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8月号 初秋 2016
http://collaj.jp/
ホタルの里として知られる八女市の山里・上陽町。初夏、ゲンジボタルのシーズンには沢山の人でにぎわう「ほたると石橋の館」は、星野川と横山川の合流点にあります。星野川は八女市街で矢部川に合流し、有明海に注いています。
ほたると石橋の館では毎年5月下旬〜6月上旬に「八女上陽 ホタルと銘茶まつり」が開催され、ホタルの生態や石橋の歴史の展示や物産館があります。上陽茶は昨年の全国茶品評会玉露部門で1、2、3位を独占しました。
横山川沿いの茶畑。
鈴木 惠三(BC工房 主人)
工房楽記ハート アート
オイラの住む町「ふじの」は、湖と山と芸術の町と言われている。JRふじの駅に降り立つと、山の斜面の「ラブレター」が目に入る。高橋政行さんの作品である。屋外彫刻の中で、いちばん好きだ。単純明快なワカリやすさがある。誰もが好きになる。
アートは、賛否両論あっていい。オイラは、「楽しくワカリやすい」がいちばんだと思っている。箱根彫刻の森美術館のニキの作品、シンガポールの街中にあるボテロの作品、バルセロナのミロの作品、どれも楽しさがある。
「アートは楽しくあれ」
マサさんのラブレターの刺激を受けて、ずっと、ハートの木彫を作ろうと考えていた。スケッチを描き、模型を作り、チェーンソーアートを試みたが、うまくいかない。不器用なオイラには、ムリだった。あたりまえだ。じゃあ、どうしよう?高松の庭園美術館は、大好きな美術館だ。イサムノグチの石の彫刻は大迫力。いい石屋さんといい職人さんとのコラボレーションを感じるアトリエ美術館である。オイラの木彫も、こんな具合にと、良きパートナーとのコラボを目ざした。
1年かかって、やっと「ハートアート誕生」である。「私のハート」である。高さ cm程の大きさだ。お気に入りの椅子に座って、お気に入りの「私のハート」を眺める。
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「今の私のハート気分は?」
「私のハート」を、私の部屋へ飾ってほしい。あったかなハートになれる。飾りたくなる「私のハート」を作っていきたい。只今、 点。いつものことだが100点を作りたい。コラボの良きパートナーになってくれたエディとスラマ。2人とも正直、変人だ。へんくつなオイラと気が合う。変人3人で作り出すハートは、変わったハートだ。もっと、どんどん変わっていきたい。
できれば巨大なハートが作りたい。大木の丸太から、大型チェーンソーで削りだしていくハート。 FRPでカラフルなハートもいい。石のハートもいい。鉄のハートもいい。
ところでハート、ハートと言ってるけど、日本古来のハート
「猪の目」を知ってますか?
奈良時代にあったハートかな?
イノシシの目のあたりの模様と
か?
今、工房では「いのめテーブル」を
作っている。
「ハートアート」じゃなく「いのめアート」の方が、いのしし年生まれのオイラには合ってそうだ。
18世紀イギリスの産業革命は、水車の動力から始まったといわれています。産業革命当時のままの動力水車を利用した線香工場「馬場水車場」が、横山川の流域で稼働し続けています。
大自然の中の馬場水車場。右が工場で左が母屋です。水車は自然相手の仕事。ひとときも工場を離れられません。
工場に向かうと、工場主の馬場 猛さんがトラックから材木を下ろしていました。線香の原料となる「杉の葉」の乾燥に使う薪は、水車場を応援する大工さんたちが持ってきてくれます。
水車場が創業したのは大正 7年(1918)、集落の約 20名が 2,360円(現在の 5〜 6000万円)を出資し工場を興しました。この山石を積んだ石垣は当時からのものだそうです。
