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石垣島 白保と西表の海 https://collaj.jp/ 豊年祭 2024 壁面にぶらさがるオブジェはアキタマイさんの作品。 第二回 窓計画展 神戸中華街 建築家 石山修武さんの呼びかけにより、2023年滋賀県立美術館からはじまった「窓計画展」。今年は滋賀と神戸の 2会場で 6〜7月にかけて開催されました。神戸会場の様子をレポートします。 神戸会場では作品を販売するため値段が付けられました。 神戸会場は神戸中華街の真ん中、観光客が多く集まる南京町広場の近くでした。入口で睨みをきかせるのは石山修武さん作「囚人」。小さな檻に閉じ込められ宙に浮かぶイメージです。「窓計画」には、建築家、彫刻家、アーティスト、工務店経営者など 50名ほどが「窓は大きな壁を開く媒体であろう」の想いをもって協働しています。 5階 神戸会場には、西日本の作家約 20名が参加しました。広島にアトリエをかまえる木本一之さんは、全て新作の球のオブジェ、椅子のようなオブジェ、オブジェのような椅子を出展(展覧会全体テーマのひとつに「椅子」があります)。建築家光嶋裕介さんとチームを組み、展覧会に向けた打ち合わせを重ねるうちに「創作の闘争本能」を掻き立てられたそうです。会場は 5フロアに分かれていて、各フロアの作品と対峙するさまはブルース・リー『死亡遊戯』を彷彿とさせます。 九州大学の岩元真明さん、荒木美香さんによる「開空率のスタディ」は、オーゼテ 古材、杉、土木用フェルトをガイロープとターィックという幾何学パターンの金属板をドーム状に変形させ、多孔質の曲面構造を ンバックルで束ねたソファは、木内俊克さん、つくりだしました。日射の入り方をコントロールして、温室に応用するそうです。岩田裕里さん(SUNAKUI Inc.)の作品(制作協力 KYOTO Design Lab)。 4階 「開空率のスタディ」 高木正三郎さん(建築巧房)は、丸太の背板を使った椅子、棚、照明などを出展。背板は製材時にでる丸い部分でチップにされてしまうことから、高木さんはそれを利用した家具、プランター、カウンターなど様々なものに活用する研究を続けています。 背板を使った家具やランプシェード ▲ 中田義成さん(神戸 中田工務店)の「円窓」。 ▼ 幸家大郎さんの「積層するバラ板に埋まる椅子」。 3階には芦澤竜一さんの椅子「森のかけら」、中田義成さんの「円窓」、幸家大郎さんの「マツルマド」「積層するバラ板に埋まる椅子」といった、天然木の特性をひきだした意欲作が並びました。 ▲ ラックスマン・バズラ ラマさんの作品。▼木本一之さんの小作を一点購入。 ラスボスともいえる石山修武さんの作品群。木の塊から削り出された椅子、ドローイング、彫刻など挑発的な作品が並びます。神戸中華街の小さなビルの中に、つわものどもがひしめき合い、その圧力が大きな窓をこじ開けそうなパワーあふれる展示会でした。今後は東京・大谷美術館(旧古河邸)での東西合同展も企画されているそうです。 ドラゴンシリーズ 117 ドラゴンへの道編吉田龍太郎( TIME & STYLE ) 遠くに漂う内なる感情 世界の各地を巡りながら、その土地の空気と時代の流れを感じ、そこに日々暮らす人々の風景を眺めることでしか知ることができないことが多く存在する。 東京でも、少し場所を変えるだけで随分と違う人々の暮らしが存在し、新鮮な街並みの景色に誘われることがあるように、異国への短い訪問でも、これまでに訪れたことのない国や街に足を踏み入れることでしか感じ取れない空気の気配や人々の生活の息吹がある。それは前向きな印象だけでなく、イメージや先入観に反する出来事も待っている。一度訪れたことがある場所でも、時が経過すれば過去と同じ印象に出会うことはほとんどないだろう。街も国も刻々と変化し、人々の気持ちも日々変化する中で、自分がその街の人々とどう接するかは常に未知だ。その場所と人々の深い部分を少しでも理解し、共に何かを創造しようとする。 旅はその場所を訪れて何かを感じ取るだけが目的ではなく、そこに住む人々の中に入り込み、前向きな影響を与え合い、何かを生み出そうとすることだ。そんな大胆なことなどできるはずがないと思いながらも各地を訪れて感じ、その土地の人々の生活を眺め、そしてそこで仕事する人々と会話する。そこからしか本当の意味で自分にとって何も始まらないように感じる。 実際に何かを外に持ち出して伝えてゆくと言う行為は中から外に向かって能動的に動いてゆくことだ。今の時代は実際に会うことも見ることも触れることもないままに多くの物事が進んでゆく時代。しかし、本質的な人々の中にある強くて深い欲求には、実際にそのものを見た時に得る感情、そして質感に対する触感に強い欲求が存在している。それは人間の原始的で根本的な本能のようなものなのではないだろうか。 日本にいると、居心地の良さの中に行き詰まり感や内向きな息苦しさを感じる。その昔、オランダやスペイン、ドイツから日本を訪れてキリスト教を布教した宣教師たちはどんなに苦渋を飲んだことだろうか。その宣教師たちのことを考えると、迫害されながらも活動を続け、今の日本にもその痕跡を残した多くの殉教者たちの苦しみに思いを馳せる。異国に文明や文化を伝えることは大変なことだっただ 7 ろう。