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時空を超える美意識
7月号 七夜月 2017
http://collaj.jp/
足尾で銅が発見されたのは、今から 500年ほど前といわれています。江戸時代になると慶長 15年(1610)に 2人の農民、治部(じぶ)と内蔵(くら)により銅の鉱脈が発見され、一時は日光東照宮によって支配されていました。その後は幕府の直営(公儀御用山)となり、江戸城や日光東照宮、芝増上寺などに足尾の銅瓦が使われましたが、その重要度が増したのは、幕府が長崎出島から銀の輸出を禁じた寛文 7年(1667)以降。銅が主要な輸出品となり、年間1300〜1500tを産出した足尾は幕府に大きな富をもたらします。オランダ貿易により輸出された銅の 20%を足尾産が占め、「足尾千軒」といわれるほど町は栄えました。ちなみにこの時代に最も多く輸入されていたのは砂糖でした。宝永元年(1704)には足尾で大洪水があり、復興資金として幕府が三千両を貸付けています。銅の製煉のため大量の木を伐採し、それが洪水につながったとも推測されています。鉱山を存続させるため寛保 2年(1742) には鋳銭座が設けられ寛永通宝 2000万枚が鋳造され、足尾は「おあし」の語源ともいわれます。産出量は年々減少し文化 14年(1817)には休止状態となります。
ドラゴンシリーズ 37
ドラゴンへの道編吉田龍太郎( TIME & STYLE )
父と息子
父と息子、何とも言えない微妙な関係が『父と息子』の間には存在する。父は目を瞑りながらも心で息子を見ている。その息子の姿は父が息子の年齢に感じたリアルな感覚や感情を新鮮に思い起こさせて、心を重ねることができる。息子の心の中にある闇や不安もその年齢に戻り自分の感情を思い出すことで理解できる。そう言こともあり息子には自分に対して向き合うように厳しくなりすぎたり、優しくなりすぎたりする。自分が若い時に歩んだ危うい道の数々、そして、その危険なリスクとギリギリの背中合わせで生きていた時代を思い出す。
一歩間違えば取り返しのつかない、致命的な危機だらけの日常で生き抜いてゆくことの厳しさを知っている。10代後半から20代の自分が歩いてきた道を思い出す度に、どれだけの偶然と運が重なって奇跡的に生き延びることが出来たのかを不思議な気持ちで思い出すことがある。時々、夢の中で危険の真っ只中にある20代の自分に出会い、心の底からその恐怖で突然に目が覚める時が今もある。その頃からすると30年以上の歳月が流れているのだが、全く同じ場所に生きている感覚は今も消えていない。人は年を取る毎に様々なことを経験して成長するように思っているようだが、人間の本質は10代や20代の自分とほとんど変わっていないし、成長していない気がするのだ。成長しているとは言い難いが、世渡りが上手く計算高くセコイ人間としての経験値が増したとは思う。けれど、根本的な精神はあまり成長したとは言えないかもしれない。
10代後半から20代半ばと言う年齢は、男として自立してゆく過程の中でも大きな人生の岐路にあり、その選択を間違えると、どこか遠くに飛ばされて行ってしまったり、人生のどん底に落ちてしまう。そんなことを繰り返しながら、数々の不義理と理不尽をしながらも前に進むしかないぞ。と言うのが息子に対する父の思いだ。自分の経験と重ね合わせることで危険がわかるだけに、そんな危うい息子の岐路が気に掛かる。できれば自分が歩いた道の中で遭遇した危険でリスクの大きな賭けは避けてもらいたいと思いながらも、大きな夢を持って危険なリスクにも挑戦して欲しいとも願っている。これからの息子の人生と、父としての同時代の経験とが自然に重なってしまうのだ。
僕がフラフラ行方不明になっていた10代の後半。父は突然、僕のバイト先を見つけ出して僕の顔を見に来ては、バイトの先輩や同僚達に「息子を宜しくお願いします」と丁寧に深々と頭を下げることを恥ずかしいと感じていた。早く帰ってくれよ、と思った若い自分に対して情けない感情を抱き、そんな父の想いに対して胸が締め付けられるような愛情を感じることが今もある。どこにいるか分からない息子をどうにかして東京の雑踏の中から探し出し、時には何時間でも軒先で僕の仕事が終わるのを待っていてくれた。時には一緒に飯でも行くか?と炉端焼きでビールを美味そうに飲みながら、こんな仕事も楽しいぞとか、この本を読んでみると良いと言って、役に立つだろうと思う本を渡してくれた。そして、別れ際に無駄遣いするなよ、と言って必ず幾らかのお金を渡してくれた。
そんな僕は父に怒られた記憶がない。父は不器用な人間だったと思う。自分の苦しみを語れる友人もいなかったのだが、決して愚痴をこぼしたり、怒った姿を見たことがない。苦しい時いつも口を一文字に閉じてグッと言葉を飲み込んでいた。そして、常に前向きな言葉が好きだったし、父の存在がその場の空気を明るくし、元気を人に与えていた。そんな父には到底近づけそうにもないが、何となく父が目指して来たことを僕自身が受け継いでいるような気持ちになることが多くなって来た。
息子が年齢を重ねてゆく毎に、息子の気持ちと自分の昔の気持ちを重ねることが多くなった。そして同じように20年前に他界した父と距離が近くなってくる感覚を覚える。年齢的なことだけでなく、父が僕に対して思い続けて来た気持ちと、僕が息子に対して抱いている気持ちが重なってくる。『父と息子』、僕はそんな父と息子の両方をいま想いながら、人生を生きることを幸せに感じている。
近代化を急速に進める足尾銅山にとって、貧弱な輸送路は最大の問題でした。明治 21年に足尾銅山は、英国ジャーディン・マセソン商会(トーマス・グラバーの勤め先)と銅 3年分19000トンの契約を結びますが、街道の輸送力には限界がありました。明治23年には宇都宮から日光まで鉄道が延びたため、まず日光へ架空索道(スキー場のリフトのようなもの)を通し、空中で荷物を運ぶ方式をとります。次に軽便馬車鉄道が足尾一帯に整備されましたが、あかがね街道に沿った鉄道を通したいという気運は年々高まっていきました。明治 20年にはドイツ・シーメンス社の技師。ヘルマン・ケスラーが来日し、足尾銅山の水力発電所建設などを進めるかたわら、足尾鉄道計画をすすめます。この計画は足尾〜大間々(現在の両毛線岩宿駅)を結ぶ予定で、最初から「電化」を前提に検討されましたが、莫大な予算が必要なうえ、創業者の古河市兵衛や 2代目の古河潤吉が相次いで逝去したため計画は頓挫しました。それ以降、計画がのぼっては中止を5回も繰り返し、実際の工事が始まったのはケスラーの計画から20年以上たった明治 43年のことでした。
足尾歴史館や足尾銅山観光など、主要な施設に近い「通洞駅」で下車しました。大正元年に開業した木造の駅舎です。
栃木県の北西に位置し、四方を1500〜 2000m級の山々にかこまれた足尾の町は、備前楯山の谷筋にそって家々が並んでいます。最盛期には 4万人近い人々が暮らし、鉱山で働く人々や家族のための商店、社宅などが並んでいました。生活物資の多くは「三養会」という生活組合が担い、会員は通帳ひとつで買い物できる便利さが好評でした。これは、生活協同組合のさきがけともいえます。
足尾銅山の鉱床は1500〜1000万年前に出来たといわれ、母岩は高さ約1300m、東西南北約 4000mの流紋岩で巨大な漏斗状をしています。江戸時代から約 400年間にわたり採掘された銅の総量は約 82万トンにのぼり、日本一の鉱山でした。銅の原料は黄銅鉱で、主に銅と鉄、硫黄から出来ています。製錬によって、鉄と硫黄を分離して銅にするのです。
鈴木 惠三(BC工房 主人)
『富良野自然塾』
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才.
