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時空を超える美意識
2月号 梅見月 2016
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コラ〜ジ版
奥の細道
Copyright . 2015 Shiong All rights reserved
夏の日の夢小泉八雲
工房楽記冬のタケオとジョージ
鈴木 惠三(BC工房 主人)
「ふじの」の工房には、 . cmの積雪があった。オイラの工房暮らしは、寒さがいちばん堪える。なんとかマキストーヴと温泉のおかげで超えられる。
先週タケオとジョージが、この寒さを心配してくれて訪ねてくれた。いつもながら、突然に。いつもながら、ありがたく。やまなみ温泉での家具談義と、
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マキストーヴを囲んでの鍋談義。
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ひとり暮らしが心配だから、「そろそろ、のちぞえを。」などと、とんでもないコトバ。ひとりの勝手気ママな生き方こそ、オイラらしいと思っている。お気楽こそオイラの命。これ以上、ヒト様を巻き込んで迷惑はかけたくない。気楽に気ママには、ひとりに限る。今、ひとりで困るのは、「お宿」。泊まりたい時に泊まりたい部屋は、
「おひとり様、おことわり」。お宿の改装の相談があるたびに、
「ひとり部屋」の提案をするのだが、却下される。団体 人部屋の時代、大家族 6人部屋の時代、そして小家族 3人. 4人部屋、カップル 2人部屋へ。やっと 2人まで来てくれたが、 1人はまだまだ。世界中どこのホテルだって 1人も 2人も同じ料金なのに …?お宿もまあ、そのうちに「おもしろいひとり部屋」の時代が来るでしょう。
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ところで、オイラの今、いちばんの興味は
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《ジョージのデザインプロデュースの仕事だ。》
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ジョージは私の知るかぎり、イタリア、ドイツ、デンマーク、そして日本のメーカー、家具 SHOP、そして展示会を見続けている No1だと思う。
年、毎年ミラノ・サローネを訪ねているのはジョージだけでは ?オイラも 年前ぐらいから、各地の展示会めぐりをしていた。
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産地展のプロデュースもやっていた。
その折、必ず見かけたのがジョージだった。
「どこでも逢う、あの男は何者だ ?」会話をするようになって、ますます驚かされた。K家具オタク No1だ。日本の家具界の黒幕ジョージが、
歳にして初めてのデザインプロデュ
ースをしたのだ。
それも、デザイナーが 氏。
オイラも昔から好きなひとりだ。
チカラのあるプロデューサーと
デザイナー、
人合わせて 120歳以上のベテラン
だ。
人が生み出したソファ 1号、 号に驚かされてしまった。
・
気負いのない、ちょっと控えめなモダン ?
・
年代の高浜和秀さんを思い出させるイタリアン・モダン ?
・
どうしてここまで押さえ込んだの、ミニマム ?
・もうちょっと
2人のクセを出せよ、ちょっとズルいんじゃないの ?
などと思っていたコトを、ぶつけてみた。
「押したり、引いたり、ボチボチやっていきますョ。」
くやしい !!
