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プライバシーポリシー
10月号 秋鮭 2016
アイヌモシリ
http://collaj.jp/
時空を超える美意識
静かなる大地へ
石狩平野の北端に位置する深川市は、明治 20年代から稲作に挑戦し、北海道一の稲作地帯に発展しました。今は米から蕎麦への転作が進み、道内 2位の産地となっています。明治 31年開業の深川駅は函館線、留萌線、深名線(平成 7年廃止)のターミナル駅で、道央(札幌)と道北(旭川)、留萌を結ぶ交通の要衝となっていました。深川駅で留萌本線に乗り換えます。石狩平野から山間部を登り、峠下駅をすぎると、ニシン漁と炭鉱で栄えた留萌はもうすぐです。
峠下駅の周辺には数年前まで数件の農家があったそうです。駅前には小川と庭だけが残されていました。JR北海道は来春のダイヤ改正をめどに、峠下駅を含む 46駅の廃止を検討しています。
留萌本線 留萌駅〜増毛駅の海沿い区間は、12月 5日に廃止されることが決まりました。車窓からの日本海の景色も、今年限りで見納めです。列車には沢山の鉄道ファンが乗っていました。かつてニシン漁で栄えた砂浜は、夏場、海水浴&キャンプ場「ゴールデンビーチ」として賑わいます。道北で海水浴といえば留萌。日本海で泳ぐ気分は一味ちがいます。
第30回内田 和子
つれづれなるままに実りの秋
秋深し …………
急な冷え込みで衣替えが追いつかず、夏服を重ね着しながらクシャミを連発。
ようやく、秋物を出すがサイズが合わない。毎年のことだが、前年に買ったものがすんなり着られたためしはない。夏バテしないようにしっかり食べていたのが、消費されずにそのままキープされている。
ヤバイ !と思うが、時はすでに秋 ……そう、美味しい
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ものがたくさん並ぶ秋である。新そば、新栗、新米と今年の実りが出揃い、柿、みかん、りんご、ぶどうも色鮮やかに店先を彩っている。そしてなにより、喉越しがいいと試飲を勧
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められる、お酒や焼酎も勢ぞろい。サイズ違いはひとまず横に置いて、やっぱり秋は美味しいものを食べるに限る。
月初め、一般公開となった迎賓館に、友人 9名が集まった。予定していた日にちに急遽、来賓があるとのことで日延べになったが、素晴らしい秋晴れに、日延べを感謝。当日入場者の長い列を横目に、葵の御紋のように優先権の予約票をかざしながら、 VIP入場。イヤホンをつ
けて説明を聞き、壁や天井の装飾にうっとりしながら 1時間
ほどゆっくりと見学。最初は貴婦人のように、おしゃれをし
ていこうと皆で決めていたが、中庭の砂利道は、ヒールでは
歩けないことがわかり、ちょっとだけのオシャレとなったが、
予約していた銀座のレストランでは、スパークリングワイン
の乾杯で始まり、秋野菜のオードブル、スープ、メイン料理
を選び、デザートとコーヒーと、ちょっぴりオシャレが映え
ていた。秋の迎賓館と秋の食事を満喫したあとは、日本橋、
室町まで元気に歩き、甘味処でひと休み。その日の万歩計は
14000歩。久しぶりの数字である。元気の源は、やっ
ぱり食べることかもしれない。
2年前知り合った 歳の方は、同じ病気にかかったとは思えないほど、タフな方である。前にも書いたが、この方の元気な秘訣は、「美味しいものを食べること」。聞いてはいたが、
つれづれなるままに実りの秋
2〜3か月に 1度ご一緒する食事会での食べっぷりには、ただただ感服。毎回私の食べたいものを聞いてくださるが、セットはすべておまかせである。
