみずしく佇む、一期一会の粟津邸に咲くアートでした。
空間の特性をいかした「花生け」は、プリミティブな彫刻や自然の流木、粟津潔氏の彫刻などとともに作られ、異質なものどうしが気持ち良いほどに融合し、この季節ならではの草花には移ろう季節が映し出され、自然のいとなみを無意識のうちに味わって受け取っているような、なんとも素敵なのです。自然の生業と人の創作の調和は実に独創的。そして、空間と響き合う花々の世界は、花の可憐な魅力もさることながら、作り手のどこまでも柔軟に広がる自由な創造の世界と、それを目の当たりにしているという実感が、なにより感激でした。心の奥深いところにある、忘れていた(かもしれない)感覚がじわじわと湧き上がってくるような、大事なものを思いおこす時間となりました。
つくる人、つくることは尊い。
生であることの尊さ、自然に抗わず受け入れ委ねることの尊さ、曇りのない心と目で見据える先に広がる美しい世界の尊さ。つくることを生業にするものの端くれとして、手放してはならない感受性を呼び覚まさねば ………
目を背けたくなるシーンが溢れる世界である一方、心に刻みたい瞬間もたくさんあるこの世界。現実的な事象を見据えながらも、美しい創造の世界を味わうことを大事にしようと、あらためて思った時間。年を重ねるほど、純粋さがなんだか霞んで、理屈や知識などが優勢になってしまうものですから。
木戸孝允旧邸
萩城外堀に面した菊屋横町周辺は、武家と町人の屋敷が入り混じった地域で、維新の三傑木戸孝允(桂小五郎)や高杉晋作の旧邸が残されています。近くには明治の大実業家藤田傳三郎の生家藤田家(醸造業)もありました。藤田は高杉晋作に師事し奇兵隊に属していたとも伝わりますが、木戸孝允、井上馨、山縣有朋などとの交流が、明治維新後の事業を発展させることになります。一方、吉田松蔭の杉家や伊藤博文、吉田稔麿(としまろ)、品川弥二郎、松浦松洞の生家は、東側の松本川を越えた旧松本村にあり半農半士の暮らしをしていました。尊王攘夷は上級・下級武士の垣根を取り払って行われたのです。1859年、吉田松蔭は幕府に呼び出され、萩の野山獄から江戸の伝馬町牢屋敷に移されます。松蔭を呼んだのは、安政の大獄によって捕縛された梅田雲兵のことを聞くためでしたが、松陰は老中間部詮勝の暗殺計画を自ら明かしたことで死罪となり、その遺志は、松下村塾の双璧といわれた高杉晋作や久坂玄瑞に受け継がれていきます。高杉晋作は菊屋横町の家禄 200石の上級士族高杉小忠太家に生まれました。旧邸の座敷や次の間、居間、玄関、台所、井戸などが公開されています。1862年、藩命で上海を視察した高杉は、アヘンが蔓延し欧米の植民地になりつつある清国の姿に衝撃を受け、命をかけて日本の属国化を防ぐことを決意します。高杉は過激な攘夷に邁進し、1862年には品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ち事件を起こします。1863年、長州藩は下関の関門海峡(馬関海峡)を封鎖して外国船への砲撃を行いますが、フランス陸戦隊に砲台を占拠されてしまいました。攘夷にはより強力な武器と軍隊が必要と感じた高杉は廻船問屋白石正一郎の助力をえて、
「奇兵隊」を結成。士農工商の垣根なく志願兵を募りました。この異例の民兵集団は、清国で見聞した太平天国の乱(多くの農民が参加)がヒントになったとも言われます。1864年には英・米・仏・蘭の連合艦隊が下関を再び襲撃し、長州軍と共に奇兵隊 2千人も戦います。奇兵隊軍監の山縣有朋は砲台を破壊されながら果敢に戦いますが、圧倒的武力の前に敗戦し多額の賠償金を求められます。馬関戦争の停戦協議の際、高杉晋作はイギリスの旗艦ユーリアラス号に、萌黄色の鎧直垂、赤い陣羽織、金色の軍扇という派手な出で立ちで表れ、アーネスト・サトウに「魔王のようだ」といわせます。欧米が賠償金を求めると、攘夷は江戸幕府の命令であるから幕府に請求せよと答え、関門海峡彦島の租借を求められると古事記を突然暗唱して相手を惑わし、神々の島であるからと断りました。通訳として同行した伊藤博文は後日「高杉晋作が居なければ彦島は香港のような租借地になっていただろう」と語ったといわれます。
