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黄金の華咲く伊勢街道 時空を超える美意識 https://collaj.jp/夏至 2025 伊勢 商人の戦国時代 戦国時代が終わり江戸の街がひらかれると、徳川将軍家の幕藩体制のもと巨大消費地江戸をめぐる商人の戦国時代が始まります。そのなかで伊勢は多くの実業家を生み出しました。松阪を中心に射和(いざわ)、明和町を訪ね、伊勢商人が 200年にわたり100万人都市江戸の市場を席巻した謎にせまります。そこには現代にも通じるグローバルなビジネスマインドがありました。 ※江戸時代の事柄については松阪を「松坂」と記します。 江戸大伝馬町のお竹大日。紺野浦二(半泥子)画 木綿の郷 伊勢平野 肥沃で温暖な伊勢平野は、かつて木綿の栽培で栄えました。江戸では従来の麻にかわり、庶民の服として木綿が主流となり、なかでも品質の高い伊勢木綿は高値で取り引きされます。伊勢には温暖な気候、水はけの良い土地、肥料となるイワシがとれるといった条件が揃っていたのです。近年になり木綿畑の多くは水田に変わりますが、今は政府の転作政策で小麦畑が増えています。 伊勢湾の恵み(鰯)が金肥となる 戦国時代、九鬼水軍が活躍した伊勢湾では、古くからクジラ漁など集団的 な漁業を行ってきました。江戸時代になるとイワシの地曳網漁が盛んになり、 200人を超える大地曳網でとった大量のイワシを干鰯にして、木綿栽培の肥 料(金肥)に利用するなど、漁業が農業に大きな役割を果たしました。(大淀漁港と淀姫神社) お伊勢参りの旅人でにぎわった伊勢参宮街道を歩き松阪へ向かいます。「伊勢屋」といえば商店の代名詞になるほと市場を席巻した伊勢商人。その中でも松坂出身者は 4割を占めました。伊勢商人は主に射和を中心とした櫛田川グループと松坂グループに分かれ、その他、前号で紹介した津グループなどがいました。江戸にいち早く進出したのは射和の商人で、古くから水銀を使った軽粉(おしろい)をつくり全国と取引していました。 街道に沿って松坂商人の館が並ぶ本町。松坂を商人の街にしたのは、戦国武将 蒲生氏郷(がもううじさと)でした。松坂を代表する商家のひとつ「小津清左衛門家」が、松阪商人の館として公開されています。 松坂を代表する商家 小津清左衛門家 うろこきゅうは現在も小津和紙の店印です。 和紙問屋として今も続く小津家の旧宅です。松坂で最も栄えた商家のひとつ小津家は、独特の戦略で小津ブランドを現代までつなげました。大橋で休む伊勢参りの旅人におにぎりを振る舞い、大坂で伊勢での食事の無料券を配るなど、商家は伊勢参りを支援することで全国にその名を広めたのです 商家の生き残り戦略 江戸時代に栄えた商家は沢山ありますが、現在まで残る家はごくわずかです。主な理由としては、跡継ぎの能力不足、扱い商品が時代に会わなくなった、大名や幕府への貸付金の焦げ付き。明治期の変動に対応できなかったなど様々です。その中で小津家は世襲だけでなく、優秀な支配人が引退すると血縁でなくても小津姓を名のることを許しました。そのため江戸時代の松坂には、小津清左衛門家はじめ小津与右衛門家、小津茂右衛門家など『小津五十党』と称されるほど小津姓を名乗る商人が沢山いて、互いに婚姻関係を結ぶことで結束を高めました。小津清左衛門の初代小津清左衛門長弘も元々は小津家の血縁ではなく、1625年、松坂の武士の家である森島家に生まれました。15歳で斎藤小兵衛の江戸店につとめますが、3年後には松坂に戻り元服して清左衛門長弘を名乗ります。長弘は再び江戸にでて、大伝馬町の名主(地主)佐久間善八の紙店で働きます。9年が経ったころ、長弘に幸運が訪れました。隣の紙店井上左衛門が引退して郷里に戻りたいと相談があり、後継ぎの適任者として長弘がおされたのです。しかし店と権利を買う金がありません。そこで松坂の小津三郎右衛門道休(本居宣長の曽祖父)が 2百両を融資してくれました。松坂の商人は互いに助け合い、江戸での基盤を固めていったのです。1653年、長弘は 29歳の若さで店持ちとなり、屋号として尊敬する小津の名をもらいました。浮世絵や瓦版、黄表紙が盛んになると紙の需要が急増し、長弘は順調に店を広げていきます。1700年前後に建てられた小津家の主屋には座敷が増築され、前蔵は1730年、内蔵は1738年、向座敷は1855年に建築されました。 蔵の展示室には、小津茂右衛門の書画陶芸コレクションが展示されています。1878年、津市で生まれた駒田定郎は 27歳のとき小津茂右衛門の養子となり、京都帝国大学を卒業すると家業を継ぎ三重の政財界で活躍しました。茶道や詩歌に力を注ぎ、幕末に開窯した焼物「松坂萬古」を支援。浄土宗の画僧月僊(げっせん)のコレクターとしても知られます。月僊は江戸中期、京都知恩院で円山応挙に学び人気の画僧となります。伊勢山田の寂照寺住職になると、絵を描いて得た多額の代金を寺院の復興にあて、奉行に1500両を託し、その利息を貧民救済にあてる「月僊金」を興して村人に感謝されました。 紀州藩の御用をつとめる 1677年、小津清左衛門長弘は隣の薬種店を買い取り間口 5間の店に広げると、和紙に加えて繰綿を扱い金融業も営みます。商売の上手くいかなくなった店舗を譲り受けたり、引退した商人の屋敷や土地を買い取り、江戸のあちこちに土地を持つようになりました。長弘は江戸の店を弟にまかせ松坂に戻ると、1686年伊勢参宮街道に面したこの家に移り、玄久と号して町の発展に尽くしました。小津清左衛門家は小津党を束ねる立場となり、1755年には紀州藩の年貢米の保管や上納などを請け負う商人組織「御為替役所」をつとめ、明治 5年(1872)まで紀州藩の御用を続けました。 虹色のシャボン玉はどんどんどんどん膨らんでいきますそのからだの何倍もの大きさになってもココは膨らましつづけました Vol.72 原作:タカハシヨウイチ はら すみれ絵 : タカハシヨウイチ 令和の東京日本橋 大伝馬町 かつて伊勢商人が軒を連ねた東京都中央区日本橋大伝馬町。物流の拠点日本橋にほど近く「土一升金一升」といわれる目抜き通りでした。幕府は大伝馬町に「家作免許八ヶ条」の特権を与え町並みを整備させます。江戸城に登城する大名も、少数のお供を連れ町民に混じって歩きました。小津清左衛門家は現在、株式会社小津商店となり日本橋 3丁目に本館ビルを構えています。館内には「小津史料館」があり、江戸時代の小津家や明治維新後に銀行や紡績工場を運営した歴史を紹介しています。西からの廻船は熊野灘、遠州灘、駿河灘などでの海難事故が多く、紙、繊維、漆器、薬、酒、金物など各業種が協力して「十組問屋」という互助会を作り損害を負担しあいました。やがて十組問屋は自己資金で菱垣廻船を建造し、自ら海難現場を調査して事故の予防につとめるなど、海運に大きな力を持ちます。幕末になると借金を抱えた大名や幕府が商人への支援を求めますが、商人たちは結束してわたりあい減額を求めたり支援を断ったりしました。小津家も幕末の長州征伐の軍資金として、幕府に15万両もの支援を行っています。和紙は山間部の水の豊かな場所で作られ、生産者から仲買人が買い付けて地域問屋に集められ、都市の紙問屋に出荷されます。江戸近辺には武蔵、常陸、伊豆、奥州などの産地がありましたが、奉書など上質の紙は大坂から菱垣廻船に載せられ、1714年には銀貨 1400貫目(現在の数十億円)の紙が江戸に運ばれました。かつて日本橋には船着き場や魚河岸があり、大坂や伊勢から菱垣廻船で運ばれた荷物を伝馬船など小船に積み替えて運びました。 小坂公一展 奇跡の根来塗り .The Art of Negoro Nuri AREA Tokyo 2025年6月20日(金)- 8月17日(日) 1070061 東京都港区北青山 2 10 28 1F AREA Paris 2025年 9月 3日(水) . 10月 25日(土) 4 rue de l’Universit. 75007 Paris, FRANCE AREA New York 2025年11月14日(金) . 2026年1月17日(土) 172 Madison Avenue, New York, NY 10016, USA 木曽の漆芸家 故 小坂公一さんの作品展が、東京青山 AREA Tokyoでひらかれています(8月17日まで)。