文士と同じ時を感じて
下田の奥座敷 蓮台寺温泉
【 かつては炭坑の町としても栄えた蓮台寺温泉。昭和8年創業の蓮台寺荘では、伊豆の職人達の技を楽しめます。ここは山本周五郎ゆかりの宿としても知られています 】
【 9つある湯のなかでも特に人気の「寝湯」。山本周五郎もお銚子を脇に置き、長風呂を楽しみました。今も著名な作家が、寝湯の空くのをじっと待っていることもあるそうです 】
【 山本周五郎がよく泊まった「萩の間」。階段を上がると2つだけ部屋があるという変わったつくりで、1室を作家が、もう1室を編集者達が使ったようです 】
人間が一つの仕事にうちこみ、そのために生涯を燃焼しつくす姿。私はそれを書きたかった。(中略)
人間の一生というものは、脇から見ると平板で徒労の積み重ねのようにみえるが、内部をつぶさにさぐると、それぞれがみな、身も心もすりへらすようなおもいで自分とたたかい世間とたたかっているのである。その業績によって高い世評を得る者もいるし、名も知られずに消えてゆく者もある。しかし大切なことは、その人間がしんじつ自分の一生を生きぬいたかどうか、という点にかかっているのだ。
山本周五郎「作品の跡を訪ねて-虚空遍歴」1963年
昭和23年(1948)、横浜・本牧「間門園」を生涯の仕事場とした山本周五郎。「竹柏記」という作品を執筆中に、ふと仕事の行き詰まりを感じ蓮台寺を訪れたのは、昭和26年(1951)48歳のときでした。前後数年の間に「柳橋物語」、「むかしも今も」、「雨あがる」、「正雪記」、「栄華物語」、そして「樅ノ木は残った」といった代表作を執筆しています。
【 「何事も変わらないのが蓮台寺の魅力」と女将の嶋津さん。「山本周五郎記念室」では、周五郎の作品やDVDを、ゆったりとした空間で楽しめます 】
【 山本周五郎の過ごした2階の部屋からは、蓮の花で彩られた池や竹林が眺められます。その奧には深い緑に彩られた南伊豆の山々が並んでいます 】
【 「蓮台寺 湯の華小路」を散策します。117段の石段を登ったさきに、安産の神として信仰されてきた「天馬駒神社」の小さな祠が、椎の巨木に守られるように鎮座しています】
ろくさま下水の設備もなく、汚物の溢れている都市。川は悪臭を放つままに任せ堀は片っ端から埋め、丘を削り、木という木は伐り倒し、狭いでこぼこ道に大型バスやトラックが暴走し犇き、空地にはむやみ無計画にアパートを建て並べ、公明選挙といわれるのに何十億とかの金が撒きちらされるという、-よそう、私は本当はそんなことに怒りは感じてはいない、日本人とは昔からこういう民族だったのだ。軍事に関してはべつだったが、その他すべてが常に殆ど無計画であり、そのときばったりで、木を伐り、山を崩し、堀を埋め、土地を荒廃させながら今日までやって来たのである。
山本周五郎「青べか物語」1960年
長いあいだ、安産の願いを受け止めてきた祠とご神体の烏帽子岩。
湯の華小路のあちこちには天然温泉をかけ流した贅沢な泉があり、共同浴場も点在し、吉田松陰がつかったといわれる湯もあります。
路を散策するうち、ふと山本周五郎の一節を思い出しました。
現代人は江戸人にくらべ変化したのか、なにか進化したといえるのか。
山本周五郎の小説は、つねにその問いを投げかけているようです。
ペリー艦隊に密航を試みた吉田松陰の足跡が、ここ蓮台寺に残されています。嘉永6年(1853)、吉田松陰は海外渡航をもくろみ長崎港に停泊中のロシア・プチャーチン艦隊を目指しますが、予定を繰り上げて出航されてしまったため失敗。翌年ペリーが下田に来航した際、再度密航を試みます。下田の役人の目を逃れ蓮台寺を訪れた松陰は、共同温泉で一夜を過ごしたとき、村の医師・村山行馬郎と偶然出会いました。密航実行までの数日、村山医師は松陰を自邸にかくまいます。村山邸はいま「吉田松陰萬寄所」として公開されています。松陰は昼は天井の低い2階に隠れながら、夜は下田にでて黒船の動向をうかがい、チャンスを狙っていました。
弟子の金子重輔と共に、下田・柿崎の弁天島から小舟をこぎ出した松陰は、はじめミシシッピー号に辿り着き、次に旗艦ポーハタン号に向かいます。船上でペリーの通訳に対し「五大陸を巡り、海外の実情を学びたい」と訴えますがボートで下田へ送り返されます。その様子はペリー艦隊の「日本遠征記」にも記録され「日本人の志向がこのようなものであるとすれば、この興味ある国の前途は何と実のあるものであるか、その前途は何と有望であることか」と評価されます。
松陰は密航の企てを自首し、地元・長州の牢獄へ送られます。やがて牢からでた松陰は「松下村塾」を開き、高杉晋作など幕末の志士たちを育てますが、30歳のとき安政の大獄により安政6年(1859)江戸で処刑されます。その翌年ポーハタン号は幕府の使節団を乗せ「日米修好通商条約」批准のためサンフランシスコへと旅立ち、松陰の夢見た世界一周を実現しました(Colla:J 2010年3月号参照)。
コラージに寄稿させていただき2年の月日が流れました。これまで、僕のしょうもない話にお付き合いいただき、皆様には本当に申し訳ないと思っています。
