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時空を超える美意識
6月号 水月 2017
http://collaj.jp/
素敵な出会いがありそう Interior Lifestyle Tokyo 6月14日〜16日
2017年6月14日(水)〜16日(金)10:00〜18:00( 最終日16:30 まで ) 東京ビッグサイト西 1・3・4ホール+アトリウム
左上)Nezuのアクセサリー(NEXT)。上)DRAW
A LINEの突っ張り棒を利用したインテリアアイテム
(MOVEMENT)。右上)TRINUSの 「花色鉛筆」
(アトリウム)。左)ウサギノネドコによる植物の美しい瞬間を捉えた「Sola cube」(アトリウム)。右)SOAK design by hesoのバッグ(アトリウム)。
2017年の Interior Lifestyle Tokyoは、アトリウム特別企画のディレクターとして、江口宏志氏が参加。「WANTED!」をテーマに、潜在的な需要を掘り起こす出会いの場になるようです。今年は22カ国/地域から 791社が出展。日本の伝統とものづくり文化を発信する「JAPAN STYLE」、最新のデザインを集結させた「MOVEMENT」、良質な北欧ブランドを集めた「NORDIC LIFESTYLE」、若手デザイナーを支援する「TALENTS」「NEXT」、フードアイテム「 FOODIST」など、さらにバリエーション豊かな見本市になりそうです。
▲ moooiの新作照明「コッペリア」(D=三宅 有洋)を日本初披露。moooi / トーヨーキッチンスタイル(MOVEMENT)。
▼ 「STIIK」は、カトラリーと一緒に使っても違和感のない箸として開発されました。STIIK(JAPAN STYLE)。
▲元祖サーディン王国ポルトガルからやって来 ▲卵の殻を原料にしたタイルのバスマット
た風味豊かな無添加サーディーン。ポルトドポ 「 UFUFU」。ベースには紀州杉を使用し。日
ルト( FOODIST)。 本エムテクス(K ITCHEN LIFE)。
▲伝統の“手捻り”を原点としたリネン布のような風合いと軽さ、薄さが特徴の「ceramic mimic fabric」。文山製陶(JAPAN STYLE)。
▲ 3つのパーツで構成された重さ3kgと軽く丈夫な「Zesty Chair」。4年ぶりに出展のラトビアから。PLYCOLLECTION(GLOBAL)。▲一点もののジュエリーケースやフェルトのストール、タペストリーを紹介するフルコチエ(NEXT)。
▲ 台湾の KIMU design studioによる、東洋と西洋、レトロとモダンを融合したアートピース(TALENTS)。
▲ コクヨが発表する新ブランド「 Drawing+ 」は、“かく”ことを身近な習慣とするためのツールを提案(ACCENT)。
▲ニューヨークを拠点とする OVOceramicsは、布をモチーフにした磁器のテーブルウェアを紹介(NEXT)。
今年の記者発表会は、外苑前の「CAFE DE NATURE」で開催。Interior Lifestyle Tokyoの担当が川津陽子さん(左)から小泉恵子さん(右)にバトンタッチされることも発表されました。川津さんは「まちてん地方創生まちづくりフォ
ーラム」を担当するそうです。明治10年に日本を旅した英国人女性イザベラ・バード。日光に着いた彼女が見た紅い橋
「神橋」は、いまも当時のままに外国人観光客の注目をあびていました。
『私は、街路を登っていって、はずれにある岩の突き出たところに腰を下ろし、だれにも邪魔されずに、最も偉大な二人の将軍(家康・家光)が「栄光に眠る」山の荘厳な森を見渡していた。下方では大谷川(ダイヤガワ)の奔流が、夜の雨で水かさを増し、狭い谷間を雷のような音を立てて流れていた。その向こうには、巨大な石段が伸びていて、杉の森の中に消えてゆく。その上に日光山が聳えている。急流がその激しい勢いを二つの石の壁でとめられているところに、橋がかけられている。長さ八四フィート、幅一八フィート、にぶい赤色の漆が塗られて、両側の二つの石の橋脚に支えられ、二本の石の横梁によって結ばれている。』(「日本奥地紀行」イザベラ・バード著 高橋健吉訳 平凡社)
▼ バードの描いた「金谷カテッジイン」。
バードが日光の宿としたのは、金谷善一郎によって経営されていた「金谷カテッジイン」でした。武家屋敷を外国人旅行者向けに改装した宿で「Samurai House」と呼ばれました。東京を出発して日光まで、途中の旅籠で散々な目にあってきたバードは、ここで初めて日本の美意識を感じる暮らしにふれます。
『畳はあまりにきめが細かく白いので、靴下をはいていても、その上を歩くのが心配なくらいである。磨かれた階段を上ると、光沢のあるきれいな広い縁側に出る』(日本奥地紀行)。
バードや通訳・伊藤鶴吉の泊まった部屋が大切に保存され、140年前にバードの描いた情景を追体験できます。
『天井は軽い板張りで、黒ずんだ横木が渡してある。天井を支えている柱はうす黒く光沢のある木である。鏡板は空色の縮み紙に金粉をふりまいたものである。一つの床の間には掛物がかけてある。咲いた桜の枝を白絹の
略)もう一つの床の間には棚があり、引き戸のついた非常に貴重な飾棚がのっている。それには金地に牡丹が描かれている。(中略)私は部屋がこんなに美しいものでなければよいのにと思うほどである。』(日本奥地紀行)。
中。(るあで品術美いしらばす、で絵たい描に上
金谷カテッジインは平成 26年、国の登録有形文化財となり、復元修理ののち「金谷ホテル歴史館」として一般公開されています。バードの著作が英国で発表されると、日光は日本を代表する名所のひとつとして認知され、それは今日まで続いているのです。隣接するカテッジイン・レストラン・ベーカリーでは、明治から海外からの賓客に愛されてきた金谷ホテルベーカーリーのパンや名物のカレーライス、ハンバーグ・シチューのパングラタンなどランチメニューを楽しめます。
僕らのリズム
高校最後の日の朝。私は開いた目をもう一度、ぎゅっとつむった。胸に
チリチリと疼痛が走っている。目をつむったまま起き上がり、大きく息を吸い込んだ。その息をゆっくり吐きながら、目を開ける。
窓の外は雨だった。
最後の制服を着る。台所で食パンを焼く。父と母は旅行に行っている。いいの、二人で楽しんできて。小学生とか中学生じゃないんだから来なくていいよ。そう言ったのは私だ。よかったと思う。今朝は一人でよかった。
