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時空を超える美意識
8月号 星祭 2017
http://collaj.jp/
一粒の種 大地に落ち
TIME & STYLEの、吉田安志さんに同行させて頂きました。
金山ダム(1967年完成)によりできた人工湖「かなやま湖」には、南富良野町の市街地から空知川が流れ込んでいます。金山ダムの目的のひとつは、たびたび洪水を起こしてきた空知川の治水でした。2016年 8月 30日早朝から降り始めた台風 10号の豪雨に対し、金山ダムは莫大な水量を貯留し下流域の洪水を防ぎました。一方で緊急放流を行ったものの上流域の洪水を防ぐことはできず、南富良野町の幾寅地区・落合地区を中心に、大規模な洪水が発生しました。▼「ログホテルラーチ」では特産物を使ったディナーも楽しめます。
かなやま湖には幻の魚といわれるイトウやオショロコマも棲息し、カヌーなどアウトドアスポーツのメッカとしても賑わいます。「地域に開かれたダム」を目指す湖畔には、芝生の美しい広大なキャンプ場や保養センター、丸太作りの「ログホテル ラーチ」などが整備され、夏休みシーズンには多くの家族連れがキャンプを愉しんでいました。
台風10号の集中豪雨により、空知川にかかる太平橋の上流左岸が 8月31日深夜 2時過ぎに決壊。濁流が市街地幾寅地区を襲いました。堤防の復旧工事は現在も続けられています。
▲ 道の駅南ふらの。建物の形はカヌーの舳先をイメージ。
観光客など沢山の人で賑わう「道の駅南ふらの」。洪水によって敷地は水浸しになりましたが、建物は少し高くなっていたため床上浸水を逃れたようです。上の写真は 31日午前9時頃の南富良野町幾寅地区の様子(出典:読売新聞社清水健司撮影)。空知川が大規模に決壊して市街地や畑を飲み込み、かなやま湖と一体につながっているようにも見えます。
▲ 8月31日。南ふらの農産物処理加工センター周辺のようす。
道の駅でも大きく扱われている特産品「バタじゃが」は、南富良野町振興公社が運営する「南ふらの農産物処理加工センター」で加工されています。今回、TIME & STYLEの吉田安志さんが南富良野を訪れたきっかけは、この「バタじゃが」でした。6月に旭川を中心に開かれた「国際家具デザインフェア旭川 2017」で、TIME & STYLE
FACTORY(東川町)は、全国からのゲストに「バタじゃが」をふるまうと同時に、南富良野への募金活動を行いました。
▲フェアの際に集まったお見舞金をお渡ししました。
▼ 工場の心臓部である真空パックを自動で行う機械。
お見舞金を南ふらの農産物処理加工センター事業課長・小林学さんにお渡しした後、加工場を見せてもらいました。メイン商品の「バタじゃが」はじゃがいもを皮付きのまま塩ゆでし、バターを注入してからパックします。常温で保存でき手軽に富良野産じゃが本来の味わいを楽しめることが評価され、発売から 20年以上のロングセラーとして全国に向けて出荷されています。その他、最近話題の熊笹(くまささ)茶や真空パックのスイートコーンなども加工されています。▲乾燥した熊笹の葉から「くまささ茶」を抽出しています。
富良野産の男爵いもを使い、洗浄してから1個ずつ丁寧に芽をくり抜きます。台風10号の洪水によって加工場は床上1m20cmまで水に浸かり、真空パック装置やX線検査装置をはじめフォークリフト、新じゃが約10トンの他、大量の製品が破棄されました。営業車はかなやま湖まで流され 2週間後に見つかったそうです。流れ込んだ泥や汚れを清掃し機械を入れ替え、加工場を再開できたのは 3カ月後。被害は建物と設備だけで約1億 6千万円に及びました。ニュースをみた原料の仕入先や出荷先が状況を理解してくれて、復旧まで見守ってくれた事がありがたいと小林さん。
JR北海道・根室本線「幾寅駅」は、高倉健さん主演の映画「鉄道員(ぽっぽや)」(1999年)の舞台「幌舞駅」として知られ、南富良野町の観光名所にもなっています。
▲幾寅駅がロケ地に選ばれたのは、この階段があったからと、キャメラマンの木村大作さんは語っています。
幾寅駅の開業は明治 35年(1902)。明治期には金山から産出する石灰石で賑わい、昭和になると丸太を積んだ広い土場が設けられ、材木の積み出し駅となりました。約 9割が森林の南富良野町は今も林業が盛んで、雪を利用したバイオマス(木材チップ)の乾燥技術でも注目されています。駅の花壇は地元婦人会によって、美しく整えられていました。駅舎の外壁は白いサイディングでしたが、撮影に合わせエイジングした木の板を張ったものを残しています。ホームにでると根室本線の鉄路は赤く錆びていました。昨年の連続台風は JR北海道に甚大な被害を与え、流された橋梁の架け替えなど復旧には 50億円以上かかると試算されています。根室本線では東鹿越〜幾寅〜落合〜新得間がいまだ不通のままで、現在は代行バスが運行されています。復旧には10億円以上かかり、JR北海道は鉄道の復旧を断念するとみられています。これにより十勝方面から富良野・旭川への鉄路が分断されることになります。
幾寅駅に近い「なんぶてい」にて、ご当地グルメ「南富良野エゾカツカレー」で腹ごしらえ。くまささ茶の缶がついていました。空知川をさかのぼり落合地区へ向かうと、流された橋や川沿いの流木が目立つようになりました。
畑の被害が大きかった落合地区も、徐々に作付けが始まっていました。台風 10号の雨は 2016年 8月 30日の早朝から降りはじめ、夕方から一部で停電がはじまり、各地区に避難指示が出されました。18時 50分には下流にある金山ダムの放流が始まりますが空知川の増水は進み、23時 40分頃に幾寅地区松井で氾濫が始まります。31日深夜1時から床下浸水する家屋が発生。そして深夜 2時頃、ついに空知川の堤防が決壊。市街の老人ホームも1m以上浸水し、停電で真っ暗ななか高齢の方がテーブルの上に乗り不安な夜を過ごしました。▲ 復旧された畑には蕎麦や小麦、モロコシなども育っていました。
30日からの雨は、年間降水量約 1000mmの半分 500mmを超え、川から氾濫した水は、落合地区から「かなやま湖」へと大きな川のように流れ畑の表土を押し流しました。洪水が引き始めたのは 31日の夕方。まるで空襲のあとのように何もなくなった畑には、泥や石、流木が残され、家屋を失った農家の方もいました。南富良野はじゃがいもの中でも、
「種芋」の栽培が盛んなため、種芋の不足は北海道だけでなく本州・九州にまで影響を与えています。
濁流で傷んだ橋の上を、土を運ぶダンプカーが行き来していました。