どんな人も、悩みや迷いの無い人なんていない。生きてゆくこと、働くことはそれ自体が本当に大変なことです。日々の繰り返しの中で、楽しみが見い出せないとしても、生きてゆくためには、毎日を地道に生きるしかない。しかし、そんな苦労の多い日常の中でも気持ちの在り方次第で、周りの景色を明るく変えてゆくことができる。平凡な人間でも夢を捨てず、諦めなければいつの日か奇跡を起こすことができると思っています。20代の頃は、これからの人生がどうなってゆくのか見当もつきません。確固たる目標も無く、惰性で送る日々が続き、自暴自棄になって悪事に手を染めてしまおうかという気持ちさえも起こります。僕自身も長い間、両親には沢山の迷惑を掛けてきましたし、これまで親孝行どころか、親不孝一直線の人生を送って来ました。そして責任の負えない多くの失敗をして、沢山の人々に迷惑や負担を掛けて来ました。しかし、そんな若い時の失敗だらけの中で、どんな時にも親父だけは僕に『希望を失うな』という僅かな光を自分の人生の中に残してくれたような気がしています。その親父の愛のある言葉が無かったら今の自分は存在していなかったと思います。20代や30代の時は自分の弱さに自信が持てず、常に何かに思い悩みました。自分のことを愛せないように、他人や周りの人達を本当には愛することができなかったと思います。多くの人達を裏切り、悲しませました。
人生も後半に入り、50を目前としてきた最近になって、少しはありのままの自分を許すことができるようになってきたと思います。何がきっかけだったのかは分かりませんが、これまで若い時の生き方を含めて失敗にも理由があったことが理解できるようになってきたように思えます。ただ、どんな時にも僅かでも良いので希望と夢を持ち続けることが大切だと感じています。そして、ありのままの自分を認めること、悪いことも良いことも、表の顔も裏の顔も含めての自身を愛することや許すことが大切なのだと思います。人を大切にすることや愛することは、同時に自身を認めて自分のありのままを愛することが必要な気がします。多分、死ぬまで自分自身に確固たる確信を持つことはできないでしょう。しかし、どんな状況の中でも自分なりの望みを持つことが人間らしい人生をおくることなのではないかと思います。
僕は自分の家族や一緒に働く仲間、多くの友人達のことを愛し、感謝しています。その気持ちが本物なのかどうか分かりませんし、まだ、その理解の途上にいます。若い時の苦しみや悩みは必ず心の糧となって、いずれはその意味が理解できる時が訪れると思います。自分の気持ちをじっくりと見つめて、自分を認めてゆくことで必ず道は開かれてゆくと思います。若い時の取り返しのつかない多くの失敗も、これからの希望があれば人生を味わう「薬」になるのだと思います。僕自身はどうしようも無く出口の見つからない若い時代にも、僅かな光を与えてくれた親父の愛情で救われました。そんな親父のような父親になれたら、子供達は幸せだと思います。誰が否定しようとも、その確信だけは変わりません。
皆が一生懸命に生きています。若かろうが年寄りだろうが、人には見えない苦悩を抱えている人達がいます。どうしても出口の見えない時も、希望を捨てなければ必ず道は開かれてゆくと信じています。そして時間と共に様々な問題が紐解かれて、許されてゆくと思います。自分のことが分からないように、人のことは分かりませんが、ありのままの自分を許し、認めることで周りの人達の苦悩を少しでも受け止めることができるようになりたいと思っています。
これまで、僕のしょーもない話にお付き合いいただき、ありがとうございました。これで『燃えよドラゴン』は終了させていただきます。もしかすると、『ドラゴンへの道』とか …… 。
ハリス 日米貿易はじまりの地
吉田松陰と金子重輔が小舟をこぎ出した弁天島。160年近く前、この小さな湾の中に、ポーハタン、ミシシッピという2艦の巨大な蒸気船をはじめ、サザンプトン、サプライ、レキシントン、バンダリア、マセドニアン(計7艦)のペリー艦隊(黒船)が集結しました。
弁天島の近く、下田・柿崎の玉泉寺。ペリーが日本を去った2年後、安政3年(1856)の夏、玉泉寺に第14代米国大統領フランクリン・ピアースに任命された日本駐剳総領事タウンゼント・ハリスがやってきました。
玉泉寺の門前には「安政年間 日本最初 米国領事館」という石碑がたっています。この寺院こそ米国大使館のルーツであり、駐日大使や横須賀基地の総司令官たちも訪れる歴史的に大切な場所です。ハリスの目的は、ペリーの結んだ「日米和親条約」を前進させた通商条約を結ぶことでした。それは大半の歴史教科書などに不平等条約と記される「日米修好通商条約」です。果たしてそれは、本当に不平等だったのでしょうか。
【 寝姿山から見た玉泉寺付近。津波によって大きな被害をうけた安政東海地震(1854)の際は、玉泉寺下の家々も流されたものの、住民は高台に避難し助かったそうです 】
ペリーが下田を離れ、ハリスが来日する間に、下田は安政東海地震の津波に見舞われます。海岸に近い家々の大半は流され、ハリスが訪れた頃も町の再建は続いていました。この安政元年の地震(1854)は、予想される東海地震の根拠となっています(90~150年周期で起るといわれます)。
このとき下田には、「日露和親条約」の締結を目指すロシア海軍・エフィム・プチャーチンのディアナ号が停泊中でした。津波にのまれながらも船員達は下田の人々の救出に尽力します。ディアナ号の損傷は激しく、西伊豆の「戸田(へだ)村」で修繕することになりますが、その途中で嵐にあい沈没。戸田で小型帆船ヘダ号を新造しました。そこから幕府は西洋の造船技術を学んだといわれています。下田や戸田で亡くなった乗組員の墓は日露和親条約に従い、ここ玉泉寺に建てられました。