工場では水車が音を立てて勢いよく回り、回転がギアに伝えられ杉の葉をつく動力になります。林業が盛んだった上陽町では、水車を利用した線香工場が 20カ所以上あったそうです。明治・大正期には全国の製糸場や製材所、和紙、陶土の工場などで動力用水車が沢山活躍し、産業を支えていました。
横山川の井堰(いせき)から水をとり込み、150mほどの水路で水車に導いています。水車の手前で水の勢いをあげ、水車に大きな力を与えるよう工夫しています。
現在の水車は 5代目で、久留米の水車大工・野瀬秀拓さんによって平成 20年に作られました。水車の寿命は 20年位で、4代目は能勢さんの師匠・中村忠幸さんが昭和 62年に作っています。水車には主に上掛け式、腰掛け式、下掛け式があり、馬場水車場の水車は水流のスピードをあげた「引き落とし式」で、水車の幅が広いのが特徴です。水車のスピードは水路の水量で調整します。水車の奥には杉の葉を乾燥させる「火室(ひむろ)」があります。杉の葉を山の伐採現場から引き取り、砂や土を取り除いてから裁断し火室に投入します。火室は 2層になっていて、上の部屋で一晩乾かしてから下の炉に落とし、薪を燃やして70〜80度の熱風を2〜3時間送り乾燥します。八女地方の杉だけでも20種類以上もあり、硬さや粘り気が異なります。粘りのある杉の方が線香には向いているそうです。
乾燥した杉の葉を15本の杵(きね)を連動させた臼(うす)に投入します。水車の力で 24時間働き続け、杉の葉を線香の原料となる細かな粒状にしていきます。杉のいい香りがあたりに漂います。
回転力を羽根木によって上下運動に換え、杵を動かす仕組みです。金属製の杵の下には臼が置かれています。粉状になった杉の葉を回転式のふるい機にかけて微粒子を取り出したものが、線香の原料「杉粉」になります。
馬場さんの線香は、杉粉にタブの粉だけをつなぎに加えた天然100%です。今は顔料や香料を混ぜた線香が大半ですが「これが線香本来の色と香り」と馬場さん。
梅雨の時期は湿気が多いため、杉粉づくりが難しいと馬場猛さん。2012年7月の九州北部豪雨では大量の水が工場に流れ込み、片付けに 2カ月もかかったそうです。第 2次世界大戦のころ水車場は一旦閉鎖されましたが、猛さんの父・次夫さんが昭和 36年に再開。大阪で建築設計をしていた猛さんは「都会は合わない」と 25歳で村に戻り、今はすべての作業を千恵子夫人と 2人で行い、水車と共に生きる暮らしを続けています。左は水路を分岐するための井堰。下は海外の見学者がワークショップで作った線香。フランスやブータンなど、様々な国から訪れます。
馬場さんは以前、杉粉だけを問屋に納めていましたが、5代目水車に替わった7年ほど前から線香作りを始めました。水車の更新をきっかけに「馬場水車場を応援する会」が結成され、そのすすめもあって、念願の線香作りを手掛けました。線香が広まるとともに大学の研究者やデザイナー、海外の学者などが訪れ、線香づくりワークショップも開催されています。線香づくりは試行錯誤の連続で「材料がシンプルだからこそ難しい」と馬場さん。
「一番大変なのは井堰の管理。川の怖さは誰より知っている」という馬場さんは、大雨の夜もカッパを着て命がけで水門を守っています。水力発電会社から「水車で発電すればお金になります」と言われたものの「自分は水車を回して杉粉を作ります」と断ったそうです。夏は鮎釣り、秋は山菜採り、冬はイノシシ猟 ……山を自分のものにすれば何でも出来るという言葉からも、水車を動かしているのは自然と寄り添う暮らしであると感じました。
前回お話したように、英国の「 EU離脱」という動きは、昨今のシリア難民問題が原因で突如として湧き上がったものではありません。英国の EU参加直後から長年にわたってくすぶり続けてきた、根の深い動きです。それが今回、一気に爆発するに至った。しかも「 U離脱」をめぐっては同じ英国民でも、職業・社会階層・
E「EU
居住区域によって、はっきり賛否が分かれている。嫌いの感情」は、特に低所得白人層の労働者階級の間で強い。なぜ、そうなのか。その背景を探ります。
