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時空にえがく美意識
7月号 夏芝居 2015
http://collaj.jp/
銀座うきうき
銀座は銀河
江戸に創業した老舗から最新の海外ブランドまで、銀座は大小さまざまな星の織りなす銀河です。夏の銀座をそぞろ歩きして、輝きを放つ店々を訪ねました。
昔恋しい 銀座の柳仇な年増を 誰が知ろジャズで踊って リキュルで更けて明けりゃダンサーの 涙雨
東京行進曲(昭和4年) 作詞:西條八十 作曲:中山晋平 唄:佐藤千夜子
銀座「金春(こんぱる)通り」にたつ煉瓦遺構の碑。銀座の煉瓦街は明治 5年の大火をきっかけに、都市の不燃化と洋風化をはかった由利公正や井上馨の先導によりウォートルの設計で建設されました。銀座通りには古典主義風のフランス積みの建物にギリシャ風列柱のアーケードが続き、松や桜などの街路樹が植えられ、ガス灯の明かりも灯りました。交詢社のビル江戸時代から続く金春湯のネオンが灯り、夜の街へと変貌する金春通り。江戸時代の銀座は、金春流や観世流など幕府お抱えの能役者の屋敷町でもありました。8月には「能楽金春祭り」が開催され、8月7日には金春通りで、金春流宗家による路上奉納能が舞われます。
七丁目 田屋 銀座 7-7-12 TEL.03-3573-1494営業時間:11時〜20時(日・祝日休)
珍しい舶来品で知られた田屋では、店員がまだ用途を知らず、お客様に教えてもらうこともあったようです。木の棒に商品を掛けていた所、ゴルフクラブのシャフトである事を教えられ、ゴルフ用品を扱うことになったというエピソードもあります。
一時はネクタイの田屋とも呼ばれ、英国製を中心にフォーマルからカジュアルまで沢山のネクタイ・蝶ネクタイが揃います。特にビジネスシーンに合う紺色ストライプのタイが人気で、蝶ネクタイは夏場にしめる方が多かったそうです。今は結婚式などで若い人が求めるケースも増えています。銀製のカフスも代表的な商品です。以前はダブルカフスのシャツを着る人が多く、ダブル用のカフスがよく出たそうです。政治家や企業のトップなど様々な人が店を訪れ、希望の品を聞き、買い付け先のロンドンで探すこともありました。「他の店にはない品物を求める特別な方が多く、お客様の方が商品をよくご存知なので、余計な説明は必要ありませんでした」といいます。145年前から時代の変遷に合わせた舶来品を扱ってきた、七丁目田屋の歴史はこれからも続きます。
伝統の手技を履物に込めて「銀座ぜん屋 本店」
銀座ぜん屋 本店 銀座 8-8-1 TEL.03-3571-3468
資生堂パーラーに隣接する「銀座ぜん屋本店」は和装の履物を中心にバッグや傘等、全国の職人による手仕事の和装小物を集めた店です。「螺鈿(らでん)」を施したお誂えの履物(写真上・左)などをつうじ「和の技と心」を伝えています。ぜん屋の 3代目社長・川口彰久さんにお話を伺いました。川口さんの父・豊さんは関西の出身で、彰久さんはその父の姿を見ながら銀座で生まれ育ちました。「銀座で店を続けるには日々の努力が必要です。商品の善し悪しを分かった方が多い一方で、初めての方にはしっかりした情報を伝えたい。特に草履は大切で、最初に痛い思いをすると和装を楽しめなくなってしまいます」と彰久さん。専門店には鼻緒の調整など履き心地を良くするノウハウがあるそうです。なかには特定の職人にしか作れない草履もあり、熟練した職人の減少は大きな課題です。彰久さんが店を継いだ際に入会した銀座の青年団「銀実会」で、そうした悩みを相談できる仲間に恵まれたことはありがたいといいます。
英国リントン社のツィード生地を使ったバッグや、皆で考えたオリジナルデザインの螺鈿など、新しい試みを続けています。
▼美濃で作られている美濃和紙を張った和傘。▲技術の粋をあつめた10段重ねの草履。こうした商品の存在は、職人の手技を守ることにもつながっています。銀座百店会の会員でもあり「『銀座百点』は地方のお客様にも多く読まれ、銀座の香りを伝える大切な存在」と彰久さん。
▲ 店頭で鼻緒を取り付ける道具。
