コラージは下記オフィシャルサポーターの提供でお送りいたします
|
Colla:J について
|
定期配信のお申込み(無料)
|
オフィシャルサポーター
|
プライバシーポリシー
時空にえがく美意識
3月号 桃 月 2016
http://collaj.jp/
Copyright . 2016 Shiong All rights reserved
阪神淡路大震災(1995年)で壊滅的な被害を受けた芦屋市。震度 7の激震に襲われ商店やビル、木造家屋が倒壊した JR芦屋駅周辺にも、震災の面影は見られません。芦屋駅から阪急夙川行のバスに乗り10分ほどの日出橋バス停で降りました。
芦屋百年の屋敷町「六麓荘」
芦屋市は大阪と神戸の中間にあり、東は西宮市 , 西は神戸市に接しています。大阪湾の臨海部から六甲山麓にかけて南北に細長いのが特徴で、南北には六甲山中を水源とする芦屋川が流れています。夙川行の路線バスは JR芦屋駅から坂を上り、山手地域に向かいます。日出橋バス停は全国有数の高級住宅街として知られる「六麓荘(ろくろくそう)町」の真中で、近くには芦屋学園のキャンパスもあります。バス停近くの「六麓荘町町内会員案内図」には、高級住宅街としては珍しく、各邸宅の個人名が掲載されていました。
六角形の屋根を乗せた建物は、町内会館「六麓荘倶楽部」です。町内会が運営する六麓荘土地有限会社の所有で、他に町内の私道も管理されています。左は初期の分譲案内図で「東洋一の健康地」「風光絶佳・交通至便」と宣伝しています。六麓荘町を象徴する石垣は、宅地開発時に掘り起こされた良質の花崗岩を利用しています。周辺の花崗岩は大阪城にも使われたといわれ、江戸時代の石切り場遺構も発見されました。六麓荘町が他の高級住宅街と大きく異なるのは、町独自の「建築協定」をもち、土地の細分化やマンション建設などを制限してきた点です。昭和初期からの敷地面積(一区画 300〜 350坪)が守られ、緑の豊かな余裕ある街並みを保ってきました。しかし建築協定に従わない開発も目立ってきたため、町会は協定の条例化を目指し地区計画案を芦屋市に提出。建築審査会の審議をへて市議会で可決され2007年から「六麓荘町地区地区計画」が施行されました。住民による建築協定の条例化は全国で話題となり、街のあちこちに解説看板が立てられています。
第 23 回 内田 和子
つれづれなるままにひな飾り
数年振りにおひな様を飾った。昔、我が家にあったおひな様は、大叔母がお嫁にいったときに持っていったものだそうだが、女の子がいなかったので、私たち三姉妹にと譲ってくれたものだった。大叔母は母の
一番上の姉で、 歳以上も年が離れていたそうだから、今からすれば 130年前くらいのおひな様だったのかもしれない。小学校に入るか入らないかの頃、節句の時には押し入れから行李に入ったおひな様を出して、
10
20
母や妹と飾ったことを覚えている。
あまり大きいものではなかったが、お道具がたくさんでそのひとつひとつを並べるのはとても楽しく、時間のたつのも忘れた。父がひなあられや菱餅、砂糖でできたきれいなひな菓子を買ってきてくれた。おひな
様を飾ると家の中が明るく
なって、学校から帰るとよ
く眺めた。
そのおひな様も何回かの
引っ越しでなくなってしま
ったのか、こちらがそれを
楽しまなくなったのか、い
つのまにか飾ることはなか
った。
兄弟姉妹がそれぞれに結婚し、女の子が生まれた年に、父が新しいおひな様を贈った。みな、女の子が生まれたので、どの家にも父が選んだおひな様がある。小さなアパートに五段飾りの大きなおひな様を飾ると、布団も敷けなくなるが、節句のときはそれぞれに両親をよんで孫と一緒に写真におさまっている。私も時々両親の付き添いで出掛けたが、ちらし寿司を食べるのを付き合う程度だった。ひなまつりは、おじいちゃん、おばあちゃんが孫と一緒に過ごす楽しい時間ということになっていたようだ。気がついたら、我が家にはおひな様を飾る風習がいつのまにかなくなっていた。時間的な余裕もなくなっていたのかもしれないが、ホテルのロビーに飾られた段飾りをみて、「ああ、桃の節句か」と、小さい頃のことを思い出すこともなかった。
つれづれなるままにひな飾り
それから随分と時が過ぎ、 年前に父が亡くなり、父におひな様を買ってもらう機会がなかったことを少しだけ悔やんだ。二月のはじめ、三十五日の法事を済ませたその足で、浅草橋の人形店をまわった。五段飾りで従者や牛車のついた立派なおひな様に並んで、住宅事情にあわせたコンパクトなガラスケースに納まったものもある。お顔もそれぞれである。いくつか見て迷っていたが、ふと父が一緒にいてくれているような気がして、お内裏様だけの小さなおひな様を選んだ。そして、その年の三月には我が家でも雛飾りができた。忙しい最中で飾り方もいい加減で、ゆっくり見ることもできなかったが、母はその年の夏に亡くなり、おひな様は 1回しか楽しめな
15
かったが、ひなあられや桜餅を供えて、大層喜んでいたと、後になって妹に聞いた。翌年、両親のためにと飾ったが、片付けることを考えると面倒になって、以来飾ることはなかった。
