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上田で見た秋の色
時空を超える美意識
11月号 柿落葉 2016
http://collaj.jp/
真田の上田
千曲川の流れる信州・上田は、北陸新幹線で東京からわずか1時間半。今年は大河ドラマ「真田丸」で湧きましたが、古くは塩田北条氏の所領であり名刹が点在する塩田平は「信州の鎌倉」とも呼ばれ、別所温泉や鹿教湯温泉など古くからの温泉地もあります。
天正 11年(1583年)、上田に城を築いた真田昌幸(幸村の父)は、周辺から有力な豪族を呼び寄せ、毎日のように市場をひらきます。商都となった街は真田に富をもたらし、2度にわたる徳川の大軍をしりぞける力となったのです。
大規模な実戦を2度経験した近代城郭は上田城だけです。第二次上田合戦(1600年)では、徳川秀忠軍 3万 5千に対し真田軍 2500。真田昌幸の知略により秀忠軍は多くの犠牲をだしたうえ、関ヶ原の合戦に間に合いませんでした。
上田城は千曲川の河岸段丘に築かれ、南側にはかつて尼ヶ淵と呼ばれた千曲川の分流が流れていました。急勾配の石垣には、川の流れから段丘の侵食を防ぐ堤防の役割もありました。明治になると上田城は民間に払い下げられ、南櫓と北櫓は移築され太郎山の麓で遊郭として利用されます。しかし昭和 17年、城址保存会によって櫓は買い戻され、石垣に櫓の並ぶ景観が蘇りました。
上田駅温泉口のモニュメント。
明治に入ると上田は養蚕によって栄え「蚕都(さんと)」とも呼ばれました。千曲川周辺は桑の栽培に適していて養蚕や蚕種製造で富を得た豪農が生まれ、製糸場も建てられました。
田園の広がる別所線沿線。塩田平の歴史は古く、古事記には九州・阿蘇の人々が入植したと記されているようです。晴天率が高く雨の少ない気候で稲作が盛んですが、渇水に備えた溜池が点在し、水の管理が厳しく行われていました。「信州の鎌倉」ともいわれる塩田平。塩田町駅でシャトルバスに乗り換え、前山寺や龍光院、塩野神社、中禅寺など歴史ある寺社の並ぶ独鈷山(とっこさん)山麓に向かいました。
鈴木 惠三(BC工房 主人)
工房楽 秋桜記と無垢板バッフルスピーカー
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いよいよ、やっとの完成。無垢板バッフルスピーカー「杢音」。
この夏から、音マニア
「これなんだ!!」の
O
先生の指導でトライしてきた
号。
普通のスピーカーのような
BOXじゃないんだ。
枚の無垢板の前と後ろから、空間全体に音が拡がるス
ピーカーだ。
年前の4チャンネルステレオを思い出した。
音が一方通行じゃない。
「空間」と「人」と「音」のインタラクティブな関係だ。
枚の無垢板が、テーブルじゃなくスピーカーに化ける。
予想してたけど、予想以上のスゴさ。とんでもないモノづくりの想いがカタチになった?
「音」になった喜びだ。
持ってる材料、持ってる技術、持ってる感性、持ってる人材、自分の回りにあるいろんなモノたちが、 MIXコラボレーションすると、何かが化学変化をおこす?
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「これこそがデザインだ。」
「これこそが商品開発だ。」 10年前から、真空管アンプと無垢板 BOXスピーカーを作って楽しんできたのが、今、活きてきた。
「音と木の関係」をイメージしてると、フワッとして、うれしくなるから不思議だ。
オイラのようなジジィには、キビしい冬が始まる。ふじの工房の寒さも、「無垢板バッフルスピーカー」と、
「お気に入りのマイチェア」と「やまなみ温泉」で乗り超えれそうだ。 2017年は、「マイルスの椅子」と「コルトレーンの椅子」がデザインできるといいナーが、夢になった。
もうひとつの楽しみは、来春の屋根だ。この秋は、「秋桜」いっぱいの屋根が良かった。
「春は菜の花」が、夢。菜の花の種をいっぱい蒔いている。ふじのリビングアートギャラリーの草屋根が、
「春は菜の花」「夏はカボチャとスイカ」「秋は秋桜」
季節で変化する草屋根になりそうだ。
太陽光発電もいいけど、
季節の草屋根も楽し草だ!
