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9月号 秋涼 2015
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Copyright . 2015 Shiong All rights reserved
鏡花犀星と歩く金沢
性に目覚める頃(発生)
室生犀星 大正 8年(1919)
お玉さんの目ははや湿っていた。生一本な娘らしい涙をためた美しい目は、私の感じ易い心を惹いた。そして女は涙をためたりする時に、へいぜいより濃い美しさをもつものだという事を感じた。
「こんど何時いらっしゃいますの。」「明日もゆきます。お言伝があったら言って下さい。」お玉さんはややためらっていたが、
「どうぞね。おだいじになすって下さいと言って下さいまし。わたしもお癒りになることをお祈りしておりますから。」私は表とお玉さんの交情が、あたかも美しい物語りめいたもののような気がして、私の表に対する懐しい友愛は、とりもなおさずお玉さんを愛する情愛になるような気がするのであった。二人をならべて見るとき、私のかたよった情熱はいつもこの二人をとり揃えて眺めることに、より劇しい滑らかな愛を感じるのであった。
しょうせいやはんろく
鐘声夜半録
泉 鏡花 明治28年(1895)
石川懸下金澤の巽に方りて、その勝を他國に誇るべき一區の樂地あり。人 力、蒼古、幽靜、閑雅、山水、眺望の六を兼ねたりとて、兼六園と名けたるは、元藩主前田家の庭なりしを、今は市民散策の公園と為す。明治二十七年四月十四日午後十一時家を出でゝ、予は兼六園花月の裡に入れり。箇是風流の為ならず、但寝難き夜の幾分を此處に消却せむと為るに過ぎざれば、予は空しくロハ臺に憩ひて時を移せり。四顧寂然、天地沈々として人影無く、花月の全權、清光の香國は、予が掌中に歸したるなり。居ること多時、箇絶清至潔の神境は、寧ろ花月に附與して、予なる臭袋を居くべきにあらざるを曉り、いでや家に歸らむとして、身を起すと與に、 側なる掛茶屋の微黯に踞りたる黒影ありて、同時に起つを見たり。怪むベし、黒影は一個の婦人なり。
抒情小曲集より秋思
室生犀星 大正7(1918)
わがこのごろのうれひはふるさとの公園のくれがたを歩む芝草はあつきびろうどいろふかぶかと空もまがへりわれこの芝草に坐すときはひとの上のことをおもはずまれに時計をこぬれにうちかけてすいすい伸ぶる芝草にひとりごとしつつ秋をまつなり
藩校明倫堂の鎮守社として、加賀藩11代前田治脩により寛政6年(1794)に創建された「金沢神社」。前田家の先祖でもある菅原道真公を祀っています。手水舎では「金城霊澤」と同じ地下水を汲み上げた霊水で喉を潤せます。
さくらしんじゅう
櫻心中
泉 鏡花 大正4年(1915)
「いゝえ、影が薄いでせう、ぼんやりして居るでせう、蒼ざめて居るでせう、可愛い、優しい、貴方のお顔は、ほんのりとして在らつしやる、あの、切籠燈籠の影が映つたやうに。」 「え、」 「そして、それを草葉の蔭から見るやうに、暗い、深い、心細い、穴の底から覗くやうに、棺の中の女の死骸が、目ばかりあけて見るやうに …………」
七穂のわなゝく手が、今度は女の袖を取つて縋る。「たよりのない、遣瀬のない、果敢ない私を、死骸だと思つて抱いて下さい、死骸はたとひ、身體はたとひお可厭でも、魂だと思つて、堪忍して、一度貴方、抱きしめて下さい、それなり、消えるやうに、なくなりますやうに、…………」
犇と抱いたが、離して、よろへと男は樹に、女は其の根に崩折れた。「あゝ、嬉しい。此で思ひが届きました。堪忍して下さいまし、私は人間ではないのですよ。」
加賀百万石の前田家には城や御殿の細工を行う工房「御細工所」があり、漆や蒔絵、象嵌、金具、染色など最大 24職種、70人以上の職人を抱えていました。文政5年(1822)12代 前田齊廣は現在の兼六園に約4千坪の竹沢御殿を造り、文久3年(1863)には12代奥方 隆子(眞龍院)のため竹沢御殿の一部を移築した「巽御殿」が息子の13代 齊泰により建てられます。現在は「成巽閣(せいそんかく)」と呼ばれ、御細工所の技を今に伝える場所として親しまれています。
つくしの縁は約 20mに渡り柱のない開放的な縁側です。軒先には約 40cm角、10mの桔木(はねぎ)が 2mおきに入っていて、外にでた 3m分の屋根をテコの原理で支えています。
下は「謁見の間」。本格的な書院造りで極彩色の欄間が見事です。写真は 3点とも成巽閣の絵葉書から。
「御細工所」の技が発揮された成巽閣の内装。上の煎茶席三華亭 鞘の間は、嘉永年間(1848.54)に江戸本郷の前田藩邸(現在は東大)に造られ昭和になってから移築されたもので、ギヤマンをはめ込んだ障子や染付の陶板を入れた引き戸などが見事です。十三代 齊泰は竹沢御殿の跡地を整備して、兼六園を美しい廻遊式庭園に仕立てました。