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才のシニア 28人、2泊3日のセミナーである。
前回の「若杉スギダラの旅」は、オイラにパワーをくれた。土着自然流の「もっと、自然に、好きなコトへ行動しろ」と、老いた脳へインパクトのある刺激だった。
今、オイラは富良野自然塾に来ている。倉本聰さんが提案する「森に還す」環境教育運動のセミナーだ。
ワイワイ、ガヤガヤの老人の集い。
ドラマ「やすらぎの郷」の終学旅行?みたいだ。
自然塾スタッフの気づかい、
講師の先生の中味の濃い話しに驚かされる。
「原点を、本質を、伝えようとする。」教える側の考えが見えてくる。小手先のノウハウ・セミナーじゃない。
「入りやすく。ワカリやすく、本質にたどりつく」久しぶりの充実感である。大学のゼミで、年1回味わえるような幸運が、あった。
オイラのいちばんの感動は、富良野塾出身の役者・久保さんのコミュニケーション・ワークショップ。
「伝える」から「伝わる」へ。私から「私+あなた」のインタラクティブな関係。人間+自然の相互視点。
「木のキモチ」なんか、考えてもみなかった。
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驚くべきことだ。 相手から考える視点で、自分が変わる?身勝手、ワガママのオイラの脳が刺激を受けている。心地良い刺激である。
「相手からの視点で見ようぜ」と、脳が素直に学んでいる。
才のジジィの喜びである。
来年も、友人を誘って、参加したい。
生きていれば、参加したい?1年に1回、ドカーンの刺激だ。小児教育も大切だが、老人教育も重要だ。これから、人口の半分になる老人にこそ、真の教育が必要なんじゃないかな。自分のコトしか考えない身勝手老人の教育を、楽しく、ワカリやすくやる。心ゆたかに、あの世にいける。正しい終活だ。
老人の皆さんは、もちろん。そして、もっと若い人たちも参加して、若者&老人 MIXセミナーが楽しそうだ。富良野自然塾は、「自然哲学」の大学院?
今回も、うるさいシニアたち 人が、大満足していた。スゴイことだ。
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通洞駅から徒歩 5分位の NPO法人足尾歴史館は、足尾銅山の歴史を伝える資料や写真を多数展示しています。足尾銅山は鉱害のルーツともいわれる大きな社会問題をおこした一方、当時先端の機械工学や科学技術の発展を促し、近代国家としての成長をリードする人材を育てたことも事実です。また公害対策や森林環境の回復という点でも、先駆的な役割を果たしてきました。こうした多面的な足尾を沢山の人に知ってもらい、世界遺産登録への道筋をつけていきたいというのが、歴史館の目的です。鉄道ファンなどのボランティアが「ガソリンカー」の客車やエンジンの復元を行い、イベント時に運行されています。
歴史館の裏手に元スケートリンクを利用した線路が敷かれています。復元された「ガソリンカー」はフォードの自動車用エンジンで走る足尾独自に発達した乗り物です。大正 14年から昭和 28年まで町内を走り回り、町民や資材を運んでいました。明治期の足尾銅山を発展させた古河市兵衛は、天保 3年(1832)京都に生まれ、27歳の時に京都小野組の古河太郎左衛門の養子となり古河市兵衛と改名。ここで商才を発揮して生糸輸出に手腕を振るいますが、明治新政府の政策変更により小野組は解散。その際、後に農商務大臣となる陸奥 宗光(むつむねみつ)や第一銀行頭取であった渋沢栄一と
相馬家(福年には、 01深い信頼関係を築きます。明治
島)の家令として利殖を任されていた志賀直道と共に足尾銅山を買取。渋沢の資金援助を得て開発にあたりました。明治 16年には大鉱脈・横間歩大直利を発見し、最新の精錬所や水力発電所、選鉱場、輸送手段などの近代化を図ることで、明治 20年には日本の銅生産量の 40%を超え市兵衛は銅山王と呼ばれます。しかし大規模な開発は、足尾鉱毒事件を引き起こしました。市兵衛の婦人タメは、鉱毒被害の救済を訴える「鉱毒地救済婦人会」の会合に密かに女中を出席させ、その報告を聞きます。初めて鉱毒被害の実態を知った婦人は悲観のあまり神田橋から身を投げました。明治 34年11月のことでした。鉱害が表面化したのは明治 17年頃からで、坑内で使う抗木の乱伐や、煙害による農作物の被害、山の荒廃が進み、渡良瀬川の鮎が姿を消したことが新聞でも報道され始めました。明治 23年には渡良瀬川で大洪水が発生し、鉱毒を含んだ水が田畑に流れ込み被害を拡大しました。翌年、第二回帝国議会で田中正造が鉱毒問題の質問を行いますが、その時の農商務大臣は古河市兵衛の盟友・陸奥宗悦でした。栃木県が行った調査では大洪水の被害は沿岸 28町村、面積は栃木県が 592町歩以上、群馬県 1060町歩以上と報告されています。
明治 29年の大暴風雨で渡良瀬川の堤防が決壊し、両毛平野全域と利根川の下流である東京や千葉にまで被害は及びます。田中正造を中心とした鉱山停止の訴えに対し、重い腰をあげた明治政府は当時の農商務大臣・榎本武揚の調査団を派遣。榎本は責任をとり大臣を辞任すると政界に戻ることはありませんでした。政府からは「鉱毒予防工事命令」がくだされ、延べ人員約 58万人、総経費104万円(現在の1000億円以上)をかけて、排水を溜める沈殿池や硫酸ガスを抑える脱硫塔の工事が行われますが、近隣の被害は納まりませんでした。
