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時空にえがく美意識
8月号 処暑 2015
http://collaj.jp/
夏越前へ
大野-永平寺 -一乗谷
岐阜駅に悠然と立つ黄金の織田信長公。東海北陸自動車道を北上して、信長の天下統一に対抗した福井(奥越前)の地を目指しました。かつては美濃路によって結ばれた岐阜と越前。山深い山中のトンネルや橋を抜けていきます。
九頭竜川には、治水と発電を兼ねた多目的ダムが数多く建設され、村々が水面下に沈みました。流域最大の「九頭竜ダム」は岩や土砂を積み上げたロックフィルダムです。
半地下式のユニークな姿をした「湯上発電所」。ダムからの導かれた水圧管の圧力を利用して発電します。ダム計画は1965年世界銀行から2500万ドルの融資を受けて進められたそうです。▲電話ボックスに靉嘔(アイオウ)のシルクスクリーン(本物!)が……。大野は現代アートの支援活動「小コレクター運動」が盛んで多くの町民が瑛九や靉嘔、池田満寿夫の作品を持っています。
福井市と大野市を結ぶ越美北線(九頭竜線)の終着駅「九頭竜湖」は鉄道ファン憧れの駅。道の駅と併設され、動く恐竜オブジェが出迎えます。福井県の勝山・大野はフクイサウルスなどが発見された恐竜王国として有名ですが、九頭竜湖周辺の穴馬地方は、江戸時代から良質な銅や銀、金、鉛の鉱山開発が盛んな地域でした。
工房楽記巨大焙煎機
鈴木 惠三(BC工房 主人)
ふじのリビングアートギャラリーがオープンして 1ヶ月。西村繁男さんといまきみちさん「2人の絵本の原画展」が好評で、ホッとしている。2人は、藤野に住んで 20年。その交友の幅広さを感じる。やさしい人柄そのものだ。オイラも、ふじのに工房を作って 20年になる。が ……あえて、交友を幅狭くして生きてきたから、知っている人はほんとに少ない。2人を見ていると、交友の幅狭さを、もう少し何とかした方が良いかな ? などと、考えてしまう。これもギャラリーの企画運営という初めてのチャレンジのオマケと思って、交友の拡がりを、この年にして自覚、反省 ?ところで、このリビングアートギャラリーには、
「自慢の名物」が、もうひとつある。《巨大なコーヒー焙煎機》だ。いちどに10kg焙煎できる?
日本に数台しかない ?金属オブジェのような姿 ?日本橋の交差点にあった「赤木屋珈琲」で使われてきたマシーンが、リビングアートギャラリーに運ばれてきたのが、6月 17日。設置に、述べ 10人。稼動するまでに 1ヶ月間。驚きの中で、焙煎マシーンが動き始めた。もちろん、オイラなんぞが使いこなすのはムリのコンコンチキ。赤木屋珈琲のスタッフの皆さんが、2. 3週間にいちど来て焙煎してくださる。グアテマラの豆、エチオピアの豆、ジャワの豆。毎日おいしいコーヒーの香りに、つつまれている。気まぐれに、皆さんにコーヒーを入れている。暑い中、ストレートな苦さのアイスコーヒーが喜ばれる。コーヒーは無料。コーヒー豆だけを売っている。200g 500円の安さである。
コーヒーの香りの中で、苦みばしったやさしいジジイになれるだろうか ?
織田信長の側近だった金森長近により城下町として整備された大野。街の西側にあたり亀山の頂きには、天空の城といわれる大野城がそびえます。亀山山中の苔むした石碑には、なぜか洋式帆船のレリーフが……。そこに注目して大野を見ていくと、19世紀日本の社会システムが大きく変化するなか、地方小藩の存亡を掛けた挑戦が浮かび上がってきました。
▲ 大野市民俗資料館。柳廼社の脇から亀山を登り、大野城へ。
大野藩第 7代藩主・土井利忠公の功績を伝える柳廼社(やなぎのしゃ)は、亀山の麓にあります。近くには珍しい木造の裁判所「旧大野区裁判所」(明治 22年)の建物が移築され、民俗資料館として利用されています。
大野城とその城下町を形づくったのは、織田信長の側近として知られる金森長近(かなもりながちか)です。金森は一向一揆を鎮圧した功績から大野の地を与えられ、城の東側に新しく短冊状の町割りを設けました。大野城は小規模ながら近代的な城として築かれ、小高い山の上に天守閣を建て山裾に内堀・外堀を配しました。これは安土城などと並び、権威の象徴としての城の始まりともいわれます。
▲霧に浮かび上がる朝の景色(大野市 HPから)。 石垣は自然石を活かした野面積みで急な階段もあります。
天守閣は18世紀末に火災で焼失し、現在の天守は昭和 43年に鉄筋コンクリートで再現されたものです。中は歴代藩主の遺品や歴史を紹介した資料館になっています。長近が飛騨高山に移ったのち、大野城主は目まぐるしく変遷しました。街の東側にあたる寺町通りには、9宗派 16の寺院が集中しています。これは街の守りと寺院の支配を兼ねた都市計画の一環で、後に金森長近が城主となった高山の街も、城の東側に寺院を並べています。
江戸時代になると天和 2年(1682)に土井利房が藩主となり、以降土井氏が藩政を継承します。大野藩はわずか 4万石ながらも奥越前の交易拠点として栄えます。それから約 130年後、文政 12年(1829年)7代 土井利忠の頃になると、文政11年には周辺 60カ村の農民が藩の枠を超えて結集した一揆「勝山騒動」が起こり、天保の飢饉(1833年〜)など幕府の
「重農主義」を揺るがす事件が続き、大野藩の経済も多額の借財を抱え傾いていました。
結ステーション
江戸幕府の初期経済は佐渡金山をはじめとした金山・銀山に支えられていました。しかし鉱山が枯渇する一方で、街道の整備と共に商品経済、貨幣経済が発展し「米」を基盤とした農本主義の崩壊が始まりました。危機感を抱いた田沼意次などの老中は重商主義への移行を計り蝦夷地開発や殖産興業政策を進めようとしますが、旧体制に阻まれ失脚します。それ以降、多くの諸藩は年貢を増やしたり、借財を重ねたり、藩札を過剰に発行したりと、場当たり的な方策しかとれませんでした。
