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Copyright . 2015 Shiong All rights reserved
カーフェリーでわたる八戸
青森県南部の都市・八戸。古くは糠部群(ぬかのぶぐん)と呼ばれ、源平合戦で活躍した「糠部の駿馬」を育んだ地です。深夜 23時 59分に北海道・苫小牧を出発したシルバフェリーは、朝 7時半に八戸港フェリーターミナルに接岸しました。
▲ 津波が押し寄せた工場内の様子。▼ 周辺道路に巨大なロール紙が流出。『東日本大震災 八戸市の記録』から。
臨海工業地帯の三菱製紙八戸工場にも5m近い津波が押し寄せ大きな被害をうけました。日本製紙石巻工場と並び書籍・雑誌用紙のシェアが高い同工場の停止は出版業界に衝撃を与えましたが、2011年 11月には完全復旧を成し遂げました。
工房楽記椅子デザインの著作権
鈴木 惠三(BC工房 主人)
ふじのの工房は、すっかり秋。
前号で、マネっこコピーデザインのコトを
ちょっと書いただけなのに、
皆さんから反応がいろいろある。
拡がりが生まれている。
そのひとつが、故佐々木敏光さんの
デザインロイヤリティー問題だ。
家具のデザイン界で、
いろいろ取り沙汰されているようだ。
デザインをしてから 20年で、
デザインロイヤリティーが消滅してしまう?
メーカーからの通告で、奥さんが困っていた。
私も、この夏、相談を受けていた。
奥さんの真弓さんは、
わざわざ藤野の工房まで訪ねてきた。
弁護士さんに相談していたが、
オイラのアドバイスを聞きたいという。
オイラは、法律で争うのでなく、
相手メーカーを訪問し、じっくり話した方がいい、
とアドバイスした。「いい落としどころを、両者で見つけてほしい」
の願望があった。今も売れてるのだし、あんなにヒット作を生み出したデザイナー
佐々木敏光に、感謝のキモチがあるなら、
むげに拒否しないだろう、の楽観的見方をしていた。
現実は違った。
奥さんから、「相手にされませんでした。」の連絡をもらった。
この夏いちばんの、悲しく、つらい出来事だった。
「どうしたらいいのだろうか……?」
オイラは、佐々木敏光最初の展覧会を企画した。 年前だ。
同年輩の良きライバルとして、家具デザインを愛してきた、
いちばんの友だ。
彼の葬儀でも、弔辞を読んだ。
「オレは、オマエが好きだった。」彼は、明るくオープンな性格。何でもオイラに連絡をくれた。
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ホントに良き友だった。
今回問題になっている「クレセントチェア」の時も、「スズキ、久しぶりに気に入ったデザインが出来たョ」
の連絡をもらっていた。
「今までより、上品なデザインだ」が、オイラの印象。
これを言ったら、「技術のあるメーカーは、やりがいがあるョ。」と、
うれしがっていたのを思い出す。
法律論で言ったら、何が正しいのかワカラナイが、
少なくとも法律論だけじゃなく、日本全体の家具デザインの方向、
あり方を考えるおおらかさが必要なんじゃないだろうか。
メーカーとデザイナーの信頼しあえる関係が生まれてほしい。
「椅子デザインの著作権が認められる日本へ」
この問題に、怒りの声をあげているというデザイナーの皆さんに、感謝と応援のエールをおくりたい。デザイナーとメーカーの「信頼関係」が、本物の日本のデザイン文化を育てるんじゃないだろうか。
援に乗り出します。八戸で採れる砂鉄や石灰石を利用した製鉄所やセメント工場が工業地帯発展の先駆けとなり、昭和 30年代、高度経済成長期に「新産業都市」に指定されると臨海部の埋め立てが加速。三菱製紙、大平洋金属、三井金属八戸製錬、東京鉄鋼、日本高周波鋼業、北日本造船などの工場が並ぶ臨海工業地帯が形成されました。工業地帯は、昭和三陸地震津波(昭和 8年)やチリ地震津波(昭和 35年)、十勝沖地震(昭和 43年)、三陸はるか沖地震(平成 6年)など度々の地震・津波の被害にあいながらも、そのたびに復興を繰り返してきたのです。
▲浸水する多賀小学校。▼市川町橋向地区の住宅被害。『東日本大震災 八戸市の記録』から。
住宅や学校などが津波被害をうけた市川町に、9月末「多賀地区津波避難タワー」が完成しました。床面は地上から約13メートル。毛布や発電機、石油ストーブ、トイレ、食料、飲料水を備え、80人が約 60時間過ごせる機能があるそうです。運ぶベルトコンベアのサイロです。埠頭から船に積み込み、セメントやコンクリートの骨材として関東方面へ送られています。
