東京新宿HOTエリア
時空を超える美意識https://collaj.jp/
私の落合物語
霜月 2022
ステンドグラスは、目白駅に近いサンディカヴェリエール工房から寄贈されたと言われています。
JR山手線目白駅の改札では、四季の花々をあしらったステンドグラスが訪れる人を出迎えます。駅舎のすぐ隣には学習院の西門があり、その西側に落合の街が広がります。池袋からつづく「小石川・目白台地」の南端にあたる落合は、急な坂道の多い街です。台地上を「下落合」、低地を「上落合」というのがややこしいですが、その境を妙法寺川が流れます。
落合で25年以上にわたり、画家や文人の足跡を追ってきた中村惠一さんに、落合の街を案内して頂きました。大正から昭和のはじめ、新宿区落合には、西洋画界のトップスター佐伯祐三をはじめ、中村彝、安井曾太郎、松本竣介などがアトリエをかまえ、林芙美子、尾崎翠、壺井栄、會津八一などの文人が暮らし交友を深めました。田端文士村、馬込文士村にならぶ、文化人の集った街としていま注目を集めています。
中村さんの研究をまとめた著書『新宿・落合文化史を歩く』、『中村式落合散歩新宿・落合に住んだ画家たち』
目白駅から徒歩5分ほどの「ギタルラ社東京古典楽器センター」。クラシックギターをはじめ、ピアノの先祖チェンバロや弦楽器リュート、様々なタイプのリコーダーなど古典楽器の専門店です。一流奏者による教室を開催し、楽譜やCDなどを揃えています。チェンバロなど現物を見て試せる店は国内ではここだけで、コンサートの際は古典楽器の調律も行っているそうです。
チェンバロは音色を豊かにする「装飾法」と呼ばれる奏法で弾くそうで、演奏のたびに調律を必要とする繊細な楽器です。下はフェルメールの絵にも描かれたリュート。
バッハやヴィヴァルディなど、大作曲家が活躍したバロックを代表する古典楽器チェンバロ。ハンマーで弦を叩くピアノと異なり、ギターのように弦を弾く繊細な音色が特徴です。上は「スピネット」と呼ばれる小型のチェンバロで、ギタルラ社が設計・制作しました。バッハなどのバロック音楽は本来チェンバロのために作曲されたものを、現在はピアノ用にアレンジしているため、古典楽器によってオリジナルの音色を復古しようという運動が盛んになっています。
湿気をふくんだ空気が足元にたまってくる
月が出るぞ
Vol.41
原作:タカハシヨウイチ はら すみれ絵 : タカハシヨウイチ
近衛篤麿公近衛文麿公
ギタルラ社から南に少し進むと、一本のケヤキを中心に道が別れた不思議な場所があります。この木は「旧近衛邸のケヤキ」と呼ばれ、広大な近衛公爵家の車寄せだったと言われています。太平洋戦争時の首相をつとめた近衛文麿の父、近衛篤麿(あつまろ)が晩年を過ごした邸宅があり、周辺は近衛町と呼ばれました。篤麿は学習院院長をつとめる一方、日中友好のため尽力し東京同文書院など留学生の支援施設を目白に設立しました。明治37年篤麿が亡くなると大正11年頃から邸宅の一部が宅地に分譲されます。それを手掛けたのが「目白文化村」を開発した堤康次郎でした。遠藤新設計の目白ヶ丘教会「旧近衛邸のケヤキ」の少し先にあるのが、遠藤新設計の日本バプテストキリスト教目白ヶ丘教会です。遠藤新はフランク・ロイド・ライトの右腕として帝国ホテルはじめ池袋の自由学園 明日館を担当したことで知られます。
代表作となる甲子園ホテル(2022年9月号)を設計した5年後の1935年、満州に渡った遠藤は満州中央銀行倶楽部などを手掛けますが、終戦後に体調を崩して帰国します。1949年から文部省学校建築企画協議会員を務め、戦後学校建築のあり方を模索するなか、教会の建て替えを依頼したのが目白ヶ丘教会の熊野清樹牧師でした。約30年前に手掛けた明日館に近いこともあり、大谷石をあしらった屋根などイメージの重なる部分も見られます。教会が完成した翌年1951年に遠藤は心臓発作で亡くなり、この建物で行われた最初の葬儀となりました。
日立目白クラブ(旧学習院昭和寮)
1928年(昭和3年)完成の旧学習院昭和寮(現・日立目白クラブ)は、元近衛邸の一画に、宮内省管轄の学生寮として英国イートン校の寄宿舎をモデルに建てられたと言われます。1952年、日立に買い取られ、結婚披露宴やクラブハウスとして利用されています。
かつては皇太子(現・上皇陛下)が過ごしたこともあるだけに、50名前後の学生は全員個室、レコードが流れる娯楽室、軽食をとれる談話室、テニスコート、ダンスホールがあり、地下の厨房からリフトで食事が運ばれ、著名人を囲んだ食事会が開かれたそうです。設計は当時、宮内省内匠寮技師の森泰治と考えられ、高くそびえる暖炉の煙突などは逓信省時代を思わせる垂直性の高いデザインで、ドイツ・ダルムシュタットのユーゲントスティール建築「結婚記念塔」(ヨゼフ・マリア・オルブリッヒ)を彷彿とさせます。関東大震災の影響もあってか建物は鉄筋コンクートで作られ、屋根瓦や窓などにスパニッシュスタイルの装飾が見られます。日立製作所に入社した中村惠一さんは新人研修で2週間ほど、ここで暮らしたことがあるそうです。
ダルムシュタットの「結婚記念塔」
グラフィックデザイナー、イラストレーター 葵・フーバーさんの作品展
Aoi Huber - Kono Works
2022年11月24日(.)〜2023年1月31日(火) Time & Style Milan(イタリア・ミラノ市) Via Eugenio Balzan, 4, Largo Claudio Treves, 2, Via San Marco, 13, 20121 Milan, Italy.
