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時空を超える美意識
4月号 春燈 2017
http://collaj.jp/
この男あり 熊楠 生誕150周年
今年、生誕 150周年をむかえた和歌山の巨人・南方熊楠(みなかたくまぐす)。浴衣姿の写真は明治 35年、植物採集行の記念に撮られました。南方熊楠の足跡と熊野古道を重ね合わせ、紀州の海南から田辺、南紀白浜、高野山を巡りました。
ふじしろ
名付け親藤白神社
▲佐々木が揮毫した歌碑。
▼ 社務所にて楠の木の御守を分けて頂きました。
藤白神社に近い熊野古道・藤白坂には、哀しい伝承があります。飛鳥時代、孝徳天皇の皇子、有間皇子(ありまのみこ)は、謀反の疑いで捕らえられ、牟婁の湯(南紀白浜温泉)で湯治中の斉明天皇の元に送られ、中大兄皇子による尋問をうけます。皇子は罪状を認めず護送中に藤白坂で絞首されました。その時19歳であったといわれ今も地元の方による花が絶えません。紀州有田市を通る紀勢本線の車窓には、名産の有田みかんの畑が続きます。江戸時代、味の良い有田みかんは、廻船によって江戸へ盛んに運ばれていました。海が荒れて誰もみかんを出荷できなかった時、果敢に漕ぎ出したのが紀伊国屋文左衛門です。文左衛門は熊野の材木を大量に扱い大成功。「紀文大尽」と呼ばれますが、晩年は深川で静かにくらしたそうです。
「三銃士」そして「モンテ・クリスト伯」で知られるフランスの大作家、アレクサンドル・デュマ・ペール(1802〜70)。亡くなる前年、ブルターニュ地方の小さな港町ロスコフに移り住む。既にあらかたの財産を失い、出版社に持ち込んだ原稿の出版を断られるまでに人気も落ち、体力の衰えが目立つ老作家。とはいっても、子供の頃から人並み外れた頑健さを誇ったデュマであってみれば、ま
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さかその後わずか 年で自身の命が尽きることになる、とは思って
もみなかったはず。だいいち金が必要だったし、何とかヒット作を
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出したいという気持ちだけは、焚き火の燃えさしのように、心の奥底でいぶり続けていた。それどころか、港町に引越す2年前には、自身より 歳も年下、ヌードでの乗馬を売り物にするアメリカの女性芸人との親密な写真を新聞にすっぱ抜かれて、世間を騒がせていたほどだ。当時デュマは、長年構想してきたある一冊の書物を完成させたい、という思いで一杯だった。そのために集めた様々な資料と書き溜めた原稿を抱いての引っ越しで、この静かな港町ならば生活費も安く、その仕上げにうってつけと考えたのだ。では、晩年の大作家がそこまで入れ込んだ一冊、結果として遺作33となるその一冊とは、いったい何か。それは小説でもなければ、劇作でもなく、また、作家人生の後半に相次いだ旅行記でもない。食材と料理をめぐる様々なエピソードを集めた一冊で、没後『料理大辞典』として出版されることになる、異色の大著だった。
昨年 月、私が講師を務める「グルメレクチャー」(石澤季里主宰プティセナクル)の席で、常連の可愛らしい女性から、「いつか三銃士のデュマ・ペールのグルマンぶりをテーマにお話を」という思いがけないリクエストを頂いた。中学時代、我を忘れて『三銃士』(鈴木力衛訳)の全集を読みふけり、『モンテ・クリスト伯』は大学生の時、そして『料理大辞典』の邦訳は母の蔵書で見ている。で、リクエストを頂いた数日後、石澤さんとの打ち合わせで「次回第 回は、デュマをテーマに」と決定。だが、その時点で大作家の生い立ちや実人生については、何ひとつ知らなかった。早速準備開始で、伝記3冊を入手して読み始める。これが面白い。ものすごく面白くて、その破天荒な生涯にビックリ仰天。大作家デュマは、自身の作品の主人公顔負けの波乱万丈の一生を送った、大変な男だったのだ。それだけではない。フランス革命という大混乱の中、一介の兵士から始めて、ナポレオンの下で陸軍准将という地位にまで登りつめたデ
2ュマの父親の人生もまた、大河ドラマの主人公さながらに劇的なものであって、まさに「この父にしてこの子あり」。こうして、デュマのグルメ・グルマンぶりを探るはずが、その面白さに惹かれ、いつしか快男児デュマを産み出したデュマ家の成り立ち調べへと傾いていった。だが、これが幸いした。なぜなら、こうした背景を知ったとき、その作品とりわけ『モンテ・クリスト伯』を執筆したデュマの心の奥底に秘められた想いが、分かるような気がしたからだ。
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遺作となった『料理大辞典』。そこには、デュマの実人生の断片が様々な回想の形で散りばめられていることも見えてきた。例えば「トリュフ」(高価なキノコ)について。多数の項目の中でも格別に長い記述で、デュマがよく知る 人の大女優の、そのトリュフの扱い方の違いが詳しく語られている。トリュフへの接し方の違いを語ることで、
人の大女優の個性の違いを見事に描写する。劇作家としてパリの劇壇に登場したデ
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ュマは、数多くの女優と浮名を流し続ける。自身の小説の主人公さえ青ざめるほどの熱烈な恋愛を幾度も経験し、女性を征服し、いつしかまた別の女性へと身も心も移ろっていく。その繰り返し。それだけにデュマは、女というものを熟知していた。トリュフを語りながら、女としての女優の個性の違いを語り得るのは、大作家の驚くべき女性経験の豊かさが背景にあるからだ。こうした視点が私の中で生まれてからは、この料理辞典の、何気ない説明文のように描かれた叙述の背後に、デュマの実人生のあれやこれやを想像しながら読むようになった。食材や料理の背後に、想像力の翼をいっぱいに広げて、デュマがなぜそのような記述をしたのかに思いを致す。すると、十にひとつくらいは、「あっ、そうだったのか!」という瞬間がある。その面白さは、尽きることがない。
ところで、この大辞典、まだ我が国の出版界に余裕があった時代に、「辻調グループ」
の創立者、辻静雄氏の監訳で日本語版が刊行されている。偉業といっていい。私は子
供の頃からこの大先生のお名前を耳にし、その翻訳書は母の書棚に数冊並んでいた。
