世界一美しい発電所 落合楼水力発電所
豊かな水源に恵まれたわが国には、全国に小規模な水力発電所が沢山あります。
ここ伊豆・湯ヶ島の温泉地では、老舗旅館と電力会社が協力して水力発電所を再生。
川の美しい景観を取り戻しました。
JR三島駅から伊豆箱根鉄道に乗り換え、修善寺駅から東海バスで「湯ヶ島」に向かいました。ここは川端康成が「伊豆の踊子」を執筆したことでも知られる温泉地です。主人公の学生はここで踊り子の一行を見掛け、旧天城トンネルを抜けて下田までの旅を共にします。天城トンネルといえば、松本清張の「天城越え」も有名です。こちらの主人公である家出少年は、下田からトンネルを抜け湯ヶ島に着きますが、精魂果てて家へ帰ろうとするとき運命の女性と出会います。
湯ヶ島では本谷川と猫越川が合流し、狩野川となって修善寺へ流れていきます。合流点にかかる「出会い橋」(男橋、女橋)は、歴史ある温泉地の艶っぽい雰囲気を漂わせていました。橋を渡ってすぐの「落合楼 村上」は、古くから文人達に愛されてきた宿で、本館や離れの「眠雲亭」などが有形文化財に登録されています。
落合楼は明治のはじめ、足立三敏氏によって開業しました。その頃の伊豆は金山ブームの最中で、ここ湯ヶ島の金山も16世紀後半から1970年代まで操業されていました。全国から集った鉱山師達の相手をしながら、足立氏は鉱山業に着手して大成功します。そして金本位制から貨幣経済へ移る昭和初期に金山を売却。本館などを昭和8年から5年がかりで建てました。現オーナーの村上昇男さんによると、当時の総工費は25万円(現在価値25億〜30億円相当)を掛けたそうです。
村上さんは毎朝、宿泊客を案内した館内ツアーを開いています。文化財として受け継がれた落合楼の価値を伝え、伊豆の職人達の技を知って欲しいといいます。
伊豆半島は、腕の立つ大工や左官、建具職人を多く輩出した地として知られました。「昭和のはじめ世界恐慌のおり、足立家は地元の職人達を支援するため、わざと時間と手間をかけた建物を建てたのでは……」と村上さんは推察しています。それを示すように、館内には金物の細工はほとんど無く、シンプルな納まりを追求した高度な大工の技や、細工のこった絵画的な建具が随所に見られます。
2002年、村上さんが落合楼を引き継いだ頃、印象に残った1枚の写真がありました。「美しい池にボートを浮かべ避暑を楽しむ人々」。それが水力発電所の取水池であったことを知った村上さんは、地域と共に歩んできた足立家の姿勢に心を動かされ、この風景をぜひ復活したいと思ったそうです。
落合楼水力発電所は、狩野川を利用した自家発電施設として1953〜1995年まで稼動していましたが、その後は取水池の岩がむき出しとなり荒れた状態で、資金的にも再生は不可能に思えました。そんな時、東京発電(株)という会社から「発電所を再生できるか調査したい」という依頼を受けました。それに賛同した村上さんは、全面的な協力を決意したそうです。
上は放置されていた頃の発電所です。堰堤が機能しないため取水池に水が溜まらず、魚の遡上も妨げられていました。
再生を手掛けた東京発電(株)は、関東や静岡で64カ所の水力発電所を運営・管理しています。ここは同社の事業のうち「廃止水力発電所の再生」にあたり、経営上の理由や天災などで放置された水力発電所の再生を行っています。
現場への通路が狭いこともあり重機を使えず、社員たちが導水路や沈砂池(ちんさち)の砂や泥を手作業で取り除き、根気よく再生を進めました。その姿を見ながら村上さんは同社との連帯感を感じ、今も当時の社員達と交流を続けているそうです。
老舗旅館と共存し、その名を冠した世界唯一の発電所は、経済産業省とNEDOが選定した「新エネ百選」にも選ばれています。
取水池の景観は客室からも楽しめます。この発電施設は「流れ込み式発電所」というタイプで、取水池に貯めた水を取水口から取り込み、水路を通じて発電所本館に送ります。本館内の水車式発電機は、4.80mの落差を利用して100kW(年間約76万kWh)の電力を生みだし、全量を東京電力へ売電しています。
うれしいな、またおいで下さったんですね。会社で嫌なことがおありですか。まあそう気落ちなさらず、どうぞお掛け下さい。きょうの星屑はこれ、南の海のエメラルドのような緑がかった光を放っているやつ。ほら、波の音と共に、お話が聞こえてきますよ。
ノルウェイの海辺にある寒村の牧師館。そこでバベットは女中として質素な料理作りに励み始めます。その数か月前、彼女が逃れてきたパリ市内は血みどろの内戦に見舞われていました。フランスは隣国プロシア(ドイツ)との戦争(普仏戦争)であっという間に敗北。これに激高したパリ市民は、時の政府の打倒を目指します。そこへ敗残兵としてボロボロになった男たちが続々と帰還してくる。当然、心はすさみきっている。「すべては政府が悪い!」いやがおうにも体制打倒の機運は高まり、反政府の戦列に加わる者も数えきれない。こうして1871年3月「パリ・コミューン」運動は始まります。やがて反政府勢力は徐々にパリを制圧、その勢いの強さに恐れをなした政府軍はパリを放棄してヴェルサイユへと逃れていく。革命だ!
