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時空を超える美意識
12月号 建丑月 2016
八ヶ岳に
http://collaj.jp/
学び 遊び 暮らす
小海線で八ヶ岳へ
群馬県
埼玉県
ハイブリッド式気動車キハ E200形
小淵沢駅
山梨県
しなの鉄道の小諸駅から中央本線の小淵沢駅を結ぶ、JR東日本の「小海(こうみ)線」(八ヶ岳高原線)。八ヶ岳山麓の急勾配をのぼり、JR線で最も高い標高に達する高原鉄道です。
小諸を出発した列車は、しなの鉄道としばらく並走し、佐久平駅で北陸新幹線と接続。佐久市の田園地帯を走りながら南下します。後ろの車窓から少し雪をかぶった浅間山が見えました。
小海線には 2007年から営業車両として世界初のハイブリッド式気動車(シリーズ方式)キハ E200形が導入されました。これはディーゼルエンジンで発電した電気をリチウム電池に蓄電し、モーターで車輪を回す仕組みです。ディーゼルの気動車にくらべエネルギー効率が高く、加速時やアイドリング時の騒音や震動が軽減されるため、車窓の景色をゆっくり楽しめます。
「海」と呼ばれる不思議
線路は千曲川(信濃川)の上流にそって、急勾配を登り山間部へ入ります。沿線には養蚕農家だった民家も見られます。小海線の由来となった「小海」をはじめ「海尻」、「海ノ口」など海の付く地名が多いのは、1100年ほど前に八ヶ岳の水蒸気爆発により土石流が発生し、千曲川を堰き止め、百数十年にわたり広大な天然ダム湖があったからといわれます。
標高 1300mを超える南牧村の野辺山高原。江戸時代から入植がはじまり、軍馬の生産や牧畜が行われていました。昭和に入るとレタスやキャベツなど高原野菜の大産地に発展します。
JRの駅として最も標高の高い(1345m)野辺山駅に着きました。エントランスのユニークな形状は、ドーム状のコンクリート製初代駅舎(昭和 10年)をモチーフとしています。駅前のシャトルバスに乗り、八ヶ岳高原 海の口自然郷に向かいました。駅前からみる八ヶ岳。八ヶ岳は、長野県の蓼科や佐久から山梨県境にいたる南北 30 kmの巨大な山塊です。主峰の赤岳 (2899 m)や横岳 (2829 m)をはじめ 20を超える山々が連なっています。
シャトルバスはカラマツや白樺の並木を走り、八ヶ岳高原
まだ見ているぞ。
僕は目の端で彼女を確認すると、地酒を飲み干し、緑の杯を卓に置いた。そしてふたたび鉛筆を走らせる。
座卓の上は PCやら三角スケールやらスケッチブックで雑然としている。ここは、北陸、金沢からローカル線を乗り継いだ山奥の温泉地。椅子のデザインをする時はいつもこの旅館に来ることにしている。今年もデザインの仕事が溜まりに溜まっていた。到着するや否や座卓に座り込み、以来ずっとラフデッサンの作業が続いている。夕飯もそこそこに下げてもらい、うんうんと没頭するが、良いひらめきに至らないまま、こうして深夜近くになっている。
初秋。
季節の虫が思い思いの音を奏でていた。部屋に付いた小庭の端に置かれた古い灯篭(とうろう)、その上の朧月が雲に覆われたその時、それは突然現れたのだった。
あれ ?
最初は見間違えかと思った。いつの間にか、金魚柄の着物を着た女の子が部屋の隅に正座していたのだ。帯を腰の高い位置で結んでいる。小さな女の子だった。彼女は私の手元をじいっと見入っていた。見間違いではない。この子は確かにここにいる。酒に酔っているからか、デザインの作業に熱中しているからか、半分夢だと思っているからなのか。自分自身よく分からないが、僕はこの女の子に不思議と怖れの気持ちを覚えなかった。
僕は頭の中で、昼頃に馴染みの仲居と交わした会話を思い出していた。
「あらー、あんさんは家具のデザイナーさんだったですかぇ。いつもぉ一人でお泊まりなもんでぇ、どんなお仕事の方かなぁって思ってたんですよぅ」
ハアとかマアとかどっちつかずの返事をしながら、僕は出された饅頭
コラージ 10周年記念特別寄稿 一挙掲載
能登奇譚
僕らのリズム
Vol . 13
野田 豪 (AREA )
を口に入れた。娘娘饅頭(にゃんにゃんまんじゅう)と書かれた不味くも美味しくもないこの地方の御当地饅頭だった。仲居さんが「はぁまぁそれは奇縁というもので」「奇縁 ?」「この里にゃぁ、木造部童女の伝えが残っていましてぇ」それそれと言ったように仲居が僕の手の中の饅頭を指差した。「献上するはずの床几(しょうぎ …移動用の折りたたみ椅子)の前で死んでしまった子供の職人の言い伝えですよぅ」
「あ ……」ウインザーチェアのデッサンを始めた時、初めて少女が身
を動かし、声を発した。ええいこうなったら、と、僕は初めてその子に
顔を向けて尋ねてみた。「椅子に興味があるの ?」少女は目を二三しば
たかせると、こくりと小さな顔を縦に振った。「名前は ?」「サト」サ
トはすがるような目をしておずおずと膝で近づいて来た。「その寄り掛
かり(椅子)、面白い」か細い指でスケッチブックのデッサンを差した。「付き枝(脚)が座から生えてる」
古来椅子は後脚が背もたれと一体となっているが、中世イギリスで開
発されたウインザーチェアは背もたれのパーツと脚のパーツが座面を起
点に突き刺さって構成される。それが珍しいのだろう。「壊れる ?」「い
や、壊れないよ」ふうん、とつぶやき、サトは僕の設計デザインに見入
っている。「ここはこう角度をつけて突
き通して、ここに割り契りをいれるん
だ」サトの頬がピンク色に染まってく
る。熱中しているのだ。
天正の世、この地は上杉と織田で取り合いになっていた。守護役の遊佐続光は上杉方に庇護を求め、献上の品として床几を作らせることにした。目を留められたのが木工の腕前は城下一と評判を持つ作新という男だったが、その作新は織田側を主張する遊佐続光の政敵・長続連に暗殺されてしまう。作新の仕事は幼い実の娘が継ぐことになったが、後日ある事件があってやはり死んでしまったという。「その娘はねぇ、天にもらった才能があったという話でねぇ。哀れに思った村の人々がひっそり小さな祠(ほこら)を作って祀ったって話です。興味あるならあとで地図書いときますよぅ」「そうなんですか、へえー。でも奇縁っていうほどのことでもな ……」
……くない !
