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佐倉から銚子へ
海に陸に 通う路
1月号 太郎月 2016
http://collaj.jp/
今月は東京から総武線で千葉・堀田家の城下町佐倉の歴博を訪ね、さらに終点の銚子から銚子電鉄で外川、犬吠へ足を伸ばしました。銚子周辺の漁業は紀州からの移民によって発展し、親潮と黒潮の交わる好漁場は大漁のイワシをもたらします。また利根川の水運が開発されると、東北の米や新鮮な魚、醤油などを大消費地江戸へともたらす海の玄関口ともなりました。
▼ 博物館のゲート脇には佐倉城の「豪」が残されています。
千葉県北部、印旛沼を擁する佐倉市。京成佐倉駅から歩いて15分ほど、江戸時代、土井利勝により完成したといわれる佐倉城址の一画に「国立歴史民俗博物館」があります。
▼大分県臼杵磨崖仏のひとつ古園石仏大日如来像の複製。
1983年に開館した国立歴史民俗博物館(歴博)は、日本の歴史・文化研究を大学や研究所と連携して進め、その成果を展示として公開する機関です。3万 5千㎡の広大な施設で、古代から現代にいたる日本の民俗世界を体感できます。
蠣崎波響筆「夷酋列像」寛政 2年フランス ブザンソン美術考古博物館蔵
歴博では2015年12月15日〜2016年2月7日まで「夷酋列像(いしゅうれつぞう) .蝦夷地イメージをめぐる 人・物・世界.」展が開催されています。1984年にフランス ブザンソン美術考古博物館で発見され話題となった、蠣崎波響(かきざきはきょう)の直筆による「夷酋列像」(アイヌ民族の首長たちを描いた像。現存11点)と関連諸本をはじめて一堂に集めた展覧会で、昨年春に開館した北海道博物館(札幌)を皮切りに、佐倉の歴博の次は、大阪・万博記念公園の国立民族学博物館へ巡回します(2016年2月25日〜5月10日)。
▼ 蠣崎波響筆「南蛮騎士の図」18世紀後半〜19世紀前半 函館市中央図書館蔵
蠣崎波響は宝暦14年(1764)、蝦夷・松前藩第7代藩主 松前資広の五男として生まれ、幼くして同藩家老・蠣崎家の養子となると絵画の才能を発揮。安永 2年(1773)には江戸へ移り南蘋派の画家・建部凌岱や宋紫石に師事して、中国の沈南蘋から伝わった写実に優れ色彩豊かな画法を学びます。波響の残した粉本(模写、下書き)や当時の松前を描いた小玉貞良筆「松前屏風」も展示され「夷酋列像」に至る波響の足跡をたどれます。
蠣崎波響筆「夷酋列像 マウタラケ」寛政 2年フランス ブザンソン美術考古博物館蔵
今回、歴博では「夷酋列像」の細密な描写をつぶさに観察できるよう、タッチパネル式大型モニターを使った超高解像度データの公開も行っています。特に細密といわれる「マウタラケ」の着る蝦夷地は金の地模様に描かれ、敷物のラッコ皮からは、密度の高い毛の柔らかさまで感じられます。展示を企画した横山百合子教授によると、
マウタラケの腰掛けたラッコ皮は、波響が「夷酋列像」を描くことになった理由と大きく関わるそうです。
「山丹交易」と呼ばれたアムール川下流域の人々とアイヌ民族の交易によって、中国・清朝の官服(蝦夷錦)やガラス玉がもたらされました。蝦夷錦は松前藩を通じて流通し、煙草入れや幕などに仕立てられました。
▼ 「蝦夷錦(赤地蟒袍)幕」文久 3年 国立歴史民俗博物館蔵(現在はジットクに展示替)
歴博の総合展示にも「夷酋列像」に関わる史料があります。江戸時代の北前船を紹介したコーナーでは「上がりもの」と呼ばれた蝦夷地産の海産物が紹介されていました。長崎を経由し中国へ輸出されたナマコやアワビの他、江戸後期には場所請負制により「〆粕(しめかす)」(鮭、鱒を原料とした肥料)が主な産品となります。
蠣崎波響筆「夷酋列像 ションコ」寛政 2年フランス ブザンソン美術考古博物館蔵
蠣崎波響筆「夷酋列像 イコトイ」寛政 2年フランス ブザンソン美術考古博物館蔵
一方、松前藩の進めた「場所請負制」により、道東のアイヌ民族も商人の元で働くようになります。国後・根室地方を請け負った飛騨屋は、鮭・鱒漁や〆粕づくりを大規模に行い、アイヌ民族に過酷な労働を強います。そして寛政元年(1789)、非道に抵抗した「クナシリ・メナシの戦い」が勃発し和人の死者が出たため、松前藩は鎮圧部隊を送ります。その際、戦いの収束に協力したションコやイコトイ、マウタラケなど、アイヌ民族の首長たちを描いたのが「夷酋列像」なのです。
「首飾り」市立函館博物館寄託 児玉マリ氏蔵
チキリアシカイの絵に書かれた波響のサインは本名の「廣年」となっていて、藩の公の仕事であることをうかがえます。
「夷酋列像」の中で唯一の女性であるチキリアシカイは、ガラス玉をつなげた首飾りをつけ朝鮮の敷物に坐っています。クナシリ・メナシの戦いに加わったチキリアシカイの息子のひとりは処刑され「松前藩に協力した首長たちの胸中には、複雑なものがあったでしょう」と横山百合子教授。そんななか松前藩の統治能力に疑いをもった幕府は、ロシア南下の脅威も合わせ蝦夷地の直轄化を進めようとします。家老となった蠣崎波響は藩の窮地を救うため「夷酋列像」を描き戦いの翌年に京都に上ると、精緻な描写は貴族や文人の間で評判となり、ついに光格天皇の天覧を仰ぐこととなります。
小玉貞良筆「松前屏風」寛保元年以前 松前町教育委員会蔵
しかし幕府の力は抑えきれず、松前藩は文化 4年(1807)、梁川(現在の福島県伊達市)へ転封となります。老中首座となった波響は「松前への復領」を使命として自筆の絵を売ってまで運動に奔走し、文政 4年(1821)には松前藩の蝦夷地復領が果たされます。63歳で波響がこの世を去ったのは松前に戻ってからわずか 5年後のことでした。寺子屋「れきはく」では、江戸時代の文字の書き方を学んだり,すごろく遊びなどを体験できます。
歴博の第1展示室「原始・古代」にある「沖ノ島」の部屋には、玄界灘に浮かぶ神の島で発見された4世紀後半〜10世紀にかけての遺跡が再現されています。一般には立ち入ることの許されない島の祭祀を体感できる貴重な展示です。歴博では精緻な複製を作ることで、実物を現地に保管しながら、研究や展示を行うことを試みているそうです。第 5展示室「近代」の関東大震災後に建てられた同潤会アパートの台所(上)と第 6展示室「現代」の昭和 37年 公団住宅のダイニングキッチン(下)の実物大再現。
第 5展示室「近代」には大正時代の「浅草の街並実物大復元模型」があり、活動写真や当時にぎわった街の雰囲気を体感できます。日本の古代から現代まで、じっくり見ていると1日で回りきれないほどボリュームのある展示ですが、列島にまたがる歴史を俯瞰するには最も適した発見の多い博物館です。日本人の生い立ちを振り返るため、ぜひ足を運んでみてはいかがでしょうか。