歳を過ぎているのに、未来を見ているジョージだ。タケオとジョージは、いつもオイラの良きライバル &オイラを心配してくれる友だ。
ゆだや
さまよえる猶太人 芥川龍之介
長 崎 芥川龍之介
第22 回
内田 和子
つれづれなるままに
あわせて290歳
昨年の1月、ひょんなことから知り合った心(臓)の友は、どういうわけか5歳づつ離れ、あわせて290歳。一人目の方は入れ替わりの多い病室で一番長くいる物静かな方だった。私が遅咲きの追っかけを始めた話をすると、自分もストリートミュージシャンの追っかけと白状した。「遅咲き」という共通項で親しくなり、のちに趣味を超えた「押し花」の世界を見せていただくことになる。押し花は、小さ
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いころ夏休みの宿題でしおりを作った記憶があるが、額に入った彼女の押し花作品は、遠目に見れば油絵のようにも見え、近くで見てもそれらが草花でできているとは信じられないほど繊細で緻密な色どりで仕上がっている。追っかけのイケメンミュージシャ
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ンの写真と一緒に、歳から始めたという額に入っ
た作品の数々をスマホで見せてもらっているうちに、
どうしても本物を見たいと、半ば強引に点ほどの
作品をカフェに飾らせてもらうことになった。展示
は彼女にとっては思いもかけないことだったようだ
が、作品一つ一つの草花の名を説明に添えた「押し
花展」は、来店のお客様にも大好評だった。どうし
ても譲ってほしいという方も出てきて彼女も驚いて
いたが、展示された何点かは人手に渡り、私も一目
惚れした、花束の押し花をいただいた。1年前初め
て会った時には、彼女はもう押し花はできないと言
っていたが、この展示会がきっかけとなって、また
頑張ってみると再びやり始めた。庭に咲く草花や旅
先で見つけた花々を押し花にしてストックする。花
弁や葉脈を上手に活かし作品の構想を考える。何百
という材料と色を区分けする気の遠くなる作業だが、
彼女にとってはなんとも至福の時なのだそうだ。5
歳年上の寡黙で遅咲き追っかけの彼女が作る、次回
作の押し花を楽しみにしている。
もう一人は、青森津軽の方である。昔「伊奈かっぺい」のテープを夢中で聞いたことがある。ヘッド
つれづれなるままにあわせて290歳
フォンをかけながらニタニタ、時々大声で笑うその姿
を親が心配したことがある。伊奈かっぺいの独特の津
軽弁はほのぼのユーモアたっぷり耳に優しい。青森の
ライブに行ったこともある。空港では新しいテープを探した。青森の出張はどんな雪の中でもなんだかとってもあったかい気がしていた。人柄のせいかもしれない。廊下で話しかけられ、思わず「わぁ〜津軽の方ですか?」と返した。「伊奈かっぺい」の喋りそのものである。「しゃべってもわかなんでしょう。」というので、「私、わかるんです。」とすぐに仲良しになった。私より1週間あとくらいに手術され、どうされているか心配だったが、退院後2〜3カ月経った頃電話がなった。青森からだった。渡した携帯番号を持っていてくれたようだ。思うように回復しないことを嘆いていたが、私も同じ状況だから焦らないで頑張りましょう、どうしても調子が悪ければ東京の私の家から病院に通うように言うと、とても喜んでくださった。そしてメロンやリンゴ、自然薯、黒にんにくなど青森の名産を送ってくださった。今では2週間に1度電話をくれ、姉のように親しく話をしている。ついこの間は、ようやく声が出るようになったと、電話口で二葉百合子の歌を聞かせてくれた。ヤンヤヤンヤと拍手をしたら2番もあるからそのままと、テープを流しながら喉をうならせた。いやぁー嬉しかった。3月になったら会いましょう。と約束をしている。
3人目はとてもお元気な方である。新宿御苑に写生に行ったり、銀座にランチに行った様子をメールで知らせてくださった。年は随分と離れているが、回復力の凄さにただただ驚くばかりである。元気の源は、1つに美味しいものを食べる。2つには自活力。3つにはパソコン。だと観る。初めてお会いしたとき、パソコンができないか看護婦さんに聞いていた。何をされている方かと興味を持った。とにかく前向きなのである。今では2〜3月に1度、ランチをご一緒している。毎回セットはその方がしてくださる。いつも素晴らしいお料理と楽しいおしゃべりで、元気で過ごす極意と風情を大事にするゆとりを教えていただいている。
みなさん私より少しづつ人生の先を行く方々である。この素晴らしい出会いを大事にしてまた新たな1ページを重ねていきたいものである。