アメリカのシカゴ郊外にオークパークという人口 万の町がある。この町には世界中から観光客が訪れる。その中心は美術・建築関係の若者たちで、旅の目的は、この町に数多く残る、フランク・ロイド・ライトが設計した住宅群。ライトは結婚直後の 1889年から、ダブル不倫で人妻と駆け落ちして町を出るまでの十数年間、ここで暮らしている。町のもうひとつの観光名所それが、作家アーネスト・ヘミングウェイの生家だ。大作家は 1899年(明治 年)この町で、医師
U
の父と、声楽家の母の間に生まれている。当時のアメリカはまだ、南
27
北戦争の余韻が色濃く漂い、幌馬車とともにカウボーイが数千頭の牛
をテキサスからケンタッキーまで運ぶキャトル・ドライブが盛んに行
われている。千数百キロに及ぶその道筋は、先住するわずかなインデ
ィアンたちを除けば、未開の荒野に駅馬車が停まる宿場町が点在する
のみ。西部劇の時代だ。英国はヴィクトリア女王時代の末期。フラン
スでは、セザンヌが晩年の代表作『大水浴図』の制作に取り組み始めたところだ。そう、ヘミングウェイは、32「西部劇時代のアメリカ」という、古
色蒼然たる時代に生まれた人なのだ。
その誕生から 年後、パリの暮らしに触発された作家は『日はまた昇る』で華々しく世界に登場し、 1929年の作品『武器よさらば』でその名声を確立する。第一次世界大戦、スペイン内戦、第二次世界大戦など度重なる戦場への参加、ボクシング、闘牛、クルーザーを駆ってのナチスの ボート探しとマグロ釣り、アフリカでのサファリ ……。1954年にノーベル文学賞を受賞する頃には、「ヘミングウェイ=マッチョで骨太な男らしさに溢れる、行動する文学者」というイメージが世界的に浸透する。しかし、果たしてヘミングウェイは、そんなに「マッチョな男っぽい男」であったのだろうか ?外見と行動は、その通りだ。では、その文章はどうか。余計な修飾語を極力押さえた硬質な文体で、描かれた対象がくっきりと目前に浮かび上がるようなシャープさが特徴だ。音、臭い、事物の色彩と形状、質感、人の外見の細やかな描写、そして、味覚へのこだわり。五感すべてを通じて、並外れた繊細な感覚で外部の状況を受け止め、これを表現するに最も的確な言葉を選んで組み合わせていく。印象派の絵画を土台に、やがてキュービズムが誕生する時代感覚を、言葉を通じて表現しているかのようだ。ヘミングウェイは、死後出版された回想録『移動祝祭日』の中で、「セザンヌの絵画から多くを学んだ」と幾度も述べている。この作家のセザンヌへの傾倒には、
単に表現技法の受容にとどまらない、重要な要素が秘められている。いずれにしても、大作家の並み外れた豊かな感受性の背後には、繊細な神経が秘められている。繊細な神経の持ち主は、傷つきやすい。それが男であると、その傷つきやすい自己を護るために、対世間的に「マッチョの鎧」で自らの弱さを覆い隠す、ということがある。三島由紀夫や開高健の名が頭に浮かぶ。
8
ヘミングウェイの場合、さらに父親の自殺という重い事実が加わる。鎧は一層ぶ厚くなり、深酒の果てに、父と同じく自死している。
数年前、柔道全日本百キロ級の選手で、身長 190センチ全身これ筋肉
の塊、という若い男性が来店下さったことがある。あんなに凄い男の体を間
近に見たのは、力士を除けば、生まれて初めて。本物のマッチョのド迫力。
驚いたことに、私の母の料理と生き方本の大ファンで、近年の著作は全て本
棚に並んでいるという。母の逝去を知って訪ねて下さったのだ。美人の妹さ
んの写真を見せて下さったりして、その外見からは想像もできない優しいお
人柄。「ひょっとすると内面は私の方が男っぽいかもしれない」と感じたほ
どだ。本物のマッチョは「心の鎧」を必要としないらしい。人の内面は、そ
の外見と行動からだけでは、判断できない。
ヘミングウェイは大酒飲みのグルマンとして知られる。十九世紀末からアール・
デコ時代にかけてのパリは、食文化史の
観点から、興味深い見どころが一杯だ。
これを探る過程で、この時代のパリを彩
る天才的アーティストの一人として、ヘ
ミングウェイの作品と再会し、近年その
作品を読み始めた。学生時代何度か読んで読み通すことができなかったのに、
今は、読んでいて辛くなるような鮮やかさで、その言葉が心に響く。酒と料
理と食材を語る言葉で、場の情感を描き出すという魔法が随所に見られる。
空腹を語ることで心の飢餓感を語り、冬のカフェでの一杯の熱いラム酒を語
ることで、惨めな気持ちが救われたことを表現する。なぜ、そんなことが可
能なのか。読む側がそう感じざるを得ないように、前後の文章が緊密に構成
されているからだ。ある文脈で選び抜かれた単語で描かれるラム酒は、ラム
酒を語っていながら、そのまま、その場の情感を的確に伝える言説となる。
繊細な感受性があって初めて可能なことであって、これを知った時、ヘミン
グウェイの作品に対するイメージがガラリと変わった。
こうした文章の特徴は、大作家の二十代、新婚の妻ハドリーと過ごしたパ
リ時代( 1921〜 年)に最も鮮烈に現れる。八歳年上の妻は、ともすれ
ば自信を失いがちな、若く貧しき作家の卵で、カナダの新聞の契約特派員で
ある夫を、慰め、励まし、元気づける。経済面でも、妻の親族の遺産が二人
のパリでの暮らしを支えていた。知れば知るほど、ヘミングウェイには、甘
えん坊の側面があったことが見えてくる。「パパ・ヘミングウェイ」どころか、「ママとパパを求め続けたヘミングウェイ」ではなかったか。