ドラゴンシリーズ
ドラゴンへの道編
俺の考え 5
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桂離宮
最近の自分の傾向として、特に意識的ではないのだけど、歳を重ねると
共に、『日本』と言う自分の足下がこれからの大きな命題となってきている。これにはご意見も色々とあると思うが、『日本』と言うテーマは簡単には踏み込めない、見えない大きな壁が存在しているのだ。この命題に脚を踏み込んだら本当に『ドロ沼の深みに嵌まる』ことになりかねない、とても沢山の危険が潜んでいるのが、自分の足下の日本と言う国なのだ。でも怯むことはない、このマガジンはコラボレーションジャパン=コラージなのだから、ここでは気兼ねせず、思いっきり日本に踏み込んで、コラボレーションして進んでいいですよね。
さて、桂離宮を訪ねてみた。昔から建築家ブルーノ・タウトの『ニッポン』などの著書を読む度に、パルテノン宮殿に匹敵する日本に於ける世界的、絶対的価値のある完璧な建築であるとブルーノタウトが初めて日本を訪れた時から絶賛してきたのが、桂離宮なのだ。今では桂離宮を簡単には見学出来ない、コラージ読者であればご存知だと思うが桂離宮は江戸後期 1615年頃に始まり現在のような姿になったのが 1662年頃と言われる天皇家が建てた別荘なのだ。現在でも宮内庁の管轄管理の元、予約しても見学日時が確定するのが 2カ月くらい後になってしまう。とても繊細に作られた別荘建築と庭園である為に、観光客がぞろぞろと徘徊するような見学はできないのだ。しかし、日本人であれば何はともあれ一生に一度は桂離宮を訪れて見たいと思うだろう。ここでは、桂離宮の歴史や今日まで
の変遷を述べることは止めておこうと思う。これには、諸説があり小堀遠州が作庭に関わっているとか、影響を与えたとか色々な話があるし、そんな不確定なことよりも桂離宮そのものについての僕の個人的な印象を伝えたかったのだ。
桂離宮の門をくぐって感じたの
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吉田龍太郎( TIME & STYLE )
は、『丁寧』と言う印象だった。京都の多くの寺社仏閣や、法隆寺、伊勢神宮、出雲大社など日本を代表する歴史的建築物からすると、とても線が細くて軽やかな印象を受けた。敷石や飛び石の組石など
の配置などは、本当に絶妙過ぎて『うーん』と唸るしかない、絶妙な間合いのリズムと『崩し』と『統一』と相反するもの共存させた『調和』を感じた。まさに、レベルの高いジャズトリオが時折見せるような完全な一生に一度限りに起こるインプロビゼーションのような凄まじい感性の昇華による共演が、庭園と小道、組石や飛び石、建物、自然や季節など、その絶妙な配置や間合いにあるのだと感じた。そして、ブルーノタウトにとっては、その細やかな積み重ねた繊細さが、石の大きな建築物の中で育ったものにとっての対局にある『滅びの儚さ』と言う印象も加わって、経験したことの無い日本人の美意識の結晶だと感じたのではないだろうか。
とにかくどこを切り取っても美しく繊細に仕組まれた建物の配置から小道に置かれた飛び石や敷石の切り返しなどは、どこを見ても繊細な作業の積み重ねによって全体の調和が完璧なまでに実現されていた。桂離宮には、日本人の美意識の様々な要素が結晶となって集約されて、総合的な日本の美が体現されている場所だと感じた。
しかし、僕などは、ブルーノタウトのような絶対的な世界的価値と言うような印象よりも、僕らが普段から接しているような職人や一途な工芸作品のような修練と美意識と膨大な時間の集積と、その総合的な調和を生み出すための人格、もしくは美に対する具体的な意識共有があり、その共有なくして、この総合的な美の調和は出来なかったであろうと言うことを感じた。
日本人の中に存在する細やかな作業の集積と繊細な調和と崩しの絶妙な共存の感性は今も日本人の美意識の根源となっていると思うが、それを体現した昔の人たちのように、僕たちも少し内面に目を向けて、落ち着いた生き方をしてゆかなければならないのだろう。桂離宮から、その時代とそれまでの長い時間の中で培われた日本人の精神性と美意識の高さを再認識させてもらった気がした。古い時代に目を向けること、内面に静かに心を向けることで、新しい旅へと向かうことができる、それが日本の深さであり、僕らがそこに簡単に向かえない見えない壁であり、『日本』と言う存在の怖さなのだ。
▲佐倉城の礎石。佐倉城址には明治初期から陸軍が駐屯し、その施設の基礎として再利用されていたそうです。
佐倉に大規模な城が設けられたのは、西国大名によって江戸が攻撃された際、徳川将軍家の避難所として計画されたからともいわれます。そのためか土井利勝はじめ幕府の老中職が藩主を兼ねることが多く「老中の城」とも呼ばれました。その藩主を最も長くつとめた堀田家は、幕末の開国につくした堀田正睦(まさよし)を生みました。
佐倉城の本丸跡。石垣を使わずに土塁を築いているため、全体に柔らかな印象です。土塁の上には土塀がありました。
堀田正睦は文化 7年(1810)江戸に生まれ、開国や富国強兵をいち早く唱え日本の未来像を描いた稀有な藩主として知られます。16歳の若さで佐倉藩主となった正睦は、疲弊した財政の再建と文武の奨励につとめます。蘭学に親しんでいた正睦は、藩校「成得書院」にオランダや英国の学問を取り入れ「蘭癖」(オランダかぶれ)と揶揄されながらも、江戸の蘭学医(外科)として名高い佐藤泰然を招聘しました。泰然の開いた日本初の私立病院「佐倉順天堂」(後の順天堂)には西洋医学を志す精鋭が全国から集まり「日新の医学、佐倉の林中より生ず」「西の長崎、東の佐倉」と謳われました。明治 7年から佐倉城には陸軍歩兵第二連隊が駐屯し、城の建物の大半が壊されました。第二連隊はこの地から西南戦争や日清・日露戦争に出征していきました。
佐倉藩の再建が評価され、堀田正睦は天保 12年(1841)本丸老中となり、水野忠邦が進める天保の改革に加わりますが、改革の失敗から老中を辞任します。正睦を再び表舞台に立たせたのはペリーの浦賀来航でした。安政 2年(1855)阿部正弘から老中首座を譲られ外国掛老中を兼ねた正睦は、川路聖謨や水野忠徳、岩瀬忠震などのブレーンと共にタウンゼント・ハリスとの直接交渉を粘り強くすすめ、「攘夷」の逆風のなか日米修好通商条約調印を目指し邁進します。その胸中は「開国によって日本を存続させる」一念でした。いま公園内には堀田正睦とハリスの銅像が並んで立っています。