この大混乱のパリに、捕虜生活からやっとの思いで戻ってきた一人の料理人がいます。現代フランス料理の基礎を完成させ、大ホテルの厨房システムを革新することになる、オーギュスト・エスコフィエ(1846〜1935)です。
出征前にシェフを務めていた店「プティ・ムーランルージュ」に戻ろう。そう思って25歳のエスコフィエがたどり着いたパリは、革命の暴風雨が吹き荒れる内戦状態。「ここにいたら危ない」動物的な勘で察知した彼は、革命軍に招集される直前にパリを脱出してヴェルサイユへ。政府軍総司令官マクマオン元帥付のシェフ、セルヴィの下で料理人として働き始めます。人生の大切な局面で働く優れた勘は、この時も彼の命を救いました。なぜならパリ・コミューンは政府軍の反撃により瓦解し、わずか10日ほどの間に2万とも3万ともいわれる革命軍兵士が命を失うという終末を迎えることになるからです。歴史の転換点です。
エスコフィエの写真をご覧ください。男の顔が履歴書だとするなら、この写真はすべてを語っている。その人生を見ていると、まさに「男のなかの男一匹」。そう呼びたくなる稀有な存在です。普仏戦争の負け戦では、食糧不足から軍馬を食用にしたり、プロシア軍の捕虜となった後は、塩の欠乏からくる栄養失調もあって、収容所内に赤痢が蔓延するという惨状を生き抜いています。そうした生死背中合わせの状況下でも、苦労して食材を入手し、これを創意と工夫でおいしい料理に仕立て上げ、気落ちしている捕虜仲間を料理の力で勇気づける。「そばにいれば何とか生き延びられる」そんな気にさせた男だったという印象をうけます。
エスコフィエは、こうした戦争体験を経てますます根性のすわった男になっていく。後の成功の原点です。パリ・コミューン終結後は、軍役の合間の休日を利用して元の職場であるレストランの営業を再開させるという離れ業を演じ、その一方で所属も新たに、料理人として軍隊生活を続けます。
ところで、バベットがシェフを務めていたという超高級レストラン「カフェ・アングレ」(カフェ英国亭)にしても、エスコフィエが再開した「プティ・ムーランルージュ」にしても、注目すべきはその客筋です。パリに集まっている諸外国の王族・貴族、外交官や軍人、政治家に超お金持ち、そういった層が顧客の中心層だった。ここがキーポイントです。当時からパリの高級レストランは、外国人が重要な顧客層を形成していました。たとえば「英国亭」という店が象徴するように、戦争前からパリで英国人は羽振りが良かった。普仏戦争での敗戦やコミューンの内戦を経たパリで、お金に余裕のある優雅なフランス人などいるわけもない。
当時欧州一の国際都市パリで、外国人が高級レストランの顧客の中心となるのは、当然すぎるほど当然のことだったのです。「お客こそが店の個性を創り上げる」これは飲食業に限らずサービス業の大原則です。「フランス料理」という名称とは裏腹に、パリの高級レストラン料理は当初から、諸外国の要人たちの嗜好を重視する中で発展していった。今まであまり語られることのなかったこの点に注目すると、高級フランス料理の歴史の見え方が従来とは大きく異なってくるはずです。だからエスコフィエも、英国伝来のグルメ料理である「海亀のスープ」いえ「海亀のヒレ、ソースアメリケーヌ」とか「同マデラ酒風味」なんてお料理を作ることになるわけです。
映画『バベットの晩餐会』の原作者カレン・ブリクセン男爵夫人(1885〜1962)は、こうした歴史背景を十二分に咀嚼した上で、この「海亀のスープ」という料理を登場させているように思われます。
海亀の長い航海、次回へと続きます。
