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時空を超える美意識
10周年Paet2 2017
http://collaj.jp/
神宮外苑の熊野神社通りに面した「AREA TOKYO」は、オープンから10年たちました。「生活の全てがAREAで、それが楽しかった」と野田さん。
野田さんが地元の神奈川県・茅ヶ崎の駅前にAREA1号店をオープンしたのは2003年のこと。その前は木工家具メーカーの直営店で仲間たちと月に1億円の売上を立てるなど、敏腕店長として知られた存在でした。自分の店を開いてからはリュックを背負って地方の家具メーカーをまわり、飛び込みで家具を作ってくださいとお願いしたことも。「最初に壁はあっても、熱意を伝えることで乗り越えてきた」といいます。
2015年12月、AREA13年記念パーティの夜。
400年の歴史をもつ青山熊野神社へ。境内の脇にある勢揃坂は、鎌倉街道の一部だったともいわれます。青山という地名のルーツともなった青山家には、初代・青山忠成が徳川家康と鷹狩に出かけた際「馬で一周した土地を与える」と言われ、馬が倒れるまで走らせて青山の領地を得たという伝説があります。
「ゴシックやルネサンスのような王朝時代のインテリアを今の日本の誰かのために、日本の木を使ってデザインしてみたい。ある特定な人のためにインテリアを作るのが好きです。小説を書くのも誰かのためだと書きやすい。テーマはやはり『角』。僕が引っかかるのは鬼的なもの。ゴシックは天上に伸びて神に近づく一方で、悪に近づく側面もある。こうしたマニアックな家具は、本当は人知れず生まれて終わるものかもしれません。だからこそ僕らは、きちんとした家具の知識をもち、販売力を磨き続ける必要があります」。野田さんの目指す家具はインテリアの地平を超え、小説と境のないものになっていきそうです。
イタリア北部ロンバルディア州に、マントヴァという小さな街がある。その周辺にはパルメザン・チーズと生ハムで有名なパルマ、バルサミコ酢で知られるモデナ、エステ家の本拠地で見事な城館がそびえ立つフェラーラ、美食のボローニ90ャ、少し離れて、ビザンチン時代のモザイクが世界遺産となっているラヴェンナなど、ポー川流域を中心に極めて魅力的な小都市郡が競い合うように点在している。中でもフェラーラとマントヴァは、イタリア・ルネサンス文化の歴史をたど
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る時、フィレンツェとは全く異なる個性で特別な輝きを放つ。いつかマントヴァを訪ねてみたい。 年以上昔からの夢が
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叶ったのは、4年前の夏だった。なぜ、マントヴァなのか。イザベラ・デステ(1474〜1539)が住んでいた城館をひと目見たい、そう思い続けてきたからだ。この傑出した女性の存在を初めて知ったのは、ルネサンス期の宴席につ
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いて、あれこれ調べている時だった。フェラーラのエステ家令嬢として生まれ、わずか6歳でマントヴァ公ゴンツァー
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ガ家のフランチェスコ(1466〜1519)と婚約し、 年後の1490年に結婚。華々しい嫁入り行列を従えてのお輿入れで、 歳の姫君は次代マントヴ
ァ公夫人となった。
若年での婚約・結婚
とはいえ、両都市間は
km弱の近距離にあり、婚約期間 年ということもあって、
互いに相手のことは十分に知った上での結婚だった。当然、
姫様を迎える公家も準備万端、サン・ジョルジョ館の一隅に、
上下2つの階にまたがる専用階段で結ばれた2部屋を姫のた
めに用意。その上階がストゥディオーロ、下階はグロット(写
真:室内調度と装飾が見事)となっていた。