この墓碑を彫ったのは伊豆の石工達でした。ロシア語を初めて見たとは思えないほど、美しい筆記体を正確に彫り込んでいます。ハリスはこの墓碑を見て、ロシア聖教の十字架が大きく彫られていることに気付きます。「日本はキリスト教禁制の国ではあるが、民衆は十字架に対して抵抗感をもっていない。他国とは異なる宗教観を持つ国民ではないか」とハリスは推測しています。
【 嘉永2年(1849)、英国測量船マリーナ号の下田入港をきっかけに、幕府は寝姿山の山頂に、外国船の来航を監視する見張り所を設置しました 】
下田港を見下ろし、ロシア・ディアナ号の墓所と向い合うように、U.S.N(United States Navy)の文字を刻んだペリー艦隊乗員5名の墓所があります。
玉泉寺住職の村上文樹氏によると、ここは日本最初の外国人墓地で、ロシア人はロシア、米国人は米国の方に向けて立っているそうです。乗員のひとりロバート・ウィリアムズは、1854年に江戸湾のミシシッピ号上で亡くなり一時は横浜に埋葬されまがしたが、日米和親条約によりここへ改葬されます。墓所から見える家々の中には、ハリスの馬番や使用人など、その生活を支えた人々の子孫が今も暮らしています。
1856年9月4日、ハリスが玉泉寺で最初にした大仕事は、本堂の前に星条旗を掲げることでした。苦心して太い旗竿を立て、日本に領事旗をあげた感動をハリスは日記に書き残します。「この帝国におけるこれまでの『最初の領事旗』を私は掲揚する。厳粛な反省 ー変化の前兆ー 疑いもなく新しい時代がはじまる。敢て問うー日本の真の幸福になるだろうか?」。国旗を掲げた後、ハリス一行を運んだ軍艦・サン・ジャシント号は港を離れ、下田にいる西洋人はハリスとオランダ人通訳の若者・ヒュースケンだけとなりました。
領事旗掲揚の記念碑(右)は、澁澤栄一によって建立されました。先々代の玉泉寺住職が20代の頃、澁澤栄一翁を直接訪ね、願い出たものだそうです。碑面には、機知にあふれたハリスの行動に感謝する澁澤実筆の書が刻まれています。
【 玉泉寺の本堂や庫裏は、米国領事館兼ハリス一行の住居として使われました。当時は新築間もない頃で、本堂の中央を食堂や応接室に、左右を事務室と私室にしていたそうです 】
玉泉寺のハリス記念館には、タウンゼント・ハリスをめぐる第一級の史料が保存・展示されています。「砲艦外交」ともいわれたペリーが、7隻の軍艦と数百名の水兵を引き連れて下田に上陸したのに比べ、ハリス一行はオランダ人通訳ヒュースケンと5名の中国人(料理人・裁縫係など)という心細さです。
ニューヨークで暮らしたハリスは、地元では教育者として知られています。10代から家業の陶磁器輸入商で働き、東洋陶磁に触れながら図書館で語学や文学、博物学を学びました。少年期に高等教育を受けられなかったハリスは、ニューヨークの教育長をつとめたときフリーアカデミー(無料中学校)を設立し、後のニューヨーク市立大学へと発展しました。
1849年45歳の頃、母の死や会社の倒産をきっかけに、貨物船を買いとり中国・東南アジアへの旅にでます。辺境の島で酋長の家に泊まったり、6年におよぶ命がけの冒険は彼に一流の外交能力を与えました。
旅の中で日本への思いは高まり、知人を頼って政府に働きかけたハリスは、ピアース大統領に認められ日本へ派遣されます。しかし米国からの通信は1年半以上も途絶え、孤立した生活で体調を崩しながら50歳を過ぎたハリスは役人との交渉を粘り強く続けました。
【 寝姿山のロープウェイから見た下田の中心街。鮎釣りでしられる稲生沢川(いのうざわがわ)の流れは下田港に注いでいます 】
当時の幕府は、外国との紛争を避けながら国防を整えていく「ぶらかし政策」をとっていました。ハリスも江戸での直接交渉を許されず下田に足止めされていたのです。辛い日々を支えてくれたのは、下田の美しい自然や温厚な人々でした。ハリスは「喜望峰以東で最も優れた人民」と下田の人々を評しています。下田は元々「海の関所」として栄え、年に3千隻の船が出入りするといわれた海上交通の要所でした。その開放的な気風を感じたハリスは「庶民は海外との交友を望んでいる」と考え、玉泉寺住職などに英語を教えた痕跡も残されています。
後に下田の領事館が東京・麻布の善福寺に移転したとき、通訳見習いとしてハリスに接したのが少年時代の益田 孝(鈍翁)でした。 日本初の総合商社・三井物産の初代社長となった益田は、ハリスを敬愛して善福寺に記念碑を立てています。
その益田が憤慨した逸話に「唐人お吉」があります。ハリスや通訳ヒュースケンの世話係として玉泉寺に派遣されたお吉は「唐人」と差別され悲劇的な生涯を終えます。しかし玉泉寺住職などの研究により、この話は史実とは異なると分りました。村上住職は「お吉と共に来た『おふく』という女性は、寺の近くの家に嫁ぎ生涯をまっとうしました。下田には唐人お吉のような差別はなかったと考えています」といいます。ハリスは寺の庭で好みの野菜や鶏を育てたり、牛の肉や牛乳を所望したり、本堂にストーブを取り付けてみたりと、自分なりのライフスタイルを大切にした人物だったようです。