落合楼水力発電所を再生・運営している「東京発電(株)」は、昭和3年に姫川電力(新潟県・糸魚川)として創業した歴史ある水力発電会社です。その施設には、日本初の鉄筋コンクリート造発電所「石岡第一発電所」(明治44年)や「花貫川第一発電所水路橋(通称めがね橋)」(大正7年)など、重要・有形文化財に登録された施設もあり、年間約9億kWh(総出力約18万3千kW)を水力発電によって供給しています(右図参照)。
同社は今、環境と共存する発電方法といわれる「マイクロ水力発電」のトップ企業として注目されています。その仕組みと可能性について、同社マイクロ発電グループの富澤 晃さん、濱田督子さんに伺いました。
潜在的なエネルギーを活用する「マイクロ水力発電」
Colla:J編集局:そもそも「マイクロ水力発電」とは、どのような発電方法をいうのでしょうか。
東京発電:当社のマイクロ水力発電は「水道施設」や「農業用水路」、「河川の堰」などに眠っている「未利用の水エネルギー」を発電に活かしていく手段です。既存の水の流れを利用するので、新たなダムや大規模な施設を建設する必要がなく、環境負荷をかけずに水エネルギーを活用できます。
例えば水道局と協同したマイクロ水力発電所では、水道水の圧力調整施設などを利用して、従来は捨てていた水エネルギーを水車式の発電機によって取り出すことが可能です。火力などと異なりエネルギーを作るコストはゼロに近く、水道水や環境に対する影響もありません。
Colla:J編集局:なるほど。既存の設備を利用しながら、今まで捨てていたエネルギーを活用できる理想的な発電方法と思います。
東京発電:ただしマイクロ水力発電は、発電を行う地点や、状況にあわせた発電方法を正しく選択・実行するノウハウが必要です。当社ではマイクロ水力発電のビジネスモデル「Aqua μ(アクアミュー)」(新エネ大賞・日本水大賞受賞)を展開し、より多くのお客様がマイクロ水力発電を導入しやすい環境を整えました。ビジネスモデルは大きく分けて「当社が運営主体になるタイプ」と「お客様が運営主体になるタイプ」があります。どちらも水資源の判定から資金調達、設計・建設、法務処理、維持管理まで、当社が主体となったり、お客様にアドバイスしながら進めます。そこで得られた電力は、お客様が自己消費したり、売電した利益を受け取ったりできます。
Colla:J編集局:こうしたビジネスモデルがあると、ぐっと現実的に考えられます。水資源をもつ企業や自治体には様々な可能性がありますね。
東京発電:水道水の他に、農業用水も有望なエネルギー源です。日本の農業地帯は、網の目のように「農業用水路」を張り巡らしています。岩手県の事例では、農業用水路の小さな落差を利用する小型水力発電機を開発し、そのモデルケースを手掛けました。発電量は約5kW(エアコン3〜4台分)しかありませんが、エコキュートのような装置を利用して、ビニルハウスの暖房に利用できます。従来は重油に頼っていた熱源に変え、マイクロ水力発電は二酸化炭素を出さずランニングコストも下げられます。また極小規模の水車を、山間部の送電設備のない農地でイノシシ防止用の電気柵に利用した事例もあります。
Colla:J編集局:発電量や発電コストだけでは計れない効果がありますね。
東京発電:こうした活動を後押しするように、今年の3月には電気事業法が改訂され「発電量200kW未満で毎秒の使用水量が1t未満の場合は、電気主任技術者の選任義務や工事計画届出は不要」となりました。従来は10kW以上発電すると「事業用電気工作物」と見なされ、大規模な発電所と同じ扱いを受けましたが、この規制緩和によってマイクロ水力発電所の設置・運営は格段に実現しやすくなりました。
「河川法」とマイクロ水力発電
Colla:J編集局:河川の水力を利用しようとする際に、「河川法」による規制を受けるとよく聞きます。河川法は水力発電にも関わりますか?
