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6月号 涼暮れ月 2016
http://collaj.jp/
時空を超える美意識
麗しき 高麗郡千三百年
▼観光名所の案内表記にはハングル文字が併記されていました。
高麗駅近くの「高麗石器時代住居跡」に向かいました。昭和 4年に埼玉県で初めて発掘された縄文中期の竪穴式住居で、周辺からも旧石器時代から縄文晩期にかけての遺跡が見つかっています。
律令国家と「高麗建郡」
美しい農園風景の基礎を築いたのは、617年に入植した高句麗の渡来人たちでした。それから1300年。高麗一帯では「高麗建郡1300年」を記念したイベントが開かれています。
6世紀初め頃の朝鮮半島。
石器時代住居跡から「巾着田」へ。巾着田から日和山への道程は、
農園風景の続く人気のハイキングコースです。上は江戸時代の「台の高札場」跡。キリシタン禁令のお触れが掲げられていました。
日高市内で蛇行を繰り返す「高麗川」は、水害の多い川であると共に水田の開発に欠かせない水をもたらしてきました。下は干ばつや水害を鎮めるため天保(1800年代)に建立された「水天の碑」。
第 26 回 「東京おのぼりさん御一行ツアー」 内田 和子
つれづれなるままに柴又の寅さん
久しぶりのおのぼりさんツアー、今回はご存知、葛飾柴又。
映画の世界では何度も見ている「柴又駅」が集合場所である。
初めての駅だが、どこか懐かしい。こじんまりした小さな駅舎は、地元の方と観光客とが上手に溶け合っている。
平日の朝 10時、慌ただしい時間帯だが、下町の人の良さが感じられる、のどかさもある。駅前には寅さん像が出迎えている。映画より少し男前で、渋い感じがして、「寅さん」と気軽に声がかけられなかったが、柴又を後に上野に向かうところかもしれない。と、映画のシーンを思い出し、小さな声で「寅さん」と呼んでみた。
気がつくと、何人かの人が写真を撮っている。グループや年配ご夫婦、リュックを担いだ一人旅姿もある。皆、楽しそうな笑顔で、寅さんに話しかけている。
少し年配のご夫妻、カメラを向けているがうまく収まらないようで、何度かシャッターを押している。最近はスマホで自分をとる人も多いので、声をかけることもなくなったが、「撮りましょう。」と寅さんを真ん中に、にこやかなお二人をカメラに納めた。
「やっと来られたの。お父さんよかったね」と、たいそう喜ばれた。
柴又を走る京成金町線は単線で、上りと下りが柴又駅で交差するそうだが、千葉からくるメンバーと東京からのメンバーが両ホームの端から手を振り、すぐに御一行様とわかる。駅前の寅さんの顔は追いかけてくるさくらの方を振り返って、斜め左を向いている。どこを正面にするか難しいところだが、とにかく寅さんと一緒の全員集合を撮った。
それから帝釈天の参道を行く。草団子やせんべいのお店もある。短い通りだが、おのぼりさんにはたまらない。物珍しさとミーハー気分で、一軒一軒覗いてみる。草団子はよもぎがいっぱいで、あんこたっぷりである。
すぐにでも食べたいのを我慢して、土産用に注文する。一人で何箱も注文するので、番号札をもらって帰りに受け取る仕組みになっている。日持ちはしないからご近所に配
つれづれなるままに柴又の寅さん
る分だけと思いながら、食べるのが楽しみなお土産ゲットに、みな満面の笑顔である。
突き当たりの帝釈天で終わりかと思いきや、これから寅さん記念館を見学するという。細い道を5〜6分ほど行ったところに、寅さん記念館と山田洋次ミュージアムがある。顔パスにはならなかったが、入場料は高齢者優遇の400円である。親切な案内の方がそこかしこにいて、戸惑うおのぼりさんに声をかけてくれる。この記念館は実に面白い。寅さんの生い立ちを、さくら役・倍賞千恵子ナレ
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ーションの動く紙芝居で説明してくれる。二人の幼少期、戦争に突き進む当時の新聞が壁一面に貼ってある。家出をして寅さんが 年ぶりに柴又に帰ってきてから 作。山田洋次監督の他の作品も紹介されていたが、声高ではなく、人のささやかな日常を描くことで戦争への憎しみを伝えているのではないかと感じた。改めて、山田洋次監督の作品を見てみようと思う。
記念館には「くるまや」のセットがあり、店さき、台所や居間、2階20にあがる階段がそのままに、さらに隣のタコ社長の朝日印刷所も描かれ、映画の中の役者になった気分である。寅さん姿があちこちにあるので、大きな声で「寅さん」と呼んで、肩を叩いた。昔の駅舎や帝釈天参道の街並みがミニチアで作られ、寅さんが乗った汽車も再現され、旅気分を誘う。最後のコーナは、映画のシーンやマドンナ役の女優さんが大写しで貼ってある。みんな若くて美しい。