今年、心(臓)友達から、季節の節目を大事にするゆとりを教わった。妹からも「お母さんが喜ぶわよ。」と言われ、おひな様を飾った。ぼんぼりを灯し、ひな菓子を供えた。家の中が、ぱあぁと明るくなり、心も楽しげになってくる。小さい頃の節句の思い出が、両親の思い出とともに蘇ってくる。雛飾りはやっぱりいいものだ。ひなまつりは女の子の健やかな成長を祈ってのことだが、代々、子に伝えたい親の想いが込められていると、あらためて思う。
お嫁にいけなくなるので、三月三日が過ぎたら早くに
かたづけなさい。と小さい頃言われていたので、 1週間
ほど飾っただけでかたずけたが、妹のところは嫁入り前
の娘がいるにもかかわらず、まだ飾ってあるとのこと。
おひなさまの顔も今風のつけまつげや金髪まであるとい
うが、女の子の成長を祈っての桃の節句であることはか
わりない。
By myselfでもいい。元気で過ごせることに感謝して、来年はもう少し早くに飾って、ちらし寿司でもつくってみようかと思う。
街を流れる小川は邸宅内の池や庭園にも利用され、道路と交差する所には花崗岩製の橋が掛けられています。
橋は10個所あり、それぞれ雲渓、 紅葉、 落合、 劔谷、 日の出など風雅な名が付けられています。昭和初期のデザインからはセセッションの雰囲気も感じられます。
六麓荘は自前の浄水場も開発し、ユルギ谷で取水した六甲の清水を提供していました。ここは今も水道局の配水池として活用され水道水を供給しています。広い道路を照らすオリジナルの街灯は当初はガス灯で、100基ほど設置されていました。
六麓荘町の「建築協定」は、町内会のホームページでも公開されています。主な決まりは「1区画400㎡以上の一戸建て個人住宅に限定」、「2階建以下で高さ10m以下」、「敷地面積に対する建築面積は10分の3または10分の 4以下、敷地面積に対する延べ面積の割合は10分の 8以下」、「屋根や壁面の色彩はけばけばしくない配色とする(明度・彩度も定められている)」、「道路に面する囲障は生垣または見通しの妨げとならないフェンス等とする」。「地盤は大幅に変更しない。擁壁を設ける場合は原則として石積みとする」、「敷地内の緑化につとめ、既存樹木の伐採は極力さける」。「工事時間は日曜、休祭日を除く午前8時より午後5時迄」などで、基本計画の段階で説明会を開き、設計図やパース、模型を提出し町内会と建築協定を結ぶことが求められています。六麓荘町の街並みが守られたのは、相続などによる土地の分割を防いだことや、道路を私道として保有していたことなどが挙げられますが、町内会が最も大切にしているのは「六甲山麓の自然に馴染んだ静かな生活環境を近隣の住民と一緒に育んでいくこと」です。独自の建築協定が条例として認められたのも、自然環境の保全を住民一体となって行ってきたことが評価されたと言われています。この試みは全国に伝わり、街並み景観保全の手本として活用されています。
今にして思えば、日々何気なく地下解体の様子を眺め、
気付いた時は散水の仕方を注意したり、現場状況と騒音計の数値を照らし合わせてみたり、溜まった水はちゃんと処理し管理されているか等々、そんな煩わしい面倒もいつしかケン太とカスミの生活の一部となったろう。お隣の時から数えてみれば五年に及ぶ相手方とのやり取り、管理組合の内情、役所の動き方、三者三様の立場を鑑み、畳の目を数えるように過ごしてきた。そんな行きつ戻りつを繰り返し、お経を唱えるがごとく
12要望し続けたことのひとつが防音シートの件であった。東
注建設を含む事業主サイドが頑なに拒んでいた部分なのだ
21
が、解体工事から建築工事へと進む毎、その裏付けとなりうる問題点が向こう側の都合によって続々噴出してしまった。赤坂支所の協働推進課・港区環境課からの行政指導にも後押しされ、昨年 月中旬やっとのこと採光型防音シートが区道側へ張られたのです。
目には目をである。やられっぱなしで良しとするか否か
はこちらの対応いかんにかかっている。折り合いのつけ方は人それぞれでいいと思うし、人様に対してとやかく言うべきではないだろう。ただ、人との関わりを閉ざさず、自分を守るために起こすアクションこそが周りの人のためとなり、地域へ繋がっていくんじゃないかしら。あの東日本大震災から丸 5年、神戸の
震災からは 年の月日が過ぎたけれど、
ニュースや報道番組を観るにつけ、救い
を求めるリアルな声や苦悩といったもの
は届いてない気がする。このような声な
き声はどこにいようとすぐそばにある。
昔はうるさがられ、恐がられた口うるさ
いオヤジさんが隣近所に必ず何人か居たものだ。あの頃のオヤジさん的存在はどこへ行ってしまったんだろう。何だかいまや自分が恋しいあの存在に変容しつつあるようで、それがコワイかも …(笑)。
「老人にとっては」
大学教授の
O
工房楽記
50
ふじの工房の寒さは、こたえる。
マキストーブと温泉が命だ。温泉仲間の常連さんと、毎日顔を合わせるのが楽しみだ。
さんも、その一人。
「バイクとオーディオのオタク変人」と呼んでいる。
「オタク変人」の指導で、スピーカーづくりをやり始めた。この夏に向けてのデザインは、
「平面バッフルスピーカー」
一枚の大きな無垢板を使ったものだ。音楽とは、まさに音を感じ、音を楽しむことだと思うようになった。1960年代のマイルスの LP盤を聴いていると、学生時代の
