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5月号 帰燕 2016
http://collaj.jp/
時空を超える美意識
前号「コラージ 5月号臨時増刊」につづき熊本のレポート特集です。4月14日21時26分、震源深さ11km、マグニチュード6.5の前震に続き、28時間後の 4月16日1時 25分に発生した震源深さ12km、マグニチュード 7.3の本震により震度 7の地震に 2度も襲われた熊本県・益城町。
震災から 2週間がたち、現地では温かい食べ物が求められていました。全国の自治体や民間団体により無料の食事場所が提供されています。
今回の取材は TIME & STYLEの吉田龍太郎さんと金子義文さんにご同行頂きました。
前号でレポートした益城町惣領地区と同様、甚大な被害を受けた益城町役場周辺。町役場は16日の地震の影響で使用できず、役場機能は約 1.5km離れた益城町保健福祉センターに移され一部の手続きが再開されました。
町役場向かいの共同墓地。RC造の納骨堂は柱が折れて倒壊し、
お墓は墓石だけでなく、納骨棺の部分まで破壊されていました。
地元の方の話では、14日の地震でブロック塀が倒れ壁にヒビが入ったものの大半は建っていた。15日は片付け作業を初め家に戻った人もいて、日付の変わった16日深夜の本震で家々が倒壊したそうです。
「応急危険度判定」は外観のみの調査で、躯体の被害がなくても周囲の状況(隣家が倒れそうなど)で危険と判定されることもあります。
比較的新しい住宅やアパートにも、構造に被害を生じたケースが多く見られ、外観は無傷に見えても「応急危険
度判定」で危険(赤ラベル)と判定された住宅もありました。日本建築学会の速報会によると益城町役場周辺
に 2000年以降の木造家屋が 400. 500棟程あり、そのうち倒壊(全体がつぶれたもの)は最大 9棟。全
壊(居住できないほど傾いたもの)は最大 8棟を確認したそうです。耐震等級 2の住宅が全壊したケースもあり、「建築基準法の耐震基準はぎりぎりのレベルで、一般の期待とは隔たりがある」という意見も述べられました。
鉄骨造の倉庫と思われる建物も、1階部分が潰れています。土壁が剥落し、小舞を露出した住宅もあちこちで見られました。
第 25 回 内田 和子
つれづれなるままに
惜別
この 日あまりの間に、同年代の友を 3人見送った。 代半ばの「若すぎる」別れである。
15
6010
長い闘病生活を送りながら、自分の思いを短歌で綴りつづけた彼は、 年来の友人である。小学校 3年の息子を頭に 3人の子供を抱える中で会社が倒産し、会社に行くと言って毎日図書館通をしていたが、
40
食らいついて身につけたコンピュターの知識を生かし、念願の教職に就いた。多くの女子学生たちに囲まれた笑顔一杯の写真をたくさん残していたと聞く。トライアスロンで元気にゴールした写真が遺影にな
40
っていた。息子さんは、遠目にもすぐに彼の息子とわかるほどよく似ている。壮絶な病との戦いだったが、家族は彼の思いを全て受け入れ、墓標には、息子さんが書いた「哥」(うた)が刻まれていた。
子供達と大勢の孫たちに囲まれ、自宅での最後を
心置きなく過ごして旅たった彼は、幼友達のご主人
である。家族ぐるみの付き合いで 年以上になる。
いつも穏やかに人の話に耳を傾けていた。職場でス
ポイルされた時には、早くに出社して事務所の清掃
をし、みんなの鉛筆削をしながら耐えたという。時
が解決してくれる場合もあると話してくれた。もう
年以上会っていなかっが、生まれた時から知って
いる 4人の子供たちは立派に成長し、長男家族と念
願の二世帯住宅で賑やかな日々を過ごしていたと聞
く。ジィジが大好きだったという 6人の孫たちはま
だ幼子で、悲しみは知らないが、父親を守るように
柩の枕元に立つ両親のそばでじっとしていた。
中学 3年の時に同じクラスになった彼は、家柄よく、勉強ができ、スポーツ万能と文字どおり 3拍子揃ったクラスの中心的存在だった。中学時代に話した記憶はないが、何十年ぶりかのクラス会では、みな気さくに声をかけた。もう頭のいい悪い、勉強が
つれづれなるままに惜 別
出来たの出来なかったなどは、問題ではない。みな一生懸命社会人として頑張っていた。彼も会社の代表という重責を負いながら、クラス会でも中心的存在となって集まりやすい雰囲気を
758090
作ってくれた。 4年に 1度が 2年に 1度になったクラス会を、
70
「1年ごとにしよう」と提案したのは彼だった。まだ現役で勤
90
めていた人も多く「え〜 !」という声もあったが、これからはだんだんと欠けていくかもしれないから ……と、そう言った彼が、一番早く逝ってしまった。毎年クラス会に出席してくださる 歳の恩師を囲みながら、白髪まじりのクラスメイトが大勢参列した。片腕に顎を乗せて微笑む彼の写真は、クラス会でいつも見せるポーズだった。60
寿命とはいえ、同年代の仲間を見送るのはとても辛い。いつ
6070