夏みかんが守った
萩城の堀内
萩城に近い堀内は、堀内地区伝統的建造物群保存地区に指定され、江戸時代にタイムスリップしたような古い土
塀がつづきます。堀内には毛利家をはじめ老中などの屋敷が並んでいました。
1863年、長州藩の藩庁は山口に移り広い武家屋敷は無用のものになりますが、土塀のつづく景観は「夏みかん」によって守られました。藩の職を失った藩士のために、元福岡知事の小幡高政が夏みかんの栽培を奨励。塀に囲まれた武家屋敷を夏みかん畑に変えていきます。明治のはじめ夏みかんは高価で取引され、元藩士の生活を支えました。
天樹院墓所に眠る萩城にちかい天樹院墓所には、長州藩の藩祖毛利輝元と夫人が眠っています。もとは隠居所四本松邸があったところで、輝元の
毛利輝元
死後に天樹院が建てられましたが、明治 2年廃寺となりました。
吉田松陰の尊王攘夷思想は塾生たちに受け継がれ、長年の世襲制度によって弱体化した幕藩体制を崩壊させて、明治維新後の日本をかたちづくっていきました。奇兵隊の山縣有朋は日本陸軍を創設して、日清・日露戦争を戦います。吉田松陰は野間獄で書いた『幽囚録』で、国をよく保つには領土を増やすべきで、急いで軍備を整え北海道を拠点としてカムチャッカ半島をとり、琉球国から朝鮮半島に圧力をかけ徴税を行い、北は満州から南は台湾、ルソンを治め、住民を大切にして国土を養い、辺境の守りに気を配ることが必要と訴えています。この言葉どおり日本は、太平洋戦争敗戦までの 90年間に幾多の戦争を繰り返しました。萩に鉄道(山陰本線)が通ったのは大正 14年。日本の鉄道の父と呼ばれる長州ファイブのひとり井上勝は、明治 5年、新橋〜横浜間に日本初の鉄道を開通させますが、その故郷に鉄路が敷かれたのは半世紀後のことでした。
「月にはウサギさんがいる」そんな言い伝えを子供の頃から聞か
されてきました。毎年旧暦8月
日頃になると母は、窓辺にスス
キや「月兎」のようなおまんじゅうなどを用意して「お月見」を演出するのが常でした。菖蒲湯(しょうぶゆ)や、柚子湯(ゆずゆ)なども必ず行なう人だったので、こうしたしきたりがもたらす季節感は、今も思い出として心に刻まれています。
ところで、中秋に満月を眺めて祝うという習慣は、中国から伝わったもの。あちらでは中秋に月餅(げっぺい)を食べるというしきたりがあります。かつて米国のオクラホマで、ボート・ピープルのひとりとして米国に受け入れられた中国系ベトナム人にインタビューをしたことがあります。彼女は既に故国を離れて長いのに近隣に住む同胞と共に「中秋の月餅」のしきたりを続けていて、子供たちにもその意義を教えていると言っていました。民族の記憶はこうして時空を越えて伝えられていく、その思いを深くしました。
「月にはウサギさんがいる」。この伝説は中国から日本に伝わったものです。ただ、わが国では「月でウサギさんが杵と臼でお餅をついている」ということになっている。なぜ中国とは違って「兎さんが月で餅つき」をしているのか。一説によれば、わが国では「満月」を古く「望月(もちづき)」と呼んだところから来ているとのこと。一種の語呂合わせですね。いずれにしても、古来、中国文化の影響を受けた東アジアの地域では、多少のヴァリエーションを含みつつも、「月の兎伝説」は広く普及しているに違いありません。