京成佐倉駅から歴博、佐倉城本丸から城南堤を通り、武家屋敷のある通りへ向かいました。
城を下りてしばらく歩くと、竹林に囲まれた急な坂道があります。
「ひよどり坂」と呼ばれる台地の急坂は、ほぼ江戸時代のまま残されています。薄暗い坂を登り切ると、武家屋敷の町並みが残された「佐倉武家屋敷」に続きます。
内田 和子
つれづれなるままに
第 21 回
歩きぞめに誓う
ポカポカ陽気に誘われて、 1月3日皇居一周へ繰り出した。千鳥ヶ淵入口を起点にイギリス大使館を横切り半蔵門、桜田門と、格好いいコスチュームで
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走るマラソンランナーにぶつからないよう早足で歩く。正門をくぐり、黒門を額縁に高くそびえ建つ丸の内ビル郡は圧巻である。三が日とあって二重橋濠付近は散策する若いカップルや年配の方も多く、また外国人たちは二重橋と伏見櫓を背に記念写真を撮っている。一般参賀の時には大型バスも到着し長和殿まで長い列ができるが、今日の二重橋は渡れない。砂利がきれいに敷き詰められた広場を抜け、坂下門、
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桔梗門へ。そして去年、ようやくのことで辿りついた大手門である。この大手町交差点に建つ新旧のビルと東京駅までまっすぐに走る道路は美しい。竹橋ではマラソン仲間が新年の挨拶を交わしながら、親睦会の打ち合わせをしている。気象庁を右手に平川門に差し掛かると、沈みかけた夕日が白い塀に美しいコントラストを映しだしていた。ここからは少し上り坂になるが、終点の千鳥ヶ淵まではわずかである。
「今日のホットケーキは小倉あん付きにしようか、
せっかくのダイエットが無駄になってしまう、夕飯
前だから我慢しょうか、いや、やっぱり小倉あん付
きにしよう」と思いながら、100 ぐらいまで来
たところで、空を見上げる人だかりがある。この陽
気に鶯でも来ているのかと思いながら見上げると、
まぁなんということか、鳥が逆さ吊りになって羽を
ばたつかせているではないか。
以上もある高い木の細い枝に足を絡ませたのか、飛ぶことができないでいる。やや離れた木の枝には、カラスがじっと見ている。皆口々になんとかならないものかと言いながら見上げている。すでにお巡りさんも来て状況を確認し、パトカーから梯子を持ってきたが到底届く高さではない。トビの人でも呼ばなきゃなんともならないと思うが、なんとも
つれづれなるままに歩き初めに誓う
できない。鳥は時々動きが止まり、そのたびに頑張れ頑
張れと声をかける。お正月早々のことである。このまま
帰っては後味が悪い。隣にいた皇居見学のご夫妻は、私
分以上前からここにいるという。マラソンをしている人も皆立ち止まり、「どうしたんですか ?」と聞い
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ていく。そのたびに奥さんが「鳥が飛べなくなっちゃの
よ」と言う。ほとんどの人が「あら、かわいそうに」と心配しいしい振り返って行く。マラソンの足を止めてしばらく眺めていた方が「ちょっと掛け合ってくる。」と言って反対側の土手の上にいるお巡りさんに何か言いに行った。「きつくお願いしてきたから」と言って、その方はその場を離れた。「やっぱり若い人は違うね。こういう時は頼りになるねぇ」とご婦人。すでに消防車
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も来て、専門家と思われる人も来てはいたが、救出にはいたらない。
しかし、とうとうやってきました。大きな梯子のついた消防車が ……道路に黄色いテープで規制線を張り、いよいよ鳥救出作戦が始まった。すでに日はとっくに暮れあたりは暗い。気温も低くなってきた。羽の動きはかなり弱くなっているが、まだ生きている。ちょうど目の前で梯子が向きを変え、上へ上へと伸びていく。そしてついに鳥は消防隊の持った網の中に入れられ、地上で待つ専門官の手に渡された。その時拍手が起こった。みんな口々に「よかった。よかった。」と言いながら、お巡りさんや消防隊の方にお礼を言っていた。
昔、父親に連れられて観た東映時代劇 本立て映画で、清水の
次郎長親分が子分を引き連れ颯爽と土手を歩く姿に、拍手が起こ
ったのを子供心に覚えている。たかが鳥一羽、されど鳥一羽である。
平和な国であることを心底ありがたいと思った。
心配はするもののなんとも仕様がないと思っていたが、『気』の
大事さを改めて感じ、みんなの願いが通じたこの一瞬をともに喜
びあえたことに感謝した。私が来る前からずっと見守っていた外
国人家族に、なぜか「ありがとう」と手を差し出した。家族みん
なが握手をしてくれた。ホットケーキはお預けとなったが、心に
はたっぷりの甘さが満ちていた。帰ってからつけたテレビニュー
スのトップは、サウジアラビアとイランの外交断絶であった。脆
くも崩れやすい世界情勢の中に私たちは晒されているということ
を改めて思う。
平和も平穏も一人一人の強い願いと祈りが何にも変えて大事であると、新年に誓った。
より
旧鏑木小路の屋敷は、明治期に陸軍佐野連隊の借家としても利用され、児玉源太郎の旧宅跡もあります。
城外の武家屋敷は、主に城東側の台地上に配置され、道には突き当りやクランクが多く敵の侵入を防ぐよう工夫されています。旧鏑木小路に残る通りに面した土手は、馬上から覗かれるのを防ぐためといわれますが、敵の侵入に備えたとも思えます。「佐倉武家屋敷」として、3軒の武家屋敷が保存・公開されています。
▲ 畳の敷かれた玄関と接客用の座敷。▼ 主人の居間。
武家屋敷のひとつ「旧河原家住宅」は弘化 2年(1845)以前の建築で、佐倉に残る武家屋敷の中で最も古いと推測されています。全体は L字型のレイアウトで、門を入って右手に玄関と接客用の10畳の座敷があります。その奥には主人の居間(6畳)、茶の間(4畳半)、納戸、土間などがあり、接客を重視した間取りであることが分かります。板の間の納戸には箪笥などが置かれ、家族の寝室としても使われたようです。
東側には縁側が続き、軒先の下には雨だれを抑える砂利を敷いています。縁側の手前には客用の、奥には自家用の便所が設けられました。土間は約8畳と広く、台所や作業場として使われていました。裏庭には畑や井戸があり、左手は湯殿になっています。野菜類を自作していたことがうかがえます。