一八五七年 十一月二十八日 土曜日
見物人の数が増してきた。彼らは皆よく肥え、身なりもよく、幸福そうである。一見したところ、富者も貧者もない-これが恐らく人民の本当の幸福の姿というものだろう。私は時として、日本を開国して外国の影響をうけさせることが、果たしてこの人々の普遍的な幸福を増進する所似であるか、どうか、疑わしくなる。私は、質素と正直の黄金時代を、いずれの他の国におけるよりも、より多く日本において見出す。生命と財産の安全、全般の人々の質素と満足とは、現在の日本の顕著な姿であるように思われる。
ハリス「日本滞在記・下巻」 坂田精一訳 岩波文庫
ハリスの日記は、幕末日本の政情や風俗、自然風景を的確に描写した、貴重な史料といわれています。1979年。第39代米国大統領ジミー・カーター氏が玉泉寺を訪れ「 私たちのパートナーシップは すべての人々が いつの日か兄弟愛と繁栄と平和のうちに共に暮らすことを学ぶだろうという希望そのものである」という言葉を残しました。
安政4年(1857)、ついに将軍への謁見を許されたハリスは天城峠を越えて江戸へ向かいます。大統領から預かった国書を将軍に渡した後、開国派の先鋒であった老中首座・堀田正睦(まさよし)邸を訪ね、蒸気機関によって世界情勢は一変したことや、中国・アジアを巡る各国の動向、そして自分は軍艦も持たない平和的な使者であることを訴えます。やがて通商条約をめぐる談判が開始され、ハリスは条項のちくいちを十数回にわたり丁寧に説明します。その心労は大変なもので、玉泉寺に戻った彼は一時危篤状態におちいり、心配した幕府から蘭学医も派遣されています。
奇跡的に回復したハリスは下田からポーハタン号に乗り江戸湾へ向かいます。老中・堀田正睦に海外情勢の急激な変化と日本の危機を伝え条約の調印にこぎつけたのです。この「日米修好通商条約」は、オランダ、ロシア、イギリス、フランスと次々に結ばれた通商条約の規範となりました。
ハリスの日記「日本滞在記」を翻訳した坂田精一氏は「ハリスが日本に通商開国を強要したことは紛れもない事実であるが、彼が日本に強要したものは、あくまでも『日米対等の条約』であった。」と自著(人物業書「ハリス」吉川弘文館)で訴えています。確かに条文を直接読むと、日本に対するハリスの気遣いが感じられます。ここ下田の庶民と接したハリスの複雑な思いは、160年近くを経た今も日米外交の根底に流れているのかもしれません。
卓上のきら星たち くずの3 海亀のスープもどき 大原千晴(食文化ヒストリアン)
銀河の果てに広がる河原を歩いていると、いろんな星屑に出会います。人間と一緒で、本物は強い光を発します。でも、「本物もどき」にも面白い、独自の魅力があります。「もどき」は「本物」に憧れ、そのまねをし、やがていつしか、別の新しい何物かに変身することがある。きょうは、そんなお話です。
映画『バベットの晩餐会』。宴席で使う料理の食材がパリからノルウェイの海辺の寒村まで、船であれこれ届き始めます。中に、巨大な生きた海亀が台所に運び込まれてくる印象的なシーンがある。海亀は南洋にしか生息しません。なのでこの巨大な一匹は、おそらくは、カリブ海からロンドンを経由してパリへと運ばれてきたという設定ではないかと思われます。なぜかというと …… 。
海亀は船の上でも長く生きます。大航海時代、南の海で海亀を知ったヨーロッパの船乗りたちは、捕獲したら船上で大切に飼育して、イザという時の備えとしました。決まりきった最低限度の食事が続く長期航海で、ごくたまにしか味わえない海亀のスープは、まさに美味。帰還した船乗りたちは、この珍しいスープのおいしさを、尾ひれをつけて語ります。やがて七つの海を支配する海賊帝国の王様や貴族たちに、話が伝わる。「余も一度でいいから味わってみたい。海亀を生かして連れ帰れ!」こうして海亀のスープは、めったに味わえないグルメ料理として、英国の貴族社会で誕生します。
さて、フランスで政治的混乱による経済停滞が続く中、英国では産業革命が爆発的な勢いで進行し、19世紀半ばともなると両国の国力の差は歴然。英国では様々な起業家や植民地でひと山当てた実業家たちが、下級貴族など軽く凌駕するような財力を蓄え、貴族なみの暮らしができる水準に至ります。更には、高級公務員や軍人、金融保険業や製造業・流通業の重役クラスも、ひと時代前の「下級貴族もどき」の豊かな暮らしを営むことができるようになっていく。ミドルクラスの誕生です。彼らは一生懸命に貴族的な暮らしを真似します。
貴族というのは地方に領地があり、本拠地のマナーハウスとロンドンとの間を行き来する生活です。ミドルクラスは都市住民が一般で、地方に所領などありません。なのに、わざわざ田舎に広大な土地を購入してマナーハウスもどきを建て、ロンドンとの間を往復するようになる。貴族夫人の真似をしてアフタヌーンティーに人を招く。貴族の家に置かれた古代ギリシアやローマの発掘品の彫像や壺の代わりに、そんな雰囲気十分のウェジウッドのジャスパーウェアの壺を飾る。すべて「貴族のまねっこ」です。爵位はないけど、ライフスタイルだけでも、まねをする。
