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9月号 蜻蛉 2016 http://collaj.jp/
北海道 原野の底力 VOL.1 Sarashinaフロンティア
時空を超える美意識
北海道の台風被害8月の中旬から下旬まで、かつてない台風の上陸により甚大な被害をうけた北海道。とくに十勝地方を中心とした道東地域では、河川の氾濫によって収穫間近のじゃがいもやトウモロコシ、ハウスメロンなどが浸水しました。また各所で物流の要となる道路や鉄道が寸断され、動脈を経たれた状態が続いています。コラージ取材班は台風上陸直前の8月10日〜16日にかけて、北海道各地を取材しました。今月と来月の2回にわけ、台風直前の大地の姿を、北海道を代表する詩人・更科源蔵(さらしな げんぞう)の作品とともにご案内します。
台風10号
8月19日、八丈島沖で台風に発達した11号は、南下した後に北上するという異例のルートをへて 30日に岩手県に上陸。岩泉市に甚大な被害をもたらした。北海道では上士幌町の72時間雨量が 351.5ミリ。清水町で市街地の4分の1が冠水。南富良野町、芽室町、新得町、清水町に陸上自衛隊が災害派遣される。JR北海道の根室線で複数の橋脚が流出。根室線、石勝線、石北線などが不通となり農作物の輸送にも支障がでた。JR北海道は 40億円の損害がでると発表。一方、道央と道東を結ぶ国道 274号線の日勝峠や国道 38号の狩勝峠が通行止めとなるなど、道路の寸断は100個所
崩落した橋からの転落などで死者・行方不明者4人、全半壊や床上・床下浸水など被害家屋319棟、最大避難者数は約1万人に上る。農業被害面積は12,311haに拡大し、十勝地方では山手線の内側より広い 8,881ha。新得、清水などでビニールハウスや牛舎、納屋の損壊被害が110棟。中札内村では鶏舎の浸水で75,000羽が水死し、帯広市でも豚舎の浸水で1,080頭が水死し。士幌町や帯広市でじゃがいもやテンサイ畑の土壌が流出した。南富良野の幾寅地区ではにんじん、じゃがいもが壊滅状態となる。一連の台風被害は激震災害に指定され、被害額は1,682億円に上ると道は発表した。
旭川から道東へ水田の広がる旭川。更科源蔵は、これを北海道開拓の最終形と位置づけています。近年上川産米は品種改良や温暖化の影響で品質が向上し、高い評価をうけています。一方温暖化は北海道に台風をもたらし、旭川と深川の市境で石狩川が氾濫し、水田が洪水被害をうけました。
石北線は上川〜白滝間の路盤崩落により3名の保線作業員の方々が重軽傷を負いました。復旧は10月になる見込みです。旭川と網走を結ぶ特急「オホーツク」の運休が続き、北見の玉ねぎを運ぶ貨物「タマネギ列車」の不通など物流にも大きな影響を与えています。
層雲峡ローレライ
大雪国道(国道 39号)は、旭川市街を起点に温泉地として人気の層雲峡を抜け北見市へ至ります。層雲峡では駐車場や道路が台風の被害をうけ、紅葉シーズンに向け復旧が急がれています。
マンハッタンのコロンバス・サークル(セントラルパーク南西端とブロードウェイが接するウェスト 丁目角)には、今話題の大統領候補ドナルド・トランプが経営する金ピカ高級ホテルがある。部屋は一泊 万円からとか。その斜め向かいのビルの地下に、マンハッタンだけで 店舗もある自然食品スーパー「ホール・フーズ」(Whole Foods Market)の大きな店がある。
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1980年テキサス州オースティンで創業されたこの会社は、次々と自然食品系の企業の吸収合併を重ね、今では全米 435店舗、
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カナダ 店舗、英国 9店舗という、世界でも有数の自然食品小売グ
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ループへと成長している。私が初めてこの店に出会ったのは、今から十数年前、オクラホマ州タルサ(人口 万)の店だった。