Informationジョン・ラスキンが導くフィレンツェの美
昨年創立 30周年を迎えた「ラスキン文庫」(コラージ 2015年 7月号で紹介)が、秋のラ
スキン講演会を開催。ラスキンの著書『フィレンツェの朝』を、美術史家の高橋裕子教授(学
習院大学)がひも解きます。本書はフレンツェの名画と教会建築の鑑賞ガイドブックともいえ、
その中でラスキンは、中世後期の画家ジョットの絵画鑑賞をすすめています。
そのほかイタリアの都市や絵画、彫刻作品との関わりもテーマとなるそうです。
『 フィレンツェの朝 』 -チチェローネ(案内者)としてのラスキン
講 師 : 高橋 裕子教授(学習院大学)、コーディネーター : 川端 康雄教授(日本女子大学)
主 催 : 一般財団法人ラスキン文庫、協賛 :東京ラスキン協会
日 時: 2015年10月31日(土) 午後2時.午後4時
会 場 :中央大学駿河台記念館 620号室(東京都千代田区神田駿河台 3-11-5)
会場整理費 : 400円(東京ラスキン協会会員は無料)
定 員 : 60名
申込方法 : 10月24日(土)までに電話、FAXまたは葉書にて下記へ「氏名、連絡先、参加人
数」をお知らせください(定員になり次第締め切り)。
〒104-0045 東京都中央区築地 2-15-15-105 ラスキン文庫「秋のラスキン講演会」係
TEL: 03-3542-7874 FAX: 03-3542-3655 午前11時 . 午後5時(日・月・祝日休館)
ジョット作『聖フランチェスコの葬儀』サンタ・クローチェ聖堂バルディ礼拝堂のフレスコ壁画。兼六園の一角に建つ「石川県立伝統産業工芸館」。金沢の金箔や加賀象嵌、加賀毛針、加賀繍(ぬい)、九谷焼など現在も作り続けられる石川県の伝統工芸 36業種を紹介しています。
▲ 金沢漆器 兼六園の古材を使った「かきつばた香合」。
▲ 金沢漆器 群鶴蒔絵 茶箱金沢箔 合口文庫 純金箔 (左)金沢箔 二ツ引タンス「宝生色紙」
加賀象嵌 奔馬象嵌鎮子加賀象嵌の技術は京都から伝わったといわれます。「平象嵌」と呼ばれる技法が主流で、金属の素地を鏨 (たがね)で彫り、異なる金属を打ち込み平らに仕上げます。泉鏡花の父・清次は加賀藩白銀職の系譜をついだ錺職人で、その象嵌の腕前は鏡花作品の中にもたびたび登場します。
工房楽記小泉さんの本
鈴木 惠三(BC工房 主人)
8月の終りから、JAWA工房に来ている。
コチラは、これから春へ、夏へ、雨期のシーズンへ。
40℃近くの暑さだが、東京の夏よりずっと爽やかだ。「風と緑」のおかげかな。
レンガ小屋のコテージで、小泉誠さんの新しい本を読んでいる。
『 地味のあるデザイン 』
ワカリやすい。読みやすい。本質的なんだけど、難しくないのだ。
小泉誠さんデザインの中心が見えてくる。
デザイン論の本の類いの中で、いちばんいい本ではないだろうか。
小泉誠さんの人柄が出ている。
「やさしくて、スルドイ」
「カンタンで、ムズカシイ」
「おとなしくて、強い」
「地味」というキーワードが、言い得ている。
オイラは、「派手な言動 ?」ばかり取り上げられてきたけど、
ホントは、小泉さんのように地味でありたかった ?
でも、地味であるコトには、チカラがいる。
『地味のあるデザイン』小泉誠 文 :長町美和子 中野照子六耀社刊 2500円+税
チカラなしでは、地味で輝きつづけるのはムリだと思う。
チカラは、努力、信念、能力、行動力、柔軟力、、、、
その人の総合的なもんでしょうか。
オイラのようなジジィには、もはやムリですが。
若い人は、小泉さんの「地味力」を見習ってほしい。
ところで、今、デザインの盗作が問題になっている。
でもコレは、今始まった問題じゃなく、デザインの世界じゃ日常茶飯事 ?
オリジナルと称するマガイモノ、コピーだらけだった。
家具デザインは、日本もイタリアも、中国も、コピーデザインがあふれている。
ちょっとのアレンジメントがオリジナル? 今回の事件が、日本のデザインの現実だ。
「なさけない現実」を知る、認める、反省する。新しい出発の原点は、「デザインの地味力」小泉さんのように、「現場で、手で考える」が、いちばん大切だ。パソコンでデザインやってたら、アレンジコピーの世界に入ってしまうんじゃないだろうか ?
〈土着現場に入ることが命〉本文の中では、「尊敬する鈴木さん」なんて書いてくれてるけど、それは逆で、オイラは若い小泉さんを尊敬している。かないっこないけど、オイラは小泉誠さんをライバルだと思ってやっている !!
「良きライバルでありたい」が、オイラの夢だ。いいかげんな勘と運と度胸で、「おもカワちい」のモノづくりを地味にやっている。ところで「おもカワちい」って、ワカルかな ?