この大辞典日本語版の刊行以来約 年、その間に欧米での食文化史研究は革命的に深化した。本書についても、こうした新たな知見を加えてこれを読み解くと、思いも掛けない興味深い側面が見えてくる。今回は、この異色の書の、そんな読み方の面白さの一端を皆様にお話した。会場は白金台のレストラン「シエル・エ・ソル」(音羽創料理長)。デュマの大著の概要をシェフにご説明し、書の中で大きく取り上げられている素材や料理を挙げて、多少なりともそれに関連するお料理の工夫をお願いした。当日は本誌でおなじみ小林清泰夫妻( KENOS)もご参加くださり、音羽シェフの、見えない部分に手を掛けた丁寧なお料理を楽しんで頂いた。1年に3〜4回というこのレクチャーも9年目。毎回新たな発見がある。だから、やめられない。
南紀白浜有間皇子の伝承にあるように、古くは京都から天皇や貴族が湯治に訪れ、昭和の時代は新婚旅行でにぎわった南紀白浜。近畿圏最大の海水浴場&温泉場として、夏場は多くの客で賑わいます。またパンダ8頭が暮らし、繁殖にも成功した「アドベンチャーワールド」も人気スポットです。海抜 125mの平草原展望台からは、白浜温泉や白良浜、円月島、南方熊楠記念館のある番所山、熊楠の暮らした田辺の街まで見渡せます。
三段壁サスペンスドラマにもよく登場する「三段壁(さんだんぺき)」。地震によって隆起した海岸段丘が、波によって侵食された海食崖です。さまざまな地層が複雑に折り重なっています。白浜一帯はかつて熊野水軍によって支配された海で、三段壁も拠点のひとつでした。
三段壁の奥には波によって侵食された洞窟「海食洞」があります。熊野水軍はこうした洞窟に軍船を隠し、合戦に備えたと伝わります。今はエレベーターで洞窟まで降りられます。
かつては瀬戸内海の制海権を握るほどの勢力をもった熊野水軍は、
南紀を拠点とした海の民(漁業や海上輸送、流通を担っていた)に
よって構成されました。歴史にその名が登場するのは12世紀頃から
で、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)を詣でる京の貴族たちを手助けすることで、三山を統括者する熊野別当(くまのべっとう)職を得て、朝廷からも認められる存在となります。
千畳敷熊野水軍の名は、時代の転換点にたびたび見られます。例えば源平合戦の頃には田辺の熊野別当が源氏に味方して、海戦に勝利します。また後鳥羽上皇による承久の乱を後押ししたり、鎌倉幕府に対して一斉蜂起したり、南北朝の時代に南朝側について北朝を追い詰めたり、歴史的な出来事の影には熊野水軍が見え隠れします。
白浜で最も古い行幸源泉。
1400年の歴史を伝える外湯「牟婁の湯」。
牟婁の湯
日本書紀や万葉集にも登場する古湯のひとつ南紀白浜温泉。飛鳥時代から皇族や貴族にも愛された「牟婁(むろ)の湯」は、16世紀から始まった鉛の採掘で賑わった「鉛山(かなやま)」にあります。南方熊楠も友人をつれて鉛山に通っていました。火山帯のない南紀白浜ですが、海面下のプレートから滲み出る高温の地下水が源泉になっているようです。
山頂に南方熊楠記念館の立つ番所山。江戸時代に異国船の遠見番所があったことから名付けられました。南方熊楠はアメリカ留学前の明治19年、親友の羽山繁太郎と鉛山温泉を訪れ毎日のように温泉につかり、綱不知湾や権現崎、千畳敷 、白良浜、三段壁などを歩き、動植物を採集しています。
明治のはじめ、熊楠は旧和歌山藩校の漢学者や絵師から江戸の学芸を学びつつ、鳥山啓からは西洋的な博物学を学びます。この過渡期の教育が熊楠のユニークな研究姿勢を形作ったとも言われます。明治16年、和歌山中学を卒業した熊楠は東京神田の共立学校(現開成高校)に学び(ここで高橋是清に英語を習う)、大学予備門(現東京大学)に合格。同期には正岡子規や夏目漱石、斎藤緑雨、秋山真之などがいました。このころ「菌学の父」と呼ばれたイギリスのバ.クレイや、アメリカのカーチスがキノコや変形菌など6000点を集めたと知り、それを超える標本を採集し図譜を作ることを決意。これが一生の研究テーマとなりました。白浜町の名の由来となった「白良浜」。近畿屈指の海水浴場で、夏場は数十万人の海水浴客で埋まります。白い砂は石英で、以前はガラス原料として採取されていました。砂の流出から、昭和の終わり頃にオーストラリア産の白砂を投入しています。
熊楠アメリカへ予備門を中退し明治19年に帰郷した熊楠は、アメリカに留学したいと父に申し出ます。当時父の弥右衛門は新進の富商として和歌山でも知られた存在。南方酒造(現・世界一統)を創業したばかりでしたが、次男である熊楠の熱意に負け渡米を許しました。
小林 清泰アーキテクチュアルデザイナー ケノス代表
ツィヒを初めて訪れました。
「大バッハ」と、その街「ライプツィヒ」
若い時から筋金入りのクラシック音楽好きではあるもライプツィヒと言えば「ゲバントハウス」という言葉が
のの、高名な作曲家の伝記をゆっくり読んだ事もなく、条件反射的に浮かびます。ゲバントハウスとは元々、
幅広く「曲を聞く」ことに興味が偏っていたせいかもし繊維工場の意味ですが、ライプツィヒ・ゲバントハウス
れません。ライプツィヒについては「ゲバントハウスのと続けると、ベルリンフィルやウイーンフィルが演奏す
ある街」というイメージしか持っていませんでした。しる名ホールと並ぶ、ヨーロッパ有数のコンサートホール
かし街の中心マルクト広場にほど近い「聖トーマス教会」を指します。を訪れ、この街に対するイメージは一変しました。ガイドブックで「聖トーマス協会」にヨハン・セバ
建築・インテリア・プロダクトのデザインに取り組む中で、スチャン・バッハ(以下バッハ)の棺があることは知ってシステムキッチンやシステム収納の開発を集中的に進めいたのですが、祭壇横に埋め込まれたそれに接して私
た時期がありました。近代工業都市ドュッセルドルフやの中の何かが急激に変わり始めました。
メッセの街として知られるケルン、あるいは木工産業が多いシュバルツバルト(黒い森)地方等、ドイツでも西寄りや南ゲバントハウス コンサートホール。楽譜が残るものだけで 1200曲以上というバッハですが、その中西側の地区へ観光とは無縁で 10数年通い続けました。でも私が特に良く聴く曲があります。それは無伴奏ヴァイオリン昨秋、私のテーマとは少し異なりますが、既存集合住宅の再生ソナタ 6曲・同じく無伴奏チェロソナタ 6曲。今でも疲れてリフ研究をテーマとした視察に参加し、ドイツ中央に位置するライプレッシュしたい時や、次に向けて心の整理等をしたいとき、必ずと言っていいほど聴き込みます。後で調べて分かった事ですが上記の曲はなんと32歳の時の作だそうで、我々凡人には考えられない奥深さに驚かされます。棺にほど近い長椅子に腰掛けて 7. 8分、いつも自分の気持を癒し、救ってくれる作曲者バッハに感謝の祈りを捧げました。こんな気分は初めてでした。あまり長い時間、手を組み目をつぶっていたものですから同行の仲間から『日頃の悪行がたくさん在るので、十分懺悔できたでしょう(笑)』とからかわれました。