東京発電:日本の全ての河川は、国や地方自治体が管理しています。その水を利用したいときは、河川法にもとづいて年間の水量や下流への影響などを調査し「水利権」(河川の水を利用する権利)を得るための申請をしなければなりません。これに大変な時間やコストが掛かるため、「自宅の裏の小川で発電したい」といった希望は最も難しいのです。一方水道局の場合は、川の水を浄化して水道水になった時点で、河川法の範囲から外れ自由に使えます。また農業用水路は、農家によって全国各地で結成された「土地改良区(通称・水土里ネット)」が水利権を保有しています。そのため発電の申請(従属発電)は比較的容易に認可されます。
Colla:J編集局:素人から見ると、電力不足解消のためにも早く河川法を改訂して欲しいと思います。
東京発電:昔から「水の一滴は血の一滴」といわれ、水利権を巡る歴史的な対立もありました。たしかに小規模な水力発電は、水量には影響を与えません。しかし規制緩和は、地域の事情や発電方法を吟味して行う必要があると思います。
Colla:J編集局:マイクロ水力発電は、河川や電気に対する意識を変えるいいきっかけになると思いました。こうして作られた電気を「地産地消」していくこともできますか。
東京発電:大手電力会社には、「発電する機能」と「送配電する機能」があります。例えば町の発電所で作った電気を町民に直接供給するとなると、発電だけでなく配電のためのノウハウが必要です。今のところ日本では10電力会社しか配電ノウハウを持っていません。そこで注目されるのが「スマートグリッド」です、スマートグリッドの普及によって発電と配電のバランスを格段にコントロールしやすくなります。その中で、天候の影響を受けにくいマイクロ水力発電所は、24時間連続運転できるベース発電になりえます。現状では、当社の水力による総発電量は約18万3千kWに留まっています。しかしここ数年、予想を上回るペースでマイクロ水力発電所は増加中です。
Colla:J編集局:水力は安定した電力を供給できる、我々の将来にとって大切なエネルギー源であることが分かりました。本日はありがとうございました。
水道局の実例 鷺沼発電所
東急田園都市線 鷺沼駅前の再開発に合わせ、川崎市水道局との共同事業で誕生した「鷺沼発電所」。小学校の校庭やフットサル施設の地下には、水道局の「鷺沼配水池」が設けられています。そこへ流入する水道水のエネルギーを利用した、水車式の水力発電機を設置しました。出力90kW、年間で53万kW(一般家庭約155軒分に相当)を発電します。電力は東京電力へ全量売電されています。
波田堰マイクロ水力発電実証実験 波田水車
長野県波田町(現松本市)の用水路を使った、水車による発電実証実験施設です。旧波田町は、「新エネルギーを育むまち波田町」をテーマに波田町自然エネルギーコンテストを開催。その最優秀作品となった横浜国立大学大学院の提案を元にしてこの水車を設置しました。こうした水車の発電効率は低いものの、町おこしなどのPR効果は高くなります。発電能力だけでなく、目的にそった発電方式を選ぶことが大切といえます。
6月は、ずっとジャワの工房暮らしだった。
5月~8月の乾季は、すごしやすい晴れの日つづきだ。
それにオイラの好物のマンゴーが市場に登場する。
いろんな種類のマンゴーがあるが、
いちおしが「ハルマニス」だ。
甘酸っぱい、そして香りがある。
甘いだけのマンゴーが多い中、このマンゴーには、
甘さ+すっぱさ+香り+うま味+α の総合性がある。
うまい食材にめぐり逢えるのは、「幸せ」だ。
だからだろうか、海外の楽しみに「地元の市場」と「料理専門のTVチャンネル」を見ることがある。
その中で、今いちばん気に入っているのは ……
「ジェーミーの料理番組」だ。
彼の番組は、料理であって、料理じゃない?
彼が主役のひとり舞台なのだ。パフォーマンスなのだ。
It’s Perfect!
Oh Beautiful!
の自画自賛がとてもキモチいいのだ。
It’s Perfect!は、「どうだスゴイだろう! まあ、完全じゃないけど、どこにもないオリジナルにチャレンジしているョ」と、
オイラには伝わってくる。
完璧なんてウソっぱち「オリジナルにチャレンジするキモチと技術」が大切さ、とオイラに訴えてくる。
こんなチカラ強いパフォーマンスは、生の舞台そのものだ。
料理人の内から湧き出てくるホンモノのパフォーマンスだ。
残念だが、日本の料理番組とは、考え方が全く違う。
「サヨナラ、家庭科の教科書のような料理番組。」
今の日本に必要なのは、ジェーミーのような、チカラ強い、
内から生まれるパフォーマンスじゃないだろうか?
日本人で言えば、インテルミラノの長友選手だ。
オイラは、長友選手とジェーミーがオーバーラップしてしまう。
ゴールした時に、It’s Perfect! を、イタリア語で叫んでほしい。
河津七滝 かわづ ななだる
湯ヶ島温泉から東海バスで約35分。
河津七滝は7つの滝を間近で見ながら、
修験者の気分を味わえる散策路です。
デザイナー水戸岡鋭治さんとドーンデザインアソシエイツの仕事を紹介する大規模な展示会が、8月3日〜24日までJR九州博多駅の「JR博多シティ」で開催されます。
3月にオープンしたばかりの国内最大級の駅ビル・博多シティは、水戸岡さんデザインの鉄道神社をまつった「つばめの杜ひろば」(屋上)など、数々の楽しい仕掛けが好評です。
その9階ホールを中心に開催される「大鉄道時代展」は、水戸岡鋭治さんの40年にわたる活動を集大成し、文字どおり「駅弁」から「新幹線」までのデザインを展示します。JR九州の列車をはじめ貴重な初期作品や試作品などから、その発想の源泉を垣間見る構成となっています。またドーンデザイン研究所の仕事場を再現し実際のデザイン作業が見られるコーナーや、特急つばめのビュッフェを彷彿とさせる「カフェ787」なども設けられます。
夏休みは博多駅へきんしゃい!