江戸時代から掘り続けられてきた八戸鉱山は「八戸キャニオン」とも呼ばれ、南北1800m東西1000mの露天掘り採石場では 90トンダンプも豆粒に見えます。すり鉢状に海面下170mまで掘られ、最深部は「日本一空に遠い場所」ともいわれます。石灰石は馬車鉄道などで運ばれていましたが、現在は街の地下を通る10kmに及ぶベルトコンベアで結んでいます。
子供の頃からナッツとせんべいが大好きだ。だから、炒った豆の袋詰をよく買う。ピスタチオ、アーモンド、花豆、マカデミアナッツ、そしてピーナッツ。どれもそれぞれの香ばしさがあって、甲乙つけがたい。こうした豆の袋詰がスーパーやコンビニ、輸入食品店の棚に目立ち始めたのは、ここ数年の傾向のひとつだ。売り場にナッツ類が増えてきているのは、欧米も同様で、その背景には、乾燥果実類への注目度の上昇と並んで、一種の「自然食指向」がある。そんな中でも、炒り大豆、節分に撒く例の豆の袋を手に取ってその裏側
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を見ると、ちょっと気になる文字を目にすることになる。『この製品は遺伝子組み換えではない国産大豆のみを使用しています』という文字が目立つ形で記載されているものが多いのだ。「国産大豆」という部分が「北海道産の大豆」と書かれている場合もある。これは何も、炒り大豆の袋詰だけの話ではない。同じように大豆を原料とする豆腐や味噌・醤油のパッケージでも、同様の記載が見られる。我が国では、大豆を原料とする食品に、突出する形で『遺伝子組み換えではない大豆のみを使用しています』という表示が目立っているのだ。
「遺伝子組み換え品種」の流通については、国の基準が定められて
いる。平成 年7月以降、内閣府食品安全委員会により「安全性に
問題がないと判断された遺伝子組換え食品」だけが流通を認められ
ているのだ。現状我が国でこれに該当するのは、次の8種類に限ら
れる。大豆(枝豆、大豆もやしを含む)、トウモロコシ(コーン)、
ばれいしょ(ジャガ芋)、なたね(菜種)、綿実、アルファルファ、
てん菜(砂糖大根:ビーツ)、パパイヤ。このリストを見れば明らか
なように、その大半は飼料や加工食品の原材料としての利用が主だ
と見ていい。スーパーやコンビニに並ぶ様々な加工食品、これらに
GMF(Genetically Modified Food:遺伝子組換え食品)使用の
表示がなされている場合が多いのだ。読者は「そんな表示は見たこ
とがない」と思われるかもしれない。しかし、様々な加工食品の成
分表示を注意深く読めば、豆粒ほどの文字かもしれないが、必ず表
示されているはずだ。
バイオテクノロージーを利用した農産物開発は、世界的な大企業から新規ヴェンチャーに至るまで、世界中で熾烈な競争が繰り広げられている。例えばトウモロコシ。コメや小麦と並ぶ世界の基本食料のひとつであるだけに様々な耐性があり、安定した成長と収穫が見られる種子の開発が驚くべきスピードで進化しつつある。燃料用エタノールの素材としての需要が急増していることも背景にある一方、現在世界で「食用として」生産されるトウモロコシの圧倒的に大部分は、牛・豚・鶏などの餌すなわち飼料として利用されている。昨今は魚の養殖の「飼料」としての役割も無視できない。牛や豚や鶏肉の類、また養殖のエビやヒラメやタ
イを食べることで間接的に GMFを摂取していることになる。いま我々は日常生活の
中で、これを一切口にすることなしに毎日の暮らしを送ることは、ほとんど不可能ではないだろうか。
お断りしておくが、私は GMF絶対反対論者でもなければ、絶対賛成論者でもない。その是非を語れるほど、この問題について深くは勉強していない。これから徐々に学んでいきたいと思っている。それだけに、 GMFをいたずらに鬼子扱いするのではなく、そのメリットとデメリットについて、より多くの情報を積極的に手に入れて、自分なりの判断を下していく必要があると考えている。これまで遺伝子組換え植物の種子開発会社は、一方的な批判にさらされることを恐れて、情報の開示に積極的とは言えなかった。この問題に関して、ごく最近アメリカで注目すべき動きが見られるのでご紹介したい。
この分野で世界一の実力がある、と言われる米国の会社モンサントが、従来の秘密主義を転換して積極的に情報を外部に公開する姿勢に転じたことが、大きな話題となっているのだ。これまでは、自己に有利な取り計らいを求めて、農業関係の政治家やジャーナリスト、一部の学者たちに「秘密裏に接触する」という姿勢だったのが、これを百八十度転換。実験作付けの現場を公開し、求められれば反対派に対しても積極的に資料を提供し、論争にも可能な限り応じていく方向が見え始めた、というのだ。実際、日本モンサントのホームページを見ても、その姿勢の変化は明確に読み取ることができる。こうした変化の背景には、あるゆる情報の開示を求めるネット社会の強烈な圧力があることは間違いない。同時に、会社側に一定の自信が生まれつつあるという側面もありそうだ。いずれにしても我々の健康と自然環境への影響が心配される問題については、出来る限りの情報が公開されて活発な議論が展開されるべきだと思う。