僕は何も知らなかった時代の歳から歳までの若い頃に年間ドイツで過ごした。その時はずっと夢中でドイツで生きていこうと思っていたが、人生はそんなに単純ではなく、一度帰国して会社を作り、それから銀行での資金繰りと取引先との仕事で無我夢中でずっと日本で過ごしてきた。 しかし年前、アムステルダムにお店を構え、ドイツではなくオランダで新しい活動を始めた。それはドイツやヨーロッパへの羨望と、若い時の悔し 21 い経験へのリベンジが入り混じったものだった。そして、アムステルダムでの経験を経て、ミラノに拠点を増やしながら、世界各国への道筋を描いている。 28 そして今、また世界の国々を巡りながら、飛鳥や奈良時代の遠い昔に日本人が抱いた想いと感情に思いを馳せ、それから長い時代の中、戦前戦後にも様々な使命を持って世界に飛び出していった人々や、小さな飛行機に乗り込み戦闘に向かった多くの若人に思いを馳せながら世界各地へと 7足を運ぶ。先日、久しぶりに日本のものづくりをする二人の友人と南青山の和食屋で食事をした。何年ぶりだろうか、ワインを飲みながら心地よい酔いを感じた。そんな思いがけない同士との出陣の祝い酒のような心地よい時間に出会えたことが嬉しかった。 思い返してみると、この数年間、ミラノやアムステルダム、そして世界各地を訪れ、日本に迎え入れた多くの海外からの来客や来訪者との時間が、自分にどれだけの緊張感とプレッシャーを強いてきたのかを自覚させるものだった。緊張感から解放されるような優しくて緩い時間は心地良い。しかし、自分が向き合っている真実から目を逸らすことはできない。 長年の間に染みついた汚れや埃、凝固した血に包まれた鉄の鎧を纏って生きてきた。手の甲から腕、肘、上腕を覆う防具をゆっくりと解いた時の、重力から解放された腕の自由さ。そして今、鎧の守りを失った心細さと自由を感じている。長い時間の中で手から腕、肘、頭、足と防具を重ね、重量のある鎧で精神と身体を覆ってきた。それを順番に外していく。年齢と共に重い鎧を取り除いていく。幼少の自分に戻るように。幼い頃は空虚さと不安に満ちていた。僕は今、元の場所に戻ろうとしている。 八重山のサンゴ礁 八重山のサンゴ礁は、世界屈指の美しさと規模をほこります。礁内と礁外の境(リーフエッジ)にサンゴの壁(ピー)が形成され白波がたっています。ところどころにある礁の切れ目(グチ)からは魚が出入りします。サンゴ礁は天然の防波堤となり、浜辺を守り、幼魚や様々な生き物を育むゆりかごです。石垣島白保の海で行われる「ブルーコーラル」のシュノーケルツアーに参加しました。砂浜からシュノーケリングボードに乗り換えます。白保の海の保全をになう「白保魚湧く海保全協議会」では、貴重なサンゴ礁と観光客の安全をまもるため、自主ルールをもうけ単独のビーチエントリー禁止を呼びかけています。白保サンゴ礁を楽しむ際は、同協議会加盟の観光船の利用をおすすめします。礁内の波の静かな浅い礁池は「イノー」と呼ばれます。砂地の上に転々とサンゴが群生している所が見えます。造礁サンゴ 800種のうち、八重山では 360種以上のサンゴが確認され、白保は特に北半球最大規模のアオサンゴの群生で知られています。2007年白保サンゴ礁海域は西表石垣国立公園の一部として、海中公園に指定されました。アオサンゴの水域では、ユビエダハマサンゴの群生も見られます。 クマノミやチョウチョウウオなど多種多様な生き物が暮らす白保の海は「魚湧く海」といわれてきました。魚の排泄物がサンゴの栄養素のひとつになっているという説もあります。アオサンゴの水域では、ユビエダハマサンゴの群生も見られます。 色鮮やかな枝サンゴ。この色はサンゴ自体の色ではなく、サンゴと共生する褐虫藻の色です。サンゴのポリープは海中のプランクトンを捕食して栄養をとりますが、それだけでは足りないため褐虫藻が光合成した養分を得ています。 サンゴの産卵というと満月の夜に一斉に卵を放出するシーンが有名ですが、アオサンゴは親サンゴの体内でプラヌラ幼生を育ててから放出する幼生保育型です。初夏にはアオサンゴが幼生を放出するため白いポリープ(サンゴの本体)を出している所が見られます。 新しい星座がうまれる時夜空はいつも柔らかなビロードを広げたように ゆらめいている Vol.61 原作:タカハシヨウイチ はら すみれ絵 : タカハシヨウイチ AREAの新しいショールームが、ニューヨークのマジソン・アベニューにグランドオープンしました。周囲にはモルティーニ、B& B 、ポルトローナ・フラウ、ロッシュボボア、Minotti、Bo Concept、ナツッジなどが並ぶインテリア街で、日本の家具ブランドとしては初出店となります。ガラス張りのファサードからは店内がよく見えます。 壁面や収納の大型引き戸には、Fujiyoshi Brother's(藤芳太一郎・幸太郎兄弟)による老梅図や松鷹図が描かれています。天井高が 7mもある空間で、藤芳さんは壁画を描くため足場に乗るのが怖かったそうです。最長 4mもある天然木の無垢板テーブルは AREA NewYorkの目玉の ロータスコーヒーテーブル。 銀山チェアと ひとつ。店内で「木の香りが心地いい」というお客様も多いとのこと。 ▲ クッションを自分で組み替えられる「 sofa EN 」。 ▼ 江口店長はじめ AREA New Yorkのスタッフのみなさん。 