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12月号黄冬 2015
http://collaj.jp/
時空にえがく美意識
馬込文士村
文学の坂いずこ
Copyright . 2015 Shiong All rights reserved
ボランティアガイドによる散策ツアー(馬込文士村ガイドの会)も人気です、大森駅西口にてツアーに参加する人々。
いま静かなブームとなっている「馬込文士村」を訪ね JR東海道線(京浜東北線)の大森駅へ。明治 5年、新橋・横浜間に日本最初の鉄道が開通し、明治 9年にできた歴史のある駅です。まずは西口の脇にある牛めし屋の 2階へ上がり、
(社)大森倶楽部で「馬込文士村ガイドブック」(大田区立郷土博物館発行・200円)を入手しました。
大森駅西口から道路をわたり天祖神社へ。急な石段のわきに馬込文士村の住人たちが並ぶ金属製のレリーフ「群像」が掲げられています。『人生劇場』の尾崎士郎をはじめ、宇野千代、室生犀星、萩原朔太郎、川端康成、山本周五郎、石坂洋次郎、三好達治、片山広子、村岡花子など、日本の小説や詩歌に重要な役割りを果たした人物たちの相貌です。
「馬込には九十九の谷がある」といわれるように馬込の台地は起伏に富む地形で、かつて太田道灌が築城を計画したものの、苦重苦につながるので見送られたとの伝説もあります。この地の様相を大きく変えたのは大正 12年の関東大震災で、340万人を超える罹災者の多くが東京近郊へ移住し、文士たちが盛んに馬込に移ってきたのも大震災以降、昭和の始めの頃でした。
▼ マンション前に立つ「弥生人が住んでいた」解説看板。
天祖神社から弁天池への道筋は、文士の散歩道でした。「大森貝塚」の発見からも分かるとおり、海岸から台地にかけては古代から人々の暮らしてきた豊かな土地で、マンションの敷地からも竪穴式住居跡や土器・石器、米作りの痕跡などが発見されています。人々は米や粟を育て、海岸で魚や貝をとり、明治の初期まで変わらぬ暮らしを続けていたのです。
僕らのリズム
青山の書店からその依頼が来たのは、妻、みず枝の
70
20
翌日だった。
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「MyLifeMy100Books?」「はい。先生の今までの人生の 100選を選んでいただきたいのです」「夏の思い出の一冊とかではなくて、人生の 100冊 ?」「はい。」「君、100冊というと相当な量だぞ」「はい……難しいでしょうか ?」
書店の若い男が申し訳なさそうに頭を掻いた。
「いや……難しいこともないが……」
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祐天寺駅前の蕎麦屋で昼を済ませ、自宅に戻り、書斎の大きな本棚に向かい合った。 歳になるか、ならない頃に小説家を目指して、今年で 歳になる。文学賞と言われるものも幾つか取った。しかし未だに自分が小説家であるとの自負を持てないでいる。きっと私自身を納得させる作品を書けていないからであろう。
「うーむ」
まず「銀河鉄道の夜」を手にした。続いて「星の王子さま」と「夜
間飛行」を引っ張り出した。
「100冊か……こりゃえらい作業だぞ」
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「ねえ、ねえったら」みず枝が私の青い外套を引っ張った。神田の古本屋の奥。「今日の映画はやめにしますか ?」ハッと顔を上げた。
新連載
Vol.2青いアルバム
野田 豪 (AREA )
回目の法要の
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時計を見る。ここに来てから 時間も経っていた。手に持っている大江の著書を手放し難く、私はみず枝を見た。買いたくても金がない。
10
しょうがない。明日また読みに来るか。諦めかけたその時みず枝が言
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った「待っていますよ」「あ、いや」「映画は明日もやっています」店のガラス窓から夕日が差し込む。二人がオレンジに染まる。みず枝の顔は逆光で見えない。でも分かる。彼女は私の大好きなあの顔で笑っ
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ている。優しい優しいあの笑顔。
2
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「僕は小説家になろうと思います」みず枝の両親の前で土下座をした。人に土下座をしたのは初めてだった。内心は忸怩たる思いでいっぱいだった。「いくら早稲田卒と言っても無職ではねぇ」みず枝のお母さんが僕に目を合わせないように言った。カッとして立ち上がりかけ
10
た。私の右手を抑えるように、みず枝の左手が重なった。横を見るとみず枝も額を畳につけていた。「お父さん、お母さん。私の生涯で最初で最期のお願いです。お聞き願います」彼女の目から涙が落ちた。
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なんとか 冊を選定した。よし、もうひと頑張りするか。開けた窓の外にカラスの鳴き声を聞いた。寺の鐘の音が夕方を告げた。もう冬か。風が冷たい。
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その子を抱いた時、私はその軽い重みに動揺した。「おとうさんです
ね」みず枝がベッドから私を見上げて照れたように笑った。「ねえ、あ
