コラージは下記オフィシャルサポーターの提供でお送りいたします
|
Colla:J について
|
定期配信のお申込み(無料)
|
オフィシャルサポーター
|
プライバシーポリシー
蒼き龍の伝説
Copyright . 2015 Shiong All rights reserved
前号で特集した八戸から八戸線に乗り、朝の連続テレビドラマで話題となった久慈に向かいました。
東日本大震災の約1年後、2012年 3月17日に全面復旧した八戸線。宿戸駅近くの海岸にはドラム缶に描かれた「夢をのせて JR」、「ありがとうJR」の文字が見えます。八戸線はレストラン鉄道「TOHOKU EMOTION」でも話題となりました。
▲ 小久慈焼 8代目の下嶽(しもだけ)智美さん。
八戸藩政時代から民窯として生活器を作り続けてきた「小久慈焼」の窯元は、久慈駅から 2kmほど離れた山中にあります。
▲8代目下嶽智美さん作の片口(左)と父である7代目毅さん作の片口。口の形状や質感が微妙に異なります。
小久慈焼は江戸後期、初代 熊谷甚右衛門が相馬の陶工 嘉蔵に師事し、地元の粘土と釉薬で独自の焼きものを編み出したことを起源とするそうです。小久慈焼を代表する器「片口」は酒や醤油の計量器として使われ、代々作り継がれてきました。
小久慈焼は 2012年「21_21 DESIGN SIGHT」(六本木)で開かれた「テマヒマ展〈東北の食と住〉」に出品されました。
すり鉢も昔から作られてきた器です。内側にも釉薬を掛けるのが特徴で、すり鉢の目が釉薬で潰れないよう、外側と内側で釉薬の種類を変えるそうです。実用性を重んじた民具として地元で使い続けられ、八戸藩にも納められていました。
▲7代目は瀬戸などの産地で修行し、新しい釉薬や技法を小久慈焼にもたらしました。
▼ 明治初期、分家三代 己之吉の片口。瓶に液体を入れるため口が細長く、1合、2合といったサイズがありました。
工房の一画に歴代の作品が展示されています。小久慈焼は主に岩手、青森、秋田など東北地方で使われてきましたが、8代目の下嶽智美さんは販路を徐々に首都圏へ広げ、今は東京をはじめ全国のライフスタイルショップなどでも扱われるようになりました。丸い天然石を入れたドラムを回転させて原料の土を粉状にしてから、ドロドロの液状にし長期間撹拌を続けます。
陶土には地元で採取される粒子の細かい白土を使います。数万年前の海底の堆積物が地上に隆起したもので、肌が滑らかで口の当たりもよく、釉薬(主に藁灰や鉄)の色が素直に出るそうです。陶土づくりも手間をかけ全て工房で行っています。液状の陶土はアコーディオンのような機械を使って水分を絞り出し、陶土を練る機械で押し出して円筒形に加工します。寒さの厳しい北東北では冬場に陶土が凍ってしまうことから、小久慈焼は北限の民窯ともいわれています。久慈の山間部は稲作も難しく、やませなどの冷害に見舞われた村が、村おこしのために導入したとも考えられます。工房から少し離れた場所に立つ「小久慈焼窯業発祥之地」の碑。仙台のインテリアショップなどで働いたのち28歳から父のもとで修行をはじめた下嶽智美さんは、洋式化された生活空間に合わせ、伝統的な小久慈焼を少しだけアレンジしながら提供していきたいといいます。200年以上作り続けられた器だからこそ、都会に通用する強さを持つと感じるそうです。
内田 和子
つれづれなるままに
第 回
秋の上高地8キロ完歩
トンネルを抜けると錦繍の山々が広がりその美しさに息を呑む。
1019
月下旬、雲ひとつない秋晴れの日、待ちにまった
「秋の上高地トレッキング」である。夏の上高地は数回行ったことがあるが、秋は初めてである。観光バスは沢渡を通りそのまま上高地へと向うが、曲がりくねった細いトンネルの行き交うライトにはいつも緊張する。
11
今回は、バスの座席を後ろに取り目をつむっていた。添乗員の「間もなく大正池が見えます」の声で目を開けると、大正池、焼岳が見え、真っ青な空と鮮やかな紅葉の穂高連峰が両脇に迫ってきた。秋の上高地へやってきた実感を体一杯に感じ、おもわず歓声をあげる。蓼科のホテルが企画した明神池を一周する 8キロのトレッキングの参加者は総勢 名。年の頃は皆似たり寄ったり。ただ、皆さん歩き慣れた装いで、初参加の私は多少気後れ気味ではあった。無理なら河童橋近くで過ごすのもよしとしていたが、出発直前にベテラン山ガールが同行することとなり、心丈夫で初めてのトレッキング挑戦となった。
8月に申し込みをした後、本当に付いていけるか心
配で、若い頃買ってまだ値札がついたままの登山靴を出して皇居一周を試みた。案の定、靴づれと指先に豆ができたが、厚手の靴下を履き、靴紐の結び方に注意して、自宅近くのスーパーへ行くときにも履いて練習した。リュックサックは景品でもらった新らしいのがある。真っ赤だが還暦を過ぎた身にはなかなかいい。防水加工を施した登山用ジャッケットを新たに購入。トレッキングとはいえ防寒対策だけはしっかりとのアドバイスも得た。子供の頃の遠足のように、荷物を入れては出し、出しては入れ、準備万端整えて当日を迎えた。新宿からスーパーあずさに乗り、八王子ー青梅を抜けだんだんと秋の深まりを目で追いながら茅野まで。そこから前泊する蓼科のホテルまでバスがでる。信州といえば「蕎麦」。タクシーでどこか案内してもらおうと思ったが、駅前にタクシーはなく電話をしてもなかなか来そうもない。こういう時は若い人は早い。ひょんなことから一緒に行くことになった彼女は、山歩きのベテラン。どこから見ても山ガールそのものである。「茅野・美味しい・蕎麦」で検索し
30
て、駅から 650mの蕎麦屋を見つけてくれた。
8
丁度、昼時間をずれた時だったので、少し待っただけで美味しい蕎麦にありつけた。信州のわさびは柔らかな甘みがある。そのわさびをたっぷり入れ、プリプリの海老と野菜の天ぷらを冷たい水にさらした蕎麦と一緒に味わう。まさしく信州の一品である。大満足でお店を出ると、外は長蛇の列。日曜日とあって家族連れや食道楽仲間と思しき人たちが並んでいた。腹こなしに駅まで歩くと、送迎バスが待っていた。
