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ぶらりギャラリー港区あたり 時空を超える美意識 https://collaj.jp/夕顔 2025 美術館 博物館ひしめく 東京都 港区 高層ビルが立ち並ぶビジネスの中心地港区は、50カ所以上の美術館・博物館がひしめくギャラリーの街でもあります。そんな港区をぶらり散歩しました。 港区立郷土歴史館(白金台) ロックフェラー財団の寄付で建てられた内田祥三設計の「公衆衛生院」 現在、港区立郷土歴史館(ゆかしの杜)として利用されているこの建物は、昭和 13年「国立公衆衛生院」として、建築家 内田祥三(うちだ よしふみ)の設計で建てられました。建設のきっかけは関東大震災後の復興支援の一環として、ロックフェラー財団から公衆衛生専門家を育成・訓練する機関を設立したらどうかと提案されたことです。大正 12年の関東大震災では、衛生環境の悪化が課題となりました。日本政府はロックフェラー財団の提案に応じ、公衆衛生院の計画案を財団に提出。計画は承認され、白金台の東京帝国大学伝染病研究所、同附属病院に隣接して建てられました。財団の寄付は 350万ドルにのぼったといわれます。 港区立郷土歴史館では、「海とひと」「都市と文化」「ひとの移動とくらし」の 3テーマで歴史を紹介する常設展のほか、企画展も開催しています。写真は、終了した企画展「未来に伝えよう!みなと遺産」展の様子です。 建築家の内田祥三は、東京大学安田講堂などの設計で知られています。2人の子息も建築家となり、兄の内田祥文は戦中に木造家屋の防災を研究し、戦後の都市復興に尽力しました。弟の内田祥哉は、高層ビルからプレファブ住宅まで建築のシステム化と構法の研究によって、戦後建築界に多大な影響を与えました。公衆衛生院の 2、3階には中央ホールや院長室、4、5階には教室や実験室があり、6階は学生寮になっていて、公衆衛生の基礎を学び、専門的な職能を身につける実習が行われていました。2002年には国立保健医療科学院に改組され、施設が埼玉県和光市に移転します。建物と敷地は港区の所有となり、2018年、郷土歴史館、がん在宅緩和ケア支援センター、学童クラブなどの複合施設「ゆかしの杜」として開館しました。港区立郷土歴史館に隣接する東京大学医科学研究所の敷地内には、「近代医科学記念館」があります。建物は、かつての伝染病研究所の厩舎を再現したもので、北里柴三郎が設立した伝染病研究所の歩みや業績を紹介。厩舎では馬を飼育して、破傷風、ジフテリア、ハブ毒などの血清を製造していました。記念館に併設されたジロロモーニ カフェ・ディ・アーペでは、有機野菜を使ったヘルシーなランチを楽しむことができます。東京大学医科学研究所の本館は、関東大震災後に公衆衛生院と同じ内田祥三の設計で建設されました。中央部分のフォルムはよく似ていますが、両翼が後方に下がっているため、公衆衛生院のような威圧感はありません。この研究所のルーツ「伝染病研究所」は、北里柴三郎によって創立されました。最初は私立の研究所でしたが、明治 32年には内務省管轄の国立機関となり、明治 35年、白金台に現在の敷地を確保し国立伝染病研究所が完成。しかし大正 3年、政府は北里に相談することなく研究所の所管を内務省から文部省へ移管し、東京帝国大学の下部組織にすると発表します。これに反発した北里と研究員たちは、一斉に辞表を提出し、北里は私費を投じて「北里研究所」を設立しました。感染症研究は万人のために実用してこそ意義があるという理念を、北里は貫いたのです。 この手を離したりしないで Vol.73 原作:タカハシヨウイチ はら すみれ絵 : タカハシヨウイチ 山の手大空襲 80周年追悼 港区立郷土歴史館では 9月 30日まで企画展「終戦 80年戦争を見つめなおそう」を開催中です。1945年3月10日の東京大空襲では、下町を中心に10万人の犠牲がでました。一方、5月 24日、25日の「山の手空襲」はあまり知られていませんが、港、渋谷、新宿など市街地の半分が焼け野原となりました。終戦 80年の節目にあたり、山の手空襲を伝承するイベントがひらかれています。 1945年5月25日。表参道のケヤキ並木は火焔旋風に襲われ大半のケヤキが燃えました。 2025年7月13日、南青山の青南小学校で『「山の手空襲」80周年追悼朗読と音楽の集い』が開催されました。山の手空襲の体験談や子どもたちの朗読・音楽を通じて、空襲の記憶を次世代に伝える催しで「山の手空襲を語りつぐ集い実行委員会」により毎年夏に開催されています。今年は終戦 80年の節目にあたり港区との共催となりました。佐藤麻里さん(ピアノ)、飯 顕さん(ヴィオラ)による演奏で幕をあけ、空襲体験者の方々が入場すると、小・中・高校生たちが山の手空襲体験記集『表参道が燃えた日』を朗読しました。泉宏さん(95歳)は「山の手空襲を語りつぐ集い実行委員会」の共同代表をつとめています。当時15歳の泉さんは父・母・姉と青山北 5丁目に暮らし、3人の兄は戦地に行っていました。1945年 5月 25日の夜、空襲警報が鳴ると父は町会の方へ出掛けました。やがて焼夷弾が雨のように降りそそぎ、まわりは火の海となります。なんとか裏道をぬけて青山通りに出て、表参道をくだり代々木練兵場(代々木公園)へ逃げようとしましたが、すでに表参道には火が吹き渡り、交差点で行き場を失いました。外苑の青山墓地へ走り出したものの、人々が次々と倒れていきます。善光寺近くの建物に逃げ込み、そこにも火が及ぶと建物疎開でできた空き地に移り朝まで過ごしました。明るくなると青山通りには、四つん這いのまま焼け焦げた人が並んでいます。真っ黒な死体の山からは、父は見つかりませんでした。泉さんは毎年 5月25日の善光寺法要には必ず出席し、追悼碑への献花を欠かしません。「戦争は壊すことと死ぬことしかない」と訴えます。 表参道交差点(みずほ銀行脇)の山の手空襲慰霊碑「和をのぞむ」(左)は、空襲体験者などの著名運動に応え、港区制 60周年を記念して立てられました。交差点で多くの方が亡くなったことが記され、毎年 5月 25日には献花が行われています。表参道交差点の山陽堂書店は、当時まだ珍しかった鉄筋コンクート造の建物で、多くの人が中に避難し命を救われました。泉さんの母親も火傷の手当てを受けたそうです。山陽堂書店では、体験記集『表参道が燃えた日』を入手できます。 表参道交差点の灯籠のまわりには多くの方が積み重なるように亡くなっていました。人の脂の跡が黒く残っています。3月10日の空襲の 4倍、7000トン近い焼夷弾が落とされました。 山形美智子さん(95歳)は当時 14歳。青山南町 5丁目 中村道子さん(95歳)は、戦時中、原宿の実家から中 に暮らしていました。空襲の翌朝、煙で目が見えなくなっ 島飛行機の工場に通っていました。しかし 3月10日の大 た山形さんは、表参道の救護所に向かいました。交差点 空襲を見た父から指示され諏訪に疎開することになりまし の安田銀行(現みづほ銀行)前には焼け死んだ人が 2階 た。女学校に疎開を告げると「東京を見捨てるのか」と叱 まで積み上がり、体の脂が燃える青い炎が見えます。だん られたそうです。疎開中の 5月 25日に山の手空襲があり、 だん目が見えてくると、青山通りは死体の山でその匂いが 6月中旬に東京に戻ると、実家のあった外苑から原宿に抜 今も忘れられないでそうです。兵士が足で転がして死体を ける新道で 500人近くが亡くなっていました。「食べ物や トラックに積み込むのを見て「人間は究極状態になると恐ろ 着るものがない中で亡くなった人を思うと、戦争を避けるた しさを感じなくなって、人間の尊厳を失い、人間として扱 めあらゆる努力をしてく欲しい。