明治から昭和に至るまで、足尾銅山では様々な公害防止対策を開発してきました。沈澱池や濾過池をはじめ、脱硫塔から発展した電氣集塵機など、銅山の技術者がとりくんだ排水・排煙の無害化が、現在、日本が世界から注目されている公害除去技術の原点となったのです。右の脱硫塔は、排煙を沈下させ、石灰乳で中和させる仕組みでした(撮影:小野崎一徳氏)。古河市兵衛の要請で明治16年から足尾で写真を撮りはじめた小野崎一徳氏は、明治 20年、足尾に写真館を設立。銅山の御用写真師として、製錬所や選鉱場、坑内など銅山の風景だけでなく、足尾の町の祭りや風俗を撮影し続けました。それは今、近代産業遺産の貴重な記録として評価され、祖父の写真を収集してきた孫の小野崎敏さんによって「小野崎一徳写真帖 足尾銅山」( 新樹社刊)として出版されています。当時から小野崎氏の写真は絵葉書や写真集にまとめられ、足尾を訪れた修学旅行生のお土産としても人気でした。
ベッセマー転炉。撮影:小野崎一徳氏
明治 44年に芥川龍之介が発表した「日光小品」は、府立三中時代の修学旅行で日光と足尾を訪れた時の旅行記です。明治 42年の10月に 3日の日程で日光から足尾に入り、製錬所などを見学する修学旅行の定番ルートがありました。鉱毒問題が新聞を賑わす一方、最新の工業技術を学べる足尾銅山は技術系の若者にとって憧れの就職先で、ソニー創業者・井深大氏の父親も足尾銅山に就職しています。銅山で培われた技術から古河電工、富士通、横浜ゴム、日軽金などが誕生しています。他に、著名な文学者との縁も深く、祖父が創業者の一人だった志賀直哉をはじめ、鉱山所長の祖父をもつ舟橋聖一、曽祖父を坑夫にもつ立松和平などがいて、足尾銅山をテーマとした作品を残してます。明治 29年の洪水以降、渡良瀬川流域の農民による反対運動が盛んになり、館林市の雲龍寺に鉱毒事務所が設けられます。明治 30年には被害農民 2000人以上が徒歩で東京に向かい押出し(陳情)を決行。その後も何度かの押し出しを行いました。明治 35年、多数の死者をだした足尾台風をきっかけに反対運動の盛んだった谷中村を、渡良瀬遊水地にする計画が進められます。谷中村は強制買収され、明治 40年までに立ち退かなかった村民の家は破壊されました。村民は散り散りとなり一部は北海道・佐呂間町へ移住しています。
わたらせ渓谷鐵道の終点、間藤駅の先の赤倉地区にはかつて足尾製錬所があり、鉱山の中心として賑わっていました。しかし明治40年の労働争議によって大規模な火災が発生し、鉱山の施設や役員住宅、社宅を消失。鉱山機能の中心は通洞へと移っていきました。足尾から日光市営バスに乗ると、日光市街までは約 50分で到着します。峠を越えればすぐに日光です。途中には小さな集落や、足尾銅山から派生した古河電工(銅の製錬所として出発)の工場が見えました。
足尾の町を見下ろす「簀子(すのこ)橋堆積場」。ロックフィルダム構造の巨大な堆積場は、鉱山から出続ける廃棄物を保管する施設で、今も古河金属によって年間 4〜 5億円をかけて管理されています。また東日本大震災の際には、渡良瀬川沿岸にある源五郎沢堆積場の一部が崩れ落ち、川の下流で鉛が検出される事故もありました。閉山後から半世紀以上たった今も、鉱山は大きな力を放ち続けています。
第38回内田 和子
つれづれなるままに学びを学ぶ
「高齢者」という文字がやたらと気になる。
後期が付こうが付くまいが、できれば関わりなくやり
過ごしたいと思っていた。 2025年、
の一、認知症、長寿サプリメント……こういう文字に過敏に反応してしまう自分にいささか嫌気がさしていたが、ふとしたことで、この文字が大きく書いてある場所に足を踏み入れた。
慣れた手つきで運動用具を使い、リラックスしてマッサージ機に身を任せている。麻雀パイを囲むグループもいれば、耳をすませばカラオケも聞こえてくる。ここは極楽 1丁目 ?ではないかと思いながら、施設案内の方
の後ろを歩いた。利用できるのは 60歳以上の区民。
4講座、全部受講すると週 4日、
90
を高齢者とするのはいささか抵抗があるが、高齢者のための手厚い施設なのである。まぁここを十全に利用させてもらうには、もう少し年季が必要と思いながら、 4月から各種講座が開講されるというので、案内書をもらってきた。 5教科 分の講義が午前と午
後にある。一体どんな講義だろうと、説明会に参加した。今年は 2期目ということだが、 1期を受けた方が大半で、その熱気にまずは驚いた。ここは極楽 1丁目とは全く異なる区域で、 100名ほどの方が熱心に講義の内容を聞いている。講座説明をする担当者も熱を帯び、その内容の充実さに鳥肌がたった。
一部を紹介しましょう。
「名著再読」「伊勢物語」「漢字のルーツと古代史の旅」「ジャズ講座」「浮世絵の魅力」「だまし絵」「アンチエイジング栄養講座」「健康生活のためのセルフケア」「星座」「文明開化と洋食」「世界遺産ヨーロッパ
75
歳以上、四分
60
歳
つれづれなるままに学びを学ぶ
編」「整理収納術」「絵画鑑賞会」「名所めぐりウォーキング」などなど ……。90有料ではあるが、講師陣は一流の先生方がずらりと並んでいる。
「えっ !こんな講義が受けられるの ?」 歳以上、高齢者バンザイの気分で、全講座を即申し込んだ。「高齢者」大いに結構。喜んで高齢者の仲間入りをさせてもらうこととした。
それから 2カ月、『今日行く(教育)と、今日用(教養)』の講座を楽しく受けている。 15分前にはほとんどの席が埋まっていて、空いているのは一番前か一番後ろ。そおろと一番前まで進む
83
と、隣はいつも着物姿のご婦人である。
講師の先生方は実に熱心で、一番前はその熱意も直に伝わって、
60
分の講義はあっという間である。年齢を重ねた奥深い知識と、
縦横に織り交ぜた人生の幅の広さが、端々に溢れ出ている。知識を得るというより、シャワーのような感覚で知らなかった世界を聞いている。ウォーキングは、教室で歩き方を訓練してから外に出る。背筋を伸ばす基本姿勢、かかとをつける。つま先で蹴る。など意識して歩くと気持ちがいいことも体験した。ほとんど私より年配の方だと思うが、おしゃ
べりしながら息も切らずにスピードも落とさない。聞けば、ウォ