小坂公一さんの思いを込めた根来塗とAREAの家具が呼応して、艶やかな空間が生まれました。作品展はAREA Paris、AREA New Yorkへ巡回する予定です。小坂公一さんの仕事については、コラージ2024年8月号をご参照ください。 長谷川治郎兵衛家 長谷川家が江戸大伝馬町に松坂木綿の店「丹波屋」を開いたのは1675年、3代政幸の時でした。長谷川家は他の松坂商人たちと共に木綿の買い付けを行う 「勢州木綿買次問屋組合」を設立して、大伝馬町の結束を目指しました。江戸中期の木綿問屋は 70軒以上ありましたが、集約が進み1780年代には 20軒でほどとなります。長谷川家はその 4分の1にあたる5店舗を経営していました。長谷川家は木綿だけを扱う堅実な経営によって、1792年の純資産は15万両に達しました。本宅が平成 25年松阪市に寄贈された際は、調査中に小判が大量に見つかり話題となったほどです。最初は間口15mほどだった屋敷は、両側や後ろ側の土地を買い足すことで間口 50m奥行き100mの大きな屋敷となり、昭和 30年まで長谷川家が暮らしました。敷地奥の庭は明治になってから武家屋敷を購入した土地で、町人の町と武家の町を隔てた掘割が残っていました。松坂の商家は京都裏千家との交流が盛んで、長谷川家は10世認得斎(1770〜1826)〜13世円能斎(1872〜1924)までの家元を松坂に招いていました。奥の庭には裏千家「今日庵(こんにちあん)」を写した茶室があり、交流の深さを物語っています。 松坂商人が成功した大きな理由のひとつに「資本と商業の分離」があります。100万人の大都市江戸はたびたび大火に襲われ、大きな商家も家屋と財産を失い、多くが撤退していきました。松坂商人は資本を管理する本家を松坂に置き、江戸の店を支配人に任せました。その下には番頭をはじめとした手代がいて、さらに子供衆がいます。子供衆は地元から11〜12歳ころの農家の次男、三男が選ばれ、江戸の店に送られます。朝は6時から掃除など開店準備をしてから昼は手代たちの仕事を手伝い夜 7時に仕事を終えると、夕食後に2時間ほど読み書き算盤をならい10時に就寝。給金や休日はなく、外出も許されません。体を壊したり病気で亡くなる子供もいて、一人前の手代になるまで多くの子供がリタイアしました。松坂と江戸の店は 2、3日に一度書簡を交わし、緊密な情報交換をしていました。手紙は漢文で書かれていて、手代のトップである支配人は相当の教養を身に着けています。飛脚の普通便は10日〜 12日、至急便は 7日ほどで届き、店の売上や集金、店員の状況、貸店舗のことなど報告は多岐に渡りました。支配人に対して的確な指示をだすのが主人の役割で、主人同士は寺院に集まり、お茶会や歌会を頻繁にひらいて情報を交換しあいました。強い信頼関係で結ばれた主人と支配人でしたが、長谷川家では支店の支配人の使い込みが発覚し、それを黙認していた本店の支配人と共に 松坂萬古の香炉。 処分されています。茶道や和歌を楽しみながらも、主人には家を守るため様々な重圧がかかりました。 江戸の店に勤める手代は終身雇用でなく、数年ごとに再雇用されました。松坂から江戸に出た子供衆が 7、8年たち 20歳位になると、初めての休暇「初登り」を迎えます。松坂への往復に 20日、松坂滞在に 30日、計 50日位の長期休暇でした。松坂に到着し主人に挨拶すると、土産をもって実家に帰ります。その間に勤務評価が行われ再雇用されるかが決まるのです。この登り年は数年ごとに行われ、その度に再雇用が検討されました。江戸の店では炊事洗濯も男衆の仕事で、女性は置きません。店の規則は細かく、賭博禁止、喧嘩禁止、質素倹約、外出は許可制で門限は 8時、遊郭や悪友とは遊ばない、定期ミーティングを行い皆で問題解決にあたるといった決まりがありました。手代たちの給金は基本的に店に預けられ、必要なときに引き出せる仕組みです。支配人は 4年ほどで解任となり、松坂に戻ると退職金や住居を与えられ妻帯して家庭生活を送ることができました。こうした「別家」が主人の相談役や江戸店のお目付け役となり、堅実な経営を長く安定させました。 発信とコミュニケーションの7月。 2025年7月は「コミュニケーション(7)」がテーマ。心に溢れる思いを言葉にかえて、自分の内側から外の世界へ、心の声を発信することを意識したい一か月です。 まずは自分自身の心の声をしっかりキャッチして、自分の心の状態に気づくことが何より大切です。心の中は、自分が思う以上にさまざまな思いや言葉、メッセージ、主張が渦巻いているカオス。日々の慌ただしさにかまけて紛れ込ませてしまうと、だんだんとオリのように心に蓄積してしまいます。それはまるで散らかったクローゼットのようで、不要なものを溜め込んでいたり、必要な服がすぐに見つからないというように、心の中も思いや言葉が散乱し、伝えたい人へ伝えたいことをきちんと届けることができません。クローゼットを整理するように心の中も整理して、散らかった思いや言葉を見て見ぬふりと放置せず、世界へ発信するメッセージへと整え、伝えていきます。 ただ、「伝える」ためには自分の言葉が明確でなければ届きませんから、もし、うまく言葉が見つからない時には「ひとりの時間」を確保して、自分との対話、内省をいたしましょう。しだいに落ち着きを取り戻し、偽りのない心の声が生まれ、しっかり周囲へと届けていけるはず。 もうひとつ。コミュニケーションが活発になる時は、人との距離感は十分注意いたしましょう。 自分の ”境界線 ”を守ることは、快適なコミュニケーションを進める上で大切なポイントです。 心・体・思考の健康をデザインする とっておきの休み時間 40時間目写真&文 大吉朋子 距離感はどこに定めるか。 大学卒業後、11年ほど働いた家具屋では作ることから接客販売まで、実に多様な仕事を経験させていただいた。特に「接客」の仕事は、今思うと作ること以上に学びが多く、今に鮮明につながっている。 当時、自分よりずっと大人を相手に、自社製品の説明をし良さを伝え、皆さんのお話を聞きながらインテリアなどの相談にものる。こちらの商売だけを考えても結果は出ないし、親身になって親切になりすぎても、もちろん結果はよろしくない。若輩者の私はしょっちゅうお叱りを受けていたけれど、毎回、人間そのもののあり方を問われるようで、接客の現場では心がぎゅっと委縮する経験は何度もあった。接客する側とされる側、客観的にその景色を見る目がないと、思うようには進まない。未熟で生意気な私なりになんとかその場に立つための試行錯誤をしたけれど、毎回が試練と学びの時間だったと思う。 数年前から、衣服の接客販売に立つ機会がたびたびあり、つい最近もあるブランドの販売現場に立ち、接客をした。そのブランドは小さいお店らしく、作り手と使い手の距離が近く、その近さが大きな魅力となって熱量の高いファンが実に多い。来店する方々は心から楽しそうに過ごし、店と客の良い関係が伝わってきた。一方で、独特なその距離感には本当に驚き、接客のおもしろさと同時に難しさを感じるシーンがいくつもあった。人と人の距離が近く、買う側の思いがとても強い。ブランドとデザイナーに対し、いわゆる「オシ」とも言えるほどの温度感。目の前の現象を冷静に対応しながらも、私はやや気おくれもした。 押す側は好きなだけ押していけばいいだろうが、押される側はそうはいかない。彼らの思いが強いだけに、それらを受け取るための度量やテクニックが相当必要だと、時間が経過するにつれ、しみじみ思った。 店と客(人)との距離の近さは良い結果を生み出す一方で、その逆もある。受け入れる側にとっては、あくまでも「店と客」の関係での出来事だからこそ、過剰な期待にさらりと応えながらも、嫌味なく流すという高い接遇スキルが必要とされる。押されてナンボであるブランドにとって、それは厚い信頼の証であり自然な現象ともいえるけれど、お互いが出来るだけ健全な関係性を構築するには、かなり高いレベルでの工夫と気配り、距離の取り方、言葉使いが肝心であり、必須のテクニックなのだ。 ここ数年で、SNSが日常に溶け込み、これまで雲の上の存在だった対象が身近な存在と感じられるようになった。承認欲求は可視化され、安易に満たされたり満たされなかったりが繰り返される。