▲ 好みの鼻緒を選び、付け替えることもできます。量産を行わずバッグなどは毎年デザインを新しくして、訪問先で同じものを持った人に会わないよう気を使っています。川口彰久さんが生まれてから、これほど多くの外国人が銀座に大挙したのは初めてで、これからは外国人客にも対応し、「和の文化」に興味をもって見て楽しんでもらう事も役割のひとつと感じているそうです。国際色豊かになった銀座通り。通りの道幅は明治の煉瓦街とほぼ変わらず、車道には鉄道馬車や路面電車が通りました。銀座の煉瓦街は関東大震災で倒壊し、その後は第二次世界大戦の空襲で焼け野原と化し、再び繁華街へと蘇りました。SHISEIDO THE GINZAの裏手には、豊岩稲荷神社への入り口があり、狭い路地を進んでいくと赤いお社が鎮座しています。そのまま奥に進むとGINZA GREENビルの喫茶店を通りぬけ、交詢社通りに抜けられます。この路地は明治の煉瓦街当時の区割りを、そのまま残しているそうです。従業員たちの憩いの場となる路地が多いのも、銀座の街の特徴です。
創業明治 39年、銀座のシャツを今に伝える「銀座ナカヤ」
ナカヤシャツ店 銀座 5-8-16ナカヤビル2F TEL.03-3571-1510営業時間:11時〜19時(不定休)
現在建設中の松坂屋並びに、1906(明治 39)年創業の「銀座ナカヤ」(ナカヤシャツ店)があります。100年以上にわたり銀座で仕立てられてきたオーダーシャツの伝統をつなぐ、着心地のいいシャツの店です。
最近増えてきたホリゾンタル(水平)タイプの襟。ノーネクタイでも襟が崩れにくいそうです。と金子さん。
「オーダーにして肩こりが治ったと言われたときは嬉しかった」シャツの着心地によって疲れ方もかわるようです。
「肩にポンっと載るようなシャツ」を目指しているという3代目の金子 章さん。生地や襟・袖のスタイルを選べることはもちろんですが、オーダーシャツの魅力は何よりも着心地の良さだそうです。人の肩には様々な形があり、寸法を測るだけでは分からない情報を仕立て職人に伝えます。その他にも、ゆったりがいいか、キツ目がいいか、ネクタイをするか、しないか、職種によっても適切なスタイルは異なります。
「普通でいいよ」というお客様から、こうした情報を聞き出すノウハウも大切といいます。
▲ 昭和 3年のナカヤシャツ店。右側が初代ご夫婦。
▼ 襟なしシャツは、ピンで襟を留めて固定します。
ナカヤシャツ店の初代は、かつて銀座和光の裏にあったオーダーシャツ店で修行し、現在の場所に創業しました。それ以前は江戸時代から続く糸屋だったそうです。昭和 3年の写真を見ると、銀座でもまだ洋装が少なかったせいか、初代ご夫婦や店員たちは和装で店頭に立っています。店員や職人はビルの上に住み込みで働き、朝風呂で身を清めてから仕事を始めていました。当時のシャツは襟なしが多く、糊で固めた襟を付け替えられるタイプが主流でした。
▲ボタンは全て黒蝶貝などの貝ボタンを使っています。
▼ ずっしりしたガス式のアイロン。重い方が使いやすいようです。
生地の特性は、糸の細さ(番手)によっても異なります。糊でパリっとしたい時は太めの100番手、シルキーなやわらかさを追求するなら極細の 200番手などがあります。左からイタリアの最高級生地「カロルリーバ」、イギリス生まれのバランスのとれた高級生地「トーマスメイソン」や「デヴィッド・ジョン・アンダーソン」。もちろん国産生地もあり、仕立て代込みで20,000円位からオーダーでき、同額で女性用シャツも作れます。最近はホームページを見た若い人も多く来店するそうです。
小林 清泰アーキテクチュアルデザイナー ケノス代表
2015年 5月 1日〜 10月 31日の 6カ月にわたり開催中のミラノ万博。小林清泰さんの最新レポート第二弾です。
今回は私の仕事柄、最も興味のあった「COOP パビリオン」の紹介です。イタリアの「COOP」が手がけた未来のスーパーマーケットは、予想を遥かに超える内容でした。携わった面々は世界に名だたるメンバーです。
■ コンセプトデザイン:MIT Senseable city lab
■建築・インテリアデザイン:カルロ・ラッティAssociati
■グラフィックデザイン:スタジオ FMミラノ
■システムインテグレーション:アクセンチュア
■インタラクションデザイン:アバナードこのスーパーマーケットは COOPの実験店舗で、万博期間中の 6カ月間、
実際に営業し詳細なデータを収集・解析し、このシステムが実店舗に適用出来るか決定するそうです。モーションセンサー、タッチスクリーン、自動シ