同じ流れの中で、ミドルクラスの食卓に「海亀のスープもどき」が登場します。ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』(1865年)に「にせ海亀のスープ」とか「海亀風スープ」として登場するお料理が、これです。ビクトリア時代末のミドルクラス向け料理書を代表する『ミセス・ビートンの家政術』にもその料理法が紹介されています。素材は「海亀もどき」。一番多く使われたのは仔牛肉。他に鶏肉や海老でというのもあったりして、ヴァラエティが見られますが、基本はスープです。
いずれにしても、「貴族みたいに暮らしたい」という、この強い上昇志向。それを達成するための向上心と勤勉さと実行力。風刺やお笑いの対象にされながらも、やがて彼らは「貴族もどき」を乗り越えて、独自の文化を生み出します。今われわれ日本人が「古き良き英国」としてイメージする暮らしのスタイルの大半は、こうした過程を経て誕生した、「英国ミドルクラスの文化」に他なりません。
ところで、この海亀もどきのスープが大流行した時代は、社会格差が拡大し、貧困と劣悪な労働条件が大問題になる時代でもあります。10歳に満たない子供や女性さえ裸同然の姿で炭鉱の奥底で働く。製糸工場での低賃金・長時間労働。ディケンズの描くロンドンの場末。マルクスとエンゲルスが、メイヒュー(H.Mayhew)が、労働者たちの置かれた厳しい実態を記録に残しています。パリ・コミューンの「革命の夢」は、こうした労働者の窮状を背景として、英国で急速に支持者を増やしていきます。
やがて1913年頃から、胡志明(阮愛國)という一人のベトナム青年がロンドン郊外イーリングのホテルの調理場で下働きを始めます。その後彼は、エスコフィエがシェフを務めていた超一流ホテル「カールトンホテル」の調理場に移ったという「伝説」も残っています。だから何? 胡志明=ホー・チミン(1890~1969)です。当時ホー・チミン青年がロンドンから祖国に書き送った葉書の文面を読むと、「覚悟を決めた本物」が発する強い光を感じます。これから半世紀を経て、この青年の「革命の夢」は、メコンデルタで形を結ぶことになります。
海亀の長い旅路、まだまだ続きます。
徹底したCo2削減と、太陽光発電や燃料電池、蓄電池など創エネ・蓄エネの組み合わせで、住宅まるごと「Co2±0(ゼロ)」の暮らしを目指したパナソニックの「エコアイディアハウス」(東京・有明)。最近は電力消費量の削減というテーマからも注目され、見学者が詰めかけています(※見学は予約制)。
日本の標準的な一戸建住宅(床面積:約137㎡)の数年後の姿を想定したハウスに入ると、まず「HEMS(ホームエネルギーマネジメントシステム)」の解説をうけました。HEMSは家電製品や設備機器を情報回線でつなぎコントロールするシステムで、発電量(太陽光、燃料電池)や消費電力量、蓄電量、売電量などをテレビやパソコンに分りやすく図示します。従来は機器・設備ごとにバラバラだった表示を統一することで、家まるごとの電力バランスをリアルタイムに「見える化」できるのです。
※一般見学は土・日・祝日 予約はホームページを参照(左下のリンク)
いま熱い視線を集めている「家庭用蓄電池(リチウムイオン電池)」のデモ機が稼動していました。小型のリチウムイオン電池を140本束ねたモデュールを4個組み合わせ、5kWhの能力を持つそうです(一般家庭の1日の平均電気消費量10kWhの半分に相当)。停電時のバックアップだけでなく、太陽光発電の電力を貯めて夜間に使用したり、燃料電池や電気自動車との接続も可能になるようです。また一般家庭に大量に普及すれば、真夏の電力消費をピークカットする効果も期待できます。ただしリチウムイオン電池の制御には様々なノウハウが必要で、単純に電池をつなぐだけでは量産できないとのことでした。
燃料電池(エネファーム)の最新モデルは、発電ユニットと貯湯ユニットが一体化し設置面積は従来の半分位になりました。
エコアイディアハウスは、昼間は太陽光発電で、夜は燃料電池と蓄電池によって電力をまかなっています。太陽光発電の能力は5kWあり、世界最高水準の変換効率17.9%というパネルを使用していました。天候による太陽光発電の変動を、燃料電池や蓄電池によってカバーすることで、年間を通し安定した電力を得られるそうです。こうして発電されたクリーンな電力は、HEMSにより制御され効率的に利用されます。またインターネットを使って、消費電力の情報をリアルタイムに電力会社などへ提供することで、電力会社の発電量を適切にコントロールできるインフラの整備も期待されています。スマートグリッドの実現には、こうした家電や設備の協調が不可欠と分りました。
電気自動車時代の新しいガレージを提案したスペースもありました。駐車時に排ガスを出さない電気自動車やプラグインハイブリッド車は、ガレージを住宅に取り込んだプランが可能になります。また非常時に活躍する大型蓄電池としての機能も期待され、HEMSによって住宅のシステムと協調していくことも予想されています。
パナソニックなど9社と藤沢市が共同し、2013年度の街びらきを目指す1000戸規模のスマートシティ計画「Fujisawaサスティナブル・スマートタウン」は、家庭用蓄電池と太陽光発電パネルを標準で装備し、HEMSなどの導入によりスマートグリッド社会へ向けた本格的な事業として注目されています。「エコアイディアハウス」をじっくり体感することで、こうした新時代の試みもすっきり理解できそうです。