空知川の岸辺 国木田独歩
津軽 太宰治
東京に数あるイタリア料理のお店。メニュー選びが終わるとまず、ブルスケッタや細めのバゲット状のパンの薄切り数片にオリーブオイルの小皿を出してくる店が珍しくない。もしその店が「額に汗して働くイタリア農民の素朴な料理が自慢」というなら、パンとオリーブ油の組み合わせは、大正解。但し、
「農民の日常食を」というのなら、これ以外は一切料理を出すことは許されない。パ
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ンとオリーブ油と少量のチーズに水。食事はこれが中心。ワインも出ない。さらに本格派を目指すならば、パンの素材に小麦を使ってはいけない。燕麦か大麦か、そこに僅かばかりは小麦を混ぜてもいいが、パンの中が柔らかくて白い、なんていうのはニセモ
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ノだ。小麦ではないイネ科の雑穀を素材に、家で練り上げたドウ
(パン生地)を村の共同オーブンで焼く。数日を経て干からびて固
くなった、くすんだ色のぼそぼそとした固まり。オリーブ油を僅
かに垂らした水か湯で柔らかくして食べる。毎回少量をたらす大
切な油は、いつしか古油に。そのすえた臭いがするものこそ本物。
エクストラ・ヴァージン ?なにそれ。
地方色も大切だ。例えば南部ナポリ。パンではなく、マカロニだ。フリウリならポレンタ(近世はトウモロコシの粉を水で練って火を通したもの)。ポー川流域の米作地帯なら、煮た米というかお粥(リゾット ?)であったりもする。どっちにしても、これが大半のイタリア農民の、文字通りの「主食」だった。最下層(全人口の %ほどか)は 世紀中頃まで、特別な祝祭日を除いてほぼこれだけで、日々の糊口をしのいでいたという印象が強い。
イタリアの農民料理と言えば、キャベツにファバ豆や野原に自生する草に近い「野菜」を煮た、ミネストローネ(野菜スープ)が有名。だが、これさえも多くの農民にとっては、特別な祝祭日のご馳走だった。年頃になって村から町に働きに出る。そこで出された僅かに豚の脂身が浮かんだ野菜スープ。これを食べた男は「生まれて初めての豚の脂身、そのおいさに感激した」と語っている。「毎日炉端で脂身の浮かぶ野菜スープがクツクツと」なんていうのは、ごく限られた最上層農民の家の話だ。「大家さんの家では毎日野菜スープを食べているらしいけど、もしそうだとしたら、いつが祝祭日なのわかんないじゃんか」と不思議がる子供。農家は平均全収入の 6割ほどを食費に充ててもこんな状況だった。 世紀中頃まで農村部では、空腹と飢餓感が生活感覚としてあったという。
産業革命以前はどこだって、人口の大半は農民だ。漁業と山林従事者を含めて全人口の 8割以上と見てよさそうだ。今は「食の豊かさ」で知られるシチリア。 1861年の統一イタリア誕生前までは、小麦の一大産地で、スペインをはじめ各地にこれを輸出することで経済は成り立っていた。農民の大半は小作農で、収穫の半分を地主に納める。その小作農に使われる日雇いの労働者たちが最も貧しかった。限られた数の大地主たちが農地の過半を所有し、その多くはパレルモに立派な屋敷を構えて暮らす不在地主で、結婚も交際も同じ階級同士が当然という
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ミニ貴族だ。初夏の長い夕暮れ時、家族揃っておめかしして、町の広場周辺を散策。顔見知り同士で挨拶を交わし、カフェでおいしいお菓子やジェラート(アイスクリーム)を楽しむ。今もあの宵の風の香りと豊かな時間の流れを忘れることはなく、家の食卓に並ぶ料理がまた素晴らしいものだった、と旧ミニ貴族の老婆が美しく回想している。プルーストの『失われた時を求めて』で描かれる世界にも通ずるその優雅さも、激しい内戦を経た統一国家の誕生と、 19世紀末に訪れる農業不況によって、急速に崩れ始めていく。
統一国家イタリアの誕生は、新たに「国税」というこれまでにない負担を「国
民」に課すことになる。食品を含めて
生活のあらゆる部分に及ぶ消費税的な
新税。厳しい取り立てにより、全人口
の大半を占める農民の困窮が深まる。
これに加えて、農業不況。原因はアメ
リカで小麦生産の機械化が進み、価格
破壊が起きたことにある。特に小麦生
産に集中していたシチリアの農業は、
これにより大打撃を受ける。「新天地
への移民を真剣に考えざるを得ない」
というところまで貧困化する農村で、不在地主に代わって所領の管理監督に当た