真言宗の古刹・前山寺の参道そばに「信濃デッサン館」があります。村山槐多、関根正二、野田英夫、松本竣介、靉光、立原道造など、若くして亡くなった画家のデッサンを中心に、館長の窪島誠一郎さんが私費を投じた私立美術館として、40年近くにわたり多くの来館者に愛されてきました。毎年 2月、村山槐多の命日(1919年 2月 20日)にちなんで開かれる「槐多忌」には多くのファンが訪れます。窪島誠一郎さんは著書『信濃デッサン館 20年』(平凡社)の中で、17歳の頃、渋谷の古書店で手にした大正 10年の『槐多画集』(アルス社 )が夭折画家を中心とした絵画蒐集の出発点であり、デッサン館設立の原点と記しています。
村山槐多の代表作「尿する裸僧」(1915)
東京都文京区弥生にあった「立原道造記念館」の閉館後、2011年に収蔵品を移す形で設けられた信濃デッサン館内の
「立原道造記念展示室」。絵画や詩歌、建築など将来を嘱望されながら、昭和 14年わずか 24歳で急逝した立原道造の世界にひたれます。
御岳の山なみ(1931)
裸の少女(1927〜 32)
二匹の魚(1927〜 32)
ブロックとスレート屋根、鉄骨で構成されたデッサン館の設計は、窪島誠一郎館長が自ら行ったそうです。床の木タイルが心地よいガラス張りのカフェが併設されています。
カフェのガーデンからは、塩田平を一望できます。
「差別をなくし、仕事と自由を我らに!」。1963年8月 日、このスローガンの下、前例のない規模のデモ隊が、米国の首都ワシントンのリンカーン・メモリアル前に集結し始めていた。その数25万人。参加者の %は黒人で、「ワシントン大行進」と呼ばれることになるこの一大デモは、米国の公民権運動における歴史的な出来事だった。このとき 歳のマーチン・ルーサー・キング
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牧師が行った「 I have a dream ……」と熱く呼びかけ
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るスピーチは以後、運動の思想的な支柱となっていく。紆余曲折
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を経てこの大集会の開催を許可したケネディ大統領は、その3カ月後に暗殺される。
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デモ当日、著名な公民権運動家、政治家、芸能人たちが運動を
応援するスピーチを行っている。その後、集会を盛り上げるゲス
トとして数多くのミュー
ジシャンが歌と演奏を披
露した。その中に、当時25
ようやく全米に名前が知
られ始めていた、ジョーン・
バエズ( 歳)、ピーター・
ポール・アンド・マリー
(PPM、平均 歳)そし
て、ボブ・ディラン( 歳)
が含まれていた。この日
バエズは『ウィ・シャル・
オーバーカム』を歌う。
この歌はその後、公民権
運動の主題歌となってい
く。 PPMは『風に吹かれて』(ボブ・ディラン作詞作曲)と『イ
フ・アイ・ハダ・ハンマー』の2曲。ボブ・ディランは自作の『ウ
ェン・ザ・シップ・カムズイン』(バエズとのデュエット)と『奴
らのゲームじゃ俺たちゃ歩なのさ』の2曲を披露している。以上
5曲のうち3曲が、ボブ・ディランの作品だった。
濃淡に差はあるものの、この5曲の歌にはすべて、政治的な主張が込められている。会場で音楽に耳を傾ける 万人の大群衆にとって、この5曲は「抑圧された者への心からの応援歌」として強く心に響いたに違いない。 PPMの『風に吹かれて』の曲の途中から聴衆は、互いに手と手をつなぎ、これを頭上に掲げ、曲の流れに合わせて、体を波のように左右に静かに振り始める。デモの参加者たちが旋律とリズムと歌詞のメッセージに刺激されて、ごく自然に会場全体に共感と連帯感が広がっていく様子がフィルムに残されている。 PPMとボブ・ディランそしてジョーン・バエズという存在が、それと同時に「新世代のフォーク」というジャンルから生まれた、歌詞に社会的なメッセージが込められた歌が、会場から全米に、さらには世界へと放射状に広がっていく、最初の瞬間だった。この2カ月後、 PPMの『風に吹かれて』は、ビル・ボード全米第2位まで上昇し、百万枚を超える大ヒットとなる。こうして「フォーク」は、一気に全米でブームとなっていく。そのブームの一番の中心地は、 NYCのグリニッチ・ヴィレッジだった。しかし、なぜ、「フォーク」=「土着の民謡」が、カントリー&ウエスタンの本場ケンタッキー・ナッシュビルではなく、アメリカで最も都会的な NYCのグリニッチ・ヴィレッジから発信されることになったのだろうか。数年遅れで日本でも大流行することになる「フォークソング」とは、一体何であったのか。これまであまり注目されることのなかった、ある重要な要素についてお話してみたい。
元々フォークソングという
言葉は、ブルーグラスをはじ
め、欧州系白人移民の、どち14
らかと言えば貧しい農民や漁
師や炭鉱夫たちの「民謡」を
意味した。ゴスペルやブルー
スという語が黒人の音楽を連
想させるのと同じように、「フ
ォーク=白人系」というニュ
アンスが強い。全米各地を訪