も一緒にいたわけではないが、飾られた遺影にありし日の思い出がよみがえり、みんなで途切れた記憶をつないでいく。悔や
70
んだり悲しんだりを繰り返し、少しづつ悲しみを納めていくしかない。順番はどうあれ、残された者として、出会いに感謝し、謹んでご冥福を祈りたい。
歳、 歳も珍しくないこの時代に、 歳半ばの友を 3人も
亡くして、思うことがある。 歳の還暦は、とうとう来たかと
自分でもかなり意識した。お祝いもたくさん頂いた。元に戻っ
て元気で頑張りなさい。ということだが、還暦を過ぎてから 1
年1年をどれだけ大事にしてきただろか。 歳までには少し間
がある。まだまだ若いはずと思っているが、「古希」は、杜甫
の詩にある「人生七十、古来稀(まれ)なり」に由来する。と
ある。 歳が「まれ」なことであること、よくよく心得なけれ
ばならない。
歳を後期高齢者と呼び、 2025年には、高齢者の 5人
に1人が認知症がとなるという。歳を重ねていくことを負のよ
うに言われている感じもしなくはないが、まずは 歳、元気で
古希を迎えたら「稀なり」と自分を褒めよう。そして、長寿を
祝う節目を元気でかつ自立して迎えることができたら、その度
に感謝しよう。物忘れが多くなっても、今まで出来たことがで
きなくなっても、歳を重ねることで感じることも増えてくる。
できることも新たにある。無念の思いで逝った友の顔を浮かべながら、生きていること、人との関わりを大事にしよう。と改めて思う。
町役場から県道 28号線を渡った木山交差点近くでは、大半の住宅や店舗が大きな被害を受けていました。益城町全体では住宅約1万1000戸のうち、約半数の 5400戸余りが全半壊しました(うち約 1100戸が全壊)。
「益城町」では 5000人近くが苦しい避難生活をおくっています。自宅前のビニルハウスや納屋、運動場や駐車場のテントや車中、避難所の体育館の生活は想像を絶するもので、職員の手も足りず支援も遅れ、猛暑のなか体力も精神も限界を迎えています。益城町では 2000年 6月8日にマグニチュード4.8、最大震度 5弱の地震を記録しています。その際は屋根瓦が多数落下しました。春先の震災は、高齢化のすすむ農家の方々にとって大きな打撃となりました。トラクターやコンバインを置いた納屋がつぶれ春野菜やスイカ、春小麦などの収穫が出来ず、田んぼは亀裂によって水をはれなくなり、避難所生活を続けるなか田植えを諦めた方も多いようです。それでも地元を離れたくないというのが、農家の方の願いです。余震が続き、片付けても片付けても倒れてくる家具や生活用品。不安な日々が続くなか、夜は車で寝ているという家族も多くいます。安全が確保されるまでボランティアも片付けには参加できません。
「いったいどこで暮らせばいいのか」家を失った方の率直な思いです。益城町総合体育館などで続く避難生活は猛暑にさらされ、梅雨がせまるにつれ衛生状況も悪化しています。益城町役場の業務は逼迫し「罹災証明書」の発行も出来ず(5月末頃から発行予定)、県民住宅や借り上げ住宅などの申し込み手続きも遅れています。住民の不満がつのる一方、町の職員も不休が続き限界です。仮設住宅の建設は益城町の 3カ所で約 160戸分が進んでいますが、1000戸以上が全壊した現状をふまえ、500戸規模のプレハブ仮設団地を建設する計画がようやく進みはじめました。
「地味のあるデザイン展」へ。
工房楽記
鈴木 惠三(BC工房 主人)
椅子のデザインプロデュースをやみくもにやってきた。100人のデザイナーと仕事をやったのは、おそらく日本一の数だろうか?試作・開発した椅子も、500脚ぐらいだろうか?まあ、それだけ遠回りをしただけで、数の自慢をしても仕方ない。多くのデザイナーとの関わりから感じとったオイラの真理のひとつぐらいは、若いデザイナーのタマゴたちに役立つかもしれない。展覧会の主・小泉誠は多くのデザイナーの中で、
人柄という面でトリプル
A
だ。
オイラの真理は、そこにある。
「人柄は、デザイナーのいちばんの才能だ」デザイナーを目指すからには、誰もが有名スターになりたい、と思っている。認めてもらいたい。褒めてもらいたい。いい仕事をもらいたい。できれば賞をもらいたい。デザイナーの頭の中は、
「もらいたい」妄想でいっぱいだろうか?それは仕方なく正しい。否定できない正しさだ。それを認めた上での、デザイナーの生き方、デザイナーの人柄が問われる。
こいずみ道具店(国立)
▲
小泉 誠 「地味のあるデザイン展」2016年5月20日.7月18日 朝11時頃.夕方6時頃まで 木・金・土・日・祝オープン「ふじのリビングアートギャラリー」 相模原市緑区牧野 4707 TEL.042-689-3755 JR中央本線藤野駅から「やまなみ温泉行き」「奥牧野行き」バス利用賽の神(さいのかみ)バス停下車(バスの本数が少ないので事前にご確認を)
◎ 特別企画 7月 2日(土) 13:00.
「星亀ワークショップ 16年ぶりのデザイン談義」出演 小泉 誠・鈴木惠三・中野照子
『地味のあるデザイン』小泉誠 著 六耀社刊
なぜ? どうして?