るか試してみました。モーションセンサー等により上部の壁面には、会場内の来場者が巨大なプロッター(建物中央
ステム、インタラクションデザインとダイナミックなデータの可視化 ……モニターに産地、栄養価、アレルギー、環境への影響なに見える樋のような装置)で描かれていました。ハイテクの詰まった未来のスーパーマーケットを、一足先に体感しました。どさまざまな情報が表示され確認出来ます。
野菜のカロリーや糖分、塩分、カーボンフットプリント等も表示。
全ての商品はモニターで説明表示されています。
銀座の「顔」をつくる『銀座百点』の 60年
日本で最も有名な月刊タウン誌『銀座百点』は、昭和 30年に創刊されました。創刊号には当時の銀座百店会の会員100店舗が名を連ね、現在にまでつづく銀座史を物語っています。
▲ 『銀座百点』昭和 30年1月に発行された創刊号。
▼ ユニークな座談会も銀座百点の名物。
『銀座百点』編集部で、田辺夕子編集長にお話を伺いました。銀座百点の手本となったのは大阪のグルメ誌『あまカラ』で、創刊からしばらくは銀座にあった文藝春秋の指導を受けていたようです。その縁か創刊号には「文藝春秋婦人記者座談会」が掲載されていました。2015年 6月号では、文藝春秋の元編集者で作家の半藤一利さんが当時憧れた「婦人記者」の思い出を書いています。初期の号には「夜のホステス・シティ」(銀座のホステス座談会)など、銀座の夜を伝える記事も見られました。バックナンバーを収めたキャビネットや本棚は、銀座百店会会員の「ギャラリー収納」製。
『銀座百点』の魅力のひとつは、キラ星のような執筆陣でしょう。掲載されたエッセイをまとめた『私の銀座』(新潮文庫)をみると、有吉佐和子、司馬遼太郎、松本清張、三島由紀夫、開高健、大江健三郎、山口瞳、遠藤周作と、歴史に残る作家の秀作がならんでいます。また向田邦子『父の詫び状』や和田誠『銀座界隈ドキドキの日々』など連載の生んだベストセラーも豊富です。数学者で作家の藤原正彦氏は1993年のエッセイで、父・新田次郎氏と初めて銀座のバーをはしごし、松本清張や吉行淳之介、星新一を目にした高揚を綴っています。昭和 45〜 48年の表紙は秋山庄太郎氏。浅野ゆう子さんが銀座をそぞろ歩きする秋山氏の撮りおろしグラビア「浅野ゆう子のヤング・ギンザ」を発見。『銀座百点』は会員の店舗で入手できますが、地方の読者が多いのも特徴です。
▲ 風間完氏の初登場は全裸の女性像でした。
▼創刊号の巻頭に掲載された挨拶文。
印象ぶかい風間完氏の表紙(昭和 52〜 54年)。女性像の他に、さりげない街の風景もあります。『銀座百点』創刊号の挨拶文からは、銀座は歴史ある東京の中心街であり、情報発信地であるという自負とともに、時勢の変遷から銀座の文化を守ろうという強い決意を感じます。今も銀座には「丁目」ごと「通り」ごとに組合があり、季節のイベントや清掃活動などを通じ高い結束を誇っています。ビルの高さ制限を設けた「銀座ルール」も、こうした銀座ならではの結束力から生まれたそうです。
変わりゆく銀座を象徴する松坂屋銀座店跡の再開発プロジェクト。当初は超高層ビルを建設する計画もありましたが「銀座ルール」の高さ制限(銀座通りでは最大高さ56m。工作物を入れて66m)に従って計画されました。設計は谷口吉生氏、内装はグエナエル・ニコラ氏。観世や金春など能役者の屋敷街であったことにちなみ、地下には「観世能楽堂」を設ける予定です。「銀座の魅力は安心して歩きやすく、用もないのに歩きたくなる街。そしてお店の質の高さ」と田辺編集長。銀座百店会の会員になるには、規模に関わらず銀座で 5年以上続いた小売店という決まりがあり、会員の推薦も必要です。『銀座百点』はこれからも銀座の道標として、安心して買い物のできる会員各店を紹介しながら、銀座の文化そのものを担っていくのでしょう。
「銀座の街はあみだ歩き」と言われるように、ビル内のアーケードをから次の通りに抜けると、新しい世界に出たような気分に。下は文藝春秋の銀座別館。みゆき通りに建っています。
お向いのコージ君 【その4】青山かすみ
ひとけのない向かいの官舎。毎日飽かずに眺めてきたイチョウの木も伐採されてしまうことを悟ったか。鏡に写る、まるで元気を無くしたときの自分をみるようではないか ……。解体工事の説明会があった日から、すでに丸 2年経とうとする訳だが、お向いの計画とこちら側住民との長い闘いは、今やっとこさ中間地点