JAZZ
喫茶を想い出す。
年かかって、やっと
JAZZ
を感じられ
るようになった。うれしいかぎりだ。そして、今、もうひとつのチャレンジ。
「ふじのリビングアートギャラリー」
の鉄屋根を、草屋根へ。
秋桜屋根
鈴木 惠三(BC工房 主人)
スタッフ
10
雑草たちの繁る草屋根づくりだ。昨年の夏はクーラーがきかない暑さで、皆さんに迷惑をかけた。まさに鉄板焼屋根。今年こそ、快適なギャラリーにしたい。コーヒー豆の入った麻袋に、工房の木の粉と軽い土と種をまぜて、屋根に敷きつめている。が …… ?約 400㎡の屋根はデカイ !袋が 500枚でも足りないのだ。
人で 2日やって、約 25%。
まだまだ粘り強くやらないとダメダメ。
「雑草とコスモスとマーガレット」の屋根が夢だ。この夏は、雑草屋根になってほしい。この秋は、秋桜屋根になってほしい。オイラは雑な人間だから、雑草屋根はぴったりだ。これから「ふじの」に作っていこうと考えている、週末小屋「緑のアトリエ」の屋根も、この草屋根にしたい。
「ふじの」の街づくり運動だ。
アートの街に、いっぱいの「緑のアトリエ」は、草屋根なのだ。3月。実は、今、ジャワの工房に逃げ出している。
ちょうど雨期の終わり。
℃&
%の湿度だが、花粉がない。
目と鼻が元気に蘇る。スギ花粉は、人間への逆襲、公害じゃないのかな。
30
90
芦屋川を見下ろす高台に、阪神間モダニズム建築を代表する旧山邑家住宅(ヨドコウ迎賓館)が一般公開されています。
旧山邑家住宅は、灘の酒造家(櫻正宗)8
代目・山邑太左衛門氏の別邸として、1924
年 (大正 13年 )に竣工しました。基本設計
は帝国ホテルの仕事で来日した F・L・ライト。
ライトの帰国後は愛弟子の遠藤新氏や南真(みなみ まこと)氏によって実施設計と現場
管理が行われました。
旧山邑家住宅は傾斜地を活かした RC造 4階建で、外壁や内装に帝国ホテルと同じく大谷石を多用しています。エントランスは天井がフラットで、梁を逆梁としているのが特徴です。
立面図を見ると、斜面に寝そべったように建物であると分かります。エントランスは立面図の左端にあたり、そこから斜面を登るようにして上階に移動します。玄関は大谷石製の水盤に隠れるようにあり、大邸宅としてはとても狭いスペースです。隠れたような玄関ドア。その横の大谷石の柱は、石材を型枠としてコンクリートを流しこんだ「組積造」になっています。天然石とコンクリートを融合するため様々な試みをしています。1924年に竣工した山邑邸は1947年に淀川製鋼所の所有となり、社長邸や独身寮として使用されていました。1974年には RC造の建物として初めて国の重要文化財の指定を受け、1985年〜 1988年に保存修理され翌年からヨドコウ迎賓館として一般公開されます。そして1995年の阪神・淡路大震災により一部破損し、1998年まで 2度目の調査・修理工事が行われました。2003年には DOCOMOMO100選にも選ばれています。
ドラゴンシリーズ
ドラゴンへの道編
人と木について思う
11
2011年3月 日から 5年の歳月が流れた。
日本人の生き方を変えたその日から私達はどんな思いで、今日まで生きてきただろうか。生きているとはどう言うことなのか、『生きる』それが問われてきた 5年間だったのではないか。如何に生きるか、私達がその意味を考えるに、 5年は充分な時間だったろう。
私達の生き方の意識は変わったのか。政治は、社会は、日本は変わったのか。私自身は変わったのか。胸に手を当てて、自分の心でしっかりと考えたい。生きていること、生かされていること、とは何だろうか。
津波に、無念の思いで生きてゆくことができなくなった人々の声を、私達は心で受け止められるだろうか。 5年の時間と共に多くのことが前に進み、また、同じように多くの問題がそのまま残されている。10
私達がやるべきことに対し、私達の行える時間は限られている。
日本では『国産材の活用』という言葉が飛び交うようになって久しい。
僕の親しい友人であるワイスワイスの岳さんこと、佐藤社長などはもう
年以上も前から国産材とフェアトレード、サスティナビリティについて地
道な普及活動を行い、山々を有する地域の問題に取り組んできた。
今では、国産材の活用問題についての第一人者として、木材や森林の活用に問題を抱える各方面、地方自治体での活動や講演に積極的に取り組んでいる。個人の生き方を考え方として具体的にまとめ、それを具現化するため企業体の事業へと活動域を広げ、その事業活動や考え方がこれからの日本社会を正しい方向へと導くこととなる。佐藤社長のように個人の考え方を事業活動の理念とし、そこから個人と社会を同次元で一つのこととし
て考えることができる。それが正しい事業の在り方だ。
個人と企業活動が一つとなって社会と繋がってゆく生き方はとても素晴らしい。企業の正しい在り方を実践する友人として、岳さんのことをとても誇りに感じている。そのような地道で独自性のある活
22
吉田龍太郎( TIME & STYLE )