なた、アルバムを買いましょう。たくさんたくさん思い出を作りまし
ょうね」
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「楡家の人々」これで 冊か。台所から炊事仕事の音が聞こえた気がした。私は……台所から私を呼ぶあの声を、この 年聞いていない。みず枝に 年も会っていない。
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冊。
そんなリズム。
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私は幸せものでした。でも
……残念です。あなたの小説をもっと
読みたかったなあ。もっとあなたのお世話をしたかったなあ。あなた、お茶の一つも淹れられないからなあ
。
……
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部屋が夕陽のオレンジでいっぱいになっていた。うず高く積み上げ
られた本の山の中で、私はポツンと座り込んでいた。最期の一冊は決まっている。仕事はこれで終りだ。箪笥から引っ張り出してきた古い服。ボタンの取れかかった青い外套を、膝の上にかけて顔を上げた。「おい、かあさん、終わったぞ。お茶をいれてくれ」リビングに向かって声を出してみた。そして耳を澄ました。
フッフッフッ。
返事の代わりに、いくら押し殺しても漏れ出てしまう、自分の吐息を聞いた。
私は……。優しい優しいあの笑顔に。もう一度だけ会いたい。
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小説家が消えた畳の書斎。100冊の本の山。その一番上に、綴じのほつれた青いアルバムが乗っている。
そして、ただ静かに冬の部屋は翳りゆく。
窪地に作られたテニスコートは、かつて日本帝国小銃射的協會の射撃場でした。小林古径など、画家たちがよく集まったホテル「望翠楼」あと。
江戸時代は静かな農村だった大森は、駅の開業以降人口が増加し、大正のはじめには池上通り沿いを中心に宅地化が進みました。一方山王の高台は東京近郊の別荘地として発展し、大正時代には海を見下ろす高台の保養地として政財界人の別荘が建てられました。暗闇坂のそばには、明治17年に遊園地「八景園」が開園し、大森海岸への海水浴客なども多く、東京近郊の観光地として賑わいました。
一昨年の暮、ケン太とかすみの 2人は、この工事で窓口
係を担うシュラの部長
W
氏、年明けから地下解体を行う東
注建設工事部長
T
氏同席のもと、一足早めに現場説明を受
けるに至った。というのも相手方とは補償に関する部分も含め交渉を続けていたからで、必然の流れだったと思う。
T
氏より解体業者を聞き出したものの現場所長はまだ決
まっていないの言葉がもれた。それってありえなくないですか?この現場を軽んじている風が見てとれる。
東注建設要注意信号発令は、この時点で決まったようなもの。人の本性って隠せない。企業のイメージしかりである。事業主たるサンカク地所フレジデンスにしても企業理念や目標を美辞麗句で掲げてはいるけれど、現実を知れば知るほど虚しく響いてしまう。まだまだ企業の体質、役所や政治の体質そのものを日本人は変えられずにいるのよね。このままゆくと日本人は疲弊してしまうんじゃないかしら。それとももう手遅れなのかなぁ〜。
・・・・・
馬込文士村の前期といえる明治末.関東大震災(大正 12年)前には、小林古径や川端龍子、伊東深水たち画家が白田坂周辺や山王に暮しはじめ「大森丘の会」を結成して洋式ホテル「望翠楼」に集いました。
▲ 山王会館には、馬込文士村資料展示室があります。
▼大田区立郷土博物館にある文士村の展示も充実しています。
コラージ新作まつり
より自由になった
A&A
Vectorworks2016発表会
インテリア業界で根強い人気をもつ CAD「Vectorworks2016」の新作発表会が東京・大阪・福岡・名古屋・仙台・札幌の 6都市で開催されました。品川グランドホールで開催された東京会場をレポートします。
はじめに A&A社長の川瀬英一さん(右)が登壇し、2016年バージョンでは、設計の新手法に対応した機能や、モデリング性能に力を入れたことを発表しました。次に米国 Vectorworks社 CEOショーン・フラハティーさん(上)は、30年前の Vectorworks誕生当時と最新の 3次元モデルを比較し性能の向上を示す一方で、画一的な家の並ぶ新興住宅地の航空写真を見せ、CADは効率化だけの手段ではなくクリエイティブなツールであるべきと強調しました。 Vectorworks社 CTO(開発責任者)ビプラブ・サーカーさんが、新機能の解説を行いました。目玉のひとつ「サブディビジョンサーフェス」(細分割曲面モデル)は、ピクサー社の CG制作技術をもとにした機能で、基本図形を伸ばしたり、曲げたり、粘土細工のようにいじりながら 3次元モデルを作り出せます。また 3Dレーザースキャナで計測した点群データの取り込み機能も追加されました。これは現実の空間をスキャンして CGパースのように描き出せる機能で、完成前のパースと実際の空間を比較・検証することが可能だそうです。SF映画に出てくるような機能と感じました。後半は新バージョンの各機能を試用した建築家、デザイナーのセミナーでした。慶應義塾大学の池田靖史教授からは新機能「マリオネット」の紹介がありました。マリオネットは一般にいうビジュアルスクリプティングの一種で、ブロックを繋げる感覚でプログラムを組み、図形を描けます。これを応用すれば計画の変更に追従してファサードの形状を自動的に変化させたり、プログラムを別のプロジェクトにコピペして利用するなど、従来とは異なる造形手段が広がります。