連続台風による被害は「激甚災害」に指定され、畑の復旧工事が急ピッチで進められています。最初に泥や流木などを取り除き、ダンプカーで土を入れていきます。復旧を終えて作物を植えはじめた畑もありますが、畑の土に充分な養分を与え、以前のような収穫を得るまでに数年〜十数年はかかるとみられています。
復旧された畑には、トマトなど大型のビニルハウスも立っていました。
▼土に混じった小石は、収穫機にとって大きな障害です。
開拓から数世代にわたり森を伐り開き、耕作に適さない固い土を掘り起こし、肥料を与え、小石を取り除き、100年以上かけて育てあげた肥沃な土は、農家にとって最大の財産です。新しく入れ替えられた土は白くサラサラして、小石も混じっていました。畑に肥料を与え整備する費用は農家の負担になりますが、水害によって離農する農家はいまのところ無いようです。
さらに空知川をさかのぼると、深い渓谷が現れたあたりに「落合駅」(明治 34年開業)があります。幾寅駅の隣の駅で、今も開通していません。大正から昭和にかけて、山から木を伐り出すための森林鉄道が接続され、駅のまわりは丸太を積んだ広大な土場や製材所がありました。北海道の鉄道の主な役割は、材木や鉱物、農産物などの貨物輸送にあったのです。落合駅の近くに、今も手付かずの鉄道橋とトンネルがあります。この現場の被害が、東鹿越〜新得間の復旧を妨げる要因と考えられています。南富良野町は人口約 2600人に対し、アウトドアガイドが約 40人もいるアウトドア王国です。ラフティングやカヌー、渓流釣り、自転車、犬ぞり、カーリング、クロスカントリースキーなど四季を通じて自然と親しめるスポーツを活かし「手ぶらでアウトドア」を町ぐるみでアピールしています。この日も空知川上流を下るラフティングを愉しむ人達がいました。
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鈴木 惠三(BC工房 主人)
オイラは旅人
JAWAは冬 ?南半球なので、北半球の日本とは逆。
でも冬と言っても昼間は 日本の夏の感じだ。 JAW
度あるから、
A工房を作って、通って、
年100日は来ている。
もういいかげん現地にとけ込んでいいだろう
なのに、「いまだ、旅人」現地の習慣、文化、言葉になじめてない自分がいる。硬いアタマ、切り替え出来ない無器用な自分がいる。
無器用な
才の老人。現役なのに、元現役?
工房では、毎日なんかしらの問題が発生する。ひとつずつ解決するしかないのだが、ここでは「ひとつの解決」が、なかなかうれしい出来事になる。「コミュニケーションの答えが出る喜び」コトバは通じなくとも、目標、目的に向かうコミュニケーションとは?知ればいい。言えばいい。発信すればいい。の、中途半端な甘ったるいごまかしじゃダメなんだ。
40
70
25
年。
!?
20
日本のひどいコミュニケーション状況?「高校野球の必死なプレーに救われる夏。」コミュニケーションの原点が、高校野球に宿っている?グランドに出れない選手たちの、スタンドからの応援を見るのが好きだ。「俺たちの分までガンバってくれ」の熱が伝わる、伝わっていく、コミュニケーションの一瞬。コミュニケーションって、「培ってきた時間」いい時間の積み重ねが、土台に必要なんだ、を感じる。
年間通った工房でのモノづくりは、時間の積み重ね。
恥ずかしいようなムダと思えるいろんな時間の積み重ねがあって、今があるんだ。
今回のテーマは?無手勝流、ノーガード、いいかげんオイラ流。スタッフ皆と、いっしょに話しながら、一脚の椅子を作り出す喜び。「とんでもない椅子づくりは、夏の甲子園」「老人は、青っぽい情熱と汗の椅子づくり」「コンセプトなんていらない。手で考え、手で描く、新しい椅子。」
「旅人は、自由に作りつづける。」
▲打ち下ろしホールの元ティーグラウンドからの光景。植林から約12年経ちコースが分からない位に木々が生長しました。
富良野プリンスホテルに併設されたゴルフ場が閉場したのは 2005年のこと。跡地利用の相談を受けた作家・倉本聰さんは、ゴルフ場開発前の森に還すことを提案しました。こうして生まれた「NPO法人C・C・C富良野自然塾」は三井2005年6月当時(写真:富良野自然塾)住友銀行(SMBC)の協力のもと、誰もが参加できる自然環境プログラムを展開しています。
▼ 2005年、最初に鍬入れした場所に立つ石碑は、すっかり緑に囲まれていました。
プロジェクトマネージャーの中島吾郎さんに、環境教育プログラムの一部を体験させてもらいました。基本的な体験としては「裸足の道」「石の地球」「46億年・地球の道」などがあり、キャストがゲストに対して様々な問いかけをしながら、自然環境を五感で感じ、動き、考えることを大切にしています。入場者は 4万人以上、約 6万本の植樹が行われました。直径1メートルの地球では対流圏はわずか1mmほど。スペースシャトルは3cmほどの高さを飛んでいるそうです。
直径 1メートルに縮小した「石の地球」。太陽からの距離や大きさなど、地球は様々な偶然の重なった奇跡の星であること、そして大気はごく薄い層でしか無く空気の量は限られていること、生き物が利用できる淡水はほんのわずかな事などを、問いかけを交えながら解説していきます。中島さんはまるで、森の中で屋外劇を演じるアクターのようです。
元ロングコースを利用した460mの「46億年地球の道」。最初の原始生命が誕生したのは約 40億年前といわれますが、400m以上は先カンブリア紀の原始的地球が続きます。
8億〜 6億年前の「全球凍結」を経て、地球はいよいよ生命に溢れた惑星となります。三葉虫やアンモナイト、昆虫、爬虫類などが誕生し、約 2億 5000万年前には恐竜が登場します。
▼数億から数千万年の歳月をかけて出来た石油や石炭を、人類は産業革命以降の200年余りで使い果たそうとしています。
そして人類が登場する20万年前は距離にしてたったの 2cm。近代は髪の毛 1本です。倉本聰さんは富良野塾(1984年〜 2010年)の起草文で「あなたは文明に 麻痺していませんか 石油と水は どっちが大事ですか」と訴えています。
地球は子孫から 借りているもの
地球の道の未来には「 地球は 子孫から 借りている もの 」というネイティブアメリカンの言葉が示されています。この先どのような姿の地球が、どのような子孫に継がれるのでしょうか。
▲ サクラの木から採った実。苗床に植えて発芽させます。