銀座、日本橋、芝、汐留とどこも私にとっては初めての場所であるが、どこも素晴らしいお味で、おしゃべりも尽きない。お気に入りのレストランは和洋中すべて揃っていて、懐具合でチョイスは自由自在とのこと。年の功とはいえ、この舌の肥え方と美味しいものを手繰り寄せる嗅覚は、一朝一夕ではないはずと思うが、食べた分の行動も並ではない。特別の運動をするわけではないが、散歩を日課に必ず外に出るという。ボケ防止には歩くこと。喋ること。と、パソコンお絵描き教室に通い、絵葉書を作っている。雨が降れば、何もしなくていいと言いきかせ、ぐうたらを決め込んでいる私にはいささか耳が痛い。
健康の秘訣に、朝のスムージィがあると教えてくださった。野菜の
洗い方、切り方、保存の仕方とご自身でやっているまま、「どうってことないのよ」と、いとも簡単に言う。作ってみたらこれがいい。生野菜を食べるのではなく飲む。毎日続けることが大事であるが、これでサイズダウンできたらすごく嬉しい。
秋といえば、土瓶蒸し。神田にある蕎麦屋のおやじさんは、ちょっと気難しい。いい品物が入らなければ、メニューから外す。しかし、ここの土瓶蒸しは秋の逸品もの。予約をしておかないと口に入らない。その日は、たまたま無類の酒好きが集まり繰
り出した。とにかく土瓶蒸しだけは確保しようと電話をすると、今日
の松茸は何処何処の(産地をきちんと聞いていなかったが、)松茸で、
ものすごく高いけど、いいの ?と聞く。いえいえ、その土瓶蒸しが
食べたくて行くのだから、金に糸目はつけないとまでは言わないが、
こちとらも江戸っ子。そこは、「いい。ちゃんとお金は払うから」と、
人数分の土瓶蒸しを確保した。これで安心。あとは各地の日本酒を飲
み比べ、呵々大笑しながら、酒に合うつまみを食べながら、また飲む。
待望の土瓶蒸しに舌をならし、締めのざるそばで、おひらきとなる。
何とも至福の時ではないか。
秋はやっぱりいい。
こんな美味しいものが揃う秋に、体調崩しはもったいない。
衣替えをしっかりと布団も厚手に変えて、まだまだこれから、秋の
味覚を楽しみたい。 歳の先輩友人にあやかって、美味しいものを手繰り寄せる嗅覚を鍛えられればと思っている。
列車は留萌本線の終着駅、増毛駅に到着しました。廃止間近ということもあり、駅の周りに人集りが……
増毛駅周辺は高倉健さん主演『 駅 STATION 』のロケ地としても有名です。劇中で烏丸せつこさんが働く駅前の「風待食堂」(旧多田商店)は観光案内所を兼ねた資料室になっています。
昭和 7年に建てられた駅前旅館「増毛館」は、ドミトリー形式のゲストハウス「ぼちぼちいこか増毛舘」として活躍中。自転車やバイクで北海道を巡る旅人に人気です。隣接するcafe海猿舎では、暑寒別岳の伏流水で淹れたネルドリップのコーヒーやケーキを楽しめます。ニシン漁の盛んな頃、町は全国から集った多くの商人でにぎわい、洒落た洋風のモチーフが町のあちこちで見られます。7月頃まで雪ののこる暑寒別岳(しょかんべつだけ)。豊かな伏流水や温暖な気候を利用して、増毛ではリンゴやサクランボ、洋梨、ブドウなど果樹栽培が盛んです。海の近くに建つ「千石蔵」は、大正時代に港から移築され鰊粕の保管庫として使われてきたそうです。現在はカフェやニシン漁の資料館として活用されています。展示されている鰊船(保津船)はの船大工畑中義一郎が昭和25年頃建造したもので、数回しか使用されていないため、鰊舟特有の化粧板の彩色が鮮やかに残っています。大屋根を支える木造のトラス構造。外壁を石積みにして内部を木造で組み上げた「木骨石造」は防火性や食糧の保存性が高く北海道の倉庫建築によく見られます。木材には鰊粕のかおりが染み付いていました。起し船と呼ばれた巨大な和船を、漁師たちは手漕ぎで操りました。定置網にかかったニシンを起し船で海中から引き上げ、汲み船に移し替えて港に運びました。江戸時代から続いたニシン漁は 3〜 5月のわずか数カ月が漁期で、石狩挽歌にうたわれた季節労働者「やん衆」に支えられていました。昭和 30年代の不漁によりニシン漁は衰退します。