グラフィックデザイナーの草分けのひとり、河野鷹思の長女として生まれた葵・フーバーさんは、1961年ミラノへ移住。翌年結婚したマックス・フーバーと共に、ブルーノ・ムナーリ、アキーレ・カスティリオーニ、マリオ・ボッタなど数多くのデザイナーとコラボレーションします。1970年、イタリア国境に近いスイス・サニョへ移り住み、86歳となるいまも、精力的な活動を続けています。エッチングなどアート作品のほか、緞通、布地、陶磁器、玩具、絵本など、その世界は限りなく広がっています。2005年にはマックス・フーバーをはじめデザイナー、アーティストの作品を展示するMAXMUSEO(設計Durisch+Nolli)を設立しスイス・キアッソ市へ寄贈しました。
▲ Allegro brillante キャンパスにアクリル(1978) W60 H60
▲ Milano Boogie Woogie キャンパスにアクリル(2020) W100 H100
2023年1月31日まで、Time & Style Milanで開催される展覧会では、近作も含め30点以上が展示され、記念
▲ Senza titolo エッチング(1988) W24,5 H32▲ Senza titolo エッチング(1980) W17 H24の書籍も発刊されるそうです。
寄宿舎で楽しきことを数ふれば 撃剣音読朝めしの味 乃木希典
目白駅に隣接する学習院のキャンパスには、かつて学生寮(総寮部)として使われた建物が「乃木館」として保存されています。第10代院長だった乃木希典は、明治41年の目白移転を機に、6棟の寄宿舎、食堂、病棟を建て、全寮制を導入します。乃木院長自身も学生とともに寮に暮らし、寝食をともにしました。ちなみに目白移転は、明治27年明治東京地震で四谷校舎が多大な被害を受けたため、第7代院長近衛篤麿によって計画されたようです。寮の設計は久留正道で、木造平屋寄棟屋根の和風建築。床は板張りでした。
「乃木館」から都心とは思えない細い山道を降りていくと、創部140年を超える「馬術部」の厩舎と馬場があります。赤坂憲兵分隊から移築したといわれる厩舎は、キャンパス内で最も古い建物のひとつです。
おとめ山公園(旧相馬子爵邸)
新宿区立「おとめ山公園」は、落合崖線の斜面緑地を利用した公園です。江戸時代、この周辺は将軍家の鷹狩や猪狩などの狩猟場で「御留山」として出入りが禁じられていました。
大正時代には相馬子爵家が御留山跡を購入し、広大な庭園をもつ屋敷を造成しました。相馬孟胤は相馬中村藩藩主家の出身で、植物学者、造園家として知られ宮内省の御用掛として新宿御苑に勤務しました。やがて相馬邸が売却される際、原始林のような貴重な緑地を残したいという地元住民の運動により、一部が公園として開園しました。林間デッキや芝生斜面、谷底の池が整備され、ヤゴやメダカが生息し、湧水を使ってホタルの生育もされています。
AREAの樹種展
「樹」を知る AREAと樹木の20年
2022年11月12日(土)〜11月27日(日)11:00〜19:00AREA 東京都渋谷区神宮前3 -42-18(本店向かい)
創業20目年を迎えたAREAが、樹種をテーマにした展示を開催中です。世界には様々な樹があり、それぞれ異なるストーリーを持っています。展示では、大判の一枚板を多数展示して、その樹の特徴を紹介します。会場あるいはホームページ上で「好きな樹種」のアンケートに答えると、もれなくAREAオリジナル「青山兎堂」の今治タオルがプレゼントされるそうです。
新宿区立中村彝アトリエ記念館は下落合の落合崖線の上に建っています。中村彝(つね)は、明治20年(1887)に茨城県水戸に生まれ、大正13年(1924)37歳の若さで亡くなりました。その画業は20年ほどですが、日本の西洋絵画史に重要な役割を果たした画家として注目が高まっています。
中村惠一さんが記念館のアトリエで、中村彝を紹介してくれました。現在の記念館は、大正5年(1916)に建てられたアトリエを一旦解体し、再構築したものです。中村彝の死後、画家・鈴木誠氏が大切に暮らし家族に受け継がれましたが、長く無人となっていたため2007年「中村彝アトリエ保存会」が地元住民を中心に結成され、募金活動が行われました。噂によると匿名で大金が寄付され、それを元にして新宿区に寄贈されました。中村彝が落合にアトリエを建てたのは若干29歳。新宿中村屋サロンに出入りし、若手画家やパトロンたちに慕われた彝、22歳で文展に初入選、翌年には『海辺の村』が3等賞となり銀行家 今村繁三が購入するなど、その才能を認められ、多くの支援を受けていました。▼中村屋サロンに集う相馬夫妻と芸術家たち。中央に中村彝。背後には碌山の遺作となった彫刻「女」が見えます。
少年の頃から軍人を目指し陸軍幼年学校で学んだ中村彝でしたが、結核で体を壊し療養先の千葉館山で水彩画を描いたことをきっかけに画家を目指します。白馬会洋画研究所に入所して黒田清輝の指導を受けながら、彫刻家の中原悌二郎、画家の鶴田吾郎、広瀬嘉吉など生涯の友を得ました。新宿中村屋の相馬愛蔵、黒光夫妻がひらいたサロンに出入りし、リーダー的存在だった彫刻家荻原碌山の死後は、サロンの中心的存在となり中村屋裏手のアトリエで暮らします。彝は女学生だった相馬家の長女俊子をモデルに沢山の肖像画を描き、それはやがて恋へと変わっていきます。
「頭蓋骨を持てる自画像」(1923)アトリエ内に置かれた家具も忠実に復元されたもので、作品の中にもたびたび描かれています。
不治の病を抱える中村彝にとって俊子の生命力は生きる支えとなります。しかしその交際は相馬夫妻に反対され、失意した彝は中村屋を飛び出し各地を転々とした末、落合にアトリエを新築したのです。晩年の自画像「頭蓋骨を持てる自画像」は、聖人のように達観した深い眼差しを投げかけながら、生を渇望する力強い筆致を感じさせます。一方、彝と別れた相馬俊子は、インドの革命家ラス・ビハリ・ボースと結ばれ、その逃亡生活を支えました。大正7年(1918)結婚式をあげますが、過労による肺炎で26歳の若さで亡くなります。その後ボースによって中村屋名物の純印度式カリーが開発されます。中村彝を慕ってトリエには友人や若手画家が頻繁に出入りし、鶴田吾郎や鈴木良三など落合に転居する画家もいました。大正時代、彝によって落合に芸術村が形成されていったともいえます。代表作となった「エロシェンコ像」(重要文化財)は、中村屋が支援したウクライナの文学者で、盲目の詩人といわれたヴァスィリー・エロシェンコの肖像です。鶴田吾郎が彝のアトリエにつれてきて、2人で競作しました。エロシェンコは大正3年来日し、中村屋で衣食しながらエスペラント語の普及につとめます。ボルシチやピロシキを伝え、店員の服装がロシア風のルパシカになりました。中村惠一さんは彝について「制作期間は短いものの、大正時代に独自の道を切り拓いた巨匠。アトリエを離れず、レンブラント、ルノワール、エル・グレコといった海外の潮流や技法を画集や雑誌(ホトトギス、白樺など)から吸収し、自分の中で再構築しています。中村屋サロンの中心人物として若手に大きな影響を与え、彝を慕って彼らが落合に集まり、その死後も作品や資料の整理・保存が仲間やパトロンによって行われました。美術館の学芸員は美術史に欠かせない画家ととらえていて、これからさらに評価が高まると思います」といいます。