子供の頃、田舎の農道を歩いていると、肥溜めを目にする機会が珍しくなかった。下水は都会の一部を除いて未発達で、東京でさえ汲み取り式のトイレが残っていた。 1960年代の初めにはまだ、江戸時代以来の人糞を肥料とする農業が日本全国で当たり前のものとして行われていたのだ。それが高度成長期に一気に化学肥料へと移行。やがてこれが土壌汚染と地力をやせ衰えさせる恐ろしい原因になるという認識が共通認識として成立して、有機農法への注目が急上昇し始めたのは、わずかにここ三〜四十年の話ではないだろうか。その影で驚異的なスピードで加速されつつある遺伝子組換え技術。様々な問題の突破口となるかどうか、その動向からは目が離せない。
八戸港の館鼻岸壁には、全国から集ったサバの巻き網船が並んでいました。夕方に出港して夜間に操業し、早朝に港に戻り水揚げを行います。館鼻岸壁の名物は 3月中旬.12月の毎週日曜日に日の出から開かれる朝市で、1万人以上の人出で賑わう日本一の朝市ともいわれます。朝 7時オープンの「漁港ストア」は、朝食をとる人達で賑わっていました。
▲ ▼ 館鼻岸壁に打ち上げられた漁船。『東日本大震災 八戸市の記録』から。
八戸港の魚市場
海に向かって翼を広げているように見える八戸市第三魚市場には、主にイカ釣り船で急速冷凍された「船凍イカ(スルメイカ、アカイカ)」が水揚げされます。昭和 50年に建設されました。
H鋼をアーチ状にまげた梁を交差させ、ドーム型の屋根を形作ります。ドーム屋根はリズミカルに連続し、外にはカンティレバー構造の庇をはね出しています。震災後に建物の一部は解体され、岸壁の再建工事が進めらていました。
江戸時代からイワシの漁場として「鮫浦港」の名で栄えた八戸港。第一魚市場は、昭和 8年に開設され、主にサバや生鮮スルメイカ、イナダ、イワシ、サンマなどを水揚げしています。八戸の水揚量は全国第 4位の約 12万トン、金額で約230億円で(平成 26年実績)、サバ、イカ、イワシの 3種が全体の 8割以上を占め、対馬海流と親潮、黒潮の境に出来る八戸前沖の潮目ではタラやイワシ、サケ、カレイ、ヒラメ、キンキ、アンコウ、ブリ、サメなど多種多様の魚も獲れます。サバは伊豆半島沖で産卵してから餌を食べながら北上し、水温の下がる八戸沖で脂肪を蓄えるため脂ののった美味しいサバが獲れます。多くは巻き網式で漁獲され、9月.11月に最盛期を迎えます。漁港周辺には水産加工場も集中しています。従来の開放式の魚市場から、水揚げ、仕分け、出荷などの衛生管理を徹底した閉鎖式の HACCP(ハサップ)対応型荷捌き施設へと、魚市場の姿も変わりつつあります。八戸港の HACCP対応型荷捌き施設「A棟」は完成直前に震災の被害を受け、タンカーが岸壁に衝突するという不運もありましたが、2012年 10月に竣工しました。
岸壁に衝突した大型タンカー。『東日本大震災 八戸市の記録』から。
まだ暗い 3時ころから、八戸線・陸奥湊駅前の通りは市場の活気で賑わいはじめます。昭和 28年に引揚者の授産施設として八戸市営魚菜小売市場が設立され、海産物や野菜、惣菜、花などを持ち寄った露店が集まるようになりました。
港で働く女性たちは「ガンガラ」と呼ばれるカゴを背負い、市場で魚や野菜を仕入れ電車に乗って行商に出掛けました。陸奥湊駅前市場からも、往時の風情を感じられます。コーヒーを提供する露店では、世間話に花が咲いていました。
市営市場内には食事コーナーがあり、刺身や焼き魚、惣菜のパックを買い、売店のご飯やせんべい汁と一緒に食べるのが定番の楽しみ方になっています。新鮮な刺身はどれも美味しそうで、ついつい沢山買い込んでしまいます。
▲高い津波に包まれながらも蕪嶋神社の社殿は被害を免れました。『東日本大震災 八戸市の記録』から。
蕪島から始まる「みちのく潮風トレイル」は福島県相馬市まで全長約 700kmの沿岸を歩く壮大な道で、環境省のグリーン復興プロジェクトのひとつとして 2015年度中の全面開通を目指しています。
蕪嶋神社の社殿天井には、八戸市立鮫小学校の生徒たちが描いた 56枚の天井画「ウミネコ乱舞」が張られています。鮫町出身の久保田政子画伯が生徒を指導し、指先を使って描いた力強いウミネコの絵です。弁財天や蕪島の四季を描いた、久保田画伯の障壁画も展示されています。今回八戸を案内してくれたのは、地元八戸を拠点として活動する編集者兼デザイナー .坂真さんです。「八戸ノ本室」を主宰する.坂さんは出版物やイベント企画などをとおして、本来的な地域資源をより魅力的に伝えるための仕事を進めています。2013年度グッドデザイン賞を受賞した 「Fun Club」(フンクラブ)は、ウミネコという地元の資源を活用し、地域振興につなげた点が評価されました。