グロットについてはまたいつかお話するとして、ここでは上階のストゥディオーロに注目したい。この言葉は英語のスタディと同語源ではあるものの、これを「書斎」と訳したのでは、当時の意味から大きく外れる。まだ 代も半ば過ぎというイザベラは、当初この小部屋に家族や友人の肖像画を飾り、棚には様々な青銅の像、古いコインや人物の像が描かれたメダル、凝った造形の貴石類など、自身が好きで集めた様々な品物を置いて楽しんでいた。この若く美しい新妻は、子供の頃から一種収集癖があり、美しくて珍しいものには目がなかった。エステ家というルネサンス期でも有数の、桁外れの財力と文化力そして軍事力を誇る一族の宮廷育ちの姫様は、大変な勉強好き。ラテン語はもちろんフランス語も若くして修得。数種類の楽器を弾きこなし、踊りも専任の教師を招いて学んだ。色彩感覚に優れ、ファッション・センス抜群。その上、夫との間に生まれた子供が8人。その夫は勇猛なる武闘集団を率いる傭兵隊長で、莫大な契約金でヴェネツィア等に長期赴任。当時のイタリアは戦が日常の戦国時代。夫の留守中、一瞬たりとも油断ならない領国の経営をイザベラは担い、夫亡き後は、
「ゴッドマザー」として小さな君子国を守り抜いている。驚くべき美しき女傑というほかはない。
で、そんなイザベラの大切な小部屋ストゥディオーロ。結婚4年目にして、
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床下にネズミが巣を作ったため、床板を剥がしてモザイク仕上げにするというリフォームを行った。時にイザベラ 歳。その頃から大人の女として、この大切な小部屋を「精神の拠り所となる空間」へと作り変えていくことになる。広大な館の一隅に作られた6畳程度の閉じられた小空間。そこに至る通路、扉、内部の壁面、天井、これら全てに凝りに凝った空間を作り出すこと。イザベラが特に製作を依頼したのは、二人の画家マンテーニャとロレンツォ・コスタ。自分自身が生きる道標ともなる精神的なテーマを象徴的に描かせた。
そんな小空間の創始者と言っていいのが、ウルビーノを治めた文武両道の傭兵隊長フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ(1422〜1482)。ラファエルを生み出したウルビーノの宮廷は、小さいながらもその文化的洗練度において当時抜群の存在だった。戦を仕事にしながら、戦なき時にはその空間に籠もって、古典古代の哲学書を読み、宇宙と時間の流れに想いを馳せる。時には、ごくごく親しい友を招いて、厳しい世相を離れ心の鎧を解いて語り合う。領主としての仮面を外して、本来の自分に戻って自身の充実を計る場所、それがストゥディオーロだった。
イザベラは子供の頃からウルビーノ宮廷を何度も訪れていたし、母も自身のストゥディオーロを持っていた。片やたたき上げで百戦錬磨の傭兵隊長、片や名門貴族のお姫様。出自も育ちも世代も個性も異なる二人ながら、そうした空間を大切にするという心のあり方は同じ。また、キリスト教の教えではなく、むしろプラトンに代表される古代ギリシア哲学への憧憬、天空の月や星の動きに人の生の転変を合わせ見る占星術的世界への指向という点も共通する。何より「社交の天才」と言っていいイザベラが、一方で孤独の瞑想空間を極めて重視したことが興味深い。彼女は後年もう一つ新たにストゥディオーロを作る。こちらはより占星術的要素が強くなり、同時に、古典古代の神話世界に近づくエロスを讃える方向が深まっていく。マントヴァの宮殿を訪ねた時、幸運にも原則未公開だったストゥディオーロが、公開されていた。その小空間でイザベラを思いながら過ごした濃密な時間が、忘れられない。
昨年 11月に開催された、IFFT/インテリア ライフスタイルリビング。毎年 6月に開催されるインテリアライフスタイルの姉妹見本市として2008年に開催されて以来、はじめて2万人を超える来場者を迎えました。見本市を主催するメサゴ・メッセフランクフルトは、メッセフランクフルト(ドイツ)の日本法人として、インテリア家具関連の他に、美容、ペット、まちづくりなど様々なテーマの見本市を開催しています。今回は紹介されることの少ない見本市会社の役割について、IFFT/インテリア ライフスタイル リビングを担当する、川津陽子さんに聞きました。アンビエンテやハイムテキスタイルなど、関連する海外見本市との連携もメサ「見本市の準備は1年以上前から始まってい
ゴ・メッセフランクフルトの強みです。海外出展をサポートしたり、優れたデます。IFFT/インテリアライフスタイルリビン