蓼科まで 分ほど。白樺林に囲まれた古い木造のホテルが今日の宿である。暖炉の火はパチパチと音をたて山の匂いをただよわせている。夕食までには少し時間がある。ホテルの周りを散策し売店で夜更かし用のアルコールを仕入れる。そして別棟の温泉に入る。一般の人も入れる温泉だが、宿泊者は無料なのがいい。夕食はフランス料理のフルコース。ソムリエお薦めの信州赤ワインと尽きないおしゃべりでゆっくりと贅沢な時間が流れる。ここのホテルの料理は有名でなかなか予約ができないことを後で知った。どうりで美味しいはずである。納得、納得……夜更かし用のアルコールは開けることなく、ワイン酔いのまま心地よい眠りとなった。
翌朝は、快晴、気温良し、風なし、最高のトレッキング日
和りとなった。参加者とホテル前で集合し一路上高地へと向
う。帰りのバスは、参加者みんなの満足感でいっぱいだった。
今回思いっきっての参加だったが、山のガイドさんの案内
で、改めて上高地の素晴らしさを教えてもらいながら、トレ
ッキングツアー キロを完歩した。美しい紅葉の穂高連峰、
梓川の清流、河童橋を渡る秋風、そして河原で食べたおにぎり、
完歩後の五千尺のマロンケーキ、どれもしっかりと五感に染
み入っている。
素敵な時間に感謝と乾杯 !!
▲ 久慈産琥珀大団塊 10.4kg。8,500年前の久慈は熱帯樹林に覆われていました。木々は傷の保護のため樹脂を盛んに分泌し、それが海底へ流され化石化して琥珀になったと考えられています。
久慈産 虫入り琥珀ハエの仲間 8500万年前
約 8,500万年前の恐竜時代、針葉樹の巨木が生い茂る森から生まれた久慈の琥珀(アンバー)は古代から人々に愛され、旧石器時代の加工品も出土しています。「虫入り琥珀」などの貴重な琥珀を展示し、その歴史を伝えるのが「久慈琥珀博物館」です。トカゲの仲間 ドミニカ共和国 2400〜3800万年前。
琥珀は生物のタイムカプセルともいえます。樹液に集まり捉えられた昆虫やトカゲなどが、琥珀の中で生きていた姿のままに数千万年の時を過ごしています。久慈産の琥珀からも虫や羽毛などが相次いで発見され、化石 DNAの研究者からも鳥の羽根 ロシアカリーニングラード
注目されています。昆虫化石からDNAの抽出に成功した例もあり、バクテリアが蘇ったという報告もされています。3500〜 4200万年前。坑口からの奥行きは 30mほどと浅く、落盤で生き埋めになることを避けるため、あまり奥まで掘られていません。
琥珀博物館には、世界唯一ともいわれる琥珀の見学用坑道跡があります。大正 7年頃まで掘られていた古い坑道で、1立米あたり1.8kgの琥珀を産出したそうです。上から見ると坑道が井型にみえる「すき掘り」という採掘方法がとられました。琥珀採取の歴史は古く、縄文時代や古墳時代の遺跡からも琥珀の勾玉が発見され、琥珀の道があったと推測されています。
あけがたの琥珀のそらは凍りしを大とかげらの雲は浮かびて
宮沢賢治
約 8,500万年前の琥珀の層を間近で見られ、博物館では屋外での琥珀採掘体験教室も開いています。小説のなかに琥珀をたびたび登場させた宮沢賢治の短歌には、トカゲ入り琥珀のを知っていたと思わせるものもあります。琥珀を産出する地層からは首長竜や海トカゲ竜の化石も見つかっていて、琥珀から抽出された DNAから復活する日が来るかもしれません。久慈駅から宮古行きの北リアス線に乗り込みました。平日にも関わらず、車内は観光客や小学生でにぎわっていて、朝の連ドラ効果は続いているようでした。北リアス線は 2014年 4月、田野畑〜小本間の営業再開により全面開通しました。
地方創生まちづくり EXPO「 まちてん 」初開催
日本全国のまちづくりイノベーターが渋谷に集合
11月28日(土) 10:00.20:00
11月29日(日) 10:00. 18:00
ヒカリエホール (渋谷ヒカリエ 9階 )
日本全国のまちづくりに関わるイノベーターたちが渋谷ヒカリエに集まり、カンファレンス(ショートプレゼン +交流会)やトークセッション、ミニセミナー、展示ブースを通じて、その取り組みを発表するイベント「まちてん」が初開催されます。カンファレンスでは、カフェなどのコミュニティー空間の創造や、シェア・ビレッジなど若者たちの取り組み、猟師エコツアーをはじめとした体験型のまちづくり、自然エネルギーを活用した温泉街の活性化など、多種多様なまちづくり事業の展開例を、その実践者達が語ります。プログラムは下のリンクからホームページでご確認ください。
隔年開催の東京モーターショーに行ってみました。マツダブースの「SPIRIT OF MAZDA」コーナーはコスモスポーツ(1967)を展示しながら、原爆投下から立ち上がった広島とマツダの歴史を紹介しました。コスモスポーツから始まったローターリーエンジンの系譜を受けついだローターリースポーツコンセプト「RX-VISION」も発表され話題となりました。
各メーカーのラウンジで一番居心地のよかったのは、日産ブースのラウンジでした。フランス人らしき方が多いのも日産ならではでしょうか。リフター式と異なり、車椅子の横に介護者が座れるのが特徴です。一人きりにする心配がなく、安心して移動できます。
日産ブースで注目したのは、日産ライフケアビークルセレナ LVシリーズ。スロープを使い車椅子を 2台搭載可能で、スロープ角度をゆるくするため後輪を約 8cm下げ、乗降アシスト装置をつかえば女性でも楽に車椅子を押せます。一台は 2列目シート横に固定でき、3列目には 2台目の車椅子を乗せるか、3列目シートを使うかを選べます。
▲ Passat GTE(参考出品)と Golf GTE。▼ 電気自動車 e-up!