図形を操作するという CADの常識が大きく変化したと感じました。テコデザインの柴田映司さんは「サブディビジョンサーフェス」機能を利用して、セミナー中にスプーンやゾウの 3次元モデルを手早く制作しました。最初は円柱だった 3次元モデルの幅や厚みを変え、窪みや丸みを付けていくと、見る間にスプーンが出来上がっていきます。従来は難しかった曲面を折り曲げるような造形も感覚的に行えるのも特長です。柴田さんによると、感覚を慣らすのに少し時間はかかったものの、自転車フレームの集合部分など複雑な曲面をもつ3Dモデリングが色々と可能になりそう、とのことでした。polygonarchitectsの山川佳伸さんは、2016バージョンから標準搭載となった高速・高品位なレンダリングソフト「Renderworks」の機能を解説しました。新機能の「アンビエントオクルージョン」によって隙間や隅などの陰が表現され、OpenGLで描かれた木造軸組のレンダリングがとても見やすくなりました。またカメラの被写界深度を表現する機能もあり、写真のようなボケ感を演出できます。他にも水面の波紋やガラスの屈曲反射集光模様、芝生など、様々なものをリアルに表現する機能が充実し、さらに高速化しました。尾.士郎が昭和 39年に亡くなるまでの10年間を過ごした家が、尾崎士郎記念館として復元されています。
関東大震災後から昭和初期にかけて、馬込には尾崎士郎をはじめ今井達夫、川端康成、衣巻省三、榊山潤、藤浦洸、間宮茂輔、広津和郎、また女性陣は宇野千代を中心に、佐多稲子、吉屋信子、村岡花子。詩人グループとして萩原朔太郎、室生犀星、三好達治が移り住み、毎晩集いながら麻雀や社交ダンス、恋愛と親密で華やかな時代を過ごしました。
『人生劇場』で知られる尾崎士郎は、馬込のガキ大将的な存在とでした。文士村を彩った文士たちの中心人物ともいえます。知り合いに馬込住まいをすすめ、それに応えた文士たちは尾崎の家に集まり、そこで起こる出来事はたちまち文士村に広がるので「馬込放送局」と呼ばれました。尾崎は文士村の出来事を題材にした『空想部落』(昭和 11年)を残しています。
細君連中が相次いで断髪し、ダンスが流行し、恋愛事件が頻出し、大森の文士連中のまわりはなんだか熱病に浮かされたようであった。とにかく賑やかで面白かった。私までが宇野千代と方々歩いたので、恋人と誤解した人もあったらしい。その火事騒ぎは私が大森へ来ると間もなく起り、私が大森を去るとやがて消えた。
川端康成『文学的自叙伝』(昭和 9年)より
熱海の別荘に暮らしていた川端康成も馬込の子母沢(しもざわ)に移り住み、尾崎家と盛んに交流するようになります。川端家の近くには漫画家・池辺釣の家があり、後に俳優・エッセイストとなる池部良少年が、ローラースケートで遊ぶ姿を川端秀子夫人は目撃したそうです。池部良は後に川端康成原作の映画『細雪』をはじめ、文学作品の映画化には欠かせない俳優となります。
22歳のとき時事新報の懸賞小説に応募し『獄中より』で第二席を取った尾崎士郎。同時に第一席となったのが宇野千代『脂粉の顔』でした。選者のひとり久米正雄は、東大近くの燕楽軒で芥川龍之介や今東光に可愛がられた女給と千代が同一人物と知り驚いたそうです。尾崎と千代は馬込の大根畑の納屋を譲り受けて住居に改造。6畳の和室と土間、炊事場は軒先という粗末な家には文士たちが集まり文学談義にふけりました。足りない酒や肴を買いにでる甲斐甲斐しい千代の姿が目撃されています。やがて尾崎は千代と別れ、代表作『人生劇場』により人気作家の地位を確立しました。
ドラゴンシリーズ
ドラゴンへの道編
俺の考え 4
-世界平和は何処に
ヨーロッパ出張から戻った直後、パリ市内でのテロの報道を聞いた。その出来事を信じることができなかった。つい数日前まで、晩秋の落ち
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着いた空気の流れる夕焼に浮かぶパリの街を夜な夜な散策しながら、ゆっくりとした時の中で美しい街並みと独特のリベラルな空気、その平和で幸せな時間を味わってきたばかりだった。パリは世界で最も美しい街の一つであり、その美しく自由と平和の象徴である街でテロが起こった。
パリには多くのフランス人や日本人の友人達が住み、暮らしている。その友人達やパリの人々の気持ちを他人事とは思えない、とても身近に起こっている迫り来る危機を感じている。テロによりパリで亡くなった多くの犠牲者の方々へ、ご冥福をお祈りします。
ヨーロッパではシリアや中東から多くの難民が、ギリシャを経由してドイツやフランスなどの国々に数十万人の単位で流れ込んでいる。ベルリン市内を息子と歩いていると、建物の 階の開け放たれた小さな部屋の窓の中に数十人のシリア人と思われる人々がぎっしりと、外の僕らを恐怖に怯えたような深い眼差しで見つめていた。ベルリンに住む息子に聞いてみると、最近ではシリアから多くの難民を受け入れるためドイツ政府が公共の建物を解放したり、民間のアパートも借り上げて、寝食の場を提供しているようだ。しかし数十万人に増え続けるシリアからの難民を受け入れる場
所にも限界が来ているようで、このような状況をヨーロッパの国々はこれからどのように乗り越えてゆくのだろうか。
一度、戦火から命を賭けて逃げてきた難民を自国に返すことはできないだろう。これからも流れ込んで来る最終的に100万人を超えるであろう難民を受け入れて、彼らが自立してゆけるまで支援し続けることができるのだろうか。
19
吉田龍太郎( TIME & STYLE )
しかし、昔からドイツやフランス、オランダなどの国々はそのような状況下でも難民を受け入れてきた。緊急性のある援助には国も国民もキリスト教徒としての博愛の精神によって、如何なる人々にも手を差し伸べる勇気がある。同時に難民による犯罪も増えてゆくに従って、国内での人種差別意識も次第に大きくなってくるだろう。