50動の積み重ねの上にしか本物の文化は育たないと切に感じる。時間も労力も掛かる作業だし、時には誰も手を貸してくれない、誰も理解してくれない時もある。しかし、そんな時にも何かを信じ、自分を信じて歩いてゆくことが出来る者が、自分の道を築くことができる。社会は常に動き、人々の心や価値観も時代と共に動いて行く。しかし、そんな世の中の動きの中にあっても動かない信念がある。それは、個人としての信念、企業としての信念、社会に関わる人間としての信念であり、社会に対しての愛情である。その根本はどんな時代になっても、世の中の価値観やプレイヤーが変わってゆく刹那的な世の中にあっても変わらない、輝ける人間としての価値だと言える。
年前、 100年前に書かれた本を読んでみると良い。今と 100年前の人々の状況の捉え方が全く変わらないことや、人間社会の仕組みも少しも違わないことを知る。
国土の 7割を森林が占める日本の生活文化は木と自然の文化であった。しかし近代化と共に、製造やコストの効率化のもとで日本の木の文化は非効率となり、樹脂や鉄骨、コンクリートなどの素材へと転換が図られ、同時に日本の木の文化も次第に忘れ去られてきた。時代の流れにしたがい忘却されることは、古いものの運命であろう。だが木は、素材としての可能性だけをとっても最も素晴らしいものだと思う。木の存在によって人間の生活、日本人の営みが成り立ってきた。木は私達の生命を育みながら、私達の日常の生活の中に溶け込んで、安らぎや優しさを与えてくれている。
私が関わっている家具の世界も様々であり、木の家具と言っても多種多
様、拝金主義から社会活動まで関わる人間もそれを使う人間も様々、まさに
どの分野の活動とも共通する人間模様の縮図がそこにある。日本の木をどの
ように考えて、どのように使用してゆくか。日本の森林をどのように考えて、
どのように生かしてゆくのか。世界の木をどのように考えて、使用してゆく
か。世界の森林をどのように考えて、どのように生かしてゆくのか。
ものとしての木や材料としての森林を考える前に、『木』そのものに対して、自然や森林に対してどのように考えるか。森林が国土の 7割を占める日本のこれからの生き方を決めることと、日本人が如何に木と付き合ってゆくかが問われている。これからの日本にとって、それくらい木の存在は重要になってくるだろう。
ヨドコウ迎賓館
2階に上がると応接室の入り口が見えます。
玄関から中に入り、階段を上がります。踏み段には大谷石が使われ、壁面はざらっとした左官壁の上から油性塗料を塗った仕様です(場所により異なる)。壁や天井に装飾されたモールディングが動線を示し、迷うことなく移動できます。
2階の応接室はエントランスの上にあたり、床面を強化するため一部は「吊り床構造」になっています。飾り棚と窓の組み合わせや大谷石の暖炉、上部の小窓などデザインの見どころも豊富です。保存修理工事の際、船底天井となる計画があったことが確認されています。応接室のソファは、エントランスの逆梁を活かしたものです。上部に連続する小窓は、高温多湿な気候に配慮した工夫と考えられ、外部は大谷石で縁取られています。3階には縦長窓の連続した廊下があり、窓には植物をモチーフにした銅版が嵌めこまれています。廊下に面した 3室続きの和室はライトの計画には無く、建主の希望で追加されたものといわれます。スキップフロア的に階段や廊下が続いていくので、いま何階にいるのか意識することなく楽に移動できます。
実施設計を行った遠藤新氏はライトの一番弟子として知られ、自由学園明日館や甲子園ホテル(現・武庫川女子大学甲子園会館)などライト式と呼ばれた建物を設計しています。一方、遠藤氏と協働した南真(みなみまこと)氏は遠藤氏と同じ仙台第二高校の出身で、東京帝国大学建築学科の後輩でもありました。就職先の日本トラスコン鋼材から帝国ホテルへ派遣され遠藤氏と共にライトのもとで働いた後、遠藤南建築創作所を設立。大正 12年には旧山邑家住宅の実施設計、現場管理のため東京から芦屋に移り住み、ライトのスケッチを元に細部を設計しました。その後、南氏は大阪に設計事務所をかまえ、ライトの意匠をとりいれた和モダンな個人邸を芦屋に数軒設計しています。3階寝室から一段上がった婦人室。和室の壁面には油性ペイント壁と土壁が混在しています。
4階の食堂。1階から視線を導いてきたモールディングが唐傘天井で頂点を結びます。三角形の小窓は風や光をとり込むと共に、照明器具の取り付け部も兼ねています。右奥は厨房への出入り口です。4階の食堂からはバルコニー(3階と 2階の屋上)に出られます。
食堂に隣接する広い厨房は、ここが迎賓施設であったことをうかがわせます。大正時代としては珍しい電気式の冷蔵庫やオーブン、炊飯器などが使われ、芦屋に開通した鉄道会社から直接電線を引いたと記録されているそうです。バルコニー側から見た 4階部分は、マヤ文明の遺跡を思わせます。高く突きでているのは、暖炉の煙突です。エントランスへのアプローチ途中には、3階勝手口に続く階段と通路があります。裏口にも手を抜かない、細部にまで気を配った設計思想を伺えます。
日本でライトの手がけた住宅が完全に残っているのはここだけで、震災を乗り越え70年近くにわたり修復・保存活動を続け、一般に公開してきた「ヨドコウ」に感謝したいと思います。
僕らのリズム
もうすぐ春。季節のせいか、ものすごく荒唐無稽の痛快歴史浪漫を書き
!!