下落合の「つづらそば」にて。
1960年、愛知県岡崎市に生まれた中村惠一さんは、北海道大学在学時に一原有徳はじめ現代作家との出会いからアートと深く関わるようになり、卒業後は日立製作所宣伝部に勤務しながらメールアーティストとして活躍します。ギャラリー「ときの忘れもの」のホームページに、北海道の回想や落合の画家、文学者をテーマにしたエッセイを連載し、書籍化を進めてきました。落合に住んだのは30代半ばくらいから。美術評論の大家でシュルレアリスト瀧口修造の住居跡が西落合の哲学堂公園近くにあると知り、古い詩の雑誌に旧地番の住所を見つけ訪ねたのが「落合散歩」のはじまりだそうです。当時はまだ遠藤新が設計したようなモダン住宅や古い洋館が残っていましたが、東日本大震災以降、急に建て替えが進んだようです。少なくなったとはいえ、落合にはまだまだユニークな建物が残っています。大正12年、関東大震災のあと、多くの画家や文人が落合に移り住んできました。画家を目当てに、北側に大きな窓をもうけたアトリエ付き賃貸住宅もあったそうです。中落合の佐伯公園には、西洋画界のスーパースター佐伯祐三が、中村彝と同時期に建てたアトリエが復元されています。
▼佐伯祐三アトリエの復元模型。かつてアトリエの南側には佐伯家が暮らした住宅が隣接していました。
佐伯祐三は明治31年(1898)、大阪の光徳寺に生まれます。19歳のときに上京し藤島武二に師事すると、東京美術学校(東京藝大)在学中に、銀座の象牙美術商の娘で川合玉堂に師事していた池田米子と結婚。両家の支援をえて落合にアトリエ付き住宅を建て、近所の中村彝に私淑します。卒業すると妻子を連れてパリに渡り、野獣派のモーリス・ド・ヴラマンクから「「このアカデミズムめ」と批判されたことをきっかけに、街に出て下町のなにげない光景を描き始めます。佐伯祐三は絵を描いた場所を克明に日記に記録していました。絵に描かれた和館らしき建物が今も残っています。2023年には「佐伯祐三自画像としての風景」展が、東京ステーションギャラリーと大阪中之島美術館で開催される予定です。
1926年体調を崩しパリから帰国した佐伯は、仲間たちと「一九三〇協会」を結成し展覧会を開きます。佐伯は短期間で落合の景色を30点以上描いた連作「下落合風景」を発表すると、衝撃をうけた仲間たちはこぞって近郊の風景を描くようになります。佐伯はキャンバスや絵の具を外へ持ち出し、見たままの景色をものすごいスピードで正確に描きました。薄塗りでありながら重厚なマチエールを感じさせる画法は、彼しか成し得ないものと言われます。やがて2回目のパリ行きを果たした佐伯は「カフェ・レストラン」の連作をスタートし、パリ画壇でも認められる存在になります。しかし1928年、有名な「郵便配達夫」を描いた佐伯は喀血し、30歳の若さで亡くなってしまいました。同じ月に娘の彌智子も亡くなり、米子夫人は2人の遺骨を抱いて帰国します。米子夫人は画家として活動をつづけ、昭和47年までアトリエを守りました。
心・体・思考の健康をデザインする
私の生活で欠かせないことといえば「草花を飾ること」。
体を動かすことと同じくらい日々の大切な習慣になっている。生の花や植物が大好きで、そこにあるだけで気持ちが潤い、最高の存在である。バラやカーネーション、胡蝶蘭といった王道花も良いけれど、私が好きな花はくすみのある色彩や極彩色の花、ネイティブフラワーや枝や実物など、写真を撮っても絵になるからこれもうれしい。
花屋さんの存在も大好きで、花屋に行くことはかなりのリフレッシュ感がある。お店ごとにオーナーのセンスが光り、自分にはない色彩の世界に出会えると、ほんとうに元気をもらう。まさに心の栄養。茎の扱い方ひとつとってもお店ごとに異なり、勉強になる。家に持ち帰り包を開けた時、鋭く美しくカットされている茎先をみると、丁寧な気持ちで扱われている花なのだと、こちらまで丁寧な気持ちになってくる。
花をたくさん飾れば、毎日の水替えや水切りはそれなりの手間をかけることになるものの、濁った花瓶の水を取り替えて、花瓶の中に透明な水とフレッシュな茎が見える瞬間は、私の気持ちまで整い、とてもすっきりとした感覚になる。
とはいえ、ずっとこんなに花が好きだったわけでもない、と、ここまで書くとあらためて思う。20代の頃は家にいる時間が少なかったこともあり、花とは無縁な時間を過ごしていたような気がする。仕事場で定期的に花屋さんが旬の草木を飾る様子を眺めても、さほど感動もしていなかったような気もする。とても素敵な草木が飾られていたはずなのに。
花が好きになったのにはきっかけがある。ネットショップの制作会社に勤めていた時、私の担当はなぜか花屋さんが大半を占めていた。花屋さんの担当が次々に増え、生花からプリザーブドフラワー、アートフラワーまで、さまざまな店舗に関わらせていただいた。パンクしそうに忙しい日々だったけれど、花の名前、種類、ご用途、贈り方など、本当にたくさんのことを学ぶ機会を頂き、知識・情報収集にいそしんだ。
あの頃、モーレツに集中して花の世界にどっぷり浸かったからこそ、毎日大変と思いながらもひとつひとつ覚えることが楽しくもあり、花を生活の一部に取り入れるという、うれしい習慣を手に入れることができたことは有難く思う。
気忙しい時期に入ると、うっかりしているうちに時間が瞬く間に過ぎてしまう。そんな時こそ生の草花を飾って、みずみずしさや枯れていく様を感じて、手入れをする時間を丁寧に持つようにしたい。
花に元気がなかったら、今の自分の姿?
花瓶の水が濁っていたら、気持ちもなんだかよどんでいる?
花が枯れていることに気が付かなかったら、余裕がないのかも?
たくさんの花を飾りたくなっていると、自分のエネルギーが不足している?
花を飾るということは、私にとって心の健康のバロメーターでもあると、日々実感している。
ヨガ数秘学 -大吉朋子 .
2022年11月は 82022年12月は 9
のエネルギーが流れます。のエネルギーが流れます。
「8」はプラーナの数字。生命力、パワー、実行「9」は、達人・マスター、終わり、執着と手力を表すエネルギー。2022年 4月頃から始め放しを表す数字。12月ということで、今年一年たことがあれば、一旦集大成として仕上げてしを通して不要となったことは潔く手放すことがポまうタイミングでもあります。力強いエネルギーイント。いったん終わらせる、ということも大溢れる時期ですから、エネルギーの流れに乗っ切です。また「知恵」の数字でもあるため、学て、やりたい事も実現化してみることがおすすめびを深める時間として捉え過ごすこともおすすです。お金のエネルギーも強まります。めです。この月は「執着しない」よう心がけておくと良いですよ。
【 12月生まれの方へ ワンポイントアドバイス 】
ポジティブで前向きなエネルギーが強い12月生まれの皆さま。周囲の人にとって、12月生まれのプラス思考はありがたい存在だったりします。ただ、当の本人はそんな周囲の期待に応えようと頑張りすぎてしまうこともしばしばあるのでは?前向きに!と頑張りすぎていたら要注意。時には断る勇気も持ってくださいね。
