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4月号 春光 2016
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時空を超える美意識
熊本県を中心とした大震災により被災された方々に心よりお見舞い申し上げます。本号の記事は熊本地震以前の取材をもとに構成しております。熊本
古さと新しさの入り混じった歴史ある街「熊本」。JR熊本駅を起点にして、熊本城から、くまもとアートポリスまで、色々な熊本の顔を訪ねました。1988年にスタートした熊本県の「くまもとアートポリス」は、バブル経済期を象徴する建築運動として注目されました。事業は今も進んでいて設計中も含めると92の参加プロジェクトがあります。熊本駅前の「熊本南警察署熊本駅交番」はクライン ダイサム アーキテクツ(アストリッド・クラインさん、マーク・ダイサムさん)の設計で厚さ 9mmの鋼板で 2階部分を囲い、色彩のグラデーションがにじみ
出てくるようなデザインです。
JR熊本駅西口広場をぐるりと囲むのは、くまもとアートポリス作品のひとつ、佐藤光彦さん設計の「熊本駅新幹線口(西口)駅前広場」です。
高架線化工事が続く熊本駅の東西連絡地下通路は「おてもやん通り」と名付けられ、おてもやんの歌詞が描かれています。片側には熊本産の杉板を張り、熊本の工芸品をディスプレイしています。仮設の通路でありながら2011年にはブルネル賞奨励賞を受賞しました。
ドラゴンシリーズ
ドラゴンへの道編
日本人として生きる。
明日、私達の日常に何が起こるのかを誰も知ることは出来ない。
私達は今と言う時間を如何に生きてゆくべきかと、人間一人一人が問われていると感じている。生きていると言うことはどういうことなのか、どのような意味を持っているのか、そしてどのように生きてゆくべきかを、人間の存在として私達一人一人が問われている。
強くて美しい熊本城の城壁が崩れ落ちる光景を今も信じることができない。それが今、私達が目の前にしている日本の現実であり、その場所に自分自身が存在していないだけであり、それは私達の国である日本で起こっている。私達日本人として、家族である人々が住む熊本、大分、九州と言う故郷で起きている。自分はちゃんとしなければならない。そんな言葉しか、そんな気持ちしか思い浮かばないのだ。これからどうなるか分からない。
どうしよう。どうするべきか。どうすればいいのか。
どうすればいいのかが、それが分からない。私達の住む日本と言
う国で、私達と時を共にする家族である人々が突然の天変地変に遭
遇し、そして人々が生命を失い、また、怪我を負い苦しんでいる。
私達は同じ日本人でありながら、報道や映像でその光景と止まない
地震の数を追いかけ続けるしかないのだろうか。
私達は 5年前にも同じように、沢山の涙を見た。未だにその苦しみは続いていることを知っている。そして今、沢山の家族同様の人々
が苦しんでいる中、どうしてよいかわからない。私達は、私は自分でどうするべきかと言うことを見つけなければ、自分が生きている意味を失う。私達はこれまで親や祖父母や祖先に遡る多くの日本人によって生かされ
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吉田龍太郎( TIME & STYLE )
た生命が繋がって私達一人一人が存在している。そして、私達が生かされていることに対し感謝して、これから私達がやるべきことを常に考えておかなくてはならない。
私達が問われているのは、私達は如何に日々を生きるべきかと言うことであり、生かされていることを自覚することであり、そして、私達はお互いが助け合って生きてゆかなければならない。世界中の多くの国々で沢山の生命が争いによって失われる日々と争いと憎悪の歴史は繰り返されている。
私達の暮らす日常の中にも無意味な争いや一方的な価値観による他者を傷つけることや利己的な心やエゴによる争い、無意味な差別なども同じように今も世界中に蔓延している。それは私達人間の中に存在する醜さであり、そして、その悪は多くの人々の中に存在する。どうするべきか。人間そのものが問われていることだと思う。
私達は今、熊本や大分で起こっていることにしっかりと目を逸らさずに向き合い、自分の心の声をしっかりと感じ取り、そしてやるべきことを考える。自分の出来ること、その一歩を前に踏み出すことだ。
それしかない。でもそれが出来れば、小さな力が次の人や、次の何かに繋がるかもしれない。私達は今、やるべきことがある。今、私達は立ち上がり、動かなければならない。
みんなで力を合わせて、苦しんでいる沢山の日本の家族と共に生きてゆかなければならない。一人一人が自分で考えて、小さなことでも自分でできることから始めなければならない。
私の愛する多くの日本人と言う家族と共に、これからも生きてゆきたいと願う。みんなで考え、それぞれの小さな力を寄せ合わせ、熊本や大分や九州の人々の苦しみと向き合い、分け合う。それが私達が今生きていることの意味だと信じている。