平成大野屋
朝市で知られる七間通り。老舗の味噌・醤油屋、酒屋、和菓子屋などが並びます。
藩政を担った土井利忠が最初に着手したのは、藩士への倹約の強要でした。しかしこれは上手く行かず、経済発展を目的とした殖産興業を進めます。その際に抜擢されたのが「武士にあるまじき商才をもつ」といわれた内山良林と弟の隆佐(りょうすけ)でした。良林が最初に命じられたのは、穴馬でも古くからの良鉱として知られる面谷鉱山の再建で、金森長近によって発見されて以来、断続的に廃坑と再開を繰り返していた鉱山を藩直営として、経営の刷新と良質な銅の増産に着手します。土井利忠が次に手がけたのは藩の教育事業でした。もともと蘭学に傾倒し、江戸藩邸です杉田成卿(杉田玄白の孫)や蘭学者・小関三英から講義を受けていた利忠は、天保 14年(1843)に藩校をひらき翌年には「明倫館」を建てました。一般の子弟も学ぶことのできる画期的な学校で、町人町と武家町の境に位置します。その後、大坂の蘭学医緒方洪庵の「適塾」から塾頭の伊藤慎蔵を高給で迎えると、第二の藩校「蘭学館」をひらき、英語も採り入れて「洋学館」としました。ここには緒方洪庵の 2人の息子や遠方の藩からも沢山の若者がやってきました。
大野城の外堀に建てられた「学びの里 明倫」は、生涯学習センターと小学校を複合した珍しい施設です。
大野は街の各所で泉の湧く、清水の街としても知られます。金森長近は町割りと共に、上下水道の整備も進めました。芦川用水を境に、亀山の麓に建つ西側の武家町と東側の町人町が分けられていました。
藩校での教科書の多くは利忠自身が大坂で購入した高価な洋書で、それを学生に翻訳・筆写させ知識を広げていきました。また翻訳した「海上砲術全書」などを出版する事業も行いました。藩校の優れた人材が、その後の事業を支えていきます。大野藩の大きな功績のひとつに、種痘所の開設があります。天然痘はたびたび流行した疫病として恐れられ、特に子どもの死亡率は高く、七五三も3歳、5歳、7歳までの生存を祝う儀式とされていました。嘉永 2年(1849)藩主利忠の長男が天然痘で夭折し、これを悲しんだ利忠はオランダ商館から伝搬した痘苗を入手し、ワクチン接種を勧めます。民衆の抵抗を受けながらも、安政 4年(1857)には種痘所「済生館」を設立しました。これは江戸お玉が池種痘所に先駆けた出来事でした。
梅雨明け前の小雨模様の夕方だった。ヨックモックや有名ブランドショップが並ぶ青山の御幸通り、その一本裏の道を表参道方向に歩いていたら、突然真正面に、天井まで壁一面に本が並べられた驚くべき店舗に出くわした。ここは高級ブティックだったはず。一体いつこんな凄い本屋が出現したんだ。いつも自分の部屋で本の山に
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埋もれている私は、高さ 4はあろうかという本の壁に引き寄せられるようにして店内に足を踏み入れた。ふと気が付くと、本の壁の
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前に雰囲気のある洋服が並んでいる。やはりブティックだった。「本も商品 ?」「ぜんぶ本物の本ですけれど、これ店の装飾なんです」「このお店なんていうの ?」「ソニアリキエルです」「それにしても、本の冊数が半端じゃないね?」「約 1万6千冊あります。パリ本店のあ
m
るサンジェルマン・デ・プレ界隈に溢れるボヘミアンな精神、これ
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を映し出すような文学カフェの雰囲気を出したかった、と聞いています」そのひと言で思い出した。リキエルが追い求める精神を象徴
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する、凄い本屋さんがかつてパリにあったことを。
左岸リュクサンブール公園にほど近い、パリ6区リュ・ドュ・ロデオン 番地。1919年この場所に「シェイクスピア&カンパニ
ー書店」が引っ越してくる。その頃パリで極めて珍しい英語の書籍
専門の書店兼貸本屋で、店主はアメリカ人女性シルヴィア・ビーチ
歳。圧倒的なドル高だったこともあり、米国からの輸入書籍は極
めて高価で、フランスの本の 〜 倍という贅沢品であったため、
パリ在住の英米人を中心に会員形式の貸本屋が成り立つ余地があっ
た。店の向かい 7番地には、ビーチより 5歳年上のアドリエンヌ・
モニエが営むフランス書籍の書店兼貸本屋。ビーチとモニエは出会
った途端に意気投合し、いつしか同性の恋人となっていく。そんな
二人が大手を振って歩くことのできる自由が、パリにはあった。こ
の時代、英国で同性愛は犯罪であったし、禁酒法が成立する国アメ
リカでは、社会の片隅で隠れるように逼塞するほかなかった。パリは、
世界でも特別な場所だったのだ。
そのパリでは大戦後、何もかもが革命的に変化しつつあった。例えば女性ファッション。戦前の帝王ポワレの、エレガントな夜会にふさわしい雰囲気の服はもはや時代遅れに。 4年に及ぶ戦争の間、男の消えたあらゆる部門で、女達は必死に社会と国家を支え続けた。
ソニア リキエル 青山店 東京都港区南青山 5-2-12