ザイナーをアンビエンテに招待するなど海外との橋渡しをしています。グを例にとると、11月の開催からすでに次回の出展誘致は始まっています」と川津さん。会場で出展企業をまわるのはもちろん、国内外からの視察団を案内し、その場で出展が決まることも。また出展検討中の企業に向けた説明会を開き、出展経験者の話を聞いたり、ハイクオリティな家具やインテリア用品が集まる点などを解説します。一方、海外からの出展者に向けて、日本市場の特性や商習慣の違いをまとめた資料をつくり、日本市場を理解してもらう工夫もしています。2017年2月10日〜14日までフランクフルトで開催されたアンビエンテ。世界96カ国・地域から4,454社が出展し154カ国・地域から142,000人が来場。前回より出展者、来場者ともに増加しました。ヨーロッパの見本市の多くは商品の受注と直結しているため、経済不安や社会情勢の混迷のなかでも、営業活動を安心して行える場として人気を高めています。
フランクフルトの市庁舎(レーマー)広場では 800年以上前から「年の市」が開かれ、各地から訪れる商人で賑わいました。広場の中央に立つ「正義の女神(Lady Justice)」は、天秤を掲げ商いの公平性を象徴しています。安心で公平な市場を提供するすることが、街の富の源泉になったのです。これがフランクフルトで開かれる国際見本市のルーツとなっています。▲セールスパートナーにプレゼンする川津さん。▲海外見本市のブースデザインも参考になります。
アンビエンテ会場を訪れた川津さんは、日本の見本市に参加して欲しいと感じた出展者にコンタクトしたり、世界各国のセールスパートナーに見本市の開催概要をプレゼンしたりして、見本市の売り込みに努めます。「ドイツの見本市には他国へ出かける営業経費をおさえる効果もあり、1年分の受注をここでとってしまおうという意欲を感じます。日本ではまだ販促 PRの意味合いが大きいですが、自社ブースへの集客ノウハウや、終了後のフォローなどを紹介し、見本市を最大限に活かすノウハウを普及したいと思います」と川津さん。
▲熊本地震など災害義援金活動にも取り組んでいます。
「見本市会社として会場の出展スペースが埋まればいいという訳ではありません。質の高い来場者を呼び、ビジネスの効果を上げるまでが私達の仕事です。旭川や飛騨、広島など日本の家具産地をまわると、工場で若い方々が働く姿に未来を感じました。そうした企業の販路拡大をサポートする役割を見本市が担っていると実感しました」と川津さんはいいます。次回のインテリア ライフスタイルは、2017年6月14日〜16日、IFFT/インテリア ライフスタイル リビングは2017年11月20日〜 22日、どちらも東京ビッグサイト西ホールで開催されます。
吉田龍太郎( TIME & STYLE )
燃えよドラゴン龍太郎
33 新聞少年リッチマン
僕の実家は貧乏だったので小さな頃は好きな野球のグローブとかバットとか買ってもらえなかった。遠足の時なんか近所の友達の弁当に入っている卵焼きと切り目が入ったウィンナーや焼いたソーセージなどと一緒
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にシャレたギザギザの緑色の仕切で仕切られたお弁当は、本当に羨ましくて食べたくて食べたくてしかたがなかった。でも、そんな素振りを見せたくない。一度は食べてみたかったけど、親には一切そのことを口にしたことはなかった。なぜだか小さな少年の心の中にも食べ物で我が儘を言ってはいけないことは分かっていた。
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小学校二年生の頃から新聞配達を始めた。近所の鬼付女
(きづくめ)地区の観音山という八十八カ所巡りのある小さな山の麓が僕の配達地区で、初めに担当した新聞の配達数は 軒だったように記憶している。町に一つしかない新聞配達の集配所では朝日新聞、読売新聞、宮崎日日新44聞、西日本新聞、聖教新聞、赤旗など色々な新聞を配達しなければならなかった。部というと少ないと感じるだろうが、田舎の家で当時新聞をとっているような家は少しだけ生活に余裕のある家で、多くの家では新聞をとるお金にも苦労していた。配達する一軒一軒が離れていて、それぞれの新聞も違うために小さな小学生の僕は、配達先を間違えず新聞を配り終えるまで普通の大人よりも時間が掛かった。
それでも新聞配達所の人はよくぞ小学二年生の僕に 軒の配達先を任せてくれたと思う。姉貴のお古の自転車の手前の籠に新聞を入れて、毎日休むこと無く眠い目を擦りながら、布団から起き上がって新聞配達所に行くまで、自分の心との戦いが毎日のように繰り返された。『もっと眠りたい。起きたくない。行きたくない。配達したくない』と言う気持ちに重ねて『辞めちまえ。そのまま眠っていたら気持ちいいよ。新聞配達なんか辞めたら毎日が楽だよ』と言う悪の声がいつも耳元で囁くのだった。それでも新聞を配達するコースを自分なりに工夫して、最短コースをとるために、高い塀の上を渡って、階段は踊り場から下までジャンプしたり、階段は4段、5段を規則的に下りながら時間を稼いだり、番犬のいる家では犬の動ける範囲を把握しておいたり、色々と工夫して時間を短く配達できるようになっていった。しかし、さすがにお墓の前とお寺の前だけは、何度行っても恐