でもこの時、もっとバッハを広く深く知ろうと思ったのです。バッハは 1685年、ライプツィヒの西、ケルンにほど近いアイゼナハに生まれました。大家族と音楽に囲まれて育ち、美声(ボーイソプラノでしょう)の持ち主で何種類もの楽器を弾きこなし、教会の聖歌隊で活躍したそうです。アイゼナハがあるチューリンゲン地方はルター派の教えが根づいており、家庭もルター派でその教えを深く信じていました。
『95か条の論題」(1517)で宗教改革を起こしたマルティン・ルター(1483.1546)ですが、彼は音楽を神学の次に重要な学問と位置づけて、音楽は神を理解するために神自身が創造したものと考えていました。自身で賛美歌を作曲、編曲して所属の信者に音楽を通じて神への理解を深めるよう誘いました。このようにプロテスタント(抗議者たちの意)派は教会で演奏される音楽を信者
「聖トーマス教会」バッハの棺。
バッハ胸像。
寄りに変えました。その中でもバッハほどルターの理想を作曲を通じて実現した音楽家は他に類を見ません。一方、カトリック(普遍的という意味もあるとある神父様から教えられた)の礼拝では聖歌隊だけが荘厳な音楽を受け継いでいました。
当時、音楽家の地位の頂点は宮廷楽長(宮廷礼拝堂および宮廷オーケストラの責任者)かカントル(教会で演奏される音楽の責任者)でした。バッハは1723年 38歳で「聖トーマス協会」のカントルに採用され、亡くなるまで 25年間をライプツィヒで暮らします。それ以前は 15歳からリューネブルグで聖歌隊の歌手やオルガン奏者の助手、18歳でアルンシュタット新教会のオルガン奏者、22歳でミュールハウゼンの教会オルガン奏者、23歳でワイマール公の宮廷オルガン奏者、32歳で自身が音楽家でもあるケーテン公の宮廷楽長になっています。特にバッハのオルガン演奏は飛び抜けて素晴らしかったようで、即興演奏でも人々をうならせました。オルガンの機構にも非常に詳しく、また作曲家として宗教曲から世俗曲まで、卓越した技量で作りあげたそうです。
コーヒーハウスに通い、世俗的な曲の代表である通称「コーヒーカンタータ」(カンタータは小型のオペラのようなもの)等も作られました。そして44歳の時、人類史上最高傑作と言われる「マタイ受難曲」が聖トーマス協会で演奏されました。この曲には人間の持つ感傷や感情等、俗の心境を寄せ付けない荘厳な深さが宿ります。55歳でザクセン選定公から宮廷音楽家の称号が与えられます。その後も「ロ短調ミサ曲」、「ゴルトベルク変奏曲」、「音楽の捧げもの」、「フーガの技法」と傑作が生まれます。そして1750年、この街で 65歳で亡くなりました。また2回の結婚でなんと20人の子供に恵まれました。そのうち 4人が音楽史上に名前を残したため、子供 4人と区別できるようヨハン・セバスチャン・バッハを「大バッハ」と呼んでいます。大バッハの人生は1685.1750ですが、日本は江戸時代のまっただ中でした。8代将軍吉宗が1684. 1751ですのでほぼ同時代です。文化人では松尾芭蕉が1644.1694です。
ライプツィヒ(元は東ドイツ)は人口 56万人、菩提樹の地という意味で、ドイツの中央に位置していて昔からヨーロッパ大陸を縦横に貫く通商街道の要衝でした。そのため Messe(帝国通商市)の拠点で、その経済基盤のもと、学問と芸術が栄えます。とくにライプツィヒ大学はドイツで 2番目の歴史があり、医学教育でも名高い名門です。現在のドイツ首相アンゲラ・メルケルさんはこの大学出身の物理学ドクターで、ゲーテ、ニーチェ、リヒャルト・ワーグナーもそうですし、日本人では文学者で医者の森鴎外、ノーベル賞学者の朝永振一郎もここで学んでいます。
また1989年の東ドイツ平和革命が始まった事でも知られていま
聖トーマス教会。
ライプツィヒ大学。
す。街中のもう一つの教会「聖ニコライ教会」で行われていた「平和の祈り」集会がソ連の強い影響下での圧政への抗議にかわり、それが徐々にふくれあがりました。ついに「月曜デモ』として教会外へひろがり、なんと7万人に達しました。警察・軍隊はデモ隊に銃口を向けられず、この反体制デモは国中に広がり、1カ月後にベルリンの壁が壊され、東ドイツは無血のうちに崩落。人々はライプツィヒを『英雄の都市』と呼んで勇気を称えたそうです。
不思議な事ですが、大バッハは亡くなると程なく人々の記憶から忘れ去られてしまいます。没後 80年ほどたった1829年にメンデルスゾーンが名曲「マタイ受難曲」を発掘し、改めて世に示しました。メンデルスゾーンは作曲活動はもちろん、ゲバントハウス管弦楽団を率いて大活躍しただけでなく、大バッハの偉大な音楽を改めてよみがえらせた功績をたたえられ、「聖トーマス協会」のステンドグラスににその肖像がはめ込まれています。
ウイーンほどリング(街を取り囲む城壁を壊して造られた道路と街並み)は大きく在りませんが重要な教会、広場、大学、博物館、美術館、作曲家の家等、またナポレオンが来た由緒あるレストラン、古くからの商店街等が徒歩圏内に集まっています。街のそこここに点在するカフェやレストランは夕方から賑わい、文化を話題に話の花が咲いています。あらためてここでゆっくりと過ごし、自己を見つめるのに相応しい街だと感じました。 ■
南方熊楠記念館
昭和 40年に開館した番所山の「南方熊楠記念館」。入り口には昭和天皇が熊楠を詠んだ歌の歌碑が立ちます。昭和 37年、天皇が南紀を行幸された際、昭和 4年に神島(かしま)で熊楠の進講を受けたことをしのんだ歌が発表され、熊楠の活動を世に示すきっかけとなりました。記念館は新館の建設とリニューアル工事を終え、3月19日に再オープンしています。
雨にけふる 神島を見て紀伊の国 生みし南方熊楠を思ふ 昭和天皇 御製
春分や秋分の季節には、穴の中央に夕日が落ち、沢山のカメラマンで賑わいます。
円月島
波の静かな綱不知湾や古賀浦湾を左に見ながら、入り組んだ海岸線を走り、田辺の街に向かいました。養殖が盛んな湾には養殖イカダが並びます。クロマグロなどの養殖技術の開発で知られる近畿大学の白浜実験場があり、最近は成長の早い新種のクエが開発され新名物になっています。