こうした体験のあとで、環境教育プログラムの参加者はゴルフコースへの「植樹」を行います。植樹される苗木は、広葉樹を中心に富良野自然塾のスタッフが育てています。周辺に自生している木々からドングリやサクラの実などを採取し、苗床に植えて芽吹かせます。野山を散策するときは、どこかに実がついてないか注意するようになったと中島さん。ゴルフコースは開発時に表土が剥ぎ取られ、硬い石混じりの土壌の上に芝を張っています。そのままでは植樹できないため、深さ数十センチの穴を掘り、土を入れてから数種類の苗木を一緒に植えます。林業の植樹とは目的が異り、その場に適した木が自然に生長するよう工夫しています。このプログラムは全国に波及し、今治や京都、北九州、東京立川などで実践されています。
赤い三角屋根が印象的な富良野の隠れ家的なテラス&バー「さくらの」。
テラス&バーさくらの葡萄棚がならぶ小高い丘の上に立ちます。ソーセージをのせたカレーや自家製ローストビーフプレートの他、ケーキセットもありました。
「さくらの」は今年 4月にオープンしたばかり。ゆったりとくつろげる店内やテラスから富良野の絶景を楽しめるとあって、ランチタイムは多くの女性客でにぎわっていました。アルコールメニューも充実しています。
テラスからは富良野市の町を一望できます。7月には丘の一面がお花畑になるそうです。
つれづれなるままに第39回熱中症・コリ解消・防災断捨離内田 和子
この夏に受けた講習。随分と役立った。
熱中症対策
年前、まだ熱中症という言葉も知れ渡っていな
い時である。
歳になる母は、元気で家事をこなし
ていたが、7月に入ると少し咳き込むようになっていた。近くに住む妹に日中の様子を見に行くよう頼み、仕事に出かけた。医者に連れて行き、レントゲンを撮ったがなんでもない。夕食はお吸い物とおかゆを食べ、みんなと一緒にスイカを美味しそうに食べたという。しばらく妹の家で様子を見てもらうことにし、仕事帰りに寄った。
お風呂から上がった母に、冷たいりんごジュースを勧めると「あぁ美味しい」と言って飲み、床についた。安心して家に帰り、翌日会社に出かけたが、昼過ぎに痰が切れなくなり救急車を呼んだとの連絡。病院へ出向いた時には、吸引で痰も収まり、穏やかな顔で話しもできホッとした。明日には家に帰れるとのことだったが、その日の夕食で誤嚥が起こってしまった。それから2日後、亡くなった。誤嚥による肺炎だ
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った。 回忌を済ませた今年、今にして思えば、あれは明ら
かな熱中症だったと妹は言う。様子を見に言った時の家の状態を初めて聞いた。聞いていたのかもしれないが、記憶にない。
玄関を開けた途端にすごい熱気だったそうだ。クーラーもつけず横になっていたと言う。急いで窓を開け、クーラーをつけたが、あの時、熱中症という言葉を知っていたら、対処の仕方は違っていたのに。と ……
熱中症対策講座にはたくさんのご年配の方が参加してい
た。喉が乾かなくて水分補給、お風呂の前にコップ1杯、寝る前にコップ1杯、起きたらコップ1杯。クーラーはかけたまま寝るのがいい。夏バテ対策用の補助食品のいろいろ。熱心にメモをとる方も多いが、机の上には、皆ペットポトルが置かれている。今では「熱中症」は誰でも知っている言葉、その対策も親切丁寧に、やかましく言われている。ありがた
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いなぁと思いながら、 年前に知識がなかったことを今更に
悔いている。
コリ解消術
若い時から肩こりがひどい。四十肩、五十肩も経験している。特に五十肩の時は、腰の痛みが伴い、激痛が走った。鍼灸院に通いなんとか治ったが、最近六十肩なのか、肩からひじのしびれが続いている。激痛ではないが、鈍痛が長い。コリ解消術講座も年配の方が多い。
ドンピタの講座なので、
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つれづれなるままに熱中症・コリ解消・防災断捨離
前の席でメモをとる。加齢という言葉は使わないが、年齢を増すと筋力が衰え、機能が低下する。と、年齢別、男女別の運動機能の数値データを出しながら説明する。そして、スマホ首から肩こり、腰痛、ひざ関節のゆがみを若いインストラクターがやってみせる。まぁ、見事に年寄り姿の再現である。皆自分の姿を見るようで笑いが起こる。しかし、諦めることなかれ。筋力は幾つになってもつくんです。と、励ましてくれる。
さぁ、ここからは、じっとしているのももどかしく、我先に腕をあげ、姿勢を正し、歩き方を実践してみる。「ガニ股になるのは、ももの内側の
T
筋力が衰えているからですよ。そこを鍛えるのは ……」みんな真剣に、そして真面目に足を上げて歩く。六十肩は肩甲骨の筋力低下から。肘が痺れるのもそのためだそうだが、長引くようなら、内臓疾患から来ていることもあると。侮らず、無理せず、知識を無駄にしないようにと、今日も腕伸ばしをやっている。
防災断捨離
断捨離、やらなければならないことは重々分かっているが、な
かなか手がつけられない。
整理術のプロが教える断捨離とはどんなものかと講義を受けた。最近テレビを見てびっくりしたが、片付けられない人のためのスタッフ派遣があるらしい。整理屋さんというのもあって、遺品整理処分をしてくれる。関心が高いのか、この講座も多くの人が聞いている。が、どうも学んで片付く話ではなさそうと、2回で終わりにした。
テレビでは、片付けビフォアー・アフターをやって、見事に片付いた部屋に家族も喜んでいる姿で良しとしているが、1ヶ月もすれば、元に戻ってしまうだろうと誰の目にも明らかである。生活の癖はそうそう治らない。捨てられない性分はなかなか変えられない。どうしたらスッキリ、探したいものがすぐに見つかる生活にできるか。
今回の防災断捨離は、いざという時に自分の家で逃げ場を失わないために、という副題がついている。阪神淡路の震災経験者の教訓から作られたというビデオも見た。生活の癖でたまったものは、なかなか捨てきれない。雑誌を束ねるのにも力がいる。1つ1つがスッスとできなくなっているが、この講座の後、一つ心がけていることがある。それは、断捨離と大上段に構えないこと。目についてこれはもう使わないなぁと思ったら、次週のゴミの日に出すようにしている。キッチンやお風呂場にあるもの、毎日目にしていて気にもしていないが、ずっとそのままになっているもの。着古した シャツは雑巾にはならない。雑誌は束ねなくてもいい。2、3冊なら袋に入れて出せばいい。そんな風に目についたものをもう一度意識して見る。そこで1週間の猶予を待って、処分する。この方法は時間がかかるかもしれないが、自分には合っていそうな気がする。いつかどかっと断捨離できるまで、気長に続けていこうと思う。
それにしても暑い夏。乗り切っていきましょう。
ラベンダー園「彩香の丘」 (佐々木ファーム 中富良野町)