ディーゼルで話題のフォルクスワーゲンですが、日本市場で推しているのは PHV(プラグインハイブリッド)でした。日本でも発売がはじまった PHV「GolfGTE」は、電気だけで 50kmほど走行できるため、日常的な走行は電気だけでも行えるそうです。またエンジン +モーターで走行すれば、パワフルなスポーツ走行も楽しめます。
今年のモーターショーのテーマは、個人的関心からでもあるが大まかに次の三つであると感じた。
〈1〉 より深化する環境対応
〈2〉 自動運転への展望
〈3〉 分散電源としての燃料電池自動車
〈1〉 の目玉は何といっても 2014年 2月発売のTOYOTA「ミライ」に遅れることれること1年 3カ月、2016年3月発売と発表されたHONDAの燃料電池自動車「クラリティFUELCELL」の初お目見えである。「HONDAFCVコンセプト」として昨年から青山の HONDA本社に短期間だが展示されていたモデルの量産型で発売される実車である。
「HONDAFCVコンセプト」のスタイリングはものすごく先進的でシャープ、優れたデザインだった。なのでとても大きな期待を抱いていたのだが、販売される「クラリティ FUELCELL」のデザインイメージは、HONDA車としてのマッシブな特徴は有るものの、飛び抜けて次世代へ向けた方向性を示す迄のインパクトは感じられなかった。それでも性能的には TOYOTA「ミライ」よりも少しアドバンスはある。「ミライ」が大人4人乗り、航続距離が約 600kmであるのに対し、大人5人乗り、航続距離が約700kmと少し上回る。燃料である水素の充填時間はともに約 3分で、現在のガソリンやディーゼル車と変わらない。
〈2〉の自動運転への展望は国産、海外を問わず各メーカーともそれぞれ独自の技術開発の経過展示が見受
SMART MOBILITY CITY内の 「クラリティFUEL CELL」ブースには、ホンダ独自の技術で水と電気から高圧水素を作る「スマート水素ステーション SHS」と外部に電源を供給する「Power Exporter 9000」がセットで展示され、水素を作る、発電する、電気を使うサイクルを示しました。
けられた。例えば自分(クルマ)の位置を誤差約10cmで把握できる GPSアンテナを搭載、それに加えてステレオカメラ、複数のミリ波レーダ、複数の赤外線レーザースキャナーを備え自分(クルマ)の周辺の車両や障害物の検出を行ない走行する。首都高速道路の ETCゲートから入り、どこか決められた出口の ETCゲート迄、安全に自動走行に成功しているメーカーもある。よく TVの宣伝で障害物の手前で自動ブレーキがかかるものを見かけるが、あれはほんの自動運転の入口技術である。高速道路への合流、レーンチェンジなど、どのタイミングで行なえば安全に行なえるか、実験を繰り返している。実用化目標は 2020年を目指している。
「Google」などの IT企業がだいぶ以前から自動運転のためのデータ収集、解析を進めている様である。IT企業が本気でビッグデータ化し、その体系づけが完成すればその価値はクルマメーカー自社開発のものよりも優れたものになるかもしれない。
〈3〉の分散電源としての燃料電池自動車分野では HONDAの、水素を「つくる ]「つかう」「つながる」をコンセプトに水素エネルギー社会を拓く提案が自分にはフィットした。これからのエネルギー分散の一翼を担うと思われるヴィークル(車)トゥホームそのものだからだ。これは以下の様な連携となる。風力発電、太陽光発電、小型水力発電、バイオマス等の再生可能エネルギーで高圧水素を作り出し、燃料電池自動車に充填(電気エネルギーの貯蔵と考えれば分かりやすい)。そして燃料電池自動車で発電した良質で安定した電気を外部給電機能を持つ可搬型インバータから取り出せば、それは高性能の分散電源となる。病院でつかう精密医療機器にも供給できるレベルだそうだ。「クラリティ FUELCELL」(水素満タン時)と接続すれば一般家庭での生活のおよそ 7日分を賄うことが出来る。また屋外のイベント、災害時のテント病院、キャンプ等で排気ガスゼロ、静かで水しか排出しないクリーンな発電機として活用することが出来る。
そのほか次世代カーの展示としては、大型車小型車を問わず、クルマ本来が持つ「走る楽しさ」に回帰するモデルが目立った。 ■
▲「Power Exporter 9000」は最大9.0kVAの電気を供給できます。(「SEATECアワード 2015」グリーンイノベーション部門グランプリ受賞)▼ トヨタは水素社会での分散電源時代を見据えたコンセプトカー「FCV PLUS」を発表しました。住宅への給電を前提として開発されています。
日野は水素燃料電池バスを基軸にした次世代型のバス運行システムを提案しました。バス停を自動改札機を設置したプラットホーム化することで、車椅子やベビーカーが楽に乗り降りできるようにします。車内には車椅子用の固定システムが用意され、シートを工夫することで広々したスペースを確保しました。バスの後ろにはレンタル用の電動アシスト自転車を牽引し、充電を行いながら所定の場所に運ぶことも想定しています。