スマートグリッド その1
電力使用量の「一律15%削減」が、7月から約3ヶ月にわたり一部の地域を除いて求めらています。産業も家庭も全てです。電気も氷室の氷のように冬の間どこかに貯めておいて、夏それを取り崩して使うようなことが出来れば一番いいのですが……。この機会に、今号から15%削減要請が終了する秋までの3回程、暮らしを支える中心エネルギーであり続ける電力のあり方を「スマートグリッド」という概念を柱に据えて考えてみたいと思います。
電気は石油やガスのように、気体や液体ではありません。現在の科学力ではまだ貯めにくい性質を持ったエネルギーです。ですから日本は勿論のこと、世界中の発電は使う分だけをジャストインタイムで作ります。電力会社は供給電力が足りなくならないように、また多過ぎないように24時間需要量をウオッチしながら数秒単位で細かく発電量を調整しています。今のところ大半の電気は、消費地から遠く離れた場所(オフサイト=遠隔地)で巨大な設備によって効率よく大量に作られ、消費地へ高圧で送電されています。東京電力を「発電会社」と「給電会社」に分離する案が議論されていますが、日本の安定した電力供給は、発電・給電を一体としたきめ細やかなコントロールによって成り立ってきたといわれます。一方、欧米各国では、発電会社と給電会社を分離し、一般家庭でも電力会社を選べる国が増えています(電力の自由化)。その代わり供給と消費のバランスが崩れ、大停電を引き起す可能性も高くなります。
そこで電力の自由化を実現しつつ、安定した給電を可能にする技術として注目されているのが「スマートグリッド」(右図)なのです。
スマートグリッドは、以下の4つの仕組みを統合して成り立ちます。
● 従来型の水力、火力、原子力等各オフサイト発電による「集中型電源」で電力系統と言われるもの
● 集中型電源に対して、消費地や近郊で作られる太陽光発電や風力発電といった地産地消型のオンサイト発電(家庭、店舗、工場)。分散型電源とも言われ「新エネルギー」として区分されている。
● 家庭、店舗、企業、地域等で電気を貯めておく大型蓄電池やその施設。これから本格的に開発される容量の大きな家庭用蓄電池等、また燃料電池発電型電気自動車や外部から充電する電気自動車とその搭載された蓄電池も含まれる。
● それら性質の異なる発電方法や消費される電力を、トータルに制御するIT技術やシステム。
このようなことから最近は「供給側、需要側の双方向につなぐ電力と情報の新しいインフラ」と定義されつつあります。「情報制御電力網」の方がより理解し易いかもしれません。
実はスマートグリッドは「新エネルギー」の普及にも大きく関わっています。水力、火力、原子力による従来型発電は、大量の電力を安定して発電します(ここでは原発の危険性については触れません)。それに対し太陽光発電や風力発電などは、自然条件によって発電量が大きく変化します。太陽光発電であれば曇天では発電量が低下しますし、風力発電は微風時や凪の時はプロペラが回らず発電しません。発電量は自然任せなのです。
電気にも「量」や「品質」が問われます。電力の品質とは、電圧や交流の波形、周波数が一定範囲内であることと停電しない事だそうです。「新エネルギー」による予測の難しい電力が自然任せの状態で送電網に入ってくると、電圧や周波数の変化が起こり品質が低下します。その結果、使用している機器類に大きなダメージ等を与える可能性が増します。
それらを解決するために、太陽光発電や風力発電により生産された電気を発電所内で大規模な蓄電池に蓄え、送電網全体の状況を見ながら供給していけば安定した電力を提供できます。このように自然エネルギーをスマートグリッドに組み込むために重要なのは「電力の貯蔵技術」です。太陽光や風力で作られた再生可能エネルギー(電力)を貯蔵し、効率よく安定的に活用する為には、蓄電技術の大幅な発達が早急なテーマです。「蓄電池」はこれからの社会、経済、暮らしやすさ、エネルギー削減の鍵となるインフラになるはずです。
この夏、電力消費の削減が大きな課題となるなか、一般家庭で今すぐ可能な対策のひとつとして注目されるのが家庭用燃料電池「エネファーム」です。2005年から約6年間にわたってエネファームを使ってきた小林清泰さんに、日常生活での実体験を伺いました。
Colla:J編集局:小林さんが家庭用燃料電池を自宅に導入しようと思ったきっかけは何ですか。