隣に建つ「旧但馬家住宅」は、河原家よりも少し小ぶりの屋敷です。武家屋敷の大半は藩の持ち物で、役職や身分に従い広さや仕様が異なる屋敷を貸し与えられました。佐倉藩では堀田正睦も関わった天保の改革以降、藩士の石高により建坪や門のスタイル、玄関の間口、長押の有無、畳べりの仕様などが厳しく定められ、豊かな商家や豪農よりも質素な屋敷に暮らしました。「旧但馬家住宅」は手前に土間があり、奥に玄関のある間取りです。
玄関には1間の箱段がつき、佐倉藩中屋敷の規定に準じています。
藩主・堀田正睦による改革以前、佐倉藩の財政は切迫し、藩士たちの士気も落ちていました。正睦は天保 4年(1833)に藩士を佐倉城に集め改革を宣言し、まず生活の貧窮した藩士に一時金の貸付を行います。次に家禄(給与)を親から引き継ぐ際、文武を学ばない者からは家禄を割り引く制度を設けます。自然と学問・武芸が盛んとなり、藩校が整備されると優秀な人材が佐倉に集まるようになりました。一方領民に対しても、住宅や着物から贈答品、婚礼、お祭りまで、無駄な出費を抑えるよう定めました。
工房楽記テーマは「味」
鈴木 惠三(BC工房 主人)
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毎年
新年。 今年のテーマは「味」です。味のあるモノづくり、味のある店づくり、味のある販売。
「味」をテーマに、今年のオリコミ・チラシを作った。
年間、折り込みチラシを作ってきた。
オイラは、チラシ大好き人間だ。
年前、デパートの宣伝セクションで働いていた頃からだ。
カッコいいファッション広告も好きだけれど、なんとなく「古くさくてダサい」イメージのオリコミチラシに愛着が湧いた。デザイナーが、写真をパズルのようにレイアウトしていくのを見るのが好きだった。若い時のこの感覚が、今も続いている。ネット広告の時代になっても、オリコミチラシの魅力から離れられない。新しいチラシの新聞オリコミが始まると、もう来年のテーマ探しが始まる。オイラの趣味は「椅子の開発」と「チラシづくり」?コピーはもちろん自分で書く。
歳のコピーライターだ。
昔の仲間から、「まだ書いてるのか ?」
「相変わらず、ヘタだな !」と、言われても気にしない。」
日経新聞の通販の広告コピーも書いているが、
20
㎝でも
背の張りが背の彫刻がカワイイ。たたみ椅子。
使い方
自由自在。
インテリアの中心。
「
歳から
歳まで、
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追 伸
佐々木敏光のデザインロイヤリティ問題は、家具デザイナーの村澤さんと小泉さんに頼んだ。わざわざ「ふじの」工房に来てくれ、いい話が出来た。今いちばん輝いている 2人が、これからの日本のデザインロイヤリティ契約を変えていってくれるだろう。クレセントチェアに限られた問題としてでなく、椅子デザイナーを目ざす若い人のためにも、じっくり取り組んでほしい。オイラは、若手リーダーの 2人の応援団として、しっかりバックアップしていきたい。
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webサイトはこちら http://www.tsuhan-saijiki.jp/01
「たたみ椅子」
世界中のどこにも、
その土地の文化に合った
椅子らしきものが
古くから存在します。
「日本の椅子は畳」と
品質をして語
そして「畳ずり」には、畳を傷めない機能性と、橇を履いたような佇まいがある。日本の椅子とは何かを解く鍵かもしれない。驚きの低さが人気です。驚きのデザインが人気です。
驚きの「たたみ椅子」。
切っても切れない関係がある。
ご注文・お問い合わせは電話かファックスで
0120-314-914(電話)
※携帯電話・PHSからもご利用できます。
0120-314-947(FAX)
お電話での受付時間は8時.21時です。土・日曜日・祝日も受け付けております。
●FAXのご注文例
日経社通販歳時記宛 注文書
焼きペン名入れサービス
名前、日付を焼きペンで書き入れます。
選びぬかれた素材と確かな技術が生みだす世界の名品たち。品質を追い求める、そのこだわりをご紹介します。
1.〒住所
アルファベット、数字で10文字以内でお願いします。
2.氏名(ふりがな)
※名入れサービス後の交換・返品はご容赦願います。
3.
電話番号
4.商品名
商品番号 数量 .黒 .茶
5.
お支払い方法
ゆったりきらきらたたみ椅子商品番号BC-041 62,640円(本体価格58,000円)
工芸たたみ椅子
商品番号BC-044 70,200円(本体価格65,000円)
年間の現役だ。
家具屋よりキャリアは長い。強運だったおかげで、いろんな広告賞をいただいた。うれしい思い出だが、オイラの好きなオリコミチラシには広告賞はない ?名誉も賞もなく、次の日にはゴミになってしまう悲しい存在なのだ。スーパーのチラシ、パチンコ屋のチラシに混ざって、BC工房のチラシが、都内全域に新聞オリコミされていく。おかげで、毎年多くのお客さんに出逢ってきた。
年間で 1万人のお客さんの輪」
時代と共に変遷するメディアの中で、いつもカッコ悪く、底辺で、しぶとく活きぬいているのが、新聞オリコミチラシなんだ。
「愛すべき、オリコミチラシに感謝」
これは、なかなか評判がイイ。お気軽な、自然なコトバづかいの文章がいいようだ。調子にのって、「生涯、現役コピーライターだ。
」と、皆に言っている。
一括代引きのみとさせていただきます。
座りやすい、立ちやすい、斜めの
お届け時に商品と引き換えに現金またはクレジット カードでお支払いください。 JCB、VISA、AMEX(アメリカンエクスプレス)、
アーム部。ふっくら背あたりの良さ。 Master、ダイナース、DC、三井住友VISAがご利用です。波型モールド座面で、 になれます。●ご注文代金は、各クレジット会員規約に基づき、 ご指定の口座から引落としさせていただきます。
安心の座り心地です。
※
商品のお届けは、通常10日前後です。
※
交換・返品は商品到着後、7日以内にお願いいたします。
※
ご使用後の交換・返品はご容赦ください。
※
お客様のご都合による交換・返品の場合の送料は お客様のご負担となりますので、ご了承ください。
※
商品のお届け先は日本国内に限らせていただきます。
※
全国送料・1脚5,000円です。
本物だけを。価値のある物だけを。
座面高23.25cm
代金のお支払い方法
商品提供/ビーシー工房株式会社
〒104-8176 東京都中央区銀座7-13-20(株)日本経済社●カラー/黒、茶●材質/チーク材、牛本革●サイズ(約)
●カラー/黒、茶●材質/チーク材、牛本革●サイズ(約)