熊本城(2016年3月24日)
永禄 5年(1562)尾張国に生まれた加藤清正公は、9歳の頃から豊臣秀吉に仕え、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いをはじめとする数々の合戦で武功をたて「七本槍」の1人に数えられました。天正16年(1588)、27歳の清正公は侍大将からいっきに肥後北半国19万5000石の領主を任命されます。当時の肥後には土豪がひしめき、戦乱で国土は荒れ果て、前任者の佐々成政(さっさなりまさ)は統治に失敗していました。清正公はまず治水工事や新田開発に力を入れ、大陸との交易をはじめるなど、領民の生活を優先した先進的な領地経営を進め、領民から神のように慕われるようになりました。今も熊本市民の心には、「清正公さん(せいしょこさん)」への感謝の念が宿っています。
長塀(ながべい)
東の平御櫓(ひらおんやぐら)から西の馬具櫓(ばぐやぐら)まで約 240mも続く長塀は、白漆喰に黒の下見板を張り、桟瓦を乗せた美しい姿を見せてくれました。本丸南面を守る堀は、市の中心部を流れる坪井川となっています。これは元々、白川を付け替えることで作られた流れで、城の防御と治水を兼ねています。
飯田丸五階櫓
櫨方門から入り左手を見ると天空にそびえ立つ櫓が「飯田丸五階櫓」です。その迫力には圧倒されます。清正公の重臣・飯田覚兵衛による南面防衛の要であり、内部には井戸や台所、鉄砲蔵が設けられ、小さな城の機能を持っています。
肥後六花園
肥後椿をはじめ肥後菊、肥後山茶花、肥後花菖蒲(、肥後朝顔、肥後芍薬は「肥後六花」と呼ばれ、細川重賢(しげかた)の時代に、武士のたしなみとして始められたそうです。現在も花連と呼ばれる保存団体があり、門外不出として伝えられています。肥後六花園を進んだ竹丸からは、幾重にも連なる石垣の果てに天守閣が見えます。鉄壁の守りを誇る熊本城。敵軍はこの景色を前に心が折れそうです。天守閣を目指して進むと、カギ型の狭い通路は石垣に囲まれ、飯田丸からは丸見えになります。弓矢や鉄砲で狙われたらひとたまりもありません。
踏み幅の広い階段は登りにくく、垂直にそそり立つ石垣は登れません。通路の先は見通しがなく、退路を絶たれる危険もあります。
二様の石垣
階段を上がると、目前に「二様の石垣」がそびえます。石垣は石工集団・穴生衆(あのうしゅう)による「打ち込みハギ」工法で積まれていますが、右側は初期の石垣、左側は後期の石垣と思われ、隅石(石垣の角)の積み方や石の割り方に違いが見られます。初めは緩やかで徐々に垂直になる「武者返し」によって登るのは困難です。
石垣に立ち並ぶ櫓群
東竹の丸には西南戦争にも焼け残った田子櫓や十四間櫓などの平櫓が並び、国の重要文化財に指定されています。櫓は武器庫から発展した防衛設備で、普段は倉庫として使われました。
櫓は石垣の直上に建てられ、鉄砲や矢を放つ窓「狭間」や敵兵に石を落とす「石落とし」が設けられています。
櫓郡を見ながら左手に入ると、本丸御殿地下回廊の入り口が見えます。
世紀末から 1920年までの 年間にアメリカにやってきた約四百万人近いイタリア系移民。その中には、妻子を母国に残したままで「出稼ぎ」という男たちも少なくなかった。ある程度お金を稼いだら母国に帰って家族と過ごし、再びアメリカに戻って働く。
その繰り返し。帰国時にはオシャレな服を着て、いい靴を履き、稼いだドルとアメリカ土産を抱えて、大威張りで故郷の村に里帰り。子供を抱き、妻が精一杯用意したご馳走を楽しみながら、ワイン片手に思う存分故郷の言葉で語り明かす。その一方で、仲間同士つるんで泥酔し、そのあげく女達とあれこれあって、風紀の乱れが問題になるという村々が珍しくなかった。でも、その心情、男としてわかる気がする。言葉もロクに通じない異国アメリカの大都会で、ひとり寂しさに耐えながら出稼ぎを続けていたのだから。当時最も多
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くのイタリア移民が集結したニューヨーク(NYC)を例に、出稼ぎ暮らしの一端を覗いてみよう。
初期のイタリア移民が集まったのが、グリニッジ・ヴィレッジほど近くのマルベリー・ストリート周辺で、リトル・イタリーと呼ばれる一帯。次いで、マンハッタンの東百十丁目界隈のイースト・ハーレム。後にプエルトリコ系移民が進出して「スパニッシュ・ハーレム」という呼び名も。そして、ブロンクスのアーサー・アヴェニュー近辺。