たくなり、こんなものを書いています。時は室町初期、豊臣秀吉の遠いご先祖さまが、お宝「皇帝の椅子」を巡って大活躍するお話です。さわりだけですが、ご一読ください。あ、そうだ。言い忘れないうちに言っときます。がんばれ弥次郎 ……そんなリズム。
序
「お味方から地の農民まで精を出しておりますな」眼下には土嚢が累々と積み上げられ、遥か遠くへ至る巨大な堤が今まさに築かれようとしていた。
「これには御敵方(毛利)も手上げにございましょう。この長雨 ……天もお味方しておりますれば」問いかけられた畜生顏の主は雨粒まじりの風の中、ぼうっと何処ともない遥を見つめている。「兄者 ?」秀長は微かに眉根を寄せた。「秀長よ」ようやくの返答に秀長がホッと息をつく。「どうなされた、兄者。最近どことのう心ここにあらずと見えるが ……」「考えておったのじゃ」常日頃よりの陽気に甲高い声が今は重く沈んでいる「何をお考えで ?」「我らがご先祖様のことをじゃ」「ご先祖様 ……はて」「ぬしゃ知らん。儂も知らなんだ。儂は自分が木の股から生まれてきた
くらいにしか思っておらんかった。しかしの、儂らも知らん儂らのご先祖様を、信長様だけが知っておったのじゃ」
「我らのご先祖様を ……上様が ……でございますか」「針売りの儂に御声をおかけいただいたのもその理由からよ」遠くの山の端に遠雷がぱらりとまたたいた。か細い糸のような、音のないひらめきが ……またもう一つ。「上様は中国四国九州を平定後唐
Vol.5
歴史浪漫
野田 豪 (AREA )
(明)にわたるそうな」秀長はあわてて周囲に目を配った。「兄者、誰が聞いておるともわからぬ」「よい。誰もおらぬ」雨はいよいよ激しくなっていく。たしかに隣に立つ秀長さえ聞き取れないほどの雨音である。「なぜ唐にゆくかわかるか秀長よ」「武の収め場所と聞いております」「そうよの。日の本平定後武士から武を奪わねばまた国は乱れよう、さりとて奪えば大きな抑圧が新たな蜂起を生もう。その鞘となるのが唐であると」「そう聞いておりまする」「違うのじゃ」「違うと。では何ゆえ」「上様と光秀めは別々の立ち処を背負い、ある探し物をしておるのよ。この藤吉郎を外してのう」「上様と日向様(明智光秀)が ? ……はて何をお探しになられているのです」「儂らのご先祖の弥次郎も同じものを探しておったそうな」「わしらのご先祖 ?弥次郎 ……どの ?」ふいに羽柴秀吉が左手を天にかざした。六本指を大きく広げた。「皇帝の椅子よ」
壱[弥次郎と甚五郎]
浅黒い痩身の男が美濃の野道を走る。大柄ではない。むしろ小男の分類であろう。裾から出た足の筋がウネる荒縄のごとく伸縮している。その男を追う 2.3人の男たち。手に手に刀を振り回している。「女房泥棒め」
「まて穴切りめが」「まていまてーい」しかし、みるみる離されていく様子を見ると、逃げる男がよっぽどの脚力を持っているのだろう。少し左に傾いた独特の走りをする。やがて男は野より山に入り浅からぬ沢を越えまた次の山に入る。そして長良(川)のほとりでようやく足を止めた。ほぼ息がきれていない。超人的な体力の持ち主だ。
男は着流しの左右を開き胸をあらわにすると腰に撒いた手ぬぐいを水に浸して体を拭い始めた。胸に大きくサラシを巻いて居る。痩身と思いきや見事な筋が全身を被っている。「美濃の猿めらが」うすら笑いを浮かべた。
「この風の弥次郎がおまんらごときの手にかかるものか」長い総髪をザブリと川の水につけて頭を洗うと上半身からその頭を一気に跳ね上げた。しずくが奇麗に弧を描く。春霞みの空の中、草の綿毛が舞っている。「さて飛騨までもう一足とまいろうか」独り言をぐちると、髪をくるくると高い位置で慈姑に縛った。草鞋の鼻緒を縛り直し、いざ、という時。「や ?」ふと遠くの川縁に人が倒れているのを見つけた。近寄って抱き起こす。外傷はない。ただ空腹に気を失っているようだ。年端の行かない童(わらべ)だった。ぱんぱんと頬を叩く。「おいわらべ、おきよ、おきよ朝じゃぞ」
童がうーんと声を漏らした。目を開く「兄たま ……」「兄たまじゃねえやい、弥次郎だい」ハッと童が飛び退る「でーじょーぶだい、なんも取って食ったりせんからよう」童が目をぱちぱちさせている。初めて弥次郎を見る者は誰しもそうなる。常人より肌が黒いからだ。「あの、おとたまでなければ天狗様で …… ?24」「天狗の鼻がこんなに低いもんか」ケッと言って