「家庭用充電スタンド」のプラグを差し込むだけで充電が始まります。新築の際に充電スタンドを設置しておく建主も増えているようです。
小林 清泰
アーキテクチュアルデザイナー・ケノス代表
スマートグリッド その2 「スマートメーター」
前回は、スマートグリッド実現のために大切な蓄電技術について触れました。今回は皆さんの自宅や会社にも必ずある、おなじみ電気メーターのお話です、スマートグリッドの中核技術のひとつに「スマートメーター」があります。
スマートグリッドを構築するためには、電力を消費する施設(工場や店舗、住宅等)における「電力消費の末端の情報化」と、全国各地の大小様々な発電所(自家発電、再生可能エネルギー発電等)における「オンサイト発電所の情報化」が不可欠です。そして電力の消費(受電情報)と、発電情報を双方向でやりとりする情報化技術の開発が重要となります。
その第一段階として、スマートグリッド内の全ての住宅やビル、工場の電力メーターを全て「スマートメーター」に交換してゆく必要があります。
世界に目をやりますと、すでにイタリアやスウェーデンでは、ほぼ全戸に設置されています。EU指令(EU加盟国に対し目的達成を求める地域法)では2020年までに全体の80%をスマートメーターにすることを、EU圏内の電力会社に要求しています。その大きな理由は、太陽光や風力発電など再生可能エネルギーによる不安定な発電に対応したスマートグリッドの構築を実現するためです。また日本ではあまりりなじみのない「盗電対策」でもあるそうです。
東日本震災直後の何ともやるせない、押し付けがましく不自由な計画停電によるダメージは記憶に新しいところです。震災以前にスマートメーターを導入していれば、重要な社会インフラ(鉄道や信号機、病院等)に電力を供給することも可能だったといわれています。スマートメーターには電力情報に関する双方向の通信機能が備わっていて、電力会社とのデータのやり取りが可能になります。スマートメーターが普及して発電事業と送電事業の分離が実現すれば、再生可能エネルギーも安定して使えるようになり、私たちは本当の意味で「新エネルギー」を選択する事が可能になります。このようなスマートグリッド社会を実現し21世紀型の新しい暮らし方を実践するためにも、電力会社の独占していた発電事業と送電事業の分離は必要不可欠な課題なのです。
その他にもスマートメーターは重要な機能を持っています。スマートメーターを設置する事で、リアルタイムな消費電力量や電力料金の把握も可能になります。日頃の節電対策や、今後も長期間つづくであろう電力ピーク抑制のために役立ちます。これからの電気料金は、時間帯や消費量によって刻々と金額を変化させるようになると予測されています。電力会社は電力消費ピーク時には料金を高くして、使用者の節電を喚起するようになります。時間帯別料金(現在でも一部あり)が細かく設定され、各家庭は常にスマートメーターから電気料金情報を取得し、それを元にライフスタイルにあわせたエネルギーの使い方を効率よく管理する必要があります。
スマートグリッドとのやり取りはスマートメーターを通じて行われますが、各家庭や各ビル内でのエネルギー管理はHEMS(ホームエネルギーマネージメントシステム)やBEMS(ビル・エネルギーマネージメントシステム)が行います。HEMSは家庭での太陽光発電や家庭用燃料電池(エネファーム)での発電、EV(電気自動車)やFCV(燃料電池発電電気自動車)、家庭用蓄電池などを情報回線でつなぎコントロールします。例えばEV(電気自動車)や蓄電池の充電を深夜の電気料金が安い時間帯に行い、昼間の電気料金が高い時間帯には蓄電池から電気を供給させるなど、経済的に電気を使用することが可能になります。
今後加速的に普及する節電エースとしてのLED照明、冷蔵庫、エアコンなど家電の省エネ運転のコントロール等をHEMSは総合的に行います。HEMSやスマートメーターの登場で近い将来、スマートハウスやゼロエネルギーハウスが実現出来るようになるでしょう。
つくば市の建築研究所で開かれた「LCCM住宅」の見学会に参加しました。LCCM 住宅(Life Cycle Carbon Minus:ライフサイクルカーボンマイナス住宅)は、独立行政法人 建築研究所が中心となり、一般社団法人 日本サステナブル建築協会内の「ライフサイクルカーボンマイナス住宅研究・開発委員会」にて研究・開発が進められています。
Co2の排出ゼロを目指した住宅開発をさらにすすめ、LCCM住宅は建設時(イニシャル)と居住時(ランニング)のそれぞれでCo2の削減を徹底し、さらにエネルギーを創出することで、Co2をマイナスにするという目標を掲げています。これを実現するため、次のような試みを行っていました。
■ イニシャルのCO2削減
建設時のCO2を削減するため、構造にはCO2排出量の少ない製材所の国産材を選定したそうです。国産材を利用すると輸送時にかかるCO2も削減できます。コンクリート基礎には、高炉セメントコンクリート(製造時のCO2排出が少ない)を使い、さらに「布基礎」にすることで、ベタ基礎などよりも材料を削減しています。このように建築材料の製造時・輸送時にかかるCO2も含めて算出している所が、このプロジェクトの特徴といえるでしょう。