玄関の鍵を閉めた。カチャリと乾いた音がした。傘を開いた。雨 ……霧雨。海沿いの家を出て、海沿いの高校に通う毎日。それも今日で終わる。桜が咲く頃は一人で東京に行く。三年間好きだった人とも今日で最後。
海岸通りを横切った。海を見よう。まだ時間が早いから大丈夫。ちょっとだけ。松林を抜ける。潮騒が聞こえる。
青い青い海に細かい雨が吸い込まれていく。それをボンヤリ見つめている。小さく寄せては返す波の音。告白しよう。そう決心した。カバンを開けてペンケースを開いた。ノートの端に自分のアドレスを書いた。小さい私がとても大きくて青い世界にいる。
お前は可愛い顔してんだからもっと笑えよ。ちがうって、もっと口を横に引くんだよ、こうやって、な ?その日以来三年間、この魔法が解けることはなかった。何も起こらない何もない時間。退屈でつまらない日々。この気持ちを言葉にするならなんて言えばいいんだろう。わからない。それでも
……と思う。私は、この世界を終わらせたくなかった。このまま
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15
野田 豪(AREA )
ずっと続いていて欲しいと思っている。なぜだろう。
それでも最後の瞬間はやってくる。
卒業証書を抱いた傘の波に紛れながら、自然にあなたの横を並ぶように歩いていた。
声をかけなくちゃ。自分の心臓の音しか聞こえない。講堂から正門までの距離が永遠に感じられた。湿った廊下の臭い。校庭の光と影。窓際の席から見えた海の色。たくさんの思い出が頭をよぎる。テスト前のノート。遠くに聞こえるブラスバンド。重いスカート。財布に隠した写真。都会に憧れた私。正門が近づいてくる。傘の柄を握った右手には、雨に濡れたノートの端。正門の桜の木。あそこで言おう。あの大きな桜の下で。
でも、結局、私の口が開くことはなかった。
あの人を好きだった日々。それはこのままでいい。無理やり決着をつけるなんて、私にはできない。私は学校と家の途中の道に座り込んで、泣いた。告白できなかったことにではない。失ってようやく気づいたからだ。私が、本当はとても眩しい季節に居たんだということに。そして、それを取り戻すことはもう二度とできないんだということに。
家に帰ると、一人ぼっちの静かな部屋で、
私は脱いだ制服を丁寧にたたんだ。
ありがとう、ありがとうってなんども言いながら。
パタリ。
最後にクローゼットを閉めた音は、遥かな月日が経ち、口を横に引いて笑えるようになった今でも、耳の奥にはっきりと残っている。
あの青い青い海の色とともに。
金谷カッテージインの近くに、大正天皇の静養所として造営された「田母沢(たもざわ)御用邸」が公開されています。明治期の御用邸の中では本邸が現存する唯一の建物で、天皇家の暮らしを体感できる貴重な施設です。大正天皇の「謁見所」は大正 7年に増築された部屋で、和館でありながら靴のまま絨毯の上を歩きました。玉座や卓子は当時のもので大正天皇は立ったまま謁見されたそうです。本格的な「真」の書院造で、格天井や床の間には御用林から伐りだした尾州檜の四方柾をふんだんに使い、あえて白木として見せることで素材の美しさを活かしています。屋根はひとつながりになっていて、どの部屋へも雨に当たらず行き来できます。中庭に出入りする通路は半地下です。
江戸・明治・大正と3つの時代の建物を、ひとつ屋根のもとに繋ぎ、床面積約1360坪、106室の広大な邸宅を構成しています。平成 9年から栃木県による修復工事が行われ、平成 12年に記念公園として開館しました。部屋の多くは侍従や女官、宮内大臣など皇室を支える人々のもので、夏の間、皇居の機能がそのまま日光へ移されていたことがうかがえます。田母沢御用邸は明治 32年、身体の弱かった皇太子の静養の場として立てられました。敷地には元々、銀行家・小林年保の別荘と庭園があり、それをベースに東京・赤坂離宮の旧紀州徳川家屋敷が移築されました。大正期の大増築では、謁見所をはじめ御玉突所(ビリヤード場)や表御食堂(賓客や臣下などとの食堂)など公的な場が多く増築されます。床はケヤキ柾目の寄木張りで、洋装を前提とした作りです。設計は皇室の建物に江戸時代から関わってきた木子(きこ)家の木子清敬と息子・幸三郎が担当しました。西洋の生活様式と和館の融合を試み、昭和初期の建築界に大きな影響を与えました。
紀州徳川家屋敷(天保 11年)を移築した部分にある天皇の書斎「御学問所」。数寄屋と書院を融合し壁面に梅を描いた華のある空間で、大正の増築部分に比べ繊細な線が目立ちます。
なき虫の山の隠ると思ふまに青空みえて雨の晴れ行く
大正天皇御歌
御学問所の上にある劔璽(けんじ)の間 。天皇の象徴である剣と勾玉を安置する小部屋です。天皇は常に劔璽を帯同する決まりで、夏場に長く滞在した大正天皇のため設けられました。剣璽の間の隣に御寝室(上)があるのは、京都御所や皇居と同じ配置のようです。劔璽の間の畳には天皇だけの繧繝(うんげん)縁が使われています。各部屋の畳縁は生麻、萌葱絹、小紋、中紋など部屋の格式によって細かく分けられ、畳縁や引き手、釘隠しをみれば誰の部屋か分かる仕組みです。白い壁面は漆喰の左官壁ではなく、和紙を何枚も重ねて作る和紙張付壁で、皇室の建物によく見られます。▲ 白梅二鳥(遠坂文雍作)。▼結婚式や茶道の研修施設としても活用されています。
珍しい、天皇専用の浴室も見られます。浴槽はなく板の上で沐浴されたようで、板の脇に排水のための溝が見えます。外に立つコンクリートの筒は、お湯を貯めておく貯湯槽です。実際にはあまり利用されていなかったようです。▲ 樹齢約 400年といわれる、しだれ桜が見えます。
▼ 女性らしいあしらいの照明。赤色は金で発色したもの。
旧小林年保別邸には皇后に関係する部屋が集中し、2階の皇后御学問所からは見事な庭園を見渡せます。畳には萌葱色の絹製の縁が使われ、これは着物を傷めない配慮ともいわれます。日光の武家に生まれた小林年保は、幕末に東照宮の守備隊として、戦わずして明治政府軍からお宮を守りました。その後、静岡で銀行家として成功し、故郷に立てたのがこの別邸でした。栂材を多用した京風のつくりは、裕福な商家の雰囲気を漂わせています。
小林 清泰アーキテクチュアルデザイナー ケノス代表
いまスーパーのイートインが面白い素材提供型から食生活提案型、そして「場」の提供型へ