T
にさしかかったにすぎない。
クライアントは大手グループ企業のサンカク地所プレジデンスとサンカク倉庫。 2社の窓口係にシュラという建築事務所がいる。解体工事だけで上棟と地下部分、別々の工事として分けて考えなければならないらしい。上棟工事を取り仕切ったのは、広島を拠点とする丘ます組だった。上棟解体時には防音パネルを囲い作業を行うというけれど、果たしてどんな現実が待ち受けているんだろう。しかも上棟より地下部分の方が大変な作業になると聞く。隣と向かいの工事の狭間で耐えられるだろうか ……。
2年前わたしたちは、重苦しい気分を抱え説明会場をあとにした。工事に関する対応はシュラという会社を通してほしいとのこと。最初の説明会から 1カ月ほど過ぎた頃だった。ある日突然、なんの前触れもなく地面をドリルで掘り始めだしたのである。「えっ?仮囲いもせずにはじまった?現場をいじるのはせめて囲いをしてからにすべきじゃない」。何事も最初が肝心だ。窓口の担当者 氏とはすでに説明会場で名刺を交わしていたし、苦情の連絡はお隣の工事で免疫もついている。かすみがシュラと電話で話すきっかけとなったこの問題点こそがお向いの事情をものがたり、その後の成り行きを暗示していたといえよう。
銀座には、一点に絞り込んだ様々な専門店があります。なかでも銀座 7丁目ニコンプラザ近くの「GINZA HAKKO木の香」は数多くのマトリョーシカを扱う珍しいショップで、店長自らがロシア各地を訪ね、出会った作家たちの作品を並べています。
▲人気の高いオリガ・イリーナ姉妹のマトリョーシカ。
▼はんだこてを使ったウッドバーニング(こてで木を焼いて模様を描く技法)のマトリョーシカもあります。
ショップを運営する白光㈱は世界的な「はんだこて」のメーカーで、製品の「こて」を使い木を焼くウッドバーニングを広めるため「木の香」プラタナスの公園は、神話的な彫刻に彩られています。
をオープン。木のつながりから世界の木工芸品を扱うようになったそうです。2013年にはショップを千葉そごうから銀座へ移転しました。
▲マリア・ドミトリエワさんの作品。マリアさんはこけ
らったタチアーナ・マルンゴヴァさんの作品。家との交流も深めてます。鳴子・柿澤こけし店の作品。
▲ロシア北西部アルハンゲリスク州の伝統柄をあししコレクターでもあるそうです。▼東北を巡りこけし作
▼ 木の香オリジナルのマトリョーシカ。
▲ 芸術作品ともいえるロシア最高峰「リダ工房」の作品は、80代の作家によって描かれ国賓へのプレゼントにも使われる逸品。
GINZA HAKKO木の香
銀座 7 -10-5ランディック第 3銀座ビル1F・B1F
TEL.03-5537-3107 営業時間:11時〜20時(不定休)
19世紀、箱根の入れ子人形がロシアの宣教師によって伝えられマトリョーシカは生まれたという説もあります。1900年のパリ万博で銅賞をとったことをきっかけに盛んに作られ、ロシアを代表する工芸品になりました。地下にはギャラリースペースやワークショップ用のテーブルがあり、ウッドバーニングやマトリョーシカの教室もひらかれています。
展覧会の日々
工房楽記
鈴木 惠三(BC工房 主人)
「ふじのリビングアートギャラリー」(通称 :リビングアート)が、オープンできた。毎週、火曜日はスタッフ全員 12名で作りあげたリビングアートだ。オープニングの展覧会は、ふじの在住の絵本作家 西村繁男さん &いまきみちさんの 2人展。絵本の原画を BC工房の椅子に座って、のんびり見てもらう。絵本を読んで、のんびり過ごしてもらう展覧会にしたい。スタッフ皆で作ったギャラリーで展覧会なんて、夢のような気分だ。仕事で展覧会は、30代、40代と数多くやってきた。日本の木の椅子展、世界のプリミティブな椅子展、長さん、柳さん、力さんの長老の椅子展、スツール展、椅子コレ展・・・椅子の展覧会は、オイラの人生。懐かしくて涙が出てくる。30代に、家具デザイナー佐々木敏光の「インテリアセッション」なる展覧会を、パルコでやらせてもらったのが、最初の展覧会プロデュース。それからは、毎年何らかの展覧会を企画プロデュースした。オイラの仕事は、広告のディレクターから、展覧会プロデューサーへ変化していった。