いるから、その子、今ここに !!
いや、奇縁というより、これはもう奇譚の部類だ。
いつの間にか、サトはすっかり僕に懐いたようで、さっきから何度も西洋の椅子について質問をしてくる。体の熱も感じるし吐息も聞こえる。遥か昔に死んだ女の子とは到底思えなかった。あの仲居さんとその孫かなにかが、みんなして僕を担いでいるのではないだろうか。
長い夜が続いている。サトはいつの間にか静かになっている。僕の足
に頭を乗っけて、時折、すうすうと寝息を立てたり、時折、目を薄く開けて身の上話をしたりする。
「サトはね木を削って椅子を作るのが好きだったの。おとうもおんな
2
じ。外椅子を作るとね、村の皆んながにこにこしてくれるの。畑の時、腰が楽になるって。畠山の殿様も、サトのことをこの国の宝だなって言ってくれたんだよ。毎日楽しかったな。でもね、ある日、悪い守護様がね、畠山の殿様を追い出しちゃった。それで、次は上杉様のために床几を作れって言ってきた。おとうはその仕事を嫌だったけど引き受けることになったの。でも結局、守護様の敵方に種子島(てっぽう)で撃たれちゃった。おとうはね、死ぬときにね、サトに言ったの。椅子は人を幸せにするためにだけ作るんだぞって。この仕事は誰も幸せにしないからダメだって。でもサトはおとうの名を落としたくなかったんだよ。だから、続きをやることにした。白樫(しろかし)でこさえた床几はね、本当に素敵な出来上がりだったよ。でもね、最後にね、台輪の窪みに竹と雀の紋章(上杉の家紋)を入れなきゃいけなかったんだけど、サトにはどうしてもそれができなかったの。掘ろうとすると涙が出てきちゃって、おとうや、追い出された畠山の殿様の笑った顔を思い出しちゃって、手が動かなくなったの。サトはね、最後まで一生懸命考えたよ。おとうと畠山の殿様のことを。笑っている 人の顔を」
蟋蟀(コオロギ)が鳴いている。谷の下に流れる川が滔々と音を立てている。月は白々と夜を照らし、時折吹く強い風が草や木を揺らす。
しばらく寝入っていたサトがふと目を覚ました。そして、僕の耳元に
口を寄せた。「あのね、おじさんの椅子には足りないものがあるよ」サト
は少し申し訳なさそうにしている。僕のデッサンのことを言っているの
だろう。恥ずかしくなって言い訳をした。「うん。おじさんはあんまり才
能がないんだ」
「違うよ」「じゃあなんなんだい?」「おじさんの絵には鬼がいないん
だよ」
鬼?とまどった。
鬼ってなんだ?
『その子はねぇ、餓死だったって言い伝えでねぇ。ある朝、小さな木
彫りの刃物を持って、すっかり出来上がった床几の前で死んでいたんで
すって。なんでまた、ご飯も食べないで、そこまで熱中したのかねぇ』
「おじさん?」「なんだい?」「サトはお腹が空いたよ」「えーと、あ、これ食べる?」「それ、おまんじゅう?」「うん。なんか君の由来のおま
んじゅうみたいだよ」「なーに?由来って …あ、おいしい!すごくおいしいよ!」「そうか、良かった」「ねぇおじさん」「なんだい?」「サトさーあの日からずーっと寒かったんだけどさー、なんかあったかくなってきた」「あの日からずーっとって何百年も?」「うん。そうそう」
ほあーあ。
大きな口を開けてあくびをすると、サトはまた僕の膝で寝入ってしまった。
鬼。
隠ぬ。目に見えないもの。おらぬのにおるもの。居ないのに居るもの。
情の凝り固まったもの。喜怒哀楽それぞれが、木の杢の繊維のように不
可思議にねじ曲がり極度の異様を発する状態。
そして殊更に美しいもの。
明け方、ふと目を覚ました。どうやらサト
と一緒になって眠ってしまったようだった。
サトがモゾリと動いて立ち上がる気配を感じ
た。眼を開けた。サトが僕を見つめて何か言
っている。口を開いてパクパクするのだが、
声が聞こえてこない。僕は身を起こして座っ
たまま、サトを見上げた。サトの輪郭がぼん
やりとしている。サトがおいでおいでをする。
座敷を出て、中庭に続く木戸を開けた。僕は
体を起こしてついて行った。サトが裸足のま
ま庭に出る。そして端っこに置いてある灯篭(とうろう)の前に立ち、その足元を指差した。そしてあごをちょっと上
に上げてニッコリと笑った。
朝。
中庭から燦々と秋の光が差し込んでいる。
失礼しまぁーす。仲居さんが部屋に入ってきた。朝食の膳を抱えてい
る。僕は浴衣の前をあわてて閉じて、散らかった卓につく。「よく寝られ
ましたかー?」朝刊を受け取る。「夜中までお仕事されてたんですねぇ。
あらあら、こんなところにおまんじゅう転がしてぇ」昨夜サトが食べた
はずの饅頭が畳の上に転がっていた。僕はボーッと中庭を見つめた。夜
明け前に少し雨が降ったのだろうか。木々がキラキラと光の粒に覆われ
ている。冷めないうちに食べてくださいねと言い残し、出て行こうとす
る仲居さんを呼び止めた。
「あの ……庭の灯篭は昔からここにあるんですか?」仲居さんは庭に
目をやり、すぐに頷いた。「この旅館ができるずっと前からここにあるっ
て聞いてますよぅ。年代物ですねぇ」と言い残すと、パタパタと出て行った。僕は暖かい椀を引き寄せ蓋を開けた。湯気が座敷に立ち上る。僕の口からふうと声が出た。一口啜って顔を上げた。「夢じゃ ……ないよな」
掴んだ箸を膳に戻して立ち上がった。畳を渡り、庭のガラス戸を開けた。おだやかな秋の暖かい風に包まれた。サンダルを履くのももどかしく、庭の端の灯篭に走り寄った。足元にしゃがみ込み、灯篭の下の土を掘る。粘土質の固い土を何度も掻き分けて数分後、指が固いものに触れた。心臓がドキッと音を立てた。掘り出したのは漆器の小箱だった。上下に噛み合った固い蓋を無理やりこじる。バカリと音がして蓋が開いた。