サッチャー保守党政権の経済金融自由化政策が功を奏し始める
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1990年代初頭以降、ブレア労働党政権を経て2008年9月のリーマンショックに至るまで、英国経済は長期間に渡って好調を維持し続けました。 1989年末に日経平均が3万9千円弱でピークアウト、以後「失われた 年」でひたすら低迷を続けた我が日本経済とは真逆の別世界。この間、毎年ロンドンを訪れるたびに、東京の没落をひしひしと感じさせら2れる。そんな日々が長く続きました。リーマンショックに至るまでの、この英国経済の絶好調ぶりが、今回の EU離脱を導いた最大の要因です。経済の不調ではなく、経済の好調、これが低所得白人労働者階級を中心とするワーキング・クラスの間に強い不満を醸成した。ではなぜ、経済が好調だったのに、労働者の間に不満が鬱積していったのか。それは彼らが「経済好調」のおこぼれに預かることが出来なかったからです。それどころか、徐々に職を失っていったからです。
英国経済の絶好調が続く間、私は毎年ひと月半から カ月を越えるほどの期間を英国、特にロンドンの街を歩き回って銀器を探し歩いていました。虫の視点でロンドンの街を見てきた。だから、実感として、皮膚感覚で分かります、この間の経済好調が英国社会にどのような変容をもたらしたのか、ということが。サッチャリズムとレーガノミクスが英国にもたらした「繁栄」は、金融資本という怪物を檻から解き放ち、そのグローバル化がもたらしたものでした。英国経済の「絶好調」ぶりはロンドンのシティが、米国主導の「金融のための金融」いわば鉄火場と化した国際金融の、欧州における胴元であることでもたらされたもの。実際この間、古色蒼然たる雰囲気が一杯だった金融街シティでは、各所で大規模な再開発が進行し、ロイズやガーキンに代表される未来的な巨大ビルが次々と建ち上がっていきました。東京の湾岸地域によく似る、ゆりかもめみたいな電車で都心部と結ばれたドックランド(旧造船所&倉庫街)は、ニューヨークや香港・シンガポールと直結する国際金融資本の牙城へと一変しています。この一帯はもともと、ロンドンでも場末中の場末、本物のイーストエンドの中でも、最も荒っぽい港湾労働者系住民の住む街だったはず。彼らは週末のパブで大量飲酒して街路で暴れ、サッカーの試合ではフーリガンと化す。それが年々荒っぽくなっていったのも、この間に起きた現象です。加えて、シングルマザーとドラッグ依存の増加。すべてつながっている、と私には感じられます。「経済は好調」であるのに、その一方で、社会の底辺は荒廃していく。今だって、ドックランドまで行く途中には、開発されないまま、こうした住民が暮らす地区が残っています。というよりも、ロンドンの周辺部には、至る所に、こうした荒れた地区がある。その一部からイスラーム国 ISへの志願兵が多く出ていることは、別の問題ですが、見過ごしに出来ません。今回の EU離脱問題で注目すべきは、こうした「経済好調から取り残された人々」、その切ない庶民感情なのです。
ベルリンの壁崩壊後に新たに 80EUに加盟した、主に東欧諸国から自由に入り込んでくる外国人労働者に仕事を奪われた。これまで 500万円稼いでいたのに、奴らが安く働くから年収 300万円になった。しかも奴らは親戚、知り合いをどんどん呼び寄せて、徒党を組み始めている ……そんな不満がこの二十年ほどの間、渦巻いていたのです。その代表例が、現在英国で 万人を超えるというポーランド人労働者の存在です。 EU加盟後、英国を目指すポーランド人は増加の一途で、今では英国のビル建築現場では、彼らの存在なしでは工事が進まないのでは、と言われるほどです。リーマンショック後、教会関係者や労働者救済 NPOなどが中心となって、仕事にあぶれた現場労働者のためにスープ・キッチン(無料の食事提供)や無料宿泊所の提供が盛んになった時期がありました。