7月11日AREA Tokyoにて、AREA New Yorkオープン記念パーティが開かれました。野田豪会長と所奈津子社長はニューヨーク出店について「家具を一生の仕事にしようと決めた時から、日本の家具ブランドの海外進出を目指してきました。5年前にパリ、今年はニューヨークに出店でき、日本ブランドの突破口となりたい」と抱負を語りました。▲ 壁面に老梅図を描いたフジヨシブラザーズも登場。 AREA New Yorkとオンラインでつなぎ、時差の関係で朝 5時から集まったスタッフたちが登場。「毎日新しいチャレンジが続きますが皆でがんばっています」と江口さん。新作家具のほか柿右衛門など日本の工芸品や浮世絵を置いた店内の様子を紹介しました。マジソン・アベニューにはライバル店がひしめいていて、内装工事にかかるコストや規制も厳しく高いハードルを感じたそうですが、厳しいからこそAREAのニューヨーク出店は、日本のインテリア界に大きなインパクトを与えたのはないでしょうか。 ギャラリー収納銀座リニューアル 壁面にライフスタイルを集約した、コンパクトラグジュアリーな空間を提案 銀座歌舞伎座に近い「ギャラリー収納」がリニューアルしました。今回のテーマは、2人の暮らしのためのコンパクトラグジュアリー。都市部のマンションを想定し、趣味、コレクション、本、ホームワーク、食事、調理といったライフスタイル一連のながれが、ひとつの壁面に集約。ウナギの寝床状に長いマンションの間取りを有効利用して、くつろぎのソファ空間をゆったりとり、2人の時間を楽しめるよう考えられています。今回のリニューアルで、ギャラリー収納初となるキッチンが発表されました。キャビネットの部分はガラスパネル製で、足元をシースルーにした美しいデザイン。調理家電や食器類をリビングから続く背面収納におさめたⅡ型キッチンになっています。キッチンとリビング・ダイニングを横並びにした配列によって互いのエリアをシームレスにアクセスでき、気ままにワインとツマミを楽しむといった大人の生活に適した仕様です。空港建設のために設置されたポール(第 1〜 4ポール)が計画を後世につたえるため保存されています。ポールは滑走路の中心線になる予定で、その基礎はアオサンゴ群生の上に置かれています。 温暖化の影響で海水温 30℃以上の日が続くと、サンゴ内の褐虫藻が失われ、サンゴの色が徐々に薄くなり真っ白になります(白化現象)。白保でも白化現象が問題になっています。 新空港問題は期せずして白保のサンゴ礁を世界に知らしめ、様々な研究者による調査によって地元の方が思う以上に貴重なサンゴ礁の海であることが明らかになりました。 白保のイノーの水深は低く、水面ギリギリのサンゴを傷つけないようにボートを操船するためには、高い技術が必要です。「白保魚湧く海保全協議会」では、新規にシュノーケルリングツアーなどを行う際は、既存事業者のものと 2年以上の実務経験を積むことを求めています。 塊状の大きなハマサンゴが多い海域に入りました。 今月の茶道具 竹釣花入 銘「清海」 京都国立博物館蔵(廣海春木 寄贈)出典:ColBase 茶の湯でもっとも大切とされる季節感。なかでも難しいのが「涼」の雰囲気をだすことです。エアコンのない時代、夏の茶会で涼を演出するのは大変なことでした。釣り花入は小舟をかたどった花入を床の間に吊るし、浅く花を入れることで大海の情景をイメージさせます。流儀によって異なりますが、舳先の向きによって午前中は「出船」、午後は「入船」を表しました。材質は竹、金属、陶器があります。右下は武野紹鴎が井戸から汲み上げた釣瓶(つるべ)をそのまま水屋に置いたことからきた「釣瓶水指」で、利休はこれを茶室にもちこみました。かつては水に濡らした水差しを茶室の畳に直置 きし、畳や釣瓶を茶会のたびに新調したと伝わります。また茶巾絞りの手前では、濡れた茶巾を建水の上で絞り水滴の音をたてるなど、客に涼しさを感じさせようと視覚、聴覚を駆使した工夫が重ねられてきました。 1000年以上生き続けていると思われる巨大ハマサンゴ。海上に露出する部分は平らになり、マイクロアトール(極小の環礁)になります。 飛魚 大浜信光(昭和 38 年) 白銀の朝をつらぬき飛ぶ投げ槍 直線をひたむきに滑る飛魚の酔いごこちよ ああ懶惰(らんだ)なオットセイの体温に溺れんよりは 研ぎたての細い身に水圧をきびしく装填し海の向うの蒼い壁を刺し消えて失せよう チョーチンマチやビタローなど食用にされる魚も沢山います。網を入れるとサンゴに引っかかるため、独特な伝統漁法が行われてきました。「白保魚湧く海保全協議会」では浜辺に石垣を築き、潮の干満によって石垣内に取り残された魚を捕る「垣(カチ)」の復原につとめています。白保では漁師だけでなく、農家の人々も海の幸を利用してきました。 色鮮やかなハマサンゴ。色を濃くすることで褐虫藻を守り、白化を防いでいるとの報告もあります。 少女昇天 大浜信光(昭和 月はすでに病みおとろえて青い血を流し海の見える丘の上白い病院では紙よりもうすい少女が神に召されると言う ああサンタ・マリヤ何も知らずにそれこそ何も知らずに地球上のけがれを知らずに昇天するものを祝福してよいでしょうか私は知らない誰も知らない 39 年) 東京本駒込のギャラリーときの忘れものにて「第34回瑛九展/瑛九と池田満寿夫」(7月3〜7月13日)が開催されました。