人間を人間として扱わない われなくなる」と感じたそうです。安田銀行はシャッターを 戦争ほど惨めなものはない」と訴えます。山の手空襲では 閉ざしたため、助けを求めた多くの人たちが焼死しました。 4500人近くが亡くなり、85万人が罹災しました。 The Art of Negoro Nuri小坂公一 「 奇跡の根来塗り 」 AREA Tokyo 2025年6月20日(金) -8月17日(日) 1070061 東京都港区北青山 2 10 28 1F AREA Paris 2025年 9月3日(水) . 10月25日(土) 4 rue de l’Universit. 75007 Paris, FRANCE AREA New York 2025年11月14日(金) . 2026年1月17日(土) 172 Madison Avenue, New York, NY 10016, USA 高脚碗 長野県木曽平沢の故小坂公一さんは、木曽にあって根来(ねごろ)塗を探求した漆芸家です。根来塗は和歌山の根来寺で作られた頑強な漆器で、僧侶の生活に欠かせない生活器として、全国の寺で使われました。しかし豊臣秀吉の時代に根来寺が滅ぼされると、漆塗りの技術をもった僧侶や工人たちは全国へ散らばり、紀州・輪島・会津などに技術を伝えます。やがて「根来」は朱漆塗りの総称として用いられるようになりました。 菊花彫茶入 心の拠り所となる根来の「朱」。どこまでも深く吸い込まれそうな漆塗りは、古来から魂の象徴とされ、神を祀る祭事にも使われてきました。使い込むほどに下地の黒が浮かびあがり、味わいを増す「根来」。暮らしに取り入れることで、「時」の流れが可視化され、歳月を重ねることの喜びを見いだすことができます。 白金台の静かな住宅地に佇む「松岡美術館」は、実業家松岡清次郎氏(1894〜1989)のコレクションを展示する美術館。もともと松岡家の住宅があった場所で、庭の向こうには自然教育園の森が広がります。松岡清次郎氏は明治 27年、東京築地の米穀商の 3男として生まれ、幼い時から柔道や英語を習うなど文武両道を備えた活発な子どもでした。京橋の中央商業学校を卒業すると銀座の貿易商に就職し22歳で独立、松岡商店を設立しました。 開館50周年を記念して2月25日〜6月1日まで「開館50周年記念 1975 甦る 新橋 松岡美術館」が開催されました。現在は第二弾となる「開館 50周年記念おいでよ!松岡動物園」を10月13日まで開催中です。松岡清次郎氏が最初に扱ったのは、アクセサリーに使うイミテーションダイヤでした。その後、宝石を扱ううちに美術にも関心を持つようになり、日本画や陶磁器の蒐集を始めます。第一次世界大戦時には不動産業や冷蔵倉庫業で成功を収め、第二次世界大戦後には中国陶磁器の蒐集に注力するほか、ガンダーラの仏像彫刻、中世ヒンドゥー教の彫刻、朝鮮・日本・ベトナムの東洋陶磁器、室町から昭和にかけての日本絵画、ルノワールやモディリアーニといった近代絵画など、蒐集は多岐にわたり半世紀で約 2,400点にのぼりました。1975年には、「集めた美術品を多くの人に楽しんでほしい」という思いから、新橋の自社ビル内に松岡美術館を開館。その後、2000年には白金台の自邸に美術館を移転し新たにオープン。開館 50周年を迎えました。松岡清次郎氏の孫であり、現館長の松岡清美さんは、松岡美術館の特徴について次のように語っています。「祖父は国を越えて、自分が『いい』と思うものを集めました。当館の魅力は、さまざまな国や時代の作品があること。すべてがひとりのコレクターの目で選ばれ、上品さ、かわいらしさ、美しさに一貫性があることです。」松岡清次郎氏は、80代になってもサザビーズやクリスティーズなど一流のオークションに通い、著名なコレクター所蔵の逸品を落札していました。なかでも「青花双鳳草虫図八角瓶」は、松岡氏が美術館創設を決意するきっかけとなった名品として知られます。「開館 50周年記念 1975 甦る 新橋 松岡美術館」(会期終了)では、古代から近代にいたる中国陶磁器が歴史絵巻のように展示され、松岡清次郎氏の眼の確かさとコレクションの厚みを伝える内容となっていました。 饕餮文 方鼎中国 商時代晩期紀元前 13〜11世紀想像上の獣「トウテツ」文様が表現されています。 灰陶加彩 方壺中国 前漢時代紀元前 3〜紀元 1世紀焼成後に表面に彩色を施しています。 灰陶加彩 官人 三彩 婦人 中国 北魏時代 中国 唐時代 8世紀 6世紀前半 「梅花」昭和 4年 横山大観 古九谷や日本画など、日本の美意識を示す品々も展示され、中国、朝鮮、東南アジア、中東、ヨーロッパ各国の美の連鎖を感じられる展示構成になっています。 ドラゴンシリーズ 129 ドラゴンへの道編吉田龍太郎( TIME & STYLE ) ゴロワーズを吸ったことがあるかい? ゴロワーズという煙草を吸ったことがあるかい?ほら、ジャン・ギャバンがシネマの中で吸ってるやつさ。ヨレヨレのレインコートの襟を立てて、短くなるまで奴は吸うのさ。そうさ、短くなるまで吸わなきゃだめなんだ。短くなればなるほど、君はきっとサンジェルマン通りの近くを歩いているだろう。 20 今年の冬、 2月頃だったろうか。僕は六本木での夜の会食が終わり、交差点のあたりを少し酔った足取りでふらついていた。そのとき、どこからかムッシュかまやつの「ゴロワーズを吸ったことがあるかい?」という歌声が、ふと頭の中に降ってきた。あのジャン・ギャバンが映画の中で吸っていたゴロワーズの匂いを、どうしようもなく嗅ぎたくなった。 僕は、芋洗坂の上の方にあった、 40年ほど前に外国タバコを扱っていた煙草屋のことを思い出した。 60を過ぎた酔っ払いの記憶なんて曖昧なものだけど、それでも芋洗坂を少し下ったあたりに、その昔のままの小さな煙草屋を見つけた。そこには、昔と変わらぬエプロン姿の少しふくよかなおばさんが立っていて、僕を歳以下の若者でも見るかのような、斜に構えた細い目で見つめ、僕が言葉を発する前に遮るようにこう言った。 「無いよ。」 それは、酔っ払いには煙草は売らないという意味なのか、それとも僕がゴロワーズを探していると察したのか。おばさんは 「無いよ」とだけ言った。その言葉を無視するように、僕は言った。「ゴロワーズ、ありますか?水色のパッケージ、両切りのやつ。」するとおばさんは煙草の棚をちらりと見渡し、ハードケースに入った青い紙箱の煙草を手に取って「ゴロワーズは今、これしかないよ。」と言った。「いや、これじゃなくて、ソフトカバーの水色のやつ。両切りの。」おばさんは、少年を慰めるようにゆっくりと首を二度横に振り「残念だね」という表情を浮かべただけだった。それでも諦めきれず、僕は続けた。「ハードじゃなくて、水色のソフトカバーの角ばったやつ。」おばさんは少し呆れたように言った。「もうそんなの、とっくに無いよ。」それでも諦められなかった僕は、「じゃあ、これで」と言いながら、ハードケースのゴロワーズと、レジ前にあった小さなサイズのダークブルーの『 B I C』ライターを一緒に購入した。 煙草屋の軒先の灰皿の前で、すぐに箱を開けて一本を抜き、 軽く唇に咥えて、そっと火をつけた。そして、ゆっくりと肺の奥に深く吸い込んだ。しかし、そこにはあの癖のある匂いも、個性も無かった。ただの煙が口 21 20 と肺を通り抜けるだけだった。僕は一口吸っただけでそのゴロワーズを揉み消 45 2 し、ハードケースの『ゴロワーズ』も、ダークブルーの『 B I C』もそのままゴミ箱に捨ててしまった。 ゴロワーズは、僕の苦くて若い時代の匂い。 