今年は各社が自動運転をテーマにした展示を行っていました。メルセデス・ベンツは自動運転車の未来像としてサロンのような空間をもつ「F 015 Luxury in Motion」を公開。対面式シートで寛ぎながら運転は自動車まかせ、6面のタッチスクリーンは外の様子を映し出します。外部に対して光でコンタクトする機能をもち、外観は部屋を包み込むようにずんぐりしています。▲ WEILLのパーソナルモビリティは従来の電動車椅子をくつがえすデザインで、段差や坂にも強く注目を集めていました。
岐阜県関市の STYLE -Dが開発した超小型モビリティ「piana」(ピアーナ)。イセッタのような少しレトロなデザインで、フロントドアが特徴の電気自動車です。乗り降りしやすく駐車スペースも節約できるため、ヨーロッパの観光地など、通常の自動車での移動が難しい旧市街の脚としてもアプローチしていきたいそうです。
僕らのリズム
陽が差しているのに薄い雨が降ってきた。
子供たちがいっせいに空を見上げる。天気雨だ。それを確認すると再び歓声をあげて遊びに戻る。その中に一人だけ。髪を後ろに一本で縛った子が僕を見ていた。空を指差して口をゆっくり開いた。
*********************************
なんて言ったんだっけ。聞こえなかったな。いや憶えてないだけかな。
*********************************
中目黒のカフェで頬杖ついてそんな幼い頃の記憶を思い出している。大きな窓ガラスの外は冬。裸の立木がしんしんと立っている。
暖かい店内には音楽が流れている。大人になれば……と歌っている。
左手のブラックコーヒーと右手のマールボロ。大人になれば。
*********************************
メールの通知。「もう始まりますよ」僕は席を立ってレジで支払いをした。冬の立木に寄りかかっている自転車に乗って青山に戻る。
*********************************
新連載
Vol.1天気雨
野田 豪 (AREA )
すでにパーティは始まっていた。大事な人がたくさんいる。みんな楽しそうな顔をしている。
*********************************
過去の記憶はどれも優しい。そう言ったのは誰だったろう。
*********************************
パンックラッカーの音がした。金色の紙吹雪が店内に舞った。照明に照らされてキラキラと反射した。あの日の天気雨のように降ってきた。
*********************************
その瞬間にずっと眠っていた記憶が蘇る。
声は聞こえなかった。でも口の形でわかったんだ。「きれいだね」確かにあの子はそう言ったんだった。
*********************************
きれいだね。たのしいね。
*********************************
今日も生きている僕ら。その生活の隙間にふと訪れる忘れていた過去との邂逅。
時を超えて昔と今が交わる心の交差点に出くわすそんな時。
そんなリズム。
wrote 2015.11.10 go.noda
久慈駅から 3駅目の「陸中野田駅」で降りてみました。江戸時代から製塩で栄えた野田村には沿岸に10カ所程の塩釜があり、牛方は塩を牛(ベコ)の背にのせ「塩の道」と呼ばれた険しい峠道をへて、遠く男鹿方面まで塩を運んだそうです。
3.11 忘れない FNN東日本大震災アーカイブより
陸中野田駅から歩いて10分ほどで村の中心部につきます。村のシンボルである大鳥居をくぐり、急な階段を登って愛宕神社へ。振り向くと建設中の防潮堤の向こうに、青い海が見えました。
2011年 3月11日14時 46分頃。震度 5弱の地震の約 45分後、第1波〜3波にわたる、最大約18mの津波が野田村の各所を襲います。死者 37人、負傷者は17人におよび、流失したり全壊した建物は 311棟、大規模半壊 136棟、半壊 32棟、一部破損 36棟の計 515棟が被害を受けました。村役場を中心に家屋が集中した城内地区は特に大きな被害に見まわれ、村役場より海に近い家々の大半が失われました。3.11 忘れない FNN東日本大震災アーカイブより
上棟解体工事の目処がついた慌ただしい年の瀬に、年明けから始まる地下解体工事説明会の知らせが入った。
ほう、へえ〜。解体も含めた建築施工者として渋谷を拠点とする東注建設が決まったとは ……。東注グループによる港区エリアへの進出頻度を考えあわせば致し方ないことかもしれないのだが。
お隣組、お向かいの上棟組に続く東注建設の評判をさっそく調べてみる。ネット上のコメントはどれもこれも苦言にまつわるものばかり。ケン太とかすみの気持ちまで地下深く沈んでしまいそうになるのだった。
片や、向かい合うこちら側の体制についても振り返っておく必要があろう。立て続くマンション計画に挟まれ、様々な住民問題が山積するなか、管理組合として闘う方向性を見いだせていたとは正直いいがたい。お隣との交渉では事前に協定書を交わし、都の紛争調整の場で話し合いを持ったと聞く。が、今回の場合はその形をとらぬまま2年にわたり月一回程度の会合を開きながらも互いに様子見をしていただけという状況だ。