兼六園脇にある「旧金澤陸軍兵器支廠」は、長さ 90メートルに及ぶ長大な煉瓦建築です。明治 42年(1909)に建設された第 5棟をはじめ、第 6、7棟の計 3棟がのこされ、石川県立歴史博物館として利用されています。高台に位置する兼六園の霞ヶ池は、貯水池を兼ねています。水を供給するのは10kmほど離れた犀川上流から取水された「辰巳用水」です。寛永 9年(1632)に、前田家三代利常が板屋兵四郎に命じ、わずか1年でに造らせたといわれます。サイフォンの原理で城に水を供給したり、約 4キロメートルのトンネルを作ったりと板屋の手腕は天才的で、加賀百万石の田畑を支えた水路の開発に大きく貢献したようです。
辰巳用水は急な坂を下ります。坂の下には水力を利用した「本多公園マイクロ水力発電施設」がありました。この散策路は「美術の小径」と呼ばれています。
本多公園に建つ「金沢市立中村記念美術館」では、庭園を眺めながら手軽に抹茶を楽しめます。
金沢市立中村記念美術館の前身は、酒造家で茶人の中村栄俊氏が創立した中村記念館です。裏千家の茶人として茶道具や美術品をコレクションした中村氏は、敗戦をきっかけに「美術品は一個人のものでなく国民の宝である」という信念をたて、収集品を元に財団を設立し住宅を移築・改装して中村記念館を開館しました。その後に所蔵品は金沢市に寄贈され、平成元年に市制百周年を記念した新館が開館しました。
江戸後期の九谷焼の名工粟生屋源右衛門「芦雁文菓子器」
▲ 笹田月暁「松鶴蒔絵吸物椀」
▼ 大垣昌訓「菊蒔絵銚子」
内田 和子
つれづれなるままに
第 回
初秋の彩り
75蝉の声から鈴虫の音色に変わり、季節は確実に秋の
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気配を運んでくる。
秋その1 ーウオーキングー
半年、外に出さずじまいだったエネルギーの新陳代謝を計ろうとあれこれ試みた。まずは身体慣らしからと、自宅近くのシニア向け健康体操に参加。平均年齢
歳くらいではないかとおもわれたが、慣れている方が多いのか、身体も柔らかく足もスイスイと上がっている。「ムリしないで!、水分補給忘れずに!」とのインストラクターの声に励まされながら、1時間の健康体操を終了した。自分で使ったマットや椅子は自分で片付けるのが基本だが、私よりはるかにお年を召した方が、息の上がったままの私の椅子を黙って片付けてくださった。こういうところへ来る方は自立心が高いのか、みなさんお元気で行動も早く無駄がない。体力が相当衰えていることを痛感し、一念発起、ウオーキングをはじめることにした。
テレビで日本百名山を見たのがきっかけだが、尾根から尾根を歩く縦走などは、夢の夢かもしれないと思いながら、中高年の山歩きを楽しむ気持ちを共感した。ただ、それには相当の準備が必要である。山登りに備えた靴やリュックもさることながら、なんといっても歩く体力を鍛えなければならない。15分くらいのところでもタクシー利用が当たり前になっているのを、「歩かなければ山は登れませんよ。」と自分に言い聞かせ、1日6000歩を目標に2週間が過ぎた。 i -phoneの万歩計グラフを毎日寝る前に確認し、足りない時は家の中で数字合わせをしている。
つれづれなるままに初秋の彩り
時折、散歩道で見つけた炭火炒りコーヒーと蜂蜜たっぶりホットケーキ(時々、小倉あん付)を楽しんでいる。
そんな中、送られた旅行案内に「秋の上高地トレッキングツアー」があった。とびついてすぐに申し込んだのは言
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うまでもない。 月末の予定で、まだ ヶ月以上先である。1日6000歩をたゆまず続ければ,秋の紅葉を楽しみ、
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カメラのシャッターも押す余裕もできるかもしれないと、カメラ選びにも足を運こんだ。一眼レフにしようかミラーレスにしようかと迷いながら、 i -phoneでコマーシャル写真のように撮れれば、それも悪くないと決められずにいる。1
秋その ー土瓶蒸しー
秋の食べ物で真っ先に浮かぶのは「松茸」。なかなか口に入らないが、秋の訪れを待って、鱧の入った土瓶蒸しにすだちをしぼっていただく、まさに初秋の贅沢一品である。秋はやっぱり日本酒を愛でながら ……おしゃべりはいつまでも続く。焼きなす、鱧・舞茸のてんぷら、蓮のゆうあん蒸し、みそ焼き、かまぼこの昆布巻。今の時期、お酒は常温、最初の一杯はお互いに注ぎ合いして乾杯。あとはそれぞれのペースで手酌となる。東京には日本各地の地酒を揃えている店が多い。詳しくないと言いながら、各地の酒を舌先で味わいながら一端の酒利き風情のような評価をして、また杯をあける。「やっぱり東北のお酒は力強いね」「これは気骨を感じるね」「うんうん」とうなづきながら手酌する。そして、うるめいわしを食べながら「お酒に合う!」と、また注ぐ。こうして時間がすぎ、最後は、手打ちしたてのそば(田舎二色もり)で締めとなる。なんとも至福の時を過ごす。秋の食材は栄養分をしっかり含みどれをいただいても美味しい。お酒は喉を滑らかにして、おしゃべりの華が咲く。楽しい仲間との秋の夜長は、次の華を咲かせる種になって、みなの元気の元となる。