2015年11月25日(水)〜27日(金)
10:00〜18:00 (最終日は17:00 まで)東京ビッグサイト西1・2ホール+アトリウム
IFFT/インテリア ライフスタイル リビング11月 25日から 3日間開催。
今年の「IFFT/インテリアライフスタイルリビング」は、2015年11月25日(水). 27日(金)までの3日間、東京ビッグサイト西ホールで開催されます。庭のホテル東京(水道橋)でひらかれた記者発表会の冒頭、日本家具産業振興会の加藤知成会長は「これからの家具見本市を、産地の技術を見せ競う場にしていきたい」と訴えました。アトリウムでは昨年に引き続き 「THE HOTEL」をテーマに特別企画が行われます。伝統技術ディレクター立川裕大さんを迎え、屏風を展開したような会場で「おもてなし」を可視化するそうです。
▲リサ・ラーソンさんの陶芸作品を扱う【トンカチ】は、彼女自身のスケッチから起こした新作「スケッチシリーズ」を発表予定。▲ 【 TIME & STYLE 】は「JAPAN STYLE」のコーナーにて、新作のドロワーやコンポジション キャビネットを出展。▲ 手仕事の逸品「山形緞通」で知られる
【オリエンタルカーペット山形緞通】は、空景シリーズ「あけぼの」や、隈研吾さんデザインの新作をお披露目する予定です。
羊毛フェルトを使い家具やオブジェを制作するテキスタイルデザイナー澁木智宏さんは、テキスタイルを使った新作を発表。
【TOMOHIRO SHIBUKI 】▲岡山のベビーベッドメーカー【ヤマサキ】は、椅子やベビーサークル、テーブルなど多目的に使える「つぐ」シリーズを出展。
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▼【カンディハウス】は、深澤直人さんデザインの新 LUXコレクション「KAMUY(カムイ)」 を出展。
▲ NEXTのコーナーに出展する【 Hiragana 】は、書道家・國廣沙織さんの書いた「ひらがな」をモチーフにしたアクセサリーを展示。昨年に続きアクセサリーやファッション、テキスタイル、食品などの展示も充実しそうです。▲産地パビリオンとして大川家具工業組合が久々の出展を行うことになりました。写真は【立野木材工芸】が、若手デザイナー堀達哉さん、古田恵介さんと取り組んだ新ブランド「BENCA」の家具。
大正から昭和の初め是川遺跡の発掘・保護につくしたのは、八戸を代表する資産家であった泉山岩次郎、斐次郎兄弟でした。八戸市埋蔵文化財センター「是川縄文館」は、是川(これかわ)遺跡や風張(かざはり)1遺跡などの出土品を保存、研究、普及する場として2011年に設立されました。中居遺跡、一王寺遺跡、堀田遺跡の3遺跡で構成された是川遺跡は、八戸市の南東・新井田川周辺に広がる縄文時代の遺跡で、出土品のうち 963点が国の重要文化財に指定されています。また、是川遺跡の対岸にある風張 1遺跡の竪穴住居跡からは国宝「合掌土偶」が発見されています。埋蔵物の保管施設。「縄文くらしシアター」では、約 3000年前の縄文人の一日を映像で解説しています。縄文人たちは沢沿いの集落に暮らし、主食のトチの実を拾って沢の水にさらして渋抜きしたり、木製のスキを使ってウグイやサケなどの魚をとったり、鹿を弓矢で狩ったり、山菜や山芋を採ったりしながら食料を得て、自然の恵みや祖先の霊に感謝する祭事を頻繁に行いました。
漆塗り「櫛」 是川中居遺跡(縄文晩期)樹皮を曲げた桶のような出土品もあり、曲げわっぱのような構造で漆を塗って仕上げています。こうした漆製品を復元し、縄文人の漆工技術をさぐる研究も行われています。
漆塗り「腕輪」 是川中居遺跡(縄文晩期)漆塗り「樹皮製容器」 是川中居遺跡(縄文晩期)
漆塗りの櫛や腕輪など、女性の身だしなみを示す遺物も見つかっています。是川中居遺跡は地下に沢の流れる低湿地帯で、縄文人がトチやクリの殻を大量に捨てた泥炭層の「捨て場」から漆製品が多く発掘されました。泥炭層が空気を遮断し、冷たい地下水の流れにより「天然の冷蔵庫」のような効果が発揮され、数千年の時の流れから漆器を守ったのです。
展示室は出土品保護のため、照度を暗く抑えています。
▲ 籃胎漆器「鉢」 是川中居遺跡(縄文晩期)
▼ 土器に漆を塗った「塗り注口土器」 是川中居遺跡(縄文晩期)
是川遺跡で発掘された個性豊かな土偶の数々。
風張1遺跡で発掘された土器の数々。洗練された美しさは、是川遺跡へと継承されていったようです。
風張1遺跡の竪穴住居で発見され、2009年国宝に指定された「合掌土偶」。手を合わせ祈るような姿をしています。