ね歩きながら、そんな各地の
フォークソングを自己のものとして消化し、新たな形で歌い始めていたのが、ピート・
シーガーとウッディ・ガスリーのふたりだった。ピートは『イフ・アイ・ハダ・ハ
ンマー』の作曲者。ウッディは、『ディス・ランド・イズ・ユア・ランド』の作曲者で、
オクラホマの片田舎出身の伝説的な放浪歌手だ。 1912年生まれで、 歳頃から
乞食同然の放浪暮らしが始まる。そんな中でも、自己の内にあった音楽の才能が徐々
に開花。「貧困流浪の吟遊詩人」とでも呼ぶべき青春時代を送った後に、フォーク・
ミュージック・ルネサンスの立役者の一人となり、結果として、ボブ・ディランに
強い影響を与えることになる人物だ。
このピートとウッディ二人に代表される世代が、いわば、「フォーク・ルネサン
スの初代」ということになる。彼らは、土着色の濃い民謡に共通するリズムや旋律、
ギター奏法を採り入れながら、
「カントリー&ウエスタン」とはまた違った雰囲気で、自分の気持ちや、一定の社会的なメッセージを込めた詩と歌を自作。これを弾き語りで歌い始めていた。そんな彼らが注目され始める大きなきっかけが、 NYCのヴィレッジにあった「フォークシティ」に代表されるライブハウスだった。「新たなフォークソング」は、その出だしから、グリニッチ・ヴィレッジという「都会中の都会」が発信源となって世界中に流行の波を広げていくことになる。
「フォークシティ」という店は、元々レストランだったものが、 年に新たに音楽
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部門の責任者として 歳のユダヤ人イッズィー・ヤング(本名イズラエル・グッドマン・ヤング)を招いて、ライブハウスに衣替え。以後
7060
年に店を移転するまでの
10
スで、泥臭い「初代」フォーク系のシンガー・ソングライターの歌に刺激されながら、そこに NYC
ンドが爆発的に流行する一方で、 NYCい流れ。その中から世界的な大スターとなっていくのが、 Pィランであり、サイモンとガーファンクルだった。
注目すべきは、この6人のミュージシャンの中で、 PPMのポールを除いて、残りの5人は揃ってユダヤ系であること。クラシック音楽界では、突出したユダヤ人アーティストの存在は珍しくない。同じ音楽的 DNANYCのヴィレッジという狭い都市空間で「新世代のフォークソング」として開花したのだ。
そして、もうひとつ。ディランと もまたユダヤ系だ。 PPM
仕事と独特の文化を知っていい。
年間、ヴィレッジのフォーク・ルネサンスの中心地となっていく。こうしたハウ
ヴィレッジ特有の解釈と洗練を加えることで、次世代の「都会的なフ
ォークソングの世界」が誕生する。ビートルズを筆頭に英国のリヴァプール・サウ
に誕生した「新世代フォーク」という新し
が、
PPM
には同じマネジャーが付いている。彼
はこの伝説の音楽マネジャー、アラン・グロスマンの発
案で生まれたグループだ。グロスマンは、未来の才能を嗅ぎ分ける驚異的な嗅覚を備えた男だった。彼が発掘して手がけたアーティストの名前を知れば、誰しも驚かざるをえない。ジョーン・バエズ、オデッタ、トッド・ラングレン、ジョン・リー・フッカー、ゴードン・ライトフット、ザ・バンド、そして、ジャニス・ジョプリン。初期のヴィレッジのフォークブームは、このグロスマンの動きを抜きには、語れない。フォークソング・ブームの中で活躍した歌い手、クラブ(ハウス)の運営者、そしてマネジャーに至るまで、ユダヤ系が中心的な存在だったのだ。「フォークブーム、影の主役はユダヤ人」ということになる。音楽・映画・演劇・メディア・金融・法律家・医師。さらに私が実際に知る、ロンドンの骨董商・アートディーラー・宝飾商の世界でも、彼らの存在は非常に大きい。私たちはもっともっと、この人達の
Mであり、ボブ・デ
P
未完の塔
「前山寺 」
前山寺(ぜんさんじ)の参道には樹齢 700年を超えるケヤキがそびえます。
無言の言葉
「 槐多庵 」、「 無言館 」
信濃デッサン館の別館「槐多庵」。1985年に完成した建築家・北川原温さんの初期作品です。鉄骨造の母屋の前にはアールをえがく錆びた鉄板のファサードがそびえ、木の陰を映し出します。
神田日勝記念美術館(北海道鹿追町)が主催する全国の小中学生から募集した馬の絵の展覧会「馬の絵作品展」の巡回展が開催されていました。
槐多庵から坂道を降りていくと芝生の広がる山王山公園にでます。親子連れが秋のひとときを楽しんでいました。信濃デッサン館のもうひとつの顔である「無言館」。戦争で亡くなった画学生や若き画家たちの作品を全国からあずかり展示した美術館です。こちらは第二展示館「傷ついた画布のドーム」(2008年)。
「無言館」は戦争の悲惨を伝える施設として大きくとり上げられ、戦争体験者や若者を問わず、全国から多くの人が訪れています。館内には絵画とともに、思いを達成できなかった若者たちや家族の無念が綴られています。静寂な館内で時をすごすうち、ひとりの表現者の絵として感じるままに鑑賞することが、画家への誠意であると思うようになりました。
「信濃デッサン館」、「無言館」 TEL.0268-37-1650 (4月〜11月は無休、12月〜3月は火曜休館)
吉田龍太郎( TIME & STYLE )