歳の時、僕は K L Mで成田からアムステルダムへ飛び、電車で数時間かけてドイツのケルンを経由し、南ドイツの黒い森のある小さな街に辿り着いた。しばらくそこで仕事をした後、 21歳の時にドイツのフライブルクからスイスのバーゼルを経て、普通列車を乗り継ぎ、初めて一人でパリ北駅 Gare du Nordに降り立った。フライブルクからバーゼル、そしてベルンまではドイツ語やスイス・ドイツ語が通じたから安心だったけれど、パリの Gare du Nordに着いた瞬間、標識も広告もすべてフランス語だった。 僕は Gare du Nordからメトロで必死に走り回り、凱旋門、シャンゼリゼ、エッフェル塔、ルーブル、オランジュリー、ポンピドゥー、ピカソ美術館……とにかく寝る時間も惜しんで昼も夜も歩 4き回り、カフェでバゲットをかじりな 70がらカフェラテで流し込んだ。日本から背負ってきた情けなさと貧しさのなか、それでも心の奥から湧き上がってくるような、得体の知れない嬉しさ。パリの美しい街並みや彫刻、絵画、芸術のすべてが体に染み込み、その喜びが涙となって止まらなかった。 歳の僕にとって、あのパリの街並み、彫刻や絵画、芸術、文化のすべては、ゴロワーズの煙草の匂いと一体となって記憶されている。あの独特な匂いは、パリの良き時代そのものの香り。それが、パリの荘厳な美しさの象徴であり、僕にとってゴロワーズという存在なのだ。いやそれは僕だけではないような気がする。 今年月、六本木の煙草屋でゴロワーズを見つけられず、月に出張で訪れたミラノでも探した。しかし、もうイタリアでも売っていないようだった。その後、コペンハーゲンやベルギーのブリュッセルでもディナーのあとに煙草屋を探したけれど見つからず、アテネ、バルセロナでも同じ結果だった。そして、最後の望みはやはり本命のパリしかない。けれど、今年はパリに行く予定がない。誰かゴロワーズのパリに行きますか? 僕は歳くらいで煙草をやめた時、心に決めたことがある。歳になったら煙草を再開しよう、と。まわりに迷惑がられながら、ソフトケースから両切りのゴロワーズを取り出して唇に咥え、 BICのライターで火をつけて、その匂いを惜しげもなく撒き散らしながら、東京ごと、パリまでひとっ飛びするのだ。そして僕はゴロワーズを片手にして天国のムッシかまやつとナポレオンとマリーアントワネットとみんなで肩を組んで凱旋門に立って高笑いするのだ。 泉屋博古館 東京 住友春翠の中国青銅器コレクションを核とした、泉ガーデンに佇む博物館 住友家旧麻布別邸跡地に建つ泉屋博古館東京(せんおくはくこかんとうきょう)は、住友邸の佇まいを残した庭園の中にあり、都心の隠れ家のような雰囲気を今に伝えています。 六本木一丁目、会社員で賑わう泉ガーデンの一画に泉 明治維新に背を向けるように洛北の清風館で茶事や能 屋博古館東京があります。京都の泉屋博古館分館とし 楽に耽り、 14年間にわたり父と清風館で暮らした幼い て計画され、 2002年にオープンしました。泉屋(せん 春翠も茶事、能楽、詠歌の相手をつとめ四書五経をは おく)とは住友家の屋号に由来しています。核となる中 じめとする漢籍や日本書紀を学び、公家の教養を身に 国古代青銅器のコレクションは、住友家 15代当主とな 着けました。一方、フランスに留学した兄・西園寺公望 る住友春翠(しゅんすい)によって築かれました。春翠 からはヨーロッパの近代思想を吸収します。父の死後、 は 1865年、京都の公家・徳大寺家に生まれ、実兄に 東京に出て学習院で学んでいた春翠に、住友家から養 は首相となる西園寺公望がいます。父・徳大寺公純は 嗣子の依頼が舞い込んだのは 1892年のことでした。 「第四章西王母と七夕」は、崑崙山に住む仙女西王母を描いた絵画や銅鏡を紹介。西王母は不死の仙薬をもつ一方、死や疫病をつかさどる恐ろしい女神でもありました。前漢末期、民間で西王母信仰が流行すると、後漢時代には神仙の姿を表した「神獣鏡」が作られます。「第五章神仙へのあこがれ、そして日本へ」では古墳時代の日本に伝わった神獣鏡を展示しています。 春翠が第 15代当主となった当時、住友家の経営は別 中国青銅器蒐集のきっかけは、関西の数寄者を代表す 子銅山によって支えられていました。春翠は経営の多角 る藤田伝三郎、村山香雪など 18人が集う「十八会」と 化を志し、 1895年の重役会議で近代銀行の設立が決 いわれています。春翠は自ら茶会の主人となる際、青銅 議され、住友銀行が誕生します。また 1919年には住 器 18点、銅鏡 13点を展示し、名だたる茶人たちを驚 友商事の前身となる大阪北港株式会社を創設するなど、 嘆させました。幼少期から父の影響で中国古典に親し 現在に続く種をまきました。住友のトップとして春翠は み、住友の本業が銅鉱業だったこと、また清朝崩壊に 内外の賓客を集めたパーティや自邸での茶会を催すこと より名品が海外へ流出したことが、青銅器蒐集を後押 で、政財界や外国人との交流を深めていったのです。 ししたと考えられています。 公益社団法人発明協会による「令和 7年度全国発明表彰式」が、7月1日、The Okura Tokyo(東京・虎ノ門)にて開催されました。大正 8年に「帝国発明表彰」として創設され、大正 14年には宮内省より恩賜金の下賜を受けたことを機に「恩賜記念賞(現在の恩賜発明賞)」が制定されました。受賞者には、豊田佐吉(自動織機)、池田菊苗(グルタミン酸)、御木本幸吉 (真珠養殖)といった、特許庁が選定する「日本の十大発明家」に名を連ねる発明家たちが含まれています。昭和 11年、高松宮宣仁親王殿下を総裁に迎え、戦時中に一時中断しましたが、昭和 24年、表彰事業を再開しました。「戦後の産業経済の復興は発明の振興にあり」という理念のもと昭和 43年には、常陸宮正仁親王殿下を総裁に奉戴します。 選考委員長 榊裕之さん。正仁親王妃華子殿下。 本年の表彰式には、正仁親王妃華子殿下がご臨席されました。式辞のなかで発明協会会長東原敏昭さんは「国際社会における持続的発展に日本が寄与するためには、イノベーションの推進に加え科学技術分野の独創的で、果敢に挑戦する人材の育成が不可欠」と述べました。選考委員長の榊裕之さんから選考経過の報告が行われたのち、恩賜発明賞「ニッケルを用いた電極長寿命化技術の発明」(発明者船川明恭さん(旭化成)、蜂谷敏徳さん(旭化成))と、未来創造発明賞「耐酸化性を向上したプリンテッドエレクトロニクス向け銅インクの発明」(発明者三成剛生さん((国研)物質・材料研究機構)、李万里さん(江南大学、元(国研 )物質・材料研究機構))へ、正仁親王妃華子殿下から賞状が授与されました。内閣総理大臣賞には「レベル4自動運転トーイングトラクタの意匠」が選ばれ、森博樹さん(豊田自動織機トヨタL &Fカンパニー製品企画部技術企画室デザインGメンバー)、藥師忠幸さん(同グループ長)へ内閣官房副長官橘慶一郎さんから賞状が授与されました。また伊藤浩一さん(豊田自動織機取締役社長)に「発明実施功績賞」が贈られました。トーイングトラクタは空港で手荷物や貨物を載せたコンテナドーリーをけん引する作業車で、同社が開発した自動運転トーイングトラクタは、空港内でのレベル4自動運転(限定された条件下で全ての運転操作を自動化したレベル)の実用化を目指しています。コラージは 2021年 4月号にて、羽田空港における自動運転トーイングトラクタの実証実験を取材しました。現在、空港では地上支援作業の人手不足が深刻で、なかでもコンテナドーリーをけん引するトーイングトラクタの運転業務は拘束時間が長く、作業者への負担も大きいのが実情です。