「石狩挽歌」なかにし礼作詞・浜圭介作曲/昭和 50年
ようやっとこの秋、竣工を迎える向かいのマンションからは、相も変わらず朝な夕なに建物の奥から手直しらしき騒音が漏れ響く。この調子だと入居後もしばらくは改修の日々が続きそうである。
さて、お隣の時からの工事関連問題渦巻いた6年にわたる紛争が、ふたたび一応の決着を見たとのこと。前回同様、相手方のプロジェクトとこちらの管理組合サイドが収まる形で納得し合ったらしい。
ケン太とかすみの二人は、個人で賃借人という立場で、出来うる限り向き合ってきたつもり。後悔はない。
かかわったことで例えようのないエネルギーを使い果たしクタクタになったけれど、やはり全てが無駄ではなかったと思えるのだ。
ことの経緯を知らずにすめば、身体も心ももっと楽だったのだろうかと考えてみた。が、もし、そんな風にやり過ごし、自分の気持を誤魔化していたら、それこそ身体と精神にもっともっと害が及んでいたのではないか ……という気がしてならぬ。
だからって、大きな組織や企業のなかで生き抜くって、そのことだけでも大変なんですよね。
移りゆく時代の中で巡り合った苦悩がとけてゆくま
で、どれくらいの時間がかかる
んだろう。
これからは自分の中に刻み込
んだ記憶とともに、その答えを
問い続けるでしょう。
留萌本線をテーマにしたオリジナル Tシャツ。
地元密着のパン屋さん「SKANPIN」。札幌から増毛町に移住したオーナーは、パン職人の奥さんと共に町の人に応援されながら10年以上にわたり手作りのパンづくりを続けています。町の行事にも積極的に参加して、助け助けられの関係を大切にしているそうです。cafe海猿舎のケーキや増毛産の果物を使ったデニッシュも作っています。
漁具の修繕に欠かせない鉄工場。町は様々な職人に支えられています。
工房楽 コスモポリタン 寅さん記鈴木 惠三(BC工房 主人)
「世界中、日本中、ふらふら自由に旅する。」が、夢。寅さんみたいである。なんだけど、そうはカンタンに夢は実現しない。ここんとこは、インドネシアと日本の行ったり来たりだけだ。年100日ぐらいは、ジャワの工房暮らしだ。行ったり来たりの中継地をシンガポールにしている。ご存じの通り、シンガポールはアジアと欧米のMIX都市国家だ。インターナショナルなダイバーシティ。世界中を感じさせてくれる。ホテルのプールサイドでのんびりしていると、人種の多さに驚かされる。
今回滞在したホテルの前の工事中の建物は、伊東豊雄さん設計だ。オイラの寸評では、「しなやかな繊細さ」で世界一のビル設計である。シンガポールで、いつも感じるMIX文化。オイラは、文化のMIXこそがこれからの世界だ!なんて思ってしまっている。
今回の新作デザイン椅子は、「アルハンブラチェア」キリスト文化とイスラム文化の融合。ヨーロッパとアラブの融合、そしてアジア、日本との融合などと、勝手気ままにチャンプールMIX。こんなデザインの椅子を日本のお宿に提案するんだから、驚かせてあたりまえ。
認めてもらうには、5年、
年かかるのを覚悟している。
が、時々、「とんでもない」を喜んでもらえるお客さんに出逢うと幸せだ。
ひとクチに和食と言えない料理レストラン「傳」の長谷川さんも、
そのひとり。
青山のフレンチレストラン「ル・ゴロワ」の大塚さんご夫妻が、
富良野に移住してしまうので、そのあとに入るのが「傳」である。
「傳」の和食は、インターナショナルそのものだ。「食べる」とは?楽しさ。驚き。好奇心。食欲の欲を変えてしまう料理だ。
「傳」のインテリアのオブジェアートのようなモノづくりをさせてもらっている。長谷川さんから要望の神ダナを作った。
「ほこら」の中の「食の神」をイメージした。お叱り覚悟の勝手なモノづくり。先日、スタッフ皆で、ふじの工房に来てくださり、喜んでくれた。喜んで、ほめてもらう。図にのって、木に登る。登ると、また次が見える。コラボレーションとは?文化の融合とは?