ドラゴンシリーズ 30我々は同じ過ちを繰り返してはならない。
怒りの鉄拳編
日本が、世界が、世の中が、混迷している。果たしてこの状況は予測できなかったのだろうか。人類の歴史を見れば、今の状況が特別でないことなど一目瞭然であり、世界の混迷は必然と言えるのではないのか。
70
年前の戦争と同じ過ちを、 2度と繰り返してはならない世界唯一の被爆国日本も、既に戦争に参加できる国となってしまった。しかし、日本のほとんどの国民が声を上げず、その流れに無責任に身を委ねているだけだ。 年前に多くの尊い若者達、子供や女性、老人まで無実の人々を失いながら、日本はまた同じ運命の道を自らの手で選択した。これは許されるべきではない。しかし、もう誰も声を上げないし、社会の話題にもなっていない。広島や福島を経験した国民でありながら原発の再稼働は始まり、また、東日本大震災、熊本地震、鳥取地震などの災害は過去70となり、ボランティアも激減した。しかし、根本的な問題は何も解決していないし、未だに仮設住宅で年老いて行く人達を、日本人は見て見ぬ振りをしている。全くどこまで精神が幼いのだろうか。
生物の叡智の集大成のはずである人間達がお互いを憎しみ
合い、各地各国で戦いを繰り返している。それは国単位だけ
でなく、民族や人種、社会、企業、地域、家族、個人の単位
にまでに及んでいる。この戦争の歴史も今に始まったことで
はない。有史からこれまで途絶えたことのないことは歴史が
物語っているし、これからも続くのだろう。
この戦いに意味があるのだろうか。どこの人間も国も、家
族や自身が一番大切な存在であり、その大切なものを守るた
めに人々は戦わざるを得ない。しかし戦いの発端にあるのは、
一部の人間が先代から背負ってきた支配欲によるものだ。
人間の性(さが)には「悪」も必ず存在するが、それを断ち切ってゆく勇気も必要だろう。誰でも自分が最も大切な存在なのだ。自分や自分の国を大切に考えることは当たり前のように思えるが、自分たちばかりを優先する内向的な考え方は、常に危険に向かうことが証明されている。人間は個人だけでは成立しないし、その国だけでも成り立たない。他人の利益や他人の幸せと、自分の利益や幸福を共有できてこそ、発展的で平和な均衡が生まれ恒久的な平和が訪れるのだろう。しかし世の中は、自分の幸せや自国の平和、発展だけを考える社会へと変貌しようとしている。多くの歴史的な戦争は内向的な考えから生まれ、最後は利己的な戦争へと発展していった。そのような片鱗がイギリスの EC離脱であり、アメリカの内向的政策に向かう大統領選出に現れている。この重要な変化や事態に対して、我が国では間抜けな政治によって、限定的で依存的な政治が執り行われている。さて、これから世界はどこに向かって進んで行くのだろうか。この現実は決して楽観視できないし、世界で起こっている出来事は他人事では無いのだ。
人間は生まれると必ず死ぬ。生き物には必ず始まりがあり、そして終わりが訪れる。これは逃げようのない事実であり、生まれた子もいつかは年老いて死を迎える。限られた時間だからこそ命は尊い。命の尊さには、戦争をしている国の人も、私達にも違いは無いはずだ。人間だけではない、動物も植物も同じように命を授かった生命は全てにおいて尊いものだ。その継続してきた生命の営みの中で、それぞれが相互に関係し合い、生命全体の調和を保ってきた。奇跡的な要素が幾重にも重なって生まれた地球環境の中で、数多くの天変地異を乗り越え、私達人類も動植物も今に存在していることを、再認識して日々を生きてゆきたい。
自分は数年前から、体を壊しては入退院を繰り返してきた。これは自分のこれまでの人生における全ての行為に対しての回答であり、自分の責任であることは間違い無い。不思議なことだが、人生には全く予期せぬ出来事が突然起こったり、逆らえない運命に左右されることもあり、これもまた人生であろう。
しかし、自分の身に起こった数々の出来事を紐解いてゆくと、どうもある方程式に対する正解のように、自分のこれまでの行いに対し、比例した回答が返ってきたように感じる。『予期せぬ出来事』と言うが、よく考えてみると本当に予期できなかったのだろうか。見るべきことや認識すべきことに目を向けなかったり、都合が悪いことから目を逸らしたことで、真実が見えていなかっただけではないだろうか。生きている瞬間が真実であり、その瞬間を感じながら生きてゆきたいと想っている。
上田城二の丸橋近く、観光客でにぎわう観光会館裏手にある洋館は、大正 4年 (1915)に上田男子小学校同窓会により「明治記念館」として建てられ、昭和 40年まで市立図書館として使われていました。その後「石井鶴三美術館」となりますが、今は閉鎖されていました。
現在は個人邸ですが、とてもよく管理されています。
上田の洋建築
旧常田幼稚園は、軽井沢に多くの建築を残したウィリアム・メレル・
上田の洋建築ヴォーリズが大正7年(1918)に設計した初期作品です。現在はカルディア会常田保育園となり耐震工事も行われ、100年近く子どもたちの成長を見守り続けています。
上田蚕糸専門学校を前身とする信州大学繊維