今や日本中で見かける、アメリカシアトル発のスターバックスコーヒー。創業者のハワード・シュルツが提案したコンセプトは「サードプレイス」と呼ばれる「場」の提供です。ファーストプレイスは自宅、セカンドプレイスはオフィスを指し、サードプレイスは家でも会社でもない「リラックスできる場所」と業界では解釈されているようです。私としては「自分に帰れる、あるいは自分を取り戻す場所」と位置づけています。もちろんカフェラテなどを飲んでホっと一息つくわけですが、スターバックスコーヒーが提供したのはコーヒーだけでなく「サードプレイス」という場の提供であり、それが大成功の一因だったのです(ご存じの方も多いと思いますがスターバックスというネーミングは、メルヴィルの小説「白鯨」に登場する、コーヒーばかり飲んでいる一等航海士「スターバック」からとられています)。スターバックスコーヒーの大ヒットは、世の中のライフスタイルの
スーパーの役割は大きく変化しています。
変化を物語っています。そして、その流れは小売業体の代表格であるスーパーマーケットにも波及しているのです。
◆今までのスーパーの売場構成
以前のスーパーマーケットは、家庭料理用の素材販売業でした。いうまでもなく主な商品は生鮮 3品とグロサリーです。生鮮 3品とは「青果(野菜や果物)」、「鮮魚(魚類や貝類)」、「精肉(牛肉、豚肉、鶏肉類)」で、お店のメイン通路にそった壁際に展開されています。グロサリーは生鮮 3品以外の食材を指し、中央部分の何本かの通路の什器群にうず高く陳列されています。乾物、インスタントラーメン、調味料、お菓子など多種多彩です。
◆最近のスーパーの売場構成
さて皆さん、最近出来たやや大型のスーパーマーケットへ買い物に行かれたことがあるでしょうか。上記の売り場構成に加えて、いろいろな機能を持つコーナーが提供され始めています。例えばガラス窓に囲まれ調理の様子が見える「出来たて惣菜コーナー」が入口の近くに設けられ、コロッケや天ぷらはもちろんホットミールやコールドミールも量り売りしています。また膨大なアクセス数を誇るクックパッドのリアル版ともいえる「クッキングサポートコーナー」(あるチェーンストアのネーミング)は、今日のおすすめメニュー提案を実際に作って見せるコーナーで、目につきやすいメイン通路に面していて、素材売り場への誘導が目的です。その他、安くて新鮮な魚屋の寿司をアピールするため、寿司職人が暖簾の向こうで実際に寿司を握る店や、窯でピザを焼く炎が見えたり、シュークリームのクリームを、その場で詰めて渡すなどのパフォーマンスをする店まであります。インストアベーカリーに至っては、パンの焼ける香りをファンで店内に送り出し、来店者を誘っています。いってみれば「ライブ感」を強く打ち出し、視覚だけではない、食材の温度や鮮度や香りをアピールしているのです。スーパーマーケット来店者の 6割は、今夜のメニューを決めていないと言われています。いってみれば、夕食を作る義務感から買い物に出かけ、入店してから見た食材で今晩何にするか考えるそうです。女性の社会進出が進むなか、昔のように祖母や母から料理を習う習慣はすたれ、卒業後すぐに就職し仕事に取り組み、結婚してから初めて料理することになる方も多いと思われます。先のクッキングサポートコーナーは、そんな方々への応援コーナーなのです。
ワインのテイスティングバーも登場。専門性の高い売り場がテーマです。
イートインスペースは大型化し、滞在時間も長くなっています。
売り場のイメージにしても、どのコーナーも統一されたスッキリ綺麗なデザインではなく、昔の商店街のように、業種の違いに応じた顔が作られ始めています。青果売り場なら八百屋さんのように、鮮魚であれば、さばく前の丸々一匹を氷のうえにディスプレイしたり、精肉であればお肉を塊で見せ注文に応じてカットしますと声を掛けたりしますし、エージングビーフの冷蔵ディスプレイまでやっています。リカーコーナーもワインを中心にビール、焼酎、日本酒はもちろん、ウイスキーもスコッチからバーボンまで輸入品を中心に品揃えして、専門性をアピールしています。
◆素材を持ち帰るから、その場で食べるイートイン
さて、最近のスーパーマーケットで一番注目すべきは「イートインスペース」の存在です。大体のお店では、レジを済ませて出口へ向かう少し手前の、明るい窓の近くに設けられています。入り口にはコンビニに負けまいと、コーヒーマシンを複数台載せたカウンターまであります。イートインの利用状況はとても多様です。例えば日曜の朝であれば、中年男性がバラバラに数人、ベンチシートやソファ風の椅子に座ってコーヒー片手にサンドイッチを頬張りながら新聞を広げています。また小さいお孫さんを連れたおばあちゃんがジュースを飲ませたていたり、地元少年野球のコーチでしょうか?ユニフォー
ム姿の男性が集合している姿も見られます。そして、平日の昼から午後は利用客が一変します。一人暮らしらしきお年寄りが無料サービスのお茶を飲みながら、お店の弁当をゆっくり食べていたり、買い物を済ませた主婦数人が商品満載のカートを置いてワイワイとお喋りに花を咲かせている姿も見られます。すでに地域のコミュニティースペースと言えるまでに、利用のされ方が変わってきました。住宅街ではありませんが、スカイツリーのもとにある「ライフ押上店」を見てみましょう。夜遅くの時間帯は地下鉄が到着する度にドッと人がなだれ込み、大半は急いで買い物を済ませて帰ります。しかし単身赴任の方でしょうか、イートインで寿司パックを摘んでいるなど、実に色々な形で活用されています。ここ4. 5年のスーパーマーケットの急変は、少子高齢化とも密接に関わっています。現在一世帯の平均人数は 3人をきり、両親と子供 2人といった平均的な 4人家族像は少数派になりました。つまりスーパーマーケットの主な役割であった、家庭料理用の素材販売は成立しなくなったのです。データを見れば良くわかります。2015年時点で全国の一人世帯数は、1576.5万で構成比 26.8%、2人世帯が1351.5万で 31.3%、3人世帯が 992.7万で
4%しかないのです。 .2万で、なんと14 .7%、4人世帯になると724 .19
我が国の世帯構成は「少子化」「核家族化」が顕著です。高度
リカー売場に設けられた、立ち飲み屋風のスペース。
子連れのファミリー層を狙ってか、小上がりに座れるイートインも。
成長期によく見られた暖かいホームドラマはもう過去のものとなりました。先日、改装オープンしたイオンスタイル碑文谷店に行ってみました。場所は環状 7号線と目黒通りの交差点に近く、元々はダイエーの大型店でした。この店はスーパーマーケットというよりは 7階建ての GMS(衣料品や家電、家具まで扱う総合スーパー)で、なんと3カ所のイートインスペースが、3フロアに分けて設けられています。また小ぶりなカフェを 5フロアに点在させ、細分化したライフスタイルのニーズに合わせた「場」を提供しています。
◆素材提供から食生活提案型、そして「場」の提供型へ