では本家中国では、いかにして「月に兎」伝説が生まれたのでしょうか。なかなか興味深い背景があるのですが、長くなるのでここでは省略。詳しくは、ウィキペディアでご確認下さい。いずれにしても、「月の兎」は古代中国を発信源とする極めて東洋的な伝説なのだと、つい先日まで思い込んでいました。
ところが、です。驚いたことに、思いも寄らない地域で、「月に兎」伝説が語られ続けてきたことを最近知りました。場所は中
南米、現在のメキシコを中心に栄えたアステカ文明(
世紀初頭)に、「月の兎」神話が残されているのです。これは「当然」中国の伝説とは全く別の話です。というよりも、南北アメリカ大陸はコロンブス以前、他の地域(世界)との関係(交流)が
15
14
世紀〜
16
アグン(
ほとんど存在していません。長らく他の大陸とは隔絶した巨大な島のような存在だったのです。だから、コロンブス以前は、南北アメリカに特有の様々な植物、たとえばトウモロコシ・トマト・サツマイモ・キャッサバなどは、欧州はもちろんアジアやアフリカでも全く知られていませんでした。
ただ、数万年前にベーリング海峡が海峡になる以前、現在のロシアの最東端と北米アラスカの最西端が陸続きだった時代に、ユーラシア側から北米に民族の移動があったことは間違いないといわれています。だから南北アメリカの先住民は、我々中華モンゴロイド系に外見が似ているわけです。
で、アステカ神話でも「月に兎」がいる。しかも、「アステカでいかにして月が誕生したのか」というお話の成り立ちが、一部古代中国の言い伝えに似ている部分があるのです。これには驚かざるを得ません。まさか、源は一緒?しかし、ベ
ーリング海峡の両側に分かれ住むようになって何万年も経つのに、同じ話が両側で語り継がれ続ける、などということがあり得るのでしょうか。様々な仮説が出されていそうなので、更に調べてみたいと思っています。
このアステカ神話での「月の兎」、写真の画像を御覧ください。これは、スペイン人宣教師で、メキシコで先住民の有力者の子弟にスペイン語とラテン語を教えていたベルナルディーノ・デ・サ
Bernardino de Sahag.n
、1499頃〜
1590)が、先住民の協力のもとに数十年の歳月を掛けて完成させたアステカ人とその文化の百科全書的書物の、ある写本に掲載されているものです。わが国や中国の「月の兎さん」とは、かな
りイメージが違っています。なんとも野生のウサギっぽい感じで、とても「月兎」のような可愛らしいお菓子が誕生する源になるとは思えません。
別の画像、頭の大きな男が座っている絵。こちらは別の写本に出ている、アステカ神話で月の誕生に重要な役割を果たした神テクシステカティの像です。この絵に至っては、もはやわが国の文化には似たものがおそらく存在しない、という感じです。まさに異国の文化そのもの。でも、こうしたイメージの違いを越えて、お月さまが誕生するにあたって中国とアステカの神話で語られる、その成り立ちの神話には重要な部分で類似点があるのです。
この興味深い絵が掲載されているサアグンの写本と出会ったのは、トウモロコシの歴史を調べていたときのことです。現在世界中で栽培されているトウモロコシですが、その栽培の様子を描いた世界最古の画像のひとつ、それがここに写真を掲載した、この写本の一連の絵なのです。南北アメリカの先住民を除いては、
アステカの神テクシステカティサアグンの写本から「月の兎」。
世界の誰一人トウモロコシを見たこともなかった時代に、こうしてトウモロコシが栽培されていた。その様子が描かれている極めて貴重な絵です。写本にはこれ以外にもトウモロコシ関連の絵がいろいろ掲載されています。アステカにとってトウモロコシがいかに重要な食用植物であったのかということが、このことから