上田の洋建築学部は日本で唯一残る国立大の繊維学部です。昭和 4年(1929)完成の講堂は、ネオゴシックとセセッションの折衷様式といわれています。講堂は正門の守衛所(大正元年)とともに登録有形文化財です。耐震補強工事中で現在は中に入れませんが、養蚕のシンボルである繭や蛾、桑が換気口やステージの柱、アーチの縁飾り、演台などにあしらわれています。設計は御茶ノ水大学などを手掛けた、文部省建築課の柴垣鼎太郎です。IFFT/インテリア ライフスタイル リビング11月7日〜9日まで東京ビッグサイト東ホールで開催。
次回は 2017年11月20日(月)〜22日(水)
2万人超えの来場者でにぎわう東京ビッグサイト西ホールで開催。
11月7日、恒例の「IFFT/インテリアライフスタイル リビ素材をアレンジしたアップサイクリングなデザインが評価さ
ング アワード」が発表されました。㈱アクタスの大重亨され、来年2月10日〜14日、ドイツ・フランクフルト見本んが審査した Best Buyer 's Choice 2016には、有田焼市会場で開催される国際消費財見本市「アンビエンテ」のきの新ブランド「2016/」が選ばれました。一方、若手デTALENTSゾーンへ招待されます。ザイナーを発掘するYoung Designer Awardは、ニコレ次回アンビエンテの記者発表では、パートナーカントリーット・ナウマンさん(Messe Frankfurt GmbH アンビエとなったイギリスのデザイナー、ジャニス・カークパトリックンテ総責任者)により、bouillon(服部隼弥さん、那須さんが来日し特別展示の解説を行いました。イギリス各地裕樹さん)が選ばれました。籐やワラ、陶器などの伝統の伝説的な物語をモチーフにした構成になるようです。
若手からベテランまで層の厚みを感じさせたのが、北海道・旭川でした。旭川では来年、3年に一度の家具デザインコンペ「IFDA 2017」が開催されます。カンディハウスはコンペ審査員でもある川上元美さんの「SESTINA LUX」を発表。フレーム脚の軽やかさとラグジュアリー感を両立させています。大雪木工は、小泉誠さんを中心に「大雪の大切プロジェクト」を立ち上げ、高さ調整できる子ども椅子などを開発。ダイニングテーブルにワゴンを移動して勉強するなど、ファミリー層の実生活を見つめていました。ガージーカームワークスは、代表の木村亮三さんはじめ、全員が 1980年代生まれの若手でありながら、技能五輪全国大会の金メダリスト3名というスゴ技のオーダーメイド家具メーカーです。 好評のチェアシリーズを壁面に展開。壁の一角にロッシュボボアのディストリビュート開始が告知されていました。
初出展の AREAは、黒をベースにしたブースで今年のテーマ D(dramaturgy)の世界観を表現。様々なコラボレーション作品を展示しました。黒革がヴィンテージな雰囲気の「sofaD」は、建築家・谷尻誠 +吉田愛(Suppose Design Office)とのコラボ。ベッド「 GARDEN」は、松岡智之デザインのフレームに Kvadrat社のファブリックスを張り、日本ベッド製のAREAオリジナルマットレスを使用。他に着物デザイナー斉藤上太郎(三才)が扉絵の監修を行ったボード「BRAHMA」や天童木工のロングセラー座卓を味付けした「t.l.t」など、歴史的な家具をリスペクトしつつ積極的な未来を提示していました。
海外からのグループ出展はフィンランドが人気。テキスタイルの kauniste(カウニステ)など、北欧の爽やかな風を運んでくれました。カナダの moloは製品のハニカムスクリーン自体を使った巨大ブースでアピール。今の生活にあわせた壁掛式の神棚「神ノ戸」は、デザイナー関光卓さんと徳島のキタウチとのコラボ。AGCグラスプロダクツは従来より 60%も軽い画期的なカラーガラス「ラコベルプルーム」を発表。ワイ・エム・ケー長岡は、いつかは欲しい家具の代表格、剣持勇さんや渡辺力さんの籐椅子を出展。剣持作品には図面や型がなく、職人から職人へ伝えられてきたそうです。
「インテリアに適した国産早生広葉樹の発掘」をテーマにしたブース。国産早生広葉樹とは、樹齢 20〜 30年で伐採期をむかえ、小径木でも利用価値の高い広葉樹で、100年以上の樹齢が必要な広葉樹に比べビジネス化しやすいため、針葉樹伐採後の樹種の候補として期待されています。全国天然木化粧合単板工業協同組合連合会は九州大学大学院農学研究院の松村順司教授の協力をえて、ハンノキ、コナラ、チャンチン、センダン、ユリノキという 5種類の国産早生広葉樹を選び、家具や床材、壁装材を試作して、ユーザーの好みを知るためのアンケートをとりました。テーブルや椅子の試作にはTIME & STYLE FACTORY(旭川)が参加し、チャンチンなどなじみのない材料の加工性などを試しました。JAPAN STYLEは、今年6月のインテリアライフスタイルに続いて災害義援金活動を行い、沢山の方の賛同を得ていました。義援金の届け先についてはコラージでも報告させて頂きます。
有田焼創業 400年ARITA NEW CREATIONツアー 参加所感