世帯データの変化と実情が示すとおり、スーパーマーケットの役割は効率重視のビジネスモデルでは通用しなくなりました。一人住まいや高齢化による単身者を受け入れ、忙しい社会人に潤いのひと時を提供し、増々進む女性の社会進出にも対応していかなければなりません。様々なライフスタイルに寄り添い、その方々の暮らしをサポートする「場」を提供しながら、ビジネスを展開する形にならなければ生き残るのは難しい時代といえます。
次回は 5月末に訪れた、アメリカのもう一歩進んだコンセプトを持つスーパーマーケットについてお話したいと思います。 ■
天海像の隣に湧きでるのは、日光開山の祖・勝道上人が1200年前に見つけたといわれる「磐裂霊水」。
創業から144年、現役最古のホテルともいわれる金谷ホテルは、紅い神橋を望む高台に立ちます。そのたもとで東照宮を見つめるのは、天海(慈眼大師)。徳川家康の参謀として京都の朝廷対策を主導し「四神相応」に基づいた江戸の都市計画を描いたといわれます。家康の死後、天海の活躍によって東照宮がひらかれ、日光は幕府直轄の宗教都市として 250年繁栄しますが、その平安をやぶったのが明治という時代の大転換でした。
明治維新の頃、官軍におわれた幕府軍が日光に立てこもる事件が起きました。そのとき日光奉行の一員として東照宮を守った小林年保は官軍に乗り込み、東照宮を汚さぬよう説得。東照宮は戦禍を逃れました。その後、静岡県で銀行家として成功した年保は、日光に戻り別荘(後の田母沢御用邸)と銀行を設立。金谷ホテルの発展に大きく関わることになります。石畳の急な坂道を上ると、日光金谷ホテル本館が見えてきます。そもそも徳川家の聖地である日光や中禅寺湖を訪れたのは、主に修験道者たちでした。はじめて日光を訪ねた外国人は明治 3年、駐日英国公使のハリー・パークスで、輪王寺に泊まり東照宮を見学しました。明治 6年にはヘボン式ローマ字で知られるヘボン博士が日光に到着したものの、泊まる場所がありません。それを見かねて自宅に泊めたのが金谷ホテルの創始者・金谷善一郎だったのです。ヘボンは金谷に、外国人向けの宿泊施設を開いたらどうかともちかけました。左は金谷ホテル本館(明治 26年)。中央は別館(昭和10年)。別館の設計は久米権九郎で、当時流行の帝冠様式です。金谷家は代々、東照宮に仕える楽人(雅楽の演奏者)で、9代目となる金谷善一郎は笙(しょう)役をつとめていました。四軒町は楽人の集まる町で、金谷家は武家屋敷を徳川家から拝領したものでした。明治になり幕府の援助を失った東照宮は荒廃し、楽人の暮らしは苦しくなりました。明治元年に16歳だった善一郎は新しい時代に対応し家族を支えようと勤め人になりますが、月給はわずか。ヘボン博士の提案は、そんな善一郎の心を動かしたのです。アルベルト・アインシュタインをはじめフランク・ロイド・ライト、ロベルト・コッホ、新渡戸稲造、チャールズ・リンドバーグ、夏目漱石、ルー・ゲーリック、藤田嗣治、ヘレン・ケラー、インディラ・ガンジーの他、イギリスのエドワード王子、ジョージ王子、ヘンリー王子も、このホテルを訪れました。本館1階の増築部分は、大谷石を使いライト風に仕上げています。明治 6年、金谷カッテージインを開業した金谷善一郎のもとには、パークスやバードをはじめヘボン博士に紹介された外国人たちが集まりました。明治 5年頃には鈴木ホテルが開業していましたが、金谷は侍屋敷を活かした家族ぐるみのもてなしを大切にしていました。外国人客が増えるにつれて侍屋敷は手狭になり、近所の家を間借りするようになります。明治17年には屋敷を増築しますが、明治20年には日光ホテルや新井ホテルが開業し、上野から日光への鉄道の開通と共に、夏場は数千人の外国人客が集まる一大避暑地となります。
本館1階の甘味処「笙(しょう)」。東照宮の楽人であった創設者・金谷善一郎にちなんだネーミングでしょうか? 日光天然氷のかき氷(わらび餅入り)で一息つきました。東照宮をモチーフにした彫刻が、ホテルのあちこちで見られます。営繕に関わった彫物大工たちが明治期に「日光彫」を編み出し、外国人観光客の土産物として海外へも伝わりました。
ライバルとなる洋式ホテルも増えていき、金谷善一郎はカッテージインに限界を感じます。その頃、高台に建設中だった三角(ミカド)ホテルが暴風雨のため崩壊し、放置されていました。その土地を購入したいと考えていた善一郎は、寺小屋時代の友人だった小林年保と偶然再会し、計画を打ち明け出資を申し入れます。その思いに応えた年保の協力により金谷ホテルがスタートするのです。開業当初は、宿泊代金を貯めて次の1室を増やすといった資金不足に悩まされたものの、2代目となる息子・真一をはじめ家族のようなスタッフとともに、ホテルは一歩一歩築かれていき、観光地日光の発展を支えました。
「イタリア・ルネサンスを代表するものは何?」と聞けば、「ダ・ヴィンチ、ラファエロ、ミケランジョロ。大理石の美しいサンタ・マリア・デル・フィオーレ教会。花のフィレンツェ、メディチ家の館。あとはウフッツィ美術館を一巡すれば、だいたいポイントを押さえたことになる。要するに、美術と建築だね。そこにキリスト教の教えでがんじがらめにされた中世とはガラリと違う世界が生まれた。古代ギリシアの彫像に代表される、ナチュラルに人間の姿を描く新たな世界観が生まれたんだ。例えばミケランジェロのピエタの像、あれを見れば、その悲しみの深さが ……そういう視点でルネサンス美術を鑑賞することが大切だ」みたいな話を、その昔よく聞かされた。では、ここで語られる「美術を鑑賞する」とは、どういう意味か。美術館の絵の前で腕組みをし、首を傾げ、時に額に深いシワを寄せて、作品の深みに迫る努力をする。最低数分間は作品をにらんだ後、深くうなずく。モナ・リザの微笑みの奥に秘められた、ダ・ヴィンチの想い。俺は今、その深みに触れた ……というようように。しかし、こうした「作品鑑賞」で事が完結するのかというと、多分、無理だ。
ルネサンス期のアートは建築を筆頭にすべて、発注主があって初めて存在し得たもの。注文もないのに、画家がアトリエで次々と作品を制作し、その作品が画廊に並んで買い手を待つ、なんていうのとは無縁の世界。画家が個人として抱く思いを、自意識の表出手段として、注文もないのに作品という形に仕上げる。などというのは、一部を除けば例外的な出来事だったはずだ。絵画も彫像も壁画も室内装飾も、何から何までまずは、発注主の意向と、その制作を依頼する目的に従って制作されたわけで。だから、ルネサンス期のアートを理解するには、その作品が誕生するに至った根源、すなわち、作品の制作を依頼した「依頼主の目的と意向」。これが何であったのか、を知ることが最も大切ではないだろうか。それを知るためには、その前提として、当時の人々の社会と暮らしの有り様を知る必要がある。そうした人々の社会と暮らしの中で具体的な必要性があったからこそ、アーティストに注文が出された。そうである以上、その背景を知らなければ、作品の本質を知ることは出来ない。だから、いくらルネサンス期の作品の前で腕組みをして「鑑賞」してみても、それだけでは、その作品世界の深みに触れることは無理、ということになる。要するにルネサンス期のアートは、もともと「芸術鑑賞」という目的のために制作されたのもではない。さらに加えるならば、自身の日常生活から切り離された空間にアートが保管されていて、その保管場所たる