神島鳥ノ巣泥岩岩脈から望む「神島(かしま)」は、南方熊楠にとって特別な意味をもつ島です。神の島として手付かずのまま信仰されていましたが、明治末、政府の神社合祀により合祀され、森の木が伐採されそうになりました。熊楠たちは合祀に反対した自然保護運動を行い伐採をストップ。そして昭和4年、紀南を行幸された昭和天皇は神島への上陸と熊楠の進講を要望。そして6月1日の雨の日に、熊楠は神島で天皇への進講を行い、キャラメル箱にいれた粘菌の標本110点のほか、白浜の海洞に棲むクモなどを献上しました。その後、神島は国の天然記念物に指定され、一般の上陸は禁止されています。
田辺鳥ノ巣泥岩岩脈から車で30分ほどの田辺市街。南方熊楠はイギリスから帰国後、明治37年から田辺に定住し、約37年間を田辺で暮らしました。最晩年の25年間を過ごし研究の場とした邸宅が保存・公開されています。田辺は熊野古道・中辺路の入り口であり、田辺湾・天神崎を別荘開発から守るため、日本初のナショナルトラスト運動が展開されたことでも知られています。
Roche Bobois TOKYO 2017年4月22日(土)、ロッシュ ボボア 東京 がオープン。MISSONIをまとった Mah Jong( design Hans Hopfer )がお出迎え。
天然大理石の塊から脚を削り出すAQUA DINING TABLE(design Fabrice Berrux)と有機的なフォルムのチェアCELESTE ARMCHAIR(design C.dric Ragot)。
▲ ESCAPADE COMPOSITION(design Zeno Nugari)
▼ DIGITAL (design Gabriele Assmann & Alfred Kleene)
木製の脚がユニークなソファAZUR CORNER COMPOSITION(design Philippe Bouix)。背が持ち上がり安楽性を高めます。
SYMBOLE COMPOSITION
(design Sacha Lakic)のシックなJean-Paul Gaultierバージョン。ラグやスツール、クッションとの彩りが素敵です。
南方熊楠邸/南方熊楠顕彰館
アメリカ留学前の熊楠。親友の羽山繁太郎に送ったポートレート(明治19年19歳頃)。
田辺市中屋敷町の南方熊楠邸に隣接した「南方熊楠顕彰館」。南方邸に遺された蔵書や資料を恒久的に保存し、熊楠研究の推進と成果の活用を図りながら、業績を広く顕彰する施設として平成 18年にオープンしました。紀州の木材をふんだんに使い、ガラスで囲まれた明るい空間です。
キケホコリ
南方熊楠の研究分野は、博物学、宗教学、民俗学と広範囲で、世界的な植物学者としても知られています。特に菌類・変形菌類(粘菌)・地衣類・蘚苔類・藻類の日本における初期の代表的な研究者で、同じく変形菌を研究していた昭和天皇も熊楠の存在を知っていました。顕彰館では変形菌の標本を観察できます。変形菌はアメーバのように移動しながらバクテリアや菌類などを捕食する動物的な性質と、胞子により繁殖する植物的な性質を併せ持つユニークな生命体です。
大正5年50歳の熊楠は、約400坪の屋敷を弟・南方常楠の援助により4,500円で購入。元は1千坪ほどあった士族の邸宅で、2階建ての母屋や土蔵に加え、借家の庭に立てていた博物標本室が移築されました。平成 12年、南方邸と蔵書・遺品・草稿・標本などを大切に守ってきた長女・南方文枝氏が逝去され、邸宅と資料が田辺市に遺贈されました。
晩年の熊楠の左に立つのは、和歌山中学の同級生で田辺の開業医であった喜多幅(きたはば)武三郎氏。荒れた生活の熊楠を諭して妻となる松枝夫人を紹介し、その体調を生涯にわたり見守り兄弟のようだったと長女・文枝氏は回想しています。他に雑賀貞次郎氏や野口利太郎氏など、田辺の人々によって熊楠の研究は支えられました。また最大の支援者が弟・常楠でした。和歌山市で「南方酒造(現・世界一統)」を経営しながら、熊楠の留学費や生活費など、経済の大半を担いました。熊楠が研究に没頭した書斎。ここで採集した標本の整理を、連日深夜まで行っていました。愛用の机は顕微鏡をのぞくため、手前の脚を短く切り傾斜を付けともいわれます。昭和 6年に今井三子氏が撮影した写真(右上)には、標本のキノコを目の前に置き、くわえタバコで熱心に写生する熊楠の姿が写っています。熊楠にとって庭も重要な研究フィールドでした。大きな楠の木や柿の木、ミカン、センダンをはじめ、数百種の草花が生い茂っています。
イギリス留学中に出会った真言宗の仏教学者・土宜法龍(どきほうりゅう)とは、長年にわたり書簡のやり取りを続けました。熊楠が田辺に暮らした時期、土宜は高野山の金剛峰寺で管長をつとめ、熊楠は高野山に土宜を訪ね植物採取を行いました。土宜宛の書簡に登場するのが、有名な「南方マンダラ」(明治36年)と呼ばれる図です。世界は無数の因果律の立体的な集合体であり、諸々の不思議によって物事が互いに交錯しあって思いがけない結果を生み出しながら、ちょうどよいバランスに収
まっていくのだと熊楠は考えていたようです。
熊楠は田辺での研究成果をイギリスの「Nature」や学会誌に投稿し多くが掲載されました。庭の柿の木では新種の変形菌「ミナカテラ・ロンギフィラ」も見つかっています。大正 5年、熊楠は柿の木のくぼみに這い上がり変形菌を発見、イギリスの G・リスターによって命名・発表されました。熊楠にとっての自邸は、世界へつながる小宇宙だったのです。
南方二書熊楠が環境保護と関わるきっかけは、明治末の「神社合祀」でした。和歌山は特に合祀に積極的で、多くの神社が統合され、廃社となった森の巨木が伐採されました。熊楠にとって鎮守の森は、数々の発見をもたらした貴重な採取場所。そこで著作を通じて知り合った柳田国男(当時は国の高等官僚)と相談し、東京帝大の植物学者・松村任三博士宛てに送ったのが「南方二書」です。熊楠は森が失われることだけでなく、参詣が不便になり祭が減ることで村のコミュニティや熊野の神聖、敬神の念が失われることや、木材の払い下げで利益を得る役人や政治家のいることなどを訴えます。「南方二書」は柳田国男によって冊子に印刷され、各界の有識者に配られました。熊楠の合祀反対運動は、環境保護の先駆けといわれています。
土蔵を使った「書庫」には熊楠の遺品が当時のまま残され、1階の棚にはかつて膨大な蔵書が並んでいました。合祀反対運動をきっかけに柳田国男と親交をもった熊楠は、民俗学(フォークロア)への関係を深めていきます。柳田は新雑誌の構想を熊楠に相談し、熊楠は創刊当初の