だけでも容易に想像できます。
もうひとつ、トウモロコシの中から神様が誕生する様を写した立体像の写真を御覧ください。こちらもメキシコで発掘された土像ですが、アステカではなく、それよりも500年以上前に栄えていたマヤ文明のカンペチェ遺跡から発掘されたものとのこと。像の制作年代は西暦7〜9世紀頃と推定されています。何となく、ヴィーナスの誕生みたいですね。
最後にもうひとつ、同じマヤ文明の「トウモロコシの神」とされる色彩豊かな
像の写真を。これ、衣装が凄いですね。トウモロコシ2本を掴んだ左手を顔の脇に掲げています。下げた右手にはヘビが巻き付いています。頭の飾りや体を覆う様々な装飾品は、金と思われる金属や貴石や美しい布地で作られている。ある意味で極めて写実的な像で、実際にこうした衣装をまとった神官もしくは王様が、神にトウモロコシの豊穣を祈る儀式を行っていたのではないでしょうか。
このようなマヤやアステカの絵や立体像を見ていると、人々の食と神の関わりが密接不可分の関係にあったことが伝わってきます。今私達はこうした心の持ち方をすっかり忘れてしまっています。現代の日本に生きる私達は、「命の危機を感じるほどの飢餓」を知りません。おそらくそのためでしょう、あまりにも「食」を即物的に捉えすぎているような気がします。柄にもなく、そんなことに思い至ってしまう、月の兎とトウモロコシの逸話のご紹介でした。
サアグンの写本から、トウモロコシの種まき、手入れ、収穫、神殿に奉納する儀式、壺に保存する所などが詳細に描かれている。
トウモロコシから誕生する神像と、色彩豊かなトウモロコシの神像。
江戸時代の暮らしがのこる
藍場川
藍場川は1717年頃に開削された人工の掘割で、6代藩主毛利宗広が岡山城下の運河を見て開発したといわれます。1744年には川船が通れるように拡張され、市街地の東側から西側へ流れる約 2.6kmが完成。300年以上にわたり、川に石橋をかけた暮らしを続けています。塀から三角形に突き出た壁の内側は「ハトバ」と呼ばれる水場になっています。
川に降りる小さなハトバでは、野菜の泥を落としたり、洗濯をしました。川船を通すため橋は太鼓状でしたが、今は平らな橋が並んでいます。
▲ 2886日にわたり総理大臣をつとめた桂太郎の旧邸。
藍場川の水は、阿武川が松本川と橋本川に分かれる太鼓湾から引かれています。旧湯川家屋敷は藍場川上流に建つ武家屋敷で、23石という小さな武家ながら池泉庭園や茶室など、萩藩士の暮らしぶりを今につたえています。
湯川家では屋内に藍場川の水を引き込んだハトバを見られます。土間から石段でハトバへ降りられるようになっていて、川とは竹の格子で仕切られていました。洗い物を乾かす棚があり、夏場は涼しく過ごせるそうです。
池泉庭園には藍場川の水がとり入れられ、池の水は屋内のハトバを通り川に還るようになっています。庭には茶道の待ち合いが設けられ、母屋には茶室があります。萩焼の産地であるだけに、古くから茶道や華道が盛んなようです。茶室から庭の景色を楽しめます。松下村塾出身の山縣有朋は、京都「無鄰菴」、東京目白台「椿山荘」など、川や湧き水を利用した池泉庭園をつくり、特に水の流れに気を配ったといわれます。故郷の庭に心を寄せたのでしょうか。
金谷天満宮
さわやかな初夏の日差しが生きものたちへ活力を与えてくれる五月。行く春を惜しむ一方、少しづつ春雨模様らしきも近づき、心と身体は夏の準備をはじめてるかのようだ。ただ、極端な天候の影響による野菜不足が世界的に起きてしまい、食品全般にいえることだが値段の倍増ぶりには驚嘆の言葉しかない・・・・
このままでは財布の紐を開かせるのはむずかしいでしょうね〜 実のところ、人それぞれ知恵を絞りながらの節約術に支えられているんじゃないかしら?