丘陵につらなるパッチワークのような畑で知られる美瑛。天文台のある小学校として愛された旧北瑛小学校を再生し北瑛小麦の丘た「北瑛小麦の丘」は、小麦と石窯のパンをテーマに、レストランとプチホテル、料理学校を複合した施設です。
▲料理学校に活用された旧北瑛小学校。プロの料理人を目指す人達が校舎に住み込み学んでいます。
北瑛小麦の丘は、札幌の「レストラン・モリエール」中道博さんがプロデュースに参加し、レストラン「ビブレ(bi-ble)」やパン工房、プチホテル(ツイン 5室)の他、料理学校「美瑛料理塾」を併設しています。設計は、真狩村のオーベルジュ「マッカリーナ」も手掛けた内藤 廣さん。ここのホテルも宿泊とディナーをセットにしたオーベルジュとなっています。
レストラン「ビブレ」では、十勝岳連峰を眺めながら手軽なランチを愉しめ、持ち帰りのパンカウンターもあります。地元の小麦をつかい石窯と薪で毎日焼かれたパンは、なによりのご馳走。汗をかかないよう紙袋に入れてくれました。
▲ 世界各国から来た多くの留学生で賑わっていました。
▼ 世界最大級の名作椅子コレクション「織田コレクション」は、東川町でのミュージアム化計画が進んでいるようです。
旧東川小学校の校舎を活用し 2016年 10月にオープンした「東川町文化芸術交流センター」。全国的に知られる東川の写真文化や家具デザイン文化の交流を目的に、日本初となる公立日本語学校「東川町立東川日本語学校」を併設しています。1階のギャラリーでは東川町の芸術文化コーディネーターに就任した椅子研究家・織田憲嗣さんのコレクションを展示。2006年から東川町で始まった「君の椅子」プロジェクト。町内で生まれた子どもへ1脚の椅子を贈呈するというもので、1回目の中村好文さんから、伊藤千織さん、小泉誠さん、大竹伸朗さん、出光晋さん、谷進一郎さん、小林幹也さんなど、毎年異なる人がデザインし、周辺の木工家によって制作されています。いまは東川町の他に、剣淵町、愛別町、東神楽町、中川町、売切村(長野県)へと活動は広がっています。東川町は人口増加率が全国でもトップクラスで、2014年には次世代型の小学校として注目を集めた新東川町小学校を開校しています。
NPO法人ひがしかワッカが運営するコミュニティカフェ。東川の食材を使ったヘルシーなランチや、手作りのケーキセットが人気で、大学の料理研修サークルが出張してランチを提供するなど、食育を通じた町づくりをテーマとしています。家具や小物には、東川や旭川など地元メーカー品が使われ、大きな窓からは元校庭の広い庭が眺められます。
ケンブリッジ公爵夫妻の長男ジョージ王子、この 7月 日で満4歳。9月から幼稚園に通う。ケンブリッジ公爵夫妻って誰? 英国皇太子チャールズと故ダイアナ妃との間に生まれた長男ウィリアムと妻ケイト(共に 歳)のおふたりのこと。御夫妻はしばらく前にロンドンのケンジントンパレスに住居を移している。ジョージ王子が、果たしてどこの幼稚園に通うことになるのか。公爵夫人に年代
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の近いヤンママ並びに英国王室フリークの間では、大注目だった。ケンジントンパレスは、ハイドパークの西北端に位置する。東京
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で言えば赤坂御所に相当し、代々の皇太子をはじめ王族が住む場所
W
として知られる。パレスの一角は博物館として一般公開されていて、歴代の王族の絵画や豪華な調度品、故ダイアナ妃特別展示、そして庭園が見ものだ。この一帯には、想い出が沢山ある。今から 年ほど前、パレスから徒歩3分の場所にあるアパートメントで、 年弱の間、母と共に暮らしていたからだ。皇太子夫妻が専用の赤いヘリコプターでパレスの庭から飛び立つ様を、アパートの窓から何度も目にしている。ダイアナ妃ご自身が、青緑色のアウディのオープンカーを運転する姿を目230撃したこともある。カッコよかった。
その 年後、引退した知人夫妻に招かれてイースト・アングリアの田舎の村の、茅葺屋根の家を訪ねた時のこと。「村の中心にあるマナーハウスの公爵夫人の許に、故ダイアナ妃が赤いヘリコプターで時々来訪していた」と聞かされて驚いた。その時、知人の家にいたお手伝いさんは、かつてそのマナーハウスで働いていた。「公爵夫妻にご挨拶するときは、こうやって挨拶するの」と言いながら、右足を基軸として膝を折りつつ、左足を後ろに回しながら頭を下げる「カーツィー」という特別なお辞儀の仕方を見せてくれた。公爵一族は数百年間に渡って先祖伝来の館を維持し続けている。お金に困っていないから、ナショナルトラストに館を明け渡すこともなく、当然、その館が観光客向けに公開されることもない。見世物じゃない本物の英国貴族の凄みだ。
で、ジョージ王子の幼稚園。英国上流社交界の大方の予想では、
「パレスからほど近い 幼稚園になるだろう」という声がもっぱらだった。というのもここは、公爵ウィリアムと弟が共に通った、上流階級御用達のセレブ男子幼稚園だからだ。地下鉄ノッティングヒル・ゲート駅から徒歩数分の場所にある。ところが、公爵夫妻の選択は、 W幼稚園ではなかった。夫妻はチャールズ・ダイアナ時代に大きく傷ついた英国王族のイメージを一新すべく、「新たな王室像」の形成に努力し続けている。その流れの中での、今回の伝統を破る形での幼稚園の選択。これが今、英国で大きな話題になりつつある。公爵夫妻が選んだ幼稚園は、パレスからは4キロ少々で、テムズ川南岸のバタシー地区にある、トーマス幼稚園だった。川向うだ。この場所の幼稚園に王族が通うなんて、これまでなら考えられない。同幼稚園に通う園児た
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ちの親の階層もまた話題だ。シティの金融関係、弁護士、医師、ジャーナリストなど、上流階級というよりも、現代ロンドンのアッパーミドルクラスの子弟が多く集まる
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幼稚園だからだ。階層意識に敏感な英国社会では、これまた画期的な出来事と受け止められている。加えて「できるだけ自身で王子の送り迎えをするつもり」という公爵夫人の言葉にも反響が大きい。園の窓を防弾ガラスに替える工事中とも伝えられ、園児のママたちの間に興奮と困惑が広がっているという。うちの子が王子に噛み付いたら、どうしよう? 公爵家では王子の誕生に合わせて防弾ガラスに防弾艤装を施した総重量 3・5トン 気筒 600馬力で最高速度 300キロを越すという怪物ベントレーを購入済みだ。これで送迎?