『郷土研究』へ寄稿を続けました。その他、各地で創刊された民俗学誌へ原稿を寄せ、博文館の『太陽』には、代表作「十二支考」を掲載しています。晩年の柳田は民俗学を志したきっかけを問われ「それは南方の感化です。まったく南方の感化です」と答えました。合祀反対運動によって、田中神社(上富田町)や引作の大楠(引作神社)、鬪.神社、八上神社、野中の一方杉(継桜王子)、滝尻王子、那智の原始林など多くの木々が守られました。これらは世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」にも深く関連し、熊野古道などの世界遺産登録は、南方熊楠たちが未来に託した活動の成果ともいえるではないでしょうか。
鈴木 惠三(BC工房 主人)
工房楽記「デザイン塾」
こんなデザイン塾は、初めてだった。熱気があって、フレンドリーで、なんか懐かしさがあって、新鮮で、自由な雰囲気。内田洋行パワープレイス若杉浩一さんのデザイン塾に参加してきた。若いデザイナーたちとの喧々諤々のやりとり。これこそが「ほんとの塾だ」を感じた。
一方通行の大学の授業への疑問。現状のデザイン教育を変えなければ厳しい。世界に出ていくデザイナーは育たない?などなど、ずっと感じていたことが、少しずつクリアーになった。
「教える、教えられる関係じゃないんだ」お互いに学び合う、という両者の前向きな関係が大切だ。
若杉塾長の講義が素晴らしかった。落語のように、ジャズセッションのように、場の一体感で盛り上がった。ほんとに参加者全員のセッションだった。
若杉さんが、すごいリーダーに育っているのに驚いた、と同時に、若い頃の実直な姿を思い出した。オイラの仕事のしくじりに巻き込まれたせいで、彼は上司にニラまれ、デザインの現場からハズれてしまった。オイラは、彼から恨まれても仕方なかった。そんな微妙な関係だったにもかかわらず、オイラを親分として、立ててくれるのだ。若杉さんの今回のデザイン塾の熱
気が伝わればうれしい。facebookを読んでもらいたい。
《以下、若杉さんの facebookから》
企業人として、あと2年で定年を迎えます。「最近、デザインもデザイナーも、なんだか面白くない!!」「デザインが細分化され、自ら枠をつくる、変な職業になってはい
ないか?」「こじんまり、形だけに囚われてないか?」「人に何かを伝えることに、関心が弱くないか?」「人付き合いが嫌いではないか? ……」「自分のことばかりで、愛が足りない!!」
なんて、自分の会社スタッフや、
続々と入る新人に思うようになりました。「こら、いかん気がする。未来は、草木も生えん気がする。」「とにかく、面白くない。」「彼らに、何かを伝えなきゃいかん気がする!!」
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そう思い、思いつく事を、一年間、まとめ始めました。
気づけば、300ページぐらいの資料になりました。
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本も読みあさり、調べ、確からしくしたつもりです。後輩が、何かに迷った時の指針になればという思いも含めて、伝えたいと思ったのです。サボっているサラリーマンには、耳が痛く、厳しいかもしれませんが、本当のことを。それが、デザイン塾の始まりでした。
「うまく伝えられるか?響くか?確かか?」
「いやそういうことより、もはや、雄叫びでもいいか?」悩むところはありますし、そんな大それた立場かとは思いましたが、毎月一回をスタッフと、信頼する仲間と、僕で、一年間続けてみました。しかし、全然、終わりません、次から次へとテーマが見え、仲間も増えるのです。
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そんな時に、僕の師匠、あの、鈴木恵三親分から「会いたい」と連絡があったのです。今年 歳を迎え、自分のまとめを「出版」という形で、やりたいとのこと。詳細はわかりませんが、僕は、師匠を、みんなに紹介したかったのと、その後、
年ぶりの話を、皆さんにも、聞いて欲しくなりました。
「デザイン塾やりませんか?鈴木さんと一緒に?」50親分は、快く引き受けてくれました。そして、当日が来ました。僕は、とても緊張していました。僕たちの前に現れた鈴木さんは、昔のままでした。あえて言うと白髪が増えたぐらいかな。全身から出る、オーラと格好良さは以前のままです。いや、無言の風格さえ備わっていました。いつもの会と違って、今回は、関心のある外部メンバーも沢山集まり、約 名ほどの、熱気のある会場になりました。最初の 時間は、僕と鈴木さんの出会いと、その後、僕が、何をしてきたかを、鈴木さんに伝えるために、お話しました。
あれから、沢山の事があり、沢山を伝えたかったのですが、到底無理です。
鈴木さんは最前列で、にこやかに座っていました。
鈴木さんは、多分、たくさんの話よりも、ここにいる人たち、僕を見て、おおむ
ね全てを察したのだろうと思います。とても暖かい気が、流れていました。
僕は話しながら、あの時の風景や思いがよみがえっていました。
沢山の話、出来事、やりとり、不思議なことに、苦労したことなんて一つも浮か
びません、うれしいこと、ありがたいことしか浮かばないのです。
僕の番が、終わり、鈴木さんの場面になりました。
「一緒に喋ろう!!」
「俺の話じゃなくって、みんなの話を聞こう、若杉も手伝え!」
本当は、みんなは、鈴木さんの話を、聞きたかったのだろうと思います。
僕は、あっけにとられました。
「僕の話や、過去の話なんてどうでもいいよ、これからの話をしよう。」たくさんの経験と、英知、思いが沢山ありながら、若者に耳を傾けようとする姿に、僕は、心が震えました。そして、自分の事ばかり喋った自分が、恥ずかしくなりました。
「デザインとかクリエイションとか、言っているようじゃダメだね、あえて言うと
変態!!」「僕は、普通だったから、なんとか変態になりたいと努力してきました。」「一生遊び続け、好きなことを、一人ぼっちでも追いかける、沢山ね.」「デザインできますって、形だけいじっているようじゃだめだね.」「企業だって、社会だって、そういう殻に閉じこもっている、非力な人達なのだっ
てデザイナーを思うし、利用する。そして、デザイナーはそこに甘んじる。そん
な非力では、世の中何も変わらないし、変えることもできない。」「そこに安住しない。不純で、青っぽい感じを全うしないといけない。」「自分の何かを、さらけ出して生きなければならないのです。」「ソコソコ金儲けをして、生きて行くようじゃだめなんです。」「儲けた分の半分は、誰かや、未来のために賭ける。それがまた自分の未来につな