を、感じながらのモノづくりは幸せである。
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丸一本間家ニシン漁で隆盛をきわめた町の歴史を伝える「旧商家丸一本間家」。毎年4月中頃から11月初めまで公開されています。
天塩國一の豪商といわれた丸一本間家。佐渡出身の初代・本間泰蔵は、小樽の丸一松井から独立して明治 8年、増毛に荒物・雑貨店をひらきます。明治 13年の大火で店を消失したのをきっかけに敷地をひろげ、防火性の高い木骨石造の建物郡を 20年近い月日をかけて建造しました。正面の建物 1階は呉服店で、江戸時代から続く広い畳敷きの店舗様式を今に伝えています。丸一本間家の家業はニシン漁の網元や海運業、醸造業などに広がり、それに合わせ蔵や醸造所が建てられて行きました。入り口から続く通り庭の右手には呉服蔵。左手には居室が並んでいます。居室は呉服店に続き増築されていきました。通り庭の床は軟石。柱はエンジュ、床板はカバ、敷台には春慶塗が施されています。居室は『 駅 STATION 』のロケにも使われました。
住居の中心には明るい中庭が設えられ、部屋に日差しを導いています。
防火のため石塀で囲まれた中庭。庭に面した部分には洋風のモチーフも見られます。日本点字図書館(東京・高田馬場)の創立者である本間一夫氏は、大正 4年にこの家で生まれ、5歳のころ脳膜炎により失明しました。ここで沢山の物語を読み聞かされたことが、点字図書を制作、貸出しする活動のルーツになったといわれています。増毛から西に向かう海岸線は、険しい断崖が続きます。なかでも「雄冬」は、冬場は陸路の閉ざされる陸の孤島として知られていました。『駅 STATION』の劇中でも、増毛から連絡船に乗って雄冬に向かう高倉健さんの姿が描かれています。
IFFT/インテリア ライフスタイル リビング 2016年11月7日(月)〜 9日(水)
10:00〜18:00 (最終日は17:00 まで)東京ビッグサイト 東 4・5・6ホール
11月 7日から 3日間開催。
IFFT/インテリアライフスタイルリビングの記者発表が、東京市ヶ谷のレストランJAM ORCHESTRA で開かれました。会期は 2016年11月7日(月)〜 9日(水)の3日間、東京デザインウィークの後期(11月 2日〜7日)と1日だけ重なる日程となります。会場は東京ビッグサイソフィア・ヤンソンさんが来日。飛騨パビリオンでは「飛騨の家具アワード家具デザインコンテスト」の発表会が行われる予定です。建築家・芦沢啓治さんがディレクションする CREATIVE RESOURCEではドイト㈱の協力で、デザイナーが D IY素材を使った家具を開発します。トの西ホールから東ホールに移り、東 4・5・6ホールで規模を拡大して開催されます。新企画目白押しの今回は、特別企画「THE HOTEL」をスマイルズ㈱がディレクション。LIFESTYLE SALONにはフィンランドからトーベ・ヤンソンさんの姪、
スマイルズは瀬戸内の豊島で 1日1組宿泊可能なアート作品「檸檬ホテル」を運営。鑑賞者は二人一組で音声ガイドを装着し、館内を回りながら甘酸っぱい体験をしていくという作品です。「ほてるホテル」をテーマとした IFFTの特別展示では、檸檬ホテルのインスタレーションの他、スマイルズが出展企業のプロダクツから発想した“体温があがる”アイデアを「ほてる妄想」と題して各ブースにイラストで掲示したり、出展品を集めた巨大なハート型テーブルを制作するそうです。
▲ 初出展のAREAは、SUPPOSE DESIGN OFFICE (谷尻誠 +吉田愛)デザインの新作ソファや斉藤上太郎氏監修の日本画を描いたサイドボードなどを発表。
▼特別企画ほてるホテルに出展する「2016/」は、
400年の歴史をもつ有田焼を16組のデザイナー
が新しく解釈した新ブランド。
▲今年はフィンランドパビリオンが充実し18社が出展。フィンランドを代表するコーヒーチェーン「ロバーツコーヒー」も会場内に出店。写真は LumoKids社のキッズファニチャ。
JAPAN STYLEは今年も、日本の感性と
手仕事をテーマにした展示や職人の実演を行う。
写真は山中漆器を作り続ける我戸幹男商店。
molo studioのハニカム構造のペーパーウォール。家具やパーティション、照明器具など様々に応用できる新発想の素材として注目されている。