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その時の印象は強烈。駐車場には、ベントレー、メルセデス、ポルシェ、 BMW、レクサスといった5940外国製の高級車が点在。東京都心やロンドンならいざしらず、アメリカ中西部のショッピングモールの駐車場で、こんな光景はまず見られない。次いで店の広大さと、それを反映する商品の豊富さ、商品構成の水準の高さ。その一方で、一般的な食品スーパーに比べて、価格は平均 倍超という高さ。最も驚かされたのが、その客層だ。見るからに豊かで洗練されたマダムという感じの女性が中心で、肥満が少ない。肌は健康的に日焼けし、微笑めば真っ白な歯がのぞき、髪も見事に手入れが行き届き、何気ないスポーツ・ウェアで靴までオシャレ。アッパーミドルクラスが姿形となって目の前を歩いている。肥満家族揃って週末のウォルマート、フード・スタンプ頼りの買物が楽しみ。そんな人達がこの店に来ることは絶対にない、と思った。
アメリカの地方都市で恐ろしいのは、何人か集まっている人々を見ると、ほぼひと目で、その集団がどの程度の階層に属する人たちか推定できてしまうこと。それくらい人間集団の雰囲気の違いが、はっきりしている。アッパーミドル階層以上は、一定の区域に居住する場合が多く、地方都市で数少ない高級店を中心にふだんの買物をして回り、一定のレストランで外食する。同じカントリー・クラブに所属し、ギャラリーでアートを購入し、チャリティー活動に力を入れ、美術館や劇場の催しをバックアップする労を厭わない。アメリカの地方都市では、そんな上流からミドルクラスまでの人々が、ホール・フーズのメインの顧客となっている。
私はこの店の大ファンで、タルサや NYCやケンジントン(ロンドン)と同じような水準の支店が、東京に出来てほしいと思っている。だが、このホール・フーズが、リーマン・ショック後も全米で店舗数を伸ばし続けているという点には、いささか複雑な思いがある。格安を売り物とするウォルマートと比べるならば、野菜・果物・肉いずれも、質の違いを無視すれば、同類の食品で価格差は平均で 3倍、ものによっては5倍に至る。我が国でも同じだが、オーガニックを徹底して丁寧に育てられた食品は、手間に応じて高価にならざるを得ない。また、この店には、世界各地から輸入された高級食材も珍しくない。フード・スタンプを受給する生活困窮者が爆発的に増加している一方で、高級自然食品のホール・フーズが着実に店舗数を伸ばしているという現実。米国で社会階層が、貧富両極端に分裂し続けていることを象徴している、というほかはない。
問題は貧富の差が、生活文化のあらゆる面に及んでいること。オクラホマとテキサスで私は、上流の住宅に招かれて食事を共にする機会が何度かあった。住宅のインテリアはもちろん、態度物腰、食事のマナー、会話のエレガントさ等々、その洗練ぶりは驚くばかり。百年前まで西部劇をやっていた人たちの子孫で、石油成金。多分「荒っぽいお金持ち」に違いないと想像していた私の先入観は、木っ端微塵に吹き飛んでしまった。確かに初代は、荒っぽい西部劇だったろう。だが、すでに金持ちも代を重ねて 3〜4代目。子女のパリ留学とか、そんなの当たり前。気取ることなく洗練されていて、欧州に残存する名ばかり貴族よりも貴族的な雰囲気の夫人にもお会いした。その一方で、フード・スタンプ 3代目という家族の増加。同じ地域に、かけ離れた別の社会が併存していて、その両者が交わることは、めったにない。大統領選のレースを降りた民主党サンダース上院議員の支持者たちが激しく訴えているのが、米国社会におけるこの「階層間の格差拡大と固定化」=「貧困の固定化」という問題であることは、皆様よく御存知の通り。実際アメリカの地方都市では、その格差があまりにも画然とし過ぎている。