苦悩し続けた 2年の月日と着工までの一年間を決して無駄にしたくない。 150世帯みんなの生存権と財産に係る極めて切実な問題なのに ……。ついに賃借人の立場の私達がしびれを切らしイライラしはじめた。いかんせん時間がない。出来る限り早急にアクションを起こそうと理事会の合意が整ったのはつい先日のことなのである。とり急ぎ申請書類と必要資料を用意し、やっとこすっとこ有志かき集め、都の紛争調整係へ乗り込んだのであった。あぁ〜しんど。
野田村役場で震災の復興状況を確認しました。中心部の復興計画は主に、第1、第2、第3堤防の建設や高台造成地の整備・移転、中心部の土地区画整備事業 、災害公営住宅の整備などが進んでいます。
▼ 高さ12mの防潮堤を越える津波(野田村 新山地区)。
第 2堤防(国道 45号)と第 3堤防の間には建築制限エリアが設けられ、そこに建っていた住宅などは高台団地に移転する計画です。なお建築制限エリアには広大な都市公園が設けられます。
工房楽記椅子デザインの著作権その 2
鈴木 惠三(BC工房 主人)
20
当然、契約はなくなる。の主張は正しい ?正しいかもしれない ?契約は切れても商品は作られ続けている。商品を作る以上は、ロイヤリティは支払ってもいい ?そんな気もする。オイラの師匠だった椅子デザイナーの故松村勝男先生の自慢は、天童木工で作っている、いちばん安い椅子 ?このヒットがつづいている椅子のロイヤリティ自慢を聞かされてきた。先生がなくなってからも遺族の奥様が引き継がれて支払われていた。
「作る以上は、ロイヤリティを支払う」という原理原則である。今回、当事者であるメーカーの決断・判断は、
「日本の家具デザインのあり方を考え直す大きなきっかけになる、歴史に残る文化遺産。」図面でいくらのデザインロイヤリティすらなかった時
年のロイヤリティ契約が切れたのだから、
椅子デザインの著作権問題と、故佐々木敏光のロイヤリティ問題とオーバーラップしている。
「ふじのリビングアート」にて、贈る椅子展とカオハガンキルト展を開催中(12月 27日まで)。新作「ちょっと椅子けんこう」で、ちょっと運動しませんか?
オイラは
NO
代もあった。デザインの意匠権の時代がやってきた。そして、今デザイン著作権の時代が始まろうとしている。その先駆者になっていただきたい。大手メーカー社長の決断が家具デザイン著作権の先進国への入り口になる。数年前、上海の家具見本市へ行った。まあ、いつもの好奇心だ。でも 1日で、イヤになってしまった。北欧家具のマネのマネ ? ジェネリック家具だと称するのだそうだ。これでいいのだろうか ?
だ。絶対イヤだ。
「ホンモノと同じだよ。」中国人バイヤーのコトバが悲しかった。椅子デザインって何だろうか ?工業製品かもしれないけど、工芸品、作品といえるデザインであってほしい。そして、そのデザインを大切にしたい。クレセントチェアは、デザインも作りも工芸品と言える椅子じゃないかな。
「著作権を認める。」
「著作権が認められる。」今、そんな時代の入り口に立っているんだと思っている。多くのデザイナーたちが、これから育っていく若いデザイナーの卵たちの為にも声をあげてほしいものだ。
背もたれの役割りを再考した新作「ちょっとベンリー椅子」。ちっちゃな背もたれは腰当たりがよく、奥行きの浅い座面は背筋を立たせてくれます。
陸中野田駅からふたたび北リアス線に乗り、昨年再開したばかりの田野畑駅をぬけて小本駅へ向かいました。
小本と盛岡を結び「塩の道」といわれた小本街道。小本駅から山道を西へ上がると、龍泉洞で知られる岩泉町の中心街につきます。洞窟に向かい清水川(しずがわ)の遊歩道を歩きました。
5〜 9月は「龍泉洞・清水川渓流釣りまつり」が開かれヤマメやイワナが釣れます。紅葉の季節にはサケも遡上するそうです。
カッパ伝説が残る清水川には、平成に入ってからも目撃情報が寄せられているそうです。龍泉洞の洞窟入り口につきました。龍泉洞からあふれる毎秒1.5トンもの水が、清水川に注ぎ込んでいきます。入り口の看板「龍泉洞断面想定図」を見ると、龍泉洞は地下を流れる川のようになっていて、その上に見学道を設けていることが分かります。
龍泉洞はアイヌ語で靄や霧の多い山を表す神秘的な「宇霊羅(うれいら)山」に抱かれています。海底で堆積した石灰岩が隆起した宇霊羅山には、数百万年の時をかけて雨水が染み込み岩を侵食して水路となります。それが大きくなっていったのが、龍泉洞と考えられています。
岩泉町の水道水には、龍泉洞の泉から湧き出るミネラルウォーターが供給されています。
水深 38mの第 2地底湖。
島根県の伝統焼き物「石見焼」(いわみやき)。窯元から嶋田孝之さんを招き、ロクロの実演が開かれました。
江戸時代から「はんどう」と呼ばれる水瓶で知られた石見焼は、島根県・江津市を中心とした全国でも珍しい大物の陶器を得意とする産地です。石州瓦にも使われる都野津層の粘土を1200度 C以上の高温で焼きしめ、丈夫な陶器を作る特性を活かし、TIME & STYLEは陶製のスツールやテーブルを開発しました。粘土をひも状に伸ばし円を描きながら積み上げる「しの作り」という技法を用い、幾つかのパーツを組み合わせてスツールの形を作り出すそうです。伝統工芸士の嶋田孝之さん(石州嶋田窯)は軽妙なお喋りを続けながら、ロクロを回します。「いじりすぎたらいい形にならんのよ」という言葉が印象的でした。スツールと共に蓋付きの鉢も制作されました。▼江津市で唯一となった登り窯で焼かれています。