エネルギー消費や環境問題についてもこんな経済状況では、息苦しくなるばかりって感じがしてならぬ。
行き場を求める若者や観光客が交錯する渋谷で体感した話をひとつ上げてみよう。スクランブルスクエアでは地下階の電車利用と一階ショップでの買い物利用数回だけであった。
その48
青山かすみ
一度くらいは上層階のレストランを試してみるのもよいかと、いざ奥のエレベーター乗り場へ。そこに居た警備員さんいわく、「エレベーターを待つよりエスカレーターで上がるほうが早いので」と来る人達に誘導しているではないか!! 仕方なくエスカレーター乗り場の列に並びました。
各階のショップは小ぶりなテナントばかりで構成され、カフェや休憩所などもギュウギュウ詰め。缶詰じゃあるまいし、高齢者にはいたたまれませんでしたね。まぁそれでも人が集って、レストラン階は大入りの大盛況を呈しているのですから万々歳よね。
兎にも角にもいい勉強させてもらいましたが、あのエスカレータだけはもう乗ることはないでしょう。世界的に便利になりすぎたがゆえ、こんな風に息詰まる世の中が待ち受けてたなんて皮肉よね。あれもこれも自業自得。痛い目に遭わないとわからない。
そういう時代に突入したんでしょう。渋谷駅周辺同様、我が棲家青山表参道周辺を見回してもますます高齢者が住みにくくなって久しい。都心から年寄りを追い出そうとしている?まさか、その一環が都心での羽田便低空飛行計画だった?高齢者や社会的弱者、小さき命を守れなければ豊かな国とはいえないんじゃない? 今こそ生きる意味の原点に立戻り、自分自身へ問うてみようよ。
金子みすゞの仙崎
萩市の隣、長門市へ。仙崎は、海流で運ばれた砂がくちばしのような形に堆積した、砂嘴(さし)と呼ばれる砂地につくられた町です。古くから漁業や海運で栄えてきました。
王子山
公園になるので植えられた、桜はみんな枯れたけど、
伐られた雑木の切株にゃ、みんな芽が出た、芽が伸びた。
木の間に光る銀の海、わたしの町はそのなかに、龍宮みたいに浮んでる。
銀の瓦と石垣と、夢のようにも、霞んでる。
王子山から町見れば、わたしは町が好きになる。
干鰮のにおいもここへは来ない。わかい芽立ちの香がするばかり。
『金子みすゞ童謡全集』発行・J U L A出版局発売・フレーベル館
星とたんぽぽ
青いお空の底ふかく、 海の小石のそのやうに、 夜がくるまで沈んでる、 昼のお星は眼にみえぬ。 見えぬけれどもあるんだよ、 見えぬものでもあるんだよ。
散つてすがれたたんぽぽの、 瓦のすきに、だァまつて、 春のくるまでかくれてる、 つよいその根は眼にみえぬ。 見えぬけれどもあるんだよ、 見えぬものでもあるんだよ。
『金子みすゞ童謡全集』発行・J U L A出版局発売・フレーベル館
かつてはクジラ漁やイワシ漁でにぎわった仙崎港。いまも山口県第2位の漁港として、イカ、アジ、ウニ、アワビなどで知られエソを使った蒲鉾も有名です。漁港の向かいには金子みすゞが愛したといわれる八阪神社(祇園社)があります。
祇園社
はらはら松の葉が落ちる、お宮の秋はさみしいな。
のぞきの唄よ瓦斯の灯よ、赤い帯した肉桂よ。
いまはこわれた氷屋に、さらさら秋風ふくばかり。
『金子みすゞ童謡全集』発行・J U L A出版局発売・フレーベル館
蜂と神さま
蜂はお花のなかに、お花はお庭のなかに、お庭は土塀のなかに、土塀は町のなかに、町は日本のなかに、日本は世界のなかに、世界は神さまのなかに。