十分楽しんで、これで終わりと外に出て驚いた。本物の土手が目
の前に広がっている、遠くに矢切りの渡しが見える。ちあきなおみ
の「矢切の渡し」を思わず口ずさむ。この緑一面に広がる土手の風を、
寅さんと一緒に受けているような気がして、なんだかとても嬉しく
なった。
ビール付きうなぎを平らげ、あんみつを食べ、草団子と佃煮を買い、
お上りさん御一行ツアー「柴又寅さんの旅」は終了した。
まだまだ東京には面白いところがいっぱいありそうだ。このツアーに参加するためにみんな足腰鍛えている。会うたびに元気になっていくのは何より嬉しいことだ。次回は迎賓館赤坂離宮、ちょとマダム風に気取ってみるのもいいかと ……楽しみである。
5月13.日のプレビューでは、面出 薫さんと原研哉さん、五十嵐太郎さんによるトークイベントが開かれました。会期中には、陣内秀信さんや石山友美さんなど多彩なゲストが登壇しました。
2015年 8月からベルリン、シンガポール、香港の 3都市をめぐった、照明デザイナー面出薫さんと LPA(L ightingPlanners Associates)による光の巡回展『 Nightscape 2050 . 未来の街 . 光 . 人 』。その締めくくりとなる東京展が、2016年5月14日.6月10日まで月島のTEMPORARY CONTEMPORARYで開催されました。
「子どもたちに学ぶ」のコーナー。東京、ベルリン、シンガポール、香港の少年・少女達が、夜の街にでて照明を観察するワークショップが開かれました。街の「光」を英雄と犯罪者にみたててランキングしたボードから、少年少女の感じる「光の功罪」の姿が浮かびあがってきました。明るい光を好むケースが意外と多いようにみえました。迫力ある映像に包まれた「ライティングパビリオン」。国際都市の夜景や自然の光、2050年への照明提案といったテーマで、映像がテンポよく展開していく人気コーナーでした。
太陽光、火、月あかり。LPAの照明デザインは、自然光のおりなす巧みな陰影の技に近づく所作といいます。
光源や照明器具といった物体が無くなるかもしれない 2050年。そのとき空間は、どのような光に包まれるのでしょうか。
▲災害時の照明。広告塔を非常照明としたり、ビルの上に蓄電式照明(ムーンライト)を設置するなど様々なアイデアがだされました。
「LPAプロポーザル」のコーナーでは、照明で時の変化を演出したコンビニや未来の東京像、地下空間の活用、災害時の照明など、LPAによる2050年を見据えた挑戦的な照明提案が行われました。
「東京は光の万華鏡になる」
小泉 誠 展 &JAWA工房
工房楽記
鈴木 惠三(BC工房 主人)
5月
日「小泉誠展」が、
ふじのリビングアートギャラリーでオープンした。
展示の中「こいずみの素」が好きだ。「デザインの発想の素」を、ハッキリさせる勇気。
とても大切だ。
小泉誠の人柄の良さだ。「ふじの」遠いが、近い。「なーンだ、たったの 1時間か。」
ほんとに緑いっぱいの別世界だ。そして、温泉に入っていってもらいたい。温泉と言えば、「タケオとジョージ」だ。 3人、温泉での会話が楽しい。先日もミラノ・サローネの報告に来てくれた。温泉でミラノの話。「テルマエロマエ」の気分です。今年のミラノも苦戦している様子を聞くと、 40年前、
年前、
年前を思い出す。
ミラノは「いつも浮かれているようで、苦戦をしていた。」=あがいていた。必死で家具ビジネス、デザインビジネスをやっていた。見学気分の日本人なんて相手にしてない。ホントのビジネス・パートナーとの出逢いを求めていた。ミラノ・デザインだからいいんじゃなくて、これから輝くだろう「デザインの眼、デザインの心、モノの真理」の発見を求めていた。オイラはいつも、サローネ会場は午前中だけ。
限定生産された「おむすびスツール」2色張り仕様。
午後は街中を歩いて、いろんなイベントをのぞくのが良かった。未熟であり、中途半端なイベントの中に、
「時代のニオイ」を感じさせてもらった。「タケオとジョージ」のミラノ談義の後は、 JAWA工房へ。「ボケっと考える日々」「現場で考え、現場で作る日々」
JAWAの工房暮らしはオイラの命。
「ふじの工房」と「 JAWA工房」で鍛えられ、救われている。
OLD & NEWこのごろ古いクラシックチェアを探して、
学ばせてもらっている。
日本人にとって、クラシックチェアは理解を超えた異次元だ。
1500年頃の「明の時代の椅子」に、
ウェグナーさんが刺激を受けたように、
1800年代の「ヨーロッパの椅子」に刺激を受ける。
かつて 年前は、プリミティブな椅子に刺激を受けていた。
刺戟を受けるのは快感。
時代を超えて、地域を超えて、刺戟しあう。
小泉誠展で、感じる何かとは ?