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天上界と地上界四耳付葉茶壺(江戸後期)橋爪正幸氏蔵
TVドラマ『北の国から』のロケ地として全国的に知られるようになった富良野町の麓郷(ろくごう)地区。初放送から 35年がすぎた今も、多くのファンが訪れています。ここは純(吉岡秀隆)と蛍(中嶋朋子)がよく歩いていた八幡丘。純と蛍が凉子先生(原田美枝子)に習っていた中の沢分校。UFOの目撃騒動もありあました。ドラマと同様に廃校となり、現在は八幡丘会館として活用されいています。
中畑のおじさん(地井武男)の経営する「中畑木材」のモデルとなった麓郷木材。オーナーの仲世古さんは、麓郷でのドラマ制作に尽力された人物として知られ、今も事務所には中畑木材の看板を掲げています。
世界に冠たるパリのレストラン文化。いったいいつ頃から、どのような経緯で、現在のようなスタイルが形作られていったのだろうか。これまでは、次のように説明されるのが一般的だった。
水準向上のきっかけは、 1789年のフランス革命。革命で、 はかなくもギロチンの露と散った数多くの王族や貴族たち。命か らがら外国に逃げ落ちた貴族は数知れず、国内で生き延びた貴族 も大半は財産を失って、名ばかり貴族の境遇に。で、革命前まで これら貴族の館で、贅沢でおいしいお料理を作り続けていた料理 人たち。職場を失った彼らが、パリの街場の、市民たちが利用し ていたビストロのような多数の気軽なレストランに、新たに流れ 込んでいった。これにより、パリの街場のレストランの料理は、 急速にその水準が向上して、以後、フランス料理隆盛の原点とな っていく。なるほど。だが、この話は歴史的な事実と大きく異なる。ここには決定的な事実誤認がある。どこが間違っているのか。革命前のパリに、「街場の市民たちが利用していたビストロのような気軽なレストランが多数存在していた」という部分だ。 1789年のフランス革命前、現在我々が思い浮かべる「ビストロみたいな気軽なレストラン」なんて、パリには存在しない。メニューを見て料理を注文し、ワイン片手に個別のテーブルで料理を待つ。そんな店は、まずなかった。
当時多くのパリジャンが利用したのは、相席が当たり前の、十数
人が座れる長い大テーブルに、大皿料理が並べられる店。これをターブル・ドートと呼んだ。ナイフやスプーンなどは客が持参。店の定番料理が毎日のように並べられるので、メニューは、なし。美食とかグルメなんて無縁の世界だ。ひと月単位で支払いをするような常連客が中心で、その大半は地方からパリに働きに出てきている独身者。当時からパリは独身者の割合が非常に高く、こうした店が必要だった。地域の独身者たちが毎日のように顔を合わせる、独身寮の食堂のような店であり、自然に一種のコミュニティー意識が生まれて、後のカフェ同様「地域の溜まり場」という雰囲気が濃厚にあったという。当然、よそ者である旅人が客として同じテーブルを囲んでも、決して居心地のいいものではなく、当時パリに商用で訪れた英国人やドイツ人さらにはアメリカ人でさえ、「パリのターブル・ドートは店の雰囲気も料理もヒドイ」と散々な言葉を書き残している。こうした店に出向くのが嫌な人向けには、トレトゥールという、テイクアウトの料理屋があり、週月単位の契約で小僧が料理を届けてくれた。こちらは、家族での祝い事などの折には、各家庭に出向いてで料理作りを請け負う、京都の仕出しと類似のサービスも行っていた。が、店先での料理提供は原則としてできなかった。
旅人の場合、ターブル・ドートの他に利用できたのは、旅館の食事。宿泊客は出されたものを食べるほかなく、こちらもまた評判が悪かった。我が国でも、高級旅館でもない限り、「旅館の食事=おいしくない」は通り相場であることを思えば、当然か。では、肝心のレストランは、どうだったのか。これが今回の話の要だ。当時フランスで「レストラン」という言葉が意味したのは、「テイクアウト用の病人食を供する店」のことだった。ここで病人食とは、濃厚なコンソメもしくはポタージュ、すなわちスープを意味する。老人、病弱な子供、肺病の成人、出産直後の婦人といった人々のた