早々に旅館をチェックアウトして、僕は仲居さんから教わった道を辿り、裏手の祠に向かった。何百段もの山階段を登り、ようやくたどり着いたそこは、祠というより小さい社(やしろ)であった。山の草木と同化し、何百年とここで時を過ごしたお堂。その前に立つ。チチッ。鳥が境内に落ちた木の実をついばんでいる。幾枚もの黄色く色づいた木の葉が、陽の光を浴びて音もなく舞っている。ギイイとお堂の扉を開けた。暗く狭い堂内。その中心には、変色して黒茶けた床几が安置され、その後ろに木彫りの仏様が立っていた。かすかに微笑むその口元が、今にも何かを話し出しそうで、胸がギュッと締め付けられた。僕はその場にしゃがみ込み、コートのポケットから漆器の小箱を取り出し、蓋を開けた。中に収まっていた黒く丸い漆器の紋章。僕はそれを床几の前台輪の窪みにピタリと嵌め込んだ。足利二つ引両紋(畠山の家紋)が、時を超えてそこに収まった。息をのむほど美しい木工の完成に、僕はひっそりと身を震わせた。
鬼がいないんだよ。
畠山城主が守る故郷。そこにかつて満ちていた沢山の笑顔たちへの追慕。その居場所を奪われた、行き場のない怒り。父を守りきれなかった己が無力。新しい世を受け入れることのできない苦しいほどの意地。その入り組んだ複雑な情は、あんな小さな子の心にさえ、
鬼を植え付けた。
それは、この麗しき白樫の木工と同じ ……。
殊更に、
美しい美しい鬼だ。
社を出て長い山階段の上に立ち、遠く鮮明に連なる秋の山々と、麓で黄金色に輝く稲穂の波を見下ろした。山階段を一歩一歩降りるたび、僕の肩が震えた。小さく漏れる僕の泣き声は、高く青い空に吸い込まれて
いった。 ■
高原へいらっしゃい
八ヶ岳高原ヒュッテ 設計:渡辺 仁
昭和51年、田宮二郎主演のTBSドラマ『高原へいらっしゃい』の舞台となった建物が、当時のままに「八ヶ岳高原ヒュッテ」として活用されています。建築家・渡辺 仁の作品です。
自然郷の開発が始まったのは、およそ 50年前の昭和 38年。南牧村(みなみまきむら)の海ノ口財産区が管理していた牧場地約 200万坪を、西武百貨店不動産部が譲り受け「自然と共生する」別荘地を目指し開発に着手。その後、堤 清二氏が率いた西洋環境開発に引き継がれ、現在は㈱そごう・西武が事業主となり、㈱八ヶ岳高原ロッジによって運営されています。ハーフティンバーが特徴的な八ヶ岳高原ヒュッテは、昭和 9年、東京・目白に建てられた徳川義親(よしちか)侯爵(尾張徳川家 19代当主)の西洋館を昭和 43年移築したものです。目白の尾張徳川家の敷地は約 7000坪。西洋館、日本館の他、徳川黎明会本部や徳川生物学研究所、蓬左文庫、徳川林政史研究所が併設され国内外から著名人が集まりました。その敷地は現在、高級住宅街「徳川ビレッジ」となっています。その近隣には堤 康次郎氏(堤 清二氏の父)が大正時代に開発した田園都市のさきがけ「目白文化村」がありました。
植林から始まった別荘地の開発
多くの別荘地開発が木々の伐採からスタートするのに比べ、海の口自然郷の開発は植林から始まっています。海ノ口には八ヶ岳の「火山泥流層」が広がり、江戸時代から放牧地として利用されてきましたが、長年に渡る伐採と過放牧により土地は荒れ牧草も育ちにくくなっていました。そこでまず、カラマツ約 33万本を植える植林から別荘地の開発は始まりました。昭和 30年代に「自然との共生」をテーマとして、日本自然保護協会などのアドバイスを受け、植生や生物の多様化を目指してきた点は、他の別荘開発と異なる特徴といえるでしょう。㈱八ヶ岳高原ロッジの宮川直行さんが案内してくれました。
八ヶ岳高原ヒュッテはドラマ『高原へいらっしゃい』で描かれたのと同様に、別荘地を訪れたゲストの宿泊や住民の社交場として使われました。いまも夏場はティールームやレストランとして営業する他、ブランダル会場としても利用されています。熊の彫刻は、徳川義親侯爵と北海道開拓史の関係を物語ります。狩猟が好きで「熊狩りの殿様」とも呼ばれた義親侯爵でしたが、旧尾張藩士の開拓村「徳川開墾場」(北海道八雲村)の運営を引き継ぐと、スイスで見た農民美術からヒントを得た熊の彫刻を副業として奨励し八雲農民美術研究会を設立。作品を全て買い上げました。それが広がり北海道名物として定着したといわれます。侯爵は開墾に成功した農家に農地を無償配分するなど先進的な活動を行っていました。
ドラマ『高原へいらっしゃい』の撮影時(約 40年前)は草原が広がっていたヒュッテ周辺も、今は様々な木々が生い茂っています。
建築家・渡辺 仁(じん)と義親侯爵は学習院時代の友人で、「徳川ビレッジ」に建つ徳川黎明会本部も渡辺の作品です。明治 45年に東京帝国大学建築学科を卒業、逓信省に入省しゼセッション(ウィーン分離派)をいち早くとり入れ注目されました。独立後は数々の建築コンペに入賞し、銀座の服部時計店(現和光)、日比谷の第一生命館、上野の東京帝室博物館基本デザイン(現東京国立博物館本館)、横浜のホテルニューグランド、品川の原邦造邸(現原美術館)など、ゴシックからモダンまで、西洋の建築様式をふまえ日本の風土に合わせアレンジした昭和初期を代表する建築を残しました。屋根は天然のスレート材、天井には磨いた丸太、金物は鍛鉄製と上質な素材を随所に使いながら、木々の荒々しい削り跡を見せた力強い造形を行っています。
小林 清泰アーキテクチュアルデザイナー ケノス代表
人口僅か130人のエネルギー自給自足村『フェルトハイム』
9月中旬、「住まいとまちづくりコープ」NPO法人設計共同フォーラムマンション事業部主催の、ドイツを中心とする「長生き団地と環境都市視察2016」というツアーに参加しました。(長生き団地とは、技術的な工夫や設備更新で建物の寿命を延ばすことを意味します)。ベルリンでは世界遺産団地ジードルングを、フェルトハイム村