「地味のあるデザイン」の地味というコトバ。
地域の味。
地域の文化の味。
地域の人の味。
地域の素材の味。
今、ジャワの工房でボケっとしながら、「地味」というコトバの深さを感じている。
小泉 誠
地味のあるデザイン展
BC工房「ふじのリビングアートギャラリー」
2016年 5月20日.7月18日
木・金・土・日・祝オープン朝 11時頃〜夕方 6時頃まで 相模原市緑区牧野 4707 TEL.042-689-3755JR中央本線藤野駅から「やまなみ温泉行き」
「奥牧野行き」バス利用賽の神(さいのかみ)バス停下車
※バスの本数が少ないので事前にご確認を
mageita stool日本クラフト大賞受賞
蒐集した古道具からデザインのルーツを紐解く「こいずみの素」コーナー。
◎ 特別企画 こいずみの話7月 2日(土) 13 :30〜「星亀ワークショップ 16年ぶりのデザイン談義」場 所:BC工房「ふじのリビングアートギャラリー」出 演:小泉 誠・鈴木惠三・中野照子ゲスト:南雲勝志・村澤一晃・星野勇・内田みえ・長町美和子第一部 13:30〜 14:30 こいずみの素ギャラリートーク
第二部 15:00〜 16:30 1999年の星亀ワークショップの話懇親会 16:30〜 18:00 地味のあるバーベキューの夕べ
※ 藤野駅 12時 14分発「やまなみ温泉行」バスが便利です
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外の何ものでもないと思います。ベルリンの壁が崩壊した 1989年から東西ドイツ統一の 1991年の間にそれこそ、東西統一のどさくさに紛れて西ベルリンで会社を設立したのが 1990年。ベルリンのテンペルホフ空港に隣接する古臭い建物の 1階フロアを借りてスタートして 年が経過してしまったのです。
その 2年後にベルリンの会社と並行して日本法人を設立したのが 1992年、それからの数年間は倒産の危機の連続で、毎日毎日、道端にお金が落ちていないか本気で探したり、保険を掛けて電車に飛び込む覚悟を決めろ!と母から本気で言われて加入したものの、その毎月の保険が支払えずに電車に飛び込むこともできず。会社が潰れたら、それ以上の地獄が待っていることだけは想像できたからこそ、会社を潰さない術とは何かを常に考え続け、生き延びてゆくことに繋がったとしか言えないのです。そんな危機に起こった沢山の奇跡的な出来事や舞い込んで来た仕事によって生き延びたと、今も信じられない思いなのです。
資金繰りの度に半分はデタラメな事業計画書を徹夜して書いては、そ
の計画を信じてくれて、無担保でご融資くださった信用金庫の担当者の
顔を思いながら、そんな僕の空想の事業計画書を信じて融資して下さっ
た方々は今に思えば、女神だったとさえ思えるのです。
会社や事業を自分達で起こして続けて行くのは。楽しいことよりも臭くて深い泥沼の中を這いながら進むようなもので、とても希望や夢に溢れた明るいものでは無く、道端を見つめながら、最後は善悪の境界を見失うこともあるくらい、暗くて、厳しくて、苦しくて、暗中模索で。でも辞めたら終わりで、地獄には落ちたく無い、諦めたく無い気持ちだけで生き伸びてきたように思えます。今日を生きてゆくお金が無いし、ど
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ドラゴンシリーズ
ドラゴンへの道編
モコモコ
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当社の社員には申し訳ないと思いながら、正直なところ会社がよく
年間も潰れずに続いてきたものだと思います。僕自身は正直に奇跡以
吉田龍太郎( TIME & STYLE )
うなるかが全く見えない日々が真実でした。
もう 10年以上前になりますが、まだ、お店が自由が丘にあった頃にお付き合いしていた銀行に赴任された新任の支店長に、 3月末の決算見込の書類を持参してご挨拶に伺った時「モコモコ事件」が起こりました。