小林清泰:新エネルギー財団を主体とした国の事業「定置用燃料電池大規模実証」のモニターに応募したことがきっかけです。これは実際の家庭でエネファームを使ってみて、その実測データを収集して普及に役立てようという実証実験で、我が家には2005 年11 月に設置されました。当時の何よりの動機は、燃料電池はCO2排出量が少なく、普通の生活を送りながらCO2 削減に貢献できると思ったことでした。
編集局:エネファームの仕組みを簡単に教えてください。
小林:Colla:J 2009年1月号の連載に、その仕組みを図解しています。簡単にいうと、都市ガスに含まれる水素を取り出して、空気中の酸素と反応させて発電する仕組みです。また発電時の高熱を利用してお湯を沸かし貯湯します。このことからエネファームは「燃料発電・給湯装置」といった方が理解しやすいかもしれません。導入時は荏原バラード製を使っていましたが同社は燃料電池事業から撤退したため、我が家も数年前にパナソニック製に変わりました(東京ガスでは現在パナソニック1社で製造)。
編集局:どの位の発電効果があるのでしょうか? またランニングコストは高くありませんか。
小林:発電量は最大約「1kW」です。半年間で合計約2000kWh発電したこともありました。一方ランニングについて、エネファームは都市ガスを使って発電するのでガス使用量は増えますが、 導入した家庭には特別優遇のガス料金プランが適用され、ガス料金の増加額は抑えられます。実はエネファームで発電される1kWでは家庭の全電力はまかなえません。電力会社からの給電と合わせて使用します。我が家は冷暖房をエアコンに頼っているため季節によって電気使用量は大きく変わりますが、導入前に比べだいぶ安くなりました。その分電力会社の電気を使わなくて済んでいるわけです。震災前にくらべ「1kW(1000W)=10A」のオンサイト発電の意味は、非常に大きくなっているのではないでしょうか。
編集局:単純に考えると、30A契約の家庭では最大で3分の1を賄えることになりますね。天候による変動もありませんから、太陽光発電よりも確実に電力をまかなえそうです。実際の生活に不便な点はありませんか。
小林:家庭用燃料電池には「発電するたびにお湯ができる」という特性があります。実は私たち家族は朝にシャワーを浴びる習慣があり、夜間に貯湯しておきたいのですが、夜は電気をあまり使いません。そこで防犯灯を設置するなどして夜間にも発電するよう工夫しました。結果的に防犯灯は近所にも喜ばれたのですが、当初はだいぶ悩みました。なおお湯が足りない時は補助用のガス給湯機が機能するので生活の不便はありません。湯切れの心配がない点は、深夜電力利用の貯湯システム(エコキュートなど)よりも優れていると思います。
編集局:太陽光発電のように電力の買取り制度があれば、発電能力をより活かせそうです。
小林:エネファームはCO2 削減効果は高いものの、化石燃料(ガス)を使うので自然エネルギーとしては認められていません。また発電機でありながら、現状のシステムでは停電してしまうと使えません。そこで今後大切になると思ったのが、今月の連載で取り上げた「スマートグリッド」や「蓄電池」です。スマートグリッドの整備と一般家庭の電力自由化が進めば、余分な電力を売電することも可能になります。また家庭用蓄電池を組み合わせれば、夜間の電力を貯めておいて昼間に使うこともできます。
編集局:確かに今年は家庭用蓄電池元年となりそうです。計画停電対策やパソコンの無停電化など、一般家庭でも蓄電池の必要性を感じる機会は確実に増えています。また将来的に電気自動車の購入を考える方も多くなっているようです。電気自動車を蓄電池の一種として活用することも考えられます。
小林:これからエネルギー政策が大転換しても、化石燃料や原発から再生可能エネルギーに移行にするのに数十年かかるでしょう。経済活動を守りながらどう移行するかが問題です。欧米では電力供給会社と発電会社の分離が進んでいて、自然エネルギーやその他のエネルギーをユーザー自ら選択できるシステムが進んでいます。こうした事例ををもっと早くから理解して、方策を考えるべきだったと福島の事故を通じ身をもって分かりました。私としては電力会社から脱却して、燃料電池や自然エネルギーだけで我が家の全電力をまかなうことが夢なのです。
編集局:同様のことを考えている方は沢山いらっしゃると思います。電力を使うユーザーとしての意識を、もっと強くアピールする時代になったと感じました。