その時、意外な問題が持ち上がって、大論争が起きた。そこに押し寄せる労働者たちの三分の一、場所によっては半分が、ポーランド人で占められるという事態がロンドンを中心に相次いだのです。「外国人を救う前に、自国民を助けよ! 外国人は出て行け!」同じ列に並ぶ英国人労働者から轟々たる不満の声が噴出しました。ベルリンの壁崩壊後、続々と EUに加盟した東欧諸国。その加盟国からの入国者を止めることは出来ません。 EUヨーロッパは、ひとつ。確かに。でも、それは、極めてヴァーチャルな、寄木細工のように精緻に組み立てられた法体系によって支えられる、一種の空中楼閣のような存在。目前で自分たちのパンが奪われる事態を前にすれば、
「お前らどこの者だ」という地元民族意識の感情がほとばしり出てきて、空中楼閣の規則なんて「ふざけんな」と蹴散らされて飛び散ってしまう。「EUなんてくそくらえ!」となるのも、当然なのです。
EU離脱派の勝利が明らかになった日、ロンドンの外れハンマースミスにある、ポーランド社会文化協会の建物に「ポーランド人は国に帰れ!」というヘイト落書きが見つかり、大きなニュースになった。同様の落書きがケンブリッジなど他の都市でもなされていて、ポーランド移民労働者への反感の強さが表面化した。私には、この協会に出入りする知人がいます。なので、この一帯を歩きまわって、ポーランドのお菓子を売る店のケーキを食べ、彼らが集まるカフェで、仕事や住居探しの情報交換をする現場を目にし耳にしています。落書き事件の直後、その知人とメールで思いを交わしました。今回の事件は、「落書きだけ」とはいえ、かなりの動揺を引き起こしつつあること、言うまでもありません。もともとロンドンには第二次世界大戦中、ポーランド亡命政権の政府が置かれていて、関係浅からぬものがある。そのことも、大量移民の背景のひとつです。もちろん、ヘイトの対象は、ポーランド人労働者に限った話ではありません。「EUから自由に入り込んでくる移民労働者は出て行け!」これがプア・ホワイト層の本音です。
1950年代初頭の戦後復興期に英国は、7つの海を支配した大英帝国の旧植民地各地からの労働移民の受け入れを本格化し始めます。インド、パキスタン、バングラディシュ、南アフリカやケニヤ等のアフリカ諸国、カリブ西インド諸島諸地域等々からの移民集団が続々と英国にやってきて、戦後の成長を支える労働力となっていった。当時の成長は、工場現場労働者的な仕事のパイそのものが拡大していたので、これら移民労働者が必要とされ、それによって白人ワーキング・クラスが直接仕事を奪われるという形にはならなかった。もちろん、人種差別問題はありましたが、ワーキング・クラスの生活水準も着実に上昇し、夏休みは一家でスペインの海辺に、なんていうのが珍しくない水準に至っていきます。ところがサッチャリズム以降の「経済成長」では、彼らの仕事のパイは大きくならなかった。それどころか、どんどん働く現場が縮小していき、その小さなパイも、移民に奪われ始めた。大雑把に言えば、この間の「英国経済の繁栄」は、圧倒的に金融資本を中心とする、経済のグローバル化と情報化がもたらしたものだったからです。それは工場を必要としない、人手を必要としない「繁栄」だった。その果実は、圧倒的にロンドンのシティ金融に関連する職場に関わる、英国でもごく一部の人達だけが手にできるものだった。私の目から見ても、この間に、英国社会の階層格差は、まるでビクトリア時代末期のように大きくなっていったと感じます。今回の英国での出来事は、我が国にとって参考にすべき教訓に溢れています。
星野村の「そば処 な佳しま」。長野で修行したご主人の手打ち蕎麦。
緑あふれる源太釜。作陶室や窯、釉薬の部屋、母屋などが並びます。元は旧家の小豆畑で、蔵座敷と呼ばれた敷地だったそうです。