失礼にも僕はダンガリーシャツにジーンズ、その上にダウンジャケットを羽織った普段着のままの姿でした。その支店長は僕と同世代で、名刺交換が終わると直ぐに僕のダンガリーシャツを見て、「その山登りのシャツ、レトロですね〜。」「今時そんなの売ってるんですね〜。」「着てるの見たのは学生の頃以来ですね〜。」と言い放ったのです。僕は微笑みながら、「ええ、そうです。」なんて言うような言葉を返したのですが、間髪入れずに、10「そのモコモコ、着てる人見たのは 年ぶりくらいですよ〜。」「今でも着てる人、いるんですね〜。」ニコニコと笑顔で僕のダウンジャケットを見て言い放ったのでした。その後に僕が起こした事件を言葉にすることはできません。
話は変わりますが、 1999年、 年前に都庁と銀行に提出する為に作文した空想物語の事業計画書が昔の書類箱から出てきました。そこには、空想で実現不可能な 年間の夢物語が詳細な内容まで書かれていました。それからの 年間の事業推移を見て驚いたことは、その空想物語のほとんどがそのまま実現していたことです。銀行から融資を引き出すために、その場しのぎで書いた空想物語が実現していたのです。それから想像することや空想すること、夢を見ることの意味がなんとなく理解できるようになりました。頭で想像できることは実現できることなのです。
モコモコ支店長は 3年後にはとっても素敵な大人となって、転勤時に
はわざわざ当社まで丁寧にご挨拶にいらしたことは、信頼関係の証とし
てお伝えしておきます。数年来モコモコが流行っていたので僕も安心し
て着れるはずですが、なぜかそれ以来トラウマとなってしまいました。
あの支店長、どうしてるかな〜。どこの銀行の支店長も 2〜3年で必ず
交代になるので、仲良くなって、これからという時に変わってしまい、
いつも残念でなりません。これまで続けてこれたのも支店長や担当者が
僕らの仕事や空想物語の事業計画書を信じてくれたからなのです。
感謝と謙虚な気持ちをいつまでも忘れないように、生きて行かなくてはと思います。
2016年6月1日.3日まで、東京ビッグサイト西ホール+アトリウムで開催された「 Interior Lifestyle Tokyo」。トラフ建築設計事務所がデザインしたアトリウムの特別企画は、展示テーマとなった「伝えたくなるデザイン」の言葉どおり、さまざまなジャンルの出展者と来場者の出会いの場となり、多彩なワークショップが開かれました。
アトリウムに出展した「KAMILAVKA(カミラフカ)」は日本を代表する帽子デザイナー平田暁夫さんに 7年間師事した古澤正和さんのブランド。平田さんのスパットリー(木材を織り上げた材料)を使った自由なフォルムづくりを継承し、ユニークな帽子を次々と生み出しています。カミラフカとは正教会の司祭の帽子のことで、それをモチーフにしたデザインが古澤さんの代表作だそうです。▼ 「BRILLIANT!」には16組のブランドが集合し大人気でした。
須田淳一郎さん、理砂さんの「KINARIYA(キナリヤ)」は、レーザーカットした木材パネルなどに布地を貼ったハンドメイドのアクセサリーブランドです。元々アパレル業界で活躍した夫妻は、仮縫に使われる「シーチング」という生成り生地にひかれ「その魅力を広く知ってほしい」という想いからアクセサリーづくりを始めたといいます。▲ 1本1本のパイルは単色ですが、絵画のような微細な色表現が可能です。第4回ものづくり日本大賞を受賞しました。
今治のタオルメーカー藤高(創業 1919年)は、フルカラーのジャカード織りタオルを実現した特許 「糸五彩織り」を展示。赤・青・黄・白・黒という5色の先染め糸を使い、画像データや図案データをデジタル変換してジャカードのパイル織物で再現できる世界初の技術です。ジェットプリントに比べ色に深みがあり落ちにくく、裏面にも図柄がでます(色は反転します)。織り幅は190cmまで可能で、タペストリーなどにも応用できます。▲ 和紙や竹ヒゴから作られた「Tourou」のプロトタイプ。6月22日(水).26日(日)の「ASAHIKAWA DESIGN WEEK」では旭川市のファクトリーにて新作家具が発表されます。
JAPAN STYLEに出展したTIME & STYLEは、新作の照明器具やカフェテーブル「BLUE IN GREEN」を展示。照明器具「bisque」は、細い金口を整形する卓越したへら絞りで作られます。その出来栄えを見に、職人の.橋さんがやって来ました。このフォルムを生み出すため、金型はもちろん専用のへらも作ったそうです。
▲ 本藍で手染めされたプレミアムな「もんぺ」(右 2点)。
▼ 海外バイヤー向けのツアーが開かれ、各ブースを巡りました。