88年に起こったフランクフルト発ロンドン行きのパンナム機がテロによって爆破された日の夜中、当時、僕が住んでいたフランクフルト・ザクセンハウゼンのアパートの部屋のドアを蹴破って、数人の武装警察が機関銃を向けて突入してきた。僕はあまりの突
I
然の出来事に、ただ両手を上げるしかできず声も出せなかった。あまりにも激しく突然に、ドアを蹴破って突入してきた武装警察に機関銃を向けられ本当に恐ろしかった。
爆破に関わったテロリストが僕と同じアパートに潜伏していたとのことだった。このテロはリビア人が関わったと言われるが、テロは決して遠くのことでは無いのだと、その時から感じている。
先日のパリでのテロ以降、シリアからの難民の中に Sのテロ要員が紛れ込んでいるという疑念も生まれ始め、中東とシリアから難民を受け入れてきた国々にも不安と疑念が生まれつつある。世界の混沌とした状況下で多くの犠牲者が生まれ、難民が安全な国々へと、まさに命賭けで逃げ込んでいる状況がどのように解決に向かうのか。世界のこれからの大きな課題である。
日本では安保法案が可決され、何事も無いかのように着々とアメリカの軍
事支援の準備が進んでいることだろう。有事ともなれば自衛隊はアッと言う
間に軍と化して、防衛の名のもとで友好国の援護に積極的に向かう決定を総
理や政府高官が下し、戦争に加担するつもりは無く、平和のために自衛隊に
入隊した若者達が支援活動、援護活動という言葉によって戦場に駆り出され
る日はそう遠く無いだろう。しかし、そうならないように日本人は考えて行
かなくてはならない。
沖縄の辺野古の基地移転の問題も沖縄県知事の奮闘によって、沖縄の人々
の民意と強硬なアメリカ配下の日本という国がいよいよ対峙する時を迎え
ている。今の平和がどのような犠牲の上に成り立っているかを知り、沖縄の
人々にだけ犠牲を押し付けることはもう終わりにしなければならない。
今年は世界中で色んな場所で戦いが起こり、シリアや中東の多くの国々で沢山の人々が戦争の犠牲となり、チェチェンやロシア、アフリカ諸国でも凄惨な戦争や殺戮が続いている。
また、日本は中国、そして、隣国の韓国とも友好的な関係にあるとは言い難いのが現状だ。日本からの報道では、中国人や韓国人は日本人に対し敵意を抱いているかのような報道も多いが、とても偏った報道の在り方であり、そのような側面は中国にも韓国の報道にもあるだろう。
しかし、実際に私達が現地に赴き、中国人や韓国人と向き合ってみてわかることは、言葉や習慣は違えど、血の通った同じ愛すべき人々であり、子供を愛し、家族を愛し、人を愛することには何の変わりも無く、皆一様にお互いの友好的な平和を願っている。
私達は直接シリアや中東の平和に貢献することはできないかもしれない。しかし隣人である中国や韓国の人々に対する偏見や対立を心の中から取り払い、他国の民族の尊厳を守り、互いの違いや文化や習慣の違いを認めて、敬意を持って接することができる。
もっと近く、日本の中の隣人への信頼を取り戻すためにも、まずは自分たちにできることがあるだろう。
パリで起こったことを対岸の火事と捉えるのではなく、そのような事態
が起こらないように私達の日常の生活や人々との関わり合い、そして近隣諸国や海外から来日する人々に対して日本人だからできる平和への貢献があるのだと思う。平和ボケで自分たちの国が何をしても無反応の私達は、これからの未来のことを考える岐路に来ている。
私達日本人から近隣国や国内外での積極的に良い関係構築に行動してゆきたい。2016年は少しでもシリアや世界の状況が良くなっていくことを願っている。
まあるい弁天池に浮かぶ小さな島に、厳島神社が鎮座しています。この近くには、評論家・室伏高信が暮らしていました。室伏は馬込文士村にとって台風の目となる尾崎士郎、宇野千代が出会うきっかけをつくり、本郷の菊富士ホテルで2人は結ばれたのでした。
▼作家の住居近くには案内板が立てられています。室生犀星が田端を離れ、一家を連れて大森谷中の借家に移ったのは昭和 3年のこと。一説には共に田端で暮らした芥川龍之介の自殺が原因とも云われます。借家は親友・萩原朔太郎の妻・稲子夫人が見つけたといわれます。やがて、朔太郎と稲子の不和による災禍が、室生犀星に降り注ぐこととなります。
工房楽記椅子デザインの著作権その 2
鈴木 惠三(BC工房 主人)
皆さんから「次なる展開を、待ってます。」などと言われても困ってしまう。オイラは、佐々木敏光亡き後のデザインロイヤリティについて、奥さんの真弓さんが経済的に困窮しているのを、黙って見てる訳にいかず、ちょっと声を上げただけだ。出来れば、 20年の契約が終わったから支払いをゼロにするんじゃなくて、半分ぐらい ?は、支払ってもいいんじゃないの ?今も作っていて、相変わらず売れてるんだし、払ってあげてョ。頼みますョ。と、軽く発信してるだけなんだ。
「次なる展開」は、デザイナーの皆さんが、声をあげて団結して、積極的にやってほしい。大御所の ○○さん、頼みますよ。デザイナー団体の ○○さん、頼みますよ。美大の ○○先生、頼みますよ。おいらは、山の中の仙人。学生時代のように、カラダを張って、大学に、ケイサツに、目をつけられるのはもう卒業だ。カラダを張るのは、現役デザイナー諸氏だ。
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我が身、可愛さに黙っているのはダメダメ。佐々木敏光のカミさんの為だ。自分のカミさんの為だ。日本の家具デザイン界の為だ。
ところで、話題は変わりますが、
年ぶりのグラフィックデザインのプレゼンをやった ?