デザイナーの仕事は、「つながり」から生まれる。「つながり」とういうコトバはカンタンだが、実践するのは難しい。「つながり」は、その人の総合的なものだ。
生物学的 DNAから、経営学的なデザイン思考まで含まれる。
この考え方が正しいか否かは、
「地味のあるデザイン」と、「デザイン思考の本一冊」を読んでくれたら、きっとハッキリ見えてくると思う。小泉誠のデザインを「ミニマムな、おとなしいデザイン」と思うのは、大いなる誤りだ。小泉誠は、「デザイン思考の実践」をたんたんとやっている。アメリカのデザイン思考の論文は、経営学者が読むよりデザイナーが読むべきだと思っている。この考え方が、今の行き詰ったデザイン状況を打破するだろう。キーワードは、
「人柄」「つながり」「デザイン思考」「デザインベンチャー」オイラは、小泉誠のデザイン実践学を楽しんで見ている。
熊本市内では都市ガスの復旧が遅れた地域が多く、食材の販売が再開されたのちも、火を使う調理が難しい時期が続きました。
益城町から熊本市内へ。車窓から見る限り大きな被害を受けているようには見えませんが、柱が押しつぶされたビルなどが点々とあります。コンビニでは保存性が高く直ぐ食べられるカップ麺などが不足しているようでした。
水前寺公園に近い「市立体育館前」の電停で車を降りました。熊本市電は 4月 20日朝から全面的に運転を再開し、その姿は復興の魁となりました。優渾水前寺公園の脇から住宅街を通り、ジェーンズ邸に向かいました。
ジェーンズ邸 日赤記念館日本赤十字社発祥の場所であり、数々の困難を乗り越え、熊本の歴史の証人ともいえる熊本市最古の洋式建築「ジェーンズ邸」は、震災により倒壊し、亡骸を覆うようにブルーシートが被せられていました。
夏目漱石旧邸(第 3の家)では、 隣接する夏目漱石旧邸(第 3の家)で、ジェーンズ邸の館長さんが片付
漱石の来熊 120年記念イベント けをされていました。ジェーンズ邸は 14日の地震を耐えたものの 16日の
として、 4月 13日から内部の一 本震で倒壊したようです。熊本市は再建を検討中で、ブルーシートをか
般公開がはじまったばかりの事 けて貴重な資料を保護しています。前回の移築から 50年以上経ち、移
だったそうです。 転先を決める計画が進んでいた最中のことでした。
120年前、第五高等学校(現在の熊本大学)に英語教師として赴任した夏目漱石は、6回も転居を繰り返しながら英国留学までの 4年 3カ月を熊本で暮らしました。熊本大学黒髪キャンパスには旧本校舎の五高記念館(煙突が倒れ 5月現在休館中)や工学部研究資料館(旧機械実験工場)など、明治の煉瓦建築が公開されています。街のいたるところに出された家財道具や家具、テレビなど、片付けと共に発生する震災ゴミが課題となっています。
工事現場の朝は早い。 7時をすぎた頃からポツリポツリ下請けメンバーがやってくる。朝礼( 8時) 5分前になるとどこからともなく銀色のヘルメットを被った東注担当者達が姿を現し、まずはミーティング前のラジオ体操からがお決まりのコースだった。ただ一連のポーズを装うことは出来ても、現場は正直なもの。その現場に全てが映し出され
てくる。なぜか所長の N氏はミーティングを終えるとすぐに現場を離れてしまい、後は若い担当者と下請けメンバーにお任せである。 N氏に現場の様子や状況を伝えてもチンプンカンプン、私たちは話が通じないもどかしかに苛立った。騒音、粉塵、水脈問題を抱えた現場所長としての管理能力は見受けられない。ある日突然、私は思い余って現場へ駆けつけた事があり、一度だけだったがその当時の担当者に現場を見せてもらった所、ちょうど区道側、私たちの方向からいえば死角にあたる地下部分があふれんばかりのプール状態と化していた。水が
溜まってまるで水槽ではないか。このままでいいはずはない。地下解体の初期から向かいの地下水問題は我々にとって不安の種だった。日を追うごとに地下水は現場に染み出し、 2年前のゴールデンウィーク時には現場全体がみるみる内に溜池と化した。事業主さん、東注さん、あれから 2年経過しております。水の問題はクリアされたんでしょうねぇー。
水前寺成趣園
細川家代々の大名庭園として熊本城に次ぐ観光スポット「水前寺成趣園」の一部が開放されていました(5月16日から正式開園)。鳥居や灯籠、石垣が崩れるなか、震災後 2. 3日で再開したという土産屋さんも。全国の自治体から駆けつけた職員の方々が食べ物を求めに来たそうです。
「水前寺の水が枯れた」。震災直後から市民の間で話題となったのは「水前寺成趣園」の池の水が減ったことでした。一説には地下水の水脈が変り、湧き水が枯れたためといわれます。今は池の底から湧き水が湧きはじめ、水位も徐々に上がっています。古くから長寿の水と尊ばれた水前寺の湧き水。自宅の水道管が壊れたという男の子が自転車で水汲みに来ていました。夏目漱石も成趣園をよく散策し「しめ縄や春の水湧く水前寺」という句を残しています。
成趣園内の「出水(いずみ)神社」には細川家代々の藩主や細川玉(ガラシャ)が祀られています。西南戦争によって焼け野原となった城下の復興を願い、熊本藩の旧藩士たちにより明治 11年に創建されました。
参道の鳥居が壊れたことも話題となりました(現在は柱も撤去されています)。所々再開した参道の店舗では、埼玉県から派遣された応急危険度判定士の方が判定作業を進めていました。判定により赤(危険)、黄(要注意)、緑(調査済)のラベルを張っていきます。判定は「罹災証明書」発行に不可欠で、早急な対応が求められていました。
トラフがアトリウムをデザイン InteriorLifestyle Tokyo6月1日〜3日
2016年6月1日(水)〜3日(金)10:00〜18:00(最終日は16:30 まで) 東京ビッグサイト西ホール全館+アトリウム