なんとか展覧会をオープンさせ、人の入りを見たら、おいらの仕事は終わりだ。高い評価もあれば、酷評されたこともある。別に評価を期待して展覧会を企画プロデュースしてるんじゃないから、あまり気にしなかったが、その展覧会の中にある「モノ」に興味がわいた。そのモノたちを作る側になりたくなった。それから「作る」へのチャレンジ。家具づくりを始めたら、展覧会の企画はいつの間にかやらなくなった。それが今回、15年ぶり ?の展覧会の企画である。自分で自分に驚いている?昔のように、世間さまの評価は気にせず、このギャラリーでの展覧会を楽しむつもりだ。皆さん、山の中の小さなギャラリーに、どうぞ。ようこそ。よろしく。
ふじのリビングアートギャラリー
神奈川県相模原市緑区(旧・藤野町)牧野 4707
「西村繁男&いまきみち」 絵本の原画2人展7月4日(土)〜8月20日(木)まで木・金・土・日・祝 オープン
涼味をそそる粋な和装小物「銀座くのや」
銀座くのや 銀座 3-6-1 松屋銀座 7階 呉服売場
1211(大代表)-3567-03.TEL
天保 8年(1837)から180年近く、銀座で商いを続けてきた「銀座くのや」。3年前に松屋銀座 7階呉服売場に移転し、帯締めやひざ掛け、ガーゼ類、浴衣、江戸印伝など、江戸の粋を感じさせる「くのや好み」を伝えています。▼ 注染で染められたオリジナルの浴衣。
くのやを代表する帯締め「七本原」は、正倉院御物の経巻を結ぶ五色の紐にヒントを得て、金糸と銀糸を加え7色としたもので、6代目が考案したそうです。オリジナルの浴衣は、ドット柄やカモメをあしらった小粋な柄を、和手拭いと同じ「注染(ちゅうせん)」によって深い紺色に染めています。呉服屋の浴衣とは異なる軽妙さを味わえます。
▼四季折々の風物をあしらったガーゼの手拭いなど。
印伝というと漆を使った甲州印伝が有名ですが、くのや「江戸印伝」は漆を使わず、子鹿のやわらかな革を捺染で染めています。タテ縞やカゴメ、千鳥格子、ウロコ柄などデザインには町人好みが反映され、今も江戸の伝統をつなぐ職人たちによって制作されているそうです。180年近く続く老舗の伝統が百貨店内に息づいている所に、銀座の奥深さを感じました。
銀座 4丁目界隈はかつて尾張町と呼ばれました。
御木本隆三の遺した、ジョン・ラスキンの燈火「ラスキン文庫」
銀座 4丁目の交差点から築地方面へ晴海通りを歩き、首都高をまたいでから築地本願寺手前の路地を曲がった所に、一般財団法人ラスキン文庫があります。閲覧室では19世紀英国の美術評論家・社会思想家ジョン・ラスキンの著作など約 4,000冊を閲覧できます。1819年、富裕な葡萄酒商の息子としてロンドンに生まれたジョン・ラスキンは、美術、文芸、宗教、自然観察など幅広い教育を両親から受け、オックスフォード大学で学びながら詩作や評論を始めます。24歳で発表した『近代画家論』は、イギリスの風景画家ターナーと古来の巨匠たちの作品を比較しながら独自の美術観を展開し、ラスキンの名を一躍高めました。その後も『建築の七燈』『ベニスの石』『胡麻と百合』などの著作や講演活動によって伝えられた思想は、アーツ・アンド・クラフツ運動の主導者ウィリアム・モリスやラファエル前派の画家達をはじめ、日本の作家や宗教家、工芸家、後年はガンジーにまで影響を与えたといわれています。現在の「ラスキン文庫」は、1984年に開設されました。そのルーツとなったのが、 1934(昭和9)年、御木本隆三氏によって銀座 4丁目に開かれたラスキン文庫でした。当時の記録をみると、ティールームやホール、コテージなど複数の施設があり、職人の工房や工芸品を扱うショップも併設されていたようです。御木本隆三氏は1893年、真珠王と呼ばれ「世界中の女性を真珠で飾る」ことを目指した御木本幸吉氏の長男として生まれました。旧制高校時代からラスキンの著作に親しみ、ラスキンの唱える「美を創造する喜び」を基盤とした経済思想を探求するため、京都帝国大学の河上肇教授に学びます。卒業後は家業を継ぐことを期待されますが、1920年にはラスキン研究のため英国に渡り、ロンドンやコニストン湖畔などでラスキンの親戚や友人と会い、書籍などの蒐集に熱中します。その後もたびたび渡英し、ラスキン文庫の礎となる書籍を集め、自身もラスキンの翻訳書や評論を出版しました。