今はこの地区こそが、かつてのイタリア人街の雰囲気を最もよく伝えていると言われ、映画・テレビの画面に登場する機会も多い。その住まいは「テネメント」と呼ばれる集合長屋的なビル。水道がなく水運びが大変な建物もあったというから驚く。一つの階を細かく区切り、バスルームは階で共同。本来であれば核家族がなんとか住めるような広さの部屋に、数人〜十数人がカーテンでスペースを仕切ったりして寝泊まりした。冬厳寒の NYCで、暖房は石炭や灯油ストーブを各部屋単位で持ち込み、これで簡単な料理を作る男たちも珍しくなかった。働く先は、仕立屋などの能力があればともかく、元々が農家の下働きであるため、肉体労働や工場での単純作業が中心。当時のアメリカは工場生産がすごい勢いで伸び始める時期で、劣悪な労働条件ながら、仕事はいくらでもあった。あのアメリカで社会主義思想が一定の力を得て労働争議が起き始めるのもこの時代。だが、イタリア系の男たちは、ストに参加しないことで知られていた。というのも、貧乏ながらもアメリカでの賃金は平均で母国での十倍にも及んでいたからだ。この時期イタリアでは、海外同胞からの家族送金が貴重な外貨収入だった。同じような貧しさから NYCにやってきた多くのアイルランド系と決定的に異なっていたのが、英語力だ。英語と同系の言語であるドイツ・オランダ・北欧系は、英語の習得が難しくない。対してラテン語系の伊・仏・西系の移民にとって、英語習得は大変だった。地域の方言や文化の違いが大きかった当時のイタリアだが、様々な地域から来た男たちが職場と住み家を共にし、方言を越えてイタリア語で気心を通じていく。こうしてむしろ新天地アメリカで「俺たちイタリア人」という同郷意識が生み出されていった。その絆を結んでいたのが、母国語と料理だった。
ひとり暮らしで寂しさ我慢の数年を乗り越えて NYCで何とか基盤ができると、母国から家族を呼び寄せ、同じテンメントの一角で家族揃って暮らし始める。ここで主婦の果たす役割はとても大きなものがあった。英語ができず外で働けない間は、紙の花づくりや縫い物などの内職で家計の手助け。そして料理。安くて豊富な米国の食材を思う存分使って、故郷では地主クラスが楽しんでいた「夢の贅沢料理」作りに精を出す。特に各種肉類とハム・ソーセージを使うことができることが何よりの喜びだった。当初基本的な素材であるオリーブ油、チーズ、マカロニやスパゲッティ、トマトソースなどは、イタリアからの輸入品を入手するほかなく、このおかげで母国イタリアでは新たに、海外同胞向けの食品産業が立ち上がり伸びていく。アメリカではデルモンテに代表されるイタリア食品メーカーが誕生している。多少収入に余裕ができた家族の中には、広い部屋を借りて賄い付の下宿屋を始める一家も出始める。食事は当然、下宿屋の女房の仕事。料理が美味しいとなれば評判が上がり、下宿人希望者が列をなすという状況も生まれていて、そうした家庭では一家の主導権は主婦が掌握した。その料理は、イタリア南部の田舎から出てきた下宿人たちには、夢の様な水準と感じられていたらしい。
こうして NYCに代表されるアメリカ各地のイタリア人街では、故国では考えられなかった様々な料理を各家庭が競い合い、教会を通じて行われる聖人様のお祭りや、同郷団体の集まりでも料理は豪華にたっぷりと、という流れが生まれる。母国での貧困の裏返しであると同時に「イタリア料理は凄いんだぞ!」とアメリカ社会に訴えたい気持ちもあった。これを広めたのがリトル・イタリーに続々と誕生した「イタリア料理店」だった。この NYCに代表される米国イタリア人街で新たに誕生した料理こそ、今我々が「イタリア料理」と呼ぶ世界の、最も重要な源流であり、その影響を受けて母国イタリアの料理と料理素材産業も大きく変化していく。要するに、海外移住民と母国両者との間での密接な影響の及ぼし合いを通して誕生したのが「現代のイタリア料理」、ということになる。
JR熊本駅から電車で南へ 6分ほどの川尻(かわしり)は、古くから緑川の水運を利用した湊(みなと)を中心に大陸との交易や宿場町として栄え、西南戦争では西郷隆盛が本営を敷いたことでも知られます。商店街を歩いていると、刃物屋さんの奥から槌を打つ音が聞こえてきました。川尻の刃物は有名で、かつて数十件の鍛冶屋が並びましたが今は 2軒となっています。そのひとつ林刃物製作所を訪ねました。
4代目の林 精一さんが包丁を打っている最中でした。川尻刃物は約 500年前、薩摩「波の平行安」から伝わった刀鍛冶が起源といわれ、包丁や農具、斧など様々な刃物を作ってきました。
100年以上はたつ炉の中に刃物を突っこみ、熱してから槌で丹念に叩きます。「自分のような野鍛冶は、どんなものでも作れないとならない。そこが難しい」と林さん。鍛冶屋の件数が減るなか修理などの注文が増え、年に数日しか休暇をとれないそうです。
「後継者の育成も10年以上かかるから、早く始めないと間に合わない。町に野鍛冶がいないと必要な道具が作れなくて困るから、大変だけれど続けないと」。今は後継者として、弟子を指導されています。川尻刃物は「割込み鍛造」という方法で作られ、硬いハガネをやわらかい極軟鉄を挟み込み、槌で何度も叩いて鍛え上げます。工場に比べると、手作りは素材の組織を壊さないため、硬く粘り強くなり、使いやすいのが特徴と林さん。
刃物の出来は、刃を研いでみると分かるそうです。適度な硬さと柔らかさのバランスがあり、研ぎやすい包丁が良いとのこと。
林さんは「自分の力量にあった包丁を持つといい」と刃渡り15cm程の小ぶりの包丁を選んでくれました。年季の入った研ぎ場で刃をつけると、刃先が輝きを身につけます。使った後は熱湯をかけて乾かすと錆びにくいそうです。