東京オリンピックのエンブレムデザインだ。 99・999%ダメなプレゼンだ。昔は、ダメでモトモトのプレゼンばかりやっていた。オイラは、元コピーライター、元ディレクター、元プロデューサー、 BC
工房は小さなデザイン事務所だった。
過ぎてから入ったのが、家具の世界。
グラフィックデザインの世界も古い体質なんだけど、家具の世界も相当古い体質 ?インターナショナルになるには、この古い体質を変える自浄努力が必要なんじゃないだろうか。エンブレム、マネしたデザイナーには 1000万 ?一般公募は 100万。どこかオカシイんじゃないの。
「ふじのリビングアート」にて、贈る椅子展とカオハガンキルト展を開催中(12月 27日まで)。ピアノも演奏できます。
▼坂道を上がっていくと、徳富蘇峰の銅像に迎えられます。
山王の閑静な住宅地のただなか、緑に包まれた小高い丘が蘇峰公園として開放されています。元々は日本初の総合雑誌といわれる『国民之友』を創刊したジャーナリスト・徳富蘇峰の邸宅で「山王草堂」と呼ばれました。
▼ 明治 9年、新聞記者を志し熊本から上京した頃の蘇峰。
坂道を上がったところにある「山王草堂記念館」には、関東大震災の翌年大正 13年、蘇峰 62歳の時に建てた邸宅の2階部分が保存・再現されています。蘇峰はここで、全 100巻にもおよぶ『近世日本国民史』の執筆をすすめました。蘇峰の書斎が再現されています。馬蹄形の丸テーブルに資料を積み上げ、中心に坐って執筆を進めました。原稿用紙 17万枚におよぶ『近世日本国民史』は、「◯◯じゃ」」という独特の語り口が特徴で、世界最大の著作としてギネスブックにも認定されています。執筆のきっかけは明治天皇の崩御であり、それを描くため織田信長(第一巻)まで遡ったといわれます。
▲ 蘇峰(右)と蘆花(左)。徳富蘇峰の弟・徳冨蘆花は小説『不如帰』で知られ、上京して兄の元で修行しながらトルストイに傾倒。ロシアで実際にトルストイの農園を訪ね、帰国後に世田谷に農園をひらきました(現在の蘆花恒春園)。国家主義に傾倒していく兄・蘇峰とは一時絶縁したものの、蘆花の死の直前に伊香保温泉で再会し、手を握り合って和解したといわれます。
毎年師走が近づくと婦人誌の料理頁を飾り、デパートやスーパーで予約が開始される「おせち料理」と称する料理の数々。近年その人気は長期低落傾向が続いています。当然かも知れないな、と感じます。だって、お正月にあんなお料理を「昔から家の伝統として」実際に代々食べてきたというお宅、どこかにあるの ?と聞きたくなるからです。真に古い伝統を受け継ぐ家庭の正月料理は、地方ごと家ごとに大きく異なっている。市町村単位でまとめることさえ難しいほど細分化されている上に、同じ狭い地域内でも、商家・農家・武家・寺社の家などの職能身分で違っているのが当たり前。まさに日本の食文化の多様性と伝統の奥深さを象徴する世界です。「日本全国共通のおせち料理」なんて、あり得ません。
では、今多くの人々が何となく「全国共通」と思い込んでいる
「おせち料理のお重」は、いったい何なのか。あれは、ここ百年ほどの間にメディアの力で新たに創り出された一種ヴァーチャルな「幻の伝統料理」です。昭和初期以降全国を制覇した「婦人倶楽部」や「主婦の友」といった婦人誌、それに続いて全国を制覇した NHKテレビ「きょうの料理」の放送とテキスト。「全国共通おせち料理」は、これらメディアを通じて、全国津々浦々まで広まっていった、まだ「新しい世界」です。「新しい」といっても、雑誌時代から数えれば既に百年近い「伝統」があるわけで、そう軽んじるわけにはいかないところが困りものです。
近年、地方都市の祭りの余興のような形で、「大太鼓を並べて奏者がこれを勇壮に打ち鳴らす」というものがある。欧州からの観光客がそれを見て「日本の伝統芸能の素晴らしさを知った」と感想を語っているニュースを見て、思わず吹き出してしまいました。「大太鼓を並べて勇壮に打つ」という「芸」は、私の知る限り佐渡の林英哲さんが創始者で、これが格好イイため、メディアを通じて一気に全国に広まっていったものであるはず。間違っても真の意味での「伝統芸能」なんかではなく、全国共通幻想的な「新しい伝統芸能」です。
例えば東京二十三区、特に山の手と言われる地区の祭り。地元の商店会が仕切っていると、どこも似たような雰囲気です。商店街や駅前に臨時の神輿のお旅所が設置され、スピーカーからは下町の江戸囃子。そばにこれも臨時の神酒所が設けられていて、地
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元商店会の世話役が浴衣やハッピ姿で詰めている。実際に神輿を担ぐのは、下町の連の人たちが中心で、いわば担ぎのプロ。地区の神社の伝統なんて、関係なし。実際に神輿が御出座となると、その後をこれは「本物の地元の子供たち」が小さな山車の綱を引いて、ぞろぞろと歩いて行く。中にはハッピ姿も見かけるけれど、大部分は普段着で、お母さんが付き添いという子供も珍しくない。これが山車の綱を握って、プロの担ぐ神輿の後を追って、だらだらと歩いて行く。写真にするさえわびしい光景です。その後に続くは、盆踊りの真似事のような振りで、ナントカ音頭に合わせて練り歩く、揃いの浴衣姿のおばさんたち。たいていは下町を本拠地とする「社中」の皆さんです。こちらも一種お祭り雰囲気盛り上げ請負集団で、地元とは関係なし。山の手の子供の中には、「祭り」とはこういうものだと思っている子が珍しくありません。