鎌倉時代から続く奥八女の山里・星野村には、「星野焼き」と呼ばれる幻の焼物がありました。それを現代に復活させたのが、鳥取県出身の陶芸家・山本源太さんです。源太窯の建物は 40年の歳月をかけて築かれました。山本源太さんは陶芸家であるとともに、詩人としても活躍しています。
昭和 43年 26歳のとき。この地に窯をひらいた山本源太さん。20歳で伊勢焼の奥田康博さん(神楽の窯)に師事したのちに九州・小石原へわたり、星野村にいたりました。その道程は日本の民芸の流れを物語っているようです。
奥様お手製の青梅の甘露煮。お茶はもちろん八女茶です。
三宅忠一さん(1900〜1980)は、民芸は無名の工人により作られる生活の道具という信念をもち、伊勢や小石原などの産地振興を実践しました。自ら経営する大阪スエヒロ本店で産地の器を使い、普及・販売を行う場として「日本工芸館」(大阪市なんば)をひらき、事業家のセンスを活かした商品開発や販売ルートの確立にも尽力しました。高度経済成長のただなか多くの窯元は工業製品におされ将来を見いだせずにいました。民芸は彼らの希望となりえるのか? 若き源太さんは図らずも、時代の転換期に身を置いていたのです。
最初に建てた建物は、古い藁葺の民家を移築したもの。1階を作業場に、2階を住居としていました。
星野村では、明治 27年から 80年以上絶えていた星野焼復興の機運が高まっていました。源太さんは村に点在する古い星野焼を見て回り、その技法を探りながら、山に分け入り陶土を探し回りました。「他から来て窯を開くのは本当に手探りなんです。山に行って土を探し、ポツンポツンとある過去の作品を探し、村で暮らしていくうちに分かってくる。焼物を作るというよりは、まずは村に受け入れられること。自分の故郷、生きていく場所をつくる所からはじめた」と源太さんはいいます。星野焼の赤を出すのが、地元で採れるヤマサビです。星野村にはかつて佐渡のような金山もありました。
伊勢での経験を活かし、木灰や藁灰、天然の酸化鉄(ヤマサビ)など釉薬の成分は突き止めたものの、星野焼復興の試行錯誤が続きました。転機となったのは最後の陶工が書き残した古文書で、暗号のように書かた釉薬の配合を解読したそうです。星野村の土の特徴は鉄分が多く収縮率も約 3割と高いことで、歪みや割れが出やすく作陶の難しい陶土です。
『 忘れもしない。(中略)まだ窯の場所も定まらぬまま、陶土探しに手弁当をさげてあちらの山こちらの谷をさまよった。ほどなく古老の口伝をたよりに麻生の池の山のほとりにたどりついた時、沼の水際にわずかに顔を見せている無垢な粘土を手にしたあの身ぶるいを。「俺はこの地で、この土で、ここに生きる」と、火群のように内側から突きあげてくる決意の握りこぶしを固めたことを。』(『土を盗む』私の池の山 より)
現在の窯は 2代目で、左右から薪を投入する倒炎式窯です。煙を床下に導いてから高い煙突に引いていく仕組みです。
窯の左右には松の薪が積み上げられています。一旦火を入れると35時間焚き続け、温度は1250〜1300度 Cにまで上がります。窯の温度は温度計となる陶土の姿で判断します。源太さんが庭先で八女茶を淹れてくださいました。星野焼の赤は「夕日焼」と呼ばれ、幻の焼物とされてきました。お茶がはいると器は山吹色に輝きはじめ、星の煌めきのような天目が浮かび上がります。この色を出すには 30年以上かかったそうです。
「やはり夕日焼を再興しないと星野に来た意味がない。同じ割合で釉薬を調合をしても同じ色はでないし、炎や土との相性もあり、やっと仕組みが分かってきた。これからは夕日焼にあう形を考えていきたい」と源太さん。
花のこちら
花のむこう
源太
様々な道程をへて星野焼を再興した山本源太さん。星野村に来た一番の理由は、「星野という美しい名にひかれたから」だそうです。工房の一画には、故郷鳥取の民芸運動家・吉田璋也(しょうや)さんの石仏の写真が飾られていました。
第28 回 内田 和子
つれづれなるままに碌山美術館を訪ねて