(Fe ldheim)では独自のエネルギー自給自足実現の様子を、学問と音楽芸術の街ライプツィヒでは高齢者生活支援施設併用型や住民参加で緑地をデザインする等、本格的な高齢化社会に突入した我が国の集合住宅改修の今後にむけて、大きなヒントになる様々な施設状況を視察してきました。
フェルトハイムは首都ベルリンから南西へ約70キロに位置します。面積15.7km2、人口わずか130人の小さな村です。近くに大きな街がある訳ではありませんし、大きな企業もありません。もちろん観光資源など当然ありません。見渡す限りの真っ平らなトウモロコシと小麦
巨大な風力発電機のプロペラ。
畑ばかりに取り囲まれていますし、首都からはかなり遠いのです。いってみれば旧東ドイツの陸の孤島的存在で、車でなければとても行く気がしない所です。
ベルリンの壁が1989年11月9日に壊され、1990年10月3日には東西ドイツが統一されました。それ以降、フェルトハイムのような旧東ドイツの田舎町は、過疎化、高齢化などに悩まされることになります。この村も20年間で次第に過疎化が進み、農業主体(元々は畜産業)の村の経済をどうして成り立たせていくのか、当時深刻なテーマだったようです。そんな中1995年に、この村の住民で当時まだ学生であったミヒャエル・ラシェマン(M ichaelRaschemann)さんが村人一人一人を説得して回り、許可を得て売電目的で 4基の風力発電機(w ind turbine)を建設したことがエネルギー自給自足の始まりでした。ここで何か始めなければ村が衰退の一途を辿ると、皆が感じていたのでしょう。反対する人は殆どなく、好意的に受け入れてくれたようです。今では羽の大きさが半径 75mの大型風力発電機を含む 43基が設置され、年間 400万 kwの発電を行っているそうです。2006年にこのウィンドパークは完成したのですが、全量を大手電力会社が買い取るシステムになっていて、自分たちの風力発電機が作る電力を直接使うことは出来ず、周辺地域と同じ高い電気料金を電力会社に支払っていました。そこで自前で使うための1%を村に配電してほしいと申し入れましたが、技術的に出来ないという理由で拒絶されたのです。フェルトハイム村はあきらめませんでした。ここからが凄いのです。「大手の電力供給会社が送電網を独占しているのなら、村専用の送配電網を自前で作ろう!」と決めて大手の電力供給会社の送電網の横に村専用の設備を通してしまいました(大手事業者に有利な日本の法律では、安全が確保できないなどの理由でまず許可されないと思われます)。結果として大手電力会社の料金よりも約 30%以上安く供給され、村人の生活に貢献しています。
高緯度で気温の低いドイツの平均的家庭では、暖房と給湯にエネルギーの 85%が使われ、残りの15%が各種電気器具や照明で消費されています。電力の次に村が取り組んだのは、熱エネルギーの製造とその供給です。ガスの原料として家畜の排泄物、地元で豊富に生産されるトウモロコシのサイレージ(家畜飼料の一種)、籾殻等を発酵させて大きなタンクに貯め、バイオ燃料として温水を作り床暖房等
のどかな農園に風力発電機が林立している。
バイオ燃料を発酵させる大きなタンク。
トウモロコシのサイレージを燃料に利用。
で使っています。またウッドチップも強い寒気への対応として準備されています。さらに大型の蓄電設備を導入し、電気を貯めることで、風力発電の出力を平均化する試みにも取り組んでいます。このようにしてフェルトハイム村は 2010年、ついに電力だけではなく熱エネルギーも含め100%のエネルギー自給自足村になりました。経済的にも十二分の効果を生み出しているのです。この事実がとても重要です。ただし、この村をあげてのプロジェクトには大きな資金が必要で、小さな地方自治体だけでは当然まかなえません。財政の補助を州とEUから受けているそうです。村の目指す方向が次世代へ向けての価値あるビジョンとして深く理解されたのでしょう。
2022年末までにドイツは原子力発電を全廃すると決めました。あの2011年 3月11日から僅か 4カ月でこのことを可決させたのです。この国ではエネルギー問題が大きく政局を動かすといわれています。フェルトハイムが進めている再生可能エネルギーによる「自治体による経済的クリエーション」が広く世界に知れて、大きなうねりとなって地球温暖化防止に貢献して欲しいと願っています。前述のミヒャエル・ラシェマン氏は、再生可能エネルギーを手がける企業家として成長し、社員150人を抱えて活躍しているそうです。なにごともリーダー次第ですよね。 ■
自然郷の別荘地は東西約 5.5kmに及び、最初に開発の始まった小丸地区、ロッジやヒュッテなど主要施設のある中原地区、標高の高い富士見地区など 9つの地区に分かれています。
海の口自然郷は平成 22年、独自の『自然郷環境憲章』を設け、未来にむけた「自然との共生」の姿を示しました。その第1章では多様で健全な生態系を目指すため、草原的な環境の維持がうたわれています。植林から半世紀が過ぎ、伐採期をむかえたカラマツや生長の進んだ木々が増えていることから、「出来る限り木を伐らない」時代から、計画的な間伐や枝払い、下草刈りを行い、湿気の少ない草原の爽やかな環境を目指す時期が来ているともいえます。
『自然郷環境憲章』の第2章では「自然環境とバランスのとれた建物建築」を明文化しています。1区画の面積は最低1000㎡(約 300坪)以上で、相続時も共同名義とすることを推奨。建ぺい率は15%以下、容積率は 20%以下、平均地盤面からの高さ13m以下、2階建てまでの建物とし、敷地境界、道路からは壁面を 5m以上離す(新しく開発される地区では 30m以上)、塀・遮蔽物・囲いは設置せず。生け垣等で自然景観に同化させる。その他、建物の色彩は原色を避け、濃茶、茶色、灰色などを推奨、屋根形状は陸屋根ドーム屋根をさけることなどが制定されています。