っていたのが、ガベロッティと呼ばれる差配だ。村の中心にある立派な管理事務
所たる館に居を構え、小作農への農地の割当、水利の調整、年貢の取り立て、収
穫物の保管と運搬、市場の采配、警察業務、簡易金融……。在地の農民から見れば、
差配こそが権力の中心で、まさに大旦那そのものだった。北部人中心の新政府は、
南部のナポリやシチリアでは、この差配層の力を借りなければ、何ひとつ「国家」
の決定を実行することは出来なかった。小麦を中心とした農業がダメになり、時
代の激変と共に摩擦が高まる農村の人間関係と利害関係。これに乗ずる形で、差
配層は実力行使の範囲を広げていく。やがてそこからマフィアやカモッラと呼ば
れる一団の親分が登場してくることになる。
それにしても、今私達がごく当たり前のことのように楽しむ「イタリア料理店」のグルメなメニューの数々。 世紀の中頃まで大方のイタリア人は、こんなお料理、まず食べたこともなかったはず。これは、イタリア農村社会の頂点に位置するミニ貴族達とマフィアの親分クラスだけが楽しんでいた世界なのだということを、どうぞお忘れなく。
雪国の春
二十五箇年後柳田国男
蟹工船
小林多喜二
ドラゴンシリーズ
ドラゴンへの道編
AmsterdamとMono
2月1日、アムステルダムで今年から始まった「
Mono Japan」
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という日本のものづくりを紹介するイベントに参加した後、今はドイツに
移動してフランクフルトの「アンビエンテ」に出展している。
このアムステルダムのイベントは「ロイドホテル」という一つのホテルが1つ星〜 5つ星までのカテゴリーの部屋で構成されていて、オランダの著名デザイナーがそれぞれの部屋をデザインしている面白いホテルであり、ダッチデザインの楽しさやアイディアを滞在しながら実感できる。そのホテルの部屋を展示会場にして、日本から 社のものづくりの会社が参加して初めて開催された。
長年、海外のイベントや展示会に出展していつも感じることだが、日本政府や経産省、ジェトロ、伝産協会など公共機関は何もサポートしてくれない、それどころかジェトロとか日本商工会議所の人間が見に来たかと思えば、イベントの批判とかを始める、本当に日本の公共機関の人間達は何も理解していない、と改めて感じるのだ。
日本は日本政府を筆頭にして、経産省も、ジェトロも、日本商工会議所も、各種の財団や協会も本当の現実は知らなくて、実際日本人にとって必要なサポートなど何もしない。オープニングに日本大使が来て、鏡開きのセレモニーとお決まりの形式的なラフを装ったスピーチを聞かされる度に、とっても残念な気持ちと怒りを感じてしまう。オープニングセレモニーに参加しても、本番の展示には全くといえるほど関心を示さない日本大使も政府関係機関も日本を代表しているとは言えない。
厳しい言い方かもしれないが、
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どちらかと言うと無駄な税金を使って政府関係機関の海外イベントを企画するような無駄使いはぜひとも辞めていただきたいと願っている。これまで 回以上、海外の展示会やイベントにこの
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年間参加してきたが、こ
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吉田龍太郎( TIME & STYLE )
20れまで政府機関や公的機関がサポートしてくれたこと
は皆無であり、全ての経費
は自分たちの持ち出しであ
る。しかし、近くにあるジ
ェトロや伝産協会などのブ
18ースは大きな経費を掛けて
作られており、また、地場
産業や伝統産業だけをサポートしているのが現状である。その地場産業に投資して、伝統産業に投資して自前の製品を生み出し、リスクを取っている我々のような会社に対しては、全くと言って良い程に手を差し伸べてはくれないし、そんな期待もこの
年間の間に失ってしまった。だから、あえて政府関係機関や関係者には厳しい私達の現場の状況の本音をいつも遠慮しないで伝えている。そして、日本の政府機関は何とか変わって欲しいと切に願っている。15