要するに「おせち料理」から「祭りの行列」に至るまで、なんだか「お手軽なエセ伝統風」が氾濫している。実はこれ、日本だけの現象では、ありません。例えば多くの日本人が漠然と「イタリア料理」として思い浮かべる世界。その大半は、ここ百年ほどの間に誕生した、まだ新しい食の世界です。イタリアという国が誕生したのは、明治維新の直前。その時点のイタリアは、英仏独に比べると、明らかに貧しかった。人口の大半を占める農民にとっては、「豊かな食」なんて無縁の世界。敢えて言えば「食うや食わず」の状況で、だからこそ、南部は勿論、先進的と言われた北部からも山のように農民が国を捨てて、アメリカそしてアルゼンチンに代表される南米諸地域等に移民していった。 1830年頃からの数十年の間に
千万人近い人口が流出したといわれています。我々が知る「イタリア料理」は、その後に誕生します。トマトソース、パスタ、ピザ。間違ってもこれが、今のイタリア全土に共通して昔から食べられていた伝統料理だなどと思ったら、とんでもない勘違いです。中央集権の成立が遅かったイタリアは、日本よりも遥かに各地域の独自性が強く、全土共通の食材や料理なんて、あり得ない文化です。言葉でさえ、多くの国民が「標準イタリア語」を理解できるようになったのは、第二次世界大戦後しばらく経ってからだと言われるほどです。要するに「トマトソース・パスタ・ピザ」のセットは、いわば、日本の「おせち料理」の世界。メディアの発達と共に作り上げられた「イタリア料理幻想」なのです。そして、この「イタリア料理幻想」は、膨大なイタリア移民の力もあって、メディアを通じて全世界に浸透していった。それだけに、イタリア各地方で食に真剣な人々は、危機感が強かった。他でもないイタリアで、スロー・フード運動が誕生した最大の背景です。「地域の食の伝統と食材を見つめ直し、真に地域性溢れる新しい食の世界を築きあげていこう」という発想です。その興味深い歴史は、また回を改めて。
室生犀星の住居跡から「きたのこばと児童公園」へ。山本周五郎は、昭和 6年 28歳の時に『青べか物語』に描いた千葉県・浦安からこの地に転居しました。文士仲間にひかれる一方、尾崎士郎に「曲軒」と渾名されるほどのへそ曲がりで、無益にたむろすることを嫌ったようです。昭和18年 40歳のとき周五郎は『日本婦道記』の直木賞受賞を辞退しますが、賞の由来となった直木三十五(さんじゅうご)も愛人を住まわしていた馬込によくやってきては、親友の川端康成家を訪ねていたのでした。
或る晩秋のしづかな日に、私は坂を登つて行った。ずつと前から、私はその坂をよく知つてゐた。それはある新開地の郊外で、いちめんに広茫とした眺めの向うを、遠く夢のやうに這つてゐた。いつか一度、私はその夢のやうな坂を登り、切崖の上にひらけてゐる、未知の自然や風物を見やうとする、詩的な、Adventureに駆られてゐた
萩原朔太郎 散文詩『坂』
詩人・萩原朔太郎は大正 15年、40歳のときから馬込で暮らし始めました。昭和 2年には朔太郎を師とあおぐ詩人・三橋達治(みよしたつじ)が馬込の下宿に移り、頻繁に萩原家を訪ねます。美人で評判の朔太郎の妹・愛子に求婚したものの上手くいかず、その一方、朔太郎の長女・葉子には、人見知りの時期にも関わらず好かれました。
大森の馬込村に住むようになったのは、大正十五年の暮であった。父朔太郎、母、それに学齢前の私と妹の四人暮しだった。三好達治さんが、家に来られるようになったのは、その翌年ごろからである。私は人見知りの強い子だったので、家に客が来ると素早く母の後ろに隠れてしまったり、戸棚にかくれたりした。客の来るのが、何よりおもしろくなく、厭だったのである。だが、幸い父の書斎は二階で、玄関から入るとすぐ階段になっていたので、茶の間で遊んでいる私の姿をみかけられることもなく済んだ。室生犀星さん、宇野千代さん等は足繁く家に来て、時には茶の間で家族的にくつろいでゆくこともあった。が、そんな時も、私は馴れずににこりともしないで、母の後ろに隠れていた。だが、三好さんだけはいつの間にか、馴れてしまった。
萩原葉子『天上の花』
青山の街なかに人力車? ここは AREA 新作発表会
& 13th aniv.パーティの会場です。新作のテーマは
「BRAHMA」。入り口にはブラフマ神が与えたといわれ
る難問「ハノイの塔」を示す数式が描かれていました。
▼ 包み込まれるような坐り心地の新作チェア「A-8」。
AREA Tokyoいっぱいに集まった来客を前に、代表の野田 豪さんが13周年の抱負を語りました。デザインコンセプトを18世紀半ばに欧州を席巻したネオクラシシズム(新古典主義)へ向けると共に、外部デザイナーとの協働を広げていきたいそうです。
▼慈眼山萬福寺は、鎌倉時代の初期の建久年間(1190年頃)に梶原景時により創建された曹洞宗の古刹です。
昭和 7年、33歳のとき、室生犀星は馬込台地の上にある萬福寺近くに新居を建て、馬込谷中から移り住みます。小川に面した谷中の借家は湿気が多く、風邪を引きやすい 2人の子の健康を気にした犀星は、故郷金沢の天徳院で育んできた庭の植木や庭石を売り、加えて蔵書、骨董品なども処分して、全財産をかけて150坪の土地をえて自宅を建てました。室生一家が軽井沢へ避暑に出掛けた際は、建築家・立原道造が友人たちと留守番役をつとめていたそうです。