れを優しく包み込んで介抱する女達。「女の時代」の始まりだった。こうして登場した「新しき女たち」が求めたのは、リゾートやオフィスで躍動し働く女たちに焦点を当てた、シャネルの服だった。絵画の世界では、モンパルナスに集結し、ロトンド、ル・ドームといったキャフェに集う「乞食芸人のような異様な男たち」が、無視できない存在になり始めていた。ピカソ、ブラック、ダリ、ミロ、キスリング、モディリアーニ、フジタ …。写真ではマン・レイ。バレエの世界ではディアギレフ率いるバレエ・リュスが革命を起こしつつあった。ニジンスキーの圧倒的にモダンな振付と怪しい魅力、『春の祭典』に象徴されるストラヴィンスキーの画期的な音楽、バクストの舞台衣装、コクトーの脚本、時にピカソも舞台美術を担当している。アポリネール、ピカソの親友マックス・ジャコブ、アンドレ・ブルトンといった詩人たちの動きも無視できない。夜のバーやクラブでは、新たにジャズが熱狂的に受け入れられ、見事な肉体美でコミカル &セクシーに踊るジョセフィン・ベーカーは、男たちの心を鷲掴みにしていた。そんな雰囲気の一端は、ウッディ・アレンの映画『真夜中のパリ』に、幻想的に描か
れている。
このようにパリの至るところで、新しい何かが蕾を開き、胎動し、爆発し始めている。
その強烈な渦の吸引力によって、パリには世界中から自由を希求する若き男たちと女
たちが続々と集まって来るなかで、本を読み文章を綴ることがやめられない英語圏の人々が集結したのが、シェイクスピア書店だった。客の大半は、故郷を捨ててパリにたどり着いた、若きデラシネ(根無し草)たちで、彼らに対してビーチは、優しく寛容だった。アパルトマンを転々とする彼らに、郵便物の受取先として書店の住所を使うことを許し、お金がなければ、図書の借賃を後払いにしてやり、新参者にはあれこれ紹介の労を取ってやることを厭わなかった。今、当時の書店の顧客リストを見れば、驚くほかはない。ヘミングウェイ、ジェイムズ・ジョイス、ドス・パソス、スコット・フィッツジェラルド、ヘンリー・ミラー ……。フィッツジェラルドを除けば全員が、無名時代である。特に現代文学の革命的原点とも言われるジェイムズ・ジョイスの作品は、当時その一部の表現の「猥褻性」から、書籍としての出版が困難だった。これを店の軒が傾くほどの資金と情熱で出版したのが、シェイクスピア &カンパニー書店の店主シルヴィア・ビーチだった。そして、その仏語版の出版をひきうけたのが、向かいの書店モニエの店だ。後にノーベル文学賞を受賞するヘミングウェイは、この書店で支払を猶予されながら様々な本を借りて読み、安酒を飲み歩き、新婚の妻と小さな子どもを抱えながら、ひたすら書き続けて、作家として大成していく。シェイクスピア書店を抜きに現代文学を語ることは出来ない。梅雨明け前の南青山、幻のリキエル書店の書棚に、私は一瞬、百年前のパリ左岸の胎動を見た気がした。
内山家の武家屋敷は、一般公開されています。
安政 2年(1855)、内山良休は大坂に藩直営の店をオープンし、山間の特産物(タバコや紙、蚕、薬草、漆など)の販売を始め「大野屋」という名前で函館、横浜、美濃、敦賀、名古屋、神戸、高山などに店を広げます。ここでは面谷鉱山などで採れた鉱物も扱われ、質屋業も営まれていたようです。大野屋は幕末の混乱を乗り越え、明治 30年代まで続きました。一方、利忠は他藩からの物資流入を制限し、藩内品の内需を高める政策をとります。内山家の玄関に掲げられた真向兎 (まむきうさぎ)。
大野屋に膨大な利益をもたらしたのが洋式帆船「大野丸」による蝦夷地との交易でした。ロシア提督プチャーチンの来航によって安政元年(1854)に日露和親条約が結ばれると、蝦夷地は松前藩から幕府の直轄地となりました。安政 2年(1855)それに合わせ蝦夷地開拓の希望者が募られ、大野藩もこれに応募したのです。その計画を進めたのが内山隆佐でした。
狭い隠し階段を上がると、曲面の船底天井をもつ部屋が……。
隆佐は探検隊を組織し、蝦夷地探検に出かけます。北海道沿岸ではすでに大商人が利権を確保していたため、隆佐たちは北蝦夷(カラフト)に着目し、幕府からカラフト西岸のポロコタンからライチシカまでの開拓許可をとりつけます。隆佐は蝦夷開拓を成功させるには自前の船が不可欠であると考え、幕府から造船の許可を得ると同時に、江戸築地の軍艦操練所で操船の訓練を受けさせました。隆佐は佐久間象山の門下生でもありました。
安政 4年(1857)大野藩は川崎に造船場をもうけ、当時最新の「君沢型帆船」の建造を始めました。これは安政東海地震で失われたロシア・プチャーチン提督の旗艦ディアナ号に替わるものとして、伊豆半島の戸田(へだ)村で建造された 2本マストの小型スクーナー型帆船で、その造船術を学んだ日本の船大工によって作られ、明治・大正まで海運に利用されました。右は衣装蔵と味噌蔵。蔵の屋根を方杖(斜めの角材)で補強し、雪の重みに備えています。
安政 5年(1858)に完成した帆船は「大野丸」と名付けられ、品川から出帆し神戸港に入り、関門海峡を通過して敦賀港へ回送されます。山国のつくった洋式帆船という珍しさもあって敦賀の人も大勢見物に出掛けたそうです。実は大野藩には「西方浦」(現在の越前町)という日本海に面した飛び地領があり、そこを拠点として西回り航路を利用した交易も始めたことが利益を生み出したのです。
▼ル・フォショウ式の 6連発銃はベルギーで生産されたもの。大野藩は西洋の最新銃器をいち早く研究していました。
大野藩の樺太開発は厳しい自然との闘いでした。ロシア人との軋轢の増すなか、幕府はこれを開拓地を大野藩の準領地として農業・漁業の自由化を認めました。隆佐や藩士の相次ぐ死去や利忠の引退により開拓は断念されますが、函館を拠点とした大野屋の活動により大野藩は 80万両ともいわれる借財を返済し、幕末の荒波を乗り越えました。
時代は明治となり、大野屋は内山良休を中心となり旧士族が参加した良休社に引き継がれ、金融業に乗り出します。田沼意次が果たせなかった「重商主義」を、およそ100年後に山中の小藩が成し得たことは、幕末史のなかではあまり取り上げられませんでしたが、地方活性化の糸口として今、注目されつつあります。
この現場、いつになったら仮囲いやら防音パネルの設置を始めるつもりなんだろぅ ……。
片やお隣側への苦情頻度も増すなか、こちらは騒音疲労もでてただろうし、精神的にピリピリ追い詰められていたと思う。
