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時空を超える美意識
11月号 秋十夜 2017
http://collaj.jp/
琵琶湖ぐるるん 湖東から湖西へ
ことうヘムスロイド村は、安土城から東に10kmほどの田園にある、工芸作家の活動拠点です。25年ほど前に、湖東町(現・東近江市)の施設として誕生し、姉妹都市スウェーデン・レトビック市にちなみ、スウェーデン語で手工芸をさす「ヘムスロイド」と名付けられました。今回お訪ねしたガラス作家・東 敬恭(ユキヤス)さんのガラス工房「Azzurro」のほか、石倉 創・康夫さんの金属工房 「鍛・FORGE・WORKS」、竹口 要さんの陶芸工房「-utsuwa kobako-」、西川 礼華さんの日本画工房「le ciel pluvieux」、田中 智章さんの木工房「tanaka wooden works」などが美しい森のなかに点在しています。
▼右側:半年ほどかけて耐火レンガやモルタルで自作したガラスの釜。左側:排熱を利用した徐冷炉。ガラス作品は急冷されると割れてしまうので、500℃に熱した徐冷炉に入れ一晩かけて冷やします。
岐阜市の出身の東さんは、陶磁器のデザインがしたいと瀬戸の陶器メーカーに就職。その新規事業立ち上げで出会ったのがガラスでした。ガラス製品のデザインと工場での手吹きガラスづくりを経験した東さんは、いつしか自分のガラス作品を作りたいと、SUWAガラスの里(長野)や作家のワークショップなどで様々な技法に触れ、20年ほど前に工房を立ち上げました。
陶器製のルツボ。ヒビが入る前に交換します。
普段、炉の中は真っ赤になって覗けませんが、年に1回の交換のため冷却されていました。Azzurroでは、ガスボンベを14本も使い炉内を約1000℃に保ち続けています。ガラスの炉の維持には大変な燃料費がかかります。東さんは「吹きガラス」の技法を応用し、様々な作品づくりに挑戦しています。東さんが編み出した耐火レンガを使った「型吹き」製法は、レンガを希望のサイズや形状に組み合わせ、それを型にしてガラスを吹くことで四角いボトルなどが出来ます。通常は金属などの型を使いますが、より自在な形を作れるそうです。工房に民朗(たみお)くんと理沙子夫人がやって来ました。理沙子夫人はテキスタイルデザイナーで、岐阜市でひらかれた東さんの展覧会で知り合ったそうです。
工房の隣にはギャラリーが併設されています。「同じデザインのものでも、微妙に異なるのがガラスの魅力」と東さん。金属加工の経験もあり、ガラスと金属を組み合わせたオブジェや照明器具なども特注で制作できるそうです。
▼ガラスに色をつける際は、カラーガラスの棒(ドイツ製など)を溶かし、透明なガラスを巻き込んで層にしていくそうです。
琵琶湖の東「湖東」の自然風景と家族の記憶が、東さんのガラス器の中に封じ込められているようです。
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早まって見える。2017年
歳。僕はこの自分の年齢に、静かに感動を覚えている。 ンを辞め、会社を立ち上げた。道端に落ちている小さな希望を一つ一つ拾い集めながら前に進んだ。イヤホンからはデビッドボウイのスターマン、右手にはジョ
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ンアーヴィングのホテルニューハンプシャー。後ろには仲間たちがいた。怖いことなんてなに一つなかった。好きな食べ物は豚肉とカツカレーとラーメン。野菜
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とか果物は一切口にしない。ほぼ毎日海でサーフィンをしてクタクタになったまま店を開いた。
夢は二つあった。家具で世界一になることと、小説家になってたくさんの人に影響を与えること。これは大学時代から変わらない。小説は 歳になっても書けるから、今は家具を中心に頑張ろうと思っていた。もし、あの時ギターが弾けたらロックバンドを目指して作曲でもしていたかもしれない。そんな 歳だった。そもそも僕はとても不器用だ。 代の頃から、小説、家具、ロック、サーフィン。これらにしか興味がなかった。それだけあれば十分だと思っていた。その中で、家具を仕事として選んだ。それは打算だったのかもしれない。
家具の仕事は楽しかった。たぶん性に合っていたのだろう。僕らの仕事は連戦連勝で、どんどん事業規模は大きくなっていった。今は全国に決して少なくない量のお店と事業所を持つに至っている。これを成功と言うのだろう。たぶん一般的には。