このオランダの「 Mono Japan」は、これまでに参加した海外のイベントで最も素晴らしく企画されていた。オランダ在住 年の中條さんと言う女性が企画の中心となって、オランダや海外での経験豊かなサポーターである数名の日本人が企画の為のデザインや翻訳、施工などを行い、ロイドホテルの女性ディレクター Susanneさんが協力して、このイベントを実現させていた。ホテルの部屋を展示会場として各社のものづくりや製品を展示して、実際にアムステルダム在住の来場者に持参した商品を販売するというものだ。いわゆるアムステルダムでの展示販売会である。
驚いたことに日本からの 社がロイドホテルの部屋に展示をした会場に、
3日間で 5千人近いオランダ人が来場した。この 5千人はアムステルダムに
住む一般の人々が中心であり、日本文化に興味を持って来場したのだ。そし
て、もっとも驚いたことは、オランダ人の日本文化に対する理解の高さだっ
た。フランスやドイツや北欧も問題にならないほどに、日本文化の持つ概念
やコンセプトを解読する柔軟性と包容力と洞察力を持っている。日本文化に
ついての洞察力や直感力の鋭さは日本人以上なのかもしれない。そして 3日
間で日本よりも本当に沢山の商品の販売を実現できた。それは、本当の驚き
だった。
そして、この日本のものづくりを紹介するイベントをサポートしていたのが、在日オランダ大使館を筆頭に、 Amsterdam in Businessと言うアムステルダム市の海外からのビジネスをサポートする公共機関、 Dutch Designというオランダのデザイン機関、そして、ロイドホテルなどオランダの公共機関とオランダの人々であった。日本の公共機関はひとつも協力がなかった。
もしも智恵子が
高村光太郎
大島行き 林芙美子
安吾の新日本地理
安吾・伊勢神宮にゆく
坂口安吾
伊勢之巻
泉鏡花
故郷
与謝野晶子
大大阪小唄
直木三十五作歌
アスベスト(石綿)に関する問題が発生したのは、ちょうど 2年前の 2月のことである。最初の説明会でアスベストは使われていないと聞かされていただけに、私たちは唖然とするしかなかった。地下解体が始まってまだ 1カ月足らず、しかも配布された文章は事後報告書だったのである。要約をしてみると、作業中地下階段まわりの壁 5カ所に石綿含有成形板(非散性アスベスト)が見つかり、すでに除去作業を済ませ、現場内ハウスで保管し、翌月搬出すると書かれてあるのだが ……。
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上棟解体でばら撒かれた粉塵もさることながら、地下部分の解体がいかに手強いものか、こちらも少し分かりかけた頃である。元官舎のそこは、まるで核シェルターか?と思えるほど頑丈に作られており、施工主の東注建設・下請業者にとっても戸惑いながらの作業であることは理解していたつもりだ。しかし、許容できる部分と出来ない点は明快だ。各地区の役所には「建築物解体工事等の事前周知等に関する要綱」という決まり事があり、騒音や粉塵の公害対応、アスベスト調査結果報告を行うよう謳われているのですから。そう。港区には港区ならではの細分化された建築制限が存在するわけで、
建築面積により都の管轄に入る物件であったとしても、港区の決まり事は守らなければならない。長きにわたり工事によるダメージを受け続けたケン太とかすみが考えぬいた結論。それは同じ地区に住む区議会議員へ相談してみようということ。区議立合いのもと管理組合の代表とともに港区環境課、建築課の方々へことの経緯をつたえ、要望を訴えることが叶ったのは、昨年 月下旬であった。行動を起こしてみて、出口の見えない檻のなかから光が差し込んできたのは、この時からといえるかもしれない。。
親子 有島武郎
巡禮紀行 萩原朔太郎
夏の花 原民喜
Vol.4
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Am5 :00
携帯の着信音に目を覚ました。結花からだ。なんだろうこんな時間に。明日はゼミの課題の下調べを一緒にしようって ……えーとなんだっけ。昨日 …そうだ。あいつの部屋で飲みすぎたから原付バイクを置いて帰った。昼には取り行くからそのあと一緒に大学行こうって。そんな感じだったはずだ。なんか急用でもできたのかな。「はいはい」とりあえず電話に出た。「アキラ君?良かった !!」声が切羽詰まっている。なぜか背中がザワッとした。「どうした ?結花 ?なにかあったか ?」「なに言ってんの ?テレビつけてっ」な爆発音が聞こえた。「キャー 「へ ?テレビ ?」「戦争だって戦争が始まったって !!」結花の悲鳴。「アキラ君 !!」「え ?!!」まさか。あ助けて 」わててリモコンを探した。テレビをつける。(今日のお天気をお伝えします ……)民放。いつも朝見るアナウンサー風タレントが舌ったらずな声で各地
!!