1934年、旧満洲国奉天市で生まれた池田満寿夫は、国際的な版画家であり芥川賞作家、映画監督、彫刻家、陶芸家、そしてタレント活動と、日本ではまれなマルチアーティストの先駆けといえます。 池田満寿夫《女・動物たち》1960年 1959年、25歳の池田満寿夫は大阪で 23歳の詩人富岡多恵子に出会います。2人はたちまち恋愛関係におちいり、富岡多恵子は高校教師を辞して上京。新宿の 5畳半の部屋で同棲をはじめました。実は池田満寿夫には 20歳の時に結婚した下宿先の妻がいて、その妹に小金井のアトリエまで建ててもらっていました。それらを全て捨てた逃避行でした。 池田満寿夫池田満寿夫池田満寿夫 《聖なる手 I》《タエコの朝食》《戸口へ急ぐ貴婦人たち》1965年1963年1963年 H氏賞を受賞した新進気鋭の詩人のもとには、白石かずこ、森茉莉、巖谷國士、田村隆一、瀧口修造、澁澤龍彦といった詩人、作家、芸術家が集い、その交遊は池田満寿夫の世界観を大きくひろげました。平井蒼太(江戸川乱歩の次弟)に依頼された豆本(『屋根裏の散歩者』など)の小さな挿絵版画を富岡多恵子と一緒に刷っていた満寿夫でしたが、ドイツの美術評論家ヴィル・グローマン博士の支持を得て東京国際版画ビエンナーレ展で文部大臣賞を受賞するとニューヨーク近代美術館で日本人初の個展を開催し、ついに棟方志功についで日本人2人目となるヴェネチア・ビエンナーレ展 国際版画大賞(1966年)を受賞し、国際的作家へ飛躍したシンデレラ・ボーイとしてマスコミの寵児になりました。池田満寿夫を版画の世界に導いた瑛九(Q Ei)は1911年宮崎に生まれ、印画紙に型紙や光を使って絵を描くフォト・デッサンなど独自の画法を開発し、浦和のアトリエには靉嘔はじめ池田満寿夫、磯辺行久、河原温、細江英公たち若手アーティストが集い、久保貞次郎と共に彼らを後押ししました。版画、フォト・デッサン、油彩、水彩と世界水準の先端的な作品を生み出し続けた芸術家として、日本はもちろん各国の研究者からも注目され続けています。 ギャラリーときの忘れものの庭には、浦和にあった瑛九アトリエの檀の木と敷石が移されています。 1977年池田満寿夫は小説「エーゲ海に捧ぐ」で芥川賞を受賞し社会現象となります。伊勢丹新宿店の「池田満寿夫の 20年全版画展」には人が押しかけ、マスコミの取材攻勢にリランは疲れ果てマルチに変貌する池田満寿夫との距離を感じ始めました。翌年、同名映画を監督するためローマに滞在した池田満寿夫のホテルを訪ねたのが、ヴァイオリニスト佐藤陽子で、彼女は池田満寿夫が急逝する1997年までのミューズとなります。パートナーを変えるたび作風を変化させた池田満寿夫ですが、最初に婚姻した女性は最後まで離婚に応じず1999年静かに息をひきとります。40年守られた無名時代の作品・資料は、その妹によって長野の池田満寿夫美術館(2017年閉館)に寄贈されました。 30 以来 ■六本木の「デリカテッセン」 子供の頃、六本木に「デリカテッセン」と呼ばれる小さな食品惣菜店がありました。まだ都電が通っていた時代で、交差点を現在の防衛省方向に向かってほんの4〜50メートルほど行った右側です。母がその店からたまに、キュウリのピクルス、ライ麦入の堅焼きパンのようなもの、それに、ちょっと不思議なお惣菜などを買ってくることがありました。そんなときは必ず「これ、コーシャのピクルスよ」などと言いながら、何か特別なものであるかのように扱って食卓に置いていた様子が忘れられません。そのため長らく「コーシャ」というのは店の名前なのだと思い込んでいました。欧風の「ピクルス」なるものを口にしたのは、この「コーシャ」のキュウリのピクルスが初めての経験でした。 中学生になってからは、この店にお使いに出されることが何度かありました。狭い店内はいつも薄暗く、正面に置かれたガラスケースには、他の店では見たこともないようなものが並び、この店以外では出会うことのない独特の香りが店内に漂っていました。やがて大学生になった頃には、「コーシャ」というのはどうやらユダヤ系の人々の食品を扱う店を指すらしい、あの六本木の店は「デリカテッセン」という店名の「コーシャの店」(ユダヤ系の食品を扱う店)なのだ、と思うようになっていました。実はこの理解はちょっと不正確なものだったと後に知ることになるのですが。 その後、銀器専門の骨董商として山ほどのユダヤ系の人々を相手に仕事をするようになり、仕事の必要性と抑えきれない好奇心から、彼らの歴史と文化に興味が惹かれるようになっていきます。 年の時を経て、ようやく今「コーシャ」と「デリカテッセン」 という2つの言葉の意味を、その歴史的な経緯を含めて理解できるところまでたどり着きました。 ■母国なきユダヤの人々の食文化 では、ユダヤ系の人々の食文化には、どのような特徴があるのか。これはもう世界の中でも際立った個性がある、と断言できます。その特徴を端的に言うならば「信仰・流浪・グローバル」ということに尽きます。たとえばインド系や中国系の人々も、ユダヤ系の人々と同じように世界中に移民として展開していることは、皆様もよくご存知のとおりです。我が国を含め、どこに行っても彼らのコミュニティーがあり、中華料理店とインド料理店があります。ですが、彼らには自身の母国がある。