お客様からご提供いただいた個人情報に基づき、商品提供会/幅50cm、奥行き60cm、高さ62cm、座面高12cm
/幅61cm、奥行き67cm、高さ76cm、座面高23.25cm
社、または(株)日本経済社より新商品等のご案内を差し上げ
る場合がございます。詳しくはホームページで。●重量(約)7.5kg●日本製(チーク材はインドネシア製)
●重量(約)13kg●日本製(チーク材はインドネシア製)
商品の発送元、お支払先は商品提供会社となります。
沿線にはキャベツ畑が広がります。
銚子電鉄は、終点「外川駅」までの総延長 6.4kmを19分かけてゆっくり走ります。銚子電鉄の開業は大正11年(1922)、その前身は大正 2年(1913)に銚子と犬吠を結んだ「銚子遊覧鉄道」でした。遊覧の名からも分かる通り犬吠埼への観光向け鉄道として銚子の有力者により設立され、廃線の危機を何度も乗り越えてきたことは、よく知られているとおりです。外川駅を降りると、坂道の下に外川漁港が見えます。外川は、紀州国広村(現在の和歌山県広川町)の崎山治郎右衛門(さきやまじろうえもん)が万治元年(1658)から数年かけて碁盤目状の街づくりをした漁業の街です。紀州和歌山では江戸時代から農家の次男・三男が全国の漁場に出掛け、長期間滞在して漁業を行う「旅網」を行っていました。崎山もそうした海民のひとりと思われ、銚子を一大漁場にしようと一統をひきいて九十九里浜などで旅網を続け、資金を貯めていました。▼外川漁港。正月休みで出港できず、漁師の皆さんは漁具や船をメンテナンス中。延縄でカジキを捕るそうです。
紀州海民が主に行ったのはイワシ漁でした。江戸時代になると関西を中心に木綿やミカンなど商品作物の肥料としてイワシを干した「干鰯(ほしか)」の需要が急増します。またイワシを煮て採った魚油は灯火に使われ、絞り粕を乾燥させた「〆粕」も肥料となります。乱獲により関西のイワシが少なくなると、紀州海民は漁船に漁具を積み込み、船団を組んで東を目指しました。九十九里などに豊かな漁場を見出すと、地引き網や八手網を駆使して大量のイワシを獲り干鰯にして西国へ送ります。地元にとっても浜の使用料が入り最初は歓迎されますが、地元の漁師もイワシ漁をはじめると紀州海民との軋轢も生じました。
高台から見た外川の街並み。「外川千軒大繁昌」と謳われる一方で、元禄地震(1703年)などの大津波に見舞われるたび復興を繰り返してきました。
▲ヒラメ一本釣漁の漁師さんたち。正月休み中もじっとしてはいられないようです。
崎山治郎右衛門が当時寒村だった外川に漁港を築いたのは、「旅網」の縮小を見越してかもしれません。崎山は領主に開発許可をもらうと、莫大な建築費をまかない約 80mの堤防三本を沖に向かって扇状に築堤しました。石は長崎浦の火成岩を切り出してイカダで運び、石の隙間には金属を流し込み、潮の流れで砂が溜まらないよう工夫するなど、最新の土木技術を駆使しました。漁港開発とともに浜と平行する生活道路と、急斜面を登る石畳の産業道路を格子状に設け街並みを形成すると紀州海民の移住を受け入れ、大量のイワシを干鰯に加工する組織的な漁業を発展させました。
外川の浜辺から見た「屏風ケ浦」(銚子市の南側沿岸)。東洋のドーバーとも呼ばれ、侵食された高さ40〜 50mの崖が10kmに渡って続く台地の上には、風力発電の風車が並んでいます。
外川周辺には特に古い地層が見られます。
約 2億年前の「千騎ヶ岩」に続く堤防は釣りスポットです。
「犬吠崎」の語源になったともいわれる「犬岩」。源義経が船で奥州へ逃亡する途中、平家の亡霊に取り憑かれたため置き去りにされた義経の愛犬が 7日間も鳴き続け、8日目に巨岩になったと伝えられています。
外川の街並みを散策しました。街の中心部には、阿波通りや長屋通りなど古くからの名前を持つ坂道があり、藪地だった斜面を階段状に整地した敷地に住宅が密集しています。江戸時代には珍しい計画的に整備された漁村だったことが分かります。漁港の近く「大納屋阿姫」の供養塔は、江戸時代の中頃、五代目・崎山治郎右衛門の後妻となった「おさつ」の魂を鎮めるため立てられました。おさつは紀伊国湯浅村の生まれで人を殺めた罪により故郷を追われ、男姿をして名前も佐吉といつわり、銚子の縁故を頼って漁師となります。男勝りの働きが評判となり「鯨の佐吉」とまで呼ばれたおさつは、世話になっていた家の娘から求婚されますが、真相を打ち明けた後、外川の名家・崎山家(大納屋)の後妻となり懸命に働きまます。しかし、無理を続け精神を病んだおさつに困った村人は、彼女を生き埋めにしてしまいます。その頃から外川は大しけや津波、大火に襲われ、永い不漁が続きました。文化11年(1814)、外川を訪れた高僧・徳本上人は、おさつを丁重に弔い読経を続けた結果、イワシは大漁となり街に活気が戻りました。今も外川の浜では「徳本講」呼ばれる供養祭が続けられています。江戸時代に築かれたと思われる石垣も残されています。各家の屋根瓦には、屋号が入っていました。
おさつの伝承にもあるようにイワシ漁の周期的な不漁期は長い時は数十年におよび、津波による被害も甚大でした。紀州海民は新たな漁場を求め東北の気仙沼や唐桑、大船渡、釜石、大槌、山田、宮古へ向かいます。江戸後期には蝦夷地でも場所請負制による〆粕や魚油の生産が盛んとなり、アイヌ民族に課した重労働は「クナシリ・メナシの戦い」につながります。
イタリアはおいしいものが一杯! トスカーナやシチリアのワ
イン、パルマの生ハムにチーズ、モデナの酢、搾りたてのオリー
ブオイル。スロー・フード発祥の地イタリアには、その食の豊か
さを求めてきょうも世界中からグルメたちが大集合 ……とかな
んとか。雑誌記事、 TV番組、ウェブサイト、いずれも「美食
の国イタリア」というイメージがきらめいている。本コラムでも
ボローニャやヴェネツィア等について、そのおいしさを話題にし
てきたし、拙著でも、古代エトルリアの豊かな食卓や、ルネサン
ス期フェラーラ侯家の豪華な宴席について、オタクっぽく調べて
書いてます。なんたって古代ローマの美食家アピキウス以来の伝
統が。もちろん貴族たちの宮廷とメディチ家のような上層都市住
民については、グルメの饗宴であったことは確かです。ポンペイ
の発掘史料を見るだけでも、その豊かさは驚くほどです。それで
は、人口の圧倒的大多数を占める農民と都市の庶民については、
どうだったのか。トスカーナの農家では、昔から庭にテーブルを
出して家族親戚揃って楽
しく乾杯の毎日だったの
か。そんなわけ、ないの6