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めの店で、医師からの勧めで利用する、一種の医療補助施設を「レストラン」と呼んだ。要するに薬膳だ。この言葉の語幹「レストレ」という動詞は、「回復させる」「元に復させる」という意味で、古い車を「リストアする」という英単語と同じ語源だ。というわけで、当時パリの「レストラン」には、湯煎にかけたスープが何種類か並べられていて、テイクアウトの他に、常連には店の小僧が配達もした。薬膳であるため、価格は決して安くはなく、それなりに余裕のある層の利用が中心だった。この他に、当時のパリで多少食事らしきものを出した場所としては、ワイン商の店先や、キャバレー等もあったが、これらは食事というよりも「ついでの軽食」という程度。今我々が「レストラン」という言葉でイメージするような食堂は、なかった。では、なぜ、食堂らしきものが、なかったのか。もちろん理由がある。
歴史のあるパリでは、商工業は細かく細分化・専門化が進んでいて、それぞれの専門に応じて職能団体(ギルド)が形成され、各ギルドは、他のギルドやよそ者が、自己のギルドの専門職域を侵すことがないよう、常に監視の目を光らせていた。食を提供するギルドは二十数種にも及び、ワイン商がスープを出したり、レストランがハム・ソーセージ料理を提供するなど、基本的に許されないことだった。もし現代のビストロやレストランのような店を当時開いたとするならば、ワイン商・加工食肉専門商・パン屋・ターブルドート・トレトゥールさらには「レストラン」の各ギルドから猛烈な抗議が起きることは必然。こうしたガチガチのギルド体制がフランス革命によって崩壊することで、その混乱の中から、今我々が知るレストランの歴史は始まる。というわけで、世界に冠たるフレンチ・レストラン文化は、 世紀後半に誕生する薬膳スープ屋が、その原点だった。
黒板家の家々
麓郷には、ロケで使われた黒板家の家が保存・公開されています。こちらは TVドラマ第1話から登場した最初の家。黒板五郎(田中邦衛)が麓郷を離れたあと、長い間放置されていたという設定でした。
この建物は放送 25周年を記念して、セットのモデルとなった納屋を使用して復原したものだそうです。建物の維持管理はふらの観光協会が行っていて、内部も見学できます。なお冬期間は閉鎖されます。
土間のストーブは冬場の命綱になります。
吉田龍太郎( TIME & STYLE )
ドラゴンシリーズ 29ドラゴンへの道編赤とんぼ
夕焼け小焼けの赤とんぼ
負われてみたのはいつの日か
山の畑の桑の実を
小籠に摘んだは幻か
十五で姐やは嫁に行き
お里の便りも絶え果てた
夕焼け小焼けの赤とんぼ
とまっているよ竿の先
(ぜひ、小さな頃のように、大きな声で歌ってみてください。)
昨年、母とドライブ中に「赤とんぼ」の歌が流れてきた。
それから何度も繰り返し、その車の中で、赤とんぼを母と二人で歌い続けた。
「車の中で、母と僕は何度も何度も繰り返し、赤とんぼを一緒に歌い続けた。」
二人で歌いながら子供の頃の母のように、幼いころの僕のように、その時に戻ることができた。
暖かくて、柔らかい母の優しい感触と母の匂いを「赤とんぼ」を母と一緒に歌いながら感じることができた。「かあさん」と言って、子供の頃の母へと一緒に戻りたい気持ちになった。
小さな頃、毎日母の大きくて優しい背中にくっ付いてないと眠れなかった。あれだけたくさん甘えた母に、今は甘えることもなくなった。
時が経つとはそう言うことだ。
赤とんぼの歌には僕たちを幼心に連れ戻す、何かの不思議さを持っている。
小さな頃、秋の稲穂の刈り取りを終えた田んぼの畦道を歩きながら、夕方になると頭上を無数に飛び交うい夕焼けに照らされて赤色に輝く数えきれない程の赤とんぼを見上げながら、この歌を口ずさんで帰路に着いた。
刈り取られ、干された稲穂の先に、赤い体に透明な羽でじっとして静止している
赤とんぼを何度も何度も捕えようと追いかけてみたけれど、赤とんぼはどうしても僕には捕えられなかった。赤とんぼには昔からの言い伝えがあるように、僕にとっても懐かしさの中に、自分の中でも捕らえきれない不思議な存在として生きている。
今は海外に来ていて、初めての路を歩きな
がら、今、なぜに俺はここを歩いているのだ
ろうかと言うことを考えながら、路地脇の窓
の中に見える人々の日常を垣間見る時、そこ
に自分がいる必然を感じることが出来るの
だ。
多分、その日の夕食はいつものサラダとパ
スタと、、しかし、その人々の日常を垣間見た僕はその一生で一度しかない時間を共にした一人の通りすがりの唯一の存在なのだ。それが、人生と時間と生命の真実であり、それ以上でもそれ以下でもない、人が今に生きている時間を過ごし、共に生命を共有しているという単純な事実なのだ。