つれづれなるままに初秋の彩り
秋その ーはじめての絵本ー
9月の最初の土曜日「放送開始 周年記念徹子の部屋展」を見に行った。10000回の出演者の名前が刻ま
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れたパネルや、徹子さんが着た衣装、ゲストから寄贈されたものがオークションにかけられていた。徹子の部屋のスタジオが展示され、録画風景や舞台裏がビデオで流
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れていた。展示会につきものの、徹子グッズもたくさん売っていた。タマネギ頭をかたどった楽しいグッズもた
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くさんある。本もいくつか並んでいた。
著書「窓ぎわのトットちゃん」はあまりに有名だが、全文を読んではいなかった。いわさきちひろ絵本美術館で初版本を手にしたことがあるが、文庫本しかなく絵入りの本を購入することはできなかった。今年8月、文字を大きくした文庫本の新組版が出版されたと聞き購入しにいった。初版発刊から 年目とある。子供向けの本という先入観もあり最初の方をざっと読んだままにしていたが、展示場で絵本を見た時、ためらうことなく購入した。いわさきちひろの絵に窓際のトットちゃんの一部が抜粋で挿入されている。自宅に帰り、1・2に分かれて装丁されたその絵本を何度も何度も繰り返し開いた。はじめて自分のために買った絵本である。雨が続く秋の夜長、お二人のやさしさに包まれて、心がほんわか温かくなったような気がした。
秋はまだ始まったばかりである。秋の長雨、中秋の名月、天高い空、爽やかな風、澄んだ空気 ……、過酷な夏を乗り越えてきた自分をいたわって、彩りの秋を楽しみたいものである。
本多公園から「緑の小道」を行くと、鈴木大拙館が見えてきます。
金沢の産んだ世界的な仏教哲学者・鈴木大拙。その思想を感じさせる施設が、その生家近くに建設された鈴木大拙館(設計;谷口吉生氏)です。
日本的霊性
鈴木大拙 大正4年(1915)
布子一枚の土百姓は泥だらけである。汗の面を拭いもおえぬのである。彼は営々役役として働くことのほか、何ものをも知らぬようである。彼は一鍬を上げ下げするたびに、南無阿弥陀仏という。彼の手が鍬を大地に打ち込むのか、南無阿弥陀仏が鍬になって大地に吸い込まれるのか、いずれかわからぬ。とにかく、鍬は空に動いでいる。暖かい春の火は木の葉の陰から彼の面にちらちらする。彼はそれを心ゆくまでに味わっているのか、なんとも言わぬが、いびきの声さえ聞こえる。誰やら楽しげに話するように見える、大笑いさえ聞かれる。二人は秋の収穫でも予想しているのか、あるいは春の光の長閑けさに、心はおのずから顔面神経をゆるましたのであろうか。その間にも南無阿弥陀仏は両人の口から出る。泥まみれの手足、草葉繁みわたる野良……いかにも神ながらの光景ではないか。ここには正直心も丹心も清明心もないようである。ただ笑いに満ちた大顔と汗だらだらの素肌があるのみである。
( The meaning of Jiyu )
「自由」の意味
鈴木大拙昭和37年(1962)
「お前どこへ行っていたの?」 "Where dis you going "
「外にいた。」 "Out"
「何してたの?」 "What did you do"
「何もしていないの。」 "Nothing"
(中略)
「何もしていないの」には無限の妙味がある。子供心理の
全面が、何らの飾りもいつわりもなしに、赤裸々底に出ている。大人から見ると、子供は、とんだり、はねたり、種種様々の遊びをやったにきまっている。「何もしない」は、客観的に見ると、大いなる虚誕である。ところが、子供の主観から見ると、百般の活動態はいずれも遊戯でしかないのだ。何らの努力もなければ、何らの目的も意識せられぬ。ただ興の動くにまかせて、そのままに、飛躍跳躍したにすぎないのである。当面の子供から見れば、何もしていないのだ。
金沢と能楽
加賀藩 4代藩主で能楽に通じていた前田綱紀により金沢の能楽が宝生流とされて以来、「加賀宝生」は庶民にも広く普及し、
「空から謡の降る町」と言われるほど能楽の盛んな地となりました。左は石川県立能楽堂前にたつ「杜若」(かきつばた)の像。旅の僧が杜若の精と出会う『伊勢物語』にちなんだ物語です。兼六園金沢神社の向かいには、石川県立能楽堂と石川県庁舎石引分室(明治 31年建設の旧陸軍第九師団司令部庁舎、旧陸軍金沢偕行社)が並んでいます。県立能楽堂は、昭和47年に全国初の独立した公立能楽堂として建てられました。能舞台は金沢能楽堂(昭和 7年)から移築した戦前のもので、宝生流を中心に定期公演がひらかれています。