しかし、それと引き換え無くしたもの。それももちろんある。それについては、今はまだ書けない。それらを思うとジクジクと、いまだ心が、痛む。いずれなんらかの形で書けるようにもなるだろうが今はまだ無理だ。
世のつねのためしのまにまに
顔をあげる。ウインドウ越しに仲間の顔が見えた。会計をして外に出る。伊勢丹の催事がどうとか、 周年の段取りがどうとか。そんないつもの会話に何気なくうなづきながら、僕は高い空を見上げる。神様がしずしずと渡る様子を想い、道の先を見つめた。
幸・不幸はこの先にも、きっとあまた、あるだろう。でも本当は何も変わらない。小説、家具、ロック、サーフィン、豚肉、カツカレー、ラーメン。僕の人生は、きっとこの先も。
僕らのリズム
滋賀県麻織物工業協同組合が運営する「近江上布伝統産業会館」
(愛荘町)は、伝統的な近江上布の制作現場や、麻織物を使った様々な製品の展示・販売を行っています。江戸時代中頃に木綿が普及するまでは、一般的な衣料には麻織物が使われていました。その中でも最高級な麻織物が、彦根藩から幕府への献上品となっていました。
滋賀県の湖東地域では、室町時代から麻織物の生産が盛んでした。特に江戸時代には良質な「高宮布」の産地として知られるようになり、近江商人によって全国へ流通していきました。中山道の大きな宿場町で、麻織物の集積地でもあった「高宮」には、近江商人の商家が立ち並んでいました。その屋敷や蔵の一部は、現在も残されています。明治になると生産拠点は現在の東近江市や愛荘町に移っていき、昭和 52年には「近江上布」が伝統的工芸品に指定されました。1反の麻織物には 800g〜1kgの糸が必要ですが、手績み糸は1日10gくらいしかできないため、糸づくりだけで数カ月かかります。
日本では麻織物の原料として大麻(おおあさ)と苧麻(ちょま)を利用しましたが、近江上布の生平(きびら)は大麻を使うのが特徴で、ヨコ糸には手績み糸(てうみいと)を用い、伝統的な地機(じばた)で織られています。伝統工芸士・南和美さんが、ヨコ糸の手績みをしていました。大麻の繊維を手で細く裂き、結び目を作らずに一本づつ繋いでいく手間と時間のかかる作業です。▲ 織っている途中に、タテ糸を交換できるのも地機の特徴です。▼タテ糸を取り付けた帯を腰に巻いてから織りはじめます。
地機は腰機(こしばた)とも呼ばれる古来からの織機で、実演を見られる場所は限られています。低い位置に座り、腰に回した帯でタテ糸を引っ張りながら織るため、織機と糸、織り手の一体感があり、個人差も出やすいそうです。腰で引っ張る力加減によって、生地には波打つような風合いがでます。
近江上布 生平の半幅帯。
ヨコ糸を通す杼(ひ)は通常より大きなものを使い、ヨコ糸を打つ役割も兼ねています。タテ糸を上に引っ張る「綜絖(そうこう)」には、ループ状のかけ糸が使われます。
近江上布の発展を後押ししたのは、琵琶湖に流れ込む豊かな水の恵みでした。織られた布を仕上げる「整理工場」は、洗いなどの工程に良質な水が大量に必要です。琵琶湖周辺の山々に降った雨は伏流水となり、湧き水となって織物産業を支えてきました。絣を織る際は高機(たかばた)をつかい、柄と一緒に捺染された「耳」という目印を手で合わせながら織っていきます。手作業による目印の微妙なズレが、絣の表情を作り出していくそうです。
近江上布の「絣」(かすり)は苧麻の紡績糸を用い、染色には伝統技法である櫛押し捺染(くしおしなせん)と型紙捺染を使います。櫛押し捺染は櫛に似た道具で捺染する技法で、型紙捺染は羽根という道具を使うことから羽根巻捺染ともいい、ともに近江独自の技法といわれます。上は型紙捺染(羽根巻捺染)の例で、織り幅に合わせた枠にヨコ糸を均一に巻き上げ、それに型紙を当てて表と裏を捺染します。
第2信川津陽子メサゴ・メッセフランクフルトまちてん実行委員会
ヨーコのまちてん旅日記
ライトアップされた白波に、耳に心地よく入ってくるミュージック。日没後のメローな空気感のなか、まさに何
10月初旬の三連休の週末。逗子を訪ねました。
神奈川県・逗子
時間でも見続けていたいと感じるのでした。
ブルーの光の波をより一層、気持ちよく堪能できたのは会場の雰囲気もあったように思います。
▲逗子海岸で開催された「NIGHT WAVE 光の波プロジェクト in ZUSHI」。
逗子駅で下車して逗子海岸までの道。空のいろ、肌に触れる空気の質感、風のにおい……すべてが完璧に用意されたかのような、日の入り直後のものすごい心地よさに心が躍りました。一年のなかでも滅多に遭遇しませんが、そんな日ってありますよね?