もう一度訪ねたいと思っていた、安曇野の碌山美術館。
年振りに再訪した。
記憶では、山道を歩いたその先にあったように思ってい
たが、街中を少し入ったところにあり、記憶違いか ……山道は別のところだったのか定かではないが、蔦の絡まる美術館は当時のままだった。
昔、勤めていた会社の部長さんが、松本にある別荘に若い連中を誘ってくださった。まだ木の匂いが新しい山小屋風の別荘には温泉も引いてあり、ライオンの蛇口からお湯が出るのをキャッキャ言いながら喜んだ。みんなで手分けして料理を作り、部長と一緒に夜遅くまでお酒を飲んだ。用意していたお酒を全て飲み干し、満天の星空を眺めながら、お酒の買える街まで、大声で歌いながら歩いたことを思い出す。新車のスカイラインをバックに、みんなでポーズをとった写真が残っているが、記憶にあるのは、満天の星空、ライオンの蛇口、山道、碌山美術館。残念ながら展示の彫刻がどんなものだったのか覚えていない。
6年前の
学美術館で「ラグーザと萩原
碌山」の作品展を見る機会を得た。若い頃、松本の美術館に行ったことを思い出し、碌山の彫刻をしっかりと記憶に残したいと思った。上野の森の先にある藝大の門をくぐり美術館へと向かう。ダイナミックな彫刻の数々に圧倒されながら、あの山道の先にある安曇野の碌山美術館に、もう一度行ってみたいと、その時思った。いつか絵が描けるようになったらと、大学美術館の購買で大学名入りのスケッチノートと鉛筆を買い、上野精養軒で食事をし、落ち葉を踏みしめながら寛永寺を通り、一人東京お上りさんを楽しんだ。いつかもう一度、碌山美術館を訪ねたいという気持ちはますます強くなっていた。
今年7月、ようやく実現した。
美術館横の広い駐車場に記憶はないが、正面の佇まいは昔のままである。作品が展示されている美術館は大きくな
11月、東京藝術大
つれづれなるままに碌山美術館を訪ねて
いが、ロダンの「考える人」に感銘し、フランスで彫刻を研鑽したという、碌山の力強い作品が数多く並び、人間の内面をえぐり出そ
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うとするその迫力に圧倒される。彼の生い立ちから、渡米、渡仏時のこと、新宿中村屋での仲間との交流など、改めて知ることばかりである。70
明治の時代、西洋で学ぶ人は多くいたが、言葉の通じない中、何度も海外に出て芸術を極めていくエネルギーがどこからくるのか、芸術仲間との交流を見る中でも当時の人たちの開拓心、湧き上がる探究心のすごさに驚く。
今回、美術館では特別企画展示が
あり、高村光太郎と智恵子の作品が
展示されていた。碌山とは彫刻仲間
でもある光太郎の作品も多く展示さ
れていたが、小さな木彫りの「柘榴」
「蓮根」「鯰」など、その緻密さに吸
い寄せられた。初めて見るものばか
りだったが、長時間どこから見ても
飽きることはない。
高村光太郎の「智恵子抄」はあまりに有名だが、芸術家としての二人の作品をほとんど知らなかった私は、自分の無知を恥じながら展示室を廻った。智恵子が精神を病んでから作り始めた紙絵は、どれも繊細で優しい。光太郎にものすごく愛され、生まれ故郷の安達太良山の空が好きだった。という歌が他を隠していたのかもしれない。
紙絵は、強烈な何かを表現しているものではないが、心を穏やか
にする透明感、静かな風を運んでくるような柔らかさがある。この
ような作品があることを知らなかったが、ゆったりとした気持ちに
させてくれる素晴らしいものだった。
私の母は 歳を過ぎたころからちぎり絵を始め、小さな色紙に、柿、
栗、ぶどう、ひまわり等、季節の花や果物を描いていた。ちぎり絵は、
材料が同じでも同じような作品はできない。母の真似をしてみても
優しい色合いがどうしても出ないのである。
智恵子の紙絵を見ながら、ふと母のちぎり絵を思い出し、帰った
ら押入れの中を探して、季節物のちぎり絵を飾ろうと思った。