江戸を支えた和紙づくり
小川町の細川紙
18〜19世紀、100万人の大都市・江戸で消費される「細川紙」を供給したのが、埼玉県・小川町でした。小川町和紙体験学習センターでは、和紙の歴史を学びながら和紙漉き体験もできます。
スタッフの方が、小川町和紙体験学習センターを案内してくださいました。この施設は昭和11年、和紙の研究所として埼玉県によって建てられ、平成11年小川町に移管されました。現在は手漉き和紙体験や展示を見学でき、和紙の作り手を目指す研修生の方などが管理にあたっています。建物はほぼ当時のまま使われ、3層の紙が作れる幅90cmの製紙機械が残されています。紙の原料を砕く叩解機「ビーター」や紙を切る断裁機、紙に圧力を掛けるプレス機などが今も現役で使われています。
ユネスコ無形文化遺産に認定された「細川紙」を後世に伝えるため、小川町の農家は和紙の原料となる楮(こうぞ)やトロロアオイを栽培し、町ぐるみで技術継承に取り組んでいます。楮の収穫(楮切り)は、11〜12月に行われます。
▼和紙になるのは皮の部分だけで、芯は使いません。
収穫された楮を切り揃え「煮熟室」の大きな鉄釜に入れて蒸気で蒸し、温かいうちに表皮をむき取ります。球形の釜は「地球釜」といって、麻など硬い繊維に圧力をかけ蒸しながら回転させて柔らかくする装置です。
乾燥させた表皮を水で戻し、黒い外皮の部分を専用の紙漉き包丁で丁寧に取り除きます。この作業を「楮ひき」といいます。緑色の甘皮を残す方法と白皮まで削る方法があり、紙の強度や色が異なるそうです。ここで外皮を残さないことが、質のいい和紙づくりにつながっていきます。小川町で和紙が作られるようになったのは、1300年ほど前。武蔵国に集団移住した高麗人によって伝えられたと考えられています。聖武天皇は全国に国分寺を創建し、経典を書き写す「写経」を奨励します。和紙の需要が高まることで紙漉きが始まり、774年の正倉院文書には「武蔵国紙480張、筆50管」とあり、租(税)として京都に和紙を納めていたことがうかがえます。▲楮用のナギナタビーターには、刀のような刃が付いています。ビーターの掛け方で紙の風合いが変わるため、和紙作家にとって大切な作業です。
「楮ひき」のあと、ソーダ灰などを使って皮を煮沸し、柔らかく繊維がほぐれるようにします(楮煮)。次にアクを抜き、細かいチリを取り、「打解機」や「楮打ち棒」を使って材料の繊維をほぐします。さらに繊維を細かくするため叩解機「ビーター」の水槽に水を溜め、原料を回流させながら叩きほぐします。特に楮用のビーターは「ナギナタビーター」と呼ばれ、長い繊維を切る鋭い歯が回転します。こうした装置をいま揃えるのは大変なため、地元の和紙作家達も頻繁に利用しています。
吉良ゆりなさんとTime & Styleがコラボレーション
OBJEWELRY WALL
2022年11月17日(.)〜12月31日(土)
Time & Style Midtown
東京都港区赤坂9-7-4 東京ミッドタウン ガレリア3F
ブローチのデザインが原型となり、幾何学体を組み合わせた吉良ゆりなさんのオブジェ「OBJEWELRY」。その新作15点にくわえ、Time & Styleとのコラボレーションから生まれたプロダクト「OBJEWELRYWALL」の展覧会が、東京ミッドタウンTime & StyleMidtownで開催されます。「OBJEWELRYWALL」は天然木やミラーというソリッドな素材で作られ、絵画、彫刻、グリーンとも異なる雰囲気をもつ空間エレメントになりそうです。
▼ OBJEWELRY WALL 002 W606 D30 H704
▲ OBJEWELRY WALL 001 W580 D98 H700
▲ OBJEWELRY WALL 003 W580 D98 H700
江戸時代になると、100万人都市で消費される冊子や書状、大福帳、浮世絵、障子など大量の紙が必要になります。小川町の和紙は水に強く丈夫で、江戸に近いこともあり、紙漉屋750軒を超える大産地になりました。その技法は、紀州(和歌山)の細川村から伝わったといわれ「細川紙」と呼ばれます。その販売権は江戸の紙問屋に独占され、小川町からの直接販売は禁止。価格も一方的に決められていました。明治になると和紙が自由販売となり、藩札や紙幣、債権、蚕卵原紙に使われ、明治34年に小川製紙同業組合が設立されます。大正10年頃、紙漉屋は千軒を超え、冬場になると至るところで紙が干され、陽の光を反射して「ぴっかり千両」と言われました。
紙漉きには大量の水が必要です。小川町には周辺の山々から水が流れ込み、町の中心を流れる槻川(つきがわ)の水質は、金属分が少なく紙漉きに適しています。センターでは今も地下水を利用しているそうです。かつては、槻川やその支流に紙漉屋の工房が並んでいました。
紙漉きに欠かせない原料に「トロロアオイ」があります。オクラ科の植物で、根っ子から「ネリ」という粘液がとれます。これを楮など紙の原料と混ぜると、繊維が水中でほどよく浮遊し、繊維をつなげとめる働きもあります。乾くと粘性はなくなり、紙同士がくっつく心配がありません。小川町では栽培の難しいトロロアオイを、十数軒の農家が協力して育てています。トロロアオイのネリは暑さに弱いため、紙漉きは冬場の仕事とされていました。この日はパルプ原料を使い、埼玉県の卒業証書に使われる和紙を漉いていました。
「溜め漉き」という技法を使い、校章の透かしを入れた卒業証書を漉いています。原料はパルプを使い、6月〜11月位まで5万枚以上を手分けして漉いているそうです。「漉き舟」という水槽に原料を入れてよく混ぜ、濃度を調整してから決められた厚みになるよう慎重に「簀桁(すげた)」を引き上げます。小川町は「細川紙」の後継者育成のため、研修事業をすすめています。センター等で働きながら細川紙技術保持者から紙漉きを学び、細川紙技術者協会の正会員として認められると、その人が漉いた紙が、ユネスコ無形文化遺産が認める「細川紙」になります。パルプを漉いた後、ミツマタを溶かした漉き舟でもう一度溜め漉きをします。表面が滑らかになり光沢がでるそうです。ジャッキで水気を絞ってから、湯で加熱した鉄板に貼りつけて乾燥させます。紙漉きというと、簀桁で紙を漉くシーンが思い浮かびますが、そこに至るまで沢山の工程があることが分かりました。小川町和紙体験学習センターの体験コースは、1枚紙を漉く手軽なコースから、1日〜数日かけて原料から手掛ける本格的なコースまで色々な体験が用意され、和紙をより深く知ることができます。■ 小川和紙体験学習センター TEL.0493 -72-7262
ドラゴンシリーズ 97
ドラゴンへの道編吉田龍太郎( TIME & STYLE )
父の香り
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宮崎の実家を訪ね、それから東京に戻る時の玄関先で父が
『龍、ちょっと待て。』と必ず僕を引き留めてジャケットの胸ポ『これはお守りだから。』と一言だけ付け加えて