この夏の 3日間、有田焼ニュークリエーションの息吹と出会うツアーに参加しました。このツアーを企画したのは、愛知万博や平城京遷都 1300年祭の総合プロデューサーをつとめた、福井昌平先生です。今年、400年という記念すべき年を迎えた有田焼ですが、産地の売上規模は 2014年(平成 26年)時点で、バブル崩壊直後の最盛期1990年(平成2年)に比べ、約7分の1と激減しました。この減少の要因は景気など外的要素だけではなく、「有田」を支えてきた伝統的なマーケットの仕組みや、ユーザーの価値感が大きく変化して暮らしにフィットしなくなったからと指摘されています。いうまでもなく、有田焼は佐賀県有田町周辺で焼かれた磁器をいいます。陶器の原料は「土」ですが、磁器の原料は「陶石」あるいは「磁石」といい、固い白色の岩石です。1616年、秀吉朝鮮出兵(文
▲ 十五代酒井田柿右衛門さん(左)とぐい呑。
▲日本の磁器は泉山磁石場から生まれた。
禄・慶長の役)に際して、肥前領主であった鍋島直茂に帯同した陶工の李参平(金ヶ江三兵衛)が、有田の泉山で白い陶石の鉱脈を発見して磁器を焼き始めたと言われています。今でも町の東に白い岩肌を持つ「泉山磁石採掘場跡」が残っています。元々朝鮮半島と九州は陸続きであったようで、大陸移動や地殻変動で、日本海が侵入して半島から九州が島として分かれたのでしょう。李参平は中国の山水画によく描かれているような有田の切り立った岩山を見て、故郷の風景との共通点を感じ「磁石」の存在を確信したのかもしれません。産地の総称である「有田焼」にはいくつかの様式があります。代表的なのが濁手(にごしで)と云われる乳白色の生地に、余白を活かしながら美しい赤を中心に模様を施す「柿右衛門様式」で主に輸出に主眼が置かれていました。それに対し「鍋島焼」は鍋島藩(佐賀藩あるいは肥前藩の俗称)が外様大名であったため、幕府等への献上品・鍋島焼の例。贈答品として作られました。最高級品として鍋島藩が、藩継続のため命をかけて作った藩窯です。有田焼は別名伊万里焼ともいわれます。有田で生産された焼き物が伊万里港から輸出されたため、海外では「Imari焼」として知られ、
強力なブランドイメージを勝ち得ています。世界的に有名でありながら、窮地に立たされている有田を立て直すため、いくつかのプロジェクトが動き始めています。そのひとつが
「2016 /(ニーゼロイチロク)」で、佐賀県知事のオファーで始められました。若いデザイナーがプロデューサーとなり、16人の日本人及び海外デザイナーと16の窯元、16の商社によって進められているそうです。11月のIFFT/インテリア ライフスタイル リビング(東京ビッグサイト)でも、会場中央の大きなスペースで成果を発表していました。海外デザイナーにとっては有田で開発中の新しい製造技術が魅力的らしく、美術品として飾るのではなく、日常に耐えるクオリティーと現代感覚にマッチしたデザイン性の高い製品を提案しています。有田を旅して私が強く感じたのは「リ・ブランディング視点の重要性」です。有田には 400年に及ぶ歴史の蓄積があり、これは 400年かけて創り上げたブランド価値とも云えます。これを活用する「リ・ブ
伊万里焼の例。
▲小学校を移築した幸楽窯で陶芸体験。
▲ 有田の歴史を感じさせる建物。
▲福井先生の勉強会。有田の歴史を学ぶ。
ランディング」の入口としては、「2016/」のような、既存の価値にとらわれない海外デザイナーの起用もあるでしょう。あるいは古くからの窯元を担っている若者たちを海外に派遣すれば、世界各国の新しい息吹を感じるなかから、有田が持つ 400年の智恵の価値や活用方法を客観的に考えることができるでしょう。こうした長期的なビジョンをもつ素地が創られれば「リ・ブランディング」の可能性は一気に上がると思います。大切なのは「リ・ブランディング」は、単なる製品開発では済まないことです。地域全体の総合的な計画が必要で、いい換えれば総体としてのメッセージ力がブランディング構築には欠かせません。さいわい有田のメイン通りの両側には歴史を感じさせる多くの個性的な建物が見られますし、著名な各窯元の佇まいも魅力的です。先ずは「人づくり」。その育成のため外部の力のとり込みと活用、その集大成としての「ものづくり」と効率的で格調あるコミュニケーション開発、流通との協業。その次の段階には、それらを支えるバックボーンとしての歩いて楽しい、まわって楽しい、住んで充実感のある「まちづくり」が求められます。有田の関わるライフスタイル産業は、グローバル化によって価値感の変化が非常に速く、従来の延長線上に答えは見いだせません。「製品力から地域環境形成」まで、まさにブランディング視点による解決が求められていると感じました。 ■
鹿が教えた鹿教湯温泉
上田駅からバスに乗り、山中の鹿教湯温泉に向かいます。
【 はじまり 】 櫻井三雪
上田駅からバスで約 40分の「鹿教湯温泉」(かけゆおんせん )は、猟師の矢で怪我を負った鹿が教えてくれたという伝説の温泉地です。古民家を再構築した旅館「三水館」で、木工家・芦田貞晴さんと造形家・櫻井三雪さんの展覧会が開かれました。
【 紡錘(つむ)の小舟 】 櫻井三雪
コラージ2013年11月号「聖家族軽井沢」特集では、追分宿の旧油屋旅館(信濃追分文化磁場油や)ギャラリー ART PROJECT 沙庭で開催された櫻井三雪さんの個展を紹介しました。養蚕の盛んだった上田で生まれ育った櫻井さんは、繭をモチーフにした作品も制作しています。
「あらゆる自然のもの達は理(ことわり)の内にあり、人も例外ではない。そうした自然を見つめる時、その印象やイメージが人の形を借りて姿を現すことが多い。古代の人が夜空を見上げ、星と星を結んで星座を思い描いたように」と櫻井さんは語ります。