吸水率が低く塩分にも強いことから味噌や塩、糠味噌の壺としても古くから使われてきました。伝統的な蓋付きの器を食卓に出したらどうかというのが TIME & STYLEの提案で、蓋をとったと瞬間にちょっとしたハレの気分を味わってほしいそうです。
きのうの晩は月が冴え渡っていて、耳がちぎれるほど寒かった。天気予報は「山間部は雪」。今朝畑に立って遠くの羽白山脈を見やれば、山の上部が白い雪で覆われている。予報どおり初冠雪。ああ、今年はいつもの年より少し早いな。足下のネギ畑に視線を移してみれば、一面の霜。冬の始まりだ ……。
こんな風に、自然の変化を見つめ、体の皮膚感覚で四季の移り変わりを感じ取りながら、これをたよりに様々な田畑の作業を行っている農家も少なくないはず。だが、その一方で、これを劇的に革新しつつある農家が登場し始めている。新たな農法はアメリカが発信源で、今現在その衝撃波が世界中に広がりつつある。この革命的な農法を「精密農業(PrecisionFarming)」と呼ぶ。「精密農業」とは何か。未だご存じない方も多いようなのでご紹介してみたい。
ごく簡単に言えば、様々な IT・AI技術を組み合わせて、これをシステム化して農業に応用したもの。インテリジェント化されたスマート農業システムは、有機自然農法にも、また同様に、遺伝
子組換え種子を主体とする大規模農法にも適用されている。まず畑の土の状況をどのように把握するか。衛星のリモート・センシング(遠隔走査)技術の向上で、地表の様子はおろか、地表の下数十センチまで土壌の状態を把握することが可能になり始めているという。しかも、その認識精度は、かつてのスパイ衛星も及ばない、地表1メートル四方単位よりも小さな単位へと急速に精密化しつつある。これと GPSを組み合わせると、どうなるか。実際に広大な農地に立つ人間よりもはるかに正確に、その農地の土壌や地表温度や乾湿、さらには土壌の成分に至るまで「精緻な地図」を描くことが可能になる。それぞれの土壌には、どのような作物を作付けすべきか。肥料は何が適するか。雑草対策には何が効果的か。詳細で正確な土壌データから、こうした設問への最適な解が導き出される。こうして PCのディスプレイ上に表示される「精緻な地図」は、これまでとは別次元の高度な情報を農家に提供することになる。
畑を耕し種まきや収穫に使われるトラクターや耕運機。これに一種カーナビ的な装置を搭載し、ここに「精緻な地図」のデータを送り込むとどうなるか。正確に予めプログラムされたルートをたどることができるだけではなく、地表の状況をセンサーが捉えながら、作物に応じて数センチ単位の正確さで、地面の掘り起こしの深さを調整することさえ可能になる。いつタネを撒くべきか。作物の生育状況はどうか。これも畑に設置された各種センサーが、人間の経験と感覚の積み重ねに匹敵する精度で、正確な情報を送り込んでくる。土壌の状況判断についても同様だ。これらの情報がデータ化されて PC上に表示される。また、有機か否かを問わず、農薬の散布にはドローンが盛んに活用されている。米国では低空で飛ぶ小型機やヘリとの事故防止のため原則禁止の地域でも、実際には、そこら中の農家がドローンを飛ばしまくっているという。こうして生育した作物は、スーパーコンピュータを利用した気象データが導き出す、「最適な収穫日」を迎えることになる。
精密農業の従事者に求められるのは、このように、 PCの画面上に表示される膨大なデータを正確に読み取り、これをもとに様々な判断を下すことのできる能力、ということになる。もっとも、その判断能力についても、高度化した人工知能ソフトウェアの判断が、生身の人間を上回り始めているというのが現実だ。将棋でさえ、人工知能にプロが勝てなくなり始めていることを思えば、ごく当然の成り行きだと言っていい。これは何も近未来 SF小説の話などではなく、いま現実に起こりつつある事態なのだ。こうした先端技術を背景にして地球規模で地表の状況を把握する力は、アメリカ合衆国が圧倒的で他国の追随を許さない。実際、米国の巨大農業商社は、アフリカや南米などで精密農業の可能性を探るグローバルな動きを見せている。これまで自然環境の厳しさから農業の発展から取り残されたような地域でも、この技術の応用で、一定の収穫が可能になる地域がナイジェリアなどで出始めているらしい。もちろん我が国でも一部の先進的な農家や大手スーパーの自社農場で新たな取り組みが始まっている。南米や中国などで様々な実験を行っている商社の動きも活発化しつつある。
しかし、この精密農業、何もかもが結構ずくめの明るい未来というわけでは、ない。既にお読みになってお分かりのように、この技術、基本的に人間の力を必要としない方向に向けて発展しているのだ。現状では農作物の種類により、その最終工程すなわち「収穫」の時点で、まだ多数の人力を必要としている。実際アメリカの大規模農業では、その収穫作業の大半をメキシコ人に代表される移民労働者が担っている。その多くが不法移民であって、処遇の劣悪さが問題となる一方で、就労ビザを与えてこれを合法化すべきかどうか、大統領選の争点の一つとなっているほどだ。ただ、この収穫・選別・出荷という工程も、人工知能とロボット技術の進展で、徐々に人の力が必要なくなる方向であることは間違いない。労働力としての人間が要らない! その意味では、この精密農業、人口減少に直面する我が国にとっては、いろいろな問題を含みつつも、農業大復活のきっかけとなりそうな予感がする。