の天気を告げている。念のため他のチャンネルを見てみる。いつもの風景。平和な画像。「おい結花、お前冗談は ……」その時、電話の向こうから大き
「お、おい。結花、落ち着け」横須賀の港沿いの結花のアパート。ここから
㎞も離れていない。テロ ?バイクの鍵を探して舌打ちした。結花のアパートに置きっぱなしだった。「今行くからちょっと待ってろ。通話はこのままだ。切るんじゃねーぞ」部屋の窓を開けた。朝靄に煙る漁港が見える。「部屋を出るなよ」受話器の向こうからまた大きな爆発音が聞こえた。今度は立て続けに二回。その音に混じってタタタタッっと乾いた音が聞こえた。その時、ふいに気づいた。結花のアパートとこのアパートの距離からして …あれだけの爆発音がここまで聞こえないほうがおかしいんだ。と言っても、結花はこんな手の込んだイタズラをするタイプではない。何かが変だ。何かが。
Am5 :15
外に出て走り始めた。高校時代は陸上部だ。少しブランクはあるが走るのは慣れている。未だ電話はつながっていた。「アキラ君。ここのアパートに人が入ってきた」「だれが ?」「窓から見えた。大きな銃を持ってた。軍服 ?戦闘服 ?を着てた。どうすればいいの」「まじかよ」(ちょっとお待ち下さい……アメリカ外務省から ……それを受けて日本政府は緊急声明をたった今 …出しました …宣戦布告を …発表 !!発表されました)(今も横須賀港から ……次々と侵入している模様 ……厚木基地からは ……)結花の部屋のテレビの音。なんだ。何を言っている ?「ああどうしよう戦争だよう」結花の消
電話の向こうで戦争が始まる
僕らのリズム
野田 豪 (AREA )
え入りそうな声。「とにかく俺が行くまでクローゼットに隠れてろ」「アキラ君っ」「どうしたっ」「人が撃たれてる。いっぱい死んでる。たくさん外
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国の人がいる」「窓から顔を出すなっっ。クローゼットだ。隠れろっ」耳から携帯を離し、足の速度を上げた。朝靄の中を駆け抜ける。たくさんの軍服の兵隊だと ?どこにもいないじゃないか。商店街を抜ける。数分だ。この距離だったら数分で着く。
Am5 :23
結花のアパートの前で急停止した。誰もいないじゃないか。いたって普通の朝だ。人っ子一人いない。「結花、着いたぞ」ふーふーふー。結花の吐息。声を押し殺している。くそっ。エレベーターを待たず、階段を駆け上がった。 階の角部屋。再び耳に押し当てている携帯。その向こうからつぶやくような声が聞こえている。怖いよ怖いよアキラ君助けて ……。呼び鈴を押す、ドアを叩く。どうしちまったんだよ結花 ……。ドアが開いた。目をこすりながら結花が出てきた。携帯を持つ手がだらりと下がった。「結花 …… ?」いつもの結花だった。寝ぼけた顔をしている。「何 ?こんな朝早くに。今日は昼過ぎに来るんじゃなかったっけ」「結花 ……?」「そんなに結花に会いたかった ??」目の前の結花がニヘーっと笑った。「お前っ、いいかげんにしろよ、からかうのも ……」その時携帯の向こうからまた例の爆発音が聞こえた。「って、あれ ?」背筋にどっと汗が噴き出た。
Am5 :25