年振りの安曇野「碌山美術館」、記憶は曖昧だったが、光太郎と智恵子の出会い、新たな感動を安曇野の記憶として加えることができたことは、とても幸せなことである。
▲ 夕日釉(明治初期)森松勢蔵作 橋爪正幸氏蔵
四耳付葉茶壺(江戸後期) 元文 2年( 1737)、高木与次右
橋爪正幸氏蔵 衛門によって開かれた星野焼は、
久留米藩の御用窯として発展し、
八女茶を保存するための葉茶壷や
茶道具などの名品を残しました。
展示館の裏手にある「チンのウバ塚」。珍しい石を積んだ墳墓です。
床の上。うつ伏せで目が覚めた。 14インチのテレビがぼんやり光っている。立ち上がると体がパキパキ音を立てた。痛たたた。ロールプレイングゲームをやったまま寝てしまったのだ。時計を見る。 7時!!まずい遅刻だ !と立ち上がり、ふいに体がピタッと止まる。ああそうだ。終わったんだっけ ……シュポンと脱力した。もう今日から会社に行かなくていいんだっけ。そっかそっか ……。昨夜放り投げたコントローラーを手繰り寄せ、またバーチャルの世界に飛び込んだ。そして二度寝の後、気がついたら昼だった。 40
2003年4月。
昨日まで青山にある家具屋の店長だった僕は、本日より無職となった。昼夜を問わずに働いた。休みも休まず家具の勉強をした。接客が好きだった。売るのが楽しくてしょうがなかった。気が狂ったと妻に言われたけど、そんなのぜんぜんピンとこなかった。ビーサンを突っかけて外に出る。はるか上空、シュコーと音を立てて飛行機が小さく飛んでいく。ペタッペタッと音を立てて歩く。パシフィックガーデンから一中通り、 134号線を越えて松林を抜けて海に出た。茅ヶ崎の海は凪いでいた。ひねもすのたりのたりかな。
昨夜、どうしても倒せなかったラスボス。追い詰めるけど最後の最後
に超回復される。無尽蔵の HPと防具の硬さで相手の攻撃を一身に受
ける僕(勇者)。狂ったように剣を繰り出すナツ(戦士)。底なしの MP
で究極呪文を放ついくちゃん(魔法使い)。仲間の全回復とツボをつい
たジャミングで後方支援するしおちゃん(僧侶)。レベル じゃまだ足
りないのかな。ステ振り間違えたのかな。落ちてた小枝で砂に全員のフ
ォーメーションを書く。ピーヒョロ。とんびがくるりと輪を描いた。
RPG上のパーティに名付けた名前、ナツといくちゃんとしおちゃんは、昨日までの仕事仲間の名前だ。誰一人スキルがかぶらない素晴らしいチームだった。今日も僕のいない店で、昨日までと同じように頑張って家具と闘っているのだろう。ふぅー。ため息が出た
Vol . 10
RPG
僕らのリズム
野田 豪 (AREA )
50ああ、いいなぁ。もっと家具やりたかったなぁ。
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なんで辞めたんだっけかなぁ。
なぜ辞めたのか ?いやいや。そんなのはよく分かっている。簡単
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に言えば、会社の施作に心が従えなくなったからだ。会社がもの足りなくなってしまったからだ。日々膨れ上がる自分の理想とのギャップに耐えられなくなったからだ。
目の前の砂に小さな組織図を書く。僕ならナツと僕で営業、いくちゃんはブランディング、しおちゃんは経理。つまり勇者(営業兼経営者)、剣士(営業)、魔法使い( IT・VC)、僧侶(総務・経理)でいくな。ダブル営業のフォーメーション。「ガンガンいこうぜ」だ。
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経験不足、システム不足なんて個の突破力があれば、どうとでも打開できるぜ、うん。きっとできる。一号店は茅ヶ崎でしょ。メーカーは ……。砂の上の戦略図がどんどん大きくなって行く。砂浜を夢中で行ったり来たりする。ここで東京に進出、やっぱり青山だな。で、ここで海外 ……と。この時点で僕は何歳だ ?