【 森の声 】 櫻井三雪
温泉街に新しい朝が訪れます。
昔は鹿教温泉街へのルートだった内山川にかかる五台橋。
かなえ
山本鼎と農民美術
自分が直接感じたものが尊い そこから種々の仕事が 生まれてくるものでなければならない
大正から昭和初期にかけて、上田市で「農民美術」運動を興すと同時に、児童自由画運動を全国に波及させたのが、洋画家・山本鼎(やまもとかなえ、1882〜1946年)でした。上田駅に近いサントミューゼの上田市立美術館では、日本の美術史や工芸、絵画教育に大きな影響を与えた山本鼎の足跡を知ることができます。
サントミューゼ(上田市交流文化芸術センター・上田市立美術館)
漁夫(1904)
▲ 11歳頃の鼎の作品。精密版画は新聞・雑誌などの印刷物で、写真のかわりとして使われていました。
上田市立美術館学芸員の小笠原正さんが、山本鼎(かなえ)と農民美術について解説してくれました。明治15年、愛知県岡崎に生まれた鼎は、東京の医師・森静男(森鴎外の父)のもとで修行中の父を追い母と上京します。小学校をでた鼎を待っていたのは、今でいう児童労働でした。精密な木口版画(ビュラン)の工房に 9年間も奉公した鼎は、自由に絵を描きたいと東京美術学校に入学。在学中、雑誌『明星』に掲載された「漁夫」は、絵師、彫り師、摺り師の仕事を一人の作家が行い、「版画」という言葉を初めて用いた作品として美術史に刻まれました。シャトウ デフ(1914)自画像(1915)
▲ 東京美術学校在学中の作品「蚊帳」(1905)
東京美術学校を卒業した鼎は、大正元年(1912)パリに留学します。同時期には藤田嗣治や川島理一郎、島崎藤村などがパリにいました。鼎は版画工房でバイトしながら美術学校で学びますが、ジャポニズムの横行するパリで、何を学べばいいか苦悶したようです。そして1916年、帰国途中に半年を過ごしたモスクワで農民美術と運命的に出会います。ロシア文学研究家・片山伸につれられトルストイの館を訪ねた際、トルストイが農民の子弟を教育した話に感動した鼎は、帰途、農民美術蒐集館で家具や玩具、人形や装飾品を見学し、木地の荒々しさや自然の光沢、不思議な造形の魅力にひかれます。同時に、モスクワの児童画展で見た形式にしばられない児童画も、暗い世情のなかで生き生きとした光を放っていたのでした。
▲ 大屋駅のそばにあった日本農民美術研究所(1923年竣工)。▼鼎の「農民美術建業案草稿」と金井の「農民美術学校草稿」をあわせ「農民美術建業之趣意書」が作られました。
鼎が帰国した時、父は独立し養蚕で栄えていた上田市の大屋(当時は神川村)に医院を開業していました。上田市に逗留した鼎は、地元青年団の歓迎会でパリ留学やロシアの体験を熱く語ります。それに心動かされたのが、養蚕農家兼銀行家の 3男・金井正と、その友人・山越修蔵でした。金井は鼎の構想する児童自由画教育運動や農民美術運動を上田で実践したいと考え、講演会で協力を訴えながら、自らも財産分けの大金を寄付します。「農民美術運動は趣味的に工芸品を作るのではなく農閑期の副収入につなげる。自由画運動が注目を集めれば中央から多くの視察が訪れ経済効果がある」。当時、冷害や旱魃で不作が続き繭の価格も暴落するなか、村人たちも鼎の思想や金井の話に耳を傾けるようになり、大正 8年には「第一回自由画展」が神川小学校で開催されます。 木片(こっぱ)人形。
▲ 自由学園(東京池袋)でスケッチを指導する山本鼎。▼神川小学校に設けられた「農民美術練習所」の様子(大正8年)。中央は村山槐多の弟・桂次。右手前は初代・中村 實。
当時、お手本を写すだけの「臨画教育」は、鼎のうけた木口版画の修行にも通じたのでしょう。「児童には全ての能力の芽が内包されている。その能力を健康に伸ばすのが教育の方法」という鼎の訴えは全国に広がり、鼎自身も、羽仁もと子に注目され自由学園で絵画を教えます。一方、農民美術運動は、大正 8年(1919)神川小学校に練習所を設け、講師として山崎省三や村山槐多の弟・桂次を招いたものの、最初の受講申込者は中村實ひとりでした。やがて受講生も男性 7名、女性 14名をかぞえ、日本橋三越での展示会で完売するなど経済的な効果をあげました。男女共学で工芸・デザイン教育を行った点は、同年ドイツ・ヴァイマルに設立されたバウハウスとも共通しています。
北アルプスに登山する若き日の鼎(左)と鶴三(右)。
山本鼎の盟友であり彫刻家の石井鶴三は、大正13年から46年間にわたり東京から上田に通い、主に美術教師向けの講習会を開いて、美術教育の発展に尽力しました。東京で村山槐多が亡くなった際、鼎の依頼でデスマスクをとったのも鶴三でした。鶴三が上田で制作した作品も展示されています。
第31回内田 和子
つれづれなるままに秋ふかし承前
窓越しに見えるハナミズキの葉が、刻々と色を変えていく。
夏には、緑の葉をいっぱいに茂らせ、歩く人の日差しを遮ぎる役目もしていたが、日に日に色を変え、今は、カサコソと葉を落とし、掃いても掃いてもキリがない。2階のベランダにも秋の深さを増した色とりどりの葉が舞い込んでいる。