逗子海岸中央入口トンネルを抜けると、目の前にはブル
ーの光の波。
海は青いと言いますが、そこには、いわゆる海岸という概念からかけ離れた、幻想の世界が広がっていました。「NIGHT WAVE 光の波プロジェクト in ZUSHI」です。
▲ 光の波を待つ人たち。www.night-wave.com
ちょっとした風向きや風力の違いで顔を変える白波を前に、プロ並みのカメラを三脚に固定して今か今かとシャッターチャンスを待ち受ける人たち、主催者が用意したブルーシートに腰掛け、寄り添いながらその瞬間を楽しむカップルたち、同会場で催されていた「光のお絵かきコラボレーション」で自分の作品とのショットに満面の笑みを浮かべる親子たち。規制線なるものは無くとも、我が先にと飛び出す人はいません。各々が思いおもいに、夏の終わりから秋へ向かうこの一時を楽しんでいる、楽しみ方をわかっている上級者のように見えました。もうひとつ感銘を受けたのがこのイベントを支えるボランティアの人たちです。絶え間なく続く来訪者からのスマホでの撮影リクエストに対して、一人ひとりに丁寧に笑顔で応えられていたのが印象的です。今夜のこの風景を、この時間をどうか忘れずに、しっかりお持ち帰りください、といわんばかりのおもてなしを感じました。ボランティアには地元の方が半分、そして関東学院大学の生徒さんたちも参加されていたそうです。
2015年から始まったこのイベント。総合演出・プロデュースを手掛けられている一般財団法人プロジェクションマッピング協会の代表である石多未知行さんによれば、「逗子の海をもっと違った形で活かしたい」という地元クリエイターたちの熱い想いが始まりのきっかけだったそうです。石多さんご自身も現在は逗子市の海岸エリアにお住まいとのこと。
「海」と言えば、真夏の太陽ギラギラの下で盛り上がるイメージが先行しますが、閑散となりがちな夜の海、夏の行楽シーズン以外にも人々が集えるイベントを、と市長に相談を持ちかけ「NIGHT WAVE 光の波プロジェクト in ZUSHI」は始まったそうです。通常、地域イベントの主たる開催目的として、外からの来訪者を増やすことが挙げられると思いますが、このイベン
▲海岸に続くトンネルもライトアップ。期待感が増します。
▲ まるで世界にひとつだけの海。「NIGHT WAVE 光の水族館〜光のお絵かきコラボレーション〜」。
トでは、まず地元の住民に招待状が届いたそうです。
「海からの招待状」。なんだかワクワクする、受け取ったら嬉しいですよね。地域イベントの発展には、まずは地元の人々に支持される、愛されるイベントであることが重要であると石多さんは仰います。それが自ずと「他人ゴト」から「自分ゴト」に繋がっていくのでしょうか。今では、エンターテイナー側として手を挙げてくれる住民、SNSを通じて自らこのイベントを発信してくれる住民が増え、結果来場者数も初回と比較して約 2.5倍にも伸びたそうです。地域の資源を慈しむ共通の想いをもとに、地元の住民と行政が一体となった取り組み事例としても、この青い光の波はとても心に残るイベントでした。
このイベントの照明をデザインしたTokyo Lighting Designの矢野 大輔さんは、12月 8日からの『まちてん』のステージ照明も担当されています。ライティングの力はすごいです。
地方創生まちづくりフォーラム『まちてん』 12月 8日(金)10:00-18:10+オープニングトーク 9:30.