そして、もう一つ。 2008年のリーマン・ショック後の、下層ミドルクラスの没落、という問題。広い芝生の前庭を備えた住宅で、それなりの水準の暮らしを営んでいた人々。これが一気に職を失い、暮らしを維持できなくなって、フード・スタンプ組へと没落。雇用関係がドライな米国に生まれた、白人層を中心とする「近年没落組」。彼らは政治への不満が一杯だ。トランプの過激な演説は、その鬱屈した心にダイレクトに訴える内容が少なくない。この白い「近年没落組」こそが、ドナルド・トランプの最もコアな支持者である、という見方があって、その通りではないかと思う。 NYCのコロンバス・サークルは、アメリカ社会の現在を象徴している。
北見の玉ねぎ畑
黒いオホーツク
オホーツク海を望む、トウフツ湖小清水原生花園周辺。釧網線からの眺め。石北線で旭川から北見を通り、網走へ。そして網走から釧網線に乗り換え、更科源蔵の故郷、弟子屈町へ向かいました。釧網線は網走から斜里町まで、オホーツクの海沿いを走ります。
左手に斜里岳が見えはじめると弟子屈はもうすぐです。旭川からおよそ300kmの旅でした。
第29回内田 和子
つれづれなるままに父の本棚と虫眼鏡
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月に数回、実家に風を入れに帰る。いずれ片付けをし
上続いている。
本が好きだった父は、
歳で亡くなるまで、本を枕元
に置いていた。気がつくと、メガネをかけたまま寝ていることが多かったが、それでも本のページは開いていた。
寝込む半年前までは、お気に入りのソファーに座り、大きな図鑑に虫眼鏡を当てて覗き込んでいた。歴史物が好きだった父の本棚には、司馬遼太郎、吉川英治、吉村昭、綱淵謙錠など、昭和時代に活躍した作家の本がずらりと並んでいる。 NHK(昭和
大河ドラマの第一作「花の生涯」
年放送)が始まった時は、家族みんなでテレビの前に鎮
座して見たのを覚えている。井伊大老が雪の降りしきる桜
田門で暗殺され、節句飾りの前で淡島千景の村山たかが知らせを聞くシーンで終わりとなったが、まだテレビは白黒時代。血の色はないが、尾上松緑の思慮深い重厚な井伊直弼が、強く印象に残っている。当時まだ中学生だった私は合点がいかず、なぜこんな人が殺されなければならなかったのか、その後どうなったかなど、見終わったテレビの前で父に矢つぎ早に聞
いた。父はまるでそこに居合わせていたかのように、幕末の動乱時代の中で起きた出来事を話してくれた。
大河ドラマは、日曜日の夜に父と話しのできる楽しい時間になっていた。時代考察が雑なものは、「この時代にこんな人物はいない。こんな所作はない」と怒り、そういう番組は二度見ようとしなかった。私たちは、それはそれとして人気俳優が出ていれば歴史を多少逸脱していても、お構いなしになっていたが、明治生まれの頑固者の父には到底我慢ならないことだったのかもしれない。今になれば、その憤慨ぶりは理解できる。
数少ない家族旅行では、どこを歩いてもその地の歴史人物や歴史講釈があり、それを聞くのはとても面白かった。父の本棚には、そんな記憶を思い出す本がたくさん並
んでいる。
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なければならないと思いながら、そのままの状態が 年以
つれづれなるままに父の本棚と虫眼鏡
父が亡くなってから本棚を移動するため一度だけ全部の本を手に取った。いつか時間がとれたら読んでみたいと思いながら、そのままに収めた。収まらなかった本は背表紙が見えるように積んだが、時々地震で崩れ落ちた。本を大事にしていた父は、本に折り目をつけたり印をつけたりすることはなかったが、経年劣化はやむをえない。背表紙は破れ黒ずんでいる。読まないうちに処分かなぁと思いながらハタキをかけ、 2〜3冊本棚から引き出した。どれも紙がザラザラで文字が小さい。ページは丁寧に開かないと剥がれそう。よくこんな小さな文字を読んでいたと感心する。けっして寝ながら読める状態ではない。
最初は紙質や文字の小ささに閉口したが、ページをめくっていくと父がのめり込むように読んだその本が、息を吹き返すように、ちゃんと読めてくる。不思議である。今、3冊目を読み始めている。
本棚の本を全部読むには、このペースでは何十年とかかりそうだが、虫眼鏡で覗き込んでいた図鑑や辞典も一度はページを開いてみようと思う。虫むがねは、じきに私の必需品になるかもしれない。磨いて大事にしよう。