ケットにひと枝のローズマリーを無理やり押し込んでくれた。
年も昔に亡くなってしまったけれど、昨日のことのように父がローズマリーの枝を胸ポケットに差し込んでくれた姿が鮮明に浮かぶ。今でも父のことをくっきりとした姿で瞼に描くことができる。ローズマリー、金木犀、レモングラスの香りが流れてくると、その姿が鮮明に現れる。
月半ばになると実家の庭先の木々の下を抜ける時に、一本の
大きな木にオレンジ色の可愛らしい花々の房から流れてくる金木犀の香り。それは僕にとって心地よい秋空の澄み切った透明な空気にブレンドされたフレグランスのようだ。大好きな秋の金木犀
の香りは、多分今の僕よりも若かった時の父の元気な姿に結びついている。僕がまだ小さな頃から父は日常の生活の中で香りを楽しんでいた。
僕が生まれる以前、
年くらい前、
代の父はブラジルで数年
間仕事をして帰国し母と結婚した。僕の二人の姉が生まれて母が僕を身籠った時に海岸に近い丘陵の砂地4000坪を購入し、そこにコンクリートにスレート葺き
の平屋という当時としては随分と洒落た
建てた。今では鬱蒼とした森のような土地となっているが当時はまだ砂地だけだったので、そこに大きな緑色の芝生の庭を作り、昔の写真から数本のソテツやヤシの木を植えていたようだ。
ブラジルから戻り、父は町役場に勤めながら色々なアイディアを考えついてはそれを実行に移した。4000坪の土地の半分2
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……父はもう
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坪くらいの小さな家を
000坪には、自分達で研究をして当時は南国の砂地では育たないと言われた葡萄を母と二人で作り始めた。ブドウの房を絡ませるための葡萄棚の支柱はコンクリートを購入し、幼少の頃から小さな港の砂利運びで慣れ親しんだ小石や砂に水を混ぜ、型枠に流し込んで葡萄棚の支柱を何十本も作った。支柱を2000坪の畑に均等な間隔で深く埋め込んで並べ、支柱の頭の真ん中に開けた穴に直径5ミリくらいの針金を通し、支柱を縦方向と横方向に縦横無尽に繋いだ。歪な形で所々から大小の小石の頭が飛び出している手作りコンクリート柱の葡萄棚は意外にも美しく整然としていたが、そこに2〜3年後には豊かな葡萄の蔦が絡まり、そして数年後にはキャンベルや巨峰の芳醇で瑞々しい豊かな葡萄の房をたわわと蓄えた。
町役場の仕事から戻り、それから葡萄畑で実った大きな葡萄の房を大切に収穫しては、庭先の土間に簡易の電灯を灯して夜中まで箱詰めをしていたことを今でも鮮明に思い出す。
そして母が、綺麗な葡萄箱を自転車に乗せて近所の市場まで出荷するのだ。当時はまだ葡萄は珍しく市場では直ぐに売り捌けて良い稼ぎとなった。明確
な理由はわからないが葡萄の木が病気になったのだろうか、
とんど全ての葡萄の木を切り倒してしまった。それから父は庭に多くの植木を植えるようになった。
近所の山々に無断で入り、自分好みの木を選んでは持ち帰り庭に植えた。時間の経過と共に庭はどんどんと森のようになった。木々は日本だけでなく、僕がドイツに住んでいる時には菩提樹の苗木が欲しいと言っては取り寄せたり、また、父が海外に行った時にはその土地の木々の種子を何でも採取しては日本に持ち帰って庭に植えて変なクネクネした植物が生えたり、やたら大きな棘棘のある変わった植物などが生えて来ては母や僕を驚かせた。
父の趣味と人生は独創的だ、脈略が無いようで何故だか全部が繋がっている。そんな沢山の植木の中にレモンユーカリの木があった。レモンユーカリ年ほどしてほ
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の木は成長が早くみるみるアッと言う間にメートルくらいまで大きく高く生長して、自宅の庭の森から本のレモンユーカリの木だけが突き抜けて飛
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び出していた。ユーカリの木は硬くて重いので、大きくなりすぎて小枝が台風の強風で折れたりするとそれは本当に危険なのだ。しかしレモンユーカリ
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の最も大きな特徴は細長い葉を2枚を擦り合わせると、柑橘系のような強く清々しい美しい香りを放つのだ。
父は代後半くらいから晩年の代まで、長い間仕事で外出する時も東京
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に陳情で上京する時も、必ず胸のポケットに枚のレモンユーカリの葉っぱを忍ばせて、誰かに会う時に葉っぱを擦り合わせて独特の香りを振り撒いて
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いた。父に会う人々がオヤッと言う表情に変わり、何か良い香りがしますね、
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と言われるまで父は胸のポケットの中でレモンユーカリの葉っぱを擦り続け
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るのだ。そんな父のレモンユーカリを当時の僕は恥ずかしいと感じていたが、
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今となってはそんな父のレモンユーカリの香りが大好きになり、実家に帰ると庭に残った本のレモンユーカリの木の枝から枚の葉っぱをもぎ取り、自分の胸のポケットに忍ばせる。そんな自分に苦笑するが。
そして、母は父の影響かもしれないが年以上前から2000坪の土地に様々なたくさんの種類のハーブや果物の木を植えて、豊かなハーブ園での営みを日々の生き甲斐としている。母の庭から採れたハーブや野菜や果物には、時間を掛けて丁寧に育てられた豊かな土地と自然の力が宿り、深く瑞々しい味わいとエネルギーを与えてくれる。そして何よりも歳となった母が一人で毎日の日課として生き甲斐としてハーブに向き合う生き方が私たち子供達に豊かな気持ちを届けてくれる。色々な変遷を経て、母は父の想いを受け継いで楽しみながら、私たちに自分達の生き様を繋いでいるように。母を見ていると母の中に、そして庭の畑の木々に父が生きて宿っているようだ。父に会えるような、金木犀の季節が待ち遠しい
女流文学として重要なふたつの作品が、落合を流れる妙正寺川の近くで生まれました。ひとつは尾崎翠『第七官界彷徨』、もうひとつが林芙美子『放浪記』です。尾崎翠と林芙美子は、落合を舞台に親しく交友しました。林芙美子は『落合町山川記』で、「この堰の見える落合の窪地に越して来たのは、尾崎翠さんという非常にいい小説を書く女友達が、「ずっと前、私の居た家が空いているから来ませんか」と此様に誘ってくれた事に原因していた。」と書いています。それは昭和5年のことで、いまその場所は、川の付替え工事によって妙正寺川の流れの中にあります。