ーキングはほぼ毎日、週 3回ヨガをやっているとのこと。脱帽し
て納得。
2年前に病院で知り合った 歳の方は、「食べることが大好き」
と、 2カ月に 1度、食事会をセットしてくださるが、いつもお元
気で、お一人でどこでも出かけていらっしゃる。秘訣を聞くと、
「今
日行くと今日用」 +「美味しいものとおしゃべり」。早速、市民
講座でジャズ講座を受けた話をすると、息子さんがプロのジャズ
トランペッターとのこと。食事会には、ジャケットや CDを持
って来てくださり、ジャズの話で大いに盛り上がり、楽しい食事
会となった。
学びということがこんなにも楽しいことであることを、今改めて学んでいる。
2017年6月14日〜16日 東京ビッグサイトで開催された Interior Lifestyle Tokyo 。東京オリンピックの工事の影響で会場面積は少し減ったものの、異業種参入も多く見応えがありました(2018年は西ホール全館の開催に戻ります)。アトリウムのテーマは「WANTED!」。各ブースに "パートナー募集 "や "デザイン募集 "、"イベント希望 "などのメッセージを表示してコミュニケーションを促す試みです。LIFESTYLE SALONにも沢山の人が集まりました。スワン電器は EXARMシリーズのホテル向け LEDウォールウォッシャーライトや読書灯を発表。読書灯にUSB端子を備え、スマホの充電が出来るよう工夫されていました。これからの照明は、モニターや情報機器とのコラボが増えそうです。
全国の伝統工芸品を紹介する「五八 PRODUCTS」は、長野県上田市の農民美術作家・清水義博さんの作品を展示。山本鼎の提唱した農民美術「木端人形」の伝統を受け継ぎながら、80歳を超えてなお若々しい清水さんの世界観を表現していました。
ふのり塗装の「KabutoⅡ」D=橋本夕紀夫
山形県の老舗ニットウェアメーカー・米富繊維のファクトリーブランド「COOHEM」。様々な素材を組み合わせたニットツイードを、全国の伝統技術を現代のプロダクトに活かす YO no BIのブースにて、高岡のインテリア素材に展開する提案杉本美装は金属仕上げの専業メーカーで、真鍮の結晶を見せる特殊仕上げををして注目されていました。展示。その他、海藻の 「ふのり」をマスキングに使う特殊塗装などを見せました。TIME & STYLEは、ホテル向けのインテリアを自社の家具や照明器具、盆栽、ファブリックなどで作り込んだ展示。日本の現代家庭で寛ぐような感覚は、滞在型都市ホテルのスタンダードな姿として定着していくように感じました。
「江東区ものづくり団地」のブースには、木工やガラスなど様々な江東ブランド認定企業が出展。深川のガラス研磨工場・椎名硝子は、切子やサンドブラストの作例を展示。ここ数年、カフェなどが急増する深川の工場には、昭和の頃から変わらない町工場を見学したいという外国人観光客やワークショップの参加者が沢山訪れるそうです。
デンマークのテキスタイルメーカーKvadrat(クヴァドラ)のレディメイドカーテンは、色鮮やかな生地とハンギングユニットを選び、自分で取り付けられる DIY感覚のカーテン。コードを設置したら、生地をペグに挟み込んで吊り下げるだけ。長さは自分で切ることも出来るそうです。D=ロナン&エルワン・ブルレック
小林 清泰アーキテクチュアルデザイナー ケノス代表
Barのあるスーパーマーケット
素材販売から飲食そのものと、その体験提供へ
アメリカの小売業は現在もダイナミックに変化を続けています。その変化の中心地も 4. 5年ごとに移りかわり、以前はテキサス州ダラスとその近郊が視察地として人気でした。東海岸と西海岸の時差が 3時間、飛行機でも約 6時間半を要する広大なアメリカ。その中でもアラスカ州に次いで広いのがテキサス州で、面積約70万k㎡は、日本全体(約 38万k㎡)より1.84倍も広いのです。テキサス州は高山や砂漠が無く、州全体が豊かな緑に覆われ、また石油も豊富に産出されます。土地を開発するのには絶好の場所と言えます。ほどほど住みやすい気候で人口も増えており、小売業にとって実験店舗を出すのには絶好の場所でした。年商約 50兆円という世界一のウォルマート( Wa lmart )が、2万㎡を超える超大型店ハイパーマート USAを出店したのも、その次の1万㎡を超える大型店スーパーセンターを数多く出店したのもこの地域でした。ハイパーマート USAはあまりにも広すぎて店
4. 5年前まで視察の中心だったテキサス州 ウォルマートのスーパーセンター。
シカゴにも出店したイーターリー。食文化の体験に力を入れています。
内を回りきれないため不評で、全米でわずか 4店舗しか出来ませんでした。その失敗をふまえトライしたのがスーパーセンターで、主力業態として大成功しています。アメリカを中心に中南米を含め 3,400店舗以上に及びますが、もう市場的に飽和状態であるのとアルディ(A ldi=ドイツ資本のディスカウンター)やトレーダージョーズ(TRADER JOE 'S=高品質で安価な PBが有名)等の台頭で苦戦が始まっています。このような市場環境のなか主なチェンストアは、テキサス州ダラスとその近郊を実験場としていて、日本からの流通視察団もダラス行きを中心としてきました。またつい最近、ネット通販の世界最大手アマゾン( Amazon)が、オーガニックフーズの全米トップチェーン ホールフーズ・マーケット(Who le FoodsMarket)の買収交渉を始めたというニュースは衝撃的でした。この年商 1兆円を超えるホールフーズ・マーケットの本社も、ダラスから車で 1時間半ほどのオースチン市にあり、本社 1階のマーケットには沢山の日本人が視察に訪れていました。しかし、この1. 2年は、視察地としてイリノイ州シカゴとその近