父が大事にしていたものがもう一つある。双眼鏡である。ジ・アルフィーのコンサートや歌舞伎を見るとき、あればいいなぁと思うことがしばしあった。父の双眼鏡を思い出して、ケースから取り出した。いつも
きちんと手入れをしていたので、表向きは綺麗だが、取り出して手にした時、ボロボロとレンズケースや取っ手の表面が剥がれ落ちた。これはいけません。「お父さん、これは捨てますよ」と言って苦笑しながら処分した。
こんな調子では、なかなか片付かないのを承知で、夏の間は草むしり、秋になったら断捨離と思いながら、押入れから出てくる年代ものはひょっとしてお宝ではないかと ……そんなことあるわけないのに、片付け延期の言い訳にしている。自分のものも未だ右から左、横を縦にしているだけで紐をくくることが大義になっている。
棚上げにしていた断捨離を始めるその前に、父の本棚に風を入れながら読書の秋をすごすのも一考かもしれない。本を片手に紅葉と味覚を楽しむ季節はもうそこまで来ている。片付けはやっぱり後回しになりそうである。
熊牛原野
更科源三は明治 37年(1904)、弟子屈町の熊牛原野に、9人兄弟の末子として生まれました。父・更科治朗氏は、弟子屈町の主産業である酪農の草分けとして町史に名を残しています。更科治郎は安政 5年(1858)新潟県燕市に生まれます。北海道で鉄道技師をつとめる伯父を頼って、友人と 2人で新潟港から函館行きの船に乗り、明治18年に札幌郊外に入植しました。妻や子を呼び寄せたのち、安田善次郎による鉄道敷設計画に参加した伯父のすすめでこの地に移住し、家族で原野を切り拓きました。じゃがいもや野菜がよく収穫でき、安田善次郎の経営する硫黄鉱山事務所が沢山買い取ってくれたが、やがて鉱山が閉鎖されると熊牛原野に入植した 5、6戸の農家だけが取り残されてしまったと、更科源蔵は自伝的エッセイ集『原野』(法政大学出版局)で語っています。広大な牧場は映画「君の名は」(1953年)のロケ地にもなったそうです。今も)草地として利用されています。
更科源蔵の甥にあたる更科克哉さんに、生家があった場所を案内して頂きました。克哉さんも高校生までここで育ち、酪農の手伝いをしたそうです。札幌の大学でロシア語を学んだのちに木材商社へ入社。今は独立してロシアから家具材を輸入する仕事をされています。生家は釧網線沿いにあり「更科踏切」を渡って敷地に入ります。
網走と釧路を結び釧網線の「南弟子屈駅」。釧網線は硫黄鉱山のため安田善次郎によって敷設された釧路鉄道(明治 20年開業)をルーツにもち、路盤の一部を転用しています。取材日(8月15日)に台風の影響で不通となりましたが、現在は復旧しています。
工房楽記コレカラは、地域モダンの時代鈴木 惠三(BC工房 主人)
この頃のコラージはスゴイ ?日本各地のモノづくりの現場取材がスゴイ。地域のモノづくりこそが工芸だ。小規模なモノづくりこそが工芸だ。オイラは、地域性は宝。小規模が宝。などと思っているのだ。
「コレカラは、地域モダンの時代だ。」
日本の地域の産業、工芸、民芸を知っているようで知らない自分がある。柳宗悦さんが「工芸の道」を描いているように、コラージの編集長テツヤは、視覚で掘り下げている。
現代の「工芸の道」のようなコラージだ。もっと、もっと、皆が忘れている、知らない、日本各地の工芸を伝えてほしい。古い工芸も良し、新しい工芸も良し。今、編集長テツヤしか、これは出来ないテーマだ。
先日、コラージのもうすぐ
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周年記念の集まりがあった。
コラージのサポーター
人ほどが、
み会である。フレンドリーな楽しい場が、スグ生まれる。これもテツヤの人柄だろう。
実は、コラージが生まれた
年前、
オイラは、編集長テツヤを叱ったことがある。
「中途半端な記事ばかりを羅列する雑誌の延長をやるな。
テーマをハッキリさせろ。」などと、いつものクセで、言いたいコトを言った。テツヤは顔を赤くして、反論してきた。
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年に
回集まる飲