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ろしくて怖くて何も見ないように全速力で駆け抜けるだけしかできなかった。何せ地区の名前が鬼付女ですよ!、何かあるはずだと子供な
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がらいつも心のどこかにそんな怖さを持っていた。鬼付女と言う地名については今度、ちゃんと調べてみよう。
さて、そんな新聞配達を小学校二年生から始めた僕は子供ながらにお金を稼ぐことを憶えた。初めのお給料は昔の茶便箋に、よしだりゅうたろうくん3200円と書かれていたように記憶している。その茶便箋を新聞配達所の社長さんからうげうげしくいただき、家まで待てずに封筒を破って途中で中身を確認した。そのお給料の半分くらいは母親に渡した。
それから、僕は貧乏人では無くなった。小学生としてのお小遣いが 円とか 円とかの時代に3200円ですよ。僕は数回だけは母に半分くらいの給料を渡したもののその後は自分の好きなものを買うお金にした。その頃に一番欲しかったのは、当時夢中になっていた野球に登場した金属バットだったので、二回目の給料では早速ブルーの金属バットを購入した。その金属バットは小学生の友人達の羨望の的となった。龍太郎の家は金持ちなんだな〜と友人の親から声を掛けられたが、否定はしなかった。何せ僕は小学生のなかでは自分で使えるお金を3200円も毎月持っているリッチマンなのだから。しかし、その代償として雨の日も、台風の日も、真冬の寒い雨の朝も、どんなに眠くても新聞を鬼付女に運ばなければならなかった。好きなもんが欲しかったから自分の足で稼ぐと言うのは大変なことなんだと思ったけど、おかげでお金に対する執着心は無い。新聞配達は僕の仕事の原点となっている。
環境に対して、今できることから。
2012年、小林さんはコラージ取材班とともに北九州市の水素タウンを訪ね、水素社会を先取りした試みを取材しました。それから約 5年「想像以上に早く燃料電池自動車を使えるようになった」と小林さん。
北九州水素タウンには水素の地下パイプラインが敷かれ、水素ステーションの他、燃料電池を使った実験住宅やショッピングセンターなどで実証実験が行われていました。
クラリティの場合、満タンで約 5kgの水素を入れられます。
(水素チャージャーの表示版には、重量
kg)と圧力(MPa)、
温度(℃)が表示され、料金は1kg1000〜1100円(2017年 2月現在)。クラリティは満タンで最大 750km走るそうですが、この日の予測距離の表示は 500kmほどでした。
水素ステーションはガソリンスタンドのような匂いもなく快適です。クラリティや MIRAIが頻繁に出入りし、燃料電池車がこんなに走っているんだと驚きました。水素の充填は資格をもったスタッフが行い、1日20台ほどチャージするそうです。
水素ステーション芝公園はトヨタMIRAIのショールームを併設し、燃料電池自動車の仕組みを解説しています。燃料電池自動車は燃料電池(FUEL CELL)による水素と酸素の化学反応で発電し、その電気でモーターを回して走ります。走行した感覚は電気自動車に近い部分もありますが、圧倒的なパワーがあり、航続距離が長く、水素充填も数分で済みます。
「前に乗っていたプリウス PHV(プラグインハイブリッド)と比べ真っ先に思ったのは、暖房が温かいこと。水素エネルギーのパワーを感じる」と小林さん。右は KENOSによるエコストアの提案(2006年)。自然エネルギーを自給する環境負荷の少ないストアのあり方を、業界に先駆けて提案してきました。
小林清泰さんが主宰するデザイン事務所 KENOSでは、主に「流通小売業のチェーンイメージの基本づくり」を手掛けています。具体的には、巨大ショッピングセンターの外観イメージやロゴ、売り場構成、サイン計画等をデザインして、業態のイメージを作り上げていくスケールの大きな仕事です。東京で生まれ育った小林さんは、大学で工業デザインを学びます。同窓生が家電メーカーや自動車メーカーのデザイン部へと就職するなか、小林さんは、東京をはなれたいと、なぜか京都を目指します。