「おいらは弥次郎、風の弥次郎様だ」と天真爛漫の笑顔で名乗った。「弥次郎様 ……ですか ……」「童、おめはどうしたい、こんな山奥に寝そべってよう」わらべわらべというが弥次郎自身充分大人になりきっていないように見える。せいぜい ・5歳を越えたくらいであろうか。「私は ……」童は口を開いてはっと噤んだ。「なんでえ、わけありかい。ならまあ聞かねえ。こんなご時世だ、誰しも一つや二つの向こうずねがあらーな」ほれっと言って干し柿を童に手渡した。童はそれを奪うようにしてガツガツ口に入れた。「カラッ腹にいきなりモノ入れるとおっ死ぬぜ」弥次郎がそう言った途端、四つん這いになってゲホゲホと噎せる童。弥次郎は背中を乱暴にたたいてやる。「おめー名ぁあんのかい」童が涙目で答えた。「甚五郎と申します」「へえ立派な名をもってるじゃねーか」手を差し伸べて立たせてやった。
時は 1338年。室町初期。これが風の弥次郎と左の甚五郎(初代)の出会いである。この後 2人はある一脚の椅子を追って南北朝という時代の奔流に巻き込まれて行くことになる。
「弥次どん。お礼もあります。里までご一緒いただいてよろしいですか ?わ(私)の里はもうすぐ目と鼻の先なのです」甚五郎の目がクリクリと輝いた。「お礼 ?そ、そんなに言うならもらってやってもいいけど
な」甚五郎の目も輝いた。「ぼうず、ぬしの里
には女はいるかい ?」「へえ。当然おりまする」
「あー違う違うおれが言うのは若くてきれいな
……」「さあ ……お早く参りましょう。この
森は大蛇が出ますよ」「大蛇ぁ ?脅かすない
……」山が 2人を飲み込んで行く。遥か高見
の太枝に立ってそれを見つめる一対の目。杉の
古木の梢を揺らしその男もまた山に飲まれて行
った。
と、こんな感じ。続きはいずれどこかで ……。
芦屋川歩きヨドコウ迎賓館をでて坂道を下り、南北方向の背骨ともいえる芦屋川を海に向かって歩きました。両岸には御影石の堤防や遊歩道が築かれ、大きな空のみえる市民の散歩道となっています。芦屋を通る電車は3本(阪急、JR、阪神)ありますが、全て東西方向に走るため、南北は路線バスが結んでいます。
芦屋川を下り一つ目の駅が「阪急芦屋川駅」(大正 9年開業)です。川沿いは桜の名所でもあります。
芦屋市民センター(ルナ・ホール)は、坂倉建築研究所大阪事務所 (西澤文隆氏・山崎泰孝氏)の設計で、竣工は1964年ですが大規模改修により新築のように見えます。西澤文隆氏はコートハウスの名作「正面のない家」シリーズや伝統建築と庭の実測図を残したことで知られています。ちなみにJR東海道本線は市民センターの前で芦屋川の下をくぐります。
ひときわ高い尖塔は、カトリック芦屋教会(1953年)です。設計は日建設計の創立者のひとりで、住友銀行本店(大阪市淀屋橋)で知られる長谷部鋭吉氏。長谷部氏は晩年近くに夫人とともに洗礼をうけ、宝塚のアトリエに祭壇をもうけ祈りの場として提供しました。長谷部氏の近所に暮らしていた村野藤吾氏は信者たちの願いを受け、白鯨をモチーフとした「宝塚カトリック教会」をデザインしています。芦屋警察署の一部に残された旧玄関。阪神淡路大震災後に建替えられましたが、昭和 2年竣工の旧庁舎玄関部分だけが保存されました。設計は兵庫県営繕課時代の置塩章(おしおあきら)氏。ネオゴシック様式を得意として兵庫県内の公共施設を多く手がけ、独立後も宮崎県庁舎や鳥取県立図書館などを設計しています。阪神芦屋駅(明治 38年)の踏切を過ぎて阪神高速神戸線の歩道橋を渡ると、高級住宅街として発展した芦屋市西町に入ります。1995年1月17日、早朝の午前5時 46分起きた阪神淡路大震災では、JR芦屋駅から阪神芦屋駅にかけての一体が震度 7以上の激震となり、8〜 9割の家が全半壊した町もありました。また高速道路が 500mに渡り横倒しになった光景も衝撃を与えました。それを教訓に首都圏でも高速道路の補強が行われたことは記憶に新しい所です。
沿岸部に広がる「芦屋浜シーサイドタウン」(1979年)は、画期的なプレファブ式集合住宅郡で、地域暖房給湯システムや真空ごみ収集システム、電線の地中化など。その先進性は今も異彩を放っています。阪神淡路大震災の際は埋立地の液状化により道路や配管に大きな損害をうけ、高層棟では主柱断裂の事故も起きましたが、それらを見事に克服し住み継がれています。震災当時は沿岸部に残っていた空き地が、仮設住宅に利用されていました。
1880年からの 年間にイタリアから海外に出た移民は総数約九百万人。その %がシチリアを含むナポリ以南の南部出身者で、その大半は食うや食わずの小作農とそこで働く日雇い労働者たちだった。移民全体のほぼ半数近い約四百万人がアメリカに渡っている。彼らがアメリカを目指した最大の理由は、なんといっても食べ物。「アメリカでは、小麦の白いパンが当たり前! そ
10
れどころか貧乏人でも毎日のように肉が食べられる!」米国からの一時帰国者が目を輝かせて語る、夢の国アメリカ。タイタニッ
84
ク号に象徴されるように、欧州と米国の間を結ぶ旅客船が大型化
40