今年も「Interior Lifestyle Tokyo 」が6月1日. 3日まで東京ビッグサイト西ホール全館で開催されます。注目のアトリウム展示は、トラフ建築設計事務所(鈴野浩一さん、禿真哉さん)とのコラボが実現。色分けした各エリアを「GOT IT ! 」「CRAZY!」「WOW!」「FINE!」「KAWAII!」という 5つの感嘆詞により分類した点がユニークで、各エリアの中心には円形のコミュニケーションテーブルを設置し、ワークショップや実演、交流会などを開けるよう工夫されています。6つ目のエリア「BRILLIANT!」にはギャラリードゥポワソン森知彦さんセレクトのジュエリーブランド16組が集合します。
▲ 1866年に設立されたデンマーク生活協同組合(FDB)の家具が復刻され、ボーエ・モーエンセンやポール・M・ヴォルターのベストセラー作品がお目見えします。【グリニッチ】
▲平田暁夫さんに師事した古澤正和さんの帽子ブランドは、形式にとらわれないオートクチュールの要素を織り交ぜた帽子を出展。 【 KAMILAVKA】▲ 鋳心ノ工房・増田尚紀さんは、恩師・芳武茂介さんデザインの鉄花器へのオマージュ作品を発表。 【鋳心ノ工房】
精密な光学ガラスの加工技術を応用し、プリズムの美しさを活かした祈りと瞑想のための道具を発表。【 FROM NOWHERE】
▲
▲ ウォルト・ディズニー・ジャパンは、アリス関連商品を発表予定。そのほかサンリオが初出展するなど、キャラクターグッズをつかったライフスタイル提案が増えています。
毎年好評の「LIFESTYLE SALON 」では、モマニューヨークやウォールペーパーストアのカリスマバイヤーが魅力的な商品を語る「デザインとバイイング-有力バ
など多彩なトークショーを開催。
). 03:31日1月6」(例功成る語がーヤイ
熊本市中央区在住のデザイナー卯野木憲二さんの自宅に立ち寄らせて頂きました。棟瓦を針金で縛るなど耐震対策を行っていたこともあり、屋根や躯体の被害はほとんど見られませんが、周囲にはブルーシートを屋根に張った家もありました。地震の際はジェットコースターに乗ったような状態だったとのこと。16日、2回目の本震後 に近くの高校に避難したものの、最初は指定避難所ではないため配給された食事はおにぎりやバナナ等1個、水1本程度。10分に1回くらいの余震が続き、スマホから一斉に地震速報が鳴り恐ろしい夜を過ごしました。断水後も学校の貯水槽のおかげでトイレを使えたのは幸いだったそうです。
向かいのマンションには応急危険度判定の赤いステッカーが張られ、住民の方は避難しているようでした。熊本市の中心部では、全壊は免れたものの大きな被害をうけた RC造や SRC(鉄骨鉄筋コンクリート)が目立ちました。集合住宅の改修や建て替えには長い時間が掛かることが予想され、都市型地震災害の難しさを感じました。▲ ボランティアの当日受付が行われている花畑公園(辛島電停近く)。
熊本城の脇にたつ「熊本市役所」は、自衛隊の災害派遣や全国の自治体から派遣された職員、DMAT(災害派遣医療チーム)などの拠点となり頻繁に車両が出入りしていました。
「罹災証明書」の窓口で沢山の方が順番を待っていました。罹災証明書は住居の全壊、半壊、一部損壊などに応じて発行され、公営住宅や仮設住宅の優先措置をはじめ応急修理(576,000円まで)の申請、生活再建支援金や義援金の支給、税金、保険料などの減額、猶予などを受けるため不可欠です。熊本市の場合、申請には被害状況を撮影した写真が必要で、申請後に被害認定のための調査が専門家によって行われます(応急危険度判定とはべつ)。ご高齢の方が自分だけで申請するのは難しく、発行に時間が掛ることも問題となっています。
熊本市では 8,000人近くの方々が避難生活を続けています。4月23日から市役所 14階大ホールで始まった市営住宅の入居申し込みには250戸に対し約 4000世帯の申し込みがありました(約 16倍)。中央区は最高の90倍で、最低は北区の 4.4倍。5月 3日に抽選会が行われました。家賃や敷金は最長1年間免除されます。
熊本城
市役所 14階から見た熊本城。
飯田丸五階櫓は平成 17年に復元されました。
飯田丸五階櫓、震災前の様子。
昭和 35年完成の天守閣(RC造)と平成 20年に復元された本丸御殿。
震災前の様子。
震災前の様子。
熊本大神宮は、石垣の崩落とともに倒壊しました。
旧細川刑部邸熊本城の北西に位置する「旧細川刑部(ぎょうぶ)邸」は、細川藩政時代の上級武士の暮らしぶりを
伝える貴重な建物でしたが、大きな被害を受け公開を中止しています(写真は震災以前のものです)。
細川刑部家は細川家 3代・忠利公の弟、刑部少輔興孝が正保 3年(1646)2万 5千石を与えられ興した名家で、旧細川刑部邸は延宝 6年(1678)熊本市子飼に建ち、代々改築を繰り返してきた下屋敷を平成 2年から 4年をかけ移築したものです。
当主の私室「春松閣 銀之間」
高温多湿な気候に対応し、床下が高く風通しのいい作りです。
ではでは ……
僕らのリズム
前々回のコラージで紹介した「風の弥次郎。今回は(全
10
回)の内の 2回目にあたります。羽柴秀吉の先祖の弥次郎が鎌倉末期を舞台に皇帝の椅子を探して冒険する活劇小説です。ちょっと長いですけどお付き合いくださいませ。
弐[隠れ里]
最後の山を越えると、突然ポッカリと視界が開き、小さな里が現れた。