それによって私たちの言動の質は確実に変化していると、接客を通してあらためて強く実感した。そして、「適切な距離感」について、これまで以上にさまざまな角度からの視点や思考が必要だと感じ入った。 他者との対話を得意とする人、苦手とする人、どちらでもない人。あなたはどう?と聞くと、最近は特に苦手と思う人が多めだろうか。理由が明確にあるわけではないものの、「うまく話せないから」との返事が多め。たしかに、話す以前に「熱量」が大きく違えば、同じ温度での対話は相当なエネルギーが必要だし、雰囲気や言葉選びもセンスがジャッジされ、そもそもどの程度の温度感でいくのかという観察眼や洞察力までもが大事な要素になってくる。 接客を通して思い巡った ”人との距離感”。心理的・物理的な距離を含めた ”距離感 ”の在り方は、明確な正解はないものの、それぞれに独自の「適切」があり、その設定がとても重要。自分と外界との距離感。境界線をどこに設定するのか、今一度じっくり思考するよい機会だった。 三井高利の越後屋は、「現金掛け値なし」の店頭販売をはじめ、反物を必要なだけ切り売りしたり、売れない商品を値引きしたり、店の奥の縫製部で即座に着物を仕立てる「仕立て売り」も好評を呼び一日の売上が千両を越えたともいわれます。資金をためると両替商をひらいて幕府の為替御用方となり、これが三井銀行の母体となりました。三井家の屋敷跡に建つ松阪木綿振興会の「松阪もめん手織りセンター」では、松阪木綿の展示・販売や手織り体験をおこなっています。松阪木綿が江戸でヒットした理由は、品質が高いことと共に、粋な縞模様にありました。糸を先に藍で染める先染めの技法を使い、エキゾチックな縞模様をデザイン。そのルーツはベトナムの更紗にあるともいわれます。 蒲生氏郷の松坂城 1568年、京都への上洛をはかった織田信長は、岐阜と京都の間にある近江を攻めました。 松坂商人を生んだ織田信長の近江侵攻 信長との戦いに敗れた近江国の六角氏、浅井氏の家臣には、松坂や射和に逃れ商人となった人物が多くいます。信長の侵攻が江戸時代の伊勢商人を生むきっかけとなりました。松坂城を築いた蒲生氏郷(がもううじさと)は、1556年、滋賀県近江の日野町で。中野城主蒲生賢秀の子として生まれました。賢秀は六角氏に仕えていましたが織田信長に敗れると、13歳の氏郷は人質として岐阜城に送られます。信長は氏郷の非凡さに惚れ込み、信長自身が烏帽子親となり元服しました。織田信長は南伊勢北畠氏討伐の際、蒲生氏郷に初陣を飾らせると自分の娘を嫁がせます。美男子で戦場では勇猛果敢に戦う一方、楽市楽座といった信長の商業政策を学んでいきました。本能寺の変で信長が亡くなると、氏郷は安土城に籠もった織田一族を日野の中野城にかくまい、その後は豊臣秀吉につかえます。1585年頃、織田信長の次男 信雄から松ヶ島城 12万石を引き継ぎ、伊勢参宮古道に沿っていた手狭な城下を 4kmほど内陸の四五百森(よいほのもり)に移し松坂城を築城。石垣には古墳の石棺や松ヶ島城の瓦、古材が再利用されています。氏郷は松ヶ島での居住を禁止し、松坂への移住を進めました。氏郷は松ケ島を通る伊勢参宮古道を、松坂を通るルートに変更し、通行人を増やして商人を誘致します。地元である近江日野町はじめ、伊勢大湊から角屋七郎兵衛を呼び寄せ楽市楽座をひらくと、松坂を自由な商業都市として発展させました。城下町は城のまわりを家臣の家で固め、その外側に商家の並ぶ本町、魚町、職人町を置き、さらのその外側に松ヶ島城下から移した寺社を配置して商人の町を外敵から保護します。松坂城内に建つ明治 44年の図書館を利用した「松阪歴史民俗資料館」は古い生活道具を展示すると共に、2階には映画監督「小津安二郎松阪記念館」があります。小津監督は 9歳から19歳までの青春期を松阪で過ごしました。1588年、蒲生氏郷は、当時画期的な町人保護政策「町中掟」をだします。楽市楽座での売買は自由。押売りや客引きは禁止。喧嘩口論の禁止。理由なく刀を抜いた武士を取り押さえることを町人に認める。強引な取り立てを禁じるなどして商売のトラブルを防ぎました。また幕府の徳政(借財を帳消しにする幕府の御触れ)については、松坂ではそれを適応しないとも定め、商人を保護します。1590年、蒲生氏郷は会津藩へ転封となり、江戸時代の松坂は紀州藩の支配となります。参勤交代が松坂から伊勢湾を渡り三河(豊橋)や尾張(名古屋)へと行くようになると、港が整備され松坂木綿が海上ルートを利用して江戸へ運ばれました。徳川御三家のひとつ紀州藩公認の商人ということで、スムーズに通行できるメリットもあったようです。氏郷は当代きっての文化人で、千利休「利休七哲」の筆頭にあげられました。利休は氏郷を「文武二道の御大将」と評しています。また利休の高弟高山右近からキリスト教をすすめられ、熱心な信者となると家臣たちに入信をすすめます。豊臣秀吉がキリスト教禁令を発した後も、高山右近と共に密かにキリスト教の再興を画策しました。また秀吉の命により千利休が切腹した後には、娘婿の千少庵を会津で庇護し千家を許すよう秀吉に懇願しています。少庵は京都に戻ることを許され、その息子の宗旦が千家の再興を果たし、その子供たちが今も続く三千家(表千家、裏千家、武者小路千家)を興したのです。利休の血脈が続いたのは蒲生氏郷のおかげともいえ、千家と松坂には特別の繋がりがあります。 6月初旬、磐梯熱海温泉に行ってきた。仲間全員が後期高齢者になった途端、どういうわけか要支援が伝播した。いつも絶妙のタイミングで L I N Eで合いの手を入れる元気印の友は、手術した足が骨折して緊急入院。楽しい企画でみんなを先導してくれる世話人は、前日になって「背骨が折れているので行かれない」と。連絡を受け、みな「ならキャンセルしよう!」となったが、それはかえって彼女が負担になると、幹事がいないのは心細いと言いながら、予定通り出かけることにした。磐梯熱海は郡山から会津若松行きに乗り換え3つ目、須賀川に住む友人が車で迎えに来てくれていた。総勢6名の後期高 齢者ご一行様である。駅から 分も走ると両側に大きな旅館 やホテルが建ち並んでいる。磐梯熱海温泉は1300年前からある湯治場ということを初めて知った。 来られなかった幹事が、とにかく「安くていいところ」をいろいろ探し、さらに割引券をゲット、1泊2食付き、1万円弱。流石にそんな安くて大丈夫?食事は期待できないかもね。でもまぁいいか、温泉浸かっておしゃべりできれば……と、みんな割り切って、フロントで浴衣を選び、まずは温泉へと繰り出した。磐梯熱海の源泉に一番近い旅館というのが謳い文句、近いと何が違うのかと思ったが、湯量がたっぷりで、肌に優しい。目の前には緑いっぱいの山と川のせせらぎ、なんとも贅沢な景色を見ながらゆったりと露天風呂に入る。大きな五右衛門風呂が3つも並んでいて、入れ替り全部に浸り、磐梯熱海の美人の湯を堪能した。 次いで食事、レストランでの入れ替わり制だが、テーブルにはあらかじめ個別に料理が並べられ、本日メインのエビのしゃぶしゃぶは、お好きなだけどうぞと、ブッフェ台には、その他お寿司や天ぷらや、たくさんの小鉢が並べられている。正面にはアルコール飲み放題の張り紙があり、ビールも日本 10 酒もある。もちろんデザートもコーヒーもセルフだが、食べきれないほど。わらび餅やアイスクリームが美味しいと誰かが言えば、みんな取りに行く。ゆっくりおしゃべりしながら、気がつけば大方の席が片づけられている。 12 さぁ、私たちも帰りましょう。とふと前を見ると、似たり寄ったりの年恰好、総勢〜3名の男女グループが写真を撮ろうとしている。 12 「撮りましょう」と申し出ると、「それはありがたい」と列を作る。1台と思いきや全員の携帯で撮ってくれという。安直に申し出たが、これは困った。時間がかかる。同じくらい?に見えるが、中に綺麗な女性もいる。どんなお仲間なんですか?と聞くと、古稀の同窓会。コキを喜寿と聞き間違え、先輩ですね。お若いですね。と返しながらスマホを覗くと、やっぱり若い。勘違いに気づく。もうこの際どうでもいい。どちらにしてもお互い高齢者であることは間違いない。温泉に入っておしゃべりして、美味しいもの食べてゆっくり飲めればいうことなし。元気でいましょうね。を合言葉にスマホはそれぞれの手に戻った。 背中の痛みに耐えている世話人から、「カラオケは無料だから楽しんで」と連絡がある。