工芸館に直結した「東肥大正蔵」は、熊本でいち早く清酒の製造に取り組んだ蔵元「瑞鷹」(ずいよう)の酒蔵を改装した施設です。
江戸時代まで熊本では米焼酎が良く飲まれ、清酒の蔵元はありませんでした。明治になると官軍によって清酒がもちこまれ
「熊本で初めての清酒を作ろう」とした瑞鷹の初代吉村太八氏は、慶応 3年から清酒の製造にとりくみますが、高温多湿な熊本では清酒はなかなか出来ません。そこで清酒の研究所を設立し、より強い酵母を開発した結果、通称「熊本酵母」が生まれました。やがて熊本酵母は気候に左右されにくく良質な清酒をつくる酵母として全国に普及しました。蔵では清酒や焼酎の試飲を楽しめます。焼酎は木の樽で保存しています。
瑞鷹「東肥蔵」では焼酎や醤油のほか、熊本で古来から飲まれてきた「赤酒」を作っています。赤酒は醸造途中に「木灰」を加える灰持(あくもち)という製法により、腐敗につよく濃厚で甘く強い味わいになります。一旦は絶えそうになりましたが、お屠蘇や御神酒に欠かせない酒として愛され、今は料理用酒としても注目されています。
川尻から熊本駅に戻ると、ジャズの名曲「A列車で行こう」の軽快なメロディーにのって、水戸岡鋭治さん(ドーンデザイン研究所)デザインの「A列車で行こう」が入線してきました。
子どもたちのため、車窓から景色を眺められるミニバー空間も用意。日本の渚百選に選ばれた「御輿来(おこしき)海岸」も見えます。
熊本駅と三角駅を結ぶ「A列車で行こう」は、クルーズ船「天草宝島ライン」に連絡する天草観光の案内役です。天草の南蛮文化をテーマにした「A-TRAIN BAR」が設けられ、アテンダントの丁寧な接客が旅の期待感を高めます。通勤や観光の脚として車内はいつも混んでいます。1日乗車券は 500円です。
熊本駅東口(白川口)の電停から水戸岡鋭治さんデザインの超低床車両「COCORO」に乗り、夜の街に出かけました。市営の路面電車は大正13年に開通し、A系統、B系統の 2路線が運行されています。街の中心部・通町筋(とおりちょうすじ)の電停で降りました。江戸時代は武家屋敷が立ち並び、熊本城への登城ルートだったことから通町筋の名がついたといわれます。九州中南部最大の繁華街、上通(かみとおり)・下通(しもとおり)のアーケードは沢山の人で賑わい、エネルギッシュな雰囲気に包まれていました。
スクランブル交差点から見た熊本城。
熊本の名物といえば馬刺しとからし蓮根。市内でも評判の馬肉専門店「菅乃屋」上通店で、フタエゴ(あばら)やコウネ
(たてがみ)、三角(ばら肉)など、希少な部位を揃えた盛り合わせを堪能しました。寛政元年(1789年)創業の菅乃屋は阿蘇の自主ファームで育成した馬を、外気に一切触れることの無い馬肉専用生産場で処理しているそうです。
鈴木 惠三(BC工房 主人)
工房楽記地味のあるデザイン展
JR熊本駅に近い白川橋。阿蘇山を水源として熊本市内を斜めに横切り、有明海に注ぐ白川は、水の国・熊本に阿蘇の清流を導くとともに、蛇行する水流は古くから多くの水害をもたらしてきました。16世紀、肥後・熊本の領主となった加藤清正は白川を何度も検分し、堰や石堤などを設け様々な治水対策を行うとともに「馬場楠井手」をはじめとする農業用水を掘削し新田開発を行いました。白川橋のたもとに建つ明治期の邸宅は、かつて白川の川沿いに花街があった頃の名残だそうです。
白川橋の歩道は、くまもとアートポリス作品藤江和子さん設計の「フライングライト」(白川橋景観整備)によってダイナミックな景観を与えられています。
森のようなオブジェを冠ったアートポリス作品は、大田浩史さん(デザインヌープ)設計の「白川橋左岸緑地トイレ」です。外壁は金属サンドイッチパネルで、樹木も金属パイプ製です。
つれづれなるままに第 24 回 金丸座・こんぴら歌舞伎大芝居内田 和子
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3年ぶりに、を観に行った。
「四国こんぴら歌舞伎大芝居」
初日とあって、大勢の報道カメラマンが舞台正面奥を陣取っている。さぬきうどんツアーと金比羅歌舞伎を段取って
くれているのは、地元香川の
年来の友人である。最初は
5〜6人だったが、年を追うごとに参加者が増え、今年は
名とのこと。
常連もたくさんいるが、初めてお会いする方も多い。み
な世話人の関係者である。どこの誰とどうつながっているのかは定かではないが、うどんと金比羅歌舞伎をこよなく楽しむ人たちである。昨年、一昨年と参加できなかったが、今年は行けても行けなくても、参加表明だけはしておいた。毎年、全て世話人任せだが、今年は、初日でそれも 1階花
名分の升席を確保してくれた。もう何十回と行っているが、 1階は初めてである。それも花道脇、かぶりつきそのものである。演目の最初は、市川中車と片岡愛之助の「あんまと泥棒」、おどりは中村扇雀の「鷺娘」、最後に四代目襲名披露した中村鴈治郎の「封印切」、これは長い芝居だが、丁々発止の鴈治郎と愛之助のやり取りが見事で面白い。脇にいる
道脇を 1列、