桃や桜が咲き乱れた美しい隠れ村だ。「な、なんでー !!こりゃ桃源郷かい?」弥次郎は嬉しくなって駆け出した。「すごいやい!すごいやい!」小川にざぶんと入り、口に蛙を咥えてニカっと笑った。甚五郎はそれを見てケタケタと笑った。「弥次どん、長老にご紹介します。なんせ弥次どんは、わっしの命の恩人ですから。早う川から上がってくださいな」ほれ早う。童(わらべ)、甚五郎手をおいでおいでしてまた笑った。しかし、遠くからこけつまろびつ近寄ってくる村の一団に気づくとサッと顔を引き締めた。「ボズ(坊主)!若殿!よくもご無事でお戻りなされた」里の民は口々にそう言って甚五郎に抱きついた。が、その 1人がふと弥次郎に気づきハッと体を引き締めた。その手には魔法がごとく小さな暗器が握られている。「なんでぇなんでぇ、穏やかじゃねーやい、此処ぁ乱破の里だったのかい」後の伊賀甲賀に代表される忍びの里は飛騨の山奥に始祖を持つと言われている。弥次郎が案内されたのはその隠れ里だったのだ。甚五郎が慌てて手を振る。不審ものどころか命の恩人だと皆々に説明をした。「なんだそうけぇ」「そんならわ(我ら)が長(おさ)んとこ顔だしてくれぃや」「いや、おれはそういう堅苦しいのは苦手で …それより女 …」弥次郎は村のものに背中を押されて渋々大屋敷に案内された。
弥次郎は独り者だ。「流れ」と呼ばれる浪人、いわばゴロツキの風来坊であった。肌の色は浅黒く、瞳は鳶色。小柄ながら均整の取れた美しい肢体を持っている。周りからは遠く南蛮の血の混じる卑俗の筋とからかわれることもあるが、生来の負けず嫌いの本人も、これはまったく意に介していない。自分の血に
野田 豪 (AREA )
Vol.7「風の弥次郎」その 2
何か誇りを感じているようだった。生業は泥棒。生まれつき天から授かった馬にもまさる足の速さと、梟にもまさる洞察力に大きな自信を持っていた。しかし、殊の外女好きで流れ着く村の女衆に手を出しては追われ手を出しては追われるを繰り返しよい年になっている。父母の記憶はない。どうせ木の股から生まれたのだろうと本人は嘯いている。「所詮この世は泡沫の夢、風のように流れ、風のように消えて行くのみ」それが弥次郎の決め文句であった。
3
座敷奥にちんまり座った一族の長老、飛騨国守護時綱は一通りの礼を述べた後、ジッとそんな弥次郎を見つめた。瞳の奥に激しい動揺が見える。「やい、長老どん、この弥次郎の肌の濃さが気に入らねぃのかい?」その声にハッと我に帰った長老は、さらにしばし時を置いたのちこう聞いた。「ぼうず、生まれの時はいつじゃいの?」それに弥次郎が胸を張って答えようとすると、長老は「まてい」と手で制した。トトッと体が前に泳ぐ弥次郎。手を振って人払いをすると再び弥五郎に向き直った。甚五郎が慌てて「弥次どんは、おっ父おっ母のことを覚えておらぬと先ほど ……」と取りなした。「父母を覚えておらぬが産まれた時は知っておる。そうだな?」今度キョトンとしたのは弥次郎であった。「な、なんでい、知っとるんかい爺様もよう」「神山秘録じゃ」「そんななあ知らん。昔、亀卜 (きぼく )の婆さんに教わったんだい。おいらぁ、お天道様の子なんだってよう。生まれたのは元旦さあ!わしゃお日様の子ぉだってな!」長老はあご髭を撫でながら何食わぬ顔で聞いている。その様子に弥次郎は少し苛立って言った。「いいかい爺さんよう、一度しか言わねいから耳かっぽじいてよう聞けやい。おいらは、この地の大王(オオキミ)になるんだい!」隣に座していた甚五郎が「ひゃあ」と言って後ろざまに魂消(たまげ)て転んだ。長老はジッとそれを見つめ、少し迷う顔色を浮かべたが、やがて何かを決断したように大きく頷いてこう言った。「然(さ)もありなん。しかし ……(よう生き延びたものよ)」「何と言った?」小さい語尾を弥次郎が問いかけた途端、長老がやにわに石火の速さで膝寄りし、弥次郎の胸ぐらを掴んだ。「どう成長したか見せてみい」しかしその瞬間、弥次郎はその手を振り払い、後ろに後方回転飛びで飛びすさった。きれいに 回転。惚れ惚れする速さであった。「弥次どん、その技 ……」甚五郎が口を開けた。「昔、あるお人に教わったんだい」なぜか両手で胸を守る格好で弥次郎が答えた。「赤目の兄貴によ」「何!」初めて長老が動揺に体を震わせた。「な、なんでえ、赤目ん兄貴を知ってるのかい?」横で甚五郎が口をパクパクさせている。
「赤目はそこな甚五郎の兄よ ……」
参[長老時綱]
「甚五郎どんが赤目の兄貴の弟御?そいつぁ奇遇だない」弥次郎は喜色でそう言った。途端、甚五郎が弥次郎の首根っこにしがみついた。「兄たま ……いえ、兄者は今どこに!弥次どん教えとくれ」おっとっと、と弥次郎が仰け反った。長老がそれを制した。「控えよ甚五郎!」下唇を噛んで後方に下がり正座する甚五郎。その童に向き直り、長老は言った。
「よいか、甚五郎。もう一度行くのじゃ」その言葉にポカンと口を開ける甚五郎。そしてみるみるうちに顔が白く染まる。「え?あそこにもう一度?」泣き顔になる。「やだいやだい、ジッちゃん。あそこはもうごめんだ。あの倉には近寄ることもできない。みんな死んだんだ。なんにも出来ずに皆々がばたりばたりと倒れたんだよう」泣き崩れる甚五郎。それを見下ろす長老。崩さぬ相貌に悲哀の影が微かに宿った。ぐすぐす泣きながら中座する甚五郎を見送ると、「甚五郎ほどの才のものが這々の体で戻るのがやっととはの」と小さく呟き、長老は意を決したように弥次郎に膝を揃えて平身低頭した。
「ちと折り入って其処もとにお頼みごとあり申す」
「な、なんでい、急に改まってよう」「あるものを掠め攫って欲しいのだ」弥次郎は大きく被りを振った。「いやだねい、おれは人のための盗みはしねえやい」長老は低頭したまま目だけをギロリと上に向けた。睥睨というやつだ。「なんでい、おっかねえ顔してよい」「受けるも受けないもこの爺いの話を聞いてからにしてもらえるかの」ものすごい迫力だった。胡座の足裏ににじみ出た冷や汗をペロリと撫ぜる弥次郎。「おもしれい話なんだろうねい」鼻の上にシワを寄せてようやくそう言った。
「まず、わしらのことからじゃ ……。わしらはの、もう遠い昔からここに(住んで)おる。この日の本に神子(天皇)様の現れた時分からだからそれはそれは長いわな。厩戸皇子の夢殿も奈良や平安の殿代もわしらの一族の仕事の内じゃ。秘事を明かすとの、わしらの来し方は大陸じゃ。わしらの祖先様は徐福殿の連れたおのこおなごの一対よ。わしら一族は木を削る道具に長けておった。だから朝廷御用達の殿の建て方、つまり番匠役となったのだ。しかしそれは表向きの姿での、わしらの裏番は透波(忍び)じゃ。今では乱破とも言うな。神子様に害を加える者共から神子様を守るために裏の事情を集めるのがわれらの仕事よ。代々の祖先からわれらは足が強く洞察力に優れておった。ふふ。そう、お主の