福岡県八女市の「うなぎの寝床」は、八女の古い町家を再生したアンテナショップで、伝統の久留米絣を使った「もんぺ」を展示し注目を集めていました。「八女周辺には古い街並みや沢山の伝統産業が残っています。モノや情報を通して八女の伝統工芸を全国に発信したい」と代表の白水高広さん。地域固有の魅力を伝えるため車で日帰りできる範囲で仕入れを行っているそうです。6月30日まで、渋谷ロフトにて「もんぺ博覧会」を開催中です。
▲ JAPAN STYLEのワークショップで行灯づくりを見せる小藤さん。
▼ 「シマネ Rプロダクト」が共同で手がけた AEONモール出雲店。
石州和紙や出雲鍛造、磁器、挽物ろくろ、組子細工など、島根の若手職人によって結成された「シマネ Rプロダクト」。メンバーのひとり「鍛造工房 弘光」の小藤宗相さんは、天保年間から続く刀鍛冶の技術をついだ職人です。たたらで知られる出雲は和鉄の産地であるとともに鍛冶も盛んでした。小藤さんはいま、刀鍛冶の技術を活かした手燭や灯台や行灯、花器などを制作し、技術の火を後世につなげていきたいといいます。
JAPAN STYLEでは熊本地震で甚大な被害をうけた「益城町」への義援金活動が行われました。初日のパーティでは、ディレクターの吉田龍太郎さん(TIME & STYLE)、渡邊真典さん(YOnoBI)から「被災地が本来のライフスタイルを取り戻すため出来ることをしよう」という呼びかけが行われ多くの方からの厚意が集まりました。
麗しき高麗郡千三百年 後編 「巾着田」
古民家
高札場
石器時代住居跡 巾着田
高麗駅 高麗川 高麗川の蛇行により直径約 500mの巾着袋のような形をした田園は「巾着(きんちゃく)田」と呼ばれ、川の氾濫により泥や栄養素が運ばれたと思われます。今は市民の憩いの場所として、秋には数百万本ともいわれる曼珠沙華に彩られ沢山の行楽客が訪れます。
昭和 30年代の日和田山と巾着田(撮影:大澤米司氏)。巾着
田に立つ「万葉歌碑」には、高麗錦の歌が刻まれています。高句
麗国から伝わった華麗な絹織物です。
高麗錦 紐解き放けて 寝るが上に 何ど為ろとかも あやに愛しき
巻14-3465 作者未詳。相聞歌。
高麗錦 紐を解き放って 共寝をしているのに この上どうしろというのか 無性に可愛いことよ
「高麗郷古民家(旧新井家住宅)」
巾着田から、石垣の上に建つ寺院のような建物が見えます。棟反りの屋根をもつ主屋をはじめ、客殿や土蔵、納屋が並ぶ「旧新井家住宅」は、国の有形文化財に登録された古民家です。
石積みは、お台場の築造にも参加した飯能の石工「八徳の三吉」によるものといわれています。
土間は日常的な接客や農作業に使われました。囲炉裏端が付き出しているのが特徴です。
旧新井家住宅は、平成 20年度に日高市が取得し、全面的な改修工事を行ったのち平成 25年から一般公開を開始しました。それ以前は新井家の方がひとりで家を守っていたそうで。そこはかとない生活感が残っています。
高麗は木材の集積地だけあって、床や建具には幅の広い材が使われています。土間の囲炉裏は、客がワラジのまま火にあたれるよう工夫しています。この奥は家族の茶の間です。
連休中、向かいの現場に地下水が
しまったのは何故か。実はその原因は明快にありました。官舎の庭や周りで美しい姿を見せてくれたあのイチョウの木や春、最後の花を咲かせ伐られてしまったサクラの木々からこぼれ落ちた無念の涙だったのです。
この辺りが住宅地になる前は農地だったそうで、渋谷川の支流から用水を引いた跡があるとのこと。今でもちょう
どお向かいと
N
邸との境目あたりの地下を通りこちらの
マンションをくぐり抜け、少し下った根津美術館へと渡る水脈が存在しています。当然のことながら水のそばに命は宿りました。開発と工事の名をかざし、せっかく育った命が絶たれてよいはずありません。「これはバチが当たったのだ、天罰だ」プール状態と化した現場を眺め、ケン太とかすみが呟いたのでした。
50
cm以上溜まって
主屋の「おく」の間には金箔のフスマが使われ、床の間とのコントラストがモダンです。庭石にも独特のセンスを感じます。
幹周り495cmのシラカシの巨木。その根本に井戸があります。
主屋の奥に「客殿」が見えます。向唐破風の屋根が特徴で、式台を設けた玄関がある2階建ての建物です。明治 39年に建てられました。