宮崎で育った僕は小さな頃から、親父や近所のおじさん達のくっさい焼酎の臭いと共に大きくなった。近所の通学路には宝焼酎の蒸留所があって、そこは芋焼酎の甘ったるくて、何とも形容しがたい近所のおじさん達の素行の悪さと、芋焼酎の蒸留される甘く嫌な臭いが繋がっているようで、焼酎には大きな嫌悪感を抱いていた。良いことと言えば、酔っぱらって帰ってくる親父が時々、上棟式の賽銭のように、ポケットの中の小銭を酔っぱらって子供達に向けてバラまく臨時収入くらいで、近所のおじさん達が2、3人集まるとくっさい焼酎の臭いが充満し窒息しそうになり、子供じみた悪ふざけや酔っぱらいに絡まれたりと本当に嫌な想い出ばかりで、大人になるまで焼酎の臭いを嗅ぐだけで吐き気さえ模様していたのだ。九州では、昔はお祝い事やお歳暮、お中元、新年の挨拶には必ず焼酎か日本酒をトライアングルかダブル紐で結んだ一升瓶を贈り物とした。その贈り物も熨斗紙を張り替えてグルグルと何軒かの家を旅することとなり、巡りめくって元の贈り主に戻ってゆくのだった。僕の父は町の町長をしていたので、そんな焼酎やお酒の贈り物も多く、両親が不在の時の来客があると『しょうちゅう出せ』と言われ、渋々とコップと一升瓶を持って応接間でタチの悪い客に鼻をつまみながらお酌をすることもしばしばであった。高校生くらいになるとお歳暮の洋酒も多くなり、僕が高級ウイスキーの調達担当となり、当時はおしゃれだったコークハイパーティーに役立った。もちろんお酒が美味しいなどと思える高校生などいない。大人の仲間入りの儀式が、タバコとウイスキーを友人達とゲロゲロになるまで飲むことだった。誰にもそんな初々しい時代があった。
お酒を飲み始めて30年が経つが、未だに深酒した翌朝は変わらず大きな自己嫌悪に苛まれる。
ワイスワイスの佐藤社長は一時、殺人未遂容疑者として病院や保険会社から怪しまれていた。僕が誤って飲んでしまったランプ用のオイルだが、病院や保険会社としては、大量のオイルを飲むこと自体、自殺未遂か殺人未遂としか考えられないと言う見解だった。しばらくはそんな容疑もあってプレデンシャルの入院保険も支払われなかった。真相は未だ謎のまま、佐藤社長は容疑者のままと言うことになっている。また、数々の酒の失態はその後も続くのである。僕の全ての友人達は一度や二度はその被害者となっているはずだ。数年前には、仲の良い友人のデザイナーの安曇朋子さんやアーティストのアラキミドリさん達と2−3軒のはしご酒をして、表参道から南青山の自宅に帰る道中にそこら中の壁に激突しながらフラフラ歩いていると、工事現場の壁に激突して、そのまま深く掘られた穴の中にゴロゴロと転がり落ちた。その勢いでジーンズは破れ、泥まみれで穴から這い上がってやっとのことで家路に着いた。マンションの3階に辿り着き、部屋に入ろうとするが、鍵が見つからない。ポケットの中にも、バッグの中身を全てひっくり返して捜しても見つからない。鍵は見つからないけど、強引にドアを引っ張って開けようとするけど、もちろん開くはず無い。そこまでは憶えていたのだが。誰かが僕の太ももを足の裏で蹴っている。『オイ、こら起きろ!』??
『オイ、こら起きろ!』の声に嫌悪感を持ちながら見上げると、そこには管理人のおじさんが仁王立ちしているではないか。僕の住んでいたマンションのフロアはふかふかのラグが敷き詰められていて、どうもそのまま自分の部屋とマンション共有部のフロアを勘違いして寝込んでしまった。そして気付くと僕は、ジーンズを脱ぎ、シャツを脱いで、かろうじてパンツ一枚で、9時半になろうとするマンションの共有部に脱ぎ捨てた服やバッグの中身をぶちまけて寝込んでいたのだった。エレベーターホールを何十人と言う住人がパンツ一丁の僕を避けながら、脱ぎ散らかした衣服を乗り越えていったことか。それからしばらく、住人達からの軽蔑した視線、避けるような行動に耐えられなくなり、ついに引っ越しをするはめになってしまった。それ以降はマンションやホテルの内装設計の仕事では、共有部にフカフカのラグを使用することは無い。
あの震災から1ヶ月が経った頃、あるウエブマガジンの編集をしているご夫婦から自宅での食事に招待頂いた。震災から緊張した時間が経過していたこともあり、久々にホッとする時間と奥様の美味しい手料理、そして美味しいシャンパンで楽しい時間が過ぎて行った。震災後は全ての人々が見えない恐怖と闘っていたし、日々報道される悲しみを内なる心に蓄積していたと思う。その心の重圧は自分でも捉えきれないし、ましてや他人には見えない心の葛藤があった。その旦那さんは時々、酔っぱらうとウトウトとすることがあった。その日もお酒が入り、旦那さんがウトウトとし始めた。しかし、瞼は閉じていない。大きく見開いている瞼、そして真っ白な眼球。