御木本隆三氏がデザインしたアクセサリー。上はラスキンの愛したRose La Toucheをモチーフにしたカフス等。下のペンダントには「A Joy For Ever(永遠の喜び)」の刻印が見えます。
御木本隆三氏はティールームや会報の発行をつうじ、ラスキンの思想を一般に広めようと尽力します。またラスキンをテーマとしたアクセサリー類を制作するなど、アーツ・アンド・クラフツ運動を彷彿とさせる活動も行いました。1937(昭和12)年には、銀座 7丁目に鉄筋コンクリート4階建のラスキンティールームを開く予定でしたが、経営破綻により実現しませんでした。
書庫(一般非公開)には貴重な原書が収蔵されています。ラスキンと離婚し、後にミレー(ラファエル前派の代表画家)の妻となったエフィーの肖像が、ミレー書簡集に掲載されていました。
第二次世界大戦中、蔵書は志摩の真珠養殖場に疎開し空襲を逃れ、遺族の協力によって復活したラスキン文庫は、その貴重な書物に触れる機会を与えてくれています。隆三氏の試みは志半ばとなったものの、訪れる人をもてなし、手仕事を守り、美の喜びを広めようという姿勢は、現在の MIKIMOTOにも継承されているように感じました。
ラスキン文庫 東京都中央区築地 2-15-15-105(火〜土曜 11時〜17時開館、日・月・祝日休館)
並木通りのミキモト銀座 2丁目本店。設計は伊東豊雄さん。
▼ ビル開発にともない再建された幸稲荷神社。
銀座の中でも緑の豊富な並木通りには、セイヨウシナノキ(リンデン)の街路樹が続きます。銀座というと柳ですが、銀座通りの松や桜、楓が根付かず水辺に強い柳に植え替えられたようです。
歌舞伎座周辺の木挽町界隈は、下町情緒を残した街です。最近は人気イタリアンレストランが集まっています。
暮らしへの思いをうけとめる「ギャラリー収納 銀座」
歌舞伎座の交差点近くの「ギャラリー収納 銀座」は、銀座の街にふさわしいコンサルティング型の収納ショップです。
コンサルタントと相談しながら 6シリーズあるシステム収納を組み合わせ、リビングやダイニング、寝室、子供部屋、書斎、クローゼットなど様々な生活シーンを生み出すことができます。
オーダーシャツやスーツを作る感覚で、その人の暮らしにあった収納を作り上げます。生活に対する思いをうけとめながら収納をプランしていく、コンサルティングには高い能力が求められます。現在までに5万件の納入実績を積み重ねてきたそうです。
Cシリーズ
広報担当の渡部七美さんによると、銀座には都内だけでなく近県や地方から来るお客様も多いとのこと。システム収納というと壁面一杯を収納にするシーンを思い浮かべますが、まずはテレビボードだけを置き、必要になったら上の空間に収納を加えていくなど、ものの量や生活の変化に応じてプラスする発想の方が、適切なプランを提案しやすいそうです。そのため 20年以上前のタイプも廃番にせず作り続けています。10年程前には念願だった銀座百店会にも入会しました。
シングルカスクのウィスキーも楽しめる銀座 8丁目のバー FALにて。
ドラゴンシリーズ
ドラゴンへの道編
もの作りの妙味
今も昔も同じようなものだったのだろうか。かれこれもう
に書かれた書物を読んでいると、その時代、既に古き良き時代や戦前の地方の慣習や風習を懐かしみ、時代と共に置き去りにして忘れてしまった日本人
20
の精神や文化を取り戻さなければならない、などと言ったようなことが書かれている。50
新しい時代がもたらした効率優先の利便性に対して、もう既に 年、60年前から今と同じようなことが語られていた。だから時代は変われど、人々は、特におじさん達は昔を懐かしみ新しい時代に対して懐疑的であるのは、今も昔も変わらないのだろう。「今の若者はなっとらん !」とか「わしらの青春時代にはもっとしっかりしていたぞ !」とか、僕らも 代くらいまでは、飲み屋で社会の先輩達から遠い目をしながらよく言われ
たものだ。今はもう無くなってしまったようだが、僕らが若い時は飲み屋に行くと必ず年上の先輩が酒を奢ってくれたものだ。見知らぬ場所で見知らぬおじさんと飲み屋で席が一緒になると、「そこの鼻垂れ、お前も飲め !」と必ず勧められ、「では、先輩もどうぞ !」と多少の面倒くさいことになっても、タダ酒をいただく身、年長者の酒を断るなどとはあり得ない絶対必須の掟だった。