落ち葉というのは、結構ご近所の目が気になるものである。ちょっと朝寝坊したり、別のことをしていると、いつの間にか、家の前は綺麗になっている。玄関先だけ落ち葉が溜まっているというのもしばしば。今日は間に合ったと、ひとしきり掃いていると、散歩をしている犬と目があったりする。尻尾を振って寄ってくるが、元来
犬はあまり得意ではない。昔は我が家でも飼っていたことがあるようだが、私が子供の頃には、いた記憶がない。
子供の頃に、両親から飼っていた犬の話を聞いたことがあるが、子供の背丈を越えるほどの大きな犬で、とても賢い犬だった。事情があって手放さなければな
らなかったそうだが、その時のことを、父はとても悲しそうに話した。幼心に背丈ほどある犬というのはどうも怖くて、犬を飼いたいと思ったことはないが、小さい犬がチョコチョコと愛くるしい目で来られると、思わず「おはよう」と声をかけ、おもむろに飼い主を見上げて、挨拶をする。
小さくて可愛い犬や、賢い顔をした柴犬を見るとゾックとするが、父の悲しそうな顔を思い出すと、飼うのはためらう。
朝の落ち葉掃きは、他にも思いがけない出会いがある。掃いている目の先は、地面である。目線をちょっと上げると、ヨチヨチ歩きの子供とも目があう。向こうは何
つれづれなるままに秋ふかし承前
をしているおばさんだろうと、興味津々。じっと見ている。お母さんも一緒だが、素通りしない。ついつい「いくつ?」
「お名前は?」などと聞いても、本人は答えられるわけはない。でもそんなことを通して、ご近所の方(かどうかはわからないが ……)と挨拶をする。お母さんが代わりに答えてくれるが、話はそこまで。
「またね」と言っても、子供は動こうとしない。よっぽど面白いおばさんと思ったのか、もっとお話ししたいのか、フリーズ状態である。仕方なく「バイバイ」「また来てね」と言う。バイバイはわかるらしい。向こうもバイバイの手振りをする。もう一度「バイバイ」と言って、掃き掃除は途中のまま玄関の中へ。突然の出会いにこちらがしどろも
どろ、話が続かない。聞いたばかりの名前をメモに書いて、次に会ったら、もっとお話ししよう、喜びそうなものは何かなぁ、また会えないかなぁと、1日楽しい気分にさせてくれる。
落ち葉掃きは、ご近所さんとの暗黙の挨拶でもある。向こう三軒両隣、昨今では死語になりつつあるようだが、まだまだこんなところでは生きている。落ち葉はどこの家のものかわからないが、お隣と向かいのとこ
ろに飛んでいる落ち葉は一緒に掃いてしまう。朝寝坊すれば、いつの間にか綺麗になっていることもあるが、お留守の時は、お互い様とお隣の塀のところまで掃く。どこまでという決まりはないが、出過ぎず、程々にいい感じのところまで。
落ち葉の頃になると、母が上手に間合いを取って、向こう三軒両隣の落ち葉を掃いていたのを思い出す。母が亡くなり留守がちになった私の家の前は、そんな向こう三軒のご近所さんが、綺麗に掃いてくださることが多い。が、紅葉を楽しませてくれた落ち葉でもある。もう2〜3回雨が降ったら、葉もすっかり落ちてしまうかもしれない。しばらくは、朝早く起きて、目線の先の可愛い出会いを楽しみに、落ち葉掃きに精を出すことにしようと思う。
上田市立美術館では、毎年秋に「農民美術新作展」が開催されています(今年は10月 22日〜 30日、2017年は 11月 3日〜 12日予定)。戦時中はほとんど生産を止めていた農民美術ですが、昭和 24年、長野県農民美術連合会が結成され、現在は上田市を中心に 20軒ほどの農民美術工房があります。
農民美術の特徴は、人形から木彫レリーフ、皿、鉢などの日用品まで、様々な作品をひとりの作家が制作することと徳武さん。決められた形は無く、作家の技術や人柄をそのまま映すことが、農民美術のスタイルといえるようです。鈴木良知さん(秋桜工房)は、コスモス街道の秋桜の美しさにみせられ、作品づくりを始めたそうです。パステル感あふれた色彩です。
工藤裕さん(工藤木彫工芸)は、木の質感を活かした作風。太々神楽をテーマにしたレリーフや、上田名物の獅子踊り
茂木文雄さん。上田市の東、太郎山の神社でひらかれる
レリーフの他にお盆や菓子鉢なども。25歳から 40年にの人形を出展。
わたり木彫を続けているそうです。春原中道さん(中道工房)は、トチやケヤキを使ったくりものを得意とされています。拭き漆で仕上げたお盆など、精緻な木工作品も制作しています。
尾澤敏春さん(尾澤木彫工芸)は東京の美大を卒業後、テラン。白樺の幹をくり抜いた小物入れや力強くも繊細なレ
中村昭一さん(中村工房)は、木彫をはじめて 53年のベ
父の工房をつぎました。デザイン性の高いレリーフ作品リーフなどを出展。水に強いラッカーで仕上げています。
を得意とし、力強い彫刻的な作風が特徴です。山本鼎とともに農民美術運動をリードしてきた初代中村實を祖父とする中村実さん(三代目中村実工房)。これからは後継者の育成が課題といいます。
池田初男さん(池田工芸)は、78歳とは思えない若々しボル「アオバズク」がモチーフ。中学の先生にすすめられ、
倉澤 満さん(クラサワ工房)は、信州国際音楽村のシン
く立体感に富んだ作品。15歳から近所の工房に弟子入弟・鈴木良知さんと共に、荒井貞雄氏に師事したそうです。
り。自然の顔料を使い、色出しにこだわっているそうです。
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