3つあるカラオケルームは誰もいない。一番広い部屋を陣取り、曲を入れるが時間がかかる。こういう時は若い人が必須。手こずったが、そのうちみんな得意な歌を歌い始める。1時間ちょっと、このくらいがちょうどいい。部屋での女子会は時まで続いたが、寝息とともに静かになった。もちろん翌朝は日の出と共に朝風呂へ、そして朝食もたっぷり。急ぐ旅ではない。ゆっくりロビーでくつろいで、宿を後にした。そんな安くて大丈夫?と心配したが、今回来れなかった要支援組が回復したら、もう一度来てもいいね。というくらい、みんな大満足。 この旅館は今は大手グループ旅館になっているが、その昔はきっと、最も源泉に近いを謳い文句に、いい旅館だったんだと思う。ものの価値というのはなんだろうとも思う。徹底した人員削減のようにも見えるが、これで十分満足という人も多いのだろう。平日だが、私たちのような高齢者や若いママさんが子連れで来ているグループも多かった。外国人観光客で宿代は高騰と聞くが、こんな廉価な宿もある。徹底した人件費削減、しかし、名湯は泰然自若、あっぱれである。 松坂市内の「鈴家」跡。小津清左衛門家の並び、伊勢参宮街道沿いにあります。 松坂が生んだ偉人「国学 四大人」のひとり本居宣長(もとおりのりなが)は、木綿商小津三四右衛門定利の子として生まれました。本居宣長の曽祖父小津三郎右衛門道休は1645年に木綿問屋小津屋三郎右衛門を創業し、1653年には小津清左衛門長弘に開業資金 200両を貸した人物です。宣長の父定利は、江戸で商売を続けながら松坂の家族を支えますが、宣長 11歳のときに急死し江戸深川の本誓寺と松坂の樹敬寺に分骨されました。家族は本町の家を商家に貸し出し、魚町に移ります。その家屋が松坂城内に移築された「鈴家(すずのや)」です。本居宣長の書斎「鈴屋(すずのや)」には、国学の師である賀茂真淵を偲ぶ「縣居大人之霊位(あがたいのうしのれいい)」の軸が掛かっています。このわずか 4畳半の書斎で『古事記伝』が編纂されました。松阪駅前に置かれた大きな鈴は、本居宣長が石見国(島根)浜田藩主松平康定から拝受した「駅鈴」をモチーフにしています。本居宣長が鈴を集めていたことから、松坂のシンボルとなりました。宣長が生まれた1730年、松坂の人口は1万人ほどでしたが裕福な商家が多く、商人に支えられた各宗派の寺院では歌会や茶会、古典の読書会などが盛んにひらかれていました。少年のころから大人にまじって会に参加した宣長は、赤穂浪士伝を一晩で聞き書きし、大人たちを驚かせることもありました。16歳から江戸大伝馬町の叔父の店で修行しますが、勉学の志を捨てがたく1年足らずで故郷に戻ると、江戸〜松坂の道中の記録をまとめた『大日本天下四海画図』を1カ月で描いています。大日本天下四海画図は約 2m×1.2mもあり、1751年に完成しました。旅の経験から既存の地図に間違いの多いことを知った宣長は、それを正すことに熱中します。家の窓から伊勢参宮街道の人混みを眺めながら、なぜ人は遠い地から伊勢神宮を目指すのか、その原動力は何だろうと考えはじめ、それが人生をかけた『古事記』研究の出発点となりました。地図を描いた後、宣長はさらに 2年間部屋にこもり、あらゆる書物から京都に関する事柄を抜き書きした『都考抜書』を執筆。23歳のとき念願がかない、母・勝のすすめで医学修行のため京都へ留学します。 1731年から78年間継続した嶺松院歌会『詠草会集』。 宣長は、菩提寺である樹敬寺(じゅきょうじ)嶺松院歌会に参加するとその中心人物になっていきます。あるとき「ものの哀れを知る」とはどういう事でしょうという質問をうけた宣長は『源氏物語』『万葉集』をはじめ『枕草子』『土佐日記』『伊勢物語』『徒然草』など王朝文学にたびたび登場するこの馴染み深い言葉に、日本人の本質を見出しました。物語に登場する男性たちは一見女々しく感じられるけれど、そこに日本人の本質があり、日本文化を解き明かす鍵があると考えるようになったのです。その解明の糸口となるのが、当時最高の国学者賀茂真淵による『冠辞考(かんじこう)』でした。冠辞考は歌の枕詞を説いた書で『古事記』『日本書紀』『万葉集』などの枕詞を五十音に並べ解説しています。 『古事記』宣長の手沢本には、沢山の赤線や注釈が書かれています。 松坂城内の「本居宣長記念館」には、国重要文化財の資料が多数展示されています。「ものの哀れを知る」を解明するため、宣長は『古事記』に着目します。当時古事記は日本書紀の副読本とされていましたが、日本最古の歴史書であり、大海人皇子(天武天皇)が稗田阿礼に語り聞かせた口語を漢字で記しています。古事記は「天地初発」という 4文字で始まりますが、これを天武天皇はどう発音したのか「てんち」「あまつち」「てんとち」なのか、その本来の読み方を知れば、天武天皇の言葉を聞くことができる。古事記は意味よりもむしろ読み方が大切で、古事記を正確に読むことは先祖の声を聞くことと宣長は考えました。 『冠辞考』を書いた賀茂真淵に会いたいと願う宣長に、絶好のチャンスが訪れます。真淵は伊勢参りと共に、射和の豪商富山家が持つ日本最古の『元暦校本万葉集』を見に来ていたのです。松坂の書店で真淵の来訪を知った宣長は、真淵の泊まる新上屋を訪ね、2階の一室で面会します。真淵と宣長が会った「松坂の一夜」は尋常小学校の教科書に掲載され、有名になりました。真淵は『古事記』から儒教や仏教伝来以前の「やまとごころ」を知ることができると言い、その研究の前に古語の宝庫である『万葉集』を学ぶことをすすめます。 「私は万葉集に打ち込みすぎて古事記にまで届かなかった。あなたはまだ若いからきっと古事記を解明できるだろう」と宣長を励まします。そのとき、宣長 34歳、真淵 67歳。真淵の宣長への期待は大きく、真剣な手紙のやりとりが真淵が亡くなるまで 5年半続きました。 ドラゴンシリーズ 128 ドラゴンへの道編吉田龍太郎( TIME & STYLE ) 僕の中に生きている父。 父は 自分が記憶する父の晩年の年齢に近づいている。 歳の時、 仕事を終えた。 期目の選挙に敗れ 歳から 期、 年間の 生涯を政治という仕事に尽くした。 戦後 30年を経過した高度成長期、航空自衛隊の基地を持つ地方自治体の首長となった父は、経済成長にくわえ基地への補助金や助成金で活気づく時代の中にいた。敗戦後の日本はアメリカの実質的な支配下にあり、ソ連や中国など社会主義国との冷戦の防波堤として、日本の航空自衛隊基地はその存在価値をさらに高めていった。基地には当時最新鋭のファン トム機や F− 15 イーグルなどが配備され、スクランブル発進 する戦闘機の爆音と振動が日常となっていった。 アメリカとソ連の冷戦が加速するなか、町はこの地域で初めて日米共同軍事訓練の拠点となることが決まり、沖縄に近い中継地である航空基地としての役割が、ますます注目されていた。 同時に、日本を防衛するための自衛隊基地という役割から、一気にアメリカとソ連が対峙する世界の防衛拠点となったことで、全国のリベラル派と反体制派がぶつかり合う対象として、共同訓練の拠点となる基地と町、そして首長は格好の標的となった。米ソの冷戦、そして国内では自民党と社会党、共産党が争う町として、右翼から左翼までが議論する格好のネタとなった。 町には住民よりも多くの、日米共同訓練反対派の人々が全国から押し寄せた。時には首長の自宅、すなわち僕の自宅にも、多くの反対派の人々とシュプレヒコールの嵐が吹き荒れた。父と母が不在中、共産主義の革新派の人物が自宅に侵入し、留守番をしていたまだ小学生の弟を捕まえて「酒を出せ」と脅していた。高校生だった僕は、自宅に帰ってその男を蹴飛ばし、自宅からつまみ出した。 そんな時、町の反対派が煽動して共同訓練を首長の責任問題へとすり替え、リコール運動へと発展していった。航空自衛隊基地を抱える地方都市での首長のリコール運動は、 N H Kの全国放送でも日々その経過が報道されるようになった。僕は、 61 5 20 40 4 20 年続けてきた政治の 歳まで、父は彼の 60 高校野球の大会で球場へのバス移動中に流れていたラジオから、リコールについて報じるアナウンサーの声と、監督や野球チームのメンバーの、その時の何とも言えない景色を、今も鮮明に記憶している。 父は、そんなリコールの時もグッと口をつぐみ、下腹に力を入れて、すべての言葉を飲み込んでいたように思う。