であります。理想郷じゃないんだから。現在イタリアと呼ばれる諸地域の庶民の食は、お世辞にも「豊か」とは言えないものだった。その証拠をお見
せします。統一国家としてイタリアが誕生するのは18 1年。
その十数年後、当時ナポリを代表するジャーナリストで作家のセ
ラーノが、庶民の食事について書いた文章の一節です。
わが町ナポリの底辺の庶民は、自らが貧しくとも、施しの心を
忘れない。日々の食事として、茹でたマカロニをチーズと共に食
べる、これが日常という貧しい女がいた。その女の隣人はさらに
貧しかった。こちらは毎度、作られてから日の経った、固く干か
らびたパンを数片口にできれば上等だった。マカロニを毎日食べ
る女は、その貧しき隣人に、自分がマカロニを茹でた茹で汁を恵
んでやるのだった。貧しき隣人はこのマカロニの茹で汁に干から
びたパンを浸して、これを柔らかくして食べるのだ。そこに僅か
に漂うマカロニの香り、これが嬉しかった。庶民の間には、施し
の心が溢れている ……
明治初期ともなれば、いかに貧乏でも、目刺しにごはん・味噌汁・梅干し・漬物に番茶くらいは。我が国のほうがまだマシだったという感じです。統一国家イタリア誕生という政治的な一大事は、庶民の家
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計と日々の暮らしには、ほとんど影響を及ぼさなかった。当時イタリアの産業の
18 22
中心は農業と繊維産業。その農業が、 1880年代に至ると深刻な不況に陥る。
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特に旧態依然たる南部は状況が良くなかった。新生の統一国家は、その状況改善を計る余裕などまったくなく、途方に暮れた貧しき農民たちは、故郷の土地を捨てて、集団で海外に移民していく他なかった。 1880年イタリアの総人口は約2850万人。これが 1920年には、3800万人弱にまで増加している。しかし、この 年の間に約 900万人が海外に流出したと言われます。単純平均で毎年約 万人強。この移民人口比率を現在の日本に当てはめるとどうなるか。毎年 万人ほどの人々が海外に移民に出て行くという状況が 年間にわたって続く、という計算になる。驚くべき数字です。主な移民先は、アメリカ、アルゼンチン、そして、ブラジル。当時のアルゼンチンは、現在とは違って南米きっての豊かな国で、他国がうらやむほどの繁栄を謳歌していた。3番目の目的地であるブラジルに移住したイタリア人は、総計約 150万人。現在その子孫たちはブラジル総人口の %という一大勢力(3 100万人)とな40っています。
そのブラジルには、少し時を経て日本人も集団で
移民している。その子孫の皆さんが、 2012年
に現地ブラジルの日本語新聞「にっけい新聞」紙上
で行われた座談会で、興味深い話を披露している。
一部切り貼りして読みやすくすると、次のような感
じです。「おそらく移民の貧しさは日系移民よりも、
イタリア移民の方がひどかったと思いますよ。」「日
本も貧しくて来た人は多かったんだろうけど、それ
でも、それなりの服装をして、ちゃんとトランクな
んか持ってきたわけですよね。イタリアの移民は、着たきりすずめの汚い格好で
来た。そういう人達が一杯いた。でもそれはブラジルだけじゃなくて、アメリカ
でもアルゼンチンでも、イタリア移民の貧しさは共通ですね。」「貧しい移民のな
かでも、上の層はアメリカ、その次はアルゼンチン。で、アルゼンチンにも行け
ない人がブラジルに来た、というのが実態だと思いますね。」「イタリア移民は、
その多くがサンパウロ州に入った。だからここはイタリア移民の影響が強いんで
すよね。」「このサンパウロ移住組、このひととたちは、ほぼ奴隷の代わりに入っ
てきた労働者なんです。それがコロノ(農園労働者)や工場労働者になり、コー
ヒー農園や工場の3Kの仕事をやったわけです。」「子供が多い家族(働き手の多
い家族)は田舎でコロノとして働き、子供が少ない家庭は工場労働者になったと
聞きました」……ざっとこんな感じです。
それにしても、「奴隷の代わりに」という言葉は凄い。当時の日本人移民の目から見ても、イタリア移民はそれくらいの困窮ぶりだった。やがて、この多数の海外移民たちの食生活が、非常に興味深い形で後の「イタリア料理」誕生に影響を及ぼしていくことになります。しばらくこのテーマを追いかけます。
江戸時代からの観光地 犬吠崎外川の海岸沿いを北に進むと、海に突き出した犬吠埼が見えてきます。日本の平地で初日の出を一番早く拝める
場所として、元旦には多くの観光客が訪れるそうです。
灯台建設のため質の高いレンガの開発も行われ、千葉県高岡村産の国産レンガ19万 3千枚が使用されています。
幕末の開港にともない、江戸幕府は欧米各国と結んだ条約のなかで灯台など航路標識の整備を約束しました。それに従い日本の初の洋式灯台「観音埼灯台」が、フランス人技師ヴェルニーにより明治 2年に完成します。それを引き継ぐ形で明治元年に来日し、9年間で 26の灯台を作った英国人リチャード・ブラントンの設計で「犬吠埼灯台」は明治7年に完成しました。犬吠埼は古くからの観光地で、旧伏見宮貞愛親王の別荘「瑞鶴荘」もありました。江戸時代に利根川の河岸(かし)のひとつ千葉・木下(きおろし)から発着した「木下茶船」は、香取・鹿島・息栖の神社をめぐってから銚子浦までを巡る遊覧船で、江戸の風流人に評判でした。船中に座したまま酒を酌み交わし、川魚や両岸の景色を楽しむ船旅は贅沢な観光旅行だったのです。圧縮空気を発生して、屋根のラッパから霧笛を吹鳴していました。
カマボコ型の建物は、明治から「霧笛」を鳴らし続けた旧犬吠埼霧信号所霧笛舎(明治 43年)です。壁から天井まですべて鋼板製で、八幡製鉄所の製品を使ったといわれます。霧笛は視界の悪い際、船に位置や方向を知らせる仕組みで、信号所によって間隔が異なりました。順次廃止され、犬吠埼の霧笛舎も平成 20年に役目を終えました。
明治7年から昭和27年まで、80年にわたり海原を照らしたフランス製のレンズ。ノコギリ型に成形されたフレネル式1等 8面閃光レンズは、数十kmの距離まで光を運んでいました。
犬吠岬旅情のうた
ここに来てをみなにならひ名も知らぬ草花をつむみづからの影踏むわれは仰がねば燈台の高きを知らず波のうねうねふる里のそれには如かず。ただ思ふ荒磯に生ひて松のいろ錆さびて黝きを。わがこころ錆びて黝きを。
佐藤春夫
僕らのリズム
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Vol.3トトントン
....・・.