ようにの。そして一族の中でも稀に能力に秀でた者が現れるとそれに『赤目』と名を付け、われらは100年に 度の祭事の準備をした。祭事の内容か?それは話せん。一族の誰も知らぬのじゃ。当然のことわしも知らん。だから文字通り話せんというわけじゃな。知るのは一族のうち選ばれた一子、伝書伝えでのみ全てを知る赤目のみよ」
「まあ、そんな折、わしらに危機が訪れた。世情に疎いお主も知っておろうが、又太郎(足利尊氏)めが光明様(光明天皇)を奉じ京に朝廷をでっちあげよった。これはいかん。後醍醐様に仕えてきたわしらの正当性が失われる事態じゃ。むろん正しき側は後醍醐様にある。これは誰の
1
目にも明らかなことじゃ。しかし又太郎(足利尊氏)めが!後醍醐様より神器をまんまと奪いおった。この天にも恥じるべき逆臣を許すことなどできぬ。われらは湊川の戦で惜しくも落首した(楠木)正成様を始めとする三木一草(=楠木正成、名和長年、結城親光、千種忠顕。楠木正成と共に後醍醐天皇を助けた武将。鎌倉倒幕の立役者。それぞれの呼び名から三木一草と呼ばれた)の意思を継ぎ、又太郎(足利尊氏)の野望を食い止めねばならん。後醍醐様に朝廷を取り戻すのじゃ」
「なんじゃ ……あくびなどしおってからに。まつりごとはとんと興味
ないと見えるな。それならこれはどうじゃ?宝物神器のくだりじゃ。世
に三種の神器というが実はの、なんじゃしかめた顔して。そうか知って
おるか。赤目に聞いたな。そうじゃ、神器は四つある。いや、そもそも
神器は一つしかないのじゃ。もともと玉、鏡、剣などは添え物に過ぎん。
われら一族がよう知っておるわい。天照様が王たる者にと遺した神器は
たった一つじゃ。それを使う者はこの世の王となる。間違えてはいかん
ぞ。王となるものが使うのではない。使うものが王となるのじゃ。その
範囲はの、この日の本どころか遠く大陸にまで及ぶ。その神器の主は世
界の王になることを許されるのじゃ。そして又太郎(足利尊氏)めはその
ような神器のあるを知らなんだ。
む、どうした ……この話も退屈か ……。まったくあきれた欲の薄い男よ。もう日も暮れるか。長くなったの。これで終いじゃ。主に頼みたいのはその神器を盗む勤めよ。盗んで京は花山院に幽閉された後醍醐様に献上するのじゃ。なに?神器の場所の見当がつくだと?たれも知らぬ話ぞ。 ……感の良い奴め。そうじゃ。それが、奈良は東大寺、正倉(正倉院)に隠される ……皇帝の椅子よ」
熊本市下通り震災から10日がすぎ、繁華街の中心部、通町筋の電停は賑わいを取り戻していました。
5月15日には市民が待ち望んでいた鶴屋百貨店本館の一部が営業再開しました。下通アーケードでは炊き出しをする飲食店もありました。
学校が再開され、制服姿が街に戻ってきました。
ドラゴンシリーズ
ドラゴンへの道編
僕の自慢の鯉のぼり
5月、春風の大地に鯉のぼりがゆらゆらと泳いでいる。黒の鯉の
ぼりはお父さん、赤い鯉のぼりはお母さん。その下に続く青や薄紅色の鯉のぼりは、子供達の中のお兄ちゃん、お姉ちゃん、弟妹を示しているのだろう。鯉のぼりが日本の家族の姿とすれば、いちばん大きくて古い黒い鯉のぼりと赤い鯉のぼりはおじいさん、おばあさんの姿かもしれない。鯉のぼりは男の子のための習慣と思っていたが、よく見つめてみると家族みんなの幸せを願う春のお祝いだろうと感じている。鯉のぼりが空をゆらいでいる、その下には幸せを想う家族の姿とその願いを見てとることができる。不思議にとても嬉しくて元気な気持ちになってくるのだ。
両親や祖父母が小さな子供達のことを想う家族の気持ちに、自分が年を重ねる度に深まる家族への想いを重ね、父のこと、母のことを想いかえし、両親の子供への愛情に感慨を覚える。
僕の小さな頃、宮崎の実家の父は公務員で、母は小さなぶどう園を父と 2人で耕していた。当時はまだぶどうを南国の宮崎で作る農家は無かったと思う。ぶどうの小さな苗木を支える柱を立てるため、父と母が型枠にコンクリートを流し込んでいた姿を想い出す。鉄筋を入れた型枠を作り、近所の川からとってきた小砂利と浜砂、コンクリート粉をベニヤ板の上で水と混ぜながら大きなスコップで何度も何度も上下に混ぜていた。南国宮崎でのゼロからのぶどう作りは相当無茶な挑戦だったのだろうと思う。
それから数年後にキャンベルと巨峰を収穫し、半透明に透ける薄
紙の袋に貴重品のようにぶどうを綺麗に包み、「吉田のぶどう」と印刷した巨峰の房が一つだけ入る小さな箱と 6房くらい入るような薄めで大きめの箱に箱詰して、夜中まで電気をつけて出荷準備をしていた両親の姿が目に焼き付いている。 年以上前
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吉田龍太郎( TIME & STYLE )
に止めてしまったぶどう園のコンクリートの柱が実家の庭に数本だけ残っている。その柱はでこぼこだらけで、決して上手に作られたものではないけれど良い味を出しているのだ。僕にとっては、この柱こそが父の墓標だと思っている。
僕が小さい頃、父は
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代前半の町役場の職員だったので、