こうした課題に対し、豊田自動織機と ANAは共同で自動運転トーイングトラクタの実証実験を重ねてきました。自動運転によって貨物搬送の効率化が進み、作業者の負担軽減や人手不足の解消に貢献できます。このような社会課題に取り組む企業姿勢も、今回の評価につながったようです。 内閣総理大臣賞を受賞した藥師忠幸さん(左)、森博樹さん(右)、「発明実施功績賞」を受賞した伊藤浩一さん(中央)。 表彰式の後には懇親会が開かれました。豊田自動織機の藥師忠幸さんは受賞について「当社は大正 15年に創業者豊田佐吉が表彰されて以来、発明表彰を何度もいただいてきましたが、内閣総理大臣賞の受賞は今回が初めてで、大変驚いています。一般にはあまり知られていない産業車両のデザインが評価されたことは、非常にうれしく思います。今後も、製品の本質的な良さや技術をデザインの力で伝えていきたい」と語りました。他の受賞関係者からも「歴史ある発明表彰を受けることで、技術者やデザイナーのモチ ベーションが高まる」といった声が多く聞かれました。 TIME & STYLE NEW PRODUCTS 2025 4月のSalone del Mobile.Milano、6月のコペンハーゲン3 Daysof Designで発表されたTIME & STYLEの新作プレゼンテーションが、東京ミッドタウン(六本木)Time & Style Midtownでひらかれました(7月10日・11日)。 今回初参加となった「3 Daysof Design」の様子も紹介。2013年に始まった同イベントは、コペンハーゲン全域で 6月18日〜20日の 3日間開催されました。若手デザイナーやクラフトマンも参加しやすい環境が整っていて、近年評価が高まっています。 会場には築城則子さんの手織り作品も展示されました。 会場には Time &Styleと協働するデザイナーが集まり、作品をプレゼンテーションしました。染織家・築城則子さんと小倉縞縞は、共同開発したTime & Styleオリジナルファブリック3種に加え、新作「SAZAREISHI さざれ石」を発表。ソファの張地として用いられました。ウールと綿の織物で 2本の糸を撚り合わせた杢糸(もくいと)を使用し、さらっとした肌触りのなかにウール特有のしっかりとした質感を感じられる、心地良い生地に仕上がっています。 DRILL DESIGN(林 裕輔さん、安西葉子さん)がデザインしたTLSB chair (Triangular Legged Scroll Back chair)(右)は、イギリス・ハイウィッカム地方で作られたスクロールバックチェアにヒントを得て、座面が小さく軽量な椅子として開発されました。背を高く後方に傾斜させることで、コンパクトでありながらゆったりした掛け心地を実現しています。大城健作さんの「Vestige」(左)は、ブナの曲げ木に籐編みをあわせたデザイン。職人による南京鉋の削り跡を残すことで、木のテクスチャーをよりはっきり感じられます。 「Structchair」は北川大輔さんのデザイン。ミッドセンチュリーモダンの時代に生まれた、クロームメタルの脚と成型合板の座という構成を再解釈し、新たな価値の創出を試みています。 Yang Hen Chenさんのサイドテーブル「Woodpecker」は、キツツキに着想を得たデザイン。歌人石川啄木は、キツツキが木を突く音に心癒されたことから、啄木という名を用いるようになったそうです。寺内ユミさんがデザインした照明「Amagumo(雨雲)」は、指物職人の技術を凝縮した杉材の木組みに美濃和紙を張った作品。見る角度によって、空に浮かぶ雲のように多様な表情を見せます。 The wooden cantilever chairは、成型合板を使ったカンチレバーチェアです。バウハウスで開発された金属パイプ製カンチレバーを成型合板に置き換えることで、より柔らかな浮遊感と肌触りの滑らかさを実現しています。 「Museum cabinet for large objects」(上)は、奥行き70cmの大型キュリオケースです。大きな陶磁器やオブジェを展示できます。「Iwa ottoman」(下)は全体を生地で包み込んだオットマンで、チェアとしても快適に使えます。 「Kouryu」は、Noma KyotoのためOEO Studioによってデザインされたチェアです。フレームにケヤキを使い、座面に京都の畳を張るなど日本の素材とデンマークの美意識を融合した作品になりました。「Yoshinotable」も OEO Studioによるもので、樹齢 150年以上の吉野スギを釘を使わない宮大工の仕口で組み立てています。 カーブを描くビルのフォルムは、韓国の伝統舞踊「僧舞」(スンム)をモチーフにしています。 新宿区四谷、新宿御苑に近い駐日韓国文化院は、韓国文化の発信拠点として1979年に発足。池袋のサンシャインシティ60から麻布十番韓国中央会館別館に移転し、2009年、単独庁舎となる KOREA CENTERが四谷 4丁目新宿通り沿いに建ちました。展覧会のほか語学・音楽講座、映画上映、講演会、図書映像資料の提供など様々な活動を行っています。 柳宗悦たちが買い求めた紙箱、扇、花筵、燭台、櫛箱、刺繍枕、香炉、砧棒などの展示。柳たちが調査した後、後継者の絶えた工芸もありますが、現在は工芸の復興が進んでいます。 2025年 8月2日まで、1階のギャラリーM1にて、「韓日国交正常化60周年記念展示会 今に続く柳宗悦の心と眼 .1937年の全羅紀行をめぐって」が開催されています。1937年、柳宗悦は河井寛次郎や濱田庄司と共に朝鮮半島へわたり、全羅道や慶尚道の工芸家を訪ね、漆芸や陶芸、織物、家具、竹工、紙、ホウキなど様々な工芸品を記録し、サンプルを購入して日本へ持ち帰りました。それらは河井寛次郎や濱田庄司の創作に影響をあたえ、柳宗悦は旅の記録を1冊の本『今も続く朝鮮の工藝』にまとめ出版します。4階の「サランバン」には、王宮のひとつ昌徳宮(チャントックン)にある演慶堂(ヨンギョンダン)をモチーフにした伝統建築と暮らしの空間が再現されています。サランバン(舍廊房)は男性の書斎や応接間として使われ、仲間たちが集まって学問について語り合ったり、楽器演奏を楽しんだり、武芸で身体を鍛えたりしました。ホテルオークラの隣、江戸見坂の上にある「菊池寛実記念 智美術館」は、日本三大億万長者のひとりといわれた実業家菊池寛実の屋敷跡に建てられました。建物の設計は坂倉建築研究所です。石橋湛山や三木武夫など政治家の支援者として知られた菊池寛実の屋敷には、歴代首相が足繁く出入りしていたそうです。 2025年 6月 7日〜 9月 28日まで、「鳥々藤本能道の色絵磁器」展が開催されています。 色絵美男桂尉鶲図四角筥 1983 菊池寛実記念智美術館の創設者 菊池智(とも)は、1923年菊池寛実の三女として生まれました。第二次世界大戦中、寛実は高萩炭鉱で働く陶工のため登り窯をつくりました。東京から疎開してきた智は、作陶の現場に触れると陶芸との宿命的な出会いを感じます。戦後、古陶磁を中心としてコレクションをはじめると、同世代の作家による現代陶芸へと興味を広げ、1974年、日本の陶芸を世界に紹介するためホテルニューオータニのロビーに「現代陶芸 寛土里(かんどり)」を開店。そのオープニングを飾ったのが、当時東京藝術大学教授だった藤本能道の個展でした。「現代陶芸寛土里」は評判を呼び、現代陶芸を目当てに海外のファンが訪れるようになると、マダム智は若手作家の紹介者として知られるようになりました。1979年、ニューヨークブルーミング・デールズに寛土里が出店したのをきっかけに、ワシントンのスミソニアン自然史博物館から展覧会の誘いが訪れます。