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が、その場はお互いの主張をぶつけ合って、納得し合った。良き想い出である。
最近のコラージの地域への突っ込み取材は、なかなかいい。相当のレベルだ。
年前、ひどいコトバで叱責した自分が恥ずかしくなる。
テツヤがやりたかった中味は、こういうことだったのだ。
「コラージ」の読み手が
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万人を超えたそうだが、
もっと、もっと輪を拡げてほしい。もっと、もっと出しゃばって、発言してほしい。
「テツヤのコラム」を、しっかり作り、語れ。故山本夏彦さんのように「カラクチのテツヤ・コラム」で発信してほしい。日本の地域工芸にスポットをあてるのは、
「コラージ」の役目だ !編集長テツヤの役目だ !「コラージ」というメディアを作り、納得のいく中味に育てるのに10年。
時間はかかるもんだ。オイラもトシをとるもんだ。どころで、オイラは今、JAWA小さな床屋で散髪中。の工房暮らし。
安田善次郎と硫黄山今日も煙を吹き上げる「硫黄山」(アトサヌプリ)は、明治から続く名湯「川湯温泉」の源泉となっています。
硫黄山の開発は明治のはじめに始まり、安田財閥の祖である安田善次郎が明治 20年(1887)に採掘権を譲り受けます。鉱山労働者には囚人が駆り出され、硫黄ガスの噴出するなか過酷な採掘作業が行われました。7カ月の突貫工事で標茶の精錬場までを結ぶ釧路鉄道が敷かれ、小さな漁村だった釧路は硫黄の輸出港として発展しました。火薬の原料となる硫黄は重要な輸出産品で、その富が安田財閥の基盤を築いたといわれています。
▲ 詩人としてのデビューを果たした「抒情詩」の新人推薦特集号。
▼ 大正11年18歳の時に弟子屈の友人達と刊行した詩誌「リリー」。
大正 10年、17歳の更科源蔵は東京にでて麻布獣医畜産学校に入学しますが、関東大震災や結核の影響で弟子屈に戻ります。地元の仲間と詩集を出すなどしながら、東京で知り合った白樺派の詩人・尾崎喜八に詩作を送り続け、大正14年全国誌『抒情詩』の新人選に入選します。尾崎の紹介で高村光太郎夫妻や草野心平などと知り合い東京とのつながりをもった 20代の源蔵は抒情詩で知り合った伊藤整や真壁仁と共に『港街』『至上律』『北緯五十度』など詩誌の編集にはげみ、26歳で第一詩集『種薯』を刊行しました。
▼愛用の「ルパシカ」。戦前、友人からもらったルパシカを着ていた所、特高に尾行されたこともあったそうです。
更科源蔵の手による彫刻や年賀状の版画。
戦後、北海道立図書館およびNHK札幌中央放送局嘱託となった更科源蔵は、研究者とともに各地のコタンを精力的に歩き聞き取り調査を行います。その成果は記録映画「熊祭」シナリオや『アイヌの楽器』、『アイヌ語地名解』、『アイヌの神話』『アイヌと日本人』などの著作となりアイヌ文化を分かりやすく伝えました。また弟子屈などの町史、市史や各地の校歌を手がけ、81歳で亡くなる直前まで「開拓」をテーマにした作品を書き続けました。
ドラゴンシリーズ 28お客様は神様ですか ?吉田龍太郎( TIME & STYLE )
ドラゴン怒りの鉄拳
朝一番、ベッドから起き上がると黒猫のモモから僕に対し「ギャ..」とダミ声で言葉を掛けられるのが、毎朝の日課となっている。モモは今16歳でドイツから12年前に日本にやって来た。と言うよりもドイツの家で悪さを繰り返して行き場が無くなり、息子にクリスマスプレゼントした親父の購入者責任として、プレゼントした僕に返品されて日本までやって来たと言う悲しい物語があるのだ。生まれて直ぐに飼い主から引き取ったモモは子猫の頃から「ギャ..」と言うダミ声で話す黒猫で、人間で言えば歌いすぎて、声のしわがれた小林旭の渋い声なのである。スリスリして「ミャ.ン」となく可愛い猫のイメージとは大違いなのだ。朝、ベッドから起き上がると、部屋から出て廊下を歩き洗面に向かおうとするが、モモは僕に前を歩かせない。日本のヤクザと一緒なのだ。子分に前を歩かせない。彼は必ず僕の前で背中を見せながら歩き、必ず同じ場所で振り返り、僕の顔を覗き込む。