がると思いますね。」鈴木さんの静かに語る姿を見ていて、僕は、嬉しくて、涙が出そうでした。そう、この人は、昔から、そういうことを、僕たちに伝えてきたのです。そして、僕たちはその言葉を受けて、愛を受けて育ってきたのです。なんの見返りすらない、僕たちに、無償の愛を捧げてきたのでした。
だから、僕はそれを、誰かにお返ししなければって、ずっと思ってきました。鈴木さんの嬉しそうな顔を見て思いました。
「まだまだ続きがある、終わりのない、続きがある。」
「それを、僕は伝えなきゃいけない。それをしなきゃいけない。」そう思いました。次の日に僕は鈴木さんにメールをしました。1.鈴木さんの工房で、若者とデザインを学び合う、学び舎をやりたい。2.鈴木さんが連れて行ってくれという、スギダラツアーで、地域の人達と学び舎をやりたい。3.ジャワの工房に行って、学び舎をやりたい。鈴木さんから、すぐに返事が来ました。
若杉さんへ
あ..、うれしかった、楽しかった。スゴかった、良かった。
古い伝統の継承ではなく、今までの誤っているやり方を変える伝承。
モノづくりを変える、社会を変える、デザイナーを変える、
考え方を変える、地域を変える、人間を変える。変えるスゴさを感じました。
70のオイラのライフワークが見えた。
若杉さんは、オイラの親分です。
親分の言うコトはなんでも聞きます。
カラダを張ります。
1.ふじのデザイン塾
2.スギだらけデザイン塾
3.ジャワデザイン塾
オイラが、生きてる間にやりましょう。老後が楽しくなりました。
若杉一家の若者たちは、輝いていた。オイラのような老人もうれしくなった。
KEIZO
ああ...楽しくなった
KOICHI ◆
鬪.神社と弁慶
鬪.(とうけい)神社は、様々な歴史を背負っています。平安時代、後白河院の熊野詣をきかっけに、平安貴族の間で一大ブームが起こります。京都から熊野本宮大社のルートとしては、熊野古道の「紀伊路」を南下し、田辺から「中辺路(なかへじ)」の山道に入るのが一般的でした。熊野詣が盛んになるとともに、熊野水軍の有力者が熊野三山を仕切る熊野別当職をつとめるようになり、熊野詣の拠点となった田辺では田辺家が代々の別当家となりました。第 21代「湛増(たんぞう)」は、武蔵坊弁慶の父ともいわれ、平氏に協力して勢力を拡大しました。
平氏に味方していた湛増ですが、やがて源氏に傾いていきます。壇ノ浦の戦い(1185年)の際は、平氏につくか、源氏につくか、鬪.によって占ったことが神社の名の由来になっています。源氏の鶏が勝ったことから、湛増は船 200隻、2千人を従えて壇ノ浦へ出陣し、源氏とともに海戦を闘いました。熊野水軍の加勢は、源氏の勝利に大きく貢献したといわれます。
環境保護のはじまり高山寺
田辺の市街地を一望する高台にある「高山寺(こうざんじ)」。聖徳太子の創建とも伝えられ、空海とも縁の深い真言宗の寺院です。文化 13年(1816)、興道阿凉の大願により完成した多宝塔は、上宮太子(聖徳太子)をまつっています。田辺市街から湾までを一望できる墓所には、南方熊楠のほか、盟友の喜多幅武三郎氏、合祀反対運動の同志で高山寺の住職もつとめた毛利清雅氏など、ゆかりの人々が眠ります。
合祀反対運動の舞台となった猿神社跡に、お寺の方が案内してくださいました。墓所の下から山道をくだります。
境内からは貝塚が発見されていて、縄文時代から人々の暮らす高台だったと推測されています。明治 28年に高山寺の住職となった毛利清雅氏は、田辺の地元新聞「牟婁(むろ)新報」を発行。上京時に足尾鉱毒事件など公害問題にふれた毛利氏は社会運動家としても活躍し、熊楠は牟婁新報に合祀反対を訴える記事をたびたび寄せていました。
熊楠の研究フィールドは特別な場所ではなく、自邸の庭や近所の寺社など、ごく身近な場所でした。その小さな世界のなかに世界的な発見があることを、熊楠は教えてくれます。
つれづれなるままに第36回こんぴら歌舞伎とうどんツアー内田 和子
& 四国縦断 Part.1
四月、恒例の四国こんぴら歌舞伎とうどんツアーに参
加した。飛行機はあまり得意ではないので、新幹線のぞみで岡山経由、アンパンマン列車に乗って瀬戸大橋を渡り丸亀へ。酒好きが集合する前夜祭があるというので、それに間に合うように東京を出たが、出発から6時間、さすがにシンドイ。駅前からホテルへ向かうつもりでいたが、丸亀城の夜桜まつりがあるとのことで、タクシー
がなかなか来ない。もう
分も待っているのだと、乗り
場に並ぶ人が言う。前夜祭は断ろうと連絡をすると、駅まで来てくれるとのこと。チェクインは後回しに迎えの車に乗り込む。お店はこじんまりとしているが、こだわり料理と日本酒の美味しい定番の店だという。楽しそうなメニューがたくさん並んでいて、どんな料理が出てくるのか想像できない。日本酒ソムリエの資格を持つ若いおかみさんが、料理に合うお酒を都度選んで説明をして
くれる。明瞭簡潔。口に含める
と一段とお酒の味わいが深くな
る。お酒を飲めば食が進み、食
が進めばお酒がまた飲みたくな
る。日本酒をこよなく愛する人
(別名呑んべいともいう)の前夜
祭に納得、初参加を果たした。
寝る前にペットボトルの水1本
半と胃薬を飲み、明日に備えた。
こんぴら歌舞伎は二部の2時半から。それまで何軒かのうどんをはしごする計画が組まれている。9時、ロビーに集合。大阪、近江からの朝着組も加わり、地元香川の世話人を先頭に4台の車が連なってツアー出発となる。うどんツアーはもう何年も行っていない。
1軒目、トッピングをしたら後が食べられないと知っていたが、目の前に並ぶタケノコの天ぷらに手が伸びる。うどんは小、といってもうどん玉は1つ。温かいおつゆで喉越し良く完食。ツアーの合間に「快天山古墳跡」を見学。従来の讃岐型前方後円墳に畿内の首長墓の築造様式が取り入れられているという詳しい資料も用意されていて、思いがけない歴史勉強となったが、腹こなしに丁度いい。
2軒目、ここはぶっかけ。トッピングなし。
次は、木材所見学。山から切ったばかりの木や、乾燥室に入ったもの、一枚板に加工したもの、床柱などが置
20
つれづれなるままにこんぴら歌舞伎とうどんツアー
いてある。設計者がクライアントを直接案内して材木を選ぶことができる。海外からも買い付けに来るという。社長さんは忙しい最中だったと思うが、物珍しくいろいろ聞く私たちに、心やすくお話してくださった。