智は展覧会の開催に情熱を注ぎ、1983年の現代日本陶芸展には、30〜 40代を中心とした作家約 100名 300点以上の作品が並び、オン・タイムの現代陶芸が初めて世界に紹介されました。この展覧会はロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート美術館に巡回します。 雪白釉釉描色絵金銀彩翡翠図扁壺 1989 2003年に開館した美術館の展示空間は、スミソニアンの会場を担当したリチャード・モリナロリ氏によるデザインです。▲ 加藤土師萌(はじめ)色絵牡丹文飾壺 1965 富本憲吉 色繪菓子皿 1941 ▲ 西部劇には必ず登場する「定番」がある。街の外なら牧場、インディアン居留地、そして騎兵隊の砦。街に入れば、保安官事務所、銀行、教会、医者、床屋、棺桶屋、雑貨&食料品店、そして真打ちたる「酒場」(サルーン)。さすらいのガンマン (勇者 )が主役である場合、馬に乗ってゆっくりと街に入ってくるシーンが欠かせない。さきに挙げた様々な建物の前を通り過ぎ、やがて主役が最初に馬を止めて降りる場所。それは酒場(サルーン)と相場が決まっている。スィングドアを押し開いて中に入る。中の男たちは誰一人にこりともせず、冷たい視線で彼をにらみつける。これにひるまず流れ者は長いカウンターに向かう。床の真鍮製のバーに足を掛けながらバーテンに声を掛ける。ここで出されるのが、小さなショットグラス。バーテンはグラスにウィスキーを注ぐ。主役はコインをカウンターに置く。店の奥のテーブル席では、いかにもワルそうな面構えの男たちがポーカーをやりながら、主役の一挙手一投足をうかがっている。ここから話がどう展開するか、それは千差万別。いずれにしても、西部劇はサルーン抜きには語れない。 では「サルーン」(酒場)とは、 実際にはどのような場所(飲食店) だったのか。かつて、オクラホ マ・テキサス・コロラド・ニュー メキシコ一帯を車で巡ったことが ある。都合三カ月少々の間、あの 一帯で過ごしたことで、ワイルド・ ウェストの歴史に興味を抱くよう になった。それまで「西部の荒野 には、カウボーイとインディアン くらいで、歴史と言えるものなど 無いだろう」と思っていた。だが、 一歩足を踏み入れてみれば、それが如何に馬鹿げた偏見であった かを思い知らされることになった。ワイルド・ウェストは歴史の 宝庫だ。その歴史地図のど真ん中に位置するもの、それが「酒場」(サルーン)だ。西部劇に登場するサルーンという場所から何が 見えてくるのか、少しお話してみたい。 まずはその名称。開拓時代のアメリカ中西部から西では酒場を「サルーン」(Saloon)と呼んだ。サルーンには長いバー・カウン ターが必ず備えられていて、これを「バー」と呼ぶことはあった。 だが、店自体を「バー」とは呼ばない。西部劇に登場する酒場は あくまでも「サルーン」なのだ。その語源は、意外なことに、フランス語のサロン( Salon)。貴族や上層市民の邸宅の大きな客間を指す言葉で、貴婦人が主導したフランス・サロン文化は、その空間から生まれた。サロンとサ 30 ルーン、集まる人間は天と地ほど違うのに、語源はひとつだ。1750年頃、現在の合衆国の半分近い領域はフランス領だった。その名残かもしれない。 サルーンの出だしは? これは地域の特性(客層)と年代によって大きく異なる。例えば、荒くれワイルド・ウェスト色が最も濃いカリフォルニアのゴールドラッシュ時代( 18 4 8〜 18kg5 5頃)。砂金が出て突如として人が集まり始めたサクラメント(サンフランシスコの北東約 14 0キロ)では、あっという間に最初のサルーンが出現した。大きなテントを張り、ロープで場所を区切り、そこで酒が売られたというから凄い。働く男たちが一瞬の心の癒しを求めて集まる場。これがサルーンの原型だ。砂金探しの男たちは、きつい一日の労働で手に入れたばかりの、大切な砂金の粒で酒代を支払った。山奥の渓流沿いで砂金を探す毎日。男ばかりでささくれだった心を癒やしてくれるものは、酒と博打(ばくち)くらいしかなかった。では、こうした男たちは、どこからやってきたのか。驚くなかれ、全米はおろか、欧州や南米さらには香港・広東やフィリピンからまでも、ゴールド熱に浮かされた男たちは過酷な船旅の末にサンフランシスコ港に続々と上陸した。 その熱狂の凄まじさを語る話はいろいろある。たとえばサンフランシスコの港に世界中から男たちを運んできた遠洋航海船。これが次々と打ち捨てられて数百隻の廃船が海岸沿いに列を為す状況が生まれた。なぜそのようなことになったのか。遠洋航海船の船員もまたゴールドラッシュ熱に取り憑かれてしまい、船を捨ててサクラメントに行ってしまう例が続出したからだ。当初千人ほどしか人がいなかったサクラメントは、わずか数年で掘っ立て小屋が密集する人口万近い「都市」になった。テントのサルーンは瞬く間に立派な建物になり、その主人が亡くなった時、手元には5近い砂金の粒(現在価値で約8千万円)が残されていたという。ゴールドラッシュで砂金掘りの男たちの大半は無一文になった。だが、その生活に必要なモノとサービスを提供した商人たちは大いに金を貯めることが出来た。丈夫なジーンズのリーバイス、サンフランシスコから川を遡ってサクラメントへと人々を運んだ川船会社、そして、サルーンを経営する親父たちの儲けも半端なものではなかった。サクラメントに限らず、アメリカの中西部開拓時代サルーンは「荒々しい飲食の場」からスタートし、いつしか、それなしでは地域が成り立たない「必要不可欠な存在」へと変容していく。 その意味で当時のサルーンは、意外にもパリのカフェに似た存在だった。カフェは「単なる飲食の場」ではなく、今も地域にとって「必要不可欠な存在」であ 10 る場合が多い。地域の情報センターであり、様々な会合が開かれる場であり、カ 20 フェの親父やマダムはいろいろな機会にお客と心を通わせる中で、いつしか地域の顔役となっている場合が珍しくなかった。こうした点は当時のサルーンもまったく同じだ。ところが西部劇映画でのサルーンは、町の遊び人、郊外の牧場から飲みに来る荒くれカウボーイたち、さらには流れ者のイカサマ賭博師のような連中の溜まり場みたいに描かれている場合が多い。まさにワルの溜まり場だ。確かに、開拓初期のワイルド・ウェスト的な町のサルーンはそういう雰囲気が濃かったかもしれない。だが、サクラメントでさえ、あっという間にワイルド(無法地帯)色は薄まって、全ては資本と法律の秩序の中に組み込まれていく。中西部農村地帯の交通の要衝や農産物取引の中心となる町のサルーンでは当初から、町のまっとうな男たちが、金持ちや貧乏人の区別なく、また時に農家の男たちも、日常的に気軽に立ち寄る店だった。そのうえ開拓時代の中西部の大半の町では、サルーンが町でただ一軒の外食の店だった。だから、酒だけではなく料理も大切な売り物だった。西部劇映画では、こうした「当たり前のサルーンの日常」が登場することは、めったにない。だから勘違いしてしまうのだ。大半のサルーンは決して「ワルの溜まり場で、酔った勢いでの撃ち合いが日常」なんて場ではなかったのだ。 その何よりの証拠が、サルーンで提供された飲み物と食べ物のメニューだ。これはまず、その町の主要な移民集団の故郷がどこか、また店の親父の出身地がどこかといった要素で決まってくる。アイルランド系移民が多い町ならば、サルーンの酒はまず間違いなくウィスキー。ショットグラスで〜杯くらいは当たり前に飲まれていたというから驚く。一方、ドイツ系移民が多い地域では、当然ビール中心で、料理はソーセージにジャガイモ料理が出された上、店の裏にはビア・ガーデンが併設される場合も珍しくなかった。