9:30−18:00(土)日9月12、)15:9開場10:00 (
渋谷ヒカリエ 9階 ヒカリエホール(渋谷駅東口) http://machiten.com
織田信長最後の城となった「安土城」は、琵琶湖の東側に位置し、近江八幡からも近い場所にあります。現在は四方を陸地に囲まれていますが、琵琶湖の内湖に面した湖上の城でした。安土は信長の本拠地だった岐阜城よりも京都に近く、琵琶湖の水運を使えば半日足らずで都に着け、東国へ向かう陸路と、北陸へ向かう水路の両方をおさえられる絶好の立地でした。天正 4年(1576)から建造が進められ、3年後には天守も完成しますが、天正 10年、本能寺の変による信長の死によって天守は焼け落ち、残った建物は城下町ごと近江八幡に移されます。長年、謎の城とされてきましたが平成元年から20年におよぶ発掘調査が行われ、全容が明らかになってきました。
日本の県庁所在地には、大阪や名古屋、東京、仙台など城下町が多くありますが、その形態を確立したのは織田信長といわれています。従来の城は闘いのための砦で、交通の不便な険しい山上にありました。しかし那古野城、清洲城、小牧山城、岐阜城、安土城と移っていった信長の城は交通の要衝にあり、その城下町は商業都市として発展していきます。近江は古くから商業の盛んな地で「白村江の戦」で百済から亡命者が移住したこともあり、陶器や絹織物、麻織物が発展し、南北朝時代には10カ所以上の市が立っていました。安土城着工の翌年には城下町の建設がはじまり「楽市楽座」が設けられました。ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは、当時を記録した「日本史」のなかで、安土城下の清潔さに感心しています。安土から京都にいたる広い弾丸道路は常に人で溢れ、毎日 2、3回は清掃されて、道の両側には樹木が植えられ木陰があり、一定間隔で茶店が設けられ、夜でも安全が保障されていました。
瀬戸、美濃といった瀬戸物の産地に生まれた信長は、千利休とのコラボレーションのよって、茶の湯の価値観を武家にひろめました。戦国時代も終わりに近づくと、配下の武将たちに与えられる領地も少なくなっていきます。そこで信長は渡来ものの陶磁器や歴史的な名物に大きな価値をつけ、手柄を立てた家来に対して茶器や茶会の開催権を与えました。こうした価値観の転換は、安土城にも見られます。有名なのは大手道の石段に使われた「お地蔵さま」です。石材の不足というよりも、あえて地蔵を使うことで、大きな権益をもっていた仏教勢力に挑戦したと考えられています。小大名から急成長した信長を支えたのは、城下町から得られる巨額の資金だったという説もあります。プロの軍隊を常設する「兵農分離 」や 最新鋭の鉄砲を大量に使うためには、多額の費用がかかります。信長は軍事力よりも、経済力で敵を圧倒した武将ともいえるのです。
穴太衆の石垣は、加工しない自然石の「野面積」が特長で、一見ラフに見えるものの、整形された石垣よりも堅牢にできています。土が水でふくれると石垣はゆるくなりますが、奥にクリ石層を設けるなど、排水をよくする工夫が施されています。石を積む前に、職人は 2日ほどかけて石の性格を覚え、頭の中に絵を描きながら配置を決めるそうです。安土城で有名になった穴太衆は全国の城の石垣を築くようになります。山頂に残るの天守台は約 24m四方で、ここに地上 6階、地下 1階の、天守閣を擁する高さ 33mの巨大な城が築城されたといわれています。石垣に天守の上がる城はこれが初めてで、天守=城というイメージは江戸時代まで引き継がれていきます。信長はこの天守で暮らしたと推測されています。
安土城に近い「安土城天主信長の館」には、1992年セビリア万国博覧会に出展された原寸大の安土城の復元天守が展示されています。建築史家・内藤昌氏の研究成果が反映され、内部には狩野永徳による仏教画も再現されています。
お触れの真偽は分かりませんが、信長は安土城を霊場にしたいと考えたようです。比叡山や高野山、石山本願寺、一向宗への弾圧を強めていた信長は、それらに代わる信仰の対象を作ろうとしたのかもしれません。
ら星ちきた
大原千晴
第 75回
ミツバチと蜂蜜と蜂蜜酒
食文化ヒストリアン英国骨董おおはら
世界中でミツバチが急速に減り始めている。最初にこの現象が人々の耳目を驚かせたのは、 2006年のアメリカだった。 年で半分近いミツバチが消滅、という驚くべき事態が全米各地の養蜂家から報告され始めたのだ。以来 年、地域により程度の差はあるものの、我が国を含めて世界中で同様の事態が進行していることが判明している。どうやら、ある種の農薬が一番の原因であるらしいと分かってきた。この事態、日本よりも欧米で、はるかに深刻に受け止められている。なぜなら、ミツバチとの付き合い方が、我が国とは比較にならないほど、長く深いからだ。
西欧で採蜜の歴史が語られる時、必ず紹介されるイラストがある。