郊が注目されています。シカゴ市はニューヨーク、ロサ
ンゼルスに次ぐ全米第 3番目の人口(約 283万人)を
有する都市です。シカゴの玄関口であるオヘア空港は
ヘルムート・ヤーンの設計で著名ですが、全米有数の
過密空港として知られています。
ではなぜ今シカゴなのでしょうか。全く私的な見解で
はありますが、いくつか思い当たる点をあげてみましょう。
先の「ウォルマート」に最近目立った変革が感じられない事や、日本の食に関する好みから見るとウォルマートの食品売り場に魅力を感じない事、ウォルマートはあくまでワンフロアー型の GMS(総合スーパー)であって、日本では同業態の衰退が激しいなどでしょう。それに対し、日本でもやや元気な業態は食品中心のスーパーマーケットです。そこでシカゴにしかないマリアノス(mar iano's)など、新勢力の食品スーパーが注目されて
マリアノスの売り場内には、寿司バーやオイスターバーなどが点在しています(下図の赤丸のところ)。
います。その品揃えや売り場レイアウトが、日本で伸び専門 盛りの企業にとって非常に参考になるのです。またスローフード志向のイータリー(EATALY)も魅力的です。リアル店舗としては「アマゾンブックス」も最近出来ました。話題のアマゾンエコー(AI搭載のスマートスピーカー)も置いてあり、「ヘイ!アレクサ !!」と視察者が声をかけ
て取り囲んでいます。4. 5年前から業界で注目されているイータリーは、全く新しい食の提供コンセプトとスタイルを持つイタリア・トリノ発祥の店で、アメリカ1号店はニューヨーク・マンハッタンの中央にあります。スーパーとグルメフードコートを融合・合体した作りになっていて、入り口には『私たちのお店では「EAT、SHOP、LEARN」が体験可能』というメッセージを掲げています。食文化の本場イタリアのチーズ、生ハム、ワイン、パスタ、ピザを店内で気軽に楽しめますし、それぞれの売り場で販売している商品の特徴や知識が、美しく、分かりやすく掲示され、食に関する書籍も充実しています。いつ行ってもニューヨーカーでにぎわっているその店が、昨年遂にシカゴ出店を果たしました。このお店は多店舗展開ではないので、逆に注目度が高いのです。マリアノスは 2010年創業です。34店舗ほど展開していてこの地域にしかありません。営業時間は朝 6時から夜 10時まで。入店した瞬間に青果売り場がボリュームたっぷりに登場して、この店は鮮度がいいと感じさせます。充分な広さのイートインが入り口近くにあり、自然光が美しく注いで気分の良い場所です。この店で特徴的なのは、導線のポイント部分に「バー」(bar)が点在していることです。それも 5. 8脚のハイスツールを置き、それぞれを独立した本格的「バー」として成立させています。イートイン近くには飲み物コーナー、カウンターで食べられる「寿司バー」があり、魚売り場に隣接して、なんと「オイスターバー」まであります。生牡蠣を提供するのですから、鮮度をアピールするために、これ以上の手法はありません。リキュール売り場には広いウォークインワインセラーに加え、カクテルやウイスキーのショットまで楽しめる本格「バー」が備えられています。もう一つの大きな特徴は、これらの「バー」が全てレジの内側にあり、冷蔵ショーケース(つまり売り場そのもの)と隣接していることです。バーカウンターに座った来店者の売り上げは、1,25倍になるのだそうです。ここまで来るともう従来のスーパーの概念では語れない存在となります。食材を買うだけでなく、この店に来なければ体験できない「楽しさあふれる新しい食文化の提供」がここにありました。イタリア系のマリアーノさんが起こした業態で、先に述べたイータリーもイタリア系です。今、こうした体験型スーパーの人気が高くなっているのです。私も売り場内で、丸いフランスパンとサラダ、小さいポーションの牛肉煮込みといったホットミールの昼食をとりましたが、ホールフーズ・マーケットよりも美味しいと感じました。しかしこのチェー
マリアノスの青果売り場。店の入口にあり、鮮度をアピールしています。
スパイスの量り売りコーナーもあり。
リキュール売り場の本格的なバー空間。カクテルやウィスキーも楽しめます。
ンも1昨年、スーパーマーケット最大手のクローガーに買収されてしまい、社長だったボブ・マリアーノさんも引退されたとの事でした。大手の資本力と時代の流れですね。スーパーマーケットではありませんが、全米一のドラッグストアチェーンウォルグリーン(Wa lgreen)や、ニトリが全商品を買い込み研究したといわれるインテリア製品の素晴らしいクレイト &バレル(Crate& Barre l)、またマクドナルド等の本社もシカゴです。
ここからは余談です。シカゴはラストベルト地帯の西端に位置します。ラストとは金属の錆の事で、19世紀後半から発達した製鉄等の重工業地帯が衰退し、錆びた重機が延々と連なるイメージです。ペンシルバニア州のピッツバーグが代表的ですが、ドナルド・トランプ大統領がパリ協定からの脱退を宣言した際に「自分にとって、パリよりもピッツバーグを守る事が重要だ」とコメントしました。アメリカファーストを声高に唱えたトランプ氏を熱狂的に支持したのは、このラストベルト地帯の人々でした。トランプ氏は生粋のニューヨーカーですが、シカゴの摩天楼にも真新しいトランプタワーが派手なデザインで建っています。シカゴは 4回目になるものの、偉大な建築家フランク・ロイド・ライトの初期作品が集積している「オークパーク」には、いつも立ち寄る時間がとれません。やはり視察の途中では無理ですね。 ■
バス、洗面、トイレなど