京都の店舗装飾会社に就職した小林さんは、マネキンなどの新素材開発部門でデザイナーとして働きはじめ、そこで出会ったのが京都大学・上田篤研究室の学生たちでした。大阪万博に先立って開催された「びわこ大博覧会」(1968年)の準備を手伝うなかで、建築の要点を学んでいきます。大阪のデザイン室で店舗什器の開発を手掛けた後、東京に戻った小林さんは、空間デザインを独学で勉強しながら、住宅や店舗、オーダーキッチンなど様々なデザインを手掛けました。ハウスメーカーのモデルルームとして設計された「コリドールのある家」(コリドール)
(2006年)。通り庭的な広い回廊をもち、趣味室やギャラリースペースをつうじて、社会との関係を大切にした夫婦の暮らしを提案しています。
執筆スーパーマーケット店長法律ハンドブックプロダクトデザインオフィスデザイン 第5章 『施設と環境」ローソンカウンター /Gマーク受賞NEDO2017年版発売中
プロダクトデザインオフィスデザインインテリアデザインプロダクトデザインイリア/システム収納家具日本海ガス個人邸 /リビング収納家具(制作:西崎工芸)ローム /LEDベース照明 /Gマーク受賞
長野県で最も人気の高いスーパーマーケットチェーンに成長したツルヤの佐久中央店(2016年)。
第34 回内田 和子
つれづれなるままに春の先どり
御茶ノ水にあるカフェ「 SweetJAM」で展示した、
「京の雪化粧と舞妓さん」を須賀川(福島県)の友人が見に来てくれた。わざわざ来て見るようなものではないと最初は断ったが、ゆっくりおしゃべりできるのも嬉しい気がして、別のプランもつけることで日程を調整した。
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伊藤若冲が好きだというので、皇居三の丸尚蔵館を案内するつもりでいたが、「すみだ北斎美術館へ行きたい」とのリクエスト。御茶ノ水と美術館のある両国までは電車で
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分程度だが、帰りの夜行バスは王子駅からでるという。時間にロスがないように入念に移動時間と場所を確認し、 分前には王子駅に着くようスケジュールを立てた。
美術館は昨年 月オープンしたばかりで、妹島和世さんの設計ということもあり随分と話題になっていた。行きがけに老舗の蕎麦屋に寄って昼食をと地図を見るが、方向と
美術館との距離がわからな
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い。改札に戻り駅員さんに聞く。蕎麦屋も美術館も同じ方向でホッとしたが、見つけた店の入り口に「定休日」とあ
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る。メニューはしっかり見ていたが、定休日が何時かは確認しなかった。季節限定の牡蠣そばが美味しそうだったが諦めるしかない。途中で見つけたスパゲティ屋さんに入り席に座ると同時におしゃべ
りが始まった。どこかでストップをかけて腰を上げないと、
美術館も写真展も行けなくなる。混んできたのを機を紅茶
を飲み干し美術館に。
彼女は事前に北斎のことを調べていて、 歳のデビューから 歳で亡くなるまでをガイドさながらに説明してくれた。北斎といえば、「富獄三十六景」。必ずどこかに富士山が描かれていることで有名だが、今まで見ることのなかった作品が年代ごとに展示されている。企画展では、米国人ピーター・モースと、樽崎宗重が収集したコレクションが数多く展示されていた。スケッチ帳には様々な花や昆虫が描かれ、北斎がいつもスケッチ帳を持ち筆を動かしていた様子がわかる。建築デザイナーがスケッチ帳を持つのと同じだなぁと思いながら、その量と緻密さに驚いた。構図には、コンパスや三角定規を使ったのかと思うような線が描かれ
つれづれなるままに春の先どり
ていて、自然界にあるものへの数学的観察眼が面白い。
北斎が絵を描き始めたのは、若冲没後 年ほどの頃。綿密に描くことを競い、豊かな感性が磨かれる平和な時代であったのだろうと、彼女はいう。北斎の富獄三十六景は 歳を超えてからの作品で、亡くなる 90歳まで満足することはなかったそうだが、 100歳まで描き続けるとしていたその執念、凄まじさは、布団をかぶるリアルな人形からもあふれて出ていた。常設展には、タブレットで作品をめくって見たり、子供も楽しめるクイズがあったり、北斎が長く住んでいたという墨田区本所界隈の地図が壁一面に映し出しされたり、興味の幅を広げて北斎をより身近に感じさせる工夫がある。「面白かった !!」と大満足で御茶ノ水のカフェへと向かった。