給料も安かったことだろう。そんな父は、 5月になると平屋の実家の 2倍くらいの高さがある太くて長い青竹を近所の山からとって来て、枝払いをして天辺に滑車を取り付け太い綿の紐を通し、海に向かう道路面のいちばん目立つ場所にそのポールを立てて、大きな手塗りの鯉のぼりを黒い一番大きなサイズから紐に結びつけて少し引き上げ、次の赤いお母さんの鯉のぼりを付け、また少し引き上げ、今度は兄弟の鯉のぼりを一つ一つ取り付けながら引き上げて行った。僕は、小さい頃、 5月の時期になると小さな実家に不釣合いな大きくて高くそびえるポールにたなびく鯉のぼりが悠々と大空を泳ぐ姿に正直、とっても恥ずかしかった。しかし今になって大空に泳ぐ鯉のぼりを見る度に、父の僕への大きな大きな愛情を感じられずにはいられない。父は多分一番大きく元気のある鯉のぼりを選んで、なけなしのお金をはたいてくれて、僕の未来を願って何処よりも大きくて高く泳ぐ鯉のぼりを一番目立つ道路面に立ててくれたのだろう。
僕は、自分の息子との小さな時を一緒に過ごすことができなかったけれど、父が自分に注いでくれた深くて大きな愛情だけは、自分の息子に抱くことができる。それが父から受け継いだ一番の財産なのだと思っている。鯉のぼりが泳ぐこの季節になると、父の深い愛情と息子への愛情が胸を締め付ける。両親への感謝の気持ちで一杯になる。
唐人町通りコラージ4月号で紹介した唐人町の古い町家も大き
な被害をうけ、大半の店舗が休止されていました。
唐人町通りでは、比較的新しいマンションやビルも大きな被害を受けました。
器季家(キキヤ)カフェのあった邸宅も甚大な被害を受けていました。多くの歴史的建築が解体か再生かの間でゆれています。
日本イコモスが 5月初めに行った調査では、熊本市新町・古町を中心に西南戦争後の古い町屋が「応急危険度判定」で危険とされ、所有者が解体を検討していました。それをうけ日本イコモスは、熊本城などの指定文化財だけでなく、城下町を形成する指定外の古い町家などに対しても官民一体となった早急な支援を行うよう働きかけていくという声明を発表しました。
明治期に建てられた清水本店。
明治 8年に橋本勘五郎によってつくられた石橋「明八橋」は欄干の一部を破損しただけで、問題なく使用されていました。
明八橋を渡り、新町の木村屋酒店へ。棚にずらりと並んだ酒瓶数百本を 2度の地震で失いながらも、奇跡的に無事だった商品の販売を続けていました。DIYで店舗を少しずつ直しながら、商品の陳列も徐々に始まっています。
地場の工務店が提供する「巣箱」
設計:小泉 誠 +Koizumi Studio
地域の交流ハブ「つむじ」
東村山市(東京都)の工務店「相羽建設」が、地域コミュニティの交流拠点「つむじ」をオープンしました。
設計:小泉 誠 +Koizumi Studio
「舎庫」
小泉誠さんデザインの「舎庫」は面積 3坪(10㎡)以下の小さな居場所。ガレージに置いた車に代わり、書斎、ミニオフィス、工作室、趣味の店舗・教室、書庫、防災小屋など、ライフスタイルを拡張するスペースとして提案されました。箱の構造は杉三層パネル工法で頑丈に出来ています。外装は断熱材の上に杉板を張ったシンプルなつくり。上の白い箱は展望スペースで、FRP防水仕上げになっています。床・壁・天井を杉パネルで包まれた内装は素肌に触れても気持ちよく、幅木や柱・梁もないため、3坪という狭さを感じさせません。ミニマムな面積の中に、ミニキッチンや本棚、収納、大テーブル、書斎机、畳スペースなどを心地よく、無駄なくプランしています。用途に合わせたプラン変更も可能で、冷暖房はエアコンを利用した床下冷暖房システムを採用しています。
展覧会やワークショップ、料理教室を開催する「つむじ」の中心施設「3階建ドミノ」は日本初の 3階建木造ドミノ住宅です。ドミノ構造はスケルトン(建物本体)とインフィル(内装)を分離した工法で、内壁の無い大空間に自由に内装をプラン出来ます。インフィルのデザインは小泉誠さんが手がけ、大工によって手作りされた木の家具「大工の手」がふんだんに使われています。1階は大空間に暖炉を設けたイベントスペース。2階はリビング・ダイニング・キッチンで料理教室を開けます。
「i-works 2015」
設計:伊礼智設計室
Ua値 0.44という高気密・高断熱性能を備えながら、内外の繋がりや暮らしを大切にした「i-works 2015」。造園デザインは小林賢二さんが手がけました。
「i-works 2015」は、3.5間角のユニットを組み合わせた標準型住宅で「プレタポルテのような上質な家」をテーマに開発されました。標準型でありながら質の高いディテールや質感、住み心地を大切にした住宅となっています。
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ワンズワース地区の「区会議員的な役職」に就任し、以後 年間に渡って研鑽を重ねた。これが氏の政治活動の原点だ。
2005年、大きく飛躍する転機が訪れる。労働党内の熾烈な予備選を経て、見事ワンズワース地区選出の国会議員として初当選、活躍の場が国政へと高まった。同じ年、保守派の政治文化週刊誌「スペクテーター」誌上で最優秀新人国会議員に選出される。保守派が称えるほど左派の中でも抜きん出た存在だったのだ。その政治信条は、本人が 2008年に書いた論文に見事に集約されている。英国社会主義者の政治団体ファビアン・ソサエティに提出された論文のタイトルは『支援ではなく公平な処遇を! 英国人イスラーム教徒との再連帯を求めて』。米国で起きた 9.11テロ以降、英国社会のイスラーム教徒が置かれた窮状を打開するための、新たな社会思想的な枠組みを提示した政治論文だ。そこには冒頭から筆者の熱い思いがほとばしり出ていて、読み進むうちにぐいぐいとその主張
「パキスタン系移民労働者の子でイスラーム教徒」そんな人がロンドン市長に選ばれちゃったものだから、世界はびっくり仰天。褐色の肌と時にジョージ・クルーニーを思わせる風貌が魅力的なサディク・カーン氏 歳。7男1女という兄弟姉妹の3男だ。氏の誕生直前、父親がパキスタンから労働移民として家族で英国に渡り、バスの運転手を務めながらひたすら子作りに励んだ結果、 7男1女の大家族に。家はロンドンのテムズ川南岸ワンズワースの低所得者層向け公