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中車や扇雀はセリフのない所作演技で存在感を示す、おどりの時の長唄とお囃子も舞台両脇にビッシと並んで、正面から観る歌舞伎舞台はとても美しい。花道を下がる役者をすぐ傍から見上げ、衣装から役者の息づかいまで、金丸座金比羅歌舞伎の醍醐味を十分に味わった。
今年は時間が長かったせいか、金丸座を出るとすでに足元は暗く、集合写真を撮るのも大変だったが、興奮冷めやらないまま、役者ののぼりが揚がった琴平の街をみんなでだらだらと歩いた。
今回、うどんはパスしたが、毎回 4〜7杯のさぬきうどんを食べる。今やさぬきうどんは東京でも食べられるが、わざわざ香川まで行って食べるのには訳がある。ご存知の方も多いと思うが、さぬきうどんは地元ではお茶代わりに振る舞われ、以前はどこの家でも麺打ちをしていたとのこ
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つれづれなるままに金丸座・こんぴら歌舞伎大芝居
と、だんだんとそれを専門にする製麺所ができ、そこで打ち立てのうどんをいただく。もともと製麺所なので、お客相手の用意はしていない。ネギは裏の畑から採ってきて自分で刻む。生姜も自分で擦る。独特の生醤油をかけていただくのが、ぶっかけ。玉子を入れれば、ほどよく塩味が効いたカマンベールである。値段は、 130円から 150円。製麺所で食べるのは麺だけの値段である。これを何軒かハシゴする。
最初にさぬきうどんに連れて行ってもらった時は、まだブームの起こる前だったが、製麺所前は関西方面からの車が多く止まっていた。朝 7時すぎにはすでに行列ができている。並んでうどんを食べるのは初めてである。どんぶりを持って麺を注文し、ネギを刻んで生姜を擦る。手慣れた人たちの様子を見よう見真似に列を進む。何もかも初めてのことだが、もたもたはできない。でもみな親切で、新参者をやさしく仲間入りさせてくれる。うどんは噛まずに飲み込めと教わったが、なかなかそれはできなかった。
茹でたての麺の切り口は、星型になっていると聞き、どこで食べても切り口を確認した。トッピングでいろいろなものが並んでいるお店も廻る。最初はものめずらしく、タケノコの天ぷらや味噌田楽もつけてもらったが、途端にお腹が苦しくなる。さぬきうどんツアーを上手にこなすには、まずはぶっかけから、噛まずに食べるのがコツということも何回目かのツアーで身につけた。
今回は、うどんなしではあったが、久しぶりのこんぴら歌舞伎。見終わってすぐに帰る予定だったのを、夜の懇親会にも急遽参加させてもらい、たっぷりの焼肉を楽しんだ。
年1回の集いだが、うどんツアーとこんぴら歌舞伎は、不思議な人との輪が広がって愉快な仲間になっている。
こんぴら歌舞伎をきっかけに、歌舞伎役者も覚えた。何回か観るうちにセリフもよくわかるようになった。芝居の展開にもついていけるようになった。昨年暮れの京都南座では、仁左衛門の土蜘(つちくも)に身震いするほど興奮し、歌舞伎の魅力にはまってしまった。目下、 2016年版かぶき手帖を片手に系図を勉強中である。来年はうどんツアーから参加して、こんぴら歌舞伎を存分に楽しみたいと思っている。
熊本洋学校教師館ジェーンズ邸 /日赤記念館
市の東、水前寺成趣園に隣接する「熊本洋学校教師館ジェーンズ邸」は、熊本の近代化を物語る大切な洋館です。明治 4年(1871)、熊本洋学校の教師として招聘された米国人教師・リロイ・ジェーンズと家族の居宅で、熊本初の洋建築として熊本城内に建てられました。長崎の大工によるコロニアル風 2階建て(間口10間、奥行 4間、延床 140坪)。1階テラスの柱頭にはブドウの図柄を刻み、2階バルコニーの柱頭には曲線を描く網目状の飾りをつけ、窓にはステンドグラスをはめています。完成当時は多くの見物客で賑わったそうです。1837年オハイオ州に生まれたジェーンズは、ウェストポイント陸軍士官学校出身の元軍人で、南北戦争では北軍で戦いましたが、軍隊を辞すとメリーランド州の農場で働きました。明治 4年 34歳で来日したジェーンズは、約 500人の入学希望者から選抜された熊本洋学校第一回生 46人に対し通訳なしで英語で授業を始め、徹底した自学自習を基本としました。そのおかげで一回生の優秀者は二回生を教えるというサイクルが生まれ、ジェーンズ一人で英語、数学、物理、科学、生物など全ての教科を教えることが出来ました。敬虔なプロテスタントであったジェーンズは、着任 3年目から教師館で聖書研究会を始め、その精神に目覚めた洋学校の生徒 35名は花岡山(JR熊本駅近く)の山頂で集会を開き、キリスト教によって祖国を救うことを誓った「奉教趣意書」に署名します。その中には若き徳富蘇峰もいました。これが父兄の間で問題となり一般にも知れ渡ると、ジェーンズは 5年目で教職を追われました。ちなみに西南戦争の際は、西郷軍が花岡山から約 2km先の熊本城に大砲を打ち込みました。洋学校は閉校となり、行き場を失った生徒たちは新島襄の主宰する京都の同志社英学校へ進みます。すぐに頭角を表した彼らは「熊本バンド」と呼ばれ、「横浜バンド」「札幌バンド」と並ぶ日本プロテスタント三大源流のひとつになりました。