建郡1300年記念のTシャツには日高市のキャラクター「くりっかー&くりっぴー」と将軍標が描かれています。下は客殿の客間。
改修工事の際に客殿の唐破風をアク洗いしたところ、真ん中にツル、右側にワニの図柄が浮かび上がりました。彫刻ではなく、自然な杢目の柄だそうです。職人の遊び心でしょうか。
多方面で見直されつつある木の魅力。それを末永く活かすためには木材塗装が欠かせません。でも、自然の産物だけに失敗が多いことも事実。木材の性質を知り、それに合わせた塗装方法を伝授する木材塗装の実践講座が開催されました。
▲ 6月2日、東京都立産業技術研究センター本部(テレコムセンター駅前)で開催された「第 28回木材塗装基礎講座」。家具業界や住宅関連業界からも沢山の方が参加され盛況でした。
木材塗装の実演をスクリーンに映し、刷毛塗りから拭きとりまでの工程を塗装しながら解説しました。
長澤さんが強調したのは、広葉樹の「散孔材」と「環孔材」の違いでした。散孔材はメープルやカバ、ブナ、マホガニーなど導管が小さく平均的に分散している樹種です。一方「環孔材」はナラやタモ、クリ、ケヤキなど導管が大きく環状に集中した樹種です。特に「散孔材」は塗装の選択を間違えるとムラが出やすく、クレームの原因になりやすいそうです。大谷塗料の小泉ー胤さんは、公共建築の木材利用促進などにより注目の高まる「屋外木部」の塗装について解説しました。大きく分けて「含浸形」と「造膜形」の屋外用塗料があり、保護機能やメンテナンス性、劣化した際の表情が異なります。参加者からは「木製サッシの退色を防ぐ方法はあるか」など、活発な質問が寄せられました。
東京都立産業技術研究センター表面技術グループの村井まどかさんの講座は、木材塗装で発生する塗膜のトラブルと防止法でした。最近はリフォームのトラブルが増えています。木部を塗り重ねる時は元々の塗料の種類を調べておかないと、シワが出るなど欠陥の原因になるそうです。また白化や目やせなど、長期間経ってから発生する欠陥もあります。
▲ 「照明実験室」の光断層画像撮影システム。
▼ 同センターの図書館。技術系の専門誌が充実。
講座の締めくくりは、東京都立産業技術研究センターの見学会です。「住環境研究室」では木製家具の強度試験が行われていました。椅子に一定の力を繰り返し与え、耐久性を確認する試験です。「照明実験室」では近赤外線を利用した光断層画像撮影システムで塗膜の断面を見せてくれました。対象物を傷つけずに断面を見られるのが特徴です。同センターはこうした設備によって中小企業の製品開発を支援しています。木材塗装基礎講座は来年も開かれる予定で、日程はコラージでもお知らせします。
竹林を抜けてから高麗川を渡り、約 2km離れた高麗神社へ。
高麗神社へ向かう「かわせみロード」では、多くの石仏に出会えます。
道を歩いていると、幅数 mの小さな河川をよく見かけます。高麗郡の開拓はこうした河川に添って進められたと考えられています。縄文晩期から数千年も人の手が入らなかった原生林の開拓は、苦難の連続であったと思われます。
青面金剛(1808年)
Vol.8
僕らのリズム
グレープフルーツ
ムーン
マンションを出ると小雨がぱらついていた。少し迷ったけど、パーカ
ーのフードをかぶって自転車をこぎだす。朝 7時。車のいない日曜日の
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外苑西通り。携帯にイヤホンをさしてトムウェイツでも聴こうと思ったけど、やめた。仕事のパートナーに散々止められているからだ。何かあったらどうするんですか?もうあなたは 1人の体じゃないんだから。
油の切れたチェーンがチャリチャリと鳴っている。アジサイがあちこちに青と紫のグラデーションを見せている。丘の上。青山墓地が霧に煙っている。墓地の敷地内にある、あの大きな木を思い出す。幹が盛大にねじ曲がった桜の木。ねじ曲がりながらよくあれだけ大きくなったものだ。仕事に煮詰まると 1人でその木の下のベンチに座って考え事をしたものだ。そういえばここのところあそこにはずっと行っていない。
青山通りを横切る。すぐに店に着く。 年以上も毎日通っている路面店。鍵を開ける。セキュリティを解除する。暗くひんやりした店内。湿度が高いからほんのりと木の香りがする。コツコツと自分の足音が聞こえる。自分のデスクの手前で振り向いた。開店前の暗がり。その向こうから笑い声が聞こえてきたような気がした。遠い昔の僕らの笑い声。この店を構えた頃はまるで夢の中にいるような毎日だった。