元官舎の地下駐車場へつづく私道側(北口)エントランス。出勤時刻ともなれば、決まって運転手付きの黒塗りが停まって
いた。囲い越し、通りすがりにチラリ様子を伺ってみる。
A棟と
B
棟の間に、解体工事用重機が見える。建物の真ん中
あたりから壊していくようだ。搬入搬出口は
帯の柵があった場所。作業所兼仮事務所のようなプレハブ小屋もその出入り口付近に置かれている。解体作業の取り掛かり当初
1カ月くらいは、防音パネル効果も手伝ってか、騒音や振動、粉塵のことで特に問題視することなく過ぎてくれた。が、徐々に解体が進むにつれパネルも解かれ無残な姿は顕となり、いつのまにか重機の台数も 4台、 5台と増えているではないか ……。そんな訳で恐れていた現実がやってきた。
しかし呆然としたままでいる訳にもゆかぬ。急いでいざ出陣。
現場へ出向き現場監督の
M
氏に苦情を申し立てた。もちろん区
の協働推進課へも連絡済みなので、現場確認したうえで、こちらからも指導・注意がなされるはずだ。お隣との対応でよく話をさ
せて頂いた、担当者の
H
氏から早々に報告を受ける。粉塵の飛
散防止のため、水源を増やし、散水のフォローをすること、重機稼働率の軽減など、約束を取り付けることが出来たのである。速やかな対応、連携プレーが功を奏したと思う。丘ます組が長所とするところの、スタッフ一丸となった取り組みに、また変化が見え始めた頃の話である。
C
棟の手前、緑地
ひがし茶屋街
金沢の人気スポットとなった「ひがし茶屋街」。元々は文政 3年(1820)加賀藩により認可された 2個所の遊郭のうちのひとつで、茶屋の並ぶ街並みは重伝建地区に指定されています。
▼ ショップオーナーの野原 歩さんと高岡 愛さん夫妻。
「縁煌」は大阪で半導体部品商社に勤めた野原歩さんと金沢出身の高岡愛さんの出会いから生まれました。学生時代に知り合った 2人はそれぞれの道を歩みながら、いつかインテリアショップを開くことを目指していました。様々な候補をめぐるなか、ひがし茶屋街に見つけた築 150年のお茶屋を気に入ったものの、オーナーに「今日中に決めて欲しい」といわれ、意を決したそうです。重伝建地区のため外観などの規制を受けながら傷んだ内部構造を補強し、内装は全面改装しました。茶屋建築特有の中庭には、室内と同じタイルを敷いています。自ら買い付けた中国家具、李朝家具も扱っています。
高岡愛さんは金箔などを使った作品を創作する「箔デザイナー」です。町田ひろ子インテリアコーディネーターアカデミー国際科を卒業後、東京の外国人向けインテリアコーディネート会社に務めた高岡さんは、インテリアアートとして薦められる作品が日本に少ないことを実感。自ら「箔」を用いたアート作品づくりに挑戦してみようとはじめたそうです。
▲ 東元 生 九谷焼「斑盃」失われつつある伝統技法「デコ盛」を復刻した作品。
▲ 欅工芸谷口 くり手型ハンドバッグタモ玉杢の表情をそのまま活かしたバッグのシリーズ。一口に「箔」といっても、純金プラチナ箔、金箔、銀箔、銅箔、錫箔などがあり、高岡さんは様々な素材の出会いから生まれる新しい箔の世界を探求しています。実は高岡さんの生家は全国的に知られる箔屋である「箔座」で、子どもの頃から箔は身近にあったものの、自分で貼ろうと思った事は実家を離れるまでなかったそうです。「今は箔屋とは異なる視点から箔の世界を見ることで、実家を継いだ姉とも情報を交換し合い、互いによい刺戟を受けています」といいます。小坂未央 花器「泡 lace」
独特の泡ガラスの技法を確立した小坂さんの作品は、澄んだガラスの中に閉じ込められた超微細な泡が何かを包み込んでいるような印象を与えます。北海道の小樽工藝舎や滋賀の黒壁スクエアで活躍した後、2014年、金沢卯辰山工芸工房に入所。同工房は金沢市制100周年をきっかけに設立され、国内外の工芸家(陶芸、漆芸、染色、金工、ガラス)に研究の場を与え活動を支援しています。同じくひがし茶屋街にある「箔座ひかり藏」は、箔座が開発した純金プラチナ箔の品々を中心とした店です。奥に建つ「黄金の蔵」の外壁は、純金 99%+純プラチナ1%の純金プラチナ箔永遠色が施され、深い黄金の輝きを放っていました。黄金の蔵は、左官・挾土秀平さんが手がけたアート空間。内壁は沖縄の泥藍を混ぜ合わせた土壁に、24Kの純金箔をはり仕上げたそうです。
気軽に楽しめる雰囲気のいいバーや寿司屋なども遅くまで営業しています。
数十軒のカフェや菓子舗、セレクトショップ、ギャラリーが立ち並び、観光客でごった返した街並みも、夜になるとレトロな灯がともり、茶屋街としての落ち着きをとり戻します。現在も 8軒ほどのお茶屋が営業を続けています。
金沢には浅野川、犀川という2本の川が流れています。浅野川は「女川」とも呼ばれるやさしい川である一方、犀川は「男川」といわれる力強い風情の川です。
主計町(かずえまち)泉鏡花を育てた街