父の首長としての年間は、国政と地方行政の現実の間で、戦後処理と新しい時代の経済発展とが入り混ざった、日本の発展期の象徴でもあった。父の名誉のために言えばリコールは住民投票の結果成立せず、職を辞さずに全任期を最後まで全うした。 5 父は平日は早朝から夜遅くまで這いつくばり、週末も休みなく、そのほとんどの時間を政治に費やしてきた。その反面、僕や弟には寛大な人だった。 30 いつもニコニコとしておおらかで、僕のことを大きな心で見守ってくれていた。僕がどこで何をしているか分からないような時も、必ず居場所 20を探し出して僕を見つけては、晩飯をご馳走してくれた。別れ際には必ず、薄い財布からそっとなけなしの一万円札を出して、僕の手に渡してくれた時の感覚を今も覚えている。 自分が若い時にブラジルで経験した異文化を学ぶことの価値や、挑戦すること、そして好きなことを仕事にすることを父は僕や弟に勧め、いつでも外国に旅立つよう背中を押してくれた。 そんな優しくて心温かな父が回目の選挙で敗れた後、家から外に出ることが少なくなり、冬のある日ひとりでいる時に自宅の庭で倒れ、半身が麻痺してしまった。リハビリを経ても十分に回復することなく、数年後に他界した。 僕は父が他界した時からこれまで、父の最後を見送る告別式でも、火葬場で骨になった父と対面した時にも、父への悲しみも涙も流れなかった。悲しみがないというのが本当のことであり、年前に他界した時から今日まで、父への悲しみの感覚を持った記憶がない。 先日、ふと父のことを思い浮かべた時に、悲しみのない理由がわかったように感じた。父は僕の中でまだ生きている。自分自身が父と重なって、父の魂は死せず、今も僕の中で生きている、ということなのだろう。 1772年、43歳の宣長は、松坂の友人を連れて大和国(奈良県)への旅にでました。吉野の桜を見物し、かつて両親が安産祈願をした吉野水分神社(みくまりじんじゃ)を詣でます。宣長は自身のことを祈りによって生まれた「水分神の申し子」と信じていました。旅の発見や出来事は『菅笠日記』にまとめられました。 植松有信が彫った『古事記伝』の版木。 1764〜1798年まで34年かけて執筆された『古事記伝』は、1790年から刊行が始まり、宣長没後の1822年までに 44巻が刊行されました。『古事記伝』の制作は複数ある『古事記』の写本を比較して誤りを正すことからスタートし、漢字の読み方を探求したフリガナをつけて行きました。その読み方の根拠となる詳細な注釈が大きなボリュームを占めます。古事記伝の版木を彫った名古屋の植松有信は、彫るうちに宣長に傾倒し、名古屋を代表する門人になりました。宣長没後は長男の本居春庭など家族や門人が刊行をひきつぎます。春庭は 28歳のころ眼病をわずらい失明しますが、『詞八衢』や『詞通路』など動詞の活用を体系化して、多くの門人に慕われました。宣長は「姿は似せがたく、意は似せやすい、外見を整えると心も整う」といいました。それが宣長の美意識の根源で、当時としては画期的でした。宣長が子供たちに託した遺言書は財産分与などではなく、松坂近郊の山室山に桜と共に眠りたいという思いと、墓地の塚や桜のイメージ図が描かれています。桜を愛した宣長は 44歳の自画自賛像にも桜を描き、正座して赤塗の机に向かい、書物、筆、硯、短冊、色紙、懐紙に至るまで自身の趣味を投影しています。しかし実際の机は桐製の質素なものでした。宣長の著作には「名義は未だ思ひ得ず」という文言がよく出てきます。分からないということが分かり、やっと研究の入り口に立ったという意味で、次の世代が「私の『古事記伝』を越えてくれる」ことを信じていました。 本居宣長がよく訪れた四五百森の松阪神社には、宣長の歌碑がたちます。樹齢 1000年と言われるクスは、蒲生氏郷の時代からここに立っていました。60代になった本居宣長は、加賀藩の藩校 明倫館で国学を教えてほしいと誘われます。それを断ると、次に紀州藩の召し抱えとなり、和歌山へ赴いて藩主徳川治宝に講義を行いました。政策への意見を求められた宣長は『玉くしげ』、『秘本玉くしげ』を記し献上しています。賄賂や罪罰の扱い方、百姓一揆のおさめ方、人材の登用法など政策に国学を活かす方法を示したもので、後の尊王攘夷運動や明治新政府にも影響を与えました。「才の乏しきや、学ぶことの晩きや、暇の無きやによりて、思ひくづをれて、止ることなかれ」という宣長のメッセージは、現代の私たちに向けたものと感じました。 御城番屋敷 松坂城の搦手門から続く石畳の両側に、武士の暮らした長屋が当時のまま残されています。「御城番屋敷」は現存する最大規模の武家長屋で、松坂城を警護する御城番の武士 20人とその家族が住んでいました。今もその子孫が暮らし、長屋を維持管理されています。 御城番屋敷の一軒が、公開されています。御城番武士のルーツは徳川家康に仕えた武士集団横須賀党で、元々は紀伊徳川家の直臣として紀伊田辺にいました。それが突然、直臣を外されることになり、浪人の身となったところを松坂城の御城番として迎えられたのです。明治になると合資会社苗秀社を設立し、横須賀党の財産と屋敷を管理することで、国指定重要文化財のなかで唯一、住民の暮らす武家屋敷が守られています。現在は1ヘクタールの屋敷地に、長さ90mほどの主屋が東側に10戸、西棟に9戸残っています。1軒あたりの間口は 5間、奥行きも5間で、向かって右手に玄関があり、その奥には1間幅の土間、左手には田の字状に 8畳 2間と 5畳 2間が配置され、奥には便所など水回りを置いた角屋が突き出しています。各戸には前庭と畑があり、江戸時代の一般的な武士の暮らしを体感できます。 切妻屋根の土蔵は、松坂城内の隠居丸にあった米倉といわれ、それが確かであれば現存唯一の松坂城の建物となります。土蔵の横には紀州藩の初代藩主である徳川頼宣(南龍公)をまつった神社があります。 割烹旅館八千代から続く長さ 400mほどの同心町の通りには城代組、両役組、町奉行同心など、7石2人扶持の武士 58家が暮らしていました。旅館八千代(国登録有形文化財)の玄関、客室、広間では、武家屋敷が移転や増築を繰り返しながら、割烹旅館へ変わっていく過程を見ることができます。 原田二郎旧邸 町奉行同心の武家屋敷が「原田二郎旧邸」として公開されています。1849年、松坂町奉行所の同心の家に生まれた原田二郎は、21歳から京都や東京で学び 27歳で大蔵省に入省。31歳の若さで第七十四国立銀行(横浜銀行の前身)の頭取に就任しますが、体調を崩し松阪に戻ります。54歳の時、原田二郎は政治家井上馨の依頼で大阪の鴻池銀行を再建します。1920年には全財産 1020万円(現在の約 150億円)を投じて、公益財団法人原田積善会を設立し、学芸・科学分野、災害支援、地方創生など、全国の社会公益事業に対して助成活動を続けています。松阪市でも、初めての学校給食、病院の建設、桜の植樹運動、大学生奨学金の支給などに貢献してきました。蒲生氏郷の時代から松坂は武士の割合が少なく、紀州藩になっても重商主義がとられました。多くの城下町では、武家の人口は15%ほどで、武家屋敷が町の面積の半分を占めました。しかし18世紀はじめの松坂は、人口 9千人に対して武士は 90人ほど、面積の割合も15%ほどしかなく、武家の役目の多くを力のある松坂商人がつとめました。 吉井家は、伊勢国奉行の両役組同心の家系でです。建物は1791年に建てられ、主屋に入ると土間が続き、田の字型に 4つの部屋がある標準的な間取りです。この家は「松阪花菖蒲」を生み出したことでも知られています。 明治期に、海運業で成功した青木家の邸宅。主屋は井田一平氏によって明治 40年頃に建てられました。門扉は杉の一枚板で、1825年頃の古い蔵が移築されています。丸汽船の社長をつとめた 2代目の井田栄造氏から、三重県知事の青木理氏に引き継がれました。敷地は『松坂権興雑集』の著者 久世兼由の家の跡です。中村家は代々城代組同心の家系で、松坂城代の配下として警備や役所の庶務を担当しました。間口 5間奥行き 4間、切妻屋根の標準的な屋敷で、玄関を入ると土間があり8畳 2間、6畳 2間を田の字型に配置しています。完成時期は不明ですが、屋根の高さが低いため最古級の屋敷と考えられています。 高岡家は代々城代組同心をつとめていました。