テムズ川南岸はこの 年で劇的に変化した。川沿いの遊歩道、シェイクスピアで有名な新グローブ座、現代美術のテイト・モダン、おしゃれなショッピングモール等々、ガイドブックに掲載されるスポットが続々と誕生していき、いつも観光客で賑わう地区が広がりつつある。その一方で、観光ガイドには掲載されないが、シティで働く豊かなアッパーミドル層を当て込んだ、高級マンションが続々と建設されていった。先日テロの被害があったバラの食品市場も、こうしたリッチ&トレンディな新住民にとっては格好の日常マーケットとなっている。また、同じ南岸ワンズワース地区に、 1000億円を超える巨費を投じて新たに建設中のアメリカ大使館が間もなくオープンの予定だ。そして、今回の公爵夫妻の幼稚園選択。テムズ南岸は今、活気づいている。
とはいうものの、南岸は岸から離れて奥に進めば進むほど、街の様子は貧しさが増していく。低所得者層向けのカウンシルハウスの大きな団地が次々と現れる。英語以外の言葉を頻繁に耳にするようになる。西インド諸島からの濃い褐色の肌の人々が集まって住むブリクストンも南岸だ。ここは一時「行ってはいけない街」の代表だった。物見高い私がケンジントンでタクシーに「ブリクストンへ」と言ったら、2台続けて乗車拒否された。ようやく乗せてくれた3台目の運転手は、「ブリクストンで間違いないんだね。危ないところだよ。用事が済むまで建物の前で待つよ。帰りのタクシーなんて、あそこじゃ絶対捕まらないから」と心配してくれた。今はもう安全になったけれど、テムズ南岸の奥というのは、長らくそういうイメージでロンドンの人々の心に刻まれていた一帯なのだ。そこに連なる一角にある幼稚園に、王子が通う。新しい流れだ。
inspireD
古くから福島の商都として栄えた郡山。明治時代には猪苗代湖から127kmもの水路を引いた「安積疎水(あさかそすい)」が築かれ、安積原野と呼ばれた荒地は、広大な田畑へと変わりました。この豊かな地で庭屋として活躍する、新肇(あたらし・はじめ)さんの一日を追いました。
麗山公園
郡山市の中心部「麗山公園」に隣接する滝田三良法律事務所に、庭屋・新肇さんの代表作となる庭があります。ここを作庭したのは、ちょうど東日本大震災(2011年3月11日)のころ。幸い工事中の石積みは崩れませんでしたが、震災で様々な工事が中断されます。そうした混乱のなか「今だからこそ庭づくりを続けて欲しい」というクライアントの声に後押しされ、新さんは作庭を続けます。
庭の塀は、新さんが震災直後に立てたもの。震災後の原発事故など街の混乱が続くなか、地震で崩れた土蔵の瓦などをかき集め、夢中になって積み重ねたことを覚えているそうです。
大きな石で組まれた山道を登っていくと、猪苗代湖をイメージした情景。庭の中心に置かれた水鉢は、安積疎水が、大地へと注いでいく景色を表現しているようです。豊かな緑は、夏の強い日射からオフィスを守っています。
桜の名所として知られる川岸に立つ個人邸の庭は、この春に完成しました。通りからは見えにくい家の裏側にあり、花崗岩の石垣と花々に囲まれた景色は、まるで「秘密の花園」。子どもたちは学校から帰ると、まずこの庭で遊んでから家に入ってくるそうです。実はこの庭は、あまり利用されていなかった浄化槽のある場所を上手にデザインして活用しています。
オーナーのご好意で庭の一画をお借りし、創苑の新肇さん(左)と、熊田造園の熊田一実さん(右)に、2011年東日本大震災以降の造園のあゆみを伺いました。ニュースでも報道されたように、2011年3月15日、郡山市には福島第一原発2号機からの放射性雲が飛来し、夜半の雨により土壌に落下しました。市は子どもの多い学校や公共施設から放射性物質の「除染」を始め、今年3月、6年をかけた除染作業をほぼ終了しました(道路や農地などは継続中)。熊田一実さんは震災直後、住宅の除染方法を探る研究チームに参加していたそうです。その中で、庭木を剪定したり樹皮を削ったり、表土や芝を剥がしたり、雨樋の落ち葉を清掃することが放射線量を下げるのに有効と分かり、その作業に適した造園業者が中心となり、除染を進めることになりました。「当時は表土や芝生から高い放射線量が測定され、土や緑が悪者のようにいわれましたが、考えてみれば、緑が放射性物質を吸着することで、地盤に浸透することを防ぎ、除染作業を合理的に進められたともいえます」と熊田さん。一方、新さんは、子どもたちの安全を一日も早く取り戻したいと除染作業に参加しますが、やがて庭づくりの仕事に戻っていきました。除染作業に巨額の予算がつき「除染バブル」ともいえる好景気に湧くなかで県外からの作業員も入り、県のルールに従いながらも、庭木を無造作に切ったり、乱暴に土を入れ替えたり、ぞんざいな仕事が目立つようになりました。新さんは、庭を壊すような作業を続けていては、庭づくりの仕事に戻れなくなると危機感をもちます。「震災直後は復興のことで手一杯で、この先、庭づくりを依頼されることもないと思い本気で転職も考えました。でも、震災前から計画中だった庭のクライアントから早く庭を作って欲しいという連絡をもらい、前向きに庭を作りたいという希望に応えなければと思いました」と新さん。熊田さんは、「除染によって放射線量は下がったけれど、大切なものまで剥ぎ取ってしまったのではないか。木々や土が捨てられ、悪者扱いされた。そうした中、桜の巨木を巡って元気をもらったという人もいて、木々から受ける精神的な効果を実感した」といいます。「地元の石を組んだこの庭は、100年経っても壊されることはないでしょう。それだけ訴えるものがあるし、魂が込められている。物を残すだけでは無く、思いが伝わり大切に継承されていく。小さくてもそういう庭が増えれば、点と点がつながり街並みになっていく」と新さん。
石の扱いが得意な神さんは、石垣づくりを任されています。かわいらしい童子(わらしこ)など石彫の作品づくりも手掛けます。
震災後、新さんに弟子入りした神彰宏(じん・あきひろ)さん。南相馬の出身で、震災前から新さんの仕事に興味をもっていたそうです。「津波の被害をうけた南相馬市では造園の仕事もストップしてしまい、何かしたいけれど出来ないと悩んだ時に、郡山に来ないかと声をかけてもらいました。庭造りだけ考えろと親方(新さん)から言われ、救われた気がしました」と神さん。新さんは、自分を頼ってくれた神さんのためにも「庭を造らなければ」と決心したそうです。