詩人・萩原朔太郎は大正 15年、40歳のときから馬込で暮らし始め、犀星と家族ぐるみの付き合いをしていました。朔太郎が詩人・竹村俊郎に送った書簡からは朔太郎と犀星の関係が伺えます。
先日はたいへんご馳走になりました。折角御
心づくしの饗應を受けながら、結婚問題で室
生君と少し烈しい議論になり、兄に対して誠
に御気の毒のことを致しました。室生君は赤
心を以って小生の為を思ひ、真に稀れなる友
情をつくしてくれるのですが、あの男の気質と
して、昔から自分の意思を他人の上に強制し、
主観のみで客観なく、結婚の如きデリケート
な問題に対しても、小生の側の真理を少しも
了解してくれない上に、我流の意志で人を押
へつけようとするので、こつちも自然と反発的
となり、いつもああいふ工合になつて喧嘩をし
てしまふ。(後略)
萩原朔太郎が竹村俊郎に送った書簡萩原夫妻の不和を解消されず、昭和 4年に朔太郎は単身帰郷して離婚を決意します。留守宅で朔太郎の荷物を整理したのは犀星でした。
室生犀星の家のそばには日本画家・小林古径の画室と自邸があり、今は大田区立古径公園となっています。古径たちが結成した「大森丘の会」で異彩を放ったのが、実業家夫人でありながら歌人・翻訳家として知られ「くちなし夫人」と呼ばれた片山広子です。外交官の家に生まれ西洋的な気品と品格を持ち合わせた広子は、処女歌集『翡翠(かわせみ)』の出版後、松村みね子の名でアイルランド文学の翻訳に打ち込みます。広子は原稿料を一度も受け取ったことがないといわれ、その広い邸宅には村岡花子(赤毛のアンを翻訳)や、彼女の上品な美しさと才能にひかれた芥川龍之介、室生犀星、堀辰雄もやってきました。その関係は広子が別荘をかまえた軽井沢へと伝搬し、娘の総子とともに文士たちを翻弄していきます。
内田 和子
つれづれなるままに
第 回
りんごの樹の下で・・・・
東京 9時 分発なすの 255号。久しぶりの東北新幹線である。震災後は、仙台、盛岡、青森と一人飛び
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乗ることも多かったが、今回は、友人たちと修学旅行以来 数年振りの 1泊旅行である。乗るとすぐに向か
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い合わせの席を作り「静かに静かに」を合言葉に電車は動き出した。誰かが、車内販売が来たらビールを買おうというが、「残念ながらこの電車は車内販売はあり
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ません」「早く言ってよ ……」と、気がつけば「静かに静かに」は棚の上である。こうして中高年修学旅行が始まった。一人勇気のあるご主人が同行し、黙ってカメラマンのごとくビデオを回している。 1泊旅行に多少興奮気味だったかつての乙女もカメラの前ではおとなしくしている。が、 分もしないうちに戻っている。幹事役に全てを委ね、乗り換えの駅も気にせずおしゃべりは続く。
刈り取られた稲穂や柿の実がいっぱいの秋の景色
を眺めながら、友人の待つ須賀川駅へ到着。華奢な彼女の運転するのは大きなバンである。ここで生活するには必須と言うものの、あの大人しかった彼女が観光バス運転手のように、右に左にと街を案内しながらの運転さばきにまずは驚いた。ここ須賀川は、円谷プロダクションの円谷英二監督の出身地とあって、街のあちこちにウルトラヒーローや怪獣がたくさん並んでいる。子供が見たらすごく嬉しいだろうなぁと思いながら、次に案内するのは、「はたけんぼ」という。はたけんぼ ??漢字を見て合点がいった。「畑んぼ」とある。まさしく目の前は、朝摘みの野菜がいっぱいに広がる市場である。厚い葉が青々のほうれん草、みずみずしいカブや大根、みたことのない珍しいお芋もある。洋梨は大きくずっしりと重い。みな買って帰りたいものばかりである。今回の旅行は当初車での計画だったが、長時間の車移動に自信がない私は現地合流としたが、結局全員電車となった。このはたけんぼを知っていた
つれづれなるままにりんごの樹の下で・・・・
友人は、地元産漬物を大量に買い占めレジに並んでいた。車で来たかった理由がここにあったと分かり、申し訳ない気がした。次回は車で来て野菜や果物を買い込みたいと、よせばいいのに口から思わず出る。車中はしばし、運転免許の話である。皆一応は持っているが、堂々のペーパードライバーで満足しているとのこと。何を今更と、運転を再チャレンジしている私に一斉砲弾が飛んできた。学生時代の友人は遠慮がない。みな口々に車不要論と私の運転には乗らないという ……え〜 !!!、そんなに信用ないの ???しばし砲弾を浴びていた私に、運転席にいる彼女は、ここに来てしばらく練習すれば乗れるようになる。と助け船を出してくれた。自宅前の空き地で少し乗ってみてはと勧めてくれた。が、この大きなバンを運転する勇気はない。そう返事をすると、みなホッとしたのか厳しく暖かい戒めはこれにて終了となる。