熊本バンドには、徳富蘇峰、蘆花の兄弟をはじめ、「青春」という言葉をつくった東京 YMCA初代会長の小崎弘道や、後に同志社の学長となる逸材が揃いました。ジェーンズがもたらしたのは教育だけでなく、農業の経験からキャベツやカリフラワーの種を米国から取り寄せ熊本に広めたり、生徒たちに牛肉や牛乳の食用をすすめたり、新聞の印刷機を輸入したりと様々な分野で熊本の近代化に貢献しました。教師館は緊急救命医療をリードしてきた日本赤十字社発祥の地でもあります。明治10年西南戦争の際、官軍、西郷軍の兵士達が傷ついていく惨状を知った佐野常民は、教師館を宿舎としていた官軍総督・有栖川宮熾仁親王に「博愛社」設立の許可を求めます。1867年のパリ万国博覧会に参加した際、国際赤十字の存在を知った佐野常民は、敵味方の区別なく救命医療を行う組織の必要を以前から訴えていたのです。教師館で許可を得た常民は激戦地となった「田原坂」の近くに医療所を設け、約 1400名の傷兵を救いました。博愛社は10年後に国際赤十字社の一員となり、日本赤十字社となりました。
県営保田窪第一団地
1991年に竣工した「県営保田窪第一団地」は、くまもとアートポリス初の集合住宅で、設計は山本理顕さんです。住戸数は110戸で、都市に共に住むことのモデルとして公共住宅はどうあるべきかが検証されています。各戸は広い中庭に面していて、住民同士の交流が図れるようになっています。
バルコニーの面積が広いことも特徴で、公共住宅の床面積の限界をカバーしています。
県営帯山 A団地
県営保田窪第一団地に隣接する「県営帯山 A団地」は、くまもとアートポリス初の公開コンペによって設計者が選ばれ、山本理顕設計工場出身の新納至門さんが最優秀賞を受賞しました。
3棟に分かれた各棟は「スカイウォーク」によって結ばれています。
各住戸のプランは10種類あり、ダイナミックなカンティレバー構造となっている住戸もあります。
解体現場で、主に分厚いコンクリートを砕くために使われる道具をご存知だろうか。重機のヘッド部分にはエンピツの先と似た形の尖った大きな金属棒がセットされ、トトトトトントン叩きつけながら壊そうという方法であり、これをジャイアントブレーカーと呼ぶのだそう。地下に食い込み、へばりついた状態のコンクリートをこのブレーカーとやらが、まるでジャイアントのキツツキみたいに作業を進める訳なのだが、粉塵が舞うから散水は欠かせないし、ジャイアントブレーカーの連続音はいかんとも耐え難い。効率悪く時間が掛かってしまうは、けたたましい騒音で迷惑だは、こんなにチンタラ作業をやってていいのだろうかと逃げ出したくなるほど嫌な思いに襲われた。その上、いつの間にか工期 8カ月もの延長、解体工事は 1年半にも及んだのである。東注の現場となって 3年目。仕事の段取り、現場監理理の甘さがこんなに見事に露呈してしまっていいのだろうか。果たして日本の建設業界を担う方々の実情はこんなレベルなんでしょうか。お向かいのマンション建設問題と向き合うなかで、日本人の優れた能力に出会えなかったことが最も重大な問題と感じている。
熊本城本丸御殿
天守閣に寄り添うように建つ「本丸御殿」は、加藤清正公によって慶長15年 (1610)頃に創建され、細川家時代に何度か改修・増築された後、明治 10年(1877)の西南戦争で天守閣とともに焼失しました。桃山時代の武家風書院造で、藩主の居間や大広間、大御台所など約 53室、畳数 1,570畳もの広大な御殿だったと考えられています。1999年から発掘調査がはじまり、約 10年の月日と約 54億円の総事業費をかけて復元されました。(熊本市役所 14階展望ロビーから)
闇り通路
御殿への入口は石垣に囲まれた暗い地下道になっていて「闇り通路」と呼ばれます。地下の玄関から階段を上がると広間に出るという御殿としては珍しい構造です。復元に際しては当時の大工技術を踏襲し、梁の丸太にはチョウナを使った削り跡も見られます。
大御台所
賓客や祝いのための本膳料理をつくる「大御台所」には2つの大きな囲炉裏があり、土間には竃も置かれていました。大御台所では御殿建築の壮大な小屋裏が見られます。直径約1.0m、長さ約12mの赤松の梁は人吉産で、使用した木材約1,800㎥の半数以上は熊本県産材を使っているそうです。
大広間
「鶴之間」(60畳)「梅之間」、
、(35畳)「櫻之間」(28畳)、(24畳)(18畳)
「桐之間」「若松之間」と続く大広間は、奥に進むほど格式が高く、藩主との接見や儀式、会議などに使われていました。
縁側
大広間南側には16間(31.5m)の縁側が続きます。「広縁」(奥行約 3m)、「落ち縁」(約 1.2m)、「濡れ縁」(約
1.3m)の3段で構成され、総ヒノキで作られています。
若松の間
藩主との対面所で、床の間と付書院、違い棚を備えた書院造りです。奥には「昭君之間」が見えます。
昭君之間