ウッドデッキに合わせた水鉢が特徴のK邸。新さんは造園の専門誌「庭 NIWA」の取材を受けていました。
郡山の景色の一部となった除染廃棄物の保管容器。除染した敷地内に保管するのが原則で、地上に置くか、地中に埋めるかを選択できます。いずれ双葉町か大熊町に設置される中間貯蔵施設に運ばれる予定ですが、その目処はたっていません。郡山市では、今も数千人が全国各地に自主避難しているといわれます。福島第一原発から40km以上離れた郡山には公的補助はほとんどなく、その一方、双葉町や大熊町など帰還困難区域から移住する方が増え、一戸建てが立てられています。
▼福島県三春町にある葛尾(かつらお)村の応急仮設住宅。葛尾村は避難指示の解除が進み、仮設住宅に暮らす方も減っていますが、村に帰還できた村民はまだ少ないようです。
新さんの作庭感に大きな影響を与えた「蓮笑庵」(れんしょうあん)は、福島県田村市船引町の静かな山里にあります。
渡辺俊明さん自ら設計をすすめ、泥の中から咲く蓮の花を
象徴して「蓮笑庵」と名付けられたそうです。
んは平成 17年68歳で亡くなりますが、その遺志は奥様の仁子さんや家族、そして蓮笑庵に関わる人達に引き継がれ、草木の剪定や雑草の整理ひとつにも、10年前と変わらない感性が隅々にまで張り巡らされているようです。
新さんと蓮笑庵の出会いは東日本大震災の少し前。自然の中に佇む姿に感動し、庭の管理を自発的に続けています。「庭屋では無くて土地が作る庭。自然の力を感じとり、木が生えたい場所、石が在りたい場所に置いていくことを手助けするのが私の仕事。その土地に合った庭が増えれば皆が大切にしてくれて、次の世代につながっていく」と新さん。
「万菜」の中庭は、俊明さんが運命的に出会った石灯籠のために設えられました。庭木には力強いモミジが選ばれ「太すぎるのでは」と感じた仁子さんでしたが、「目の前に見えるところだけで無く、全体を見なさい」と俊明さんに言われたそうです。
新さんは蓮笑庵主催のプロジェクトで、仲間達とコツコツ古民家を再生中です。
「泥をベースにして、みんなが綺麗な花を楽しめる。その泥が悪者にされていることが寂しい。数千年もその土地で生かされてきて、たかが数日のことで土は本当に死んでしまうのか。泥や土に親しんできた庭屋が土を信じられなくてどうするのか、それが震災以降ずっと気持ちの中にある」と新さんは語ってくれました。
小林 清泰アーキテクチュアルデザイナー ケノス代表
「オンカロ」放射能 100,000年後の安全
地層処分の「科学的特性マップ」発表によせて
「オンカロ」とはフィンランド語で「穴、洞窟」を意味します。それは首都ヘルシンキの西約 250kmの島にある核廃棄物貯蔵と最終処分場の施設の呼び名です。「来ては行けない所」(隠された場所)の意味でもあります。
2010年に 1本のドキュメンタリー映画がデンマーク人のマイケル・マドセン監督によって作られました。邦題『100,000年後の安全』、原題『Into Etern ity』で、私は 2011年 4月に渋谷宇田川町のミニシアター「アップリンク」でこの映画(ヨーロッパの多くの映画祭でグランプリを受賞)を観ました。本来は 2011年秋公開予定だったそうですが、東日本大震災で冷却機能を失い放射能を拡散させて、世界中を震撼させる原発事故が起ったため緊急公開に至ったものです。
オンカロは首都ヘルシンキの西約 250km。オルキルオト原発の近くにある。
「オンカロ」計画は国中の地殻を調査し、実に 18億年間動いていない岩盤を見つけて、そこに 500mの深さで穴を掘り、数キロ平方の広さを持つ地下都市的なトンネル空間を穿ち、今まで及び今後国内で発生する核のゴミ(Nuclear Waste、ヌックレアウエイスト)である高レベル放射能廃棄物及び低レベル放射能廃棄物を 100年掛けて貯蔵し、2,120年に完全に封じ込め、それらを何と100,000年間に渡り、維持しようとする世界初の施設です。フィンランドの政治家・官僚の政治姿勢や問題意識がうらやましいほど高いですね。国民は大きな信頼を寄せています。小泉元首相が原発ゼロを説き始めたのも、この映画を観て大きな関心を抱き、現地を訪れ全貌を理解したことからでしょう。
特に高レベル放射性廃棄物の放射能は、発電に必要な天然ウラン鉱石のもつ放射能の 20,000. 30,000倍にもなります。燃料の製造直後の放射線量は、20秒弱浴びると人間は 100%死に至るといわれています。比較的早期に減衰する放射性物質でも1千年、ウラン鉱石の放射能に戻るのに数万年を要します。ちなみにプルトニウムは 24,000年です。それ以外の様々な放射線類はもっと気が遠くなるような時間を要してゆっくり減衰してゆきます。現代人によって捨てられた核のゴミが、未来の人々に危害を与えない為にも100,000年貯蔵が必要という根拠は、ここにあります。
原子力発電所では火力発電所や水力発電所と違い、発電をす
れば必ず「放射性廃棄物」が発生します。核のゴミ(Nuc lear
Wasteヌックレアウエイスト)が出るのです。この事は原子力
の専門家であれば誰でも常識以前のことでしょう。世界の多く
の国々が分かっていながら原子力発電所を作り続けているので
す。
そしてこの危険な放射性廃棄物はいつか何らかの方法で、必ず
処分しなければなりません。映画の中で処分アイデアが話され
ていました。例えば
◯放射能廃棄物をロケットに積んで太陽に打ち込む(打ち上げ時にロケットが故障爆発したら地球は大変な事にな
る)
◯ 厳重な格納容器に入れて海洋投棄する(生物発生の母なる海で、もし放射能が漏れだした時の海洋汚
オンカロの構造図。
オンカロの入口。
オンカロの坑内。