主計町は明治の初めに形づくられた茶屋街で、ひがし茶屋街の対岸、浅野川にかかる浅野大橋のたもとから下流に広がっています。ひがし茶屋街と同じく重伝建地区に指定されています。
幼い頃の記憶
泉 鏡花 明治 45年(1912)
何処へ行く時であったか、それは知らない。私は、母に連れられて船に乗って居たことを覚えて居る。その時は何と云うものか知らなかった。今考えてみると船だ。汽車ではない。確かに船であった。それは、私の五つぐらいの時と思う。未だ母の柔らかな乳房を指で摘みへして居たように覚えて居る。幼い時の記憶だから、その外のことはハッキリしないけれども、何でも、秋の薄日の光りが、白く水の上にチラへ動いていたように思う。その水が、川であったか、海であったか、又、湖であったか、私は、今それを玄玄でハッキリ云うことが出来ない。兎に角、水の上であった。私の傍には沢山の人々が居た。その人々を相手に、母はさまへのことを喋って居た。私は母の膝に抱かれて居たが、母の唇が動くのを、物珍しい何事かを聞いた時、目に珍しい何事かを見た時、今迄貪って居た母の乳房を離して、その澄んだ瞳を上げて、それが何者であるかを究めようとする時のような様子をして居たように思う。
泉鏡花(本名:鏡太郎)は明治 6年(1873)、主計町に隣接する下新町に生まれました。父・清次は彫金師、江戸生まれの母・鈴は加賀藩に仕えた能楽大鼓方葛野流の家の出でした。鏡花 9歳の頃に 28歳で亡くなった母・鈴の面影は、鏡花作品に大きな影響を与え続けます。
けちょう
化鳥
泉 鏡花 明治30年(1897)
母樣はうそをおつしやらない。博士が橋錢をおいて遁けて行く
と、しはらくして雨が晴れた。橋も蛇籠も皆雨にぬれて、黒く
なつて、あかるい日中へ出た。榎の枝からは時々はらへと雫が
落ちる。中流へ太陽がさして、みつめて居るとまばゆいばかり。
「母樣遊びに行かうや。」此時鋏をお取んなすつて、 「あゝ。」
「ねえ、出かけたつて可いの、晴れたんだもの。」「可いけれど、廉や、お前またあんまりお猿にからかつてはなりませんよ。さう可い鹽梅にうつくしい羽の生えた姉さんが何時でもゐるんぢやあありません。また落つこちやうもんなら。」ちよいと見向いて、清い眼で御覽なすつて、莞爾してお俯向きで、せつせと縫つて在らつしやる。
化鳥のモデルとなった中の橋。
泉鏡花の生家から主計町に下る「暗がり坂」。鏡花作品にも登場する「花街」と「現世」をつないだ坂道です。
草迷宮
泉 鏡花 明治41年(1908)
「ああ、貴女が、」
「あの、それに就きまして、貴僧にお願いがございますが、どうぞお聞き下さいまし。」とまた蚊帳越に打視め、
「お最愛しい、沢山とお窶れ遊ばした。罪も報もない方が、こんなに艱難辛苦して、命に懸けても唄が聞きたいとおっしゃるのも、母の恋しさゆえ。その唄を聞こう聞こうと、お思いなさいます心から、この頃では身も世も忘れて、まあ、私を懐がって、迷って恋におなりなすった。その唄は稚時、この方の母さんから、口移しに教わって、私は今も、覚えている。こうまで、お憧なさるもの、ちょっと一目お目にかかって、お聞かせ申とうござんすけれど、今顔をお見せ申しますと、お慕いなさいます御心から、前後も忘れて夢見るように、袖に搦で手に縋り、胸に額を押当てて、母よ、姉よ、とおっしゃいますもの。どうして貴僧、摺抜けられよう、突離されよう、振切られましょう、
私は引寄せます、抱緊めます。子どもの頃、鏡花が遊んだ久保市乙剣宮。
泉鏡花の生家跡には「泉鏡花記念館」があります。17歳で上京し神楽坂の尾崎紅葉に入門した鏡花が、金沢に帰郷したのは明治 25年。金沢大火により生家が焼失した時でした。
しょうせいやはんろく
明治 27年には父が亡くなり、21歳で一家を背負うことになった鏡花は困窮します。その中から『鐘声夜半録』、『義血侠血』など故郷を描いた初期作品が紡ぎだされました。
一之卷
泉 鏡花 明治29年(1896)
貧しきを心に留めず、氣まゝに註文を打棄て置くを、名人上手と謂ふべくば、彫刻師なりし予が父も、名工の一として世に數へられ給ひなむ。
〈 中略 〉指環は日を經て出來あがりぬ。父は傍にわれを招きて、
「新次、お待兼の指環が出來たぜ。お前を可哀さうだといつてくれる、深水の娘の註文だ。念入りでやらかしたが。」と打傾きへ、細工ぶりを、とみかうみて、
「うまいな、こりや、近來の大出來。我ながらよくしたものだ。新次、お前なんざ其年紀で、其明い目を持つて居ても、こりやとても見えめえな。手放して人に與るなあ、何だか惜しくつてならないが、あつらへものだ、持つて行け。そしてな、長常銘を鑿りました、と大威張で渡して來い。」予はいそへして出で行きぬ。學校より一ツ此方なる辻の角に、唐物店とむかひあひて、間口こそは劣りたれ、奥行深き、時計屋の、行歸に見る店ながら、取分け其日
泉親子像はもの珍しく、また懷しく、たふとく覺えて、直ぐには店に入りかねたり。
母は
ドラゴンシリーズ
燃えよドラゴン編
俺の考え 1
昨日、近所の公園を歩いていたら青空からスリッパが頭上に降って落ちて