遊歩道には木材チップが敷かれ、気持よく歩けます。
10月に創業 40周年をむかえた岩泉純木家具は「三百年生きてきた木は三百年使える家具に」をモットーに、広葉樹の特性を活かした家具を作り続けるメーカーです。2代目の工藤林太郎さんが木工場より先に見て欲しいと案内してくれたのは、龍泉洞近くの遊歩道「神成里道」(かんなりりどう)でした。元々は山里をつなぐ古い街道で、苔むした石垣が残されています。
遊歩道の周辺はクルミの木も豊富です。森に住むリスが囓ったクルミの実はスパっとした切り口が見事でした。山間部にはドングリを使ったお菓子をつくる習慣も残っているそうです。
1992年に「酸素一番の町」を宣言した岩泉町には、綺麗な水と空気にひかれた移住者も増えています。
白い花畑では、シェットランドポニーの「みそら」が草を喰んでいました。岩泉町のある北緯 40度前後は広葉樹の種類が一番多い地域といわれ、遊歩道の周辺にはアスナロやアカマツ、カエデ、ニレ、トネリコ、ホオノキ、コナラ、ニガキ、ミズキ、オニグルミ、クリ、カツラ、サクラ、トチノキ、ケヤキ、クワ、センノキ、オノオレカンバ、カシワ、サンショウ、シナノキ、エンジュ、ミズメ、アサダ、ウルシなど広葉樹林が広がります。散策しながら岩泉の木々の豊かさを感じて欲しいと工藤林太郎さん。ミズナラの樹上にたつ「配羅郷ツリーハウス」が見えてきました。NPO法人 MORIMORIネットワークや(社)グリーンカレッジ岩泉などによって建てられ地域のランドマークになっています。「日本人は昔から自然と溶け合って生きてきました。岩泉には森と寄り添って生きていける可能性があります」と工藤林太郎さん。広葉樹の小径木を活かした家具にも挑戦したいそうです。
ドラゴンシリーズ
ドラゴンへの道編
俺の考え 3
-何のために
自分の命にどれくらいの時間が残されているのだろうか。家族の一人一
人にどれだけの時間が残されているのだろうか。そんなことを普段から意識していたら人間はおかしくなってしまうだろう。しかし、そのような恐怖感に切迫した時を生きている人も存在する。
普通はそう考えたり感じたりすることなど日常の時間の中ではあまり無いのだろうが、健康な者にとって、命の終わりは神のみぞが知っていることなのかもしれないし、いや、その健康な者にも突然、明日にも終わりが訪れるのかもしれない。私達、日本人は 4年前、明日が突然終わることを知り、実際に多くの人々がその経験をし実感した。
病を背負い、自分の残された時間をはっきりと認識しながら生きている人も存在する。また、老いて自分の天命がもうすぐ終わるであろうことを、悟っている人もいる。
さて、私達は何の為にこの世に生まれてきたのだろうか。
この問いを私達は自分に対し、幼い頃から、日々、頭のどこかで生きていることを実感し、今日までその問いを続けてきたのではないだろうか。それは昔、学校で先生に無条理に意味もわからずに殴られている時にも感じていたし、ふと歩きながら一息ついてベンチに腰掛けてボーっと空に向けてタバコをふかしている時にも感じたし、終わりはいつ頃になったらや
ってくるのだろうかと言う、取り止めの無い感情が突然に目の前に現れてくる、自分の存在への問いかけのようなものだった。
そんな時、自己の存在の小ささと無意味さを宇宙のスケールの中で考えてみたり、同じ動物として産まれた牛や豚などの産業動物と人間の生命の差について考えたりしながら、人間社会の矛盾を考えることで、自分の存在について考えたり、
17
吉田龍太郎( TIME & STYLE )
自分のくだらなさや無意味さを考えたりもした。それが若い時にできる心の自由なのだ。
そして、時々、若者は追い詰められて、その矛盾を受け入れることができずに命を絶つ。
親から資産や会社を引き継いで、不動産や沢山の金でダサい酒を飲んでいるどこかのバカ息子もいれば、インターネットやゲームなん
かで一発当てて、球団とか不相応な物を所有して偉そうな講釈を語り、いかにも我人生の勝者なりと言う勘違い人格者のすぐ隣には、アホな政府やアホな社会の矛盾の産物のような物乞いをして生かざるを得ない多くの老人たちの人生がある。この大きな落差は何を意味しているのだろうか。
このバカ息子は自分のダサさを知ることも無く、自分が恥ずかしいことを理解することもなく、表層的で、集団的自衛権のような宗教的経営者のマニュアル的なダサい経営論をそのまま丸写しで語りながら、弱者への慈悲をうたい、貧相な受売りの経営論で安っぽい愛情と人情を振り回している。
金を儲けた人間が成功者のように振舞って偉そうな講釈を垂れている世の中で、ちょっと業界で有名になったり、社会で成功したような勘違いをしている者達は、如何にも幸せな人生の成功者のように思っているようだが、そんな人間の中に、もっと社会の周辺のことや弱者のことを考える者がいれば、球団やコマーシャルの為の偽善的スポンサーシップなどを止めて、もっとマシなことができるはずだが、もちろんできる訳はない。
業界での名声や事業での金儲けと、その人間の本質は全く完全に一致しな
い。
さて、私達は何の為に生まれてきたのか ?