ギャラリー収納 銀座のゾーニング
壁や天井を取り払い「フルスケルトン」にした大きな1室空間 約80㎡(小中学校の教室くらいの広さ)に、ライフスタイルに対応した「たまり」を設けていくのが「 P-システム」の発想です。部屋を仕切る壁やドアは設けず、視線が通る高さのブースを配置することでインテリアをプランしていきます。
玄関の土間空間とキッチンのつながりは、趣味やコミュニティ、食の「たまり」となり、デイサービスの送迎にも対応します。
玄関を入るとタイル張りの土間空間が広がります。幅 6mの間口をフルに使い、今までのマンションにはない玄関空間を生み出しました。陶芸をしたり自転車をいじったり土間感覚の趣味スペースとして楽しめ、便利な玄関クローゼットも用意。土間に続くカウンターキッチンは縁側的な場所で、近所の人も気軽に立ち寄れるよう玄関にひらかれています。玄関の土間に続くカウンターキッチンという画期的な提案。これなら縁側感覚で気軽にお邪魔できそうです。外から帰って一息ついたり、荷物を下ろして整理したり、デイサービスの送迎をカウンターで待ったりなど、玄関先のカウンターキッチンはパブリックとプライベートを緩やかにつなげる境界となっています。カウンターとキッチンは振り返るだけのゼロ動線で、奥様のホームポジションになりそうです。
キッチン脇の調理家電収納。電気配線を床面からボックスのエッジに通し、配線を見せないよう工夫されています。
ギャラリー収納銀座のプラン
まるで草原のようなスペースに、テーブルや椅子、タープ、ハンモック、コンロなどを置いて楽しむグランピング感覚で、オーダーした置き式ユニットを、躯体工事不要で配置してきます。休息コーナーの近くにサニタリーを設けたり、バス・洗面の近くを寝室にしたり、服をまとうような身体感覚で、現実の暮らしにフィットするプランを自分で作り上げていけます。
▲薄縁の畳は国産イグサを使った添島勲商店製。▼デスクの隣にはペットのゲージをビルトインしています。
正面の AVボードは、レールの見えないすっきりした引き戸で開口をコントロール。「 P-システム」の高さはロー(84cm)、ミドル(120cm)、ハイ(156cm)の 3種類、幅は 5cmピッチで設計できます。
バスルームのそばにベッドスペースを配置し、パーティションを低くおさえています。ヘッドボードを兼ねたパーティションには、LEDライン照明を組み込むことも可能。壁面クローゼットの手前には、将来の在宅介護もふまえ、ライフスタイルの変化に応じて組み替えられる収納ユニットを設けています。
小林健太遺作展 ー 金属・七宝の造形 ー
2017年6月15日〜20日 gallery坂(神楽坂)
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緑青のふいた作品や七宝で焼き上げた作品。
▼ ギャラリー坂は赤城神社脇の坂道を下りた所にあります。
アケビをモチーフにした「開け実」。
小林健太さんが治療を受けていた佐久医療センターは、先端的な地域医療の拠点として注目されている総合病院です。ケアマネジャーのすすめで作品を分院内に展示したこともあり、ホスピタルアートとして健太さんの屋外彫刻作品が置かれる予定です。
▼純銀製の作品。
初期の造形作品。屋外彫刻も多く手掛けていました。
小林旬子さんは、小海町のアトリエで創作活動を続けています。今夏には、ワークショップを開く予定だそうです。
仕上げに合わせ使い分ける「鎚(つち)」。鏡面の当金もあります。
僕らのリズム
そして、たそがれ時。耳の奥では
Golden
20
っている。僕は西麻布の路地を自転車で走っている。曇天を見上げて舌打ち。雨が降らないといいけどな。少し急ぐか。ペダルの足に力を入れた。
うなだれたままガードレールに座るアフリカ人。スタンディングバーからだらしなく溢れるディスコミュージック。読みようによってはホラーな電柱看板。
この辺の夜はいつも散らかっている。
僕はクライアントが待つレストランへと急いでいる。
「低気圧が来ると耳の奥がざわつくの。わかる ?」あれはいつの記憶だったろう。 年くらい前、とても短い期間付き合っていた女の子のセリフだ。逗子のデニーズで彼女はため息混じりに言った。「あなたにはわからないでしょうね。人のことなんて興味ないんでしょ ? 今日だって映画に行くって言ってたじゃない。一人だけ自転車で来たら二人で行けないじゃんね ? ……だいたいこんな暑い日に自転車なんて ……ばかみたい」そう。とても暑い日だった。びっしりと結露に覆われたガラスの向こう。色とりどりの海水浴客が水槽の中の熱帯魚みたいに見えた。僕は泣いている彼女を目の端で見ながら、早くここを出て、あの水槽の中に戻りたいなと思っていた。「チャリはさー ……」
言いかけてやめた。「いや、なんでもない」自転車を止めた。信号待ちの空。大きくて不吉な雲が、すごい勢いで西から東へ動いている。あの時のように、低気圧が迫ってるんだろう。「あ、あ、あー」声を出して自分の耳の奥を点検して、「わかんねーなー、今で
Vol . 16
野田 豪 (AREA )
Slumber
が鳴
も……」と独り言をつぶやく。
ビルの横に貼られた謎のポスター。首都高下の暗がりにボウっと浮かんだ落書き……。
信号が青になった。僕は、そいつらから逃げるようにペダルを踏んだ。都会の夜は自己顕示欲でできている。気を許すとあっという間に取り込まれてしまう。
根津の坂を登っている。みゆき通りに出たところで雨が降ってきた。いきなりのどしゃ降りだ。夕方遅いショッピング客が逃げ惑うようにビルに吸い込まれていく。急に水をかけられたせいか、僕の心臓が 回ほど、どくんどくんと大きく動いた。傘、買うかな。ちょっと迷って、でも、やめた。