・ヒカル「ねえ、ヒカリ。本当に頼んだからね」・ヒカリ「ででで、でもヒカル ……きっとうまくできないよ。見つかったらミカエル様に怒られるし ……」..ヒカル「大丈夫。分かりっこないよ」.・・.大天使ミカエルの前に長蛇の列を作る天使たち。.・その先頭近くで、ヒカルとヒカリがこそこそと話しをしている。ヒカル「よりによって次の輪廻(仕事)が[人]とはね。二人揃ってツイてないよ。ウスバカゲロウとかセミとかだったら短くて良かったんだけどな」ヒカリ「ででで、でも[人]は一番やりがいがあるというか ……ててて天使の使命はすべての命をクリスマスの光の方へ導くことなんだから」ヒカル「はいはいクリスマス(誕生の日)の光ね。もう聞き飽きたよ」ヒカリ「だだだだ大事なことなんだよ。ヒカルのことも導いてあげるよ」ヒカル「わかってるよ、そんなこと。ヒカリはいいよ、いつだって優等生なんだから。導くって ……だから助けてって言ってるんじゃない。だいたいこの前、人に輪廻した時なんて私、自殺しちゃったのよ。今でもあの時の辛さ覚えてるもん」ヒカリ「ししし、知ってるよ。た、大変だったよね」ヒカル「今度だって失敗する自信満々だよ。ほら、交換するよ、羽出して」ヒカリ「ううう ……うん」.ヒカルとヒカリはコッソリとお互いの羽を一枚づつ交換した。それぞれ受け取った相手の一枚羽を自分の羽にスウッと馴染ませ、パタパタと動かした。ヒカル「よし。これで向こうに行っても会話ができるね」ヒカリ「ででででも、向こうではこの天上界のことは忘れちゃうんだよ」ヒカル「大丈夫。手は打ってあるから。 1年のうち、たった 1日だけど交信出来るようにしといたから!」ヒカリ「手?交信??」ヒカル「さっき渡した羽にリズムを仕込んでおいたんだ」
野田 豪 (AREA )
.・・.・.
ヒカリ「リリリリズム?」ヒカル「トトントンね」ミカエル「12……次!!」ヒカル「あ、呼ばれた。じゃあね !ヒカリ。向こうでね。トトントンだよ忘れないでね」
乾期の 月。バンコクの夜。厚ぼったい熱気をかき分けて歩く。手の中の拳銃。「よお、セーン、どうした ?けわしい顔して」顔なじみのドアマンが声をかけてくるのを無視して、外国人がごった返すロビーに入る。手の汗がすごい。心臓が踊っている。セーンは幼い一人娘を思う。まだ十分に話せない俺の天使。金だ。彼女が幸せになるには、まとまった金が必要なんだ。ボスの声が蘇る。「あの悪徳不動産屋をぶっ殺してこい。お前ならできる」しかし奴の周りの SP。それをやったら俺も当然のごとく死ぬだろう。心の中に二つの声が響く。「ボスの声」と「娘の声」だ。くそっ。セーンはたまらず携帯を取り出した。最後にあいつの声だけでも。家のナンバーを押す。雑音混じりでラインがつながる。ここの所、携帯の電波が不安定だ。雑音がひどい。よその会話が聞こえてくることもあるほどだ。「あ、おとうさんだ。ねえねえあのね、今日は何の日だ ? ……」はしゃいだ声に目をきつく閉じた。「ねーねー、おとうさん聞いてる?」「きききき聞いてるよ。おおおお父さんちょっと、ととと遠くにお仕事に行かなきゃいけなくなってな ……」
会社の社員食堂。僕の前の ランチは手を付けられないまま完全に冷え
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切っていた。さっきから携帯が震えている。国際電話 ?誰だよ。いや今こっちはそれどころじゃないんだ。「教えてくれよ」「なにを ?」「何って ……いきなり理由なしに別れてくれって言われても」目の前の女が考え込むように目を伏せる。「その貧乏ゆすり ……かな」アキラはハッと自分の足を止めた。「いや ……え?」「じゃあね」立ち上がり遠ざかる彼女の後ろ姿をボーッと見送る。「んだよ ……」携帯が鳴り続けている。だめだな ……僕はやっぱり何をやっても。仕事もミスばっかりだし、こんな日に彼女に逃げられるしさ。テーブルの上に目を落とす。まだ携帯が震えている。あーもう。携帯をつかんだ。「もしもし ?」雑音がひどい。最悪の電波状態。イラついて貧乏ゆすりが再発する。トントントントン。トトントン。
セーン「ししししばらく帰れないけど元気に ……」
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アキラ「は ?」セーン「は ?」アキラ「えーと ……どなたですか ?」 何かの拍子につながった電話。知らない言葉。おそらく遠い国の誰か。平和で安穏な国の、のんびりした声。セーンは電話を切ろうとした。しかしなぜかそうできなかった。なにかが引っかかった。トトントン。トトントン。声の向こうから何かのリズムが聞こえる。セーンはふいに自分の体
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の強張りが解けていくのを感じた。とても懐かしい感情に支配されていく。ボスの教えよりもっともっと尊く感じるもの。娘の声に近く、しかし、もっと厳かに心震える感情。セーン「だだだ誰なんだ ?君は ?」 何かの拍子につながった電話。知らない言葉。背中の羽がむず痒い。ん ?羽?手を背中に回した時、アキラの魂がまず初めにそれに気づいた。アキラの心に電話の向こうから、破壊的で視野狭窄した喜悦の感情がなだれ込んできた。同時に途方もない悲しみと憎しみが押し寄せてくる。トトントン。トトントン。アキラ「何が何だかわからないけど、やめときなよアンタ。大事なのは光だろ。光の方へ命を導くことだろ ?ヒカリ、お前はいつも僕にそう教えてくれたじゃないか。え、あれ ?」セーン「 inochino -hikari ?」『今日は何の日だ ?』アキラ「あーもーわっかんねーかなぁ、えーとあれだ。例えばあれだ、というか今日はあれだ。クリスマス !!トゥデイはクリスマス !!ヒカリ !!分かるよな ……って ……」セーン「クククククリスマス ?命を ……みみ導く ……ヒカルも ……?」アキラ「あっ !!ヒカリ !!!」セーン「あっ !!ヒカル !!!」セーンの手から拳銃が離れた。
ザザッ。携帯の擦過音が急に静かになった。「おとうさん ?おとうさーん」耳に響く娘の声に我にかえる。セーンはポケットの拳銃を近くのゴミ箱に投げ捨てた。外に出た。夢中で走り出した。ただひとすじの光に向かって導かれていく。
そんなリズム。