「もしもし、もしもし ?」ふーふーふー。押し殺した吐息。いる。まったく意味がわからないが、この携帯の向こうに結花がいる。確かにいる。目の前の結花を一度じっと見つめた後、もう一度受話器の向こうに呼びかけた。「結花 …そこにいるな」「 …うん」小さな声。間違いない。結花の声を俺が間違えるわけがない。目の前の結花が「は ?」と首をかしげた。それを押しのける。クローゼットの前に立った。「ちょっとアキラ、なにやってんの ?その電話誰なの ?」「ちょっと待ってくれ。混み入ってるんだ。あとにしてくれ」混みいってる …そうだ …まさに混みいっている。「結花、しゃべらなくていい。[うん]か[無言]かで答えてくれ」目の前のクローゼットを開けた。「うん」かすかな声。よし。「今お前はクローゼットに隠れているんだな」「うん」「人はどうした、部屋に入ってきたか ?」無言。まだらしい。「いいか結花よく聞けよ。そのクローゼットの中に昨日俺が忘れたジャケットがあるな」少しの間があいた。「うん」「よし。そのポケットに俺のバイクのキーが入ってるな ? R2D2のストラップのやつだ」こっちでもジャケットのポケットの中を確かめる。あった。手の中の R2D2。「うん」「俺のバイクでとりあえずそこから逃げろ。ドアから出て階段を使うんだ。エレベーターは使うな」その時(ヒッ)と結花の小さな悲鳴が聞こえた。「いる」結花が言った。「廊下まで来てる。外国語で笑ってる。たぶんたくさんいる」「玄関の鍵は ?」「かけてない」なんでだよっバカ、結花。「分
かった。よし分かった ……くそっ」どうする。どうする。だいたいどういう事態だよ、これは。いや、落ち着け。よく考えろ ……例え電話の向こうがパラレル的ななんかで実際(っていうのも変だけど)戦争だったとして、なぜ歩兵が一般人を殺すのか、なぜ小さな結花のアパートに侵入しているのか …まったくわからない、わからないが ……。ハッと気づいた。クローゼットの前から体を反転させた。 3階の角部屋の窓の前に駆け寄った。こちら側の結
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花は呆然とこっちを見つめている。構わず窓を開けた。 1ほど下に隣の一軒家の屋根。距離も …2ない。その向こうの路地に俺のバイクが止まっていた。そうだ。これだ。よし。「結花、そのクローゼットを出ろ。西側の窓を開けろ」「でも」「つべこべ言うなっ」ガタッガタッ音が聞こえる。「開けたよ」「以前お前の部屋の鍵を忘れて俺が窓から入ったことあったよな」「うん」「その逆だ。そこから出るんだ。まず屋根に飛び降りる」すぐさまダンっと音がした。そうだ。結花は心の強い子だ。やる時はやれるんだ。「痛ったい」「次、そのちょい下の軒に降りる」「降りた」「よし。そこか
らブロック塀を伝って路地に降りろ。原付バイクは乗れたよな」その時「キャー」結花の悲鳴がした。外国語の怒号が聞こえた。見つかった !!「走れっ結花っいいか、よく聞け。俺のアパートまで行け。そっちの俺を見つけるんだ。いいか、後ろを振り向くな。何がなんでも生きろっ。行けっ走れっっ」言い終えた瞬間、ガガガッっとすごい電子音が耳で炸裂した。そして ……。「もしもし、もしもし」携帯が切れていた。
m
Am5 :35
ぼんやりした顔の俺に結花が恐る恐る近づく。
「アキラ君 ……大丈夫 ?」
あたたかい朝日が部屋に入っていた。
(本日神奈川南部は晴れ、列島は行楽日和に恵まれ ……)
テレビが各地の天気予報を流している。
俺は結花の手を握り引き寄せて抱きしめた。
「結花 ……」
原付バイクで走る向こうの結花を想像した。
うまく逃げ切れただろうか。
結花は ……生き残れるだろうか。
「アキラ君なんか変だよ」
腕の中の結花がつぶやいた。
彼女が走り去った道の向こう。
遠く箱根の山に大きな入道雲が湧き上がっていた。
粛々と何かを企てているかのように。
かりそめの平和をあざ笑うように。
そんなリズム。
チェンバレン宛手紙
1893年7月22日付小泉八雲