尾崎翠が作品に書いた井戸。林と尾崎は長谷時雨の雑誌『女人藝術』を訪ね、林芙美子は『放浪記』、尾崎翠は戯曲『アップルパイの午後』や映画時評『映画漫遊』の連載をはじめます。
尾崎翠が暮らしていた家の跡を、中村惠一さんが案内してくれました。尾崎は昭和2年、31歳のときに、日本女子大学の同窓で親友の松下文子と落合に暮らし始めると、まだ無名の林芙美子が尾崎を慕って訪ねてくるようになりました。詩人の松下文子は北海道旭川の大地主の一人娘で、林芙美子は処女詩集『蒼馬を見たり』の出版費用50円を松下に出させています。盟友松下文子が結婚のため落合を去ると、失意の尾崎は近くの大工棟梁宅の2階で小説を書き続けます。
中井駅の商店街には、林芙美子が原稿用紙を買いにいった文具店や、知り合いとよく食事をした蕎麦屋があります。
昭和初期、中井駅の東には、壺井繁治、壺井栄、平林たい子、村山知義、村山籌子、中野重治、武田麟太郎などプロレタリア文学や前衛芸術で知られる多くの作家が暮らし「落合ソビエト」とも呼ばれました。いまはもう面影もありませんが、見通しの悪い細い路地で、活動家とそれを監視する特高警察の攻防が繰り広げられました。
ちょっと凝った料理やお菓子には欠かせない、スパイスとハー
ブ。どちらも歴史上「香り」や「味覚への刺激」そしてまた「お薬」としての役割を果たしてきました。ハーブと言えば基本は、野の草。ならばスパイスは?こちらは実に様々。木の実や樹皮、鹿の分泌物やクジラの内蔵結石、さらには蛾の幼虫までもが含まれます。では、西欧食文化史の世界で、スパイスとハーブをどのように分別するのか。
ハーブは自然の野山に自生するものの他に、庭や菜園で栽培されるもので、その香りは比較的穏やか。栽培場所として思い浮かべられるのは、畑や農家の庭先ではなく、王侯貴族の城やマナーハウスさらには修道院のハーブ園です。農園というよりも庭園の一部という感覚。これは西欧中世を代表するイメージのひとつとなっていて、そこには騎士たちと姫様や殿様の奥方との恋愛、お薬と毒薬、といった物語の要素が含まれます。これに対してスパイスは、ハーブよりも香りがぐんと強い。西欧社会から見て遠方
に産するため入手が困難で極めて高価。遠隔交易に耐えるように加工されて、長期保存が可能であるもの。といった条件を満たすものをスパイスと呼んできました。そのイメージの舞台背景は、はるか異国の、西欧中世には未だよく知られざるイスラ
ム世界やインド。さらにシルクロードを越えて中国にまで至る、とてつもなく広い世界です。地中海から大砂漠を行くラクダの隊商、これを経て大洋を帆船で渡りインドさらにはシルクロード経由で中国へ。そのような広大な地域をつなぐ冒険商人たちが紡ぐ、マルコ・ポーロ的世界がイメージされてきました。
スパイスは長寿健康につながるものという一種の「強い信仰」を背景に、どれほど高価であっても、王侯貴族たちはその入手を競ってきました。これを取り扱った高級商人が、フィレンツェのメディチ家の家名の語源でありまたその家紋である丸薬に象徴される薬種商です。また中世には貴金属や貴石を取り扱う商人が一部スパイスも取り扱う例があり、そういうモノの一部として捉えられていました。現代であればさしずめ、ブルガリやティファニーやカルティエやミキモトさらには田中貴金属の店先にスパイスも置かれている、というイメージです。
ところで、古来中国で「薬食同源」また我が国の「医食同源」に通じる考え方は、西欧でも非常に古い時代からありました。古
16世紀の世界地図。
代ギリシアに生まれた「西欧医学の祖」ヒポクラテス(紀元前5世紀後半〜前4世紀後半)によれば、人体は「火・水・大気・土」の4つの元素から構成され、その要素の作用で生じる4つの体液「血液・粘液・黄胆汁・黒胆汁」が、人の体質・気質を左右する。人はこの4体液の割合がそれぞれ異なる形で生まれてくる。4体液の中で、どの傾向が強いか。これによりその人の体質ならびに気質が決定される、と考えました。その4つの要素が完全に均衡が取れたニュートラルな状態にあることが理想です。なので人は自身の体質・気質が4要素のどちらに偏っているかを自覚し、日々の食事は、その傾きをできるだけ均衡の取れた状態に持っていくよう食材ならびに調理法に配慮することが肝要、と考えられていました。その考え方はやがて紀元後2世紀に驚異的な活躍を見せる小アジアのペルガモン出身の大医学者ガレノスにおいて大きく開花し、西欧ではその後世紀後半に至るまで、ほぼ2千年の長きに渡って、この健康概念が医学・薬学そして料理・栄
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養概念の基礎となっていきます。
で、スパイスです。中世からルネサンス期にかけて西欧の諸宮廷では、料理にスパイスが驚くほど多用されています。その一番の理由が、上記4体液説に基づく健康概念にありました。当時の人々は、人の体質同様に、肉や野菜や調味料など食材のそれぞれに、4体液説に対応する「個別の性質」がある、と考えました。それら性質の異なる食材の組み合わせと調理法で、その4体液説的な食材の性質が変化する。食材の中でもスパイスは、その性質(効果)が強い。そのため、ある傾向の食材を調理するに際して、その食材と反対の性質があると考えられたスパイスを入れ
ることで、「料理の性質を弱める(強める)ことが出来る」と考えたのです。あらゆる食材について、4体液的な性質に基づく個性を当てはめて、食材を分類する。古代ギリシアで生まれた4体液説が、古代の医食同源思考的な寛容さを失って、教条的なものへと変化していったということがうかがわれます。中世欧州で盛んになる聖書研究やローマ法研究に見られる重箱の隅をつつくような議論に共通性を感じます。時代の風潮です。
このような志向から作られる料理、それは現代の我々が重きを置く「美味・美食」とは、かけ離れた感覚に重きを置いて作られていた、ということになります。あきれるほどスパイスが多用されていた宮廷宴席の料理。当時西欧食文化ファッションの先端を競っていたブルゴーニュ家、ヴァチカン教皇庁、主要な枢機卿館、メディチ家、エステ家、ゴンツァーガ家、そしてフランス王家にイングランド王家まで、いずれも例外ではありません。どの宮廷の宴席料理も、スパイスが一杯!また当時スパイスの一部と考えられていた砂糖の多用も目立ちます。これは決して「美味を求めて」とか「肉や魚の臭みを消す」などという理由からのことではありません。基本は、長寿健康を追求するために、高価なスパイスを多用することが、4体液説に基づいた体内バランスの均衡が取れた体つくりに役立つ。この「頭でっかちな信仰」が基本にあったのです。
黄胆汁 血液, 黒胆汁, 粘液を擬人化した図。