ええぇっ。やり場のないストレスを抱えながらの生活が
ー
5年目?うそでしょホント?自分たちでさえそう思う。
ー
都会のただなかに居ても被災地と同じような状況で暮らさなければならない現実がそこかしこに、フツーにあるのだ。
住民環境の問題は、その迷惑行為に対し相手側なり、第三者の立場の役所に相談するなり、申すべきを伝えなければ何も改善方法を見いだすことは出来ない。その次に互いの妥協案が求められ
A
てゆくだろう。そういった問題こそ、日常を生きる我々ひとりひとりに付きまとうテーマのようではないか。そうそう、どんな事
B
柄にも当てはまるテーマなのよね。囲いと上棟解体工事の防音パネルの件は、注意したあとすぐに
C
着手された。丘ます組のスタッフの仕事ぶりは、ベランダ越しに
否応なく目に入る。二十代、三十代のテキパキした若者が中心で、
無駄なくスピーディーに仕事をこなす姿には正直驚いた。お隣の
現場で見かけた連携作業とは比較にならないレベルを感じさせ、
騒音計も私道側と区道側に 2カ所とりつけてくれた。
丘ますさん、なかなかいい職人さんもってるじゃない、が最初の印象である。庭と通路を挟み、 棟、 棟、 棟と3棟により構成されていた最上 6階建の官舎は全てパネルに覆われ、後はただ解体の時を待つ身となっていった。
この春にオープンした武家屋敷 旧田村家。
大野藩の家老・田村又左衛門家の屋敷は、文政10年(1827)に大野を襲った大火によって焼失し、郊外の農家を移築して武家屋敷に改装しています。
大野から南西へ 20kmほど離れた池田町のかずら橋。
それでも地球は回ってる
最終話『終幕』野田豪(AREA)
ロックマン、ナツキ、トム・フォード、カイト、キャサリン花蓮、そしてジーノ。ジーノの工房に集まった一同。終止無言で朝を待っている。やがて。庭に薄日が落ちた。やがて庭の夜露が南国の光に輝き始める。こうしてラフィンホクとインビジブルウェポンの二次抗争は未然に終わっ
た。ツインブリッジの二の舞に至らなかったのはトム・フオードの活躍による成果だったとして、今後人知れず認知されて行くのだろう。ホノルル署は夜を徹して人事の政治的な駆け引きが行われている。さっきからトムの携帯がひっきりなしに鳴っているのがその証拠だ。 HPDの署長就任の内示の連絡だ。トムが顔をしかめて電源を切った。「クロはすぐ出てくるぜ ?」
トムの言葉に誰も答えない。
そんなことは誰もがよく分かっているからだ。
「余罪が薄いからな」
カイトがヘッと笑った。「そしたらまた潰すさ」「あんた ……カイトと言ったか。ステイツではあんたら日本の公安に好き勝手にさせねえぞ」
カイトが肩をすくめた。キャサリン花蓮が iPadをトムに放った。トムが画面を見て顔を歪ませる。国際刑事警察機構( ICPO)の手配書だった。「なんなんだよクロってのは」「こんな田舎の警察署長には関係ねーよ」
そう吐き捨ててカイトがそっぽを向いた。13「気にくわねーな、お前らよ」
ロックマンが口を開いた。「話せよ、俺たちゃその田舎の当事者なんだぜ ?」
それをジーノが手で制した。「なんだよ ?ジーノ ?」「聞かない方がいいこともある」
ふん。
ロックマンが押し黙った。
薄々は分かっている。手を出すべき話ではないと。ロックマンにとってク
ロは幼なじみだ。夏姫、設楽、荒川警部補、そして、フォックスフェイス、リオ。かつてクロに深く関わった人間はみな死んだ。結局、ロックマンだけが生き残っている。それは奇跡と言っていいのだ。「キャズ、カイト。あなたたちの捜査任務に手を出すべきでないのはよく分かっています。でも我々もクロには深く関わり過ぎた。少しくらいは知っておいた方がいいと思う。私からその推測を話しておきます」
ジーノの声にキャサリン花蓮が立ち上がった。
隣のカイトにアゴをしゃくった。
カイトが立ち上がる。「じゃあな。トム、ジーノ、ロックマン、ナツキ。またいずれな」
光きらめく庭を2人が出て行った。
その後ろ姿を見送ると、やがてジーノが再度口を開いた。「革命ですよ」
トムの目玉がぎょろりと動いた。
「革命だと ?日本でか ?」
「おそらく彼は日本の皇族の転覆のために動いています。北朝の復権です」
「北朝 ?」
「明治維新。あの国の市民革命時ですが、その時にどさくさにまぎれてすり
替えられた皇族の一派が今もその復権を狙っているのです。そもそも、その昔、
世紀に日本で皇族は南北の二つに分かれました。しかし、南朝は時代の趨
勢の中で北朝に飲まれて行きます。それを再び南朝にひっくり返したのが明
治維新の背景だというわけですね。」
「それをまた北朝に戻そうとしてるっていうことかい」
ロックマンが薄笑いを浮かべた。「それにクロが加担しているって ?うさん臭い話だな。あいつはただの犯罪者だぜ10?そんな大それた奴じゃねえよ。行くぞナツキ」「そうですね、僕の考え過ぎかもしれません。ここまでにしておきましょうか」
ジーノがナツキに手を振った。「ジーノ ……またここに来てもいい ?」ナツキがはにかみながら言った。「ああ。おいで」ロックマンが肩をすくめて言った。「ジーノ、またな」残されたトムとジーノ。「北朝、南朝」
トムはまだブツブツと言いながら首をひねっている。「トム、難しく考えない方がいい。それよりコーヒーでも飲まないか ?クッキーカンパニーでも食べよう」
トムの顔がパッと輝いた。
「そ、そうだな」
工房にキリマンジャロの香りが溢れた。
庭に ミニッツレインが降っていた。
今日も暑くなるな。
庭に出たジーノが光の中で呟いた。
『いつか ……迎えに行く』離れ際のクロの小声。クロがそう言ったのなら、いずれ彼はここに来るのだろう。それまでに幾つ家具を作れるだろう。ジーノはボンヤリとそんなことを考えている。 ■
しかんたざ
只管打坐
吉祥山 永平寺