そして、お酒は「必ず」若輩の我々から先輩おじさん達にお酌することは当然の基本作法であり、社会に出ること、それ即ち先輩おじさんに絶妙の間合いで酒を注ぎ、先輩達の話にウンウンと上手にタイミング良く相槌を打つ技術の習得が社会人としての始めの入口であり、それが何時間になろうとも、何軒になろうと、帰るなどは以ての外、若者には全く選択肢は無いのだ。最後の最後までご一緒させていただく、と言う精神がさらにおじさん達を上機嫌にしてしまい、酒がすすむことになり、堂々巡りを繰り返すのだ。「まあまあ、先輩、どうぞ、どうぞ。」と、どうぞを 2回繰り返してから先輩のお猪口に酒
14
年程前の戦後
60
吉田龍太郎( TIME & STYLE )
を並々と表面張力ギリギリで注ぎ、先輩がこぼれそうな酒をこぼさぬように
30
顔をお猪口に近ずけてズズッとすすっている隙を見て、空になった自分のお猪口に注ぐことが先輩に対してのマナーである。
それは、それで楽しい時間だったような、無駄な時間がほとんどだったような気もするが、微笑ましい思い出、顔も思い出せない見知らぬおじさん達との懐かしい記憶である。しかし、あの時代は本当にほとんど毎日、先輩やおじさん達に連れられて、どこかそこかの飲み屋で、時に新宿ゴールデン街、時に池袋東口、時に新橋、有楽町、そして浅草、小岩へと、先輩の話に、相槌をウンウンと打ち、真顔で先輩の長いお話を聞きながら、酒を注ぎながら、色んなことを教わったような気がするのだ。
自分にもし兄貴がいたらと思えた先輩おじさん達はよくぞ、毎日毎日、若者に酒を奢り続けたものだ。酒の席では自分にお金がどんなに無くても、酒代は自分が払う癖が付いてしまったのは、その時代の先輩達を見ていたからだろう。割り勘などあり得なかったし、先輩の財布にはなぜかいつもしっかりとお金が入っていた。
この文章を書きながら、何の話を書こうと
していたのかを忘れてしまったが、これも酒
の席のおじさん達が、誰と一緒に飲みに来た
のか、何を話そうとしていたかを必ず忘れて
しまう、よくある行動パターンだ。そんな時
「よしよし。」と意味深におじさんは 2回うな
ずきながら、何かを自分に言い聞かせ、納得
していたように思う。「よしよし。」
今、そんな無駄な時間が無くなってしまっ
た。後先を考えないで、時間を忘れて誰だか
分からない人と、その場限りの酒とか会話をするような時代ではなくなった
のか、もしくはどこかで同じような人間模様は続いているのか。もしくは、
そうやって今、生きていることに自分だけが気付いていないのか。もしかす
ると、それがおじさんと言う存在であり、おじさんのおじさんたる所以なの
かもしれない。「よしよし。」
タイトルを「もの作りの妙味」としたのは、なぜだろうか、今になってよ
うやく分かるようになってきたことが沢山あることや、様々な場所で偶然と
は思えないような縁に導かれるような出会いがあり、ものが出来上がってゆ
くことを書きたかったのだ。
数年前に飲み屋のカウンターでどこかのおじさんが言っていたことが、今になって自分の中で動き始め、僕も今晩あたりふらっと近所の居酒屋でカウンターに座って、隣の若者に酒をすすめてみるとするか。「よしよし。」
京橋のたもとに建つふたつの記念碑は「京橋大根河岸青物市場跡碑」と「江戸歌舞伎発祥の地の碑」。江戸時代から昭和の初めまで京橋は江戸野菜の市場として栄え、昭和10年に開場した築地青果部へと移っていきました。
銀座の入り口となる京橋には、大正11年 (1922)に建てられた親柱が残っています。向かいの銀座1丁目交番は親柱と同じデザイン。ガス灯の柱は明治7年の実物で、ガス灯をともしてまわる点灯夫は銀座の風物詩のひとつでした。かつての銀座は京橋川や三十間堀川、汐留川など掘割に囲まれた水運の街でしたが、オリンピックを契機に次々と埋め立てられました。
古典建築版画から最新アートまで「ガレリア・グラフィカ」
銀座には大小数百の画廊があり、画廊めぐりにもぴったりの街です。1970年、有楽町に開廊してから 45年にわたりギャラリーを営んできた「ガレリア・グラフィカ」の栗田玲子さんにお話を伺いました。大学で東洋史を研究し大手出版社の編集者となった栗田さんは、ひょんな事からギャラリーの店番を頼まれ、米国・欧州の美術館を巡る旅に送り出され、気づけば半世紀近く美術に関わり続けていたそうです。バブルの崩壊した90年代に、現在の銀座6丁目に移転しました。