僕がいつものようにしっかり彼の後ろを付いてきているかを確かめる。その度に、必ず、その「ギャ..」と言うダミ声で「よ.し、ちゃんと付いてきているか、子分 !」と声を掛ける。背中を見せながら、僕の前を歩くモモの後ろ姿が、いかにもヤクザの親分の歩き方とそっくりで、スリットのタッカーの入ったダボパンツに両手を突っ込みながら左右に体を揺すりながら、子分を大勢引き連れて夜のクラブに消えてゆく姿、そのものなのだ。モモはクラブには行かないが、毎朝、彼の食堂である場所まで僕を先導する。その間、彼は僕の前を威張って歩きながら4回必ず振り向いて「オイお前、ちゃんとしろ。」とか「お前、朝は気合入れてビシッとせんかい !」とお言葉をいただいている。そして、モモが満足して食事が終わるまでの間、ずっとなぜか僕が彼の背中を撫で続けているのだ。その間はモモから目を逸らしてはならない。一口食べる度に、顔を上げて僕がちゃんとモモに集中して目を離さずに背中を撫でているかをチェックする。そして、その度に「オ
イ、お前、今集中して無かっただろう、気合入れんかい !」とお食事の間は親分から気を逸らしてはならないのだ。そしてモモは食物にうるさい。僕が海外に出張する度にパスポートや財布や携帯は忘れても、絶対に忘れないものがモモの大好物のEUで売っている猫のお食事なのだ。好みにもうるさいので、色々な種類を用意して必ず僕の帰りのスーツケースの半分位のスペースをモモの食事が占めている。そんな
年間で沢山のことを教えてもらった。 21モモに、この
息子との絆を作ってくれたのも、家族のつながりを意識するようになったのもモモの存在が大きくて、何が愛情なのかと言うことや、命には限りがあることも、苦しい時に感じ取って寄り添ってくれた愛情表現も、彼が存在してくれることで、沢山のことを与えてくれた。だからモモが親分、僕は子分。
世の中が不景気なのもあると思いますが、日本も世界もおかしな出来事が多くなっていますね。安倍政権の支持率が6割近くになってきていることも、日本人が右曲化しているのか、判断力が失われているのかもしれません。私達も最近は海外との取引が増えてきて、世界の様々な国の人々との接点が多くなればなるほど、日本人の考え方や本質的な人間性としての孤立化と危険性を強く感じるようになっています。日本は島国なので、他国との接点が極端に少ない民族だと思います。それが幸いしたのは、偶然にも日本人独自の文化を形成する環境に恵まれたことで、独自の文化が継承されてきたことかも知れません。それがこれから、日本が世界の中で希少価値を持つことの根拠にもなっていると思います。しかし、裏を返せば日本人は独善的で、世界の状況や他国のことをあまりにも知らなすぎるが故に、自国の問題に対して客観的な視点を持って自分たち日本人、日本という国を知ることもできていないと強く感じています。日本では様々な場所で災害が起こり、多くの人々がそこから立ち上がろうと頑張っていますが、喉元過ぎれば、その方達やその場所のことも直ぐに忘れ去ってしまい、自分のことや身のまわりの家族のことだけしか興味を示さない。まさに世界の中での日本の縮図が、日本人個人の縮図となっています。日本には、「お客様は神様です。」という言葉が今でもお店やお客様の常套句として、考え方として日本人の心の奥底にまで沁みこんでいると強く感じます。それは、日本が誇るお客様への心と形の在り方である「おもてなしの精神」とは、全く別物です。誰が言い出したのか無責任な言葉が「お客様は神様です。」の裏にあり、ある意味お客様を蔑んだ言葉でもあると感じます。このような大切なことが形式的かつ表面的に横行することで社会の意識が形成され、勘違いしたお客様も存在して行きます。ゼネコンや大手住宅メーカーなどと仕事をしていると、下請けに対する不遜な言葉や振る舞いが日常的に横行しています。「人々に豊かな生活を提供する」とか素敵なキャチフレーズを掲げながら、おこないは奴隷を扱うかのようです。お客様の中にも同じように横暴な要求があったりしますが、その方々は逆を返せば自分のまわりの環境に恵まれなかった悲しい人々であり、寂しい企業なのだと思います。そのような日本人の心の奥底に染み込んでしまっている自己閉鎖的で身勝手な「お客様は神様です。」という偏屈な媚びた考え方を捨て去り、本当にお客様に納得してもらえるサービスや製品を、その対価に見合うものとして、自信と誇りと謙虚さを持って堂々と提供するべきです。企業取引でも個人のお客様でも、不当な要求や強権的な手段には断じて屈してはならないのです。