自然郷では 20年以上前から植生の調査が行われ、分譲案内パンフレットには、敷地に生える木々の種類が掲載されています。東西 5.5kmにわたり1900m〜 1400mの標高差があるため、地区ごとの植生も大きく異なります。標高 1900m近い西側の富士見地区にはカラマツやダケカンバなどの落葉樹と、コメツガやシラビソなどの常緑樹が多く見られ、イチヨウランなど亜高山帯の花々も楽しめます。一方標高約 1500mの中原地区は、ミズナラやシラカンバ、ミヤマザクラ、サラサドウダン、コナシなど多彩な植生がみられます。
吉田龍太郎( TIME & STYLE )
ドラゴンシリーズ 31 鳴
.呼、何もかもが壊れてゆく。
怒りの鉄拳編
今から 年くらい前ドイツに住んでいた時、フランクフルト郊外の Bad Homburgと言う町に小さなカジノがあり、それは世界で初めて作られたカジノとして有名でした。フランクフルトの日本人駐在員も、頻繁に通っていたようです。そんな単身赴任の人々の多くが、カジノ通いをしては散財して、取り返しの付かない状態になっていました。現地に長く暮らす日本人にも、
30
負債を抱えた人を知っています。
20
ドイツやフランス、スイス、オーストリア、オランダなどの
1
欧米諸国にもカジノはありますが、そこにはアジア系の人々やギャンブル症に侵された狂暴な顔付の欧米人が沢山彷徨っていました。時々、遊びに行くなら良いかもしれませんが、実際のカジノはそんな甘い空気ではありません。負けてはカジノ内に置いてあるキャッシュディスペンサーに行き、現金を限度額まで引き出してはチップに交換することを繰り返して行く老人達の顔は、その度に狂気の様相を呈してゆきます。また華僑と思われる人々はルーレットの玉が着地するギリギリまで待って、ディーラーがストップをかけると同時に100万円くらいのチップ 枚だけを投げ捨てるように置いていきます。ギャンブル症の人々は負けを取り戻すために、さらに大きな金額を掛けて行き、最後にはカジノから家に帰る小銭だけになってしまうのです。そういう事実を政治家や政府、招致しようとしている人々は理解できているとは思えないのです。
インテリアだけでは食べて行けない時期に、スノーボードの
ビンディングを台湾の金属加工メーカーで作り、日本のメーカ
ーや小売店向けの OEMをやっていたことがありました。ラス
ベガスで開催されるアクティブスポーツの展示会に行く機会が
何度もあり、ロスの空港にはベガスからカジノの自家用ジェッ
ト機が、台湾の若社長を迎えに来ました。僕も便乗してベガス
に到着すると、リムジンが自家用ジェット機に横付けされ、ホ
テルのスウィートルームに直行です。何も聞かされていなかっ
た僕はびびってションベンをちびりました(笑)。
そして、なんと部屋代も食事も高いワインも全てが無料でした。僕などは 代後半ということもあって、そんな世界がこの世の中にあるのかと驚いてしまいました。昼間の展示会が終わり夜になると、若社長は特別室でバカラというゲームを始めました。未だにルールはよく分かりませんが、そこで繰り広げられたのは数十万円から百万円単位が賭け金のレートになっていましたので、一晩で使うお金は一千万円を超えていたと思います。昼間の展示会が終わると別の顔となって、滞在中に繰り返すのでした。見ている僕は面白いですが、昼間、
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若社長の売っているのは数千円から一万円位の製品です。それが夜になると一晩で一千万円以上、滞在期間中に使うのは五千万円、時には一億円近く勝ったり、負けたりという話をしていました。極端な話ですが、千円単位の製品をコツコツと売る明晰な経営者がそれだけの賭けをしてしまうギャンブルという魔力の恐ろしさを垣間見たように思います。
日本でも、パチンコや競馬、賭け麻雀などのギャンブル症に陥り、抜け出せなくなる人々が多く存在しす。銀行の従業員が数億円のお金を着服する事件が絶えないのはギャンブル症によるものです。そんな国に日本もなろうとしています。
一度ことが始まるとそこには雇用が生まれ、ヤクザなどの資金源にもなり、規制したいと思っても二度と同じところには戻れなくなります。安倍さんは日本をどこに連れて行くのでしょう。アメリカではトランプ氏が大統領選に勝利しました。不動産ビジネスで財を成したトランプ氏に人間としての倫理観が備わっていれば良いのですが、これから戦後 年間続いてきた日米安保も根底から揺らぎ始めるでしょう。トランプ氏の強行な日本に対する政策に従うしかない。日本人固有の尊厳を大切にしてきた日米の友好関係は微塵も想像できません。海上自衛隊も連合国の救援活動に参加するべく準備を整えて始めました。
これから日本人は戦争に参加するのです。
北朝鮮の日本人の拉致事件は小泉さん以来、ほったらかしです。人さらい
の国に捕らえられている事実が分かりながら、助けない日本人や政府は人間
でしょうか。子供が拐われた親の心や子供の気持ちを政府や政治家は何も感
じないのですか。
震災から 5年以上たちながら、東北各地では仮設住宅で暮らし続けている
人々がいます、熊本の人たちもふくめて、健康で健全な心のままに生きてけ
るでしょうか。助け合う心も人情も無くしたのですか。
私にはこの日本という国と日本人が狂い始めているという、大きな懸念が
あります。カジノなど必要ありません。誰のためなのでしょう。日本を引き
戻すことができるのは国民しかいませんが、いつの間にか安倍さんは戦後の
在職日数が歴代 4位となり、世論調査でも支持率は高いままです。
今の日本人は「茹でガエル」のように、甘い言葉のぬるま湯に浸かるうちに茹で上がってしまうと危惧するのは私だけですか?