きた。「ベルリン天使の詩」のように天使の落とし物かと思いきや、黒い悪魔、カラスの僕だけを狙ったピンポイント空爆であった。これまでもカラスの糞の空爆を受けたりと、なぜかカラスは俺に敵意を剥き出しにしてくる。どうやってカラス軍に反撃するか、地上対空砲で反撃するか、ウルトラレーザービームで反撃するか、目下の重要な懸案事項として思案中だ。小さな頃は近所の竹林から竹を切ってきて空気銃を作り、センダンの実を銃弾にして戦闘ごっこで近所のおばさんの尻を狙っては、先生にビンタを食らっていたが、も
う近所には自由にできる竹林もセンダンの木も、狙えるおばさんも無くなってしまった。
昔から言われていることだが、「親を大切にしなければならない」と兄弟のなかで散々と親に最も苦労を掛けた親不孝の俺が言うのもなんだが、人として大事なことが歳を重ねるご
とに小学一年生の道徳の教科書をめくるような気持ちで身に滲みて感じるようになった。人は年齢を重ねる度に、変わってゆくものだと思うのだが、歳を重ねることは老いて成熟へ向かうことと同時に、生きた経験やその学びによって柔軟で新鮮な若い心を得る人間になってゆくことだと思う。
20
年前に父を失い、しばらくは失意の中で生きていた。
拳くらいに大きくなった大腸癌の手術を受けて、しばらくは元気をなくしていたが、実家で一人暮らしの孤独な生活が続く中から時間をかけて次第に元気を取り戻し、それまでは自分の意見は頑として曲げなかった頑固さを持った母だったのが、歳を重ねる度に、どんな人達にも優しい柔軟な心遣いをするようになり、それから大学に通い始めたり、疎遠にしていた人々の中に自ら入り、今では多くの人々の心の拠り所となっている。歳を重ねる度に母の心は若くなり、本質的な人間として奥行きのある一人の個人としての人生を楽しんで生きているように感じる。歳を重ね成長しながら、精神的には若返ってさえいる。
人間は様々な人間関係、家族や組織の中で生きている存在だが、自分とい
16
8年程前には
吉田龍太郎( TIME & STYLE )
う個人は完全に独立した個別の存在であり、他の誰にも踏み込めない心の不可侵領域を全ての人が持っている。その自由な場所で如何に本当の自分自身と向き合い、心の願望や想いと向き合ってみるのか勇気のいることだと思うが、避けてはならない大切な時間だと思う。「親を大切にしなければならない」ことは親を想うことであり、自分が存在するその先のルーツである祖先に想いを馳せることでもある。今さらながら、そんな親や祖先に想いを馳せることで、自分自身がこの世に存在している不思議を理解し、刻々と進む時計の戻らない今の瞬間を感じ取ることで、生きていることを実感できる。それは誰かにとって特別な時間ではなく、全ての人々に通ずる大切な自分と向き合う時間なのだと思う。人生にはできること、できないことがある。当然のことだが、親を大切にしないさいと言われても実感できない時には、真実として大切にすることはできない。しかし、実際に側で出来ていない時にも、大切にしたいと言う気持ちが人に存在すれば、それがもっとも大切な心の在り方であり、できる、できないという事象を越えた真実となる。そして、その想いは親の心には届くものではないかと思う。
もちろん常に側で大切にできることが一番の親の喜びであり、年老いた親
への子供としての責任であると思う。
そういう自分は出来ていないのだが。
私達の人生で何が大切なのかを断片
的な事柄に限定して考えてみても、
なぜに自分がこの世に存在している
のか、そして、生まれて、大人にな
るまでの間に誰によって生かされ、
大切に育てられてきたのか、そして今日まで自分の自由な生き方や生活の選択ができるようになったのかを静かに、過去の軌跡を一つ一つ辿ることは自分の過去と現在の現実を直視し、そして未来を創造することに繋がる大切な思考する時間だ。自分の心の内は誰からも読み取れないし、誰の心の内も読み取れない、しかし自分の心と向き合うことで、今、自分にできることと、行うべきことが見えてくる。そして、人の心の内は見えなくてもいい、自分の人々を思う気持ちは伝わるものだと思う。親を大切にすることは、私達の生活の営みの原点であり、そして私達が様々な人々と交わりながら生きてゆく上での、基本的なことを考えてゆく基礎となる。親を失って気付くことがある。もっと会いたかった。もっと話したかった。もっと一緒に風呂に行きたかった。もっと触りたかった。もっと泣きたかった。もっと一緒に寝たかった。もっとキャチボールしたかった。もっと、もっと、もっと ……だから、時間は取り戻せない。親を大切に想うことは全てに通ずる原点であり、全ての人間としての出発点なのだろう。今、親が存在しても、しなくても、父母の存在なくして全ての人間の生命は存在しない。
父、母に感謝の気持ちを伝えようと思う。
窓から犀川を眺める気持ちのいい場所に、「縁煌」プロデュースによる「ASIE Caf.」がオープンしました(2015年7月30日)。
九谷焼作家・牟田日陽さんの絵画は 80号の大作。