まさに、ゾンビのように大きく見開かれた真っ白な眼球に心が凍り付いた。『や、ヤバい』と思うと同時に椅子に座った体が左に大きく傾き、倒れ始めた瞬間『○○○さん!』と言う奥様の叫び声、倒れそうな体を支えた。事の重大さで我に返った。奥様が背中をさすり、遠いてゆく存在を揺り戻すように奥様と僕は立ち上がり、旦那さんの背中を叩きながら、必死で呼び戻していたように思う。真っ白に裏返った眼球、そして口から突然、何かと一緒に食べたものを吐き出し、旦那さんは意識を取り戻した。しばらくの間は、僕も体がガタガタと震え、その恐怖感と戻ってきてくれたこと、そして奥様の咄嗟の直感に驚き、また安堵した。それから彼はオサケナシオと命名された。良い名前だと思う。その後、彼はプールに通って体と心を鍛え直していると言う。酒は災いのもとである。(終わり)
下田
ペリーの道
中伊豆から南伊豆へ。
日本開港の地、下田は、
アジサイの季節でした
下田には幕末の歴史が詰まっています。街を散策する前に、ペリー来航から開国までの歴史をおさらいしてみました。
嘉永6年(1853)6月、浦賀港(Colla:J 2010.3月号参照)にマシュー・ペリー率いる4隻の軍艦が現われます。ペリーは米国大統領の親書を幕府に手渡し、1年後の回答を約束して引き上げます。
約半年後の嘉永7年(1854)1月には、ペリーは軍艦9隻で江戸湾深く進行し、3月には「日米和親条約」を締結します。艦隊は条約により開港された下田へ移動し、5月には「日米和親条約付録下田条約」の交渉を了仙寺で行います。上陸した300人もの水兵は、軍楽隊の演奏に合わせ、下田港から了仙寺まで行進しました。その道は今「ペリーロード」と呼ばれ、当時の貴重な街並を残しています。
ペリーロードから、あじさい祭でにぎわう下田城山公園へ。公園からはペリーの上陸地点と記念の胸像が見えます。1830年代から蒸気軍艦の重要性を海軍に訴えていたペリーは、一時、ニューヨーク・ブルックリン海軍工廠の長官をつとめ、蒸気軍艦の建造を進めます。その成果が日本に初めてやってきた外輪船「サスケハナ」や「ミシシッピ」でした。また、ペリー艦隊の成果のひとつとして「植物採集」があります。航海には植物の専門家が同行し、浦賀や下田、函館、沖縄、小笠原などの植物を持ち帰りました。その研究成果により、日本と米国には非常によく似た植物があることを明らかにしました。今もニューヨーク植物園には、当時の植物標本が大切に保管されています。
深い緑を分け入ると。
陽が差し込む庭に出た。
今日は結婚式だ。
早めに着いたはずなのに、
すでに人でいっぱい。
会ったことのある人。
見知らぬ人。
知らない言葉で話す人々。
僕は少し不安になる。
招待状をカバンから取り出して、
どうせ言葉も通じないだろうから、
無言で受け付けの女性に手わたす。
人がその存在を許されるために必要な物とは何か?
人は自己を確認するために、例えば他者を必要とする。
物に例えてもいい。
そこに転がっている石を認識するためには、
それと別の何かとの経験的差別が必要だ。
ガーデンは緑に溢れている。
野晒しのくせにやけに白いテーブル。
色とりどりのグラス。
クスクス笑う女の子たち。
鐘の音が鳴る。
人々の歓声が湧きあがる。
空を指差して口々に何か言っている。
この世の人間が全て私であるなら、
私の存在は無くなるということだ。
この世の色が全て黄色なら、
黄色という色はもとより、
色の概念すら無くなるということだ。
ああ!
天空からキラキラしたものが降りてくる。
金色の粒子みたいなもの。
青い青い空に。
祝福が降る。
そして、
存在の輪郭は
その比較相対相手が多ければ多いほど、
より鮮明化する。
黒と白の比較で単純に構成される白黒テレビより、
様々な色で構成されるカラーテレビの方が
より世界を鮮やかに表現できるということだ。
愛の庭。
ブドウの実を。
お互いの口へ。
差し上げましょう。
私のそしてあなたの、
何もかもを。
いずれにしても、
人はその輪郭がより鮮明な時、
生きる喜びを感じ、
その輪郭がぼやけたり、
失ったりした時、
奪い合い、
与え合う。
死ぬのだろう。
何もない。
何もない。
何もない。
そんな星に。
相対物が降る。
何もない。
何もない。
何もない。
意識の奥深く眠る緑のガーデンに。
金のシャララが降る。
アートマンは何も言わない。
ただ微かに微笑み、
その大いなる俯瞰を持って、
我らを観察している。
渋谷の雑踏。
丈はふと空を見上げた。
そして、
薄く儚く。
透明な何かが、
壊れる音を聞いた。