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共住宅アパート。母親は子育てとお針子の内職で働き詰め。夫婦は苦労しながら大家族を維持する一方で、母国パキスタンの親や親戚に家族送金を続けていた。そのためサディク氏自身も子供の頃から週末は新聞配達、長じてからは建築現場のアルバイトで家計を助けるという、見上げた青少年時代を送っている。学業優秀で、当初は、ある程度高収入の見込める歯医者を目指して勉強していた。ところが、闘争心が強く口も作文も達者な彼の個性を見込んだ学校の先生から「君は法学部が向いている」と勧められて進路変更。それに従った結果が大正解。英国で2種ある弁護士資格の内、より実社会に近いソリシターの資格を得て、水を得た魚の如き活躍が始まる。専門は社会の少数者への差別問題、人種差別に基づく警察の権力乱用、労働問題などが中心の、
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純社会派弁護士だ。その立場から発するごく自然の流れで、 歳で
に引きこまれる。「平易な言葉で難しい主張を熱く語る」お手本としたい出来栄えで、政治家の文章としては第一級の水準。 2008年サディク氏は国会議員初当選わずか3年目にして、労働党政権ゴードン・ブラウン首相により、地域社会担当大臣に任命される。パキスタン系英国人の閣僚就任は史上二人目という快挙だ。この大臣経験も
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含めて国会議員として 10年のキャリアを経た後、ついにロンドン市長という要職に選
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出されるに至っている。
今回新市長のことを書こうと思ったのは、氏の地元がテムズ川南岸のワンズワース地区だったからだ。 世紀初頭この一角に、フランスでの宗教弾圧を逃れて英国に逃れてきた5万人を超えるユグノー教徒(プロテスタント)の一部が集まって住んだ地区がある。ユグノー難民には銀職人がかなりの数含まれていて、彼らの活動が、英国銀器の歴史の中で重要な足跡を残している。その足跡を追ってロンドンのあちこちを訪ね歩く過程で、ワンズワース地区でユグノーが眠る教会の墓地を訪れたのが、初めての出会いだった。また、知人の骨董銀器商の自宅がこの地区にあり、一帯を何度か訪れるようになり、徐々に「この地区の面白さ」を知るに至る。何が面白いかというと、現代ロンドンの移民社会の縮図を楽しむことができるからだ。例えば一帯を走るバスに乗ってみる。乗客が話す言語が多種多様で、しかし、誰一人英語で話している人がいない、ということがあったりするのだ。同じテムズ南岸とはいえ、俗にサウス・バンクと呼ばれる一帯は、モダンな劇場・美術館・放送局や有名企業の入居するビルが立ち並び、ショッピングモールにはおしゃれな飲食店が軒を並べていて世界中からの観光客も絶えない。これに対してワンズワースといえば、しばらく前までは、ぱっとしない住宅が立ち並び低所得者層向けの住宅団地群と、その日常生活を支えるダサい商店街が思い浮かぶ、うらぶれた地区のイメージだった。
それがこの 年で貧乏ながらも徐々に活気づいてきた。活気の源は大英帝国の隅々から首都ロンドンにやってきた多様な民族の労働移民たちだった。ハラールの肉屋、エチオピア人の珈琲屋、バングラデシュ人のカレー屋、中国人の中華料理、タイ料理、ユダヤ人やインド人の貴金属商、西インド諸島の人向けの魚屋等々が点在し、多種多様な民族とその文化が交差する面白さ。従来の英国文化にこうした多様な移民文化を幅広く取り込むことで、これを新たなる「ブリティッシュネス」として英国社会の基礎としたい。これが新市長の政治思想の基本だ。英国の大都市に顕著な「マルチ・エスニシティ=多民族文化混合化」という巨大な変化。「私は単にイスラームを信仰するパキスタン系英国人という狭い世界を代表する者ではない。より広く、多民族多文化を背景とする広範な労働移民層の代表である」新市長は論文の中でこう宣言している。いつの日か労働党の党首となり、首相の座を争う男になる予感がする。
熊本市営新地団地(くまもとアートポリス )
熊本市営新地団地は、熊本城の北東約 6kmにある大規模な市営団地郡です。1989年から旧市営団地からの建て替え工事がはじまり、5人の建築家が設計した A. E棟があります。
幸いなことに新地団地は躯体の被害はほとんどなく、罹災された方々が多く入居される予定です。公営住宅の重要性が高まるなか、優良なストックを維持するための長期的な管理計画が大切と感じました。県道に面した北側を効率的な駐車場とする一方で、南面の斜面は広大な緑地帯になっています。D棟の向かいに建つ E棟(1995年)は、地元熊本市の建築家・上田憲二郎さんによる設計です。3階建ての低層住宅ユニットを弓状に曲がる通り沿いに配置し、向こう三軒両隣のコミュニティを大切にしたプランになっています。植栽を豊富にして、隣接する住宅街に圧迫感を与えないことも考慮されています。空中に張り出したフレームが個々の庭感を高め、家庭菜園を楽しむ住民の方もいました。
中央に設けられた第 2集会場は、隣接する住宅街の市民も利用できるよう開放的なファサードになっています。
熊本市営新地団地C棟(1993年)は富永 譲さんの設計で、ル・コルビジュエのユニテ・ダビタシオンを彷彿とさせる1階の広いピロティが特徴的です。近所の方の散歩コースにもなっていて、地震の被害も受けていませんでした。C棟には別棟となったエレベーターが接続されています。建物全体を浮かしたピロティによって向こう側を見渡せ、圧迫感を感じません。
天候に左右されない広い空間は絶好の遊び場です。