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ここから今日の宿、母畑温泉へと向かうが、その前にどうしても行きたいお店があるという友人のリクエストに応じ、道を探しながら一本手前の農道に入ってしまった。段々と道幅も狭くなり引き返すことができない。焦っている運転手をよそに、私たちは、両サイドにびっしりと成る真っ赤なりんごに歓声をあげ、「採れないかしら」と、みな同じことを考えている。ようやくりんごを収穫している方が遠くに見え、車を止めて声をかける。
少し擦れてはいるが黄色い声を弾ませながらの女性一軍であ
る。旦那さんも出てきて「どこから来たのさ」と、もいだばかり
のりんごを切ってくれた。蜜が入った美味しいりんごである。今
日の夜食分とそれぞれ持ち帰れる分をわけてもらった。りんごの
樹の下では、みんな童女のような笑顔だった。寄り道リクエスト
をした彼女のおかげで、素敵な笑顔いっぱいの写真が真っ赤なり
んごと一緒に納まった。
ようやく着いた母畑温泉、大きな露天風呂が つもあり、岩盤浴、畳サウナありの福島の名旅館である。修学旅行では味わうことはなかった一風呂浴びたあとのビールが格別だったのは言うまでもない。宴会の後は、友人の提案で裁縫をするということになったが、糸通しの小道具まで用意してあったので誰も文句を言わずに従った。糸さえ通せば、手も口も動くのである。なんだかんだと言いながら、できあがったのは可愛いクリスマス用の小物だった。粋な計らいに感謝した。気の置けない仲間たちとの楽しいひと時は、持ち帰ったりんごのように蜜たっぷりに甘かった。
古径は大正 8年、この地に馬込に画室を建て自宅から通っていましたが、昭和 9年には吉田五十八の設計、宮大工・岡村仁三の施工により新居を建てました。その邸宅はいま、古径の出身地である新潟県上越市の小林古径記念美術館に移築・公開されています。古径の弟子だった頃の奥村土牛は画室に留守番役として住み込み、古径の指導をうけていたそうです。
幼年の日をおくるまなびや馬込第三、幼年の日よ しづまれみどり野に永くとどまれ
そのかみの貝塚そのかみはわだつみいにしへは魚あつまり魚もうたひけむ。
われら何を記すべきわれた何をまなぶべきわれらの行くべきところ師よみちびきをあたへてよ。
室生犀星作詞 馬込第三小学校校歌室生家の離れが、校歌を作詞した馬込第三小学校に移築されています。
▲ 世界中から注文が絶えない根岸産業の銅製ジョウロ。 純国産絹を使用する龍工房による染織組紐の実演。
江戸切子、七宝細工、木版、組紐、銀細工、染め物、人形、すだれ、ブラシ、銅製ジョウロ、ラタンなど、意外と知られていない東京に根付いた手仕事を世界へ発信する試み「東京手仕事」。龍工房による組紐の実演も行われ注目されました。
▲ 3Dプリンターを利用したリン ツォンランさんの作品。
▼オーストラリアから上海へ渡った NAOKOYEHENARA博士の作品。上海の大学でデザインを教えているそうです。
デザイン都市上海をアピールするため出展した「ON DESIGN shanghai」のブース。主に上海で活躍するデザイナーやアーティスト、建築家が来日しました。上海ではいま、欧米や日本への留学経験をもつデザイナーが活躍中で、上海のデザイン学校で学ぶ若者も増えているそうです。工業からアートまで、次世代の中国製品を感じさせる作品が並びました。▼トローフィーを受け取る MUTEのふたり。
来年2月にドイツ・フランクフルトで開催される国際消費財見本市アンビエンテ(2016年2月12日.16日)の記者会見後、「YOUNG DESIGNER AWARD」の発表が行われ、MUTE(イトウケンジ氏、ウミノタカヒロ氏)が賞を獲得しました。MUTEの作品はシャッター式の扉が横方向に動くユニークなキャビネットで、アンビエンテ 2016に出展招待されます。
山形のオリエンタルカーペットは、花々を立体的に表現した新作「石楠花」、「牡丹」を発表。隈研吾さんの作品には「MORI」が加わりました。
▲ひらがなをモチーフにした書家・國廣沙織さんのアクセサリー「Hiragana」。國廣さん自ら名前を書いてくれるサービスが好評でした。会話のきっかけとなるアイテムとして日常で楽しんで欲しいそうです。
日本家具産業振興会他が主催した「日本の木・ニッポンの家具」。シラカンバなど国産材家具の展示や、国産材利用の現状を報告したセミナーが開かれました。
今年は国産家具メーカーの飛躍を感じさせる出展が目立ち、旭川や飛騨のほか 5年ぶりに九州・大川家具もパビリオン展示を行いました。その一画で見つけたのは、大川リペア家具推進協議会と九州大学総合研究博物館が協働する九州大学の家具再生プロジェクトでした。九州大学では校舎の移転などに伴い、明治後期からの歴史的家具が廃棄されていました。それを後世に伝え、貴重な木材を守りたいという願いから計画はスタートし、既に100点以上の家具をリペアしたそうです。
工具不要でキャビネットを組み立てられるスウェーデン v.llinge社のメカニカルロック。分解も容易です。
欧州やアジアなど海外からも多くのプレスが訪れ、初日の夜には「赤坂うまや」にてプレスディナーが開催されました。乾杯の音頭をとるのは、メッセフランクフルトGmbHの PRマーケティングコミュニケーションズ ディレクター エルドマン・キリアンさん。