犬吠駅からふたつ目の海鹿島(あしかじま)駅は、関東最東端の駅としても知られています。周辺にはかつて多くの別荘や旅館があり、東京の文士も集いました。海鹿島ゆかりの国木田独歩や竹久夢二の文学碑がたち、それを巡る旅も人気です。駅から目印を頼りに竹やぶを歩くと、巨大な自然石に仙台石を嵌めこんだ「国木田独歩詩碑」が横たわります。詩人・小説家・記者・編集者とマルチに活躍した独歩の出生には諸説あり、明治 4年(1871)銚子に生まれたといわれます。旧龍野藩士の父・国木田専八は、慶応4年(1868)銚子沖で遭難した神龍丸の生存者で、銚子の吉野屋旅館で療養中に女中・淡路まんと結ばれます。独歩は 4歳まで銚子で育ち、母とともに上京すると裁判官になった父に連れられ中国地方を転々としました。やがて独歩は徳富蘇峰の「国民新聞」記者として日清戦争に従軍し、戦地レポートが評判となります。当時は小説で身をたてることは難しく、グラフ雑誌の編集長として「婦人画報」などを次々と創刊しますが、結核のため36歳で夭折しました。小川芋銭作「水魅戯」(すいみたわむる)大正12年
海鹿島の海岸に向かう坂道には、幻想的なカッパや水霊の絵で知られる日本画家・小川 芋銭(おがわ うせん)がアトリエとして利用した「潮光庵」が現存しています。運漕業を営んだ篠目八郎兵衛の別荘で、芋銭は大正12年に初めて銚子を訪れてから晩年までたびたび長期滞在し、地元の人々と気さくに交流しながら創作を続けました。
坂道途中の「竹久夢二詩碑」には有名な宵待草が刻まれています。
まてど暮せど来ぬ人を宵待草のやるせなさ今宵は月も出ぬさうな
元禄8年(1695)には、ヒゲタ醤油を創始した田中家5代目の田中玄蕃が海鹿島に湊を築き、イワシの干鰯場を設けました。田中家は地元の豪農で。5代目田中玄蕃は、関西のたまり醤油に小麦や米麹を加え、江戸の味覚に合わせた関東濃口しょうゆの基礎を作り成功。幕末には「様の付くのは観音様と玄蕃様」といわれ総武鉄道や銚子遊覧鉄道などの事業にも進出します。海鹿島の海岸には、明治 30年頃まで数十頭〜数百頭のアシカが群れていて、明治政府はそれを禁漁とし保護していました。海鹿島の岩には小川芋銭の句碑が刻まれています。
銚子灘朝暾大海を 飛びいづる如と 初日の出
昭和8年、今上天皇が誕生した喜びを詠んだ句といわれます。
年明け、見慣れた作業員さんとの別れも近づいた頃。
バトンタッチの関係者ら大勢が現場視察に訪れ、予定通り1月下旬には地下解体工事以降の運びとなった。丘ます組が設置した鉄板の白い囲いは引き続き使う模様。測量作業を手始めに、プレハブ小屋や解体用重機類、騒音計といった物理的なものが準備され、実際の現場作業を行
W
う下請けメンバーも揃い、少しづつ東注建設の現場へと変容していったかに見えた。が、やはりことはそう順調に運ばなかったのである。まだ決められずにいた肝心の現場管理責任者の件は、地下解体着手間際に通達され、新プロジェクトによる 2回目の近隣住民説明会は工事着手後 1カ月経ってからの開催であ
N
る。主催者席に新所長の姿はない。
この疑問について尋ねたところ、説明会終了と同時に突如
シュラの 氏に連れられ、所長の 氏が私たちの前に現れ
た。初お目見えである。マスクを付けた作業着姿で、 N氏
はポツリポツリ、解体作業の流れを語り始めた。
「なにか頼りなげでマナーに欠けた人物? ……」初対面の
印象悪過ぎです。それ以降、お向かいの所長さんからは名
刺ももらえぬまま、丸 2年向き合い、2度目の年越しを迎
えたことになる。
ここ数カ月の動きのなかで、港区環境課なり、都の紛争
調整課という第三者機関の介入により、両者の歩み寄りにささやかな進展は見えたものの、自分のなかの危機意識、問題意識は募るばかりだ。
千葉県・野田と共に醤油の産地として知られる銚子。その背景には利根川を利用した大消費地江戸への水運と、イワシ漁によって集積された資金や組織があるといわれます。ヤマサ醤油を設立した初代濱口儀兵衛は、外川を拓いた崎山治郎右衛門と同じく紀州国広村の出身で、崎山の成功をみて銚子へ進出したようです。濱口がヤマサ醤油を創業した正保2(1645)には、徳川幕府による利根川東遷事業が進んでいました。1660年頃には銚子から江戸への水運ルートが確立し、銚子は江戸にとって海の玄関口となります。江戸の人口が急増すると、関西からの「上がりもの」だけでは品薄となり、醤油や味噌、塩、酒、酢などの生活必需品が利根川や支流流域の各地で作られ「江戸地廻り経済」が発展します。ヤマサ醤油のレンガ倉庫が大切に利用されていました。幕末から明治に活躍した7代目濱口儀兵衛(梧陵)は、安政元年(1854)の安政南海地震津波から多くの村人を救った「稲むらの火」のモデルとして知られます。ヤマサ醤油の当主は代々、銚子と紀州国広村を行き来していて、地震当日広村にいた梧陵は、津波の到来を知ると稲に火を付けて村人を高台の八幡宮へ誘導します。このエピソードは小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)によって紹介され、教科書にも載り、津波への代表的な教訓話となりました。ヒゲタ醤油から北へ、利根川に向かって歩をすすめます。対岸の茨城県神栖市まで 900m〜1kmほどもある利根川の河口は、静かな海のようです。利根川河口に築かれた銚子港は、イワシやサバ、サンマなどを中心に全国有数の水揚げ量で知られます。ここ銚子も紀州海民たちによってひらかれた港町で、江戸時代は北前船の中継地として栄えました。
「稲むらの火」のモデル7代目濱口儀兵衛(梧陵)は村人を救っただけでなく、紀州国広村の復興に尽くします。まず住宅の再建や津波で流された農具・漁具の調達を行い、村人の離村を防ぎます。次に津波再来への備えと、村人に仕事を与えるため、梧陵は 4年間にわたりヒゲタ醤油から莫大な資金
(1,500両以上とも)をもちだし大防波堤の建設を進めました。全長 600m以上、高さ5mの堤防は、昭和19年東南海地震や昭和 21年南海地震の津波被害減少に役立ちました。広村(現・和歌山県広川町)には、梧陵の功績を伝える「稲むらの火の館」があります。2013年に完成した銚子大橋の長さは約1.2kmあります。昭和 37年、初代の銚子大橋で結ばれる以前は、銚子〜神栖間を多くの渡船が結んでいましたが、平成 8年に最後の渡船が廃止されました。