染の深刻さは途轍もないものになる)等です。その中で一番確実、安全であろう方法が選択されました。それが「地層処分」です。地上の施設は沢山の自然的、人為的原因で不安定極まりなく、100,000年(1,000世紀分の時間)にもわたる長期間の安定はどう考えても見込めません。世界戦争や大地震、火山の噴火、大洪水等が必ず起ります。「オンカロ」に携わる学者たちは 6万年後に氷河期が来て、周辺はツンドラ地帯になると予測しています。たとえ氷河期が来ても巨大な岩盤の奥底 500mなら、氷河によって地表が大きく削られても貯蔵施設は安全が確保されると計算したのです。そして遥か未来には人々の記憶から、この施設が存在する事さえ忘れ去られると考えています。いまから100,000年前、ヨーロッパではネアンデルタール人が暮らしていました。これからの100,000年後はどんな文明、文化、文字を持つ人々が暮らすのでしょうか。その人々ははたして現代の文字を解読する事が出来るのでしょうか。数十年先位は何となく予想できそうですが、1,000世紀先のことは予想不可能です。
先月 7月 28日(金)に経済産業省 資源エネルギー庁から地層処分場に関する「科学的特性マップ」が発表されました。これは数十年かけて高レベル放射性廃棄物類の最終処分地を決めるのに向けて、広く国民が考え、事の重大さを理解して、コンセンサスを作り上げるための第一歩です。
「オンカロ」プロジェクトが大きなヒントであろうと思いますが、内外を問わず、多くの専門家が出したアイデアの中で、地下 300メートル以上の深さに埋める「地層処分」が一番安定的で安全であろうとして、平成 27年 5月に従来の政策を見直し、新たな基本政策が決定されました。その結果として公開されたのが、今回の「科学的特性マップ」です。地層処分に関する地域の科学的特性を、従来からある全国データに基づき、一定の要件・基準に従って客観的に整理して、全国地図の形で示されたものです。
地図上では「好ましくない要件・基準」の地域と「好ましい要件・基準」の地域が色分けされています。好ましくない要件・基準には「火山」や「活断層」の近く、「隆起・浸食が大きい範囲」などがあり、イエローオレンジで塗られています。もう一つの要素としては、「油田、ガス田、炭田等がある範囲がシルバー色になっています。上記のいずれにも該当せず
「好ましい特性が確認できる可能性が相対的に高い所」が、薄いグリーン色の地域です。その中でも特に「海岸からの距離が短い範囲」が輸送面でも好ましいとされ、濃いグリーンに色分けされています。グリーン色の範囲は国土の3分の 1を占めており、国民一人一人が身近な問題として考えてもらいたいという意図がうかがえます。国としてはこのマップを活用して全国各地で説明会を行い、国民・地域の声を聞きながらさらなる取り組みを目指すのでしょう。国と「原子力発電環境整備機構(NUMO)」(ニューモ:Nuclear Waste Management Organ ization ofJapan)は、2040年頃に「オンカロ」のような施設を国内のしかるべき所へ作る予定のようです(NUMOの日本語名と英語名の違いが少し気になります)。
我々は潤沢な電気エネルギーを使って、便利で快適な暮らしを享受しています。ですから原子力発電所から必ず発生する「放射性廃棄物」の国内処分を考え、将来の世代に負担を先送りしないよう、我々の責任で処理・処分する必要があります。それを「不確実な未来」へ向けて、確実に実行しなければならないのです。 ■
雨の中、塩狩峠を越える自衛隊の 87式偵察警戒車。偵察用オートバイが先行していました。
北へ(和寒町、剣淵町、士別市)
和寒町の塩狩峠(しおかりとうげ)は天塩国と石狩国の境界にあり、水系をわける重要な峠です。「塩狩峠記念館」は、小説家・三浦綾子さんの旧宅(旭川市豊岡)を移築したもので、代表作『塩狩峠』にちなんでこの地にひらかれました。峠道から少し入った美しい森のなかに立ち、近くには宗谷本線の塩狩駅があります。
1959年旭川営林局の三浦光世さんと結婚した三浦綾子さん。夫妻は営林局から借りた 50万円を元手に、旭川市豊岡に一軒家を新築します。夫妻と同じくクリスチャンの鈴木新吉棟梁が採算度外視で立ててくれたのです。ファサードに張られた看板は、綾子さんが 1階で雑貨店を開いていた名残りです。やがて朝日新聞の懸賞小説(賞金1000万円)を知った綾子さんは、雑貨店を10時に閉めたあと、2階の寝室で深夜まで小説を書き始めます。それが一位入選作となった『氷点』でした。その後に『ひつじが丘』、『積木の箱』、『塩狩峠』、『道ありき』、『この土の器をも』などの名作がこの 2階で生まれました。
絵本館に触発された俳優・大地康雄さんが企画し、剣淵町で撮られた映画「じんじん」のポスターが飾られていました。
豊かな農産物の町・剣淵町で「絵本の里」構想がスタートしたのは1988年のこと。「けんぶち絵本の里を創ろう会」が設立され、絵本の原画展が開かれるようになります。1991年には町役場の一部を利用して「絵本の館」を開設。そして2004年、現在の新館がオープンしました。ぐるっと1周できる靴脱空間で、どこにでも座って絵本を読めます。卵のような形の建物の中は、木の玉約 10万個が入った「木の砂場」。親子一緒に遊べます。絵本の蔵書は 3万 6千冊。毎年夏には、来館者の投票によって選ばれる絵本コンテスト「けんぶち絵本の里大賞」が開催されています。
サフォーク羊の町士別
旭川から北へ約 50km。車で 50分ほどの士別市は、主に高級な肉用とされ羊「サフォーク」の生産で知られています。「羊と雲の丘」の観光牧場には、約 100頭のサフォーク羊が放牧され、牧場のなかで直接ふれあえます。士別は、村上春樹「羊をめぐる冒険」の舞台のひとつとも言われています。北海道に羊がやってきたのは明治 7年の頃。開拓使の青山官園(東京・赤坂の辺り)から七飯官園(函館の近く)へ、サウスダウン種 48頭が送られたと伝えられています。羊毛は軍服のコートなどに使われる大切な物資で、大正時代になると戦争の影響で高騰し羊毛生産ブームが訪れます。士別町では大正 15年頃から本格的に飼育され、昭和に入ると高品質なホームスパン(自家製の毛織物)で知られるようになります。昭和 40年代にはオーストラリアからサフォーク種が導入され、いまも羊を基盤とした町おこしが進められています。