「美術館でアートを鑑賞する」という行為。これ自体、ここ百年ちょっとの間に一般化したことであって、それ以前アートは、「その芸術性を鑑賞すべき対象」などではなかった。
このように、近代になって生まれた「美術芸術鑑賞」という重苦しい足かせを外して、作品と向き合うこと。作品が誕生した時点の人々の捉え方に立って、作品の背景を探ってみること。これを繰り返して社会背景を知る度合いを深めていく。すると、ある日突如として、ルネサンス期の作品群は、我々の日常生活に近いものとして見え始めてくる。私自身若い頃は、一生懸命、頭でっかちに「美術鑑賞」を行っていた。その歴史と社会を調べることなど、ほとんどしないままに。しかし、骨董銀器商を仕事とするようになってから、事が一変した。「この銀器は、どのような宴席で、どのような場面で使われたものか?」手探りで、あれやこれやを調べることが日常となっていった。宴席が描かれた古い絵画は、これ知るための格好の素材。「芸術鑑賞の対象」「歴
としてではなく、
史のある場面を知るための素材」として、美術作品・
工芸品を見る、眺める、凝視する。「宴席=食」とい
う、人間にとって根源的な視点から、これらを読み
解いてみる。そうしていくうちに、一般の美術史では、
まず語られることのない、面白い世界がいろいろ見
え始めてきた。
イタリアに限らずルネサンス期の宴席絵画には、人間の根源的な欲望である「食と性」を全面に押し出して描いたものがある。ギリシア神話に場を借りて、エロスを発散する宴席の裸の男と女たち。心と体の自由を奪ってきた宗教の足かせが外れた歓びが、画面一杯にあふれている。それは、戦争を繰り返し、ペストで人口が半減するほどの厳しさの中を生き抜く人間たちの強さを象徴するものでもある。
「メメント・モリ」(死を忘れるな)という厭世感あふれる一方で、ならばせめて、今このひとときを思う存分楽しもうではないか。ルネサンス期を通じて貴族と高位聖職者の宴席はどんどん派手になっていく。見事な衣装を身にまとい、宴席の調度と料理に心を尽くし、時に放蕩無頼に至る。そんな大宴会を描いた作品もある。高価なスパイスをふんだんに使い、砂糖の彫像を並べ立て、天井から金平糖と薔薇水を降らせてその芳香を楽しむ。列席者の耳目を驚かせ、宴の主催者はその凝りようで自身を演出する。あとは歌と踊りを楽しみ、愛欲に溺れるのもまたよし。それなくして、何の人生か。戦は戦。宴は宴。ボッカチオのデカメロン的な世界の、深い豊かさ。騎士の恋愛物語を理想としながら、一方で親族の毒殺をも辞さない厳しさに生きる男と女。ルネサンス期の宴席絵画の向こう側には、激しく色鮮やかな人生を駆け抜けた人間たちの世界が広がっている。
ベーゼンドルファー
ピアノファクトリー訪問記取材・文森博樹
人の手が紡ぎ出す、至福の響き
音楽の都、オーストリアのウィーン。19世紀の始めからこの地でピアノ製造を始め、現在も世界三大ピアノ工ウィーンのモーツァルト像。房のひとつとして音楽家の信頼もあついブランド、ベーゼンドルファー。190年におよぶ歴史と伝統の技術によってピアノを生み出しているファクトリーは、ウィーン市街から 50キロほど南方の町、ウィナーノイシュタットにあります。現在のピアノの原型は、1700年頃にイタリアのクリストフォリによって発明されたと言われています。その機構や製作技術は、より自由な表現力と、豊かな
1828年ベーゼンドルファーはブロッドマンのピアノ工房で修行したイグナーツによって創業、1859年息子ルードヴィヒに引き継がれました
オーストリア皇帝・フランツヨーゼフ1世の前でベーゼンドルファーを演奏するリスト(右)。リストは作曲家にして超絶技法を持つ人気演奏家でしたが、その激しい演奏に耐えられるピアノは少なく、演奏会には予備のピアノが複数用意されていたそうです。しかし、ベーゼンドルファーは彼の激しい演奏に耐えぬいた事で名声を高めました。
敷地内に積み上げられた原木は、屋外で 5年間自然乾燥されます。樹種は主に北イタリア・フィエンメ峡谷産のスプルース (赤トウヒ)。標高1000m付近の北斜面に育った目の詰まった樹を、水分の少ない1月に伐採した最高品質の材料です。乾燥した材はパーツのサイズにおおまかに切り分けられ、使用モデル毎に分類して再度 4カ月ほど屋内乾燥しています。
リム(最外側の側板)の製作過程。スプルース材を接着して長い板を作り(左)、縦に溝を入れます(中央)。右が完成したリムの部品。この構造がベーゼンドルファーの大きな特徴です。リムをはじめ多くのパーツに貴重なスプルースの無垢材を贅沢に使っています。一方、脚部など強度が必要で音に影響の少ない部分には堅木を使用します。一番右は弦の振動を響板に伝えるコマという部品。目が詰まって振動を良く伝えるカエデが使われています。世界的に良質な木材資源が少なくなり、材料の安定的な確保は、ピアノの製造にとって特に重要な課題です。サウンドボード=響板(きょうばん)は、音を決定づけるピアノの心臓部です。弦の振動がコマを通じて響板に伝えられ、増幅されて豊かな音を発するのです。大きな材の取れる希少なスプルースの中から、木目が素直で特に上質なものが厳選されます。材料の木には一つとして同じ物がありません。熟達の職人が木の個性を見極めながら、美しい響きを生み出す板を創り出していきます。
ピアノの構造を支える、本体下部のサブフレームの組み立て工程。フレームにも響きを伝えるというベーゼンドルファーの設計思想により、この部分にもスプルースがふんだんに使われています。そのため全体の約 80%ものパーツにスプルースを使うそうです。接合には金具を使わず、手間のかかる木の継ぎ手を使うのも特徴です。組み上がったフレームは、まるで木造の家屋を思わせます。
曲げるための溝は、上下両端を埋め木で塞ぎます。内部にできた空洞が、リムの音響効果を高めます。