料理を食べる人も、料理を作る人も、その料理作りを命じる人も、すべて、この同じ発想の中で食を考えていました。だから現在の我々の目には「異様なほどにスパイスを多用した料理」と映るものが、彼らにとっては「健康増進料理」=「こんな高価な食材を惜しげなく使った料理」=「幸せをもたらす料理」だったのです。だから、この目的実現のためには、蔵を傾けるほどの費用さえ惜しまなかった。そして、それは同時に、宴席に招いたゲストに対して、我が家(宮廷)は、これだけ高価な食材を世界の果てからかき集める力がある、それを使いこなした料理を準備できる食文化力がある。そして言うまでもなく、これを支える財力がある。そのすべてを動員して貴殿をもてなしている、という意味合いも大いに含まれていました。このような背景から「高級貴金属宝飾店の棚の一部にスパイスが並ぶ」ということになっていたのです。メディチ家の先祖が「薬種商」だったとして、しかしそれは決して、我々が思い浮かべる「フィレンツェの街の薬局」というような庶民的な存在ではなかった、ということです。
では、西欧食文化史上、最も初期に登場するスパイスは何か。それは「シルフ
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ィウム」(Silphium)です。古代ギリシア人は、紀元前7世紀初め頃から現在の北
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アフリカ、リビア沿岸部に波状的に進出して植民都市を築き、その都市群をキレナイカ( Cyrenaica現在英語圏では一般にサイリーニ Cyrene)と名付けました。この土地でギリシア人たちが初めて見つけたスパイス、それがシルフィウムでしシルフィウムのコインと船積みを見る王の図。た。よほど古代ギリシア人の味覚と嗅覚の好みに合ったようで、特に肉料理・魚料理から野菜の煮物にまで幅広く使われたようです。近年の研究ではシルフィウムはオオウイキョウ(茴香)の一種、というのが定説となりつつあります。ウイキョウであれば、確かに香りが強い。敢えて言えば、薬臭い。実際、古代ギリシアでは例外的なグルメであるシチリア出身のアルケストゥラトスは、その詩の中で、「シルフィウムは香りが強すぎるので魚料理に使うのは感心しない」とうたっています。その一方、血液に強く作用する成分が含まれていたため、医薬として様々な用途に利用されました。香辛料としてよりも薬としての需要の方がずっと大きかったようで、肋膜炎の治療に、また特に女性の生理促進、さらには堕胎薬として珍重されています。当時の女性にとっては、重要な薬でした。
このシルフィウム、後のローマ帝国時代に入ってさらに評価が高まります。特産地キレナイカはその輸出で大いに潤い、シルフィウムを描いた銀のコインが幾種類も作られ、船積みのための計量を王が見守る様子を鮮明に描いた酒器も残っています。残念ながらこの植物、プリニウス(紀元後〜)の『博物誌』で既にその絶滅が危惧されていて、程なくして、危惧された通りの最後を迎えます。以後は「幻のスパイス」として歴史に名を残すのみ。しかし、スパイスの歴史を語る近年の専門書には必ず、「幻のスパイス」として登場します。シルフィウムは消え去ることで永遠の命を獲得した、と言ってよさそうです。
昭和16年完成の林芙美子邸は、新宿区立林芙美子記念館として公開され、ベストセラー作家の暮らしを体感できます。林芙美子成功の足がかりとなったのが、雑誌『女人芸術』に連載された『放浪記』でした。読者の好評を得て、昭和5年、改造社『新鋭文学叢書』の一冊として刊行され、たちまちベストセラーになります。同じ年、尾崎翠は代表作『第七官界彷徨』の執筆をはじめ、半分ほどを雑誌『文学党員』に連載。中村惠一さんの調査では、2人で美術評論家板垣鷹穂を訪ね『第七官界彷徨』全文を板垣の雑誌『新興芸術研究』に掲載してもらう過程が林芙美子の日記から見えてきたそうです。その後、板垣の妻・直子の推薦で、『第七官界彷徨』が単行本として出版され、生前唯一の本となりました。林芙美子の『放浪記』が大ヒットする一方、尾崎翠も井伏鱒二や太宰治に注目されはじめますが、頭痛薬の副作用で精神を病み、兄に連れられて故郷鳥取に戻り文壇から忘れられていきました。ある日、林芙美子のもとに改造社から1000円を超える印税が届き、林は驚きます。それを元に芙美子は夫緑敏(りょくびん)をおいて、一人で中国旅行に出掛けます。次いで昭和6年、シベリア鉄道でパリへ向かいます。一説によると近所の画家外山五郎を追ったとも言われますが、旅費は全て自前で、旅先から旅行記を送り収入を得ながら、日本人画家やジャーナリスト、考古学者に囲まれて過ごしました。外山を訪ねたもののつれなくされた林芙美子は、帰国前の数カ月、若き白井晟一と濃密な時間を過ごしています。
門から玄関にいたる笹の茂った石段は、林芙美子自慢のアプローチでした。落合断崖の坂道を上手に利用しています。
背の高い靴脱ぎ石を置いた玄関。取次の間を右に入ると、編集者の詰所となった客間があります。隣にはお手伝いさんの部屋があり、プライベート空間には入れないプランになっていました。
改造社社長に帰りの旅費三百円を送ってもらい、芙美子は船で帰国します。家賃50円の下落合の西洋館に移り9年ほど暮らすと、昭和14年から新居建設に取り組みました。母キクの友人から紹介された約300坪の土地を入手すると、200冊の本を見て自ら図面を描いき、新進気鋭の建築家山口文象(当時は蚊象)を訪ねました。玄関の左脇に、母キクが暮らした6畳の小間があります。複雑な人間関係を共に乗り越えてきた母は、芙美子にとって最も信頼できる存在でした。
戦時中で住宅の面積が約30坪に制限されていたため、芙美子名義の住宅棟と夫緑敏名義のアトリエ棟に分割して設計されました。このことが職住一体の家にメリハリを与え、芙美子はアトリエ棟の書斎と居住棟を行き来して気分転換しました。パリで建築家白井晟一と親交を結んだ林芙美子が、なぜ山口文象を選んだかは分かりませんが、文象は芙美子とほぼ同い年で、同じ昭和6年にヨーロッパに向かい、ベルリンのワルター・グロピウス事務所で働きながら、パリにル・コルビュジエを訪ねるなど芙美子の人生と不思議に呼応し、話が弾んだのかもしれません。設計は所員の角取廣司が担当し、大工の渡辺棟梁を連れて京都の建物を見てまわり、イメージを膨らませました。居住棟の主室となる茶の間。軒が深く広い縁側から庭が眺められます。伝統的な数寄屋造りに見えながら、材料は杉材など質素なもので、構造も合理的なつくりであることが分かります。
芙美子が特にこだわった台所はテラゾーの研ぎ出しで、高価な最新式冷蔵庫が置かれました。隣接したトイレは当時まだ珍しい水洗式。白いタイルを貼った浴室には落とし込み式の総ヒノキ風呂が設置されます。普段の食事はお手伝いさんが作りましたが、料理自慢の芙美子もときどき台所に立っては、家族や来客のために腕を奮いました。
その32
青山かすみ
10月末が近づくに連れ、渋谷駅周辺ではハロウィーン祭りらしきが恒例となって久しい。魔除けの仮装と化粧をまとった若人が自然と集うようになった。古くはケルトにまつわる儀式からで、かぼちゃをくり抜いたランタンのお化けがセットらしい。コロナ禍明けも手伝ってか、今年は例年以上に大変な賑わいだったとか。
それはそうでしょう。渋谷上空から港区にかけての上空は、地上の賑わい以上に騒がしいものがありましたからね …… !!!