障壁画の復刻は、二条城などを手がけた京都の川面美術研究所が担当しました。絢爛豪華な「昭君之間」(しょうくんのま)。床の間や襖には中国絶世の美女、王昭君の物語が描かれ、漆塗りの格天井には四季折々の草花が嵌めこまれています。実は「昭君の間」は「将軍の間」の隠語であるという説もあり、豊臣秀吉に忠臣をつくした加藤清正公が、ここに豊富秀頼を招き徳川に背く覚悟があった。そのため熊本城を堅固な城としたという伝説もあります。
天守閣
茶臼山の山頂、標高 50mに築かれた天守閣は大小 2つの天守からなります。清正公が熊本城の築城を開始したのは慶長 6年(1601)のことで、7年後に新城が完成しました。築城には農民も参加し、農閑期の労働に対して賃金も支払われたため、農民からも感謝されたそうです。加藤家 2代目領主の忠宏が改易となったあと、寛永 9年
(1632)には細川忠利(細川ガラシャの実子)が入部し、城の増改築を幕末までの約 240年間続けました。しかし細川家自体は花畑町の大名屋敷で治世を行いました。現在の天守は昭和 35年、市民の寄付をもとに再建された RC造です。明治時代に入り明治政府の熊本鎮台が設置されると、城は陸軍の施設として利用されます。明治 10年「西南戦争」の際は西郷隆盛軍の標的となり、それを察知した熊本鎮台は籠城をはじめ、西郷軍を迎え撃つため熊本市街や熊本城に火を放ちます。熊本城の堅牢な城壁は西郷軍の苛烈な総攻撃にも耐え、50日余りの籠城のすえ西郷軍を敗戦へと導きました。それを支えたのは、清正公が籠城に備え120本以上掘った井戸であったといわれています。
宇土櫓(うとやぐら)
第三の天守ともいわれる宇土櫓は 3層5階地下1階、地上約 19mの高さをほこり、西南戦争の火災にも耐え国の重要文化財に指定されています。3層 5階という構造は、1層目=1階、2層目=2、3階、3層目= 4、5階というユニットになっていて、通し柱は1本も通っていないそうです。宇土櫓に接続された平櫓を通り、階段で最上階まで上がれます。材木は主にマツで、ツガやクス、クリも使われ、荒々しい手斧の痕からも野趣あふれる櫓の空気を感じます。
櫓の最上階からは、阿蘇の噴煙も見えました。
僕らのリズム
Kindleなどの電子書籍が普及する中、紙の印刷物
のニーズが減少傾向にあると聞く。昔から常にそこにあった、いわゆる「本」と呼ばれたものは今後どのようになっていくのだろう。私は自社ブランドのインテリアショップを持つオーナー兼、家具デザイナーであるが、最近大型の本棚の需要が減っているのを肌で感じていた。かつてのレコードやスチールカメラなど技術革新の中で消えていったものたちと同じように紙の本も消えていくのだろうか。確かにジーンズの後ろポケットに単行本を入れる代わりに、今は端末、とりわけ携帯電話をポケットにねじ込んでおけばすべて事足りる時代になった。本は量が増えると、確かにかさばるし、携帯にも不向きだ。紙とデータが入れ替わりつつある時代、まさに私たちはそんな節目にいるようだ。
しかし、それでも私は思う。だからと言って、自分の本棚の本すべて
をデータにしてしまうのも、なんとも味気ない話じゃないかと。そこでふたたび考える。本の味気とはなんだろうか。インクや紙の匂いだろうか、手で紙をめくる感触だろうか、本棚に並ぶ背表紙に見る充足感だろうか。それらがごくごくあやふやなノスタルジーの類に依るものだとしても、それでも人々には、十全と紙を所持していたいという気持ちがあるのではないか ? そしてもう一つ。我々には常に電気に対する不信感がある。データは当然その媒介として電気を必要とするが、先の大地震の弊害から見ても分かるように、電気というエネルギーは供給面においてひどく脆弱だ。また、外部からの圧迫、例えばサイバー攻撃などに合えばひとたまりもなく一瞬にして全データが吹っ飛ぶ可能性だってある。現存する世界最古の本は紀元前に遡る聖書だという話があるが、そのような膨大な時間に耐えうるパピルス本というシステムは、一見原始的に見えて、とても秀でたものなのかもしれない。
それならば、所持する本を万一無くしても困らないものと困るものに分
野田 豪 (AREA )
Vol.6「My Life, My100 Books 誕生の経緯」
け、困らないものを電子化し、困るものをノスタルジーと共に紙で所持する。そんな結論はどうだろう。私は家具デザイナーとして今の世にそんな提案
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をしてみようと思った。自分の人生で最も大切な本を 100冊だけ紙で残すのだ。まずは自らで試してみようと思い、早速その容量の本棚の企画を
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始めた。自分の人生の最も大事な本 100冊だ、量産家具ではいけない。高くつくが、広島県府中市という箱物産地の指物師たちにその製作を依頼した。材料は、どこぞの王立図書館に合わせて、世界三(四)大銘木の内もっとも腐食に強いチーク材を使用した。デザインは先述した「ノスタル