別荘地の窓口となる管理棟に立ち寄りました。㈱八ヶ岳高原ロッジの新津栄市さんは、40年以上にわたり別荘の維持・管理に尽くしてきた方です。定期的な通風や使用前の準備・清掃作業、冬期の水道水抜き作業、薪や生活用品の補充など、別荘の維持に欠かせないサービスを提供してきました。また同社では別荘の設計・施工も請け負っており、八ヶ岳の気候風土に合う別荘建築を研究してきました。別荘の平均使用日数は 30日 /年で、無人状態でも家が傷みにくく、カビの生えにくい環境が求められます。そこで今、水道の凍結や建物の傷みを防ぐため、太陽光発電を利用し年間を通して通風・床下暖房が同時にできるパッシブソーラーハウス「エシカル・ハウス」プロジェクトを進めています。自然郷ではシカの群れをよく見かけます。道路の整備が進むとともにシカは年々増え続けていて、サラサドウダンなど貴重な木々の保全や住民との共生が課題となっています。
自然郷の地盤には、表層から90cm付近に八ヶ岳の噴火による火山泥流層があります。別荘の基礎は泥流層より深い凍結深度以下の120〜150cm位まで掘り下げ、砕石をならし捨てコンを打ってからフーチング基礎を立ち上げます。基礎の高さは地盤面から 60cm以上とる必要があり、特に傾斜地の場合は基礎が地下室と同等規模の構造物になります。
フランス銀器の世界でジャン・ピュイフォルカ( 1897〜 1945)といえば、一種特別な存在だ。未成年ながら第一次世界大戦に自ら進んで志願出征し、帰還後アール・デコ的意匠で突出した存在感のある銀器を次々と産み出していく。その多彩な活動を見
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れば、匠であると同時にアーティストと呼ばれるべき人で、実際当時の前衛的な芸術家達との交流も多くあった。その面白さに惹かれて、この人の仕事と生涯を調べたことがある。
短い生涯に 2度の結婚と離婚。一度目の結婚は 1920年。相手はマン・レイとも交流のあった当時珍しい女性写真家ジョルジェット・フロリエ。 7年後に離婚。離婚後すぐにフロリエは、前衛的なダダイストのひとりと再婚している。ジャンもまた離婚した年の
月に再婚。お相手はキューバの砂糖財閥エステベス家の令嬢。ふたりは欧州でヒトラーの侵攻が本格化した後、フランスを脱してスペイン経由でポルトガルに入り、そこから船でキューバへと逃れていく。当時欧州からキューバへと戦乱を逃れていたユダヤ系を多く含む亡命者たちは、アメリカ本国への入国を目指していた。だが、強力なコネクションのあるごく限られた特権的な人々のみが、入国を許されている。女性画家タマラ・ド・レンピッカ夫妻とその令嬢が、その代表格だ。
アメリカ入国を果たせなかったジャン・ピュイフォルカは、結果
として終戦時までキューバに滞在し、その間に、アステカ美術を受
容した新たな作品系列を含む力作を次々と発表し、これを NYCの
代理人を通じて販売し続ける。その間 1940年に 2度目の離婚へ
と至っている。
こうして作家ヘミングウェイも重要な役割で登場する第一次・第
二次世界大戦間のキューバ、特にハヴァナの歴史の面白さに引き込
まれるように調べを進めていく内に、悲しい史実に遭遇した。それは、
真珠湾での日米大戦勃発後 1943年から 3年間に渡り、キューバ
で 350人の日系人が強制収容されたという重大問題だ。沖縄と新
潟の出身者がその大半で、農業や商業での成功者も少なくなかった。
アメリカ国内の日系人強制収容という悲劇は、多くの人が知る。だが、
「キューバでの日系人強制収容」なんて聞いたこともなかった。直接の交戦国でもないのに、なぜ、なぜ当時のキューバ政府はそんな重
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勝に終わり、同年 月にフランスのパリで和平条約締結。問題は、敗戦国スペインにとって屈辱的な、その条約の内容だ。「キューバの独立を認め、フィリピン・プエルトリコ・グアムは、アメリカに割譲する」。これが、今回の話の本題だ。
この条約締結の 年後、米軍占領下のキューバで、アメリカの広範な介入権を認める「憲法」が制定され、実質的にアメリカの保護国となる。この状態がカストロのキューバ革命まで続く。アメリカの保護国とはすなわち、宗主国アメリカに言われるがまま。このことが「キューバでの日系人強制収容」につながった。では、同じ条約でアメリカに「割譲」されたフィリピンは、その後どうなったのか。割譲前から胎動していた対スペイン独立運動が、対アメリカ独立運動へと変化する。フィリピン人の一部に根強い反アメリカ感情の原点だ。これを鎮圧するためにアメリカは多額の戦費を投入する。その是非を巡って米国内では激しい論争が起きている。その後 1942年の日本軍による首都マニラ占領に至るまで、フィリピンは米国の支配下に置かれる。
今年一年を振り返ってみても、このパリ条約の対象となった国と地域の話題には事欠かない。米国とキューバの歴史的な和解、フィリピンのドゥテルテ大統領の激しい米国批判、南シナ海フィリピン沖をめぐる米中間の緊張、沖縄の米軍基地のグアムへの移転問題。そして日本ではあまり報道されない、プエルトリコ。その気候の温暖さからアメリカの超富裕層が夢のようなヴィラを構える地区がありながら、国家としてのプエルトリコ(「豊かなる港」)は、先ごろデフォルトすなわち国家破産している。この 1898年のパリ条約以降アメリカは、アジアに植民地を持つ海洋帝国として国際政治の舞台に登場する。この「海洋帝国」という言葉も昨今よく聞かれる言葉だ。というわけで、ピュイフォルカをきっかけに、あれこれ調べて知った様々な史実は、今頃になって、世界情勢を読み解く意外な助けとなっている。大な決断をするに至ったのか。調べを進めていく内に、昨今の世界情勢の大変化に直結する、興味深い史実を知ることになる。
スペインの植民地であったキューバでは明治の初め頃から、対スペイン独立運動が盛んになる。産業の中心はアフリカからの奴隷労働者を前提とした砂糖プランテーションとタバコ。ユダヤ人の世界的な砂糖王に代表される一部の特権階級が支配する植民地だった。当時アメリカは、砂糖・タバコ産業を中心にキューバに対して莫大な投資を行っていた。その権益保護を「錦の御旗」として、スペインとキューバの対立に介入する。「スペイン帝国は、植民地キューバ人に対して過酷な弾圧を続けている !」米国の低俗新聞がダーティーなキャンペーンを張り続け、キューバ人と米国人のナショナリズムを煽る。この「キューバの対スペイン独立運動」には秘密裏に米国政府の
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強力な策謀支援があったという。 1898年 月ハヴァナ湾に停泊していた米国の軍艦メイン号が撃沈される。これをきっかけに米西戦争勃発。僅か
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ヶ月間で米国の圧
八ヶ岳高原ロッジ