主屋は間口5間奥行き4間、8畳 2間、6畳 2間と中村家と同様で 1861年の完成です。江戸時代の侍屋敷は城主から武士に貸し与えられるもので、武士の所有ではありませんでした。明治維新によって多くが政府に没収されたため、江戸から住み続けられてきた屋敷は貴重です。 寒い晩秋の一日。夕食にたっぷりのポタージュ・スープ。その 一皿でなんとなく幸せになる、そんな思い出がありませんか? などとこの鬱陶しい梅雨時に言われても、ですよね。でも、ここは思いきり想像力の翼を広げて、鬱陶しい梅雨時の東京から、そ して日本から、はるか彼方へと飛び立ちましょう。「時空を越える!」そう念じながら Googleの地球儀をぐるぐる回していく。すると着地点が見えてきました。どうやら (1610〜30年頃)のフランドル。今のフランスとベルギーとオ ランダの国境線が合わさる一帯のどこかの農村です。一軒の立派な農家が見えてきました。ちょっと中を覗いてみましょう(画像 1を御覧ください)。土間の真ん中に直径 いう巨大な鉄鍋が天井から吊り下げられています。鍋の下は火炉になっていて、薪が赤々と燃えている。鍋の手前には立派な乳房を出したこの農家のおかみさんが、赤ん坊にお乳を与えようとし ています。絵の中でいちばん存在感があるのが、この肝っ玉母さんと大鍋です。まさに農家の肝となる最も大切な存在が中心に描かれている。食文化史の視点から見ると、この絵は語るべきことが山ほどあります。が、ここは余計なことは一切忘れて、火炉と大鍋に 視点を集中しましょう。 この農家の火炉は、日本の囲炉裏に相当します。囲炉裏はたいていの場合、板の間もしくは畳の部屋の中央に切られている。ところが、この時代フランドルの農家では、その大半が土間に火炉をもうけていました。というのも「1階には床がない農家」が多かったからです。1階は、ほぼすべて土間。初秋から寒さが厳しくなるフランドル。この火炉のある土間の一隅に大きなベッドを置き、わらなどを敷いて、そこで家族揃って寝ていた。「夫婦と子供が川の字に」などという可愛らしいものではありません。祖父母や夫婦の兄弟姉妹までもが一つの寝台を共にすることも珍しくなかった。遠方から親戚が訪ねてきたら、その親戚もそのベッドにもぐり込んだというから驚きます。その凄い雑魚寝のベッドから朝起きて一歩足を踏み出せば、床は冷たい土間。これが当時欧州で最も経済的に先進的で豊かと言われていたフランドル農民 90 17 世紀 センチはあろうかと 画像 1)農家の食事 ピーテル・ブリューゲル(子)1610年頃 の実際の暮らしの有り様でした。この時代、フランドルの人口のほぼ9割は農民 です。その大半は、このような家で暮らしていたのです。 この絵は大画家ブリューゲルの息子である小ブリューゲルの作品です。父親同 様息子は農村の光景を多く描いています。その絵は農村を実際よりも美化して描 いている、とも言われます。たしかに彼が描いた農村の風景を見ると、農家の建 物はなかなか立派で、また時に可愛らしく見える。村の景色も絵葉書みたいな感 じで描かれているものが少なくありません。でも現実は、農家の中に一歩足を踏 み入れれば、1階は土間。だから、いつも湿っぽく、かび臭く、汚れていて、決 して居心地の良いものではなかった、と言われています。この絵の奥の方に「は しご」が見えます。大切な穀物や乾燥豆類など湿気を嫌うものについては、2階 というか屋根裏というか、はしごを昇った上の階に置いておくというのが当たり 前でした。 ここで視点をふたたび大鍋に戻しましょう。絵では大鍋の中身はよくわかりません。ただ、いろいろなものが混ざって煮込まれている感じは伝わってきます。フランス語では鍋のことを「 pot」(ポッ)と呼ぶ場合があります。たとえば、ポトフ( pot-au-feu)=「鍋」+「火」で、煮込み料理ポトフは語源的には「火に掛 19 けた鍋」という意味です。その親戚が「ポタージュ」(potage)です。これまた元々は「鍋の料理」もしくは「鍋で野菜や肉を煮込んだ料理」という意味から生まれた言葉です。ただし、当時の農家では、この鍋に肉が入れられることは、めったになかった。基本的に大麦やライ麦、家の周りで栽培している季節の野菜あれこれ、それに時に牛乳や豚の脂身を少々、という感じです。 火炉の火は、夜は熾火(おきび)にします。日 中はほぼ一日僅かな火であっても絶やすことなく 燃やし続けていたようです。なので、この大鍋の 中では常に何かが煮込まれていた。この火炉こそ が文字通り暮らしの中心。料理も食事も家事も団らんも、そして夜眠ることも、 すべてこの火炉の周りで暮らしが回っていました。 その暮らしの中心にあった大鍋で煮る「野菜と麦類のゴッタ煮」のことを「ポタージュ」と呼んでいました。フランドルに限らず当時、欧州の人口の圧倒的大多数は農民です。その殆どの地域の農民にとって中世以来世紀中頃まで、この大鍋の「麦と野菜のゴッタ煮」=「ポタージュ」こそが、日常の食事の中心でした。欧州人の祖先の圧倒的大多数にとって、これこそが味覚の基本として体の芯に刻み込まれていた、ということです。「欧米は昔から肉食中心の食文化」。子供の頃、よく目と耳にしたセリフです。これを多くの日本人が、何の疑いも持たずに信じていた。このとんでもない大誤解こそが、欧州の食文化の基礎を根底から見誤らせる最大の要因であったと思います。そしてその余波は今も長く尾を引き続けていると感じます。 で、話は変わってフランス語の「ポタジェ」(potger)のお話。語幹はこちらもまた「pot」ですから、ポタージュとポトフの親戚です。中世のフランス語に由来し、「鍋(pot)のための野菜を栽培する庭」すなわち「菜園」のこと。これ、基本的に「農 家の畑ではない」ということになります。西欧食文化史で「庭」例えばハーブガーデンとかキッチンガーデンという言葉出てきたら、それは基本的に「農民の畑ではない」場合が大半です。 産業革命前の時代であれば、「ガーデン」という言葉が使われるのは、基本的には「貴族階級」もしくは、ごく限られた上層の地主もしくは最上層市民クラスの家の「庭」を意味していました。ときに農家の畑と同じ植物をガーデンで栽培することがあったとしても、畑とガーデンでは、その社会背景が全く異なっていた、ということです。 その代表例が、1683年ヴェルサイユ宮殿の敷地に設置された約9ヘクタールの菜園「ポタジェ」(potger)です。フランス宮廷文化の絶頂期、太陽王ルイ 14世のために野菜と果物を栽培するこの菜園は、文字通り「王の庭」(Potager du Roi)と呼ばれていました。「王室庭園」と訳されこともあります。 その設立の総責任者となったのが、園芸の歴史に名を残すカンティニー( Jean-Baptiste de La Quintinie, 1626-1688)です。これがまた大した男で、王様のワ 16 20 14 50 ガママな注文に徹底して応えて、無理を可能にした、という感じです。ルイ世は野菜にせよ果物にせよ常に「早生モノ」を求めました。宮殿を訪れる賓客を驚かせ、早生を可能にする宮廷の力を誇示するためです。さらに言えば、季節という自然の力を乗り越え、神の技に近づくことができるほどの力ありと見せつける。具体例を挙げれば、カンティニーは、種類の洋梨、種類のリンゴ、イチジク、メロン、アスパラガス、サクランボ、モモ、プラム、種類のレタスを等々、驚くほど多様な農産物を栽培します。そして特筆すべきは「早生モノ栽培」です。 5月 3 4 にサクランボ、月にキュウリ、冬にアスパラガス、月にイチゴ。フランス北部の季節の制約を見事に打ち破ります。 当時の技術水準を思えば驚異的です。そのための工夫がまた凄い。庭園に高い石壁やテラスを組み込んで仕切りとし、それぞれ仕切られた空間に太陽光を利用して熱を効果的に閉じ込める。しかも、仕切られた空間ごとに工夫して異なる温度や湿度となるように設計することで、パリの気候では育ちにくいデリケートな品種の栽培を可能としました。そのために、薪ストーブで熱した温水を地下に通すことで地面(土壌)を温める。育てた苗に鐘形のガラスカバーを被せて苗を保温し、日光を取り入れながらも、昆虫や低温から苗を保護。特に、コーヒー豆やバナナのような外来種を栽培するためにこれを利用しています。