他方、フランス色とカリブ的クレオールさらには黒人たちの食文化が混合するニューオリンズでは、ラム酒に独特の洗練された味覚の料理が出されている。 とここまでくれば、なぜ、西部劇でこうした「当たり前のサルーンの日常」が描かれないのか、わかる。映画のガンマンはいつだって、カウンターの前に立って、ウィスキーを飲む。つまみさえ口にしない。テーブル席に座るのはポーカー賭博の時だけだ。当然その食事のシーンというのは極めて限られる。たとえば、次のような場面を想像して頂きたい。さすらいのガンマンが町でいい女に出会って身を固め、ふたり揃ってドイツ系サルーンへ。ビアガーデンでビール片手のガンマンが、にこやかにソーセージにジャガイモ料理を新婚の妻とぱくつく。これは、あり得ない。もはやそれは『ガンマンの墓場』というほかないだろう。というわけで次回は、ガンマン亡き後の「西部劇には出てこない」サルーンのおいしい料理についてお話しよう。 東京都庭園美術館白金台の自然教育園に隣接する旧朝香宮邸は、1933年(昭和8年)に竣工しました。アール・デコ様式を色濃く残す貴重な建築で、完成から約50年後の1983年に東京都庭園美術朝香宮邸 アール・デコ建築に凝縮された館として一般公開されています。鉄筋コンクリート造の外壁はリシン掻き落とし仕上げで、縦フランスのエスプリと妃殿下の思い長の連続窓とフラットルーフが特徴的な、シンプルでモダンな外観を持っています。 朝香宮邸の建主である、朝香宮鳩彦王(あさかのみややすひこおう)は伊勢神宮の祭主であり、皇學館大学の創始者久邇宮朝彦親王の第 8王子として生まれ、明治 40年、明治天皇の第 8皇女である富美宮(允子内親王)と婚姻されました。朝香宮邸を生んだ出来事といえるのが、鳩彦王のフランス サン・シール陸軍士官学校への留学です。大正 11年、フランスへ渡った殿下は、同じ士官学校に通う義兄の北白川宮成久王に誘われ、自動車でノルマンディーへの長距離ドライブに出かけます。大正 12年 4月、ドライブで悲劇が起こりました。北白川宮成久王の運転する車は避暑地ドーヴィルへ向かう途中でアカシアの大木に衝突。北白川宮成久王は亡くなり、後部座席の朝香宮殿下は顎や大腿骨を骨折する重症を負いました。妃殿下は急遽パリに向かい殿下の療養のため 3年近くパリに滞在し、トゥールダルジャンでの食事、エルメスや百貨店での買い物、オペラ鑑賞、南仏・イタリア・スペイン・ドイツ・ベルギー・中欧へのグランドツアー、ダンスや仏語、水彩画のレッスンなど、日本では出来ないパリでの暮らしを満喫することになります。なかでもアール・デコ博覧会が殿下夫妻の心をとらえました。何度も会場を訪ね、フランス大使館など主要パビリオンを設計したアンリ・ラパンの空間に強くひかれます。パリ滞在中に起きた関東大震災で高輪の御用邸が大きな被害を受けたこともあり、白金台にアール・デコの邸宅を建てることが殿下夫妻の夢となりました。 妃殿下の描いた花の水彩画が展示されていました。妃殿下はパリで彫刻家イヴァン=レオン=アレクサンドル・ブランショから絵のレッスンを受けました。その縁でブランショは、大広間の大理石レリーフ「戯れる子供たち」や大食堂壁面のレリーフを手掛けることになります。妃殿下も自ら室内装飾のデッサンを描き、ラジエーターカバーなどをデザインしています。 朝香宮東京都庭園美術館では、6月 7日〜 8月 24日まで「建物公開 2025時を紡ぐ館」を開催中です。朝香宮邸のインテリアをじっくりと見られるほか、企画展もひらかれています。フランスから帰国した殿下夫妻は、アンリ・ラパンに建築デザインを依頼します。ラパンはそれに応え、大広間、次間、小客室、大客室、大食堂、殿下居間、書斎の計 7室を手掛けました。ラパン自身は一度も来日せずに、手紙やパース、模型のやり取りで設計が進められました。フランス語の翻訳は妃殿下が手掛け、設計を担当した宮内省内匠寮に伝えました。基本設計を担った宮内省内匠寮工務部の権藤要吉は、殿下夫妻と同時期に宮殿や貴族の邸宅を学ぶためヨーロッパに派遣され、アール・デコ博覧会を見学し殿下夫妻とも会っていました。帰国後は東伏見宮邸を担当し、東側に車寄せと事務所、南に客間や家族の部屋、北側に厨房などを配した東伏見宮邸と同様の口の字型プランを朝香宮邸にも採用します。設計については殿下夫妻と、夜遅くまで話し合っていました。企画展で展示された名建築の絵葉書は、ヨーロッパで権藤要吉が集めたもの。約 1年でロンドン キューガーデン、パリ ノートルダム寺院、フィレンツェ ウフィツィ美術館など160施設をまわりました。 ▼ サルプラ社の壁紙。殿下夫妻が壁紙やカーテンを選びました。 喫煙室に置かれた家具は、宮内省内匠寮工務課水谷正雄によるデザインで、芝の洋家具店寺尾.商店が製作しました。水谷は家具を 50点以上デザインし、各部屋ですべて異なる照明器具の設計、選定も行っています。家具を製作した寺尾.商店と小沢慎太郎商店は、芝でも特に上質な家具店として知られ宮内省関係の家具を独占していました。このほか、ラパンは100点以上の家具をデザインしています。 正面玄関 女神の絹のような光沢感はサチネと呼ばれ、他者が真似のできない技法でした。 正面玄関で来賓を出迎えるのが、ルネ・ラリックによる 4人の女神像です。ラリックはパリのアール・デコ博覧会で自社のパビリオンや硝子の噴水を出品し、ガラス工芸家としての人気を不動のものとしていました。ラリックは玄関扉全体のデザイン画 円形のイスラム風モザイクタイルは宮内省内匠寮大賀隆のデザイン。 を 4案起こしています。デザイン画では女神は裸身でしたが「人物は薄衣で覆うこと」とラリックのメモが残っています。 正面玄関を入って最初に通される大広間は、ウォールナット材を壁面に用いた重厚な空間です。天井の照明は格子におさめられ、正面の鏡がその光を反射して視覚効果を演出しています。1階の大広間や大食堂は、来賓を迎えるときにだけ使用されました。来賓のなかで多かったのは、東久邇宮稔彦王をはじめ、竹田宮、北白川宮、秩父宮、高松宮、三笠宮など、高輪の御用邸に暮らした親族や親しい宮家の方々です。そのほか海外の賓客や殿下の部下にあたる軍人が招かれ、晩餐の後、大広間に音楽を流しダンスを楽しむこともありました。 大広間から見た玄関扉。扉をはじめ、柱や壁面など内装材の多くはフランスで製作され船で日本へ運ばれました。日本の職人の手で丁寧に調整され組み込まれています。シャンデリアはルネ・ラリ大広間ックの「ブカレスト」です。 大客間はアンリ・ラパンが最も力を入れた空間です。印象的なガラスの扉はマックス・アングランのデザイン。花を描いたエッチングガラスを組み合わせています。扉上部の半円形のタンバンは、レイモン・シェブの作品です。戦後、朝香宮邸は吉田茂の外相・首相公邸として使われました。その結果 GHQによる接収を免れたともいわれます。1950年には堤康次郎に買い取られ、迎賓館赤坂離宮が開館する1974年まで国賓をもてなす「白金迎賓館」として利 用されました。各国の国王、首相、大統領がこの大客間でくつろぎ、華やかな宴がひらかれます。 大食堂 アール状の窓が華やかな大食堂は、ブランショによる銀色のレリーフ(石膏製)が壁面を覆っています。ドーム状の天井は日本の左官によって、伝統的な土佐漆喰で塗られています。 大食堂のマントルピースには、アンリ・ラパンによって神殿を思わせる赤いパーゴラが描かれています。石材にはイタリア産のジャッロ・ディ・シエナが用いられ、柱などにも同じ石が使われました。