サブフレームのカーブに沿って、切れ込みを入れたスプルースのリム材を貼ります。他社では薄い成型合板を使うことが多いのですが、ベーゼンドルファーではリムを共振させて豊かな響きを得るため独自の方法を採っています。 弦を張るためのフレームは、20トンにもなる張力に耐えられる鋳鉄製です。工場に搬入されたフレームは歪みを逃がして精度を高めるため、雨のかからない屋外で約 6カ月放置されます。その後、穴空けや研磨などの加工を行います。フレームの仕上げは水とぎや研磨を繰り返しながら、塗装を 6回も重ねる根気のいる作業です。上の女性はほぼ全てのフレームの仕上げを担当しているそうで、自分の仕事に誇りを持ち楽しんで働いていると話してくれました。
組み上がったサブフレームに響板を取り付け金属フレームを載せます。中音から低音にかけての弦は、専門の職人によって芯線のまわりに銅線を巻いた手巻きの弦が使われています。手巻は機械巻きよりも格段に音が良いそうです。
弦を張るための準備として、アグラフ(弦の位置を正確に固定するための金具)や緩衝材のフェルトシートを張り込みます。弦をチューニングピンに数回巻いてからピンを打ち込み弦を張ると、規則正しく繊細な美しさをもった弦の姿が現れます。アクション(鍵盤の動きをハンマーに伝え弦を叩く機構)を取り付け、調整を行います。アクションは社内で設計され、制作はレンナー社という専業メーカーで行われます。鍵盤のタッチ、重さ、ストロークなど、演奏家のデリケートな感性を満足させるための緻密な調整には、8週間が費やされます。
本体が完成し、塗装と研磨を行います。ピアノブラックだけでなく、希望の色や突板の樹種、艶の有無など様々な要望に対応。音と共にインテリア性を重視しています。
壁には家族や友人、同僚の写真が貼られています。暖かな職場の雰囲気が伝わって来ました。
1本1本の弦を緻密に調律したり、フェルトに針を刺したり削ったりして、ベーゼンドルファーの音を作り込みます。完成まで1年を要するベーゼンドルファーの生産台数は、グランド200台 /年、アップライト50台 /年の計 250台に限られます。創業から数えても50,900台ほどだそうです。
大ホールなどで使用されるコンサートグランドというクラス。ベーゼンドルファーのフラッグシップ。1900年代初頭に設
ハミングバードモデル 200通常のピアノは 88鍵なのに対し、低音部にハプスブルグ家のシェーンブルン宮殿に見られる「寄木細工」9鍵多い 97鍵。音域の広さに加え響板の大でハチドリをあしらったリミデッドエディション(世界限定 9型化による音色の豊かさが特徴。低音部は普台)。他にもリストやシューベルトをモチーフとした様々なスペクリムトモデルの製作風景。段は使わないため黒く塗装しています。シャルエディションがあります。来年、クリムトは没後100年。工芸の粋をつくした華麗なモデル。
ウィーン市内、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団で知られる楽友協会ホールにベーゼンドルファーのショールームがあります。試弾は自由にできるほか、「290インペリアル」などを置いた有料スタジオもあり心ゆくまで演奏を楽しめます。
長い時間をかけ丁寧に、ごく少量、しかし圧倒的な存在感の製品を生み出す現場は技術と人を大切にする雰囲気に満ちていました。豊かな響きを生む事が、何よりも優先される世界。ヒトの感性を満足させるのに必要なのは作り手の愛情や誇りだと感じました。
鈴木 惠三(BC工房 主人)
工房楽記「スギダラツアー」
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〈前回のつづきです ……〉「スギダラツアー高島」(滋賀県高島市)へ参加してきた。
スギダラツアーは、若杉浩一さんが提唱する日本全国スギダラケ運動の実践の旅。地域おこしの人たち、その地域の産業の場と人たち、その交流会ツアーなのだ。オイラは、初参加の最年長 ?
才から
才。学生からリタイア間近のジジイまで。
老若男女さまざまな人間の 1泊2日の旅。ぎっしりの行動計画。ちょっとハードだ。スゴイ、おもしろいの連続だ。
観光旅行じゃない。ホントの旅を感じる。旅とは ?人と文化と食の触れ合う場なんだろう。この高島という地域文化のおもしろさは、アメージングそのもの。水と農と生活文化のつながりの大切さが生きている。 ●有機農業で移住している若者たち。 ●その食材をいかした料理人たち。 ●小さな日本酒造場ブランドのうまさ。 ●根づいた工芸作家たち。
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●行政とつながった民泊施設の良さ。 ●キレイに枝打ちされた杉の美林の数々。都市からこの地域に入った人たちのやさしさが伝わってくる。
「若者よ、就活より旅に出ろ。」生き方という就活こそが、ホントの人生だ。
「生き方こそが、就活なのだ。」
ちょっと給料のいい、ちょっと安定した大会社が就活じゃないんだ。
企業デザイナーの若杉浩一さんが実践するホントのデザイン運動の姿が見えてきた。現代の民芸運動のようだ。柳宗悦さんの著書「民芸の道」を読んでいた
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年前を思いうかべた。
若杉浩一さんのスギダラ運動は、「日本人の生き方」運動のような気がしてきた。
ほんとにうまい食材と料理と水と空気。日本文化のど真ん中だ。外国人の観光旅行じゃない、日本人の地域文化旅行の楽しさ。うかうかしてると、外国人の方が、その楽しさを先回りしちゃいそうな気がする。スギダラ運動という、大きなデザイン運動の重さと楽しさ。若杉浩一さんの「やわらかさ」と、それを支える若いデザイナーたちの熱意。大学の授業なんかより、とっても本質的なアカデミズムを持っている。スギダラツアーに、より多くの若いデザイナー予備軍が参加してくれたら、うれしい。日本のデザインが変わる。オイラの夢は、スギダラ応援団のひとりとして、なんでも、いつでも応援する変態ジジイでありたい。
奥日光・中禅寺湖にいたる険しい山坂道。江戸時代まで馬返しから先は、女人や馬・牛の進めない修験道の聖地でした。明治10年、イザベラ・バードは馬に乗り、金谷カッテージインから中禅寺湖へ出かけています。しばらくはカゴや人力車の時代が続きますが、金谷ホテル 2代目の金谷真一は、大正 5年にフォードを駆り「いろは坂」の踏破に成功。昭和 7年には馬返〜明智平にケーブルカー(東武日光鋼索鉄道線)が開通し((昭和 45年廃止)、奥日光は身近な観光地となりました。
ドラゴンシリーズ 36
Voice of Dragon when he was 18-20 years old.