そうして、そうして、神さまは、小ちゃな蜂のなかに。
『金子みすゞ童謡全集』発行・J U L A出版局発売・フレーベル館
八重桜が美しい極楽寺を、金子みすゞは詩の中に描いています。信仰の厚い仙崎には、浄土宗、浄土真宗、法華宗寺院がメインストリートに並び、金子みすゞの墓所は遍照寺にあります。
昭和40年に青海大橋が完成するまで、青海島(おおみじま)との交通手段は渡し船でした。金子みすゞが「瀬戸の雨」をうたった頃は、手漕ぎの舟が行き来していました。
7月 7日(日 )まで、東京駅八重洲口近く、アーティゾン美術館で開催中の「ブランクーシ本質を象る」展に行ってきました。日本初の大規模展ということもあり、初期から後半期の彫刻作品約 20点と、デュシャン、モディリアニ、イサム・ノグチなど関係の深い作家の作品も並べる力の入れようでした。
ブランクーシは1876年ルーマニアに生まれ、ロダンのアトリエ助手としてパリに招かれるも、アフリカの彫刻にも通じる独自の形体を開拓。同時代の作家に大きな影響を与え、その朴訥な人柄も愛されました。べつに常設展には青木繁「海の幸」はじめ中村彝、松本竣介の作品も見られ、お腹いっぱいになりました。渡し船の波止場の近くに「日本近代式捕鯨発祥の地」の看板が立っています。明治32年仙崎で創業した日本遠洋漁業㈱が日本ではじめて近代式捕鯨を手掛け、日本水産㈱のルーツとなりました。近代式捕鯨は、捕鯨砲によって鯨をとるノルウェー式捕鯨法です。それ以前の日本の捕鯨は、鯨網や銛をつかう古式捕鯨で行われ、頭数も限られたものでした。青海島には鯨の子に戒名をつけてとむらう鯨墓があり、いまも毎年法要が行われています。
鯨捕り
海の鳴る夜は冬の夜は、栗を焼き焼き聴きました。
むかし、むかしの鯨捕り、ここのこの海、紫津が浦。
海は荒海、時季は冬、風に狂うは雪の花、雪と飛び交う銛の縄。
岩も礫もむらさきの、常は水さへむらさきの、岸さへ朱に染むという。
厚いどてらの重ね着で、舟の舳に見て立って、鯨弱ればたちまちに、ぱっと脱ぎすて素っ裸さかまく波におどり込む、むかし、むかしの漁夫たちーきいてる胸もおどります。
いまは鯨はもう寄らぬ、浦は貧乏になりました。
海は鳴ります。冬の夜を、おはなしすむと、気がつくとー
『金子みすゞ童謡全集』発行・J U L A出版局発売・フレーベル館
みそはぎ
ながれの岸のみそはぎは、誰も知らない花でした。
ながれの水ははるばると、とおくの海へゆきました。
大きな、大きな、大海で、小さな、小さな、一しずく、誰も、知らないみそはぎを、いつもおもって居りました。
それは、さみしいみそはぎの、花からこぼれた露でした。
『金子みすゞ童謡全集』発行・J U L A出版局発売・フレーベル館
象の鼻
むうく、むうく山の上、巨きな象が白い。
むうく、むうく空に、象の鼻が伸びる。
水いろ空に、 失くした牙が しィろくほそく。
むうく、むうく鼻が、伸びても伸びても遠い。
とどかぬままに、灰いろに暮れて、
しづかな空に、 とれない牙は、 いよいよしろく。
『金子みすゞ童謡全集』発行・J U L A出版局発売・フレーベル館
花のたましい
散ったお花のたましいは、み仏さまの花ぞのに、ひとつ残らずうまれるの。
だって、お花はやさしくて、おてんとさまが呼ぶときに、ぱっとひらいて、ほほえんで、蝶々にあまい蜜をやり、人にゃ匂いをみなくれて、