曹洞宗の大本山である吉祥山永平寺は、福井県・永平寺町の山中にあります。寛元 2年(1244年)曹洞宗の開祖道元禅師 45歳のときに、鎌倉時代の武将・波多野義重の願いによって大仏寺(だいぶつじ)として建立され、2年後に永平寺と改められました。
永平寺境内を流れる永平寺川は、大佛寺山を源として九頭竜川に注ぎます。道元禅師は禅修行の地を探し、森閑とした山の斜面にあり水の豊かなこの場所を見出したと伝えられます。
永平寺には 70以上のお堂がたち、代表的な七堂伽藍(山門、仏殿、法堂、僧堂、庫院、浴室、東司)は風雪を防ぐ屋根付きの回廊で結ばれています。浴室や東司(とうす・お手洗いのこと)が代表的な伽藍に含まれるのが永平寺の特徴で、生活の全てを修行ととらえ、道元禅師の定められた厳しい作法にのっとった禅の修行が営まれています。一般の参拝者は、石畳の参道から総門をくぐり永平寺に入ります。老杉に抱かれた「唐門」(勅使門)は皇室や高僧を迎えるための特別な門です。
七堂伽藍のひとつ山門。入門を志願する僧たちは厳冬期に門の前に立ち続け、修行に対する心構えを問われます。「日本曹洞第一道場」の額が掲げられ、2階には五百羅漢が安置されています。
入門者は「旦過寮」にて衣法や食法、坐法をひと通り教えられ、1週間ほど壁に向かって坐禅を続けた後に修行を許されます。「東司」(お手洗い)や「浴室」も七堂伽藍に含まれる大切な修行の場とされ、一切の会話を禁じた「三黙道場」のひとつとなっています。
山門から中雀門と仏殿を見上げます。石垣の上に伽藍を配置し回廊で結んだつくりは、道元禅師が中国・宋で如浄禅師に邂逅した「天童山景徳寺」を参考にしているともいわれています。「本来本法性 天然自性身」(人は生まれながら仏なのに、何故に修行するか)という疑問をいだき宋に渡った道元禅師は、如浄禅師によってこの疑問を解かれ大悟を得たと伝えられます。祠堂殿(しどうでん)は宗派を問わず全国の信徒のご位牌を安置し、各種の法要が営まれています。
仏殿の屋根は二層屋根で、床は石畳といった中国宋時代の寺院建築を彷彿とさせるつくりです。
七堂伽藍の中心、仏殿には、ご本尊の釈迦牟尼仏(お釈迦様)がまつられ欄間にはお釈迦様の逸話などが彫られています。永平寺には本堂がなく、本尊をまつる仏殿と説法の場である法堂が分かれた古くからの寺院の構成を遺しています。これらの基礎を築いたのは、宋で寺院建築や運営手法を学んだ永平寺第三世の徹通義介(てっつうぎかい)といわれます。
修行僧の生活の場であり、坐禅の場でもある「僧堂」。道元禅師は「威儀即仏法、作法是宗旨」(いいぎそくぶっぽう、さほうこれしゅうし)といい、生活全般が坐禅であることを示しました。
永平寺の回廊は毎朝修行僧によって磨き上げられます。朝は 3〜 4時頃に鈴の音とともに起床し、洗面、暁天坐禅、朝課(朝のお勤め)、行粥(食事)、日天掃除とめまぐるしい日課を粛々とこなします。永平寺において修行僧たちは各部署に配属され、様々な責任を担っています。修行期間は本人の心持ち次第で、特に決められていないそうです。
雲板と呼ばれる鐘の合図で食事の時間が告げられると、修行僧たちは僧堂に戻り「単」という席に着きます。
大庫院(だいくいん)の巨大な厨房では、調理役の典座(てんぞ)により修行僧をはじめ多くの人の食事が作られています。道元禅師は宋に到着した当初、老齢の典座の志に感銘をうけ 38歳のときに「典座教訓」を著し、典座と食事の重要性を説いたといわれています。朝食は浄粥(おかゆ)、香菜(漬物)、胡麻塩で、応量器(漆塗りの椀を重ねた鉢)を使い、独特の作法に従って頂きます。季節に合わせ工夫された典座の心配りは、厳しい修行生活を耐える糧となっているようです。承陽殿に仕える「侍真」は非常に厳しい役職であるにも関わらず、道元禅師の最もそばに身を置ける憧れの役のようです。
承陽殿(じょうようでん)は道元禅師の御真廟であり聖域とされています。道元禅師のほか、2世孤雲懐奘(こうん えじょう)や庇護者であった波多野義重公の尊像なども安置されています。孤雲禅師は道元禅師の没後もまるで生きているかのごとく師に仕えました。今も承陽殿では毎日の食事や入浴などのお世話が古くからの作法にのっとって行われています。承陽殿のそばにある「白山水」。霊峰白山は道元禅師とのつながりが深く、白山妙理権現は永平寺の守護神とされてきました。湧水は白山水として道元禅師にお供えされます。右は浴室で、4と 9の付く日(四九日)が入浴日とされ、水は非常に大切に扱われています。最上段に建つ「法堂」は説法の道場で、朝課(朝のお勤め)や各種の法要も行われています。全部で 420畳の広さがあり、中央の須弥壇には「聖観世音菩薩」がまつられています。法要の手順を示した図版が掲げられていました。
道元禅師 750回大遠忌の記念事業として再建された傘松閣(さんしょうかく)の天井には、川合玉堂や伊東深水などの画家 144名による花鳥画が格天井に 230枚はめ込まれています。
永平寺は「生活」とは何かを改めて考えるきっかけを与える場所と感じました。生活の喜びを生み出すため、生活を支えるもの全てに感謝し、1日を大切に過ごすことが必要と実感しました。
永平寺の門前町には、土産屋や飲食店が並んでいます。かつては永平寺川をはさんで大工村と百姓村に分かれ、大工町の宮大工(志比大工)は永平寺の寺院建築を担うとともに、江戸時代には永平寺で培った技術を活かし、各地の寺院も手掛けたといわれています。
内田 和子
つれづれなるままに
第 回
はじめての5年連用日記
16
401年前の 7月 日、ジ・アルフィー 周年コンサー
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トに意気揚々と出掛けるその日に、ドクターストップがかかった。健康診断で精密検査の結果が出る日だっ
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た。以来、お酒は飲めず運動を控え恐る恐るの日々で