▲ 収穫されたトチの実。渋抜きをしてから食用にします。
▼ 大正時代の発掘風景。泉山兄弟は私財を投じて発掘をすすめ、出土品の流出を防ぎ、コレクションを八戸市に寄贈しました。また絵葉書などを作り遺跡の普及にもつとめています。
是川中居遺跡に隣接した分館では、泉山岩次郎、斐次郎兄弟が是川遺跡の発掘・保護に尽力し、考古学者に注目されるようになった経緯などを紹介しています。屋外には復元された竪穴住居や縄文人の主食トチなどの木々が立っています。縄文人は集落の周辺に、トチやウルシなど生活に役立つ木々を植林していたようです。是川中居遺跡の発掘現場。足を踏み入れるとジュクジュクとした低湿地帯であることを実感します。ここを流れていた沢を中心に縄文人は暮らしていたと推察され、木の実の殻や生活用品を埋めた「捨て場」から漆の出土品が多く発掘されました。沢の流れにトチの実を浸して渋抜きをした「水さらし場」も発見されています、
遺跡を見下ろす高台に是川遺跡の記念碑が立っています。
まるで鷹のクチバシのような形をした大型重機のヘッド。その口先がコンクリートの壁や柱をかじったとたんに、舞い上がってしまうのがやっかいな粉塵だ。解体用什器と散水対応のセットは必須のものとなり。ほどなく水を汲み置きするためのタンクを備
O
え付けるなど工夫も見られた。上棟解体作業にかかった期間は、実質 4ヵ月ほどと短かったけれど、丘ます組の所長 氏は広島
M
県人らしい実直な人柄で、スタッフからも監督と呼ばれ慕われていたし、直接現場へ出向いた時には、丁寧に説明して頂いた。また私が一番関心したのは、 M氏の補佐役 氏の存在だった。現場のまとめ役を担い、誠実にこなしていたからである。それは彼
M
らの仕事ぶりに表れた。段取り良くことが運んでいく。 氏と
氏は同郷とのこと。なるほど納得である。
さて、崩れ落ちたコンクリートの塊。これがまた厄介なのであ
O
る。ある程度砕き、時には粉砕し、鉄筋部分等を分別しなければならない。重機ののヘッドは粉砕に適したものが使われ、山積みに置かれたガラをトラックに乗せ、次から次へと搬出してゆく。
M
向こう側で崩す人たちがいれば、搬出口では人的作業というふう
である。これらの作業を丘ます組チームは、スムーズに無駄なく
進行させていたのではないだろうか。
上棟解体作業の半ばを過ぎた頃にはある程度安心して現場を眺められるようになった。もう一点、オカマス組に感謝していることがある。あの銀杏の木が伐採される前、お神酒を挙げさせて欲しいと申し入れたところ 氏は快諾してくれたのだった。約束の日の朝、 氏は清めの塩とお神酒を用意し待っていてくれた。広島県人いや日本男子の心意気だろう。私は確かに彼らから人間としての誇りを受け取ったのである。
M
蕪島から南東にむけて、リアス式三陸海岸の北の入り口となる「種差海岸」が全長12kmにわたり続いています。その変化に富んだ海岸風景は、東日本大震災後に三陸復興国立公園の一部に指定されました。司馬遼太郎は『街道をゆく -陸奥のみち』のなかで「どこかの天体から人がきて地球の美しさを教えてやらねばならないはめになったとき、一番にこの種差海岸に案内してやろうとおもったりした。」と書いています。
種差海岸・小舟渡の磯場に建つ「海席料理処 小舟渡」は、TV・雑誌でもよく紹介される人気スポットです。四季折々の魚貝類の刺し身や焼き物、八戸名物いちご煮(ウニ・アワビの吸い物)、磯ラーメンなどを海を見ながら楽しめます。
ダイナミックな情景を楽しめる葦毛崎(あしげざき)の展望台は、中世ヨーロッパの見張り台を思わせます。戦時中に海軍が設置したレーダー施設の遺構を利用しています。
葦毛崎展望台から種差天然芝生地まで「みちのく潮風トレイル」の一部ともなっている遊歩道が続きます。種差海岸の高台は「妙野」と呼ばれた南部馬の産地でした。源平合戦の時代から糠部の駿馬として知られた南部馬は、武将にとって合戦の勝敗を左右するほど大切なもので、明治には軍馬としての需要が高まり、馬産バブルといった状況が起こりました。青森県は馬産からの徴税を計りましたが馬産家の猛反対により、明治 17年、民間による八戸産場組合が設立され、後の自由民権運動につながっていきます。
ハマギク
防波堤やテトラポッドのない自然のままの砂浜が 2.3kmも続く大須賀浜は、「鳴き砂」の浜としても知られています。津波で大量の白砂を失い、回復が待たれています。
かつては馬も放牧されていた「種差天然芝生地」。昭和のはじめに起きた国立公園化の運動など「東北の軽井沢」を目指す試みが盛んに行われてきました。天然芝生地の脇で、打ち上げられたコンブを干す方がいました。津波の後、海の中の様相が大きく変わり、未だに完全には回復していないと語ります。