木というのがどういうものか、木を育てるとはどういうことか、林業が抱える様々な問題や木を扱う職人技術の継承など、多くの課題がある中で、子供達にも木の良さを知ってもらう活動をされているとのこと。カフェもあり、小さな森を散策しながら木のぬくもりを体感できる。東京に生まれ育った私には、初めて見聞きすることばかりであった。木をふんだんに使った家を造るのは夢かもしれないが、自分で選んだ木で、家具の1つも作れたら豊かな気持ちになれるかもしれないと、一緒に話を聞いていた人とうなずきあった。
3軒目、今日はここまで。昼食ということで、時間もゆったりメニューも豊富である。地元でも評判のお店で何を食べてもハズ
レはない。春野菜のてんぷらと釜揚げうど
ん。朝のトッピングタケノコのことはすっ
かり忘れていたが、揚げたてのわらび、タ
ケノコ、フキのてんぷらは、釜揚げによく
合い格別だった。
これで、一日目のうどんツアーは終了と
なり、琴平へと向かう。駐車場に車を預け、
歌舞伎のぼりがかかった商店街をぞろぞろ
と歩く。あれだけ食べたのに、途中のコロ
ッケ屋さんで揚げたてコロッケを買い、ソフトクリームを食べながら、歌舞伎座への階段を登り、坂道を上っていく。今日は3軒だからいつもより楽というが、久しぶりの私にはこの坂がきつい。これが登れなくなったら、こんぴら歌舞伎も来れないなぁと思っていると、駕籠かき屋さんが降りてきた。いざとなったらこれに乗ればいい。ホッとした。入れ替えを待つ間、ガイドに目を通す。演目は、雀右衛門の「葛の葉」と仁左衛門の「身代座禅」である。合間に雀右衛門の襲名披露の口上がある。こんぴら歌舞伎は役者も演目も当日のお楽しみだが、仁左衛門が出ると知り、一気にハイテンションになった。一昨年、京都南座の仁左衛門の土蜘(つちぐも)を観てすっかり虜になっていた。2階席西側で花道全体が見える。役者の表情もよく見える前方の一番前。仁左衛門の艶のある声と顔もすぐそばにある。身替座禅を演じる板東彌十郎の奥方玉の井と仁左衛門の右京との掛け合いに、やんやの拍手と大笑いが続き、こんぴら歌舞伎の醍醐味を心
ゆくまで楽しんだ。 (四国縦断へつづく)
高野山へ
弘仁7年(816年)、嵯峨天皇から弘法大師空海に下賜された日本仏教の聖地高野山。田辺とは、熊野古道の中辺路、小辺路で結ばれていました。
普通は橋本駅で南海高野線に乗り換えますが、その手前の高野口駅で降りてみました。高野口はかつて高野山参詣の宿場町で、駅前には今も旅館「葛城館」の建物が残っています。大正 4年に高野山を訪ねた熊楠は、田辺から高野口駅までを列車で、葛城館で昼食をとってから人力車で高野下へ向かい、そこから徒歩で山を登っています。
高野口駅からタクシーで 3kmほど離れた九度山駅へ。途中、九度山橋で紀の川を渡ります。
真田幸村でブームになった九度山駅。南海高野線は、高野山の険しい山道を登っていきます。
極楽橋駅でケーブルカーに乗り換え高野山駅へ。車内は海外からの観光客が多く国際色豊か。高野山ケーブルは昭和5年の開業。車内は急な階段状になっています。
高野山奥の院標高800〜900mの高地にあり、山々に囲まれた東西6km南北3kmの地に100以上の寺院が密集する高野山。今も弘法大師空海が修行を続けていると伝わる奥之院には、中世から続く20万基以上の墓所が並ぶといわれます。
少年の日、修渉の次で、吉野山を見て南に行くこと一日、更に西に向って至ること二日程にして一の平原あり。名づけて高野という。
弘法大師
八つの峰々に囲まれた地形が「蓮の花」にも例えられる高野山。若い頃から空海は幾度となく吉野から修験道の山道を歩き、高野山に通いました。疲れた体と心、痛みを癒やしてくれる大自然に恵まれ、清やらかな水が豊富な高野山は、弟子たちの修行の地にぴったりだったのです。
一度参詣高野山、無始の罪障道中滅
弘法大師
高野山の昨年の参詣客は 200万人近く「一度参詣すれば、全ての憂いが無くなる」といわれ、お伊勢参りや熊野詣と並び、中世から沢山の参詣者が訪れました。最盛期には 7千近い寺院に10万人以上の僧侶がいたと推測されています。僧侶の身分は「学侶」、「行人」、「聖(ひじり)」に分かれ、それぞれの役割を担いました。
「学侶」は武家や貴族出身の学僧で、尊い存在として特権を持っていました。「行人」は一般人からでた僧侶で、雑務を行い寺院の雑務を担いました。「聖」は全国を回りながら勧進や布教を行う遊行者で、高野山と対立した織田信長が虐殺をおこなったのは「聖」たちです。行人の中には土木技術者や大工もいて高野山の建設に従事する他、寺院警備を行う僧兵や生活道具や仏具を作る職人、刀、槍、鉄砲など戦国武将にむけた武器の生産も行っていました。
禽獣(きんじゅう)卉木(きもく)は皆 是れ法音(ほうおん)なり
弘法大師
「動物や草木、自然界こそが仏の声である」。南方熊楠も、高野山の草木の声を聞いていたのでしょうか。高野山のような宗教都市は、戦国大名の捜査権や徴税権の及ばない「無縁場」(アジール)として機能していました。境内には貴族から庶民まで様々な理由で追われた人々が流入し、広大な寺領で行われる荘園経営や建築・土木技術を発展させ、金融業までを牛耳ることで大名をしのぐ経済力を持ちました。不可侵の聖域であった寺社勢力の弾圧は、全国統一を目指す織田信長や豊臣秀吉にとって避けられない道筋だったのかもしれません。応其上人の墓所。
▼ 弘法大師が修行を続ける奥の院の御廟。
天正 13年(1585)、紀州攻めによって根来寺や雑賀衆を滅ぼした豊臣秀吉は、高野山に対しても降伏を求めました。この時に特使として派遣された木食応其(もくじきおうご)は武装解除と仏事の勤行を約束し、秀吉をなだめることで焼き討ちから守りました。その後も秀吉のブレインとして寺社造営や治水工事に協力することで高野山の再興をはかります。秀吉は高野山を「総菩提所」と位置付け、亡母の菩提のために建立した青巖寺は総本山金剛峯寺のルーツとなります。
▲ 宿坊のひとつ別格本山 遍照光院。▼こちらは南方熊楠が宿泊した一乗院。
奥の院から壇上伽藍にいたる参道には沢山の宿坊が並んでいます。高野山117カ寺のうち 52カ寺が宿坊を営み、宿泊客は年 44万人を超えました。高野山で修行する多くの僧侶や高野山大学の学生たちが、宿坊での接客を行っています。
豊臣秀吉の墓所。
▼ 千利休の師である武野紹鴎の墓所。
▼ 武田信玄、勝頼親子の墓所。
数千人の高野聖を惨殺した織田信長の墓所もあります。となりには筒井順慶の墓石も。