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あった。健康診断のたびに数値が大きくなるコレステ
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ロール。気をつけなければと思っていた矢先に心臓の上の大動脈にコブができていた。小さくなることは
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ないと医者は言う。それでも、そこをなんとか ……一縷の望みをかけて、禁酒、食事制限を誓ったが、小さくなるのはただひとつ。破裂するのみ、との言葉に手
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術を決心した。万が一を考えると断捨離やら身の始末
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も考えなければならない。着れない洋服はこの際処分。
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机の引き出しも整理する。気になっていることを書き出してみると、あるわあるわ……で、結局、「仕方ない」と、開き直るしかない。手術は年明け 1月末と決まった。大掃除をすませ、お正月の準備にデパートへ出掛けた。新しい手帳を買い、何故か隣の日記コーナーに目がいく。きれいな装丁の日記帳がいくつもある。 1年ものだけでなく、3年、5年、 年日記も並んでいる。 年日記、はじめて手にした。書く行数は2〜3行だが、 年分が 1頁に納まっている。まぁなんと気の遠くなることとおもいながら、新聞に載っていた投稿を思い出す。 歳になるその方は 年日記を4回書きあげ、新しい日記を何年ものにするか思案の結果、 年ものを買ったとある。
年書き続けたこともさることながら、 歳にしてさ
らに 年日記を買うその気力に圧倒された。
年を越すことも、この先のこともなにも考えられない
でいた時だった。なんとかその方にあやかりたいと願っ
たが、メモ書き程度でも三日と続かない、 3年ものや5
年もの、まして 年ものなどおそれ多く、結局、買わず
に帰った。
年が明け、友人から電話があった。彼女は、若いとき心臓の大手術を受け、長い闘病生活を送った経験がある。
つれづれなるままに5年連用日記
彼女には手術の事を知らせていた。華奢でお下げ髪が似合うおとなしい人であったが、「絶対に大丈夫 !!」と力強い声で励ましてくれた。東北にすむその友人は、大震災の後の心労で再度の手術を終えたばかりであったが、どこからそんな声がでるのかとおもうくらい、はっきりと「絶対に大丈夫だから。」と何度も言う。そして自分の経験から傷の癒えるまでのことを事
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細かく話してくれた。本当に勇気百倍もらった気がした。その気を持って、再度デパートの日記帳コーナーへ足を運んだ。売り場にはもうきれいな装丁のものはない。諦めかけたが、店員さんに声をかけた。言ってみるもんです。奥の引き出しからステキな5年ものの日記帳を取り出してくれた。初めての5年連用日記である。早速、遡って、 1月1日から書きはじめた。
1月末、無事手術を終え、彼女の言うとおり、徐々に体力を回復し、フライパンや掃除機が持てるようになり、傷口もだんだんと目立たなくなった。なによりうれしかったのは、術後 3ヶ月にはお酒が OKになり、 6ヶ月をすぎた 7月末にはゴル
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フの許可もでた。あのジ・アルフィーを諦めた日から丁度 1年である。75
励ましてくれた彼女とは、おもいがけずスカイツリーで会うことができ、互いの元気を喜んだ。
入院をきっかけに素敵な人たちとも知り合いになれた。 歳になるメロン作りの津軽の方、美味しいものが大好きな 歳の方、心臓友達と笑って電話をしあったり、何がお好き ?甘いものは大丈夫 ?といいながら、お会いできる楽しみも出来た。
そんなこんなの出来事を 3〜4行の日記に書き留めて半年が
過ぎた。ひょんなことから手にした 5年連用日記だが、 3日坊
主ありも OKとしながら、続けていければと思っている。
この日記帳の最終ページには、大正 7年( 1918)から昨
年までの政治・経済・くらしの主な出来事が1行で記されてい
る。今年は戦後 年となるが、戦争がなぜ起こったか、どう終
結したのか、その後どう歩んだのか、凝縮された 1行に重みを
感じながら、記されていない手つかずのページが平和であって
ほしいと祈る。
「つれづれなるままに」の掲載、長い間お休みをいただいき申し訳なく思います。お励まし頂いた読者の皆様に感謝いたします。これからも引き続きよろしくお願いいたします。
戦国のポンペイ一乗谷朝倉氏遺跡
群雄割拠の戦国時代。兵庫(丹波)から越前に入った朝倉氏は様々な合戦をへて、一乗谷(福井市街の東南約 10km)を拠点として越前の国をおさめました。文明3年(1471)から朝倉氏 5代にわたり100年以上栄えた一乗谷は、天正元年(1573)柴田勝家率いる織田信長軍によって滅ぼされ、その後はのどかな田園となり400年以上の眠りにつきました。一乗谷は東西と南を山に囲まれた細長い谷間で、真ん中を一乗谷川が流れています。朝倉氏の館を中心とした長さ約 1.7kmの区間に武家屋敷や職人・商人の町家、寺院などが集中し。南北の入り口には上城戸、下城戸がありました。下城戸(上・左写真)は巨石を積んだ枡形の城戸口になっていて敵の侵入を防ぎ、また朝倉館の背後一乗城山の山頂には山城が築かれ福井平野に睨みをきかせました。大野と結ばれた美濃街道や日本海へ向かう足羽川など交通面にも恵まれ、この天然の要塞は合戦の絶えなかった戦国時代にあって、領民に安心を与えたことでしょう。