写真展はさっと見れる枚数で、講釈付きで 分もあればおしまい
となる。あとは、疲れた足をほぐしながら、アップルティを飲む。
7050
夜行バスの時間まで、蕎麦リベンジをしようと、日本酒の美味しい
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蕎麦屋へ案内する。壁に貼られた地酒の銘柄を見ていると、彼女が
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突然「ひろきがある」という。「飛露喜」
は地元福島でもなかなか置いてあるお15
店がないそうで、口当たりがよく美味
しいという。早速 1合注文。つまみは
いつものうるめいわし、味噌田楽の他
に焼き牡蠣、ゆず味噌のふろふき大根、
菜の花のお浸しを頼み、お酒を注ぐ。が、
彼女は着いてから車に乗るので飲まな
いという。 3時間もあるし 1杯だけな
らと勧めたがそこは固い ……。一人で
1合は少しきついと思ったが、確かに
口当たりよく半日歩いたせいか、スッスッと入る。締めのお蕎麦と「春
の天ぷら」を追加注文すると、舌も滑らかにおしゃべりに花が咲く。
彼女に言われて時計を見た。店を出るまであと 分しかない。天ぷ
らを断ろうとしたが、店主は他のお客の注文を後回しにして揚げて
くれた。たらの芽、蕗の薹など、ほろ苦い春の野菜が口いっぱいに
広がった。
お蕎麦をいただき大急ぎでタクシーで飯田橋まで。そこから南北
線に乗る。彼女はいつも JRだというが、この際迷っている時間
はない。王子駅改札で「 JR王子駅はどこ ?」と駅員さんに聞き、
走って地上に出た。バス停はすぐ目の前にあった。出発 分前であ
る。近くのコンビニ内でコーヒーを飲み、やっと一息ついた。定刻
通りバスが来て彼女を見送った。しばらくすると「帰り道大丈夫
?迷っていない ?駅分かる ?心配 ……」とメールが来た。
最後に頬張ったほろ苦い天ぷら、「春の先取りをありがとう」と、りんごと一緒に手紙が届いたのは 2日後だった。
村井克朗さん 二宮健一さん
「FURNITURE MAKER」で制作したTVボードなどの例。ミリ単位でサイズ調整できるので、壁から壁までピッタリのサイズで制作し、床から浮かしたデザインも容易になります。
二宮さんが収納家具に関わるきっかけを作ったのは、中古住宅のリフォームでした。システム収納といってもサイズや組み合わが不自由で、もっと空間や暮らし方に合わせた収納が欲しいと思った二宮さんは、素人だからこそのアイデアを生み出します。「自分の好きなように収納家具の絵を描けば、それを元に図面や CGパース、詳細な見積りが生成され、工場の製造ラインにも直結する夢のようなシステム」それは従来の家具業界では、とうてい不可能とされていたことでした。
不可能を可能にした逆転の発想
元パナソニックの水まわり事業部長で、システムキッチンや収納の開発をしてきた村井克朗さんは「これを知った時は本当に驚き、やりたかった事が出来ると思いました」といいます。村井さんは現在ドゥーマンズの一員となり、システムに魂を吹き込むための製品開発を進めています。不可能を可能にしたのは、完成した家具のデータから、その一方「FURNITURE MAKER」は型番をもたないパネルのサイズや仕様を導き出すという「逆転の発想」でため扉の幅や高さ、奥行き、棚の組み合わせ方などをソした。従来は数百種類の部材を用意して、その型番を組フトを使って自由に設計でき、パソコンの画面を見ながみ合わせることで生産するため、規格から外れる注文をすらその場で変更。同時に見積も出来ます。しかも、そのるとコストが跳ね上がったり、手間がかかりました。データを、工場の製造データとしても利用できるのです扉の面材には、メラミンや突板、塗装、カラーガラスなどが自由に選べ、カウンターには無垢板も使えます。LED照明を内蔵することも可能で、マンションの梁の部分を切り欠いて作ることも出来ます。キッチンの背面収納の例。冷蔵庫や家電のサイズにあわせ自在に設計でき、カウンターや奥行きの調整も自由で、コストも上がりません。今までは高価なオーダーキッチンでしか出来なかったことです。