種差海岸の展望台で一番高い場所にある「高岩展望所」。高岩神社の鳥居をあがっていくと、亀の姿をした巨石が鎮座しています。
内田 和子
つれづれなるままに
第 回
東京生まれの
おのぼりさんご一行
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女学生時代の友人たちが 3カ月に 1度集まって東京名所めぐりをはじめた。みな東京出身だが結婚を機に地方へ移った人も多い。ゆるりしばりのない集まりで、毎回
名以上が参加しているとのこと、当日参加でも OK
と声をかけてくれた。参加 1回目は江戸東京博物館、両
国駅前だが待ち合わせ広場は大きい。遠目に見える「お
ばさまご一行」に大きな声で駆け寄り、お互い同年代を
確認してほっとする。入場チケット売り場で、運転免許
証があるか、何か身分を証明するものがあるか、みなバ
ックのなかをゴソゴソしはじめる。誰かが窓口とかけあ
っていたが、この日のための運転免許証、しっかり手に
して見せると、なんのことはない。全員顔パスで通して
くれた。うれしいのかうれしくないのか微妙ではあった
が、まぁそこはやはりゲンキンなもの、みんな得した気
分で中へ。お江戸日本橋界隈が模型で再現され、江戸時
代の暮らしぶりや昭和のレトロな生活用品が並べられて
いてなかなかおもしろい。おしゃべりをしながらなので、
記憶に残っているのはあまりないが、常設展の他にもい
ろいろ展示があるそうなので、次回はおしゃべりなしで
ゆっくり回ってみるのもいい。両国の後はバスでスカイ
ツリーへ。ここで福島から来る友人と合流して昼食とな
る。やっとみんなで座れるレストランを探しお腹を満た
すが、おしゃべりはとどまるところがない。スカイツリ
ーに上る時間となりようやく席を立った。最後は締めの
お買い物。テンデバラバラのお土産袋をぶら下げて歩く
姿は、どこからみてもおのぼりさんご一行である。女学
生というのはいくつになってもカシマシイものなのかも
しれないが、久しぶりの五感フル活動で、翌日は昼近く
まで爆睡した。
2回目は 9月の下旬、皇居と東京駅見学。秋晴れのツ
つれづれなるままに東京生まれのおのぼりさんご一行
アー日和りである。集合場所は東京駅丸の内。福島、南千葉、茅ヶ崎と結構遠くから通勤電車に乗ってやってくる。新東京駅を見
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るのは初めてという人や、結婚以来ほとんど電車に乗ったことがないという人もいる。修復後すぐに見にきた私は、改札を通る度
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に天井を見上げその美しさに足を止めることもしばしば。今回はその丸の内から皇居までゆっくり歩いていくという。皇居一周を何度か経験したことがあるので、鼻歌まじりで案内ができると思っていたが、当日四谷で急な用事ができてしまい、皇居合流となった。四谷からなら歩いても大したことはないと、麹町を抜け半蔵門〜桜田門と早足で歩いた。しかしだんだんと息があがってきて、鼻歌まじりどころか喉はカラカラ、汗が噴き出してくる。電話をすると大手門に向かっているという。巡回のおまわりさんに大手門までの時間を聞くと、ちょうど反対側、あと 30分くらいと言う。(私の様子をみてのことだと思うが ……)一気に足が萎えた。道はカーブで柵がありタクシーを止めることができない。再度状況を伝えると、「大丈夫、みんなおしゃべりしているから時間なんて気にしないでいい」と言ってくれたが限界だった。今回のツアーはここまでと諦めかけたときにタクシーがきた。「回送」だったが、必死の状態にみえたのだろう止まってくれる。タクシーの中から車に乗れたことを伝えると、今は、桔梗門にいると言う。実は大手門も桔梗門もどこにあるのか定かではない。桔梗門は二重橋より随分先にある。ようやく皆と合流でき、桔梗門をくぐり見晴らし台に上がると、大手町の建設中ビル郡がよく見える。秋の風が実に爽やかだった。外国人も静かに見学する三の丸尚蔵館をひと回りし、予約していた食事処で昼食をすませた後は、東京駅地下街で 分の買い物タイム。再び集合した時はみな満足顔で紙袋をいくつも抱えていた。ツアーはここで解散となる。
月は築地で暮れの買い出しをするという。生まれも育ちも東
京だが、東京の名所をほとんど知らない私にとって「東京のおの
ぼりさんご一行ツアー」は、うれしい企画が満載である。次回は、
大きめのリュクで参加しようと思う。
先日、情けなさを挽回するため、皇居一周をして各門の名前をしっかりと写真におさめた。これを頭にいれれば、皇居周辺はいつでも鼻歌まじりで案内できる。はずである。