■ ランニングのCO2削減
夏場の通風や冬場の日射など自然環境を上手に利用しながら、高断熱・高気密によってエネルギーの効率的な利用を目指しています。
正面(南側)の大きな開口部は、引き戸式の木製ルーバーで遮光されています。夏場は木製ルーバーを閉じながらガラス窓を開け放つことで、防犯性を保ちつつ風を取り入れることができます。また煙突のように立った吹き抜けの通風口から、効率よく風が抜けるように工夫されていました。
この木製ルーバーは、重なり合って一個所に集めることができます。冬場はルーバーを一個所に集め、自然光をふんだんに取り入れることも可能です。また留守中にも風を取り入れられるよう、床下通気口も設けられています。生活時間帯や季節の変化にあわせ、夏場モードや留守モードなどに「衣替えする家」というコンセプトでプランしたそうです。
■ 「創エネ」と「省エネ」
屋根には太陽光発電パネルを約8kW分搭載しています。本来は発電所などで排出されるCO2を太陽光発電によってマイナスし、トータルでCO2マイナスを実現する計画です。その他、太陽熱利用型エコキュート(太陽熱温水器とヒートポンプを併用)や燃料電池エネファームを利用して、冷暖房・給湯で排出するCO2も極力抑えるようにしています。
■ プランニングの工夫
LCCM住宅の断面図を見ると、南側から北側へ順に「 BUFFER(緩衝)」ゾーン、「ACTIVE(活動)」ゾーン、「 STATIC(静的)」ゾーンに分かれています。BUFFERゾーンは熱や風をコントロールする縁側のような緩衝地帯で、ACTIVEゾーンはリビング・ダイニングなどの活動場所、STATICゾーンは寝室やキッチン、バスルーム、子供部屋などに振り分けられていました。なおエアコンを使う際は、BUFFERゾーンとACTIVEゾーンを引き戸で仕切り、効率を上げることも出来ます。
現在、LCCM住宅では、温熱環境やエネルギー創出・消費量などのデータ収集が進められています。
石油、原子力、石炭、水素、自然エネルギーなど、社会をめぐるエネルギーのバランスは大きな変化の時を迎えています。そのゆくえを探りながら、どのような方法を選択していけばいいのか。
応用物理学の視点から持続可能な社会の実現を目指す、東海大学・内田晴久教授にうかがいました。
燃料電池自動車と住宅のエネルギー
Colla:J編集局 家づくりを考える上で、エネルギーの将来を予測することが欠かせなくなりました。そのひとつとして「燃料電池」が注目されていますが、今後どのように普及していくと思われますか。
内田晴久 住宅型の燃料電池が普及するかどうかは、燃料電池自動車が鍵になると思います。例えば100馬力の自動車の出力は約75kWにも達します。一方家庭の電気消費量は、50A契約の住宅でも5kWまでですから、燃料電池自動車のエンジン1台で10数件分の電力をまかなえる計算になります。自動車の量産によりコストが下がれば、家庭用への転換も現実化します。いま壁となっているのは、燃料電池の電極に必要な白金触媒です。大半の燃料電池は水素を乖離(かいり)するため大量の白金触媒を使いますが、代替品の開発などにより、一気にブレークスルーする可能性もあります。
太陽光の弱点は、エネルギー密度の低さ
編集局 自然エネルギーの代表ともいえる、太陽光の活用はどのように進むと思われますか?
内田 太陽光のエネルギーは膨大で、地球全体に降りそそぐ1年間の総量は、1年間で人類が使用するエネルギーの約1万倍といわれています。ただし問題は単位面積あたりのエネルギー密度が低いことです。関東地方の年間を通じた1日あたりの平均日射量は、1平米あたり12MJ/㎡・dayです。これをワットに換算すると、およそ0.14kW/㎡となります。太陽光発電パネルの発電効率は現在20%以下なので、一戸建住宅の電力を全てまかなうことは難しいと分ります。
とはいえ太陽光は、自然エネルギーの中心となると私は考えています。実は太陽光は「燃料」を創りだす手段としても研究が進められています。飛行機や船は石油がなければ動きませんし、工場も電気だけでは操業できません。社会を維持するためには、「貯蔵・運搬」できる燃料が必要で、それをどのように確保できるかは、日本の将来にとって大きなテーマのひとつです。
新興国による化石燃料消費の急増
内田 例えば、筑波大学の渡邉 信教授の研究チームは、炭化水素を生産する微生物「オーランチオキトリウム」の研究で注目されています。また光触媒を使った「人工光合成」により、太陽光を利用して水から水素を取り出す技術も進められています。これらが実現すれば石油に変わるエネルギーを国内で産出できます。こうした対応の背景には、新興国の急速な経済成長があります。国の統計を見ると、2008年、日本の化石燃料の輸入額は23.1兆円あります。消費量は横ばいから減少傾向にありますが、原油の価格上昇によって金額は年々あがっています。一方、同年の日本の輸入総額は72兆円ですから、約3割を化石燃料のために支払っていることになります。一方中国は、これから日本の2倍以上の化石燃料を消費すると見られています。その他インドやアフリカの国々がエネルギー消費型の経済発展を続けるなかで、超高齢化社会をむかえる日本が、今まで通り石油を確保し続けられるでしょうか。