歳手前か ?時間が足りないな ……。というより ……。目の下の壮大な妄想事業計画を見ながらつぶやいた。そもそもナツといくちゃんとしおちゃんが足りないじゃないか。僕一人じゃ無理じゃないか。しばらくの間、ボーっと突っ立って四月の空を見上げていた。ポーンと寄る辺のない青空に放り出されたような気がした。ものすごく怖い気持ちになった。くそっ。手の中の小枝を空に投げた。青い青い空に、小さな切れっ端が弧を描き、春の霞に吸い込まれて、消えた。
2016年 月。
「 周年のパーティどうします ?」といくちゃん。「ん ?あーそ
うだなー」「経費面から言えば時期的に IFFTとかぶりますけど」
としおちゃん。「だなー。今年はスルーして 周年で大きくやろうか。
で、ナツは ?」「どっかのデベだと思います。というか、どうしまし
た ?」「え、何 ?」「ボーっとしてますよ ?」「あ、いやいや、うん、
というかさ ……」「?」怪訝な顔をする魔法使いと僧侶。「ウチのパー
ティのレベル、今いくつ位かな」
あまたの敵を乗り越えて、僕らの旅は続く。僕があの時の青空の怖さを忘れなければ、今度こそあのラスボスも倒せるだろう。
お茶の葉が茶畑から運ばれてくると、すぐに蒸して発酵を防ぎます。収穫期の製茶工場は大忙し。夜どおしで操業を続けています。
源太窯向かいの「倉住星溪園」は、八女では珍しい碾茶(てんちゃ)工場をもち、お抹茶の生産も行っています。取材時は二番茶の収穫期で、お抹茶の原料となる碾茶を作る最中でした。
▲ 蒸気の加熱時間によってお茶の風味が大きく変わるそうです。
▼ 散茶機のなかで、お茶の葉が宙を舞っています。
お抹茶に欠かせない色や風味を守るため、碾茶には煎茶のような揉み工程はありません。蒸されたお茶の葉はネットで囲われた「散茶機」に送られると、風に舞いながら冷却され葉っぱが開いた状態になります。
レンガ製の乾燥炉はお茶の葉を約 200度 Cの高温で乾燥します。パリパリになった葉の茎や葉脈を取り除くと、抹茶の原料「碾茶」になります。この日に作っていたのは菓子などに使う加工用抹茶だそうです。
戦前に建てられた製茶工場。
倉住星溪園 3代目の倉住 努さんに、八女茶の特長を伺いました。八女の煎茶は苦味や渋みが少なく、甘みや旨味成分を高める工夫をしてきました。また寒暖差のある気候や、元々は川底だった水はけのいい土壌もお茶の栽培に適しているそうです。星野は特に玉露で知られ、質・量ともに最高レベルの評価を得てきました。昔ながらの手法を守った「伝統本玉露」は、茶畑の上の金属フレームに藁を掛け、側面にも藁をかぶせて真っ暗にします。光を求める葉が面積を広げ薄くなることで、カテキンがアミノ酸に変化して旨味成分を増すそうです。遮光期間を16日以上とり、遮光率 98%を保ったものだけが伝統本玉露「本星野」として認められています。伝統本玉露「本星野」は 40度 Cくらいのぬるま湯か水出しがおすすめとのこと。旨味や甘味がはっきりしていて、煎茶とは次元の異なる美味しさです。星野の地名を背負ったプライドを感じました。
18度 Cに管理された特別な部屋の中で、御影石の臼を使って抹茶が挽かれていました。抹茶に最適な温度を保ちながら挽くためには他の方法はなく、1時間に40〜50グラムしか出来ないそうです。
私たちは現場で起きている騒音や粉塵などもろもろの問題について、その都度、港区協働推進課への報告を欠かさなかった。特に担当者の 氏は住民の立場を考慮し、いつも親切で丁寧な対応をしてくださる稀な人物でした。やさしい T氏に相談すると少し気が晴れ、気分が紛れ、
T
次の方策が見いだせたように思う。役所という縦割り行政の仕組みには今でも辟易させられているし、どんな決めごとにも時間がかかってイラつ
T
くことばかりだが、住民側の話を引き上げ、的確なアド
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バイスをしてくれる人は本当に少ない。
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頼りにしていた 氏も昨年の春に移動してしまい、後
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任のつれない担当者たちとの格闘が今なお続いているのは言うまでもない。ジャイアントブレーカーの騒音だわ、粉は舞うわが続く日々の中、 氏は協働推進課が一台だけ保管する騒音計を片手に週一くらいの割合でお向かいの現場の様子を見まわっていてくれていたのだ。往々にして電話連絡だけで事を済まそうとする担当者がほとんどだ。事なかれ主義は役所の得意分野のよう。「何もしていない訳ではないですから」の言葉を何回聞かされたかしれないのである。
そういえば、役所の騒音計を貸し出してくれるのだとか。思い立ったら吉日。さっそく 氏に連絡をしてみたら OKがでた。港区の赤坂支所へ出向き、手続きを終えたかすみ。役所の騒音データと東注建設の騒音データを照らし合わせて見なくちゃである。そのお陰だろうか。規制数値となっている db、 dbの騒音レベルを感覚的に理解できるようになりました。