その多くは店主の出身国の風土が生み出した「母国料理」を移民先に持ち込んでお商売をしている。また母国から様々な食材を移民先に持ち込んで、「母国の味」を再現して提供している。移民として故国から遠く離れてはいても、母国との絆はそう簡単に切ることができない、ということです。あえて言えば「母国料理」のおかげで、世界の果てでもお商売ができている。ところが、ユダヤ系の人々には、この「母国」というものが無かった。母国は無いけれど、様々な歴史的な背景から、彼らは世界中に「移民」として展開するという形になっている。 「民族として母国を持たない」。その厳しさと寂しさは、私達には想像することさえ難しいものがあります。母国から持ち込む食文化(母国料理)が無い以上、それぞれの移民先で、独自の食文化を育てていくほかなかった。移民先の食文化を取り入れながらも、自分たちの信仰の教えに従う形でこれをアレンジし、新たな食文化をそれぞれの移民先で築き上げていく。民族の核である信仰を守り抜くに は、これ以外に道はなかったのです。 ■食の戒律「カシュルート」 このようにして誕生してきた彼らの食文化は、一見その土地の郷土料理のように見えます。でも、「使う食材の選択」という点で、その土地の料理とは決定的に異なる場合が珍しくありません。ユダヤ教の戒律では、例えば、豚肉は禁忌です。これを食べることが許されていません。牛や羊や鶏などのように食べることが許されている肉であっても、 「戒律に定められた方法で屠殺されたもの」でなければ、これまた禁忌となっています。海の幸では、ヒレと鱗(うろこ)のない魚類は禁忌なので、エビ・タコ・イカ・ ウナギ・アナゴ・ナマコはもちろん、サメやナマズも 許されません。更には、アサリやハマグリ、カキやアワビなどの貝類もすべて禁忌です。他にも様々に細かな形で「食の戒律」が定められていて、こうした「食に関するユダヤ教の戒律」を総称して「カシュルート」 (kashrut)といいます。そして、この厳しい「食の戒律に従って準備された食材 と食品」のことを、広い意味で「コーシャ」(kosher)と呼んでいます。 このように我々の目から見ると、その食に関する禁忌の定めは、驚くほどやかましいものだと言わざるを得ません。率直に言って、「この戒律カシュルートを厳守せよ!」と言われたら、平均的な日本人にとっては、ユダヤ教徒になるのは難しそうです。しかし、この宗教の厳しい食に関する戒律があるからこそ、どの移住先にあってもユダヤ人は、工夫を重ねて独自の食文化を形成することになるわけです。例えば、ヴェネツィアにはヴェネツィア風ユダヤ料理、中央アジアの都市ブハラにはブハラ風のユダヤ料理、モロッコにはモロッコ風のユダヤ料理が生まれています。「母国が無いのに、独自の民族料理が存在する」という不思議。この点がものすごく興味深いところです。 ■セファルディとアシュケナージ 長らくユダヤ系の人々が主たる活動の場としてきた欧州諸国。その歴史に登場 15世紀カシュルートに従った屠殺検査の図 まずは、その料理名にある「安息日」(Sabbath / Shabbat)とは何かについて。 するユダヤ人(ユダヤ教徒)には、大きく分けて、「セファルディ」 (Sephardi / Sephardic Jews)と「アシュケナージ」 (Ashkenazi Jews)というふたつの流れがあります。「セファルディ」とは、長らくイスラーム支配下のイベリア半島(現在のスペインとポルトガル)で繁栄し、特に半島がキリスト教勢力の支配下となっ た 1492年以降、北アフリカから欧州各地さらには旧オスマン・トルコ帝国領域そしてアメリカ大陸へと離散していったユダヤ教徒を指します。一方「アシュケナージ」とは、古代ローマ帝国崩壊後に、様々なゲルマン系種族から構成される神聖ローマ帝国の支配領域(東欧)、特に現在のドイツ東部〜ポーランドとその周辺・ウクライナ〜ロシア西部・黒海近辺地域に多く暮らし始めたユダヤ教徒を指します。こちらはホロコーストで多数の犠牲者が出ています。 この両者、「ユダヤ教という宗教を共にする」という一点を除けば、言語・居住地域・生活様式などの点で、歴史的には大きく異なります。近世に入ってからの様々な状況変化の結果、現在は全ユダヤ教徒の中でも、アシュケナージ系の人々が大多数を占めるに至っているようです。私自身は、何人もセファルディ系の人々と出会っているので、「アシュケナージ系が大多数」と感じたことはありません。ただ両者の間には、部外者からは見えにくい違い(壁)があるようだ、とは感じています。 ■安息日のシチュー「牛肉と豆の煮込み」 こうしたユダヤ系の人々の食の歴史の中でも、特にセファルディの人々にとって重要な意味を持つお料理をご紹介します。これはユダヤ系の人々が古くから、主に毎週の休日のごちそうとして準備をしてきた料理「安息日のシチュー」と呼ばれるものです。この料理にまつわる様々な事柄を知ることは、思いもかけない形で、ユダヤの人々の歴史に触れることにつながっていきます。 12 31 1 ユダヤ教の教えでは、1週7日間のうち1日を「安息日」(一切の労働を行わない日)として定めています。それは金曜日の日没と共に始まります。日没をもって一日が終わると同時に新しい一日が始まる、という考えに基づいています。