「密厳堂(みつごんどう)」は新義真言宗の開祖・覚鑁(かくばん)上人を祀るお堂です。 平安時代、空海以来の才覚といわれた覚鑁上人は学問道場「大伝法院」を復興し高野山の改革を進めますが、はげしい反発にあい山を追われます。山を降りた上人が結んだ根来の草庵は、高野山と並ぶ一大宗教都市・根来寺(前号参照)に発展しました。
ドラゴンシリーズ 35子供達に時を手渡すこと吉田龍太郎( TIME & STYLE )
ドラゴンへの道編
今日もこうやって、僕らは日々、生きています。いや、生かされています。この一瞬がどれだけの意味を持っているのだろうかと、時々、考えます。僕らが今日もこの瞬間を生きている意味と価値は、世の中で起こっている様々な出来事を見ても、比較できるようなものではない、それ以上にとても貴重な瞬間です。この世には差別や偏見、憎しみや嫉妬などのネガティヴな意思もたくさんあります。私自身も表の顔と裏の顔の二面性、多面的な性格を持っています。年齢を重ねて培ってきた経験値から導き出す答えもありますが、私の意思では動かせない現実もまた、目の前の現実です。
毎日を生きることができていること、この事実はまさに夢の時間だと言えます。この事実は誰が自覚しようとも、無意識であろうとも私が与えられた命であり、この時間と言う実在する概念を自覚することができる今の私達は本当に幸せです。
今、自分がここに生きている現実以上に明確な幸せは無いのです。生きているから悲しいし、苦しいし、寂しい。生きることは楽しいことばかりではありませんが、その悲しみも寂しさも、苦しさも、やがては本当の幸せに繋がっているのが私達が生きていることだと思います。そう思わなければ私達の毎日は虚無に満ちた無意味な時間と化します。
感じたことを繰り返し考え、そこから導き出した自分の答えを自身に対し問いかけながら導き出す答えが私自身です。その行為によって自分の意思を持つようになります。何が自分にとって大切なことなのかを問いかけながら生きてゆくことです。答えは見つかりませんが、生きて進みながら探し続けています。
時々、当たり前のように朝になると目が覚める時に、フッとこのまま目が覚めない朝が来るかもしれないと言う怖れに襲われることがあります。その恐怖感が逆に自分の時間に対する意識を覚醒させてくれます。時にはそんな自分の命や時間に対する限界があると言うことを意識することで、時間に対する向き合い方を変えることになります。自分を自覚できることは生きていると言う素晴らしい現実です。
しかし、その自覚にも制限時間があります。いつか、私自身を自覚できる時には終わりが訪れます。自覚できることを知り、その自分と素直に向き合うことができたら、とても幸せだと思います。いや、その自覚と言う概念を知りながらも自覚しない生き方が、本当の素直な生き方なのかも知れません。まだそんな達観した気持ちにはなれません。日々、迷い、悩みながら生きています。
時間は限られている。自分もいつか存在しなくなること。そして、生まれてきた全ての生き物が同じように限られた時間の中で生きていることを、私はもっと早く自覚するべきでした。そうすれば、これまで過ごしてきたたくさんの無駄をしなかったと言う気もします。しかし、振り返れば、若い時の無駄と言える遠回りの時間こそが、今は生き生きとして生きています。そして、そのような無駄と思えるような時間は実はとても豊かな時間です。
年齢を重ねることは、自覚して味わうことができる時間を持つことができることだと感じています。それまでは見えなかった影や側面が見えて来ることは物事の深みを少しづつ垣間見ることができるようになるからかも知れません。人間も 1人、個人の人格があり、それぞれの生い立ちと生きてきた軌跡があります。その 1人の個人の違いを認めて、その人が歩いてきた軌跡を辿ってみると、そこには喜び、悲しみ、寂しさ、悩み、希望が見えてきます。そして、その喜びや悲しみの感覚や迷いや悩みはどんな年齢になっても切れることなく私に付いて来ます。年齢を重ねることは、そんな様々な感覚と共に味わい深く生きてゆくことができることにあると思います。
今、私が求めているのは希望です。限られた時間を希望を抱いて生きることができたら幸せな時間になります。私自身だけでなく、全ての人々が心に失意があるとしたら、その失意が希望に変化してほしいと思います。
東北や熊本に希望を持って生きている人々が増えるような日本となることを願っています。そのような希望が持てる国にしていかなくてはなりません。しかし、時間ばかりが経過していますが、その場の人の心に希望があるのでしょうか。そこにある時間は永遠のようですが、私の時間に限りがあるように、そこに生きる人々にも限られた時間が存在しています。生まれくる命と消えてゆく命と常に同じ営みがあります。ある特定の場所に苦しみがあれば、時間を分け合い助け合うことが必要です。
ネガティヴな闘いが世界中で起こっています。その戦いは何を生み出すのでしょうか。戦地に赴く若者、戦地で苦しむ子供達に希望があるのでしょうか。今、私達が考えて生きなければならない時間は刻々と取り返しができない場所へと進んでいます。いつ飛んで来るか分からないミサイルに恐怖するよりも、もっと私達にはやるべきことがあると思います。日本は唯一の被爆国です。戦いが招く悲惨な結末をどの国よりもよく知っているのが私達なのです。
私達の子供達、そしてその子供達に幸せな時間を渡すことが希望であり、私達が生きているいちばんの意味のような気がします。私達が希望を持って日々の時間を自覚して過ごせるような世界になることを願っています。
総本山金剛峯寺高野山は弘法大師による結界に守られた聖域であり、全域が総本山金剛峯寺の境内であると考えられています。そのなかで金剛峯寺には高野山真言宗の管長が座し、南方熊楠と親交のあつかった土宜法龍は、第 386代の管長をつとめていました。屋根の上には火災に備えた天水桶を載せ、はしごを掛けています
蟠龍庭(ばんりゅうてい)は、弘法大師御入定 1150年(1984年)を記念して造園され国内で最大級の石庭といわれています。同年には映画「空海」(主演:北大路欣也)も公開されました。
書院上段の間は、かつて天皇や上皇の応接間として使用され、現在は高野山の重要な儀式に使用されています。壁は総金箔押しで、天井は折上式格天井、書院造りになっています。高野山と皇室の深いつながりを感じさせます。
僧侶の食事を賄ってきた「台所」。炭をおこす場所には大きな煙突が配置され、柱や梁は煤で真っ黒になっています。湧き水を貯めた高野槇の水槽や大きな「かまど」は現在も使われているそうです。
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