し、三等船客の運賃が低廉化したことも、移民の増加に拍車をかけた。この時期アメリカめがけて押し寄せた欧州移民は、なにも、イタリア移民だけじゃない。ポテト飢饉で壊滅的な打撃を受けたアイルランドをはじめ、広く欧州全域から貧しい農民たちが続々と大西洋を横断していった。米国で移民受け入れの玄関口となったのが、ニューヨークのエリス島だ。9・11で崩壊する前年、私は高さ四百メートルという世界貿易センタービルの展望台に立って、エリス島と自由の女神像を遠望していた。視線のはるか下を虫のようにヘリコプターが横切って行く。そのとき 歳位の男の子を連れた若い母親が隣にやってきて、子供に向かって語り始めた。「あの小さな島をよく見て。お爺ちゃんはその昔、苦労の末に、ヨーロッパの故郷から大きな船で大西洋を渡ってきて、あの小さなエリス島に上陸したの。それがすべての始まりよ。このこと絶対に忘れちゃだめよ。」まるで映画の一場面を見るようだった。
1910年頃スウェーデンからの移民は、そのエリス島で出されたコーヒーとドーナッツを食べて「こんなにおいしいものを食べたのは生まれて初めて」と感激している。役所で出された番茶と饅頭のおいしさに感動したわけだ。西欧諸国の小作農たちの食の水準は、それくらい貧しかった。第二次世界大戦以前、欧州の人口の大半は、ヴェジタリアンと呼んでもいいほど、圧倒的に野菜と穀物中心の食事が日常だった。米国はともかく、西欧諸国で肉食が広く普及するようになるのは、1950年代半ば以降のことだ。我が国では「伝統的にヨーロッパの食文化は肉食中心」と思い込んでいる人が少なくない。だが、これは大変な誤解だ。欧州において肉食は、長らく貴族と上層市民階級の特権。人口の大半を占める農民は、年に数回、特別な祝祭日に、肉の切れ端を口にできればラッキー、という状況だった。
ではなぜ、多くの日本人が誤解するに至ったのか。それは、明治以来 1980年代中頃まで、日本から欧州に行った限られた人々が、旅先・留学先で知ったホテルやレストランの料理を「欧州料理」として、メディアを通じて紹介し続けてきたからだ。これが誤解の最大の原因だ。なぜなら、フランスを筆頭にレストランの料理は、家庭料理とはかけ離れた別世界。和食屋で出される懐石料理が、日本の大多数の家庭にとっては無縁のものであることと同じだ。ではプロの料理と家庭料理、両者の本質的な違いは何か。「料理を作る目的」これが決定的に異なっている。プロの料理は、料理を作って出すことで、料理人と下働きの給与を支払い、店の家賃と光熱費を支払い、その上で多少の余剰利益が出ない限り、経営は成り立たない。これを成り立たせるために、料理技術の高さと素材選択力さらにはサービス力を磨いて勝負している。一方、家庭料理には「作り手の家族への思い」が秘められている。この最も重要な点において、プロは、勝負できない。
話をエリス島に戻すと、移民の入国前に、ここで簡単な身上調査・身体検査・所持品と所持金検査が行われている。驚いたことに、上陸したイタリア移民の約半数が、母国語であるイタリア語での読み書きができなかったという。小さい頃から農作業を手伝いながら若者から大人になっていくのが当然で、読み書きができなくても困ることはなかったのだ。ニューヨーク上陸後まずは、親戚・友人・同郷人・教会などのつてを頼って寝場所を確保。事前に職が決まっていなければ、その後すぐに職探し。英語ができず、文字も読めない彼らが働く場は、労働条件の厳しい手作業を要する工場もしくは肉体労働の現場に集中した。その斡旋を稼ぎの場としていたのが、ナポリやシチリアの差配たちと関係が深いマフィアの手配師たちだった。事情の分からない新来の移民と、斡旋先の雇い主双方から「分厚い手数料」を徴収し、ボロで狭苦しいテネメント(アパート)も紹介する。こうして同胞が集まって住んだ場所が、ロワ・マンハッタンのリトル・イタリーへと発展していく。
どれほど搾取されようと、どれほど狭く劣悪な住環境であろうとも、アメリカでの毎日の食事は、母国イタリアで食うや食わずであった彼らにとっては、夢のような贅沢の連続だった。こうして米国のイタリア移民たちは、母国では食べたこともない肉と白いパンを日常的に食べ、まっとうなオリーブ油を使い、好きなだけマカロニを使った料理を楽しむことが可能だった。驚かれるかもしれないが、当時イタリア南部の農村では、マカロニを食べることは、ただそれだけで、貧乏じゃない立派な稼ぎがある家の人、というイメージだった。これ、ホントの話です。内部が空洞になった麺作りは、家庭では難しい。専門店から購入したマカロニを日常的に食べることすなわち「贅沢」だったのだ。この話、さらに続けます。