当時のヴェルサイユでバナナ!誰だってビックリです。 フランス王という偉大なパトロンと、そのワガママに見事に応えたカンティニー。結果として彼の工夫は徐々に農業技術の革新をもたらすことにつながっていきます。ポタージュとポタジェ、ふたつのかけ離れた世界が、一つの言葉の源でつながっている、というお話でした。 ポタジェのレイアウトカンティニー 斎宮歴史博物館へ 天皇にかわり、伊勢神宮に仕えた皇女「斎王」。伊勢の内宮から北西 14kmほど離れた場所に、「幻の宮」といわれる斎宮がありました。 プロジェクトに参加した木工家須賀忍さん。須賀さんの工房は斎宮跡の一画にあります。 休憩スペースでは様々な椅子に自由に座れます。山林資源に恵まれた三重県ですがナラ、クヌギ、ヤマザクラなどは流通が難しく、大半が発電用の木材チップ等にされています。そうした木の価値と共に、県外から訪れた人にも三重の木工家の魅力を伝える場となっています。椅子 20脚のほかハイテーブル3卓、ハイチェア6脚、室内テーブル5卓、ミュージアムグッズ棚、レジカウンター、パンフレットラックが作られました。遺跡が斎宮跡であることを解明するきっかけとなった硯の一種「蹄脚硯(ていきゃくけん)」。国の中心地である平城宮跡や大宰府でしか見つかっていなかったため、ここが斎宮であることを確かにしました。 斎宮歴史博物館の学芸員岸田早苗さんが「斎宮」について解説してくださいました。斎宮とは飛鳥時代から南北朝時代まで約 660年続いた国の機関で、ながく謎に包まれ「幻の宮」と呼ばれていました。昭和 45年、三重県の明和町で宅地造成の事前調査をしたところ、中世の遺構・遺物、奈良時代の堀や竪穴住居、土器などが発見されたため、本格的な調査が始まります。発掘現場から蹄脚硯(右)や大型朱彩土馬が出土し、「斎宮跡」として約137ヘクタール(甲子園約 35面分)が国史跡となりました。長年の発掘・研究により大規模な「方格街区」や斎王の御殿「内院」の位置などが明らかになっています。赤い線が国史跡斎宮跡の範囲です。斎宮駅周辺は平安時代の斎宮中心域で、碁盤の目状の「方格街区」が見つかっています。また近年の調査では、西側の地域からより古い飛鳥奈良時代の斎宮域も発掘されました。平安時代には 500人以上が配属され、最大幅約15mの道路で区切られた120m四方の敷地が、東西7列、南北 4列並び、斎王の寝殿(内院)を中心に主神司・舎人司・蔵部司・膳部司・炊部司・酒部司・水部司・門部司・馬部司などの役所や居住区が整然と並びました。斎宮を運営するため調・庸(税)を各地に割り振り、遠くは長野や千葉からも米や塩、油、魚介、肉、海藻、絹、陶器、筆などが斎宮に運ばれています。斎宮は京の都をコンパクトにしたような、斎王のための都だったのです。斎宮駅に近い「さいくう平安の森」には、平安時代に儀礼や饗宴がひらかれた「正殿」、 「西脇殿」、「東脇殿」が、発掘調査で見つかった柱の跡に従い建っています。斎宮の建物は伊勢神宮にも共通する掘立柱式で、屋根は檜皮や板葺きだったと考えられます。これまで 2000棟近くを発掘しましたが、瓦はほとんど確認されていません。「さいくう平安の森」向かいの近鉄線や竹神社周辺からは、掘立柱塀や斎宮最大規模の建物、多数の祭祀土器が発掘され、平安時代の斎王が暮らした「内院」だったと考えられています。斎王の役割は天皇にかわり、天皇家の祖先神天照大神をまつる伊勢神宮に仕えることでした。天皇がかわるたび未婚の内親王から卜定(占い)で選ばれ、天皇が崩御すると斎王の任を解かれ都に戻ります。最初の斎王は天武天皇の娘大来皇女(おおくのこうじょ)といわれ、660年にわたり 60人余りが記録されています。斎王に選ばれると 3年ほどかけて身を清め、伊勢神宮の神嘗祭にあわせ都をたちました。大極殿で天皇は斎王の髪に小さな櫛をさし「都の方におもむきたもうな」と二度と会えない覚悟を告げます。この場面は「別れのお櫛」と呼ばれ『栄花物語』など王朝文学に描かれました。都を発った斎王は輿に乗り、近江の勢多、甲賀、垂水から鈴鹿峠を越え 5泊 6日の旅で伊勢神宮へ向かいます。親兄弟や許婚者との別れは斎王にとって辛いものでした。天武天皇が崩御した際は、大来皇女の弟大津皇子が後継者争いに巻き込まれ謀反の疑いから死を賜ります。斎王を解かれ都に戻る大来皇女は弟を忍び、 「神風の伊勢の国にも あらましを なにしか来けむ 君もあらなくに(万葉集巻二・163)」神風の吹く伊勢に留まればよかった。君がいない都になぜ戻るのだろうという歌を残しました。 『伊勢物語』六十九段「狩の使」には斎王 文徳天皇の娘・恬子内親王と主人公(在原業平)との一夜かぎりの儚いロマンスが語られます。若くして神に仕える斎王は都人の関心を集め『源氏物語』『伊勢物語』『栄花物語』『万葉集』『大和物語』『とはずがたり』など、数々の王朝文学に描かれてきました。 斎王は伊勢神宮でひらかれる年 3回の三節祭(9月の神嘗祭、6月、12月の月次祭)に参加しました。斎王はその前月の晦日に祓川や尾野湊(大淀浜)で禊を行い、祭の日程にあわせて 2泊 3日の行程で伊勢に赴きました。4月19日〜6月15日までの春季企画展「斎王のよそおい.王朝人のファッション are-colle.」では、華麗な装束が展示されました。華やかな草花と歌人を描いた屏風は、土佐光起の「三十六歌仙図屏風」です。三十六歌仙に数えられた斎王・徽子女王(よしこじょうおう)は「大淀の浦たつ波のかへらずは変はらぬ松の色を見ましや」を残しています。和歌や琴の名手であった徽子女王は、都に戻ると村上天皇の寵愛をうけ文芸サロンの中心となりました。村上天皇が崩御し娘の規子内親王が斎王に選ばれると、周囲の反対を押し切り共に斎宮へくだります。紫式部はこれを六条御息所に置き換え『源氏物語』に描きました。永い眠りから蘇った斎宮の姿は、今も都人への想像力をかきたててくれます。 12 12 30 1 2 10 13 6月日、インドのアーメダバード空港で、エア・インディアのボーイング 787が離陸直後に墜落し、乗客乗員 241名に加え、地上にいた医大生など名以上が亡くなりました。悲劇の原因はまだ分かりませんが、一説には電源の喪失や燃料供給、エンジン制御装置などの不具合で、エンジンの出力が上がらなかったためといわれます。機長は離陸直後に「メーデー……推進力がなく出力低下、上昇できない」と管制官に訴えました。 日の事故があってもボーイング 787は運行停止されず、日も都心上空を沢山の 787が飛びました。事故を起こしたエアインディアの 787VT − ANBは事故日前の 6月日には、羽田〜デリー便に使用され首都圏上空を飛行しています。 787は 2011年に初就航した新しい機体で、 ANAや JALも 130機以上を保有し、今回がはじめての死亡事故でした。設計上は最高クラスの安全性が確保されていますが、ボーイング社は 737MAXの墜落事故や部品落下事件、労働組合のストライキなどで業績が悪化し、 2024年度には兆 8000億円の最終赤字を出しています。製造ラインでは工程や検査の省略、時間やコスト、人員の削減が行われ、改善を その 61 青山ナシオ は 3500 便は B m 報告した社員が不審死する事件も発生しました。今回の事故でボーイング社の業績はさらに悪化し、現場の厳しさを増す可能性があります。 エア・インディアの事故原因として注目されているのが、滑走路の途中から離陸したのではないかという疑惑です。アーメダバード空港の滑走路 と充分な距離がありますが、滑走路の端まで行かず、真ん 中のあたりから離陸したという航跡が Flightradar されていました。そうなると 1800 m ほどの滑走距離しかなく、充分 な速度がでないまま離陸してしまい上昇できなかった可能性も出ています。またエア・インディアは機体の整備が充分でないことも知られていて、機内のテレビモニタが使えない、エアコンが効かないことも珍しくなく、インド航空当局から整備不良についての警告や勧告をたびたび受けました。安全運行や整備を遵守する企業文化が欠如していたと思われます。 何重にも安全が保証された最新の旅客機であっても、経済性や省力化を優先する意識が墜落につながることを、今回の事故は示しています。