電気をつけずに展示フロアに回った。たくさんの家具が並んでいる。
その全部が思い出深い。手で1つ1つの家具をコツコツと叩いて歩く。
最後にショーウインドウのソファに座る。外の雨をボーッと見つめる。
少しして自分のデスクに戻る。デスクの上にはたくさんの数字がいる。
いつものようにそれぞれの紙に指示を書こうとしてペンを置いた。何度
かそれを繰り返す。
晴れた日曜日の朝はいつもさ、今日はどういう人が来るんだろうって思うよ。どんな人とどんな話ができるかな、売れるかな、売れなかった
野田 豪 (AREA )
らやだな、まあなんでもいいから最高の接客をしよう!とかってさ、開
店準備しながらウキウキするんだよ。なあ、例えば
想の未来はさ …。そんな駆け出しの頃の自分の言葉が聞こえてくる。時が経ち、あの時の夢は現実となった。理想通りにはならなかったけど。理想を曲げたりまた戻したりしながら、あの桜の木のように、僕らもまたねじれるように大きくなった。そのねじれはうねる筋肉となり、今、僕らを覆っている。そして、いつの間にか、僕がお店で接客することはなくなっていた。
またソファに座ってぼんやりしている。もうしばらくすると若い子たちがどやどや入ってきていつもの日常が始まる。今日もお店が始まる。
携帯のスピーカーからトムウェイツが流れている。グレープフルーツみたいな月を見ると僕はたまらず木に登っちまうんだ。と、トムが歌っている。
ふと気づくと雨が止んでいた。このまま今日は晴れるのだろう。
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年後のこの店の理
「高麗山 聖天院(しょうでんいん)勝楽寺」
高麗神社の手前にたつ「聖天院」は、移民した高句麗人を率いた貴族「高麗王 若光(こまのこきし じゃっこう)」の菩提寺として有名で、山門の右横には若光の霊廟が残されています。
山門の左右では風神・雷神像がにらみを効かせます。
山門横の「高麗王廟」には、若光の霊を弔った多重塔が安置されています。聖天院は勝楽上人により751年に創建され、本尊に高句麗から携えてきた「歓喜天(聖天)」を安置したところから「聖天院」と呼ばれました。
本堂の脇を上がっていくと「在日韓国民族無縁仏慰霊塔」が立っています。第二次世界大戦で亡くなった方々を祀っているそうで、八角亭とともに本堂と同時期に建設されました。
慰霊塔の上には伝説的な古朝鮮の王「檀君王倹」が鎮座しています。
第59回食文化ヒストリアン
コナン・ドイル、大作家の鬱屈大原千晴英国骨董おおはら
仕事で大成功して、お金と名声を手に入れる。これぞ人生究極の
幸せ。夢ですよね、誰にとっても。今から百年前、その夢を世界相手に実現した一人の男あり。名探偵シャーロック・ホームズ物語の原作者、コナン・ドイル(1859〜1930)です。その作品は世界中で爆発的に売れ続け、原稿料は駆け出し作家の百倍という破格の高額。夢の大作家人生で幸せの絶頂! かと思いきや、そうじゃなかったんですね、これが。ご本人にとっては、探偵物語シリーズの大成功は、必ずしも嬉しいことではなかった。「ホームズもの」が売れれば売れるほど、名探偵の生みの親としての名声は、ますます高まっていく。そうなればなるほど、コナン・ドイルの心の奥底には、不満が鬱積していきました。しかし、なぜ? 理由は簡単。コナン・ドイルにとって探偵物語は、いわば身過ぎ世過ぎのための作品であって、「作家生命を賭して書き上げた作品」ではなかったからです。「ホームズ・シリーズは我が代表作に非ず!」ドイルは晩年に至るまで何度もそう明言しています。その言葉は、大作家が心の奥底から絞り出す悲痛な叫びです。なぜ、読者も批評家も理解してくれないのか ……。
では、彼自身にとっての代表作とは、何だったのか。そ
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れは、騎士道精神を貫く中世の勇敢な騎士たちの活躍を描いた歴史物語です。中でも有名なのが
『白衣の騎士団』(1891)と『ナイジェル卿の冒険』(1905〜
)の二作品。特に前者は、既に探偵物語で売れっ子街道を掛け登り始めていたドイルが、他の仕事を一切断ってこれ一筋に専念し、二年間を掛けて調査を尽くし、心血を注いで完成させた入魂の一作