自然郷の発展とともに「八ヶ岳高原ヒュッテ」が手狭となり「八ヶ岳高原ロッジ」が建てられました。68の客室と2つのレストランがあり、標高1550mのライフスタイルを体験できます。
最初に建てられた木造平屋のスタンダードAツインルーム(2013年リニューアル)は、毎年ロッジを訪れる常連客に人気です。デッキからは庭の木々や小鳥たちの姿も見られ、ロッジの常連から別荘の住民となる方も多いようです。
ロッジの敷地から自然を満喫できる遊歩道が伸びています。徒歩約 15分の「美鈴池」には樹齢 100年近いサラサドウダンが立ち、野鳥が安心して過ごせる浮島が設けられていました。自然観察指導員の資格をもつスタッフにより40年ほど前から自然観察会が続けられ、休日の早朝を中心に周辺の木々や野鳥、八ヶ岳の景観を案内しています。
レストラン「花暦」の朝食は高原野菜を使ったサラダバーが人気。お土産としても好評のオリジナルドレッシングやシェフが作ってくれる熱々のオムレツも美味しいです。ランチタイムには、別荘の方々も訪れているようです。
レストランのデッキから、男山、天狗山や秩父連山を望めます。
メインダイニング「ル・プラトー」は、山田 純一シェフ(日本エスコフィエ協会ディシプル)が信州和牛など地元の食材を活かしたフレンチを提供。丸太を組んだインテリアがロッジの一夜をさりげなく演出します。
ロビーの暖炉は一年を通して火を灯し続けています。暖炉の向こうは、バーラウンジ「ラ・シュミネ」。
パノラマビューの広がるロイヤルスイート。
ハンス・ホッパーデザインの「Mah Jong」は、モデュール化されたクッションと背もたれ、ラグを組み合わせる新感覚ソファ。MISSONIのファブリックスにより多彩な表情をみせます。ロッシュボボアは創業以来、つねに工場をもたずオリジナルの家具を発表し続けています。その理由について社長のジル・ボナンさんは、表現の自由とスピード感を維持するとともに、伝統技法をもつ家具メーカーの職人技を活かすためといいます。モダンなソファにも伝統的な木枠の技法が使われ、生活美術(アール・ド・ヴィーヴル)の本質を示しています。
㈱ CROWN代表の野田豪さんは、日本のイ
アナウンサーの政井マヤさんが、ロッシュボンテリアには「愛」が足りない。ロッシュ ボボ
ボア誕生のヒストリーや、50年以上にわたるアの家具は愛をもたらすだろうといいます。
デザインの変遷を解説しました。
AQUA
第32 回内田 和子
つれづれなるままに旅は道連れ……
月下旬、ちょっと一休みしたいと、近場の温泉に一人旅。ホテル主催の「紅葉の修善寺と名旅館懐石料理とみかん狩り」という、盛りだくさんのバスツアーに参加した。熱海駅からバスで 1時間ほど、海沿いを走りながら伊豆修善寺へ。初めてだったが、ちょうど紅葉が見頃で、清流に
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かかる朱塗りの橋、見事な竹林や古い旅館など、こじんまりとした中に風情があり、目を楽しませてくれる。
1年前、紅葉を撮るためにカメラを新調した。仲間のカメラ談義に加わりたくて、いろいろ迷いながらカメラ屋さんを覗いたが、結局どう撮ってもピントを外さない、易しいカメラに落ち着いた。説明書をカメラに携行して読んではみるが、オート以外はよく理解できないまま、 1年が経ってしまった。やはりカメラは使ってみないと、説明書に書いてある機能はわからない。とにかくフィルムを使わな
いのだから、ジャンジャン撮ればいい。と、レンズカバーをつけて、首からカメラを下げて、シャッターを押した。どういう訳か、ツアーの添乗員さん(若い男性)が、私と一緒に廻ってくれた。外国人観光客も多くあちこちで写真を撮っている。家族や友人たちと一緒だが、日本人のように「撮ってください」とは言わない。
私がファインダーを覗いて写真を撮っていると、手持ちぶたさのように、添乗員の彼が、笑顔でその人達に声をかけている。「撮りましょうか」と。最初は言葉が通じないのか、怪訝な顔をしていたが、私が同行者だとわかると、自分たちのカメラを差し出して、みんな集合して笑顔で「はい、チーズ」と、写真に収まる。何回もそんなことを繰り返えし、こちらの方が景色がいいなどと言っているうちに、いつしか私は付き人を連れたプロのカメラマン ?と、間違えられたようで、「カメラマンの方ですか ?いい場所を教えてくださってありがとうございます。」とわざわざお礼を言ってこられたのには驚いた。「いいえ(カメラマンではありませんよ)(どういたしまして)」と、どちらとも取れる返事を返したが、まんざら悪い気がしないのは、困ったものだ ……
つれづれなるままに旅は道連れ ……
修善寺散策を終えると、待ちにまった昼食である。唐人お吉が湯治に来ていた温泉場だそうだが、この宿は 3万坪の敷地に工夫を凝らした宿泊施設が点在し、スパや宿泊者専用の美術館や喫茶室が幾つもある。以前から一度は泊まってみたいと思っていたが、今日は昼食のみ。しかしさすが、名旅館の料理である。見事な器に美しい料理が運ばれてくる。こんな美味しいお料理をアルコール抜きで戴くのはもったいない。と思っていると、偶然、前に座ったご婦人が「飲みます ?」と目顔でいう。ツアーは女性が大半で男性は 2〜3名いたが、8080お酒を頼んでいる人はいなさそう。でも、お酒を楽しむ人が目の前に座るのも旅の道連れ ……、二人でビールを頼んで乾杯。お隣さんたちも一緒に「よろしく」とお茶で乾杯。それから、楽しいおしゃべりが一気に始まった。バスの中では気
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がつかなかったが一人で参加されている方もいたようで、お腹が満たされてくると、みな遠慮なく口も滑らかに他愛もない話で盛り上がる。食後
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は広い庭園をカメラを下げて一回り。気心も少し開放的になって、カメラの
分ほどのところにあるみかん畑で、甘いみかんが成る木を探して、袋つめにする。案外これが難しい。木によって味が全然違う。酸っぱいみかんもある。食べてみないとわからないが、そういくつも食べられるものではない。ようやく見つけた甘い木はみんなに声をかけるが、斜面に植えられた高い枝のみかんには手が届かない。背の
高い人がもいでくれたが、皮が破れてしまった。海に向かって日
を一杯当たったみかんは甘い、ということがわかった時には終了
の時間だった。それでも袋には、大小不揃いのみかんがぎっしり
と詰まっていた。
ひとり気ままに出かけたツアー、中高年の女性パワーに圧倒さ
れながら、極め付きは、 歳現役女史。明日はゴルフに行くとい
う。それも一人で。聞けば、週 1回、仕事の合間にゴルフを楽しみ、
水中ウォーキングで体幹を鍛え、毎日 分歩いている、とのこと。
卒倒しそうな話である。 歳まであと何年 ?などと老後の行く末
を案じていたのがすっ飛んでしまった。旅は道連れ ……とはいう
がこんな楽しい出会いはめったにあるものではない。元気をもら
った気ままな旅に乾杯 !!