ドラゴンへの道編
吉田龍太郎( TIME & STYLE )
俺はこれからどうすればいいのか、どう生きていいのか
が、さっぱりと分からない。
このまま大学にも行かず、毎日眠れるだけ眠って、起きたい時に起きるだけでいい。夜には定食屋の厨房と出前のバイトがあるだけで、それまでは布団の中で惰性を貪るだけ貪り尽くし、もう何度も読み返した『月と6ペンス』を
読み返すだけだ。
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の俺は難解なニーチェやヘッセなどの
本も読んでみたが、何も心に響いてこない。
『何も無い若い時代。』好きな女の子はいるが、付き合えるような根性もなければデートに誘えるような金も無い。自分に自信が無いどころか、自信という言葉に辿り着ける前提になるものが何も無い、これが『虚無』と言う本当の意味なのだろうか。何度か彼女を目白の喫茶店に呼び出して奥のテーブルで『沈黙の時間』が過ぎてゆくだけで、彼女の目を見ることさえもできない、情けない。一時間もそんな会話にもならない時間を過ごして最大の嫌悪感を持って喫茶店『コパン』を後にする。そんな俺だ。そんな中での唯一の救いは同じような時間を過ごす友の中川や三浦がいることだ。毎日は彼らとの惰性の時間と空虚な妄想の会話と哲学めいた難解なようで自分でも自分の言葉が理解できない、どこかで拾い集めて来た言葉に振り回されているだけの毎日だ。
空虚な時間の中にも友との感覚的な音楽やアートの話はとても楽しい時間なのだ。そんな友との時間の中に新しい発見や新鮮な感覚を味わった。でも、何が本当なのか、何が真実なのか、そして、これからどのように生きてゆくべきなのか、何も分からないし、どこに向かって良いかは皆目、分からないのだ。どうしようか。俺はこれからどうしたら良いのだろうか。定食屋の厨房と出前で生きてゆくのだろうか。いや、そんな人生を想像して来たのでは無いはずだ。もう一度、勉強をやり直して、やりたいことに向け
B-girl
て勉強してみようと何度も心に誓ったはずなのに、結局はそんな気力も根性も無いのだった。何度も自分に言い聞かせたはずなのに、何一つできない。俺は本当にダメな人間であり、自分に甘く、自分を信じられずに惰性で生きているだけだ。
どうやったら他の人達のようにあんなに努力することが出来るのだろうか。俺にできることは定食屋の先輩達に無理やり誘われて、毎晩のように飲みに付き合うことくらい。その飲みの席で先輩の言葉に耳を傾けて頷きながら、グラスにビールを注ぐタイミングを誤らないようにするだけだ。先輩達は毎日遅くまで梯子酒で何軒もの店を転々とする。最後まで付き合うのが、今の俺にできる精一杯のことのように思える。だから無言で頷くことと、酒のお酌の間合だけは社会に出る前に体で覚えることができた。しかし、それ以外には何も自分を支えるものを得ることは出来ていない。その責任は全部自分の気持ちの弱さと怠惰な精神にある。このままでは、くだらない人生しか送ることができない。間違いなく自分のこれからに明るい光は注がないだろう。このままでは生きている意味も無いし何かを始める気力も金も何も無い。それが本当の俺自身なのだ。自分だけでなく、親も、家族も友も先輩も裏切るだろう。そんな口先ばかりの俺は将来何もできないだろう。
定食屋のバイトが終わると、今度は朝までの新しいバイトを入れた。目白通りと山手通りの交差点にある行きつけの朝
までやっている「 B-girl」と言う名のバーだ。 B-girl
にはブルースのレコー
ドが沢山あって、いつもブルースがかかっている。テーブルにはフランス詩人の名前が付いていて、そこでバーボンを覚えた。俺は一番値段の安いオールドクロウが好きだったが、そのうちにフォアローゼズも好きになった。なぜかジャックダニエルは好きになれない。バーボンの他に本格的にショートカクテルを作っていた。ドライマティーニはハードボイルドには欠かせないが、シンプルなレシピとキンキンに冷やすシェーカーの振り方の意味が好きだ。
ではアートな連中が映画の話で盛り上がったりしていたが、俺の心
はいつも空虚なままだった。そんな自分と生活から抜け出したかっただけだ。何にも無い自分を認めること以前に、何もなかった。自分を信じるための自分もそこには存在しない。ただ生きているだけだった。
夏の外務省
フランス大使館別荘 ▲ ベルギー大使館別荘
中禅寺に向けて歩みを進めていくと、途中、フランス大使館やベルギー大使館の別荘が見えてきます。実は中禅寺湖畔には、明治の頃から数十カ国の別荘が立ち並び「夏場は日光に外務省が移る」とさえいわれました。
遊歩道の先に、英国大使館別荘記念公園が見えてきました。明治 29年、英国の外交官アーネスト・サトウの別荘をもとに、平成 20年まで英国大使館別荘として使われていました。
文久 2年(1862)に初来日したサトウは英国公使ハリー・パークスの部下として幕末〜明治維新の日本を駆け巡り「日本のこととはサトウに聞け」と言われるほど、日本の歴史文化に精通した人物でした。サトウが日光を初めて訪れたのは明治 5年のこと。その感想を横浜外国人居留地の新聞に連載し好評を博しました。その頃はまだ一般の外国人は遠方への旅を許されませんでしたが、明治 7年「内地旅行規則」が定められ、夏場の避暑旅行が流行りました。その旅に欠かせなかったのが、サトウやチェンバレンの手がけた箱根、熱海、富士、伊香保、日光などを巡る旅行ガイドブックでした。まだ鉄道網がない時代、人力車や馬車による移動手段や宿屋が丁寧に紹介され、バードもこれを参考にしていました。▲中禅寺湖の景観を第一にしたつくり。サトウという姓はドイツの村の名が由来で佐藤姓とは関係ありません。