ガレリア・グラフィカ 銀座 6-13-4 銀座 S2ビル TEL.03-5550-1335営業時間:11:00〜19:00(日・祭日休廊)
▼ ビル1階は企画と貸しの展示室。2階に常設展示があります。
アンディ・ウォーホルのシルクスクリーン「タートル」。
1970〜 80年代にかけては、アンディ・ウォーホルやロイ・リキテンスタイン、ジャスパー・ジョーンズ、キース・ヘリングなどポップアート作品を多く扱っていたそうです。当時は十数万円で販売したものが、いまや数百万円になった作品も。栗田さんは日本の若手作家のために多くの企画展を開催し、世に送り出してきました。
▲インテリア・アートにも合いそうな海老原暎さんの作品。
18世紀の新古典主義建築に大きな影響を与えたイタリアの建築家・ピラネージによる古典建築版画も扱われています。廃墟となったローマ建築や様々な様式の建築を描いたピラネージの版画は、18世紀に流行した英国貴族のグランドツアーの土産品として英国に持ち帰られ、古典建築の姿を伝える貴重な史料となっています。ギャラリーのコレクションには数万円から入手できる手頃な版画も沢山揃っていて、好みを伝えてもらえれば空間にあった作品を提案してくれるそうです。
銀座にまた新しい夜がやってきます。
Topic 注目をあびる「木材塗装」の世界 第 27回木材塗装基礎講座
インテリアや家具などで、天然木を使った製品に注目が集まるなか、それを仕上げるための「木材塗装」への関心が高まっています。木材塗装のノウハウを伝えてきた「木材塗装基礎講座」は 27回目をむかえ、6月9日、東京都立産業技術研究センター本部(テレコムセンター駅前)で開催されました。
▲ 主催は木材塗装研究会。実行委員長をつとめる、西崎克治さん
(ニシザキ工芸)。今年は定員を上回る応募者があったそうです。
講座は朝 9時半〜午後5時まで、昼食を挟んで 8時間近くにおよびました。今回は 6つのテーマについて講演がおこなわれ、東京都立産業技術研究センターの見学会も行われました。
「木材の性質」をテーマにした森林総合研究所の片岡 厚さんは、最近注目されている木材の光環境についての研究を発表。木材を多用した内装は青味の強い光を吸収するため、温かみのある色合いのリラックスできる空間を作り出すそうです。玄々化学工業の大木博成さんは、木材塗料の種類や性質、用途に合わせた選び方を、塗料の発展史や自然塗料の性質などとあわせて解説し好評でした。
▲ 各講演のポイントをまとめた詳しいテキストが配布されます。
講師たちに疑問点を直接聞けるのも、この講座の特徴です。塗装見本も展示され、注目を集めていました。
東京都立産業技術研究センター表面技術グループの村井まどかさんは、木地調整から仕上げまで塗装工程のポイントを解説しました。同じ塗料を使っても、塗り重ねる順番や塗り方で結果は大きく異なり「白ボケ」など日数が経ってから生じるトラブルもあるそうです。木材の性質、塗料の特性、塗装工程の組み方を学んだ所で、午前の部が終了しました。
▼ タイム アンド スタイルからはカスタマーサービスを担当する金子義文さんも参加。「白木などの色が揃わないことがあり、色をどう出せばいいか知りたい」とのことでした。
昨年に続きキャピタルペイント長澤良一さんによる実演が行われ、タイムアンドスタイルから参加した吉川和泉さんが刷毛塗りに挑戦。広葉樹の「散孔材」と「環孔材」を塗ってみて仕上がりの違いを体験しました。「木の性質から解説してもらったので、導管の違いなどの意味が分かりました。開発中の家具にも応用していきたい」といいます。
▲ 大阪ガスケミカル・小林勝志さん。
▼ 東海鋼管・坪田 実さん。
大阪ガスケミカルの小林勝志さんは、屋外の木部を保護する木材保護塗料を解説。東海鋼管の坪田実さんは木材塗装の欠陥が生じる原因と、その対策を紹介。次に東京都立産業技術研究センターの施設をめぐり、塗膜表面や断面の状態を肉眼で観察できる装置や、構造解析を利用した新しいデザインプロセスなどを見学しました。最後の「なんでも質問コーナー」では、参加者の活発な質問に講演者が答えました。木材塗装基礎講座は来年も開かれる予定で、日程はコラージでもお知らせします。