マントルピースの中には電気暖房機が設置され、加えてスチームを用いたセントラルヒーティングも備えられています。魚介類をモチーフにした立体的なラジエーターカバーは、電気鋳造(電鋳)によって製作されました。第二次世界大戦中は重油の使用が制限されたため、電気暖房だけでは寒さをしのげなかったようです。 朝香宮邸の1階は迎賓施設や事務室に用いられ、家族の生活空間は 2階に集約されました。1階で唯一プライベートに使われたのが小食堂です。軍人でもあった朝香宮殿下は時間に厳しく、正午のサイレンとともに昼食を始めたといわれます。食事中の会話はフランス語で、子どもたちや侍女にとって緊張のひとときでした。朝はパンと果物、昼と夜は洋食・和食を交互にとったようです。天井には杉の柾板が使われ、床の間も設けられるなど、朝香宮邸としては珍しく和の要素が取り入れられています。 次間に立つ噴水塔はアンリ・ラパンがデザインし、国立セーブル製陶所で製作されました。光が透ける半透明磁器を使い、上部の渦巻きは照明になっていて隙間から水が滴り落ちる仕組になっています。呂色黒漆の柱にはコンクリートに直接漆を塗るコンクリート素地塗漆法が使われました。金沢の漆職人遊部重二が、関東大震災以降に増えたコンクリートに合わせ開発した特許工法です。朱色の壁面はフランス製の人造石で、プラチナ箔を散りばめています。ジャポニスムを思わせる幻想的な空間です。 エネルギー溢れる8月! 2025年 8月は「8」のエネルギーが流れます。「8」は生命力を表す、パワーを象徴するような数字。今年の8月は酷暑に輪をかけて、世の中全体のエネルギーが力強く、暑い熱い1ヶ月となりそうです。 「8」が放つエネルギーはとても強く大きく、ビジネスや権力、お金などに関わりがあります。世界全体としても個人レベルでも、これまで積み上げてきた事の現実化や、目標を達成すること、とにかくやり切る!!など、モーレツに膨大なエネルギーが注がれ、実現していくタイミングになります。 経済面においては、現実的な交渉力が高まる時ですから、気後れせず果敢に取り組みましょう。そして、”責任 ”を表す数字でもある「8」。自分の役割や、家族や社会との関わりに誠実に向き合う必要性が生じるかもしれません。そんな時、”8的 ”な行動は、「逃げずに向き合い、取り組む」です。 また、今年に入って始めたことの成果が実る時期です。特に何もない、途中で挫折した、という方は、8月1日からリセットし、8月末をひとつの目標(達成)としてやってみるのもおすすめです。 世の中全体がパワフルに動き、自分の周囲も熱気が溢れるかもしれません。渦中にいると無我夢中にもなりますが、頑張りや焦燥感で倒れるまで走るようなことのないよう、くれぐれも”燃え尽き注意 ”です。実現に向けて走り切れるのは健康な心身があってこそ。エネルギー充電は大事な仕事!どうぞお忘れずに。 自身の体調管理を怠らず、暑さに負けず、良い生活リズムを意識して、気持ちよく8月を駆け抜けましょう。 「怒り」のエネルギーを適切につかうには 8月のエネルギーである「8」は、ビジネス全般に関わる一方で、個人的要素、生身の人間にとっての要素でいえば「怒り」のエネルギーとなる。 私自身、幼稚園の頃から怒りの感情が大きく、実感したのは小学生になってから。その様子は傍から見れば我がままとしか映っていなかったと思うけれど、私の中では怒る正当な理由があり、ただ、それをうまく言語化できなかったから、ただの暴れん坊だったと思う。時々自分で自分のパワーに驚くくらい。何やら腹の底からマグマのように湧き出てくる熱いものがあり、じわじわと喉元へあがってくる感じ。しかもその様子をもう一人の自分が斜め上から見ている感覚もあって、今でもリアルにその瞬間を覚えている。制御不能寸前の強烈なエネルギーは自分を傷つけかねなかったとも思うが、子どもながらに少し先の瞬間を想像していて、一瞬一呼吸をおいて、おかしなことはしなかった。その時は、子どもの自分が大人みたいだなと思いながら、早く大人になりたいと強く思っていたことをよく覚えている。 大学生になるまで、本当に家族に多大な迷惑をかけてしまった。外でおかしなことをしない分、家の中では本当によく暴れていたから。今、人生折り返しのあたりまで近づいてきても思い出せる様々な出来事があり、たまに家族が集まるとそれらの昔話と今を比べて、人間って …… という話題になり話は尽きない。 社会に出て、多くの人が困惑し、やがて正常運転できずにフェイドアウトしていく過程において、人が発する「怒り」のエネルギーが要因となっていることは大きい。”パワハラ ”や “マウンティング ”という言葉が常用語と化してきたけれど、あれも歪んだ怒りのエネルギーの成れの果てだ。本来は他人に向けず自分で消化するべき感情を処理できないままに、さらに正当化し相手に向けて発散してしまう。 第 2階段 大広間から2階にあがる第1階段には3種類の大理石を使われました。階段ステップはビアンコ・カラーラ、腰板にはスタラティーテ、手すりにはポルトロが使われ、リズミカルなデザインがアール・デコの特徴をよく表しています。第 1階段は家族や来賓用で、侍女たちは第 2 階段を使いました。第 1階段を上がった 2階広間には自動演奏ピアノや電気式蓄音機が置かれ、家族の憩いの場でした。壁面に塗られた米国製塗料「ラフコート」は、刷毛やコテを使って左官材のような表情をだすことが出来ます。北の間との間仕切りガラス窓には、幾何学的なデザインの枠の中に、模様の異なる型板ガラスをはめています。暑い夏、家族がよく過ごしたのが 2階広間に隣接する「北の間(北側ベランダ)です。床は泰山製陶所製の布目タイル貼りで、腰壁にはスクラッチタイルを貼り、カウンターに蛇紋岩を使うなど涼しさを演出した半屋外空間になっています。フルハイトの窓や天窓から柔らかな陽光がさしこみ、柱は浮造り仕上げです。 朝香宮邸には 3カ所の浴室があります。第1浴室(左)は殿下と妃殿下の寝室の間に配置され、壁には淡い緑色のフランス産大理石ヴェール・デ・ストゥールが貼られ、床はモザイクタイルです。殿下の寝室と妃殿下の寝室は浴室を挟んで行き来できます。 殿下・妃殿下の寝室前には、南面したプライベートなベランダ 妃殿下居間 があり、床には国産大理石が市松模様に敷かれています。 明るい日差しの入る妃殿下の居間には、アール・デコへの思いが込められました。ヴォールト天井に 5つのボール状の照明を吊り、庭を望む南側の窓には大食堂の屋根部分にあたるバルコニーが設けられます。朝香宮邸での生活が始まって数カ月後、妃殿下は体調を崩し腎臓炎によって42歳の若さで亡くなりました。生前に昭和天皇・香淳皇后のお見舞いをうけ、親しい皇族に見守られながら邸内で静かに息をひきとります。朝香宮邸は妃殿下の偉大なる遺品ともいえる作品となったのです。 ウィンターガーデンは屋上階に設けられ、ガラス窓に囲まれた温室です。花台や水道、スチーム暖房のラジエーターが備えられ、冬でも温かな環境を整えています。市街模様の床は人造大理石製で、マルセル・ブロイヤーのパイプ椅子は上野松坂屋で1932年にひらかれた「新興独逸建築工芸展覧会」を殿下が見学された際に購入したといわれています。完成した朝香宮邸には夫妻と2人の若宮(孚彦王、正彦王)、1人の姫宮(湛子女王)の 5人が暮らしました。妃殿下が亡くなった後、2人の若宮も軍務に就き、殿下と湛子女王 2人の暮らしが始まります。やがて湛子女王は徳川義親の次男・大給義龍と婚姻。戦後、皇籍を離脱した朝香宮殿下は熱海の別荘に移り住み、野菜を育てたりゴルフを楽しみながら 93歳の生涯を生きました。 「ゴルフの殿下」とも称された朝香宮は、東京ゴルフ倶楽部の名誉総裁も務めました。