約 290年の歴史をもつ三社大祭は、毎年7月31日から8月4日に開かれる八戸最大の祭りです。8月1日と3日には、おがみ神社・新羅神社・神明宮の三神社の神輿行列と27台もの山車の合同運行が行われます。各町会で制作する山車は、神話・伝説・歌舞伎などをテーマとしたダイナミックなもので、山車小屋で保管され毎年作り変えられます。沼館地区の淀山車組では、今年の祭終了後から10月まで山車小屋「淀の館」にて、山車を毎週土・日に公開していました。「淀の館」に近い新井田川沿いの公園からは、北日本造船の造船所が見えます。八戸港を利用する鋼製漁船の建造・修理を目的として昭和 44年に設立されましたが、現在はケミカルタンカーを中心に冷凍運搬船や車両運搬船などの大型運搬船を建造しています。
公園の木立から造船所を見られる珍しい場所です。
公園の向かいに建つ大平洋金属の工場。ステンレス鋼の原料を生産しています。
18世紀の中頃、ヤマセ(夏場の冷たく湿った季節風)のもたらす冷害により八戸はたびたびの凶作に見舞われます。幕府の指示で始まった大豆の作付けによりイノシシが増え、作物を食い荒らす「猪飢餓」まで起こりました。そのなかで八戸の医師・安藤昌益は、貨幣経済と流通の発達が農村を疲弊させた要因と唱え、農民による自給自足こそ社会の基本であると商人や藩医、藩士などの門人に伝えます。司馬遼太郎はこの史実をうけ「外に漏れれば首が飛ぶような危険思想を一切漏らさず、命がけで守った八戸人の気骨」を高く評価しています。
高校を卒業して
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ドラゴンシリーズ
ドラゴンへの道
俺の考え 2.
若き日々
歳から
20
歳後半でドイツに行くまでの
20
な、半ば浮浪者のような社会人でも学生でも無い、言いようのない時間を東京のバブルの薄汚れた混沌とした時代の中で流されるまま『その日暮らし』の日々を過ごした。将来に何の目的も持っていなかった。ただその日暮らしで不良かと言えばそうでもなく、バイト先では先輩にはそれなりに可愛がられ、どこでもここでずっと働かないかと誘われることが多かった。
東京で生活するために、何をやってよいか分からずに練馬で朝日新聞の住み込
1818
みの配達のアルバイトが初めての東京での仕事だったが、朝は 4時に起きて、雨
の日も雪の日も、新聞配達用に作られた大型の自転車の荷台に山のように新聞を
積み上げて、後ろの荷台にも大きな新聞の山を乗せて、朝日とスポーツ新聞を決
まりのルートを自転車で 2時間掛けて走り、
3時になると今度は同じルー
トを夕刊の配達が待っていた。配達が終わ
ると今度は集金と勧誘の為に荷台に洗剤や
ティッシュペーパーやらの景品を乗せて、
勧誘の為のジャイアンツの観戦チケットを
手に、東京での独り立ちの大人への道を歩
き始めていた。時々、勧誘で訪問するマン
ションのドアから音大生と思われる白いフリル付きのブラウスを来たお姉さんが
登場すると、部屋から流れてくるクラシックといい香りに、これが東京のお嬢様
かーと感動していた(新聞配達のことはこれ以上書くと長くなるので、これくらいで)。
その後は池袋で喫茶店のウエイター『 Tea Room Nine』、目白のケーキ屋『CHOUETTE』、山手『 b-girl』でバーテンダー、青山の『大長』中華料理屋、四谷のスナック『ジョルジュサンド』のマスターなど、 歳からドイツに旅立つ
歳後半までの約 3年近くの短いこの時間に本当に沢山、ディープな東京の社会
の底辺を彷徨って生きた。自分を結局の所、支えているのはこの薄汚れた、世間
からは蔑まれた腐ったような、どうしようもない人間としてしか扱われなかった、
怠惰で夢も希望も無い人生の凝縮した時間と言っても良いくらいだと思っている。
昔、池袋の東武百貨店の 9階に純喫茶があって、僕は 歳の半ばはそこのウエイターとして働いた。そこでは、あまり周りから好かれていない正社員の小太の店長が居て、流れ者の料理人が数名と立教テニス部の背の高いお兄さん、数人の若いバイト仲間達がいて、僕はそこで初めてラザニアとカネロニとカルボナーラと言う食べ物を知った。ラザニアと言う発音が上手く言えずに、周りの先輩達からは田舎者扱いされてバカにされた。そんな生活の中でも目の前の人間関係だけは大切にしようと思って、先輩に呑みに誘われれば必ず付いて行き、どんなに苦
それから午後
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吉田龍太郎( TIME & STYLE )
3年間、流れ者のよう
しくても朝まで付き合った。ばかばかしいようだが、そんな日々の中で社会の上
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下関係や社員とアルバイトの関係など多くのことを学ぶことが沢山あった。