自然に減少するかもしれない原子力発電
編集局 原子力発電は、こうした事態に備えたエネルギーバランスの一環といわれていましたが、福島の事故のあともその役割を果たせるのか心配です。
内田 発電施設の寿命は大半が40年前後で設計されているといわれ、日本の原発は1960年代から建設がはじまっています。寿命を40年と仮定して計算したところ、全ての原発を稼動させたとしても、総発電量は毎年約175万kWずつ減少する試算がでました。ですから毎年1基から2基の原発を増設していかないと、現在の発電量を維持できないことになります。そこで「高経年化対策」によって寿命を延長した原発もあります。
編集局 福島第一原子力発電所1号機は、1971年3月26日 に営業運転を開始しています。40歳を迎える直前に震災にあいました。
内田 原発を新設するのは難しいとしても、このまま原発を無くしてしまっていいかは慎重に判断するべきでしょう。太陽光の利用もそう簡単にはいきませんし、今後20~30年のスパンで考える必要があります。私の大学時代は1970年代の石油ショックの後でした。石油が枯渇する未来に備え、私は水素貯蔵技術の開発を研究テーマとして選びました。その当事は新エネルギーの開発が盛んで、政府のサンシャイン計画などによって様々な研究が進められていました。しかし石油価格の安定もあり、新エネルギー関連の研究は縮小されていきました。
編集局 当時は様々な選択肢があったものの、日本の政策は原発へとシフトしていったわけですね。そのなかで今後、エネルギー行政はどのような方向に進んでいくと思われますか。
2040年へのロードマップ
内田 応用物理学会では、2010年春に「環境・エネルギー技術の統合マップ」を発表しました。震災以前ということもあり、主に地球温暖化対策をテーマにしています。これによると、2020年までに電気自動車や高効率なリチウムイオン電池が普及し、充電可能な太陽光発電システムが開発されます。また白金の代替え材料が開発され燃料電池のコストが下がることで、2030年頃には小規模の燃料電池による、分散型のコージェネシステムも普及します。それに必要な水素を生産するための人工光合成のデバイスが開発され、2040年には太陽光を利用した大規模なエネルギー生産・貯蔵・輸送素システムを確立した、太陽エネルギーの高度利用社会を目指しています。
編集局 これが実現すれば日本は化石燃料の輸入に依存することなく、二酸化炭素の排出も劇的に減らせそうですね。
内田 こうしたロードマップを進めるためには、政界と産業界が一体となって推進していく必要があります。例えば燃料自動車のための水素ステーションを設置するにしても、現在は数多くの規制をクリアしなければなりません。こうした規制をなくせば、既存のガソリンスタンドを利用した小規模な燃料電池発電所をつくり、周辺の住宅へ電力や温水供給するビジネスも成り立ちます。これからの発電は遠隔地の大規模な発電所だけでなく、都市部の中・小規模発電所や各家庭の自家発電を、地域特性にあわせ組み立てていくことになるでしょう。
編集局 遠隔地からの電力に頼る時代は終り、エネルギーの生産や消費を意識して生きる時代が来たと分りました。本日はありがとうございました。
BC工房 主人 鈴木惠三
最近、小さな展覧会を楽しんでいる。
4ヶ所のBC工房をめぐる「夏は夢 展覧会めぐり」。
それぞれ違う展覧会の企画である。
小さなSHOPでは、なかなか大々的な展覧会ができないので、
4カ所で4つの企画を楽しんでいただこうという狙い。
それと同時に、外部ギャラリーでの展覧会も企画した。
『時之栖(ときのすみか)』って、知ってますか?
御殿場にある、ちょっと驚きがいっぱいあるオトナのリラクゼーション施設?
なかなかひとクチでは言えないシブい中味のある「場」である。
ここにある「時之栖美術館」の片スミでBC工房展をやらせていただいている。
テーマは「老人と椅子」。
とんでもない、どこにもない、驚きいっぱいの、
でも、ちゃんと普通の椅子たちの展覧会だ。
オイラも「アラ還」。正会員の老人である。が、
「老人」意識に欠け、「老人」と思っていない。
まあ、「老人」の片スミにおけない老人なのだ。
こんな元気な老人にも、少々の肉体的な弱点はある。
腰がダルい、ヒザが痛い、首が重い、
悔しいがカラダの筋肉の老化現象は進んでいるのだ。
これらの弱点は、完治しないから、
適当にちょっとラクちんにしてくれるサポートグッズが必要になる。
オイラは、腰と首が弱点なので、アタマを支えてくれる椅子がいい。
腰を支えてくれるクッションがいい。
こんな感じで、軽いキモチで「老人と椅子」を考えつづけている。
この一年、いろんな試作をしてきた。
ちょこちょこ試作実験してきた。
こんな「老人と椅子」に座っていただく展覧会である。
大好きな小説「老人と海」にちなんで、
「老人の椅子」じゃなく、「老人と椅子」と名づけた。
いくつになっても、チャレンジする老人のように、青っぽく夢を追いかけたい。
「老人と椅子」展で、22脚に座ってもらい、
いろんな意見をいただき、次への展覧会に活かし、そしてまた次へ………… で、
「老人と椅子・100脚展」が、アラ古希のテーマになってしまった。
Meeting at Shimoda