同倶楽部が埼玉県膝折村に移転する際、「膝折」の地名がふさわしくないという意見を受け、朝香宮にちなんで「朝霞」と改名されました。敷地の北側には、附属屋と呼ばれる使用人の詰め所や倉庫、車庫などが残されています。高い煙突は、厨房やセントラルヒーティング設備、ゴミの焼却などに使われていたようです。 朝香宮邸の茶室「光華」は武者小路千家の茶人 中川砂村 (是足庵)により設計され、大阪の数寄屋建築の名手である平田雅哉の施工により昭和11年に上棟しました。「光華」という名は朝香宮殿下による命名といわれています。茶席は小間・広間・立礼席の 3室からなり、屋根は本体が桟瓦葺き、庇は木のこけら葺きの上に銅板をかぶせて保護した手の込んだ作りです。広間は天井が高く窓の大きな明るい茶席となっています。庭は池泉回遊式で池は今よりも大きく、子どもたちが水泳を楽しんだといわれます。特徴的な立礼席には点前用のテーブルや椅子が残されています。昭和初期の立礼席は珍しく、事故によって畳座が難しかった朝香宮殿下や海外の来賓に配慮したと考えられます。 33回目のインテリア ライフスタイルInterior Lifestyle Tokyo(6月18日〜20日)は、東京ビッグサイト西展示棟大規模改修工事のため東展示棟 4・5ホールで開催されました。恒例のアトリウム展示にかわり集いの場となる「GATHE:RING」や「LifestyleMaker」といった新しい試みに注目が集まりました。国内外から 483社が出展し、3日間の来場者は約15200人でした。次回は2026年6月10日〜12日、会場は東京ビッグサイト 西展示棟に戻ります。特別展示「建築家の家具展」は、国内外の建築家の家具約 30点を展示。ノーマン・フォスター、ザハ・ハディド、隈研吾、ピーター・ズントーなどの椅子が並びました。赤沼百生さん(DE-SIGN)のAGUMU Chair(右下)は足を組んで座れる椅子です。 毎年恒例のセミナー「LIFESTYLE SALON」(上)の他に、新しい試みとして「GATHE:RING」で出展メーカーなどが情報発信する「Chill Talk」(下)がひらかれました。カゴ編みで知られるラトビアの展示。ピヌム・パサウレ工房の方がカゴ編みを実演中。VAIDAVACERAMICS社の陶器は、湿原でとれる赤土の粘土を原料にしています。新しい特別展示「インクルーシブデザインプロダクト」(左)は、高齢者、障害者などと共に開発された誰にでも役立つ製品を展示。片手でつけられるアクセサリーや衣服、会話を翻訳して字幕で表示するディスプレイなどが注目されました。下はイタリアstilfibra社の食品残渣を利用した Ecological Chair。シェルのパーツにコーヒー、ワインの搾りかす、ミスカント、カモミールが使われています。佐賀の建築家 三原宏樹さんは、組立式の紙製茶室「紙日庵」(しじつあん)を出展。わずか 20分ほどで 2畳の本格的な茶室が組み立てられます。「待庵」や「今日庵」「不審庵」といった歴史的な茶室の精神を受け継ぎながら、マンションの一室にも手軽に設置可能。抹茶ブームに沸く海外の人にも茶室を知ってほしいと三原さんはいいます。 パソコンでデザインできる手軽な掛軸は、KAKEJIKUYAの提案(上)。山中漆器の我戸幹男商店は、マットな黒漆で仕上げたモダンなデザインの茶箱を出品(下)。 國學院大學は明治15年設立の「皇典講究所」を母体とした大学で、国の成り立ちを考える「国学」を探求してきました。考古学についても、古い器物をとおして日本人固有の精神を明らかにすることを目的としています。約1万6千年前、日本列島に土器が誕生し、新石器時代にあたる縄文時代を迎えます。世界的に新石器時代には農耕や牧畜が始まりますが、日本列島ではシカ・イノシシ・ウサギなどの狩猟やサケ・マス・アサリ・ハマグリなどの漁労、クリ・クルミ・山菜の採取によって大半の食料を得る状態が1万5千年以上続きました。自然の恵みに依存する生活が神に対する感謝や怖れを醸成し、日本独特の宗教観を育んだと考えられます。 ▲ ▲ 縄文草創期の土器には編カゴを模したと思われる縄文が見られます。縄文初期の土器は、紐作り技法で作られた深鉢が多く出土します。 神道が体系化される以前、日本列島の人々は様々な形で神への祈りを表現してきました。大胆に装飾された火焔土器にも煮炊きで焦げた跡が見られることから、日常の調理に使われたと思われます。古代は日々の生活そのものが、祈りの行為につながっていたのです。 「縄文」の名の由来となった縄文様は、螺旋状に巻いた縄や木の棒に縄を巻いた道具を、成形した土器に押しつけたり、転がすことで付けられました。草創期の縄文土器には編カゴや樹皮カゴを模したものが見られることから、使い慣れたカゴの雰囲気を土器に写し取ろうとしたのかもしれません。 ▼長野県の片山遺跡では、古墳から胴体に顔を描いた珍しい土器が出土しました。高杯や壺と共に祭事に使われたと思われます。 古墳に副葬された埴輪には人物や動物、家などをかたどったものがありますが、初期の埴輪には筒形や壺形が多く見られます。これらは被葬者に食事を捧げるための器と考えられています。『古事記』にはイザナギ命が亡き妻イザナミ命を追って黄泉の国へ赴く場面があり「黄泉の国の食物を口にした(=黄泉戸喫)ために、もう帰ることはできない」と語られます。死者の国のものを食べることで死者の仲間になるという考え方は、ギリシャ神話をはじめ各地の神話に共通して見られます。古代においては神は、山や巨石、太陽の光、雨や風、地震、噴火といった自然現象に宿る存在とされ、現在のイメージとは異なるものだったと考えられています。 奈良県三輪山「山ノ神遺跡」の模型。免田式土器は、弥生時代後期の土器で、熊本県の免田地方を中心に出土します。 弥生時代になると「神道」の原型が形成されて、大和王権へとつながっていきます。鏡や剣、勾玉が首長の象徴として作られ、神道と王権の成立が車の両輪のように進んでいきました。奈良県三輪山山麓に点在する山ノ神遺跡では、大きな石の下から様々な祭事遺物が出土しています。その多くは臼、杵、匙、高坏など調理に関するものが多く、神々にご馳走を捧げることが重視されていました。三輪山は今も禁足地とされ、三輪神社は三輪山を御神体として崇めています。こうした自然崇拝から宗教施設が成立していく流れは、東アジア各国で共通点が多く、近年はグローバルな視野をもった研究が進められています。 檜原神社は三輪山を御神体とする神社で、社殿はなく独特の三ツ鳥居に向かって三輪山を拝みます。 関東の梅雨明け直後、日本の未来を占う参院選の結果も明暗明らかとなりました。そして明日は海の日。いよいよ待ちに待った夏休み. 様々な縛りから心をほどき思いきり愉しみたいものですね〜しんどい暑さや物価高騰、住環境への問題がこれでもかーこれでもかーと追い打ちをかける如く続き過ぎましたから…… 保守大国と言われ久しかった県などが次々に敗れたり、あまり聞いたことのない真新しい政党が急な勢力を見せつけるなど、こんなに急速に時代が変容していたとはつゆ知らず。人々の気持ちの揺れ動きが票数にしっかり現れていると感じましたが、日本の舵取りを任せられる若きリーダーをこそ育てるべきではなかったか? とベテラン政治家と言われる方々へ今一度申し上げたく思う次第です。 それはどんな世界にも言えることでありましょう。「何々ファースト」ばかりを唱え、いい政府になるとでも思っているんでしょうか。互いを想い合い、助け合う精神を持たなければ人間は生きて行けないのに。 その 63 青山かすみ 【 Webマガジン コラージは、オフィシャルサポーターの提供でお届けしています 】