▲公園のモニュメントには、高浜虚子の孫で「ホトトギス社」名誉主宰・稲畑汀子さんの句「震災に 耐へし芦屋の 松涼し」が刻まれています。
芦屋川下流の芦屋公園には、黒松林がひろがります。1955年、ここで吉原治良氏ひきいる「具体美術協会」の「真夏の太陽に挑むモダンアート野外実験展」が開催されました。吉原製油の社長もつとめた吉原治良氏は、芦屋の自邸に若きアーティストを集め「具体」を結成。野外実験展では元永定正氏が、着色した水を入れたビニールを松の枝に吊るすなど、吉原氏の指導した「人の真似をするな、 今までにないものをつくれ」を実践する試みが行われました。芦屋川の河口から大阪湾が見えます。明治 38年阪神電車の開通にあわせ芦屋海水浴場がオープンし、多くの海水浴客で賑わっていた場所です。やがてシーサイドタウンなどの埋め立てによって浜辺は失われました。
高級住宅地「芦屋」のルーツは、旧精道村(昭和 15年に芦屋市)によって行われた村おこしといわれます。精道村は大正時代の初め頃から芦屋川に御影石の護岸を築き、河原の土を利用して平田町の宅地開発を行います。これは大阪船場の豊かな商家を見込んだものでした。工業化によって空気や水質の悪化した大阪市街から自然豊かで海水浴も楽しめ、阪神電車により利便性もいい平田町に実業家が移り住み、精道村は日本一の金持ち村と呼ばれました。平田町の洋館は阪神淡路大震災で大きな被害をうけ、シンボル的な存在だった旧田中岩吉邸をはじめ低層マンションへと建て替えが進んでいました。▼ 虚子記念文学館。
今も残る貴重な洋館のひとつ稲畑家邸(昭和 11年)。スペイン瓦葺きのモダンなスタイルで「ホトトギス社」名誉主宰・稲畑 汀子さんが暮らしています。邸宅の裏手には、稲畑さんの祖父にあたる高浜虚子の文学館があります。
サロン文化の残影
芦屋市立美術博物館は、芦屋で誕生した具体美術協会
の作品を多く収蔵し、2016年4月16日 〜6月19日
まで「具体美術協会/1950年代」展が開催されます。
敷地の一画には大正から昭和初期に関西で活躍し「東の
劉生、西の楢重」とも称され、47歳で夭逝した洋画家・
小出楢重のアトリエが復元されています。
▲ 小出楢重の出世作「Nの家族」
晩年に描かれた裸婦像のひとつ
「裸女結髪」。笹川慎一氏設計の小倉捨次郎邸。昭和初期の芦屋では、実業家や芸術家、建築家、作家などがひんぱんに交流し、一種のサロン文化を育んでいたことが伝わってきます。
小出楢重のアトリエは建坪約11.5と小規模ながら、北側にはアトリエ特有の高窓を設け、南側に 8畳程のロフトを備えたつくりです。設計者は友人の笹川慎一氏で、早稲田大学で佐藤功一に学び長谷部鋭吉氏の元で住友銀行本店の室内装飾を手がけています。他に小倉捨次郎邸や石丸一邸などの洋館を設計し、そこには小出楢重の絵が飾られていました。
▲京都で谷崎が愛でた八重紅梅が移植されています。
芦屋市立美術博物館の隣に、生誕 130周年を迎えた谷崎潤一郎の記念館「芦屋市谷崎潤一郎記念館」があります。関東大震災(大正 12年)により横浜の家を焼失した谷崎は一家で関西へ移住し、風習の違いに戸惑いつつも神戸や芦屋で 21年間に13回もの引っ越しを繰り返しながら『痴人の愛』や『卍』、『文章読本』、『細雪』などの代表作を執筆しました。
大正 13年に転居した神戸市東灘区の洋館では『痴人の愛』を執筆。ヒロインにちなみ「ナオミの家」と名付けられ和歌山県有田川町に移築・公開されています。昭和3年には自ら設計した豪邸「鎖瀾閣(さらんかく)」を建て
『蓼食う虫』を執筆。新聞連載の挿絵は小出楢重が担当しました。鎖瀾閣は阪神淡路大震災で全壊し復元運動が続けられています。昭和 9年から約 2年半暮らした「富田砕花旧居」は芦屋市宮川町で公開されています(耐震補強工事中で 2016年 5月再開予定)。昭和11年から7年間も過ごし『細雪』の舞台ともなった神戸市東灘区の「倚松庵」(いしょうあん)も一般公開されています(2017年2月頃まで改修のため休館)。
谷崎の作風は関西に移ったことで大きく変容します。伝統文化に傾倒する一方、芦屋のモダンなサロン文化の影響も明らかでしょう。1995年の阪神淡路大震災では、芦屋市は死者 444人(死者率約
0.5%)をかぞえ、市内の全建築物15,421棟のうち、全・半壊棟は 8,784棟で 57.0%に達しました。これは震度 7の激震地が市の中央部を横断したためと推測され、被害者の多くは倒壊した建物に押しつぶされたり柱や家具などで窒息した方々で、それは今も続く耐震補強工事のきっかけとなりました。震災後の一時期は10%ほどの人口減少が見られましたが、区画整理事業や集合住宅の建設も進み、現在の芦屋市の人口は、震災前よりも増加しています。