明治 28年、駐日特命全権公使として日本に戻ったサトウは、中禅寺湖畔の別荘建設に着手します。ちなみに中禅寺湖畔に初めて別荘を建てた外国人は、明治 25年頃、司法省の御雇外国人カークードでした。サトウがこの場所を選んだ理由のひとつが、正面に見える白根山の景観といわれています。東京からも見える美しい白根山に憧れていたサトウにとっては、絶好のビューポイントだったのです。設計は友人のジョサイア・コンドルが協力し、一緒に現地を訪れています。1、2階共に湖を眺めるための広縁を設けたコロニアル様式で、夏場は全面開放できる作りです。広縁は田母沢御用邸の一部だった小林年保別邸にも見られる作りで、地元の大工たちによって建てられました。当初は畳敷きで壁は和紙を4枚重ね貼りしたもの、天井は竿縁天井の和館でした。
サトウは庭造りにもこだわり、東京から懇意の庭師を連れて石組みの滝を作り、採取した高山植物を植えて大切にしました。サトウが日本を離れた際、後任の駐日公使マクドナルドに受け継がれ英国大使館別荘となったのです。
と
年毎に外つ国人もかずそいて小舟浮かぶる幸の水うみ
大正天皇御歌
つれづれなるままに第37回旅は突然に初鰹の高知へ四国縦断 Part.2内田 和子
「四国は山の中にある」で始まる『街道をゆく』四国編をテレビで観たのは随分前のこと。とにかく隣の県に行くのも峠を何度も越える山深さに驚き、四国縦断などするものではないと思い込んでいた。「こんぴら歌舞伎」で香川に来てもそのまま東京に引き返していたが、岡山からの電車に四国の鉄道路線地図が張ってあり、来年は歌舞伎の後に四国旅を計画してみようと思った。
そんな話を歌舞伎前夜祭の酒飲み会で話したら、高知
から車で来ているという御仁と、琴平から大歩危(おお
ぼけ)まで渓谷沿いを南北に走る土讃線を、特製弁当付
きの観光列車で楽しむという女性がいた。聞けば、高知
の御仁は大歩危で彼女を出迎えるという。なんという贅
沢な旅ではないか。今は高速道路で、香川から高知まで
1時間ちょっとで行けるそうだ。「え〜、そうなの?」と
話はここで終わり、目は運ばれ
た刺身の盛り合わせに移ってい
る。今の時期は何と言っても初
鰹。鯛やヒラメの舞い踊りに加
え、鰹の横にはニンニクのスラ
イスと塩が盛ってある。鰹のタ
タキはあまり得意ではないが、
初参加の私にみんなが薦めてく
れる。「お初もの。いただきます」
と生姜醤油をつけようとしたら、「ストップ!!」と全員がほぼ同時に制した。びっくりしてお皿に戻すと、塩をつけて食べろと言う。
言われるまま、塩を少しつけてニンニクを乗せて口に
運ぶ。食べもの番組ではないが、みんな箸を止めて私の
一声を待っている。言葉はない。すこぶるつきで美味か
った。四国では鰹は塩で食べるのが常と言うが、おそら
く塩も四国産なのだろう。舌先に程よく残り、鰹の味を
引き締める。もう一切れいいですか?と言いながら、す
でに箸は二切れ目をつまんでいた。そんななか高知から
来た彼は、鰹は高知のものだからここでは食べない。今
年は特に大漁で脂が乗っていると、高知の鰹がどれほど
美味しいかのたまう。
私は、これ以上美味しい鰹が食べられるなら、本場高
知に行くのも悪くないと一瞬考えた。しかし高知は出張
で1、2度行っただけである。急な段取りを組むほど旅慣
れてはいない。今回は諦めようと思いとどまった。
つれづれなるままに旅は突然に 初鰹の高知へ
が、すでに高知の宿を確保している彼女のホテルが空いていたらと持ちかけると、すぐに確認してくれ予約が取れた。高知から車で来ている彼は、香川と高知を行ったり来たり四国中を庭先のように走っている。運転にはなんの心配もない。ひょんなことから旅程を変更することになった。翌日、彼女の観光列車を追いか
10
けるように琴平を彼の車で出発し、山並みが迫る渓谷沿いの道をひたすら走った。
高知県に入ると、両脇に山が連なり迫ってくる。木々が天に突き刺さるようだ。大歩危で彼女を出迎え、木材研究所のモデルルームを見学。設備も整っており、木の特性を生かした住まいを体験できる。畳に座ると旅の疲れも取れるようだった。高知に入り、はりやま橋近くのホテルへ荷物を下ろし街を散策。一杯やるには
12
まだ早い。高知城を大手門から見上げ、城主・山内一豊の銅像を見て繁華街へ。
高知の人は太平洋に眼が向いていて大らかと言われるが、アジアン的に開放された街とは知らなかった。ひろめ市場では、大勢の人がお店で買った食べ物を台の上に広げ大ジョッキでビールを飲んでいる。鰹をわらで包んで焼いてい
10
る店には、たたきを買い求める人が並んでいる。賑わう市場を一回りし、提灯の下がった居酒屋へ。本場の鰹はもちろん、鯖が殊の外美味しかった。高知の人はよく飲む。若い人たちは浴びるほど飲んで騒いでいる。特に女性の飲み方は半端ない。郷に入れば郷に従えと高知のお酒を充分楽しんだ
あと、もう2〜3軒はハシゴするという。いやいやさすがにと断
ると、どうしても屋台のラーメンは連れて行くとのこと。ここで
も2人はホッピー(初めて知ったが)を頼む。飲んだ後の締めの
定番、ラーメン餃子。次回は絶対にホッピーも一緒に味わおう。
翌朝は時出発。予定していた酒蔵を訪ねる。お待ちしてましたとばかりに、女性が蘊蓄と一緒に本の作り酒を並べる。口に含めると蘊蓄が効果を増す。わかった気になって好きなものを選ぶが、本当はだんだんと分からなくなっている。取り混ぜて本を送ってもらう。大雨の中、桂浜から龍馬空港へ。風雨が強まり発着できないかもと何度もアナウスされたが無事離陸。空港まで送ってくれた彼に四国縦断の旅と初鰹の礼をいうと「秋には戻り鰹がくる」と、その美味しさをまたもや自慢する。等身大の龍馬に「また来ますよ。」と手を振って飛行機に乗り込んだ。
近くにはイタリア大使館の別荘も公開されています。昭和 3年、イタリア大使デラ・トーレの依頼によりアントニン・レーモンドの設計で建てられ、平成 9年まで使われていました。
地元の日光杉を多用し、外壁はコケラ板と杉皮のパッチワーク。割った竹で杉皮を押さえた斬新なつくりです。「この建物は10年が寿命だと思われたが、40年後でもまだ使っている」とレーモンドは自伝で回顧しています。
2階には大使のメインベッドルームと、ゲスト用のベッドルームがあります。大使の寝室には実物の家具を展示。
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