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ジー」に鑑み、ミッドセンチュリーデザインを下敷きとし、とてもシンプルなモノに仕上げた。ちなみに扉をつけるかどうかひどく迷ったが、いつでもそれらの本に触れて欲しいという想いから思い切って外すことにした。待つこと ヶ月。ようやくその本棚が完成した。早速自分の本を検分する。残したい本、総数 冊。遠い昔読んだ本で、この棚に入る資格を持ちながら、今所有していない本はあわてて本屋に買いに行った。そして考えられる限り考えて、残した 冊が本棚に入った時、私は、大きな充足感でいっぱいになった。背表紙を見て自分の人生の縮図だ ……とさえ思ったほどだ。そしてなによりもピックアップの作業。これはとても(辛く)楽しい仕事だった。結論としては 100冊には 冊足りないが、これからの人生もあるのだから、その都度、足していけば良い。また 100冊を越えてしまったら、下の順位から割愛しよう。とは言え、別に 100冊を越えても構わないのだ。
しばらくして私は、私自身が体験した、この楽しい作業をいろんな
人に紹介したいと心底思った。また、いろんな人の 100冊をぜひ
見せて頂きたいとも思った。結局、私はこの本棚に「 My Life,
My100 Books」と名前をつけ、商品化することに決め、自分
のショップの新製品としてこの秋、発表させてもらうことにした。
紙とデータが入れ替わるこの端境期に、紙の本を 100冊だけ選び、
そしてそれを心の拠り所として残す。それは、その作業の楽しさも含
めて、めまぐるしく変化する「モノ」に翻弄される現代人が今、最も
大事にするべき「コト」なのだと、私はそう確信している。尚、その後、
この企画は青山ブックセンターの目に止まり、現在、発表企画が進ん
でいることを申し添えておきたい。
そんなリズム。
唐人町(とうじんまち)
古い街並みが残る唐人町通り界隈を歩きました。唐人町は熊本城の南にあたり、古くは唐人の暮らす国際色豊かな町として、大正時代には卸問屋街として賑わいました。「ピーエスオランジェリ」は、放射冷暖房システムで知られるピーエスグループが、取り壊しの危機にあった旧第一
銀行熊本支店(大正 8年)をリノベーションした建物で「南の気候における室内気候の探求と実践」をテーマとし
たショールームとなっています。
古い町家の並ぶ一画には「お食事&酒かわばた」、「フランス料理 塩胡椒」、「ナチュラル&ハーモニック ピュアリィ」が並んでいます。
▲ ピュアリィの奥には自然栽培野菜や伝統食材をふんだんに使った和食処「肥後 福のや」があります。
ナチュラルなオーガニックライフを提案する「ナチュラル&ハーモニック ピュアリィ」は、自然栽培の作物や天然菌による発酵食品、有機食材、オーガニック衣類のほか、エコ建築も手がけています。ショップでは熊本特産の野菜や各種雑穀も手に入ります。
唐人町通りの裏手には、熊本城の長塀から続く坪井川が流れています。アーチ状の石橋は通潤橋や東京の万世橋などを手掛けた石工・橋本勘五郎が明治10年に掛けた「明十橋」です。
「肥後 福のや」の地下は、坪井川の船着場を改装した石造りの空間です。かつては地下の船着場に荷を降ろし、1階の店舗に引き上げていたようです。
アミューズは阿蘇産山ジャージー牛と玉名牧場のチーズクリーム。
有精卵と玄米コロッケ、ゴボウのスペアリブ、野菜の煮物、根菜の素揚げ、米粉の野菜天ぷら、天草産の真鯛など、自然の滋味を杉の曲げわっぱに詰め込んだ彩り御膳。
メインは天草の放牧黒豚やスズキの塩麹焼き米粉ソースがけ。
「油」を扱っていたために、防火壁を両側に立てています。
レンガ壁が印象的な築約100年の元卸問屋は、市の景観重要建造物に指定されながら長らく使わていませんでした。今は町家創生&地産知笑プロジェクトの女性たちによって「町家 Cafe&Bar器季家(キキヤ)」として活用されています。女性グループらしい柔軟な発想が心地よさを高めています。
中は太い柱や梁をあらわした大空間。昼は熊本名物の団子汁やさくら丼、スイーツを提供するカフェ、夜はおでんや晩酌セットで女性でも気軽に飲める場所となっています。熊本を中心に工芸作家の作品も扱い、一部は企画展を開けるギャラリーで、映画上映会も開かれます。貴重な建物を傷めないため、壁やカウンターなどは全て床置きにしているそうです。店の奥へ進み重い引き戸を開けると、母屋へ続く路地がありました。2枚の防火レンガ壁の間に、このような空間があるとは驚きです。杉皮を張った黒塀や千鳥破風を持つ玄関、凝った作りの建具、亀甲の敷石など、普請道楽ともいえる凝った家の作りから往時の繁栄をうかがえます。唐人町通りには、このような町家が立ち並んでいたそうです。
早朝から揚げ始めた天ぷらは夕方にはほぼ売り切れでした。
長崎次郎書店
新町電停近くの長崎次郎書店は明治 7年創業の老舗書店で、現在の建物は東京・丸の内「一丁倫敦」計画を指揮した建築家・保岡勝也の設計です(大正 13年)。平成 25年に一度休業しましたが、ランドマークである書店を惜しむ声に応え、創業140周年の年にリニューアルオープンし、1階は書店、2階はカフェ「長崎次郎喫茶室」となりました。店内では、熊本発の純文学誌「アルテリ」の創刊号を見つけました。