これから日本はもっと世界で認められてゆくと思います。しかし同時に、その自我の欠如と他国や世界に対しての無知は世界から軽蔑されることになるでしょう。まさに、現在の日本が置かれた世界の中での立場がそうだと思います。本来ならば唯一の被爆国として、武力に依存しない世界へ変えられる立場にありながら、強国の属国のように過去の遺産と経験を忘れ、価値観と立場をすり替え、国民を甘い言葉で騙そうとしている気がします。米国では毎日20人以上の帰還兵が自らの命を自国に戻りながら絶っています。先の大戦では8000万人以上の人々が死に、日本全体でも350万人以上の人々が亡くなりました。アウシュビッツだけで400万人のユダヤ人が殺されました。日本は後戻りできない所まで、安倍政権が戦争への駒を進めてしまいました。これから私たち日本人一人一人に問われていくのは、世界のなかでの見識と人間としての心の在り方だと思います。
お客様は神様ではありません。お客様は大切なお客様であり同じ人間です。私たちができる最高の製品やサービスに価値を見出していただき、人間として、企業としての価値を相互に尊重したつながりがお客様との信頼関係、お取引先との本物の継続的な関係となり、育ててゆくものだと思います。
何を大切にして生きて行くか? という価値観が問われているのが今の日本ではないかと思います。広く様々な人々や民族が生きているゆえに素晴らしいのが世界であり、地球です。今しかできないことが沢山ありますね。大切にするべきことを堂々と声にして行きましょう。人生は繰り返しません、一度限りです。
屈斜路コタンの湖
▼ 周遊バスの起点のひとつ「川湯温泉駅」。
屈斜路湖畔の「アイヌ民俗資料館」は、建築家・毛綱毅曠氏(釧路市出身)の設計です。ここには古くからのアイヌコタンがあり、昭和 5年 26歳の更科源蔵は、屈斜路尋常小学校の代用教員となり、アイヌの子どもたちを教えながら古老からアイヌの伝統や知識を学んでいきます。
その偶然に出くわしたのは、お昼時のことだった。ケン太とかすみの 2人は、マンションの踊り場側から食事に出ようとした時、わずかな時間差で東注建設の 所長と営業の 氏が目の前を通り過ぎた。「出掛ける方向が同じだわ ……」。2人の行く先を目で追うかすみ。衝撃が走った。今まさに私たちが入ろうとしている馴染みの
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蕎麦屋さんの真向かいのビルへ入ったかと思いきや、窓側に彼らの姿を確認してしまったのです。近隣住民には仮事務所の場所を知らされたいなかった訳で ……。お隣の工事の時は仮事務所の場所は周知されていましたから、あまりの違いに唖然とするばかり。東注建設の隠蔽体質、隠蔽工作は常に存在したので、こちらも気が抜けないのであります。
例えば騒音計データの開示を求めた場合、大変な労力を要します。というのも東注側はデータのコピーを渡し
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てくれませんから、細かくて見づらいデータの数値を写しとらなければなりません。何度も何十回もコピーの提出を求めましたが駄目でした。ですが、回を重ねるごとデータを見続けていたら自然と見えてくるものがありましたし、その経験は無駄にならなかったようで、東注建設の自社データを確認するため、協働推進課をとおし港区環境課も動いてくれるようになり、データの検証作業もやってみました。現場の数値、役所の数値、管理組合の数値、いずれも三者三様、どれが正しいともいえない曖昧模糊とする結果となったものの大事なのは結果ではなく、その過程であったように思っています。
観光シーズンの 6〜 8月、半数以上も霧で覆われる摩周湖は、この日もその姿を見せてくれませんでした。