これはイスラームでも同様の考え方で、こちらは木曜日の日没から金曜日の日没までが「礼拝の日」となっていて、一般的には金曜日の午後〜3時の間にモスクで礼拝が行われています。わが国でも、一日の終わりと始まりを日没とする、という考え方は古くからあります。我が家では月日大晦日の夜に、先祖伝来の新年の特別なお料理を食べます。大晦日の日没と共に新年が始まるという、代々受け継がれてきた伝統に基づいてのことです。日本全国「大晦日の夜は年越しそば」ではないのです。このように日没を基準するほうが、むしろ自然のリズムと共に生きる人間本来の感覚に合っていると思うのですが、いかがでしょうか。そして、この自然現象に従った時間感覚のあり方は、西欧の食文化の歴史をたどるときにも、忘れてはならない重要な要素となっています。 安息日のシチューセファルディの移動ルート 以下、次号へと続く。 西表島 陸からは行けない集落 ダイナミックな自然が魅力的な西表島。浦内川河口のマングローブは、海水と淡水の混じる汽水域にあってヒルギ類が繁殖しています。干潟にはハゼやカニが生息し、潮が満ちてくると淡水魚、海水魚が入り混じり、それらを狙って鳥たちもやってきます。 しげた丸のシュノーケルリングツアーに参加しました。船は祖納港を出発し、外離島、内離島を見ながら船浮集落に向かいます。内離島にはかつて西表炭坑があり、最盛期は1400人もの人が集まり年間 13万トンの石炭を産出していました。 集落内を散策します。イリオモテヤマネコの発見・捕獲場所をすぎると、集落の半分近くを占める広大な竹富町立船浮小中学校があります。創立 100年を迎える伝統ある学校で、生徒数は 4名。今年は 6年ぶりの新入生があり、ニュースになりました。集落ではパションフルーツが栽培されているほか、八重山名物黒真珠の養殖も行われています。カマドマ広場に立つクバデサの木は「殿様節」の舞台として知られます。絶世の美女カマドマは、祖納の役人(殿様)と恋におち、役人の乗った船がくるのを木のそばでまち続けたそうです。 いま話題の「船浮ぱん」。代金はぶたさんに入れます。集落には数件の民宿や食堂があり、美しいイダの浜やサンゴなどマリンレジャーを楽しめます。集落の端にはかつて日本軍がつくったトンネル「船浮要塞海軍特攻艇基地跡」があります。1941年から船浮地区で要塞建設が始まり、海軍が駐屯すると住民は大原などに強制退去させられました。 今日も走って行く 大浜信光(昭和 イスタンブールではぐれた美しい女奴隷が忘れられない海峡をわたるまではたしかにいたが・・・・・・・・ 楯も槍も土に埋れて錆び眼.にはトルコ草原の草が根を張り毛根はしっかり頭蓋骨を抱きしめ長い歳月が流れて行ったが アレキサンダー大王を乗せたサラブレットの華麗な臀部が陽光にきらめく青銅の騎士たちが 今日も私の上を風のように走って行く 50 年) 心・体・思考の健康をデザインする とっておきの 休み時間 29時間目写真&文大吉朋子 8月はコミュニケーションに意識をむけて。 2024年 8月は「7」のエネルギーが流れます。「7」はオーラの数字。自分と外の世界とのコミュニケーションを表します。8月はより活発に言葉が交わされ、発信がされ、さまざまな声が溢れる1ヶ月です。 「コミュニケーション」は必ず相手があってのこと。自分だけでなく相手の事情も存在します。一対 一でも、一対複数でも、いつも以上にそれぞれのコミュニケーションにおいてより快適に、心地良 く、丁寧にやっていくよう心がけたい時です。 そのために、相手や周囲との距離感、境界線の意識はポイントです。パーソナルスペース、パーソナルエリアなど、人が無意識のうちに感じ取っている快適性はコミュニケーションの上で大切な要素となります。また、“言葉を意識的に使う”ということも意識していきたい時です。“考えすぎると上手く話せない”という方もいらっしゃいますが、あまり考え無しに発する言葉は、時に誤解を生んだり、事の真意が相手に伝わらないなど、自分の心の声がまっすぐ届かないかもしれません。 暑い時期は疲れもたまります。疲れてくると妙にイライラしたり、相手を思いやる気持ちすら沸いてこない、伝えたいことがあるのに伝えられない、なんていう時だってありますよね。そんな時には外の世界から一旦距離をおき、ひとりの時間をつくって英気を養いましょう。無理をして言葉の暴走とならないよう、「自分の声をコントロールする」も、意識したい8月です。 ヨガ数秘学の「7」 コミュニケーションを表す「7」のエネルギーは、ふだんの生活の中で一番活発な数字といえるかもしれま せん。人間関係や社会生活において日々様々な形で交わされ、誰もが意外とたくさん受け取っているエネ ルギーです。特に「7」を持つ人は、意識しなくとも密接に関わりながら生きています。「7」を持つ人は、7日、16日、25日生まれ、7月生まれの方。1970年、1979年、1988年生まれの方々 も入ります。そのほか、生年月日でチャートをつくると「7」を持つ人は大勢いらっしゃいます。 「7」は AURA(オーラ)の数字、オーラは実際に心臓から放たれるエネルギーで、特殊な装置によって測定もできるそうです。「あの人はオーラがある」と言うのも、私たちは無意識のうちに、目には見えない人から発するエネルギーを感じ取っているわけです。