今も、誰かがどこかで生まれ、そして死んでゆく。僕も、そしてみんなも同じように。自分自身の命、そして愛する人々の命も必ず終わりの時が訪れる。その真実を見つめてみることだけではなく、今の時間の存在を体で感じとり、生命という偉大な存在を自分の中に感じとることが出来ることは、何にも代え難い尊いことなのだろう。
生きていることを実感し考えてみると、今が存在することがどれだけの意味と価値を持っているのかを知る。だから時間と偶然を必然として常にとらえられるように自分の中のアンテナをチューニングしておかなければ、気付かない内に時は流れ、気付かない内に全ては過ぎ去ってしまう。そう言うことから解放されて無意識になれることは、そういうことを知った上で得ることが出来るようなものであり、その為のプロセスが若い時の修行であり、苦悩であるように思える。それを怠ることによる自分への代償は計り知れず、またその価値に気付かない人生は単純にもったいないのである。
人生で起こることは自分では何とも動かせないことも多いのだが、自分が生み出している必然が大きいことも真実だ。
人生に単純な偶然は存在しないと考える、全ては必然の運命の中に生かされているように感じてしまうのである。
2番目の家となった手作りの丸太小屋。連続ドラマの最終話で完成し、スペシャルドラマ『 ’84夏』で焼失しま
丸太小屋したが、実物は「麓郷の森」に移設されています。ドラマで焼失したのは撮影用のセットでした。黒板家の家の中では最も快適だったと思われる丸太小屋。失火の原因はストーブの上の網にかけた衣類だと推定されています。実際のログハウスは丸太が燃焼するまでに時間がかかるため、普通の木造家屋よりも燃えにくいといわれています。
風力発電
丸太小屋焼失の後に暮らした 3番目の家。農家の廃屋を直して利用したという設定で、屋根に風力発電機をのせています。
北海道の納屋によく見られるギャンブレル屋根は、屋根と同時に 2階の空間を作れ、積雪がよく落ちる構法として人気でした。
ひとり暮らし
三番目の家が 3月の大雪で潰れ、五郎が愛犬アキナと暮らした四番目の家(『 ’92巣立ち』で登場)。やがてこの敷地のまわりには「拾って来た家」が建つことになります。富良野へそ祭の夜。富良野を訪れた蛍はこの家に泊まらず恋人の待つ富良野プリンスホテルへ。五郎は自衛隊員となった正吉(中澤佳仁)と一晩中酒を酌み交わします。
純の起こした妊娠騒動で丸太を売ったため丸太小屋を断念した五郎は、畑から拾った石を積んだ丸太小屋の基礎を活かしつつ 3年をかけて「石の家」を完成させました(『 ’95秘密』から登場)。内装も石なので冷輻射によりかなり寒かったと思われますが、シュウ(宮沢りえ)と一夜を明かしたり孫と遊んだり、五郎にとって思い出ぶかい家となりました。
僕らのリズム
12Vol. 塔を登るルール
たぶん「佐藤さとる」だと思うんだけど、幼い頃読んだ本で、一人の男が塔に登るって話があった。塔の入り口で、そこの門番に「登るのは構わないけど、これ持ってきな」と言われて一粒の金平糖を持たされる。男はそれを背中のリュックに入れると、張り切って鉄塔を登り始める。相当登ったところで男はある異変に気付く。リュックがどんどん重くなっていくのだ。リュックを開けてびっくり。金平糖がとても大きくなっていた。登れば登るほど、金平糖は大きくなるようだ
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った。そして最後には金平糖が大きくなっているのではなくて、「自分が小さくなっているのだ」と気付く。
僕が家具屋をやろうと決心したのは割と早い頃だった。 歳の秋だ。大学に行くのが面倒くさくて、何をするでもなくぼんやりしていた。その時住んでいたのは、茅ヶ崎の団地の一室で一人暮らしだった。一人と言っても、そこには常に誰かがいた。地元の友達、バイト先の友達、大学の友達。足の踏み場もない日があるほどだった。みんな床にゴロゴロしていて、まるでポカポカした陽だまりに群れるオットセイの家族みたいだった。みんなそれぞれにやることがあるはずなのに、そこから必死に逃げていた。そもそも大学なんて人生の中のモラトリアム期間なのに、僕らはその期間にさえモラトリアムを作っていた。モラトリアムの中のモラトリアム。