パイロットの操縦ミスという論調も聞かれますが、それだけに留めてしまったら、メーカーや航空会社の責任回避を繰り返すことになってしまうでしょう。企業のあり方が、機体整備や操縦、サービスの質を決定するのです。 都心上空を飛ぶ羽田新航路も、旅客機増便によるインバウンドの増加、 6000億円の経済効果を目的に始まりました。新航路の運用時、出発 滑走路を使って川崎方面へ離陸し、コンビナートや住宅街の上を 上昇します。もし離陸直後の墜落事故が起これば、コンビナートは火の海になるでしょう。 24 に記録 竹川竹斎と射和の町 羽織袴に刀を差した人物は、英国公使パークスとの会談に赴く竹川竹斎です。松阪市「射和(いざわ)」を代表する商家竹川家で、竹川竹斎は6代目当主 政信の長男として1809年に生まれました。 竹川家のルーツは近江の浅井氏といわれ、浅井長政が織田信長に敗れた際、長政の叔父友政と息子の政賢が射和の竹川半左衛門家に身を寄せ、その娘を妻にめとったといわれます。射和は平安時代から、丹生(にゅう)の水銀を原料とする伊勢軽粉(おしろい)で知られました。櫛田川の水運を利用して、白粉や木綿を東北に行商する商いを始めると、1661年には江戸に両替商をひらき、1702年、紀伊国屋を買収。松坂の三井家、射和の富山家、京都の白木屋と共に江戸白子組木綿問屋仲間を結成し、大伝馬町を拠点とする長谷川家、川喜田家、小津家を凌ぐ勢力となります。最盛期には江戸に 6店舗(両替商、絹物店、木綿問屋、酒問屋、荒物問屋、醤油店)と京都に仕入れ店、大坂に両替商を構えました。父竹川政信は本居宣長の門人、母は賀茂真淵の門人の娘というインテリ一家に生まれた竹斎は、少年のときから蔵書を読み漁り、12歳で江戸へ奉公に出たものの商家の暮らしは馴染みませんでした。18歳で射和に戻ると、大坂、京都で儒学や国学を学び生涯 75冊にもおよぶ日記をつけ始めます。この日記は商家の日常、世相、風俗が読み取れる貴重な史料として大学の研究材料になっています。裏千家の茶事作法をまとめた『川船の記』には、大老井伊直弼が暗殺された桜田事変のことが書かれ、この史料をもとにした『新史料が導く桜田事変 豪商・竹川竹斎のビッグデータを読み解く』(岩田 澄子、田久保 國子著) は、従来とは異なる暗殺の現場とその後の顛末を明らかにしました。竹斎は豊富な人脈を活かして、射和にいながら桜田事変 の情報を蒐集し、茶事作法の中に隠すようにして残したのです。 松坂商人に先立って江戸に店を出し、富山家、竹川家、国分家などの豪商が生まれた射和でしたが、商家の台頭により農家が衰退し、飢饉もあって村では食糧難が続きます。豪商たちは村人にたびたび米を支給しましたが、竹川竹斎は根本的な解決にはならないと考え、灌漑用ため池を計画します。竹斎自身が江戸の測量技術者奥村増.(ますのぶ)に学び、3500両(約 3億 5千万円)の予算は竹川家をはじめ豪商が負担しました。村人延べ8万 5千人が参加したため池によって 26町歩(東京ドーム約 5.5面分)もの田が潤され、今も「射和上池」と呼ばれ農業用水に使われています。 射和共同墓地に佇む、大淀三千風(おおよどみちかぜ)の墓。射和の商家に生まれた三千風(本名三井友翰)は、芭蕉に先んじた旅する俳人として知られます。 竹川竹斎は、幕末に盛んになりつつあった茶の輸出に目をつけ、櫛田川流域に茶畑を開墾して製茶工場を作りました。茶は川を下り松坂の大湊から横浜に運ばれ、竹口家の養子となった弟・竹口信義によって輸出されます。しかし尊王攘夷運動が盛んになると輸出は停止し、竹斎も開国論者として命を狙われました。明治になると竹斎は、静岡県初代知事大久保一翁に請われ、茶栽培のノウハウをまとめたノートを贈っています。一翁はそれを参考に失職した武士の雇用対策として、静岡の牧之原台地を開墾し輸出向けの茶栽培をすすめました。大久保一翁は江戸無血開城の際、勝海舟、山岡鉄舟と共に西郷隆盛との交渉を行い「江戸幕府の三本柱」といわれた人物です。竹川竹斎は輸出向け陶器の制作にも挑戦し、射和小学校の裏山には「射和萬古」の窯跡があります。江戸中期、桑名の豪商沼波弄山によって開窯した萬古焼は、京焼にならった文人趣味の焼き物でした。銘碗の写しをはじめ異国趣味の華麗な色絵を施した作品は、江戸でも評判を呼びます。萬古焼は一時途絶えますが、沼波弄山の血を引く竹斎の父は、萬古焼の陶法(陶土、釉薬、図案)を記録していました。それを元に竹斎により1856年に再興された射和萬古は、輸出向け茶道具や醤油瓶を作ったものの 7年で途絶えてしまいました。今は松坂萬古にその技法が引き継がれています。大久保一翁小栗上野介忠順英国公使 パークス 1853年ペリー艦隊が浦賀に来航すると、45歳の竹川竹斎は老中阿部正弘の呼びかけに応えて『海防護国論』を書き、勝海舟や大久保一翁を通して幕府に献上します。日本の貨幣価値を高めること、北海道を開拓すること、鉄道を敷くことなど、勝海舟の海軍操練所やその後の活動に大きな影響を与え、彼らを資金面でも支援しました。竹斎の存在は幕府にも注目され勘定奉行・小栗上野介忠順に招かれて江戸へ赴き、外国米の輸入や海運についてアドバイスを行い、英国公使パークスやヘボンとも面談しています。竹斎は禁制だった世界地図を所有するなど、商人のネットワークを活かして射和にいながら最新の情報を集め、勝海舟や江戸幕府のブレインともいえる活動を行っていました。 射和文庫。 竹斎は 20歳頃から茶道を始め、裏千家 11代家元 玄々斎と親しくします。40歳の時には京都「今日庵」を借り、竹斎が亭主となって家元を招いた茶会を開いています。竹斎は玄々斎をたびたび射和に招き、家元直伝の点前を 30人で一度に習ったこともありました。体験や知識を皆で共有することを大切にした竹斎は、晩年の仕事として 「射和文庫」を開設します。自分の人生の基礎は若い頃に読んだ書物にあると考えた竹斎は、貴重な本を秘蔵しては意味がないと、蔵書だけでなく寄付を合わせ1万数千冊を公開する「射和文庫」をひらきました。禁止されていた世界地図やキリスト教関連の本など、あらゆる種類の本が揃えられます。こうした陰徳の精神は妹の政に引き継がれ、その孫である川喜田半泥子へとつながっていくのです。 2兆円企業となった国分家 K& Kの缶詰で知られる国分グループの本家は射和にあります。国分家は代々勘兵衛を名乗り、そのルーツは伊勢国をおさめた北畠家の家臣国分喜左衛門にあり、射和や明和、松坂に領地をもっていました。織田信長の伊勢侵攻によって喜左衛門が討ち死にすると、3歳の弟は難を逃れ射和で育ち、商売を始め勘兵衛を名乗りました。4代目勘兵衛元隣は江戸の富山家大黒屋へ奉公に出て、18年勤めたあと暖簾分けで江戸日本橋に店を出し、屋号を「大國屋」としました。勘兵衛は富山家から津軽藩御用達や大名家松平、本多、大関といった有力顧客を譲り受け、富山家から仕入れた呉服を販売しました。 国分家と竹川家は向かい合っています。 大名相手の商売は、やがて支払いが滞るようになっていきます。それを補うため、国分家は霞ヶ浦西岸の土浦で醤油醸造を始めました。土浦には国分家の先祖平国香(たいらのくにか)の祠があり、参拝に訪れた元隣は大豆がよく育ち水運の便も良いことに気づいたのです。1725年から醤油の出荷をはじめ、1740年になると呉服の売上を上回るようになりました。国分家の会計は、富山家で学んだ複式簿記によって記録されているので、経営の推移が明確に分かります。当時の醤油は大坂から運ばれていましたが、霞ヶ浦から川をくだり日本橋へ運ぶルートを開拓し、国分グループの事業である物流業をはじめました。東京日本橋の国分本社。江戸っ子の好みに合わせた辛めの醤油は「むらさき」と呼ばれます。日本橋店は醤油問屋へ発展し、1756年には呉服をやめ、大名の未回収金を醤油の利益で補いました。国分家は竹川竹斎の射和上池の造成にも千両以上を提供しています。8代目の信親は竹川竹斎の弟で、国分家へ養子に入り製茶事業にも協力しました。明治 10年には醸造業から撤退し、食料品販売問屋に転換。時代の先を見据えた兄竹斎のアドバイスもあって明治の混乱期を乗り越え、グループ連結売上 2兆円以上の企業に成長しました。今も国分家の12代勘兵衛が代表をつとめ、株式は非上場となっています。 国分家の墓所。 【 Webマガジン コラージは、オフィシャルサポーターの提供でお届けしています 】