「FURNITURE MAKER」は、大手収納家具メーカーのほか、オーダーキッチンメーカーにも採用され、マンションリノベーション会社とコラボするなど、その領域を広げています。工作機械メーカー各社が協調した統一規格もでき、パネルの仕様を指示した QRコードの発行から、パネルカット、サイジング、エッジテープ貼り、穴あけ・ルーター加工、ダボ打ちなど各工程を担う工作機械の自動化が可能になりました。
「こうしたシステムによって、ユーザーもメーカーも全ての人に幸福になってほしい。高価なものは一部の人にしか受け入れられないし、低コストなオーダー品はメーカーにしわ寄せが来る。こうした長い間の問題の解消が可能になりました。あとは人間の習慣を変えるだけです。今の世界は大きな流れの渦の中にあります。その前では会社規模は関係ない。流れのなかで何をするかを問われます」と二宮さん。ドゥーマンズの家具づくりは、業界全体を動かす力に成長しています。
鈴木 惠三(BC工房 主人)
陶芸への道 ②
工房楽記
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オイラの信念ほど、いいかげんなものはない。
歳になったら、陶芸に打ち込もう。 年で 100個の花器づくりをやろう。
などなどの目標は、いつもながら3日坊主?だから「いいかげん」でいいじゃないか、と開き直って生きることにしている。好奇心の湧くことから、まずやってみる。陶芸のおもしろさは、やっぱり窯焼きだ。オイラの好奇心は、不器用な土遊びから、窯焼きに飛んでいる。不器用に作られた土器が、窯焼きで、どう変化してくれるのか?甘い甘い夢を抱きながらの「窯焼き」へ。1月末のふじの工房は、地獄のような寒さだ。師匠の藤本氏の指導で、初めての「窯焼き」へチャレンジ。
年前に買ったガス窯。
工房の片スミで、ほったらかしにしていた。ちゃんと燃えてくれたのだが、温度がなかなかあがらない。
朝から
時間たっても800度。
目標は、1230度。
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予定では、夜の
窯から熱が逃げている?ガスの火が弱い?
時には、焼きあがり?
0時になっても、3時になっても、まだ1000度。寒いし、さみしいし、悲しい。
「そんな甘いもんじゃないぜ」と、神さまが言っている。「いやいや、ココでストップしたら負けだぜ」と、
「窯さん、ありがとう。」
「ほったらかしにしていてゴメン。」ホッとして、反省も素直なもんだ。まずは、焼けた喜びを味わう。出来上がりなんか、アタマの中からすっ飛んだ。下手で、不器用なモノたちに出逢えた喜び。下手で良かった?下手で十分だ!無垢テーブルを買っていただいたお客さんにプレゼントする花器たちが誕生した。
「無垢の木と花器の世界」
オイラの中のいいかげんオジさんが言っている。
粘って、粘って、燃やし続けること やっと1200度へ。
25
時間。
テーブルは、毎日の幸せを生み出す素。
一輪の花をテーブルへ。これから毎月、スタッフ
10
人が、皆でいっしょに陶芸の日。
下手くらべをやっていく。
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突然訪ねても、前向きに受け止めてくれる。
「飛騨の骨董屋さんに入って古道具を物色しながら、近所の指物屋さんとか知りませんかと聞いたら、すぐに箱屋さんが軽トラで来てくれて、荷台に乗って工房まで連れて行かれて、木工の職人さんをどんどん紹介してくれて ……これこそ日本。他国にはない日本の一番の武器だと思います」と吉田さん。南青山のオフィスではスタッフたちが日々の業務を進めています。
空
間
の
中
の
一
本
の
棒 水
谷
壮
市
(2
0
1
1
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TIME & STYLE ミッドタウン(六本木)。
在日米軍 赤坂プレスセンター(麻布米軍ヘリ基地)。
工芸の佇まいを感じて欲しい。
「陶磁器ひとつとっても多種多様な窯元が日本にはあります。神事や茶文化が残る島国であることなど、様々な条件が重なり、生き延びるすべを身に着けたのが日本の工芸品産地と思います。日本の工芸は中国や韓国から伝わったものが多く、大陸ではその技術の多くが失われました。これからは、それを大陸へ戻す、恩返しすることが出来ると思います。奈良、室町、鎌倉、江戸をへて日本の形に変容していても、技法や考え方はそのまま残っている。工芸を通じて国際的な関係をもつことで、欧米とは異なるアジア圏の生活文化を提示することも目標のひとつです」と吉田さんはいいます。
加藤 蔓青園(さいたま市)とコラボした盆栽。