「世界のめん羊館」では、世界からやってきた 30種類ほどの羊にふれられます。上は北海道に初めて導入された羊サウスダウン種。英国を代表する種で、手触りの柔らかい羊毛と良質の肉を兼ね備え、数百年前から飼育されています。
▼ 作品づくりは手紡ぎからスタートします。
昭和 58年に結成された手紡ぎサークル「くるるん会」は、士別産の羊毛を手で紡ぎ、様々な製品を開発してきました。発足当初から参加する辰巳美恵さんは、ひつじ年生まれ。毛織物は時間と手間が掛かりますが羊の毛を触るだけで幸せな気持ちになるそうです。自然の色を活かした草木染めや無着色の毛を使うことも。「世界のめん羊館」内の工房には、30分で出来るフェルティングニードルから、数日かけて作るホームスパンまで、様々な体験コースが用意されています。士別に初めて羊が導入された川西の丘にある「しずお農場」。畜産業の活性化を目的に、地元の建設会社が立ち上げた267ヘクタールの農地で、サフォーク羊やヤギを飼い、フルーツトマトやピート(砂糖大根)などもつくっています。丘の上のレストラン「ミュー」ではボリュームのある羊肉や鶏肉料理のほか、羊骨で出汁をとった珍しいラーメンも味わえます。
美しい丘陵といえば美瑛や富良野が人気ですが、士別の丘陵地帯は観光客も少なく穴場スポットです。
ドラゴンシリーズ 38
ドラゴンへの道編吉田龍太郎( TIME & STYLE )
広島と長崎、そして日本は。
35
14
万人の内、
1945年8月6日午前8時
15
分、アメリカの 29戦闘
B
爆撃機『エノラ・ゲイ』が広島の上空に現れ、原子爆弾『リトルボーイ』が広島市内の中心に位置する相生橋を目標として投下されました。エノラ・ゲイから投下された全長3・1
メートル、直径
75
センチ、重量5トンの原子爆弾リトルボー
イはゆっくりと広島の中心部に向かって落下して行き、地上600メートルの空中で炸裂しました。これが人類史上初めて実戦で使用された原子爆弾なのです。当時、広島の人口約
万人の人々が死亡したとされています。そして、
広島の原爆投下によって約 56万人が被爆したと言われます。
広島への原爆投下の3日後、1945年8月9日午前
B
2分、 29戦闘爆撃機『ボックスカー』は北九州の小倉に
原子爆弾を投下するために向かっていました。しかし、小倉は前日の空爆による煙が残っており、また朝霞によって空からの視界は良くありませんでした。この時、地上では数日前に広島に投下された新型爆弾を警戒していて、アメリカの飛行機が小倉に向かっていると聞いた八幡製鐵所の従業員が地上でコールタールを燃やし、煙幕を張った
B
と証言しています。その間に 29爆撃戦闘機のボックスカ
ーは、原爆投下のため、
3
度、小倉上空の飛行を繰り返しま
したが失敗に終わり、燃料も少なくなると同時に燃料系統に異常が発生したために予備燃料に切り替えました。地上から高射砲の攻撃も激しくなり、零戦など日本軍の飛行機が緊急発進してきため、原子爆弾の投下目標を第一目標の小倉から第二目標の長崎に変更したのです。
投下目標を長崎に変更したボックスカーですが、長崎上空
に飛来した時には
80
パーセント以上が積雲に覆われていまし
た。レーダーでの原爆投下に切り替えた瞬間に雲の切れ目から長崎市街が見え、直ちに手動操作に切り替えて、高度9000メートルから原子爆弾『ファットマン』を投下したのです。
11
時
ファットマンは市の中心地から北に3キロメートル離れたテニスコートの上空503メートルで炸裂しました。
広島に投下された原子爆弾が人類で初めて実戦で使われた原子爆弾であり、長崎に投下された原子爆弾は人類で最後に使われた原子爆弾なのです。
24
当時の長崎の人口 万人のうち、7万4千人が死亡したと言われています。
20
1945年、第二次世界大戦は終焉を迎えており、日本軍の敗北は決定
的でした。その時に広島に原子爆弾が投下され、その3日後に長崎に原子爆弾が投下されました。人類で初めて実戦で使われた原子爆弾によって広島では約 万人の人々が、長崎では7万4千人の人々が亡くなりました。また、原子爆弾投下の
14
5年後の犠牲者は広島では 万人、長崎では 万人に増えたと言われています。
いま日本では、北朝鮮のミサイルによる原14子爆弾への脅威が人々のあいだに広がっています。同時にアメリカ大統領の暴言により、緊張感や戦争の危機への懸念も広がっています。
しかし、私達の懸念する最も大きな危機は、私達の足元である日本国民の意識の中に存在していると強く感じます。日本は原子爆弾の唯一の被爆国であり、世界中の人々に原子爆弾が引き起こす被爆者の悲惨さと無差別に大量殺戮する兵器としての危険性を伝える義務を背負っています。それが、1945年8月に広島と長崎で被爆した人々の無念さと悲しみに報いるために私達が負っている責任だと確信します。しかし、日本人は多くの被爆者への責任を放棄したかのように、大切な法律を変え、戦争のできる国となってしまいました。そして、これから私達の宝である憲法第9条を変えることに賛同しようとしている人も沢山います。
抑止力という言葉を使う人々が多く存在します。世界の本当の情勢を全く知らない人々です。抑止力は幻想です。一度の単純な失敗やプロパガンダから戦争は始まり、憎しみの連鎖によって際限なく続いてきたのが戦争の現実です。
広島の空、長崎の空の下で絶望した多くの方々の無念。また、同じ過ちが起こるかもしれません。
士別市公会堂士別市立博物館
士別市立博物館に移設された「士別公会堂」は、大正 4年に立てられた士別のシンボル的な建物。士別は実業団陸上の合宿の里としても有名で、ランニングコースが整備されています。
北海道の開拓時代を支えた屯田兵。士別には最北・最後の屯田兵として明治32年に100人の家族が入植しました。士別市公会堂の向かいに、当時の屯田兵舎が復元されています。出入り口には土間があり、囲炉裏のある板の間(ミセ)の奥には6畳と4畳半、押入れがありました。天井板や断熱材がなく板の間のため、アイヌ民族の暮らしたチセよりも寒かったといわれます。
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