1995年には 200mに渡り街並みと武家屋敷や町民の家が復元されました。調査により最盛期には人口1万人を超える人口過密都市であったことが判明しました。
一乗谷では江戸時代から小規模な発掘が断続的に行われていましたが、昭和 44年に水田の土地改良事業によりブルドーザーによる開発が始まりました。その際に大量の遺構が露出し、金沢大学井上鋭夫教授による調査の結果、想像以上に大規模な遺構が埋まっていることが分かりました。土地改良事業は中止され、昭和 47年には全国初の試みとなる専任スタッフを常駐した教育庁朝倉氏遺跡調査研究所が設置され、40年を超える発掘作業が続けられています。
▼密集した武家と町民の街並み。屋根瓦がほとんど出土しない事から、屋根は板葺きであったと推測されています。
一乗谷には紺屋や米屋、数珠師、左官、鋳物師、刀研ぎ、曲物職人、大工、医者などが暮らしたことが、発掘された遺物から解明されました。町家の間口は 6m程、奥行き12m程の長屋スタイルで、土間には周辺で採れる笏谷石を組んだ井戸があります。地下水の豊富な一乗谷では屋内に井戸を設ける家が多く、豊かな暮らしぶりが伺えます。
木材の加工は主に手斧(ちょうな)や斧、槍鉋(やりがんな)などで行われ、現在の台鉋もすでに登場していたようです。材料にはヒノキやマツ、クリが使われています。復元住宅では手斧などの仕上げ跡も忠実に復元しています。
建物は柱を礎石の上に立てた「礎石づくり」で、家のまわりには石積みの排水溝が掘られています。こうした遺構から住居の間取りが正確に分かり、一区画を100尺四方に(約 30×30m)にした計画都市であることも判明しました。壁は下地に小舞を組んだ土壁で、自然光や通風を入れる下地窓(上)もありました。窓は突き上げ戸(右)で日差しや雨を防ぎました。▼板の間は調理場でタイや貝など海産物の痕跡も多く発見されています。座敷では武士が朝倉将棋を打っていました。
武家の屋敷も復元されています。発掘品からは天目茶碗が多く見つかり、庶民から武家まで広く茶の湯を嗜んでいました。千利休の侘茶が確立する前の武野紹鴎たちによる初期の「わび・さび」に影響されていたと思われ、茶室や座敷は畳敷きでした。一乗谷からはカマドの跡が発見されず、煮炊きは囲炉裏や置炉で行ったと推測されています。土釜や土鍋はなく調理には鉄鍋が使われていました。また備前焼のすり鉢が多く発掘され、和え物が盛んに食べられていたようです。
ドラゴンシリーズ
ドラゴン怒りの鉄拳編
決して忘れはしない。
会いたい人なら会いに行け。あの山を越えて、今すぐ会いに行け。
悩みがあるなら旅に行け。心を鍛えて、一人の旅に行け。
愛する仲間のために行け。涙をこらえて、みんなのために行け。
映画『鉄道員』のエンディングを聞いていた、今は亡き、健さんの物静かな佇ま大切な人に付いて行け。命を預けて、全てを捨てて行け。
小さな子犬をつれて行け。カバンに隠して、声かけながら行け。
2010
2070
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いが何故だか今は居ない父に重なり、無性に父の声を聞きたくなった。今でも父は優しい存在のまま、小さな頃からずっと今でも近くで守られている気がする。僕が生きることにもがいている時、いつでも、どこでも一緒に心を支えてくれた。大きな優しさに守られているような気がして、なぜか心の奥底に父の存在が今でもずっと温かく残っている。会いたい時には、そこに会いたい人はいない。誰の命も限られている、強くそう感じるようになって、自分の命にも限りがあることを日々、実感しながら毎日を生きるようになった。いずれ自分の命も終わる時が来る。
自分の人生は親や先人から引き継いだ願いの延長線上にあることを感じる、そして自分自身の中に彼らの残した想いや願い、彼らが抱き続けてきた夢が存在している。それがどんな想いなのだろうかと自分の中に眠る彼らの願いに心を巡らしてみた。
8月は広島と長崎の原爆投下、そして終戦から 年目の年として、日々の時間の流れの中で、戦争や安保法案ついて、様々な思いが静かに、深く胸をよぎる。
戦争で多くの日本の若い命が失われた。 代や 代の若い人間が、親や兄弟と別れて遠地の戦地に赴き、ほとんどの男達は妻子を家に残し、戦場の最前線に向かい、自分と相手の命と向き合わなければならなかった。情緒的に思われるかもしれないが、自分の命と向き合うこと、残した妻子や別れた親や兄弟への想いがどれだけの重さであったのか、今の自分たちに計り知ることは出来ない。これから未来ある 代や 代の若者たちが死と向き合わなければならなかった無念を、今に生きる私たちは計り知ることは出来るのだろうか。
戦地で妻子を残して死んでいった夫の無念。
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吉田龍太郎( TIME & STYLE )
帰りを待ち続けた、残された妻子の情念。父の帰りを待ち続けた子供たちの気持ち。父の顔を知らずに育った子供たちの心。
彼らは、本当に家族を残して戦地へと戦いに行きたかったのだろうか。彼らは、本当に自分の意思で日本の為に他国の人々と戦ったのだろうか。彼らは、本当に自分から願い、自分の命を国に捧げたのだろうか。彼らは、本当に自分の意思で他国を侵略し、子供や婦女の命を奪ったのか。
戦時中に日本人が奪った多くの国々の命、過酷な戦火の中で追い込まれた人々は
人間本来の理性を失っていた。強硬な軍の幹部や一部の政治家の専制政治による狂った時代が人々の心を狂わせた狂気の戦争の時代だったのではないだろうか。
今、日本では安保法案が衆議院を通過し、まもなく参議院で可決されようとして