「この部屋にはソファが必要よ」ある日、その当時付き合っていた女の子が何かのお告げのようにそう言った。「私たちはもうこれ以上、床に寝てはいけないわ」彼女の瞳にはいつになく断固とした光があった。「昨日大型ゴミ置き場にソファが捨てられたのを見たの。拾いに行くわよ」僕らは、やおら、うおお !!と叫び声を上げて起き上がった。無為にゴロゴロしていることに疲れていたのだ。何か目的ができたのが嬉しかったのだ。団地の階段を駆け下り、裏のゴミ置き場に向かった。秋の青空はいよいよ高く、そしてとても眩しかった。スコーンと抜けた爽やかな日だった。
野田 豪 (AREA )
そのソファは果たしてゴミ置き場にあった。縦に半分埋まりながら、モノリスみたいに超然と、ほぼ直立して立っていた。海老茶色の木枠のソファで座はグレーの別珍だった。
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「これ高級ソファでしょ !!」と誰かが言った。そのソファをゴミの山からズボッと引き抜き、僕らは嬉々としてそれを運んだ。その時、天気雨が霧のように落ちてきたのをよく覚えている。晴天にキラキラ光る細かい雨。僕らの頭の上にうやうやしく掲げられたゴミソファ。引きこもりの僕たちの生活に家具という中心ができた瞬間だった。「家具の仕事ってどうだろう」みんなの笑顔を見渡しながら、僕の心がふと考えた。「みんなで基地を作るみたいに、自分たちや他の誰かの居場所を作る仕事だ」とつぶやいた。うん、いいな。それはとてもいい仕事だ。その瞬間、パアッと自分の未来が見えた気がした。
その後の記憶はあまりない。ソファがあの部屋に入ったことで僕らの生活は変わったかといったら、そんなことはなかったんだと思う。ただ、僕は、あの時、自分の一生の仕事を家具にしようと決めた。それだけはハッキリしている。
あれから 年が経ち、僕の家具は続い
ている。あの頃の想像をはるかに超えた
大きな仕事をしている。これからもっと大きく、そして複雑になる
だろう。しかし、そこには忘れてはいけないルールがある。金平糖だ。
身の丈を超えて発展したり大きくなったりして、周りが一様に変化
すると、変わらない「真実」は、逆にどこかヘンテコに見えてきて
しまうものだ。自分の中の真実(金平糖)は変わらない。変わるの
は自分を含めた周囲なのだ。
天気雨の中の若者たち。
あそこが僕の中の金平糖だ。
「家具をやろう」「家具で人を幸せにしよう」「できればたくさんの仲
間たちと」あの日、そう決めた時の心持ち。その「金平糖」が変に大き
くなったり、可笑しく見えたりしたら要注意だ。だから僕は事あるごと
にリュックサックをおろしてその中身を確かめなければならない。
そんなリズム。
拾って来た家.やがて町
「拾って来た家.やがて町」には『2002遺言』で登場した家が公開されています。「物がこんなに捨てられて行くならオイラ拾ってきて生き返らせてやる!」と宣言した五郎が、富良野で暮らし始めた雪子おばさん(竹下景子)のため廃材で作りました。窓には車のガラスや電話ボックス、スキーのゴンドラ、基礎にはトラックの荷台やホイルが使われ、屋根は芝生を植えています。
雪子おばさんはニングルテラス(新富良野プリンスホテル)に勤めながら、キャンドルや裂き織りを作っているという設定です。正面左にはアトリエ、中央は渡り廊下、右には居間とキッチンがあり、壁材を斜めに張ることで廃材を上手く収めています。
中畑木材の娘すみえ(中島ひろ子)と婿となる清水正彦(柳葉敏郎)のために作られた 2軒目の「拾ってきた家」。かたわらには糞尿を利用して発電するバイオ発電機が残されています。
土台はトラックのホイールで貨物コンテナを中心に据え、居間に取り付けられたゴンドラのサンルームが素敵です。天井には紙製のタマゴパックを張り、キッチンや風呂もきちんとしていて普通に暮らせそうな雰囲気です。すみえの母みずえ(清水まゆみ)は病床で、「拾ってきた家」が街となり、皆が一緒に仲良く暮らす姿を蛍に語りました。
純と結婚した高村結(内田有紀)のために建てられた、路線バスを利用した家。2005年に完成したものでドラマには登場していませんが、キッチンや石積みの風呂などが充実しています。
キッチンのカウンターは富良野駅前の「パーラータケダ」から移設されたもの。路線バスの中はリビングと和室になっています。1981年の開拓者小屋から2002年「拾ってきた家」にいたる『北の国から』の家々は、子ども達の成長や麓郷での生活を通し、時代の意識の移り変わりを機敏に表現したと感じます。