カメラには、美しい紅葉と、いい笑顔がたくさん写っている。
前の笑顔も多い。最後は
冬の厳しい自然郷では、一年を通じて定住する方はまれでしたが、最近は温熱環境の進歩もあり徐々に増えています。2年ほど前に東京から移住された Kさんご夫妻のお宅を訪ねました。
東京自由が丘で補聴器のショップを開いていた Kご夫妻は、以前から八ヶ岳高原ロッジを利用し、いつかはここに別荘をと考えていました。ユーザーの縁でランドスケープデザイナーポール・スミザーの庭園を知ったご主人は、庭づくりを楽しみながら自然のなかで暮らしたいと思い、6年前に今の敷地を購入、自ら平屋建ての家をプランしました。従来の別荘は夏向きの仕様が大半でしたが、冬場も八ヶ岳で過ごしたいと考え、ホクシンハウス(長野)の「FB工法」を採用。これは床下暖房の熱を、壁・床・天井を通して家全体に送る 6面輻射式の 24時間暖房システムで、平均気温零下 15℃以下となる冬も快適に暮らせました。いつしか東京に戻る日が少なくなり、2年前から定住を始めたそうです。
▲ ゲストルーム。ご主人は家具コーディネートもしています。
▼ 立って歩ける床下。スタイロフォームで内断熱しています。
東面には土間式のサンルームを増築し、庭や山の景色を眺められるようにしました。「ロッジや音楽堂があるから定住を決意できた」と奥さま。大自然と文化の共存が自然郷の魅力のようです。電気暖房で暖められた床下は、高さ約 2mと地下室並みの空間で、洗濯物を干したり納戸としても利用されています。オール電化住宅で深夜電力利用の貯湯式給湯器を床下に設置しています。管理棟スタッフによるパトロールや除雪作業、家の補修対応などが充実し、安心して暮らせるそうです。
鈴木 惠三(BC工房 主人)
工房楽記「木人&陶人」
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「土の遊びが始まった。」子供の頃から、なんとなく描いていた。爺さんが、骨董屋で茶人であったそうだ。小さい頃から母親に聞かされてきた。
「陶芸はいいが、骨董には手を出すな。」家には古い抹茶茶碗がいろいろあった。毎日、抹茶を飲んでいた。オトナになったら、陶芸をやってみよう。やってみたい、と思っていた。
過ぎたら、
になったら、などと、
のびのびにしてきたのが陶芸だ。陶芸などとはおこがましいので、
「土の遊び」へのチャレンジである。
陶芸窯は
年前から準備していた。
無垢板テーブルを買っていただいたお客さんに、小さな花器に野の花を活けてプレゼントするのが、夢なのだ。小さな花器づくりが、やっと始まった。師匠は、友人の藤本
均。
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笠間で陶芸をやっている地元の有名人である。
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オイラとは大学時代に出逢った。
歳の頃からの 年のつきあいだ。年に 2.3回、笠間の自宅を訪ねるのを楽しみにしている。アートについて、デザインについて、陶芸について、
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逢った瞬間から熱く語り合う友である。
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年来の友が、月に 回はオイラの先生をやってくれるのだ。
藤本先生の教え方は、ユニークそのもの。
タタラにした土を、木型に手でたたいてカタチを作りだす。
レンジでチンして、削り出す。
椅子の試作モデルづくりをしているみたいだ。
土のカタマリから、削り出す彫刻だ。
オイラのような不器用な人間でも、なんとかなりそうである。
作る技術より、作る創意工夫の感性。
オイラの考えるテーブルづくり、椅子づくりと同じである。
職人肌のモノづくりじゃない。
感性のモノづくり。
何が生み出せるか ?
椅子やテーブルづくりと同じように、
試作、実験のつみ重ねをやりつづけていれば、
きっと発見できるんじゃないだろうか。
「 才の手習いが始まる」奇人変人ならぬ、木人陶人である。
設計:吉村順三
八ヶ岳高原音楽堂
世界の音楽家から評価される「八ヶ岳高原音楽堂」(1988年)。ヒュッテからも近く山々を望むこの場所を建設地に選んだのは、20世紀最大のピアニストと称されたリヒテルと言われます。
音楽堂を設計した吉村順三と音楽の絆には深いものがあります。吉村順三の伴侶である大村多喜子夫人は、日本人で初めてジュリアード音楽院に学んだヴァイオリニストで、優れた指導者として知られていました。また軽井沢では日本の音楽教育に大きな足跡を残したエイローズ・カニングハム夫人のために、音楽家の研修施設「軽井沢ハーモニーハウス」(現在はカフェとして公開中)を設計しています。2つの六角形を組み合わせたような平面は、敷地から見える男山、天狗山をモチーフにしたともいわれます。ロッジ支配人でコンサートの企画にも携わる油井雅明さんに音楽堂を案内して頂きました。階段をあがりスタッフ専用のエントランスから入ると、自然光の降り注ぐ広々とした演奏家控室。演奏前のひとときをゆったり過ごせます。音楽堂の平面は、控室や楽屋、パントリーなどを集めた棟と音楽ホール棟が、ホワイエで結ばれた構成になっています。各棟は六角形なので四角い部屋はありません。
天然木をふんだんに使ったホワイエ。カラマツ、ベイマツ、チーク、ツガなどが全体で約 160立方メートルも使われています。来場者のエントランス。軒下が広く深いつくりで、雨や雪の日も、落ち着いて出入りできます。コンクリート打ち放しの柱や壁には杉板の型枠が使われ、薄く着色されています。
世界中の音楽家が演奏してみたいと言う定員 250名の贅沢なホール。リヒテルをはじめアシュケナージ、ブーニンなどがこの舞台に立ちました。リヒテルと武満徹がアドバイザーとなり、ヤマハ音響研究所が設計に参加。理想的な残響 1.6秒を生み出す六角形状や木々のぬくもりに加え、奏者の息遣いを感じられる観客席との近さが、素晴らしい音色を生み出すのでしょう。音楽堂の由来は、自然郷の別荘オーナーたちが開いていたレコード鑑賞会にはじまります。それはやがてヒュッテでの生演奏会やロッジでのサロンコンサートに発展し、音楽堂の建設にいたりました。音楽堂ではクラシックだけでなく、JAZZや現代音楽、歌謡コンサートなど、多彩なプログラムが組まれています。
このホールのためにデザインされた「たためる椅子」は、今は名作椅子のひとつとなり住宅で使う方も増えています。音楽堂はブライダル会場としても活用されています。
山の頂きのような天窓をのせた六角形の大屋根は、鉄筋コンクリートの柱で支えられています。その内側に木造建築のホールを作り、大屋根で雨・雪から守る仕組みです。半分以上は開口となっていて、自然と共生した半野外の劇場空間といってもいいでしょう。
コラージ 10周年 サポーターの皆様に心より感謝申し上げます