いる。いかなる理由であろうが、日本は二度と戦争に加担してはならない。そして、私たちは、『戦争の出来る国』に戻ろうとしている政治を阻止しなければならない。先の大戦は日本の他国に対する侵略戦争であった。当時の多くの政治家や軍部の幹部達は許されない大罪を犯したことを忘れてはならない。しかし、政治家や国家はその戦争の罪を未だに認めようとしない。罪を償おうとしない。
多くの政治家や識者と呼ばれる文化人たちは、集団的自衛権の正当性、国家の主権、近隣諸国の軍備力強化への抑止力をうたい、当然の権利として安保法案を可決しようとしている。間違った正義感や狂った倫理観は今に始まったことではない。国民を殺すことに、他国民を殺すことに正義はない。戦うことで、自衛隊が日本を本当に守れると信じているのだろうか。戦争を放棄した国である日本は唯一、新しい世界の秩序を作ることができるはずなのに、その貴重な財産を捨て去ろうとしている。
第二次世界大戦によって世界中で当時の日本の全人口に匹敵する8000万人もの命が失われ、日本では310万人もの多くの命が失われた。しかし同時に日本人は2000万人に近い中国人、50万人もの韓国人、100万人ものフィリピン人
ポーランド・マザウセン収容所の男性たち。長時間裸にされることで自尊心を奪われ、多くは二度と外に出られなかった。
『決して忘れはしない ナチス虐殺の記録』1961年 二見書房刊
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者のトリックにより、『戦争のできる国』への選択を行おうとしている。安保法案を
の命を戦争によって奪ったことは
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年前の真実である。ナチスは600万人のユダ
ヤ人の命を奪い、そして2000万人以上のロシア人の命を戦争によって奪い取った。全ての戦争で起った事実をしっかりと見てほしい。
はたして、どんな戦争に正当性があるのだろうか。武器を所有する安保法案なるものが、私たちの目の前で、私たちの選択した政治家によって可決され、日本が『戦争のできる国』へと引き戻されようとしている。彼らは自国の国民は自国で守らなければならないと言う。しかし、ひと時戦争が始まれば、多くの犠牲者を生み出し、
年前とは比較にならない軍事力によって、本当の世界の終焉を迎えるだけだ。
私達は自身の手によって、今、集団的自衛権と言う言葉に置き換えた政治家や識
通すことは、今に生きる私たちの残す未来への大きな大罪になるのだ。
安保法案は国会を通過するだろう。しかし、私達は戦争によって死んでいった多くの少年少女や若者の無念の声を、彼らに代わって届けなければならない。絶対に戦争をしてはいけない。戦争をしない為にも、私達は武器を捨てなければならない。他国の人々を理解し、受け入れて、共存してゆかなければならない。
全く当たり前のことが当たり前のこととして通じないのが、狂った時代の狂気なのだ。それが戦争の序章なのだ。だから、声を出さなければならない。
ここにナチスがユダヤ人に行った殺戮の実際の記録写真がある。戦後にポーランドで発刊された記録写真であり、今では残酷すぎて現代の人々の目に触れることは無い。私達の国の日本軍も同様に、戦地に於いて多くの子供や婦女子を含めた人間の命を奪った事実から目を逸らしてはならない。
戦争には永遠に正当性は存在しない。戦争をしない未来のために強い意思を持たなくてはならない。写真はその時代の一部の真実を切りとって伝えている。私達はこの写真から戦争の持つ人間の内面に眠っている悪魔から目を逸らしてはならない。その悪魔は私達自身の中にも存在する。
トレブリンカ収容所。子どもを抱いた女性たちが家畜のように扱われ、シャワー室と偽った 「ガス室」へ自ら向かっている。
一乗谷朝倉氏第 5代 朝倉義景館跡と義景館庭園の跡。庭園の庭石が残されています。
一乗谷川の西側には朝倉氏の館をはじめ、古くから仕える家臣の屋敷が固まっています。朝倉氏は元々、兵庫県(丹波)の武士でした。足利尊氏一門の斯波(しば)氏に従い、延元 2年(1337)に但馬から越前に入国します。南北朝動乱の時代に斯波氏の重臣として活躍し、越前の北部に勢力を広げました。やがて応仁の乱(1467)の際には西軍の主力として京都で軍功をあげました。しかし朝倉氏の当主・孝景は越前の有力者や寺院を味方につけ、文明3年(1471)に越前の守護職を任せるという足利義政の許しをとりつけると、東軍方として挙兵し一乗谷に居城を築きました。一乗谷には戦乱や政変で京都を追われた公家や文人が逃れ、文化の基盤を作ったともいわれます。朝倉館跡から山道を歩き「南陽寺跡庭園」へ。南陽寺は朝倉氏が創建した尼寺で、5代義景が足利義秋(後の室町幕府将軍義昭)を招き、桜の歌会を開いたことで知られます。こうした貴人をもてなすため造園に力が注がれ、今は室町時代の庭園計画を知る史料として義景館跡庭園、南陽寺跡庭園の他「湯殿跡庭園」「諏訪館跡庭園」が国の特別名勝に指定されています。
もろともに月も忘るな糸桜年の緒長き契と思はゞ義秋
「諏訪館跡庭園」は、9mの高低差を活かした 2段式の回遊庭園です。4段式の滝が瑞々しさを与えています。
「湯殿跡庭園」は戦国時代らしい荒々しさをもった古い庭園で、4代孝景の頃に作られたといわれます。一乗谷朝倉氏初代の朝倉孝景は、子孫に向けて「17か条の家訓」を遺しています。重臣の登用を能力に応じて行うことや、名刀や猿楽、名馬のために無駄遣いしないこと、合戦の際に吉日にこだわらないこと、国内を巡行して民百姓の声を聞くこと、巡行の際に良い事を褒めれば民はさらに励むこと、裁判の際は臨機応変に対処し無駄な権威を誇示しないことなどを簡潔な文章でつづりました。これは戦国大名の近代的な思考を示す貴重な史料として知られています。