2
コーヒー代をテーブルにジャラッと放った。じゃーね。目の前で泣いている女の子に手を振った。いつまでも元気でね。デニーズの重いガラス扉を開けた。熱気に叩かれた。自転車にまたがった。「あー」声が出た。「あちーなー」鎌倉に向かって走り始める。僕は自分の唇が勝手に笑っ
ているのを知っている。134号線の向こう。かげろうが揺れている。
チャリはさー、なにも天気のいい日のためだけにあるんじゃねーんだ
ぜ ?どしゃ降りの雨の中とか、吹雪の中とか、焦げた歩道の照り返し
とか、そういう所にこそチャリが必要なんだよ。一人になれるからな。
人と人の間で生きてると、嫌が応でも自分の役柄を演じなけりゃいけな
いだろ ?そのドラマツルギーから逃げ出したくなる時は、そんな場所
を選んでチャリに乗るのが一番いいんだよ。
グッショリずぶ濡れになってレストランの自動ドアをくぐると、クライアントの女性が眉をしかめて僕を迎えた。その表情の影は一瞬だ。次に来るセリフを僕は良く知ってる。大丈夫ですか。いきなり降ってきましたね ……とかなんとか。テーブルに座り商談をしながら、窓ガラスの外を気にする僕は、まだ耳の奥を気にしている。そして、帰りの道すがらは、コステロを聞きながら帰ろう ……もう少し雨が強くなったらジプシーキングスかな、とか、そんなことを考えている。
湯浅湾に面した広川町(当時は広村)は、有史以来、少なくとも 8回の津波に襲われ(宝永地震津波、安政地震津波、昭和南海地震津波など)、そのたびに家々を流され、多くの犠牲者をだしてきました。
安政南海地震を記録した「安政聞録」。和歌山県の広川町と深い縁で結ばれているのが、千葉の銚子と醤油メーカーです。濱口梧陵は、文政 3年(1820)に広村の醤油商家に生まれ、12歳で本家の養子となって千葉県・銚子に移りました。江戸で佐久間象山などに学んだ梧陵は先進的な知識を身に着け、嘉永 7年(1854)にヤマサ醤油の七代目当主として濱口儀兵衛の名を継承しました。当時、銚子からは利根川の水運を利用して江戸へ醤油や生活物資が運ばれ、大きな利益を得ていました。
千葉県銚子のヤマサ醤油工場。江戸時代の銚子には「紀州海民」と呼ばれる広村や紀州各村の漁師たちが渡り、当時最新のイワシ漁を伝えました。日本随一の漁港に発展した銚子をひらいたのは、紀州の人々ともいえます。銚子の外川漁港。
安政南海地震の起きた日、濱口梧陵はたまたま広村に戻っていました。以下は梧陵の手記を要約したものです。
『安政元年11月4日(1854年12月23日)四つ時(9時過頃)に強震(安政東海地震)があった後、海岸で異常な潮の動きがあり黒い高浪が現れた。大震の後は海嘯が来るとして、村民らを八幡宮へ避難させた。5日になり村民は家に戻ったが、午後に村民 2名が井戸の水位低下を訴え、何か地異が起るのではと恐れていたところ、夕方七つ時頃(16時半頃)大震動(安政南海地震)があり暫くして静まった。西南方向から巨砲を連発するような響きが数回あり、怒涛早くも民屋を襲うと叫びがあり、疾走するなか激浪が広川を遡り人家が崩れ流れていくのが見えた。自らも瞬時に潮流に半身を没し辛うじて丘陵に漂着すると、背後には押流される者、流材に身を寄せる者と悲惨な光景が広がっていた。日が暮れ10数名で松明を焚いて救助に向かうも、流材が道を塞ぎ歩行を妨げていたが、十数の稲むらに点火して安全な地を表示した処、これを頼りに万死に一生を得た者が少なくなかった。暫くして八幡神社近くの一本松に引き上げた頃に最大の激浪が襲来し、火のついた稲むらが漂い流されていく様子を見て天災の恐るべきを感じさせられた。』濱口梧陵の体験は脚色されて「稲むらの火」として小学国語読本に掲載され、津波の恐ろしさを伝える防災教育に役立てられました。「稲むらの火の館」の濱口梧陵記念館では濱口梧陵の生家(西濱口家)を活用して、稲むらの火の物語と梧陵の生涯を紹介しています。2007年にオープンした「稲むらの火」津波防災教育センターは、津波シミュレーションや 3D津波映像シアター、3Dハザードマップなどで、子どもたちも楽しく防災の知識を学べるように工夫されています。南海トラフ巨大地震が発生した場合、広川町でも広範囲にわたる津波の浸水が想定されています。
赤いレンガ壁が特徴的な大邸宅は、ヒゲタ醤油の東濱口家です。安政南海地震の際は、西濱口家と協力して復興に尽力しました。
東濱口家の庭園の一部が公園として公開されています。蔵には安政南海地震の津波による浸水高さ(約 5m)が記録されています。
東日本大震災の後、濱口梧陵と「稲むらの火」が再び注目されたのは、津波からの避難だけではありませんでした。村民の 9割は生き残ったものの、家は流され橋は破損し、村民の暮らしは危機に瀕していました。梧陵は私財を投じてインフラを復旧し、15世紀に築かれた畠山石提の内側に当時最大級の堤防・広村堤防(高さ 5m、幅 20m、長さ 600m)を約 4年がかりで建設します。作業には地元の村民があたり、賃金によって暮らしを立てることで村民の離散を防ぐ目的もありました。広村の復興に梧陵が投じた金額は 4,665両ともいわれます。広村堤防は大正 2年の高波や昭和 19年の昭和東南海地震、そして完成から約 90年後の昭和 21年には昭和南海地震津波から多くの人命を救いました。幕末になると濱口梧陵は政治家としての能力も発揮し、紀州藩の勘定奉行や紀州藩校の教授を歴任するなど、幕末から明治にかけて和歌山県の近代化に尽力します。明治 4年には大久保利通の要請で初代駅逓頭(後の郵政大臣)となり、明治13年には和歌山県の初代県議会議長に就任。明治18年には世界旅行へ旅立ち北米大陸を横断した66歳の時、ニューヨークで客死しました。