オーラが強いと感じる人は、そのエネルギーが全身から強く表れ、発言に異様な魅力や説得力があったり、発信する力そのものが強かったりします。 オーラは心臓から3mほど広がると言われ、これは自分と外の世界との境界でもあります。「7」を持つ人は、自分の安全なスペースに対しての感覚が鋭く、そのため性質的にはやや神経質な側面があります。また、自身が他者へ及ぼす影響が小さくなく、発する言葉には力があり、時に大きな影響力が発揮されます。場の空気をつくる力もあるため、オーガナイザーとして最適な場を提供することにも長けています。そして、不要なエネルギーからは距離をとり、自分自身に影響が及ばないよう適切に対処することができます。 会議やイベントなどの進行や雰囲気づくりが得意、場の空気をうまく循環させることができるのは「7」の人たち。安全で心地良い空間を好み、健全な「7」は保全のために戦える人なんです。 ニコライ・バーグマン箱根ガーデンズにて 一方で、他者や外側のエネルギーによって揺さぶられやすい、影響を受けやすいという性質もあります。自分のエネルギーが下がっている時は、特に外からの影響を受けやすく、知らず知らずのうちに調子を崩すこともあります。受けてしまった負のエネルギーは、その人のオーラにのって発されるため、周りの人は「あ、調子が悪いんだな」と気づかされますし、時に無駄な発言が増えることでも気づかされます。言いたい事がたくさんあるというのも「7」の特徴で、バランスを崩すと、それらが暴走することになります。 ゆえに、「7」の人は、時々外からの影響を受けないひとりの時間を持つことがとても重要です。それ無しにやり過ごしていくと、内側の感情が声を通して暴れ出し、自分でも手に負えなくなりますから。 ちなみに、私は自分の土台となる数字が「7」でして、7の特徴は腑に落ちます。その場の「気」や「におい」にかなり敏感で、負のエネルギーを感じたら可能な限りその場から離れます。電車の中や公共の場で、居心地が悪いと感じる時にはさっさと隣の車両や別のエリアに移動します。神経質と言われればそうかもしれませんが、どんな時にも自分にとっての「快適さ」をできるだけ確保することは私にとって超大事。人との関わりも然り。不快を我慢して余計な不満や文句やストレスを溜め込むより、自分がさっさと動いて距離をとる。これは手間がかかることもありますが、溜め込むよりよほど健全だと思っています。 スマホのゲームに夢中になる、SNSをひたすら見続ける、意味もなくスマホをいじり続ける…これらも外界にある様々な不快をやり過ごす回避方法のひとつ、と言えなくもないですが、それらの姿にはオーラは感じにくいですね。首は 90度近く前に傾き、立ち姿勢はダラッとして、まず健康的とは言い難い雰囲気です。実は、自分ひとりの世界に引きこもりすぎると″秘密を持ちすぎる“のも「7」の特徴ですから、少し注意が必要です。 ということで、奥深い「7」のエネルギー。人との関わりの中、何かお役に立つかもしれません。 例年ならばそろそろ梅雨明けのはずが、本州においてはまたも各地豪雨に見舞われまとわりつく湿気が拭えぬまま暦上では大暑へと近づいてまいりました。 こんな天候が続くようでは、高齢者はよほど辛い毎日でありましょう。水分摂取、室温調整や換気といったこまめな配慮なども年齢とわず命に関わる大切な問題になりますからダメージを受けてしまう前にフォローできるよう心がけたいものです。 元旦の大地震から六ヶ月もの月日が経過した能登半島では、ようやく解体工事に着手とのニュースが聞かれるようになってきましたけれど・・液状化の問題ひとつ取ってみても日本列島だけじゃなく世界中の国土や建築、環境問題につながる重要な要素を含んでると思います。公費解体は環境省の管轄、とかじゃなく、県や国、 その50 青山かすみ 各省庁が連携し、強力なリーダーシップをもって進めてゆく姿勢を見せて頂きたいです。 羽田空港にて、1月2日夕刻に起きた飛行機事故現場では一週間以内で滑走路の復旧を終えましたでしょ。その気になればやれないことはないんです。やってないだけよね。7月時点の現状をみるにつけ、ズルズル時間が過ぎるのを待つだけ?になりそうで末恐ろしい。 C滑走路での飛行機事故以来、五年目に入った最近の都心ルート低空飛行においてちょっとした変化がおきました。以前、港区青山辺りでの飛行時刻は、南風時3時10分頃だったのに、飛行が5分くらい早まりました。管制官の補佐的人員が増えましたものね。ただ、超低空飛行の5分間延長分の騒音負担は大きいもんだなぁ〜とこれまた実感させられ、気持ち新たに怒り感も増長ぎみの日々を過ごし始めたところでございます。 国民に対してさまざまな負担軽減がなされなければ国力はますます弱まるばかり。まさに日本政府の采配これいかに、を一人ひとり冷静にみつめてゆく時代が来ました。 船浮の西側に位置する網取集落は、300年以上の歴史ある集落でしたが、交通の不便、医療・教育の不備、経済の行き詰まりなどから、昭和 46年全員が離村して廃村となりました。いまは東海大学沖縄地域研究センターの施設だけがあり、サンゴ礁の生態や集落にのこる遺跡の研究などを継続的に行っています(しげた丸のツアーでは上陸しません)。集落跡は密林化が進んでいますが、石垣や米軍が建設した給水施設などが残されています。第二次世界大戦中、周辺の島の住民は西表島に疎開させられ、密林でマラリアに次々と罹患しました。