風がおいでとよぶときに、やはりすなおについてゆき、
なきがらさえも、ままごとの御飯になってくれるから。
『金子みすゞ童謡全集』発行・J U L A出版局発売・フレーベル館
角の乾物屋のーわがもとの家、まことにかくありきー
角の乾物屋の塩俵、日ざしがかっきりもう斜。
二軒目の空屋の空俵、捨て犬ころころもぐれてる。
三軒目の酒屋の炭俵、山から来た馬いま飼葉。
四軒目の本屋の看板の、かげから私はながめてた。
『金子みすゞ童謡全集』発行・J U L A出版局発売・フレーベル館
金子みすゞが幼少を過ごした金子文英堂跡地は「金子みすゞ記念館」になっています。金子文英堂は金子みすゞの家が営んでいた書店で、その様子が再現されています。
私
どこにだって私がいるの、私のほかに、私がいるの。
通りじゃ店の硝子のなかに、うちへ帰れば時計のなかに。
お台所じゃお盆にいるし、雨のふる日は、路にまでいるの。
けれでもなぜか、いつ見ても、お空にゃ決していないのよ。
『金子みすゞ童謡全集』発行・J U L A出版局発売・フレーベル館
こだまでしょうか
「遊ぼう」っていうと「遊ぼう」っていう。
「馬鹿」っていうと「馬鹿」っていう。
「もう遊ばない」っていうと「遊ばない」っていう。
そうして、あとで さみしくなって、
「ごめんね」っていうと「ごめんね」っていう。
こだまでしょうか、 いいえ、誰でも。
『金子みすゞ童謡全集』発行・J U L A出版局発売・フレーベル館
おさかな
海の魚はかわいそう。
お米は人につくられる、 牛は牧場で飼われてる、鯉もお池で麩を貰う。
けれども海のおさかなは、なんにも世話にならないし、いたずらひとつしないのに、こうして私に食べられる。
ほんとに魚はかわいそう。
『金子みすゞ童謡全集』発行・J U L A出版局
発売・フレーベル館
長門の豊かな食材や情報、遊びを提供するセンザキッチン。
魚売りの小母さんに
魚売りさん、あっち向いてね、いま、あたし、花を挿すのよ、さくらの花を。
だって小母さん、あなたの髪にゃ、花かんざしも星のよなピンも、なんにもないもの、さびしいもの。
ほうら、小母さん、あなたの髪に、あのお芝居のお姫さまの、かんざしよりかきれいな花が、山のさくらが咲きました。
魚売りさん、こっち向いてね、いま、あたし、花を挿したの、さくらの花を。
『金子みすゞ童謡全集』発行・J U L A出版局発売・フレーベル館
大正12年から約5年間、西條八十が選者をつとめた雑誌『童謡』を中心に、90編以上の投稿詩が掲載され「若き童謡詩人中の巨星」として注目された金子みすゞ。愛娘を守るため26歳の若さで命をたったみすゞの直筆遺稿は、実弟・上山雅輔氏(劇作家劇団若草創始者)に託され、約500編が矢崎節夫氏によって全集として出版されました。母みすゞが身命を賭して守った上村ふさえさんは、95歳の天寿を全うされました(2022年没)。
巡礼
菜種の花の咲いたころ、浜街道で行きあった、巡礼の子はなぜ来ない。
私はわるいことしたの、あのとき、お金は持ってたの、あねさま三つも買えるほど。
そのあねさまも買わないで、思い出しては待ってるに、
秋のひよりの街道には、やんまとんぼのかげばかり。
『金子みすゞ童謡全集』発行・J U L A出版局発売・フレーベル館
【 Webマガジン コラージは、オフィシャルサポーターの提供でお届けしています 】