取材時はグランドオープンの約1週間で、オーナーの野原歩さんが金箔シャンデリアの取り付けなど準備に追われていました。カフェの運営に着手したのは「縁煌」とは異なったアプローチでユーザーと接してみたいと考えたからだそうです。店舗デザインは野原さんと高岡さん自らで手掛け、店内には工芸家たちに依頼した作品をさりげなくディスプレイしています。モダンな家具と工芸品の出会いが、カフェに独特の雰囲気を与えています。石川県の
高岡愛さんの新作。
TVで紹介されるなど、今までにないアプローチが注目されているようです。
金沢市の南、犀川大橋から続く川沿いの道は「犀星の道」といわれています。橋のたもとには室生犀星の育った雨宝院があり、近くの生家跡には「室生犀星記念館」が建ちます。
室生犀星記念館
犀星はこの地で武士の家系をもつ小畠弥左衛門吉種と女中ハルの子として生まれ、生後すぐに雨宝院住職の内縁・赤井ハツに引き取られました。その複雑な幼少期は小説デビュー作となった『性に眼覚める頃』や晩年の名作『杏っ子』に描かれています。
室生犀星記念館
幼年時代
室生犀星 大正 8年(1919)
川について私は一つの話をもっていた。それは私が釣をしに出た日は、雨つづきの挙句増水したあとであった。あの増水の時によく見るように、上流から流された汚物が一杯蛇籠にかかっていた。私はそこで一体の地蔵を見つけた。(中略)
「まあお前は信心家ね。」姉もまた赤い布片で衣を縫って、地蔵の肩にまきつけたり、小さな頭布をつくったりして、石の頭に冠せたりした。私はいつもこの拾って来た地蔵さんに、いろいろな事をしてあげるということが、決して悪いことでないことを知っていた。ことに、地蔵さんは石の橋にされても人間を救うものだということをも知っていた。私はこの平凡な、石ころ同様なものの中に、何かしら疑うことのできない宗教的感覚が存在しているように信じていた。
「きっといいことがあるわ。お前のように親切にしてあげるとね。」姉は毎日のように花をかえたり、掃除をしたりしている私を褒めてくれていた。私は嬉しかった。こうした木の蔭に、自分の自由に作りあげた小さな寺院が、だんだんに日を経るに従って、小屋がけが出来たり、小さな提灯が提げられたりするのは、何ともいえない、ただそれはいい心持であった。
抒情小曲集よりその六
室生犀星 大正7(1918)
あんずよ花着け地ぞ早やに輝やけあんずよ花着けあんずよ燃えよあああんずよ花着け
▲ 間口が狭く奥行きの長い、茶屋建築のつくりが分かります。
にし茶屋街の「華の宿」は、昼間は休み処として茶屋建築の内部を見学できる貴重な場所です。玄関を入ると総溜め漆塗りの階段があり、客を2階の座敷へと誘います。
茶屋建築特有の中庭。自然光を採り入れると共に、景観に奥行きを与えています。
性に目覚める頃(発生)
室生犀星 大正 8年(1919)
私は夕方からひっそりと寺をぬけ出て、ひとりで或る神社の裏手から、廓町の方へ出て行った。廓町の道路には霰がつもって、上品な絹行燈のともしびがあちこちにならんで、べに塗の格子の家がつづいた。私はそこを小さく、人に見られないようにして行って、ある一軒の大きな家へはいった。
「先日は失礼しました。どうぞお上りなすって下さいまし。」二階へ案内された。私はさきの晩、なりの高い女を招んだ。私はただ、すきなだけ女を見ておればだんだん平常の餓えがちなものを埋めるような気がした。
「金毘羅さんの坊ちゃんでしたわね。いつかお目にかかったことのある方だと思っていたんですよ。」彼女は小さい妹芸者を振りかえって笑った。私はいつも彼女を寺の境内で、そのすらりとした姿をみたときに逢って話したいと思っていて、こうしてやって来て、いつも簡単に会えるのがうれしかった。
「雨のふるのによくいらしったわね。」彼女は火鉢の火を掻いた。この廓のしきたりとして、どういう家にもみな香を焚いてあった。それに赤襟といわれている美しい人形のような舞妓がいて、姉さんと一しょに座敷へやって来るのが例になっていた。
▲ 廊下の屋根も独特のつくりになっています。
▼ 1階よりも座敷のある2階の方が天井が高くなっています。
2階の座敷は鮮やかな紅殻や群青、緑色の壁と溜め漆で仕上げられた柱・梁、天井で構成され、細長い建物にいくつかの座敷を並べ、建具で仕切ったプランです。色漆喰には沖縄産の天然顔料を使っていました。オーナーの作間さんは茶屋建築に興味をもつ人のために内部を公開する場所を提供したいという思いから、採算を度外視して休み処を始めたそうです。
1階は 2階に比べ質素なつくりです。
夏の間に使う涼し気な簀戸(すど)には、季節の花が描かれていました。夜はお茶屋として営業するとともに、手軽に楽しめる体験会も行われています。金沢のお茶屋は1階に芸姑を置き、2階で宴会がひらかれていました(料理は仕出しが多い)。江戸の三業(待合、料亭、芸妓置屋)とは異なる仕組みだったようです。
にし茶屋街の検番から、三味線の音が聴こえてきます。
Special thanks to Tadao-san