183030
そんな時、僕は 時間やっている四谷のファミレスで夜中にいつも同じカウンター席に座って、ニーチェやら哲学書などを背伸びして難解な本を体裁も含め、夜中になると一杯のコーヒーを何度もお代りしながら朝までの時間を寡黙に過ご
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していた。ある日、隣に座っていた僕よりも少し年上の若者から声を掛けられた。その若者も良く同じファミレスのカウンターに来ては朝まで読書していた。その青年から誘われて彼のアパートを訪ねた、六畳と四畳半くらいのアパートだった
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と思うが、そのアパートの押し入れから部屋の床には数百冊と言う本の山が積み上げられていた。そしてその青年は自分の夢は『緑を失ってしまった東京の街のビルの屋上を緑化して、ビルの屋上をブリッジで繋ぎ、東京の天空にもう一つの緑の階層を生み出すこと。』だと語ってくれた。彼の名前も年齢も何者かも何一つ分からなかった。彼のその後も知らないが、今から 30年前に僕に語ってくれたことが現実味を帯びて、屋上緑化は数年前に義務化された。その時の彼が夢を実行
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したかどうかは定かではない。 歳の時に出会った彼が夢を実現させたのだろう
か ?それが今でも頭から離れないのだ。 2030
歳からの数年間は、その先の自分の人生がどのように開けて、生きて行けるかどうか、まともな人間として普通の社会人として生きて行けるかどうか、分からない不安だらけの時だった。もちろん、自分の将来像や目標など持ちようもない。
はたして、このまま野垂れ死にしない
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で済むのか、もしや浮浪者か、せいぜ20い頑張ってもどこかの職場でバイトから社員になって、半分はパチンコを楽しみにして生きて行くことくらいでしかできそうになかったのが、僕の 歳からの 3年間の人生の真実なのだ。しかし、そんな底の生活も今になって振り返ると、その瞬間の一齣、一齣が鮮明に自分の今の感情や感性を司っている大事な時間だったと確信している。
何でこんな場所を選んだのかとか、学校は三流でとか、田舎者でとか、親には
何も資産も無くてとか、顔が不細工でとか、色々と悩んだり迷ったりするのが
代から 代に与えられた自由時間なのだ。思い切り悩んだり、迷ったり、血迷っ
たりしながらフラフラしても、ゴロゴロしても良い時間なのだ。でも、そんな迷
いの中から決めなければならない時がやってくる。それは 代で訪れるかもしれ
ない、 歳かもしれない、明日かもしれない。自分がずっと進んで行きたいとい
う『道』を決める時が、いつの日か訪れる。ふらふらでも、ゆっくりでも、ぼち
ぼちでも、てくてくでも、ダッシュでも、休み休みでも良いので、自分で決めて、
自分から進んで行く『道』を決める日が来る。いくつになっても自分で決めて、
自分で歩いて行くことができれば人間は幸せだ。ただし物事を続けることで、様々
な次の景色や深みを見ることができるのも真実で、 代や 代の失敗なんて、そ
の後の人生を豊かにする為の幸運な出来事としか思えない。
僕の 歳からの日本でのドロドロの 3年間は、今でも自分の宝物のような輝かしい時間として一瞬一瞬が鮮明な記憶として脳裏に焼き付いる。その日暮らしのバカなことは、人々に蔑まされながらも、生きてきたことが本当に楽しかった。
港町として栄えた八戸の繁華街は、湾岸から中心部へと発達してきました。長横町周辺には、五番街、たぬき横丁、昭和通り、ハーモニカ横丁、れんさ街など個性豊かな横丁が並び、夜の迷宮を彷徨うような楽しさを味わえます。長横町の一角には自由学園の創設者であり『婦人之友』を創刊した羽仁もと子の生家跡があります。婦人之友読者によって結成された「友の会」は東北各地にも設立され、農村生活合理化運動などをとおし婦人たちの自立を促しました。オープンな屋台スタイルの「みろく横丁」は東北新幹線の八戸開業(2002年)に合わせてオープンし、観光客や出張中のサラリーマンにも人気です。平成 23年にオープンした八戸ポータルミュージアム「はっち」は、八戸の文化や歴史を知るのにうってつけの場所です。漁業や工業、お祭り、食文化、人物などなど八戸の魅力を俯瞰でき、ホールではダンスイベントがひらかれ多くの人が集っていました。カフェやショップもあり、上階にはアーティストが滞在して制作できるレジデンス施設を備えています。