波照間島から疎開した女性(当時11歳)は7人の家族を失い、ただひとり残されたそうです。死亡率の高い熱帯性マラリアは1530年代、オランダ商船によって持ち込まれたと言われ、マラリア禍で廃村となる集落も多くありました。戦後、米軍は特効薬アテブリンを配布し一時は下火になりますが、1950年に再燃したため1957年からウィラー計画を発動し、DDTの噴霧作業を 3年間にわたり徹底して行いマラリア撲滅に成功しました。いま島内を自由に行動できるのも、先人たちの不断の努力によるものです。 網取集落跡からは、17〜 19世紀の近代貝塚のほか、5世紀の貝塚が東海大学によって発掘されています。ここに集落を築いた人々は近代まで、海の幸を利用しながら命をつないできました。 3月、4月、春先は気温の変化が大きく血圧も安定せず、身体がハシハシとしない。ゴミ出しと近所のスーパーに行くのが精一杯。スマホのヘルスケアの歩数は3ケタという日が続く。運動不足は、血液検査の数値にもはっきり表われる。せっかく下がった中性脂肪も血糖値も元に戻って、軒並み「 H」マークが付いている。なんとかせねば・・・・・5月に入ると、区のウォーキングイベントが計画され、ウォーキング指導員のもと基本講座が開かれる。これを受講しないとイベント参加はできないが、北の丸公園広場の爽やかな新緑の風にようやく運動スイッチが O N。歩くことを意識しての姿勢はなかなか身に付かないが、基本の基を教わるたびウォーキングの姿勢、足の運びの大事さを知る。 日比谷公園から神田明神コースと、綾瀬のバラ園巡りコースの2つに参加申し込みをした。日比谷公園コースは、「オーテモリー将門塚ー駿河台下ー湯島ー神田明神」だったが、駿河台下から山の上ホテルの坂を上がったところでギブアップ。かつてはお昼を食べたり、天ぷらやバーにも行ったことがある馴染みの場所でもある。老朽化のための休館とのことだが、シンボル的存在でもあった山の上ホテルを写真に収め、お茶の水駅へと一人向かう。参加者は健脚が多い。途中雨に降られたが、まさに雨にも負けず風にも負けず、加えておしゃべりしながらペースを落とさず歩いている。気がつけばいつの間にか一番後ろになっていた。帰り道のわかるところでリタイアしたのは正解だったが、完歩できなかったのは悔しい。2回目の綾瀬は8日後。なんとか完歩したいと、スーパー行くのも寄り道しながら、歩数を増やした。綾瀬は初めての場所だが、バラ園には色とりどりのバラが咲き、菖蒲が咲きはじめ、青空のもと保育園の子供達と一緒になったジジババの笑顔はより弾んでいた。綾瀬コースは完歩できた。駅前のレストランロードで、ダブルのハンバガーセットを完食した。勢いついて、箱根のハイキングを申し込んだものの、日が近づいてくると心配になってくる。8キロはちょうど皇居2周分。皇居は何度も歩いているが2周したことはない。いつも帰りにホットケーキ屋さんで一服するが、そんな休憩場所はあるか、途中でギプアップしても車で帰れるかなど、リタイヤ策を考える。が、まぁ、その時はその時と思い直して、美術館巡りと小田原城の紫陽花祭りの2泊3日の箱根の旅を計画した。しかし、心配というのは耳元で囁くというか、身体がそうさせてくるのか、出発前日、ベッドからスッと起きれない。これはハイキングどころではないかも。何年か前にも同じように腰が動かなくなり、往生したことがある。傘を杖代わりに新幹線で病院通いをしたが、その時と同じような感覚である。椅子から立ち上がれない。腰が曲がらない、靴下が履けない。あれ〜と思ったが、その時の鍼灸院の先生の言葉を思い出した。「体の芯が冷え切っている」冷房が効き始めた時である。6月初めの大雨の日、びしょびしょになった靴を履いたまま長時間バスに乗っていた。上着は持っていたが、足元はタオルで拭いたものの、替えは持たずそのままだった。突然の腰痛にハイキングは無理とキャンセルを考えたが、冷えなら、温泉三昧の旅にすればいいと、ゆっくり時間のロマンスカーで箱根に向かった。宿に着くと、すぐにイベント担当者が声をかけてきた。「カクカクシカジカ・・・・」明日の様子で参加見合わせを承諾してもらい、荷物を置いてすぐに温泉へ。ゆっくり時間をかけて体を温めジャグジーをかけた。寝る前も翌朝も温泉に浸かった。心なしか痛みは和らいでいる。朝食後集合場所へ。行程を確認し半分の4キロ地点までいけば、その先は車が手配できるとのこと、お腹に力を入れて参加を決めた。高齢者の集いではないが、いつもと同じような年恰好、ガイドと顔馴染みの方もいて、恒例のイベントを楽しむグループが何組かあった。湖尻から元箱根まで、湖畔の木々や草花、さえずる鳥の説明を受けながらゆっくり歩きで、4キロ時点で昼食となったが、芝生に敷いたシートに腰を下ろし、靴を脱ぐことも立ち上がることもでき、車の手配は無用となっていた。教えてもらった花の名前は傍からから忘れるが、へびいちごの甘酸っぱい味は忘れない。元箱根から海賊船に乗って湖畔道を遠くに眺めながら、よくぞよくぞ歩いたものと、みんなで褒めあった。美術館巡りと紫陽花祭りは見送りとしたが、8キロ完遂で歩く楽しさを十分に味わった。温泉と美味しい料理と歩く楽しさ、元気で続けましょう!!! 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