と言う冒頭の話に戻るが、つい最近のある日、突然、神から、こう言われ
た。お前の好きな仕事よりも大事なものがあるぞ。
お前が愛する人たちと生きてゆくことだ。時間は限られている。仕事を捨
てても金が無くても、愛する人たちと生きてゆくことが人間がこの世に生ま
れてきた唯一の理由だ。と神は私に断言した。それから、何だか気持ちが軽
くなった。いつ命が終わっても過ごした時間は永遠に消えない。どこかにそ
の瞬間はいまでも存在する。
父の肩の大きさとヒゲの感触は今も手の中に温かく残っている。
ドラム缶製の薪ストーブで暖をとり加湿します。
岩泉純木家具の木工場に伺いました。古い木造の事務所と工場には、冬に備え薪が積まれています。昔ながらの木工場を見学したいと、フランスなど海外から学生が訪れることもあるそうです。
岩泉純木家具の家具作りは製材から始まります。広葉樹のセンやクリ、クルミ、ケヤキ、ニレ、タモ、トチなどを丸太で仕入れ、椅子の座面や肘、背もたれ、テーブルの天板、脚など、どのパーツに最適な材かを考えながら製材しています。昭和 30年頃静岡で作られた製材機は、丸太を載せた台車に人が乗り、帯ノコに向かって自走します。帯ノコは盛岡で研いでもらうそうです。木の乾燥も、樹種の特性や板の寸法に合わせ、最適な含水率に収まるよう数年をかけて行うそうです。
木取りから部材の加工、組み立てまで、ひとりの職人がひとつの家具を一貫して作り上げます。木のクセを見極め、杢目の表れ方や強度などを計算し、完成した姿を想定しながら作業が進められます。完成した家具には焼き印で職人の名を刻んでいます。
職人の聖域ともいえる「研ぎ場」。個人ごとに専用の砥石が用意され、短くなるまで研がれた刃が仕事を物語っているようです。
▲ 化粧直しのため戻ってきた 20年以上前のベンチ。
新しいベンチを作る一方で、古いベンチが化粧直しのため里帰りしていました。「三百年使える家具」を作るため接合部に金物は使わず、ひとつの工程を納得いくまで仕上げます。使い方しだいで、広葉樹のムクの木ほど長持ちする素材はないでしょう。
木工場の裏手には、龍泉洞の水を宿した「清水川(しずがわ)」が流れています。受注生産のため、脚部の形状やサイズなどセミオーダーも受けるそうです。右は和室で使えるよう脚部を畳ズリにした椅子。座面は回転式です。漆塗りの作業室と漆を乾かすためのムロ。
修行中の若い職人は仕上げの工程を任されています。以前は拭き漆が大半だったものの、最近は嗜好の変化や家が明るくなったことで(漆は紫外線に弱い)オイル仕上げも増えています。漆塗りは専門の職人が行い、大きな天板をムロで乾燥させていました。岩手県の自然塗料メーカー シオンが開発したカラーオイル「U-OIL」(主原料はアマニ油、紅花油)も使うそうです。お昼どき工藤さんのご自宅にお邪魔しました。清水川の川沿いに建ち、玄関では奥様の生花が出迎えてくれました。玄関を入ってすぐの階段を下りるとダイニングキッチンという間取りになっていて、以前は公衆浴場を営んでいたこともあるそうです。
奥様の手料理。名物ひっつみ汁やマツタケご飯など。
中庭には公衆浴場時代のタイルが見えます。お昼を頂きながら創業者の工藤宏太さんに話を聞きました。先代は岩泉で製材業を営んでいて、工藤宏太さんが働き始めた昭和 44年頃は、広葉樹を飛騨などの家具メーカーに出荷していました。そこで工藤さんが見たのは広葉樹の太い一等材が合板の化粧材として買い占められる姿で、このままでは岩泉の国有林は 25年で伐り尽くされると言われました。その言葉どおり原木の枯渇とともに営林署は廃止され、木材が高騰して製材所の経営は厳しさを増しました。奥様の作ったクラフト作品。工藤宏太さんとの出会いは、秋岡芳夫さん主宰の木工教室だったそうです。
そんなとき材木問屋から勧められたのが、当時まだ珍しかった「木のムク板テーブルづくり」でした。樹齢数百年の木々が十数年で使い捨てられる現実をみた工藤さんは、ムク板テーブルならば長く使ってもらえると考え木工場の設立を決意しました。指物職人だった叔父・工藤善治郎さんに家具づくりを習いながら、はじめは盛岡や弘前で販売会を行い、2年目には京王デパートの家具売り場担当者が訪ねてきて首都圏へ販路を広げ、木工家仲間と共に銀座や八重洲で定期的な家具展も開いてきました。
工藤宏太さんは国の森林行政に対しても、針葉樹の植林をストップし下草刈りをやめて広葉樹林の自然な生長を見守るべきと訴えています。岩泉から太平洋へ注ぐ小本川のダムに魚道をもうけ、サクラマスなどの遡上を復活させる運動も粘りづよく続け、東北電力や岩手県を動かしました。岩泉の山河とともに生きる、工藤さんの挑戦はつづきます。