しばらく新航路が飛ばなかったので、やれやれと思っていたところに朝昼晩とひっきりなしに静音性のない、やかましいヘリコプターが入れ代わり立ち代わり飛んできましてね。ダブル攻撃で飛来された日には、もうたまりませんよ〜〜まぁそのことに気づくまでは、いつもの米軍ヘリだとばかり思って大いに腹立たしく、目を光らせてた訳なんですけれど。。。。。
それは三日目の最終日のこと。堪忍袋の尾が切れ、警察の航空隊へ苦情を申し伝えました。江東区のヘリポートに繋がり、対応してくれたのが U氏。優しい感じの方で、この辺りの一住民の声をしっかり受け止め、その後、静音性の高いエアバス機に切り替えてくださいました。あと二時間ほどで終わる仕事だっ
たけれど今飛んでいたレオナルドを一旦引き返してくれたのです!!すごく嬉しかった!三日間の頭痛とストレスが随分と薄まるような気がしました。
それでなくともこの三年ほど、国交省の航空局関連の方々や役所などとの対応を思い返すたび、救いようがなくただただ滅入るばかりで。。。その出来事に続き、それこそ信じがたいほど大変な事故がお隣韓国で起きようとは!!!狭い通りのあちらこちらで心臓マッサージをする人々が映し出されました。。あの日のいたたまれなかった空気感は、まるで韓国の出来事とつながっていたかのよう。私の中の奥深いところでトラウマとなって残ることに……将棋倒しの犠牲になられた大勢の方々へ心よりお悔やみ申し上げます。このような悲劇がふたたび起こらぬよう、日本のどんな場所でもあらためてひとりひとり危機意識を深めてゆくべきと襟を正される思いがしたものです。
さて、月が明けた11月はどうなったでしょう?えっ?先月の騒がしさ以上に激しくなってゆくではありませんか。。。間違いなく米軍ヘリの往復飛行が増してません?やけにスピーディーに飛んでません?土・日というのに堂々訓練しちゃってます?尋常じゃないよ〜と思っていた11月 6日の日曜日のこと。横須賀で海上自衛隊・70周年記念の観艦式イベントが催されたというニュースが飛び込んできたではありませんか !!!ハロウィーンから観艦式へと行事が立て続く都心上空の秋晴れ。そして 8日には晴天の夜空に見事な月食ショーが観られたという流れが起き、なにかうごめく空気感と緊張感は収まるどころか、久々に南風が吹いた 9日の新航路飛行などはそこのけそこのけモードの超低空飛行。て・やん・でぃ!!!いい気になりやがって〜バッキャロー。あほんだら〜気〜狂ってんのか〜とジェット機に向かって叫びたい気持ちになったのでしたと、さ。
林芙美子が気に入っていたザクロの木。
肘付き窓のついた8畳の寝室は、はじめ芙美子の書斎として設計されましたが、明るく広すぎるということで、夫緑敏と息子泰の居室兼寝室となりました。寝室の隣には6畳の次の間があり、その奥には書庫が設けられました。3室の戸を開け放つと、芙美子が望んだ南北の風が吹き抜けます。昭和10年代から、芙美子は特派員として中国に赴き、南京陥落や漢口攻略の最前線から記事を送りました。一方『放浪記』、『泣虫小僧』など代表作が発禁処分となるなか、昭和16年新居は完成します。しかし、満州慰問や南方の仏印、シンガポール、ボルネオへの派遣、信州への疎開など、終戦まで新居に落ち着く時間はなかなかとれませんでした。林芙美子の書斎は、本来は納戸として計画された6畳間にもうけられました。編集者の詰める客間から離れていて、雪見障子から庭が見え執筆に集中できる環境です。戦後、芙美子は、戦争の悲劇を書くようになります。夫の出征中に関係をもった義父と嫁を描いた短編「河沙魚」(『倫落』収録)、戦争未亡人の再婚を描きNHK連続テレビ小説になった『うず潮』、短編小説の最高傑作『晩菊』、芙美子文学の集大成となる長編『浮雲』など、数々の傑作がここで生まれました。北側に大きな窓を設けたアトリエは、夫緑敏のために建てられましたが、緑敏は芙美子のマネジメントに徹するようになります。芙美子は多くの雑誌、新聞連載を抱え、取材や講演のため全国各地を飛び回りました。昭和26年、銀座の料理屋の取材から帰った芙美子は、書斎で就眠中に突然の心臓麻痺におそわれ帰らぬ人となります。絶筆となったのは朝日新聞の連載小説『めし』でした。その5年後、白井晟一は代表的なエッセー『めし』(リビングデザイン誌)を発表しています。一方、鳥取に戻った尾崎翠は、母や病身の兄、兄の子供たちの面倒を看ながら戦中、戦後を生きぬき、『第七官界彷徨』は昭和44年、73歳のとき「全集・現代文学の発見第六巻」(學藝書林刊)に収録され、女流文学の金字塔として多くの人を魅了し続けています。復刻を喜びながらも尾崎は取材や原稿依頼を固辞し、その2年後に生涯を終えると、尾崎の愛した甥・姪に見送られました。
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第 93回内田 和子
つれづれなるままに
11年目の復興をみる
【 3日目】ー前月よりの続きー
石巻のホテルを7時
分に出発。
今日は震災後一度も足を踏み入れることができなかった、双葉町と福島第一原子力発電所、そして2020年 9月竣工の東日本大震災・原子力災害伝承館(以下、伝承館)の見学となる。道路は整備され、バスはかなりのスピードを上げてひたすら南下する。名取、相馬を抜け、双葉町へと入る。新しくなった双葉駅、向かいには翌週開所となる役場が建つ。ここで原
発視察専用バスに乗り換え、原子力発電所へと向かう。帰宅困難区域に指定されている大熊町、富岡町一帯は、
前のまま凍りついていた。大きな地震と津波、そして原発が
あったことを嫌が応にも突きつけられる。立入禁止区域の様子は報道でも見ることができなかったが、国道6号線を走る光景はあまりに酷い。田んぼは一面雑草が伸びてどこまでも覆う。屋根が朽ちた居酒屋、閉ざされた工場や銀行。人々が顔を合わせ言葉を交わしたであろう店先の看板も落ちたま
ま。むしり取られたままの暮らしの跡があった。陸前高田の奇跡の 1本松から三陸海岸を走り復興の足跡を見てきたが、ここだけは全くの別世界。思考が止まり言葉を失ったまま、何かを感じ取ることすらできなかった。
原子力発電所では、廃炉に向けた現況の説明を受け、入所にあたり細かな注意があった。初めて入る中間貯蔵施設は撮影禁止、時計、携帯はもちろん、飴玉1つ持っては入れない。厳重な身体チェックを受け、線量計を持ってバスで移動する。テレビで見続けた原発現場、今は廃炉に向けて粛々と、淡々と作業が進められている。復興という言葉はここにはない。ただひたすら廃炉のための作業である。見ているのが辛い。時々線量計が音をならす。基準値を越えることがあるとのこと。ここに長く止まること
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▲ 除染で土を剥がされたり、草だらけの田んぼ。
後編
年
▲ 放置された店舗や工場。
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東北大震災の復興は各地域に大きな変化をもたらし、まだまだこの先の課題は多いが、福島の原発は、想像を超える大きな問題を私たちに突きつけている。双葉町の駅周辺には県外からも受け入れできる新しい住宅が建ち、町の復興に大きな期待が持たれているが、道路を挟んだ向かいには手付かずのままの廃屋があり、そのギャップにとまどう。後年、震災のことも原発のことも知らない世代がこの地に住み着いて、新しい街ができていくのかもしれないと、微かな願いをいだきながら双葉町を後にした。
震災から年、今回の視察は私にとっても1つの区切りとなった。改めて配布された資料に目を通すと、多くの方々が様々に関わって、復興を願って活動してきたことがわかる。この地の子どもたちが、明るく未来に向けて育っていってほしいと願う。
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知った。その時この女性の映像が流れ、体が震え頭が真っ白になった。以来、この映像が頭から離れず、復興支援活動の原点となっていた。この写真を見つけた時、息が止まった。この女性は保育園に通う男の子の行方が分からなかったそうだが、3日後に子供と再会ができたと説明書きがあった。年を経た視察の最後にこの写真と出会ったことは、私にとっては大きな救いでもあった。はできない。説明を受けながら、ふと遠くを見ると青い海が静かに広がる。かつて鳥の森と言われた場所は、子供達が写生に来ていたそうだ。地震がなく原発事故が起きなかったら、日本の繁栄を支えた美しい景色だったのだろうと、ふとよぎる。発電所の方の説明は丁寧ではあったが、なんとも重々しく複雑だった。ここでは笑うことが禁止されているのかもしれない。これも辛い。
最後は、伝承館の見学となる。原発現場でかなりナーバスになっているので、なかなか目に入ってこなかったが、内容の濃い展示が多く、短時間では見きれない。震災の全容がよくわかる。報道写真もたくさん展示されている。その中の1枚にクギづけとなった。それは、ちらつく雪の中、毛布をかけて呆然と立ち尽くす女性の姿である。震災の時、私は成田上空の飛行機の中にいた。横田基地を経由して伊丹空港に着き、夜中に大阪のホテルでテレビをつけて、初めて震災の惨状を
▲ 新しい双葉駅。
▲ 伝承館の展示模型。▲伝承館で見た地図。