星たち
です。この作品、発表当時は、そこそこ売れています。が、その評価は決して好ましいものばかりではなかった。「歴史的な瑣末が過ぎて、物語としての面白さがイマイチ」そんな評も少なくなかった。
「これ以上は出来ない」というほどの努力を傾けて書き上げたのに、
「一刻も早く探偵物語の再開を」なんて声があちこちから聞こえて
くる。がっくり来たようです。ドイルは現代の作家と比べてもかな
りの早書きで、探偵物語の短編一篇を完成させるに、一週間から十
日もあれば十分だった。原稿は全て手書き。早書きにも関わらず、
殴り書きではなく、我々でも楽に読めるほど、端正な文字で原稿は
綴られています。それにしても、短期間でサラサラと書き上げたお
手軽物語のほうが、二年間心血を注いで仕上げた作品よりも遥かに
ら上卓きの
広く受け入れられ、評価され、お金を稼ぐ。「なら、ホームズ物ひと筋でいいじゃん」とはならないのが、コナン・ドイルという男の凄いところです。「探偵もの作家としてではなく、歴史物語作家として名を残したい」終生その思いが変わることはありませんでした。
社会的な大成功が、必ずしも心の満足をもたらさない。はたから見れば「幸せそのもの」と見えるのに、ご本人の内側には、重苦しい心の葛藤が渦巻いている。それどころか、時とともに焦燥感と虚しさが募っていく。こういうことって、あるんですね。
例えば映画俳優のショーン・コネリー。世界中で007の代名詞という存在になった絶頂期に、この役を以後は引き受けないという重い決断を実行に移します。その結果、より深みのある演技で、役者としては一回りも二回りも大きな存在になっていく。そういえば、コネリーもドイルと同じくスコットランド人で、先年国民投票で惜しくも敗れた「スコットランド独立運動」の有力な活動家のひとりです。心の奥底に、金や虚名を求める気持ちを遥かに越える「熱い理想」が、ある。その理想に近づくためには、「恵まれた現状」に安住しない。たとえ失うものが大きくとも、安穏とした現状を一端断ち切って、高みを求めて新たな道へと進んでいく。
では、ドイルにとって、なぜ「中世の騎士物語」の世界が、それほどまでに大切だったのか。それは、ドイルがまだ小さな子供の頃から、母メアリーが語って聞かせる騎士物語を、胸をワクワクさせながら耳にして育っているからです。小学生時代には、スコットランドを代表する作家ウォルター・ローリーの『アイヴァンホー』のような作品を次々と図書館で借りて読みふけることになる。自分でもそんなお話を綴ってみる。ドイルにとって、全ての物語の原点は、貧しく惨めな家庭環境の下で、勇気あふれる騎士たちの活躍ぶりを語り続けてくれた母親の熱い言葉にあるのです。ドイルは生涯で三千五百通にものぼる手紙を母親に送り続けています。その約半数を集めた本がペンギンブックスから出版されていて、これを読むと、その母親思いぶりに驚かされます。兄弟姉妹への思いも深い。というのも、ドイルの子供時代、父親が重度のアルコール依存症で、一家はひたすらミドルクラスから落ちぶれていくという惨めな状況だったのです。これを母親が孤軍奮闘、なんとか支え続けていた。その母親に報いたい、一日でも早く医師として身を立てて一家を支える手助けをしたい。そんな強い思いで、金銭的にかなりの苦労を重ねながら、猛勉強して医師となる。やがて、その医師という安定した地位を捨てて、専業作家として道を切り拓いていくことで、世界的な大作家となっていきます。その原点は、母の語った物語にあり。シャーロック・ホームズの物語の中にも、同じ原点から発する騎士物語的な要素が散りばめられています。
▲ 休日ということもあり、お宮参りに訪れる家族も見かけました。
▼太宰治や幸田露伴をはじめ多くの作家や歴代首相が訪れています。
聖天院から徒歩約5分。高麗王若光を御祭神とする「高麗神社」。約1300年前、高麗郡で亡くなった若光を祀るため創建され、現在まで 60代にわたり御祭神の子孫・高麗家が神職を務める全国でも珍しい神社です。
本殿は伊東忠太による設計です。
本殿の脇に建つ「高麗家住宅」は代々の神職が暮らした住居です(国の重要文化財)。茅葺屋根の入母屋造りで17世紀に建てられたと推定されています。建物の大きさは桁行七間半、梁間五間。間取りは、土間と5つの部屋で構成されています。旧新井家と同様に土間には囲炉裏端が張り出しています。