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スペイン、ヴァレンシア近郊の洞窟内部に描かれた線刻画で、描かれた時代は今からおよそ 千年前。特に防具を身に着けず、裸体と
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思われる男がひとり、高い崖の壁面にあるミツバチの巣から蜜を採取している。男はこの採取のために崖の上から垂らした数本のロー
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プ状のツルを利用して巣に近づき、片手に持つ容器に蜜塊を入れている。男の回りには、怒ったミツバチがブンブン飛び回っている様子が描かれている。これと同様の蜜の採取がチベットでは今も行われていて、 TVでご覧になった方もいら1っしゃるはず。現実には観光ショー化されつつあるようだが、それでも、こんな形の蜂蜜の採取が現代まで継承されているというだけでも驚きだ。アフリカでも同様の採取が残っている地域があるとのこと。ロープを伝って高所に登り、蜂に刺される痛みを恐れず、恐怖と戦いながら、蜂蜜を採取する。勇敢なる男にしかできない行為で勇者の証とされてきた。
ヴァレンシアの線刻画と並んで紹介されるのが、テーベ近郊古代エジプトのネクロポリス(死者の街)内部で見つかった幾つかの線刻画だ。時代は紀元前 650年頃。こちらは、自然の巣からの蜜の採取ではなく、既に「養蜂」という段階に達している。整然と並べられた巣箱らしきものから蜜を採取している様子が描かれていて、その中の一枚には、頭に防具を被った男が描かれている。もはや「恐れを知らぬ勇敢な男の仕事」というよりも、ミツバチの管理人という雰囲気。古代エジプトでは養蜂が盛んで、オレンジ、クローバー、そして綿花など、様々な花の開花を追って、ナイル河を行き来する船で蜜蜂の巣箱を運び、移動させていたという。著名な考古学者ハワード・カーターは 1922〜 年、ルクソールにある王の谷の西側にある墳墓 KV62を発掘する。ツタンカーメン王(紀元前 1352年没)の墓だ。この時、様々な埋葬品の中に、オリーブ油とワインの入った容器が見つかっている。ワインについては、産地・生産者・容器を封印した日が記されているという徹底ぶり。ただ、中のオリーブ油もワインも、腐敗を越えて、なにやらその残滓のようなものへと姿を変えていた。このとき、粘土でしっかりと封印され、肩口に「蜜蜂」を意味する絵文字が描かれた 個の容器が見つかっている。慎重に封印を取り外すと、ふわりと甘い蜂蜜の匂いが漂ってきて、容器の中には、いまだ粘液状態を保った蜂蜜が入れられていた。それはまるで、昨日封印されたばかりの蜂蜜のようであっ
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たという。ワインやオリーブ油とは異なり、蜂蜜だけは、三千二百年の時を越えて、腐敗せず、ほぼ往時の姿を留めていたのだ。蜂蜜は、きちんと封印されていれば、超
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長期間持つ食品なのだ。その秘密は現代の化学でほぼ解明されているが、いまだに一
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部、解き明かせない部分が残されている、というのがうれしい。貴重な蜂蜜の利用は、王侯貴族の特権であったらしく、クレオパトラは蜂蜜入りのミルク風呂で肌を磨き、入浴後には、ナッツと蜂蜜を混ぜて丸めたヌガー状のお菓子を好んで食べていたとか。また薬の材料として珍重されたほかに、蜂蜜酒の原材料として、欠くことができない大切なものだった。古代エジプト人は、どうやら、かなりの酒好きであったようで、
ピラミッドの建設労働者たちには、日に数
回、ビールが配給されていた上、皆でお酒
を飲んで楽しむ祭日もあった。当然、蜂蜜
からは蜂蜜酒を作っていた。
この蜂蜜酒、ワインとビールの影に隠れ
て今では影が薄いが、人類にとって最古の
アルコール飲料と考えていい。英語でこれ
をミード( mead)と呼ぶ。ドイツ北欧
を含むゲルマン語圏では、揃って同様の呼び名で、たどっていくと、古い印欧語で「甘い飲み物」を意味する「メドゥ」という語幹に行き着く。ここからは「メチルアルコール」の「メチル」という語が生まれている。また、紫水晶を意味するアメジストという語も関連してくる。「アメジ」語頭の「ア」は「非もしくは否」を意味し、続く「メジ」は「メドゥ」。紫水晶を身に着けていれば、ミードを飲んでも酔わない効果あり、と信じられていたので、アメジストと呼ばれるようになったとのこと。
さて、蜂蜜に話を戻そう。欧州では 〜 世紀にかけて、当時先進的な文化を誇っていたイスラーム圏から砂糖がもたらされるまで、甘みの中心は蜂蜜だった。なので、中世以来近世初頭まで、貴族の館の庭の隅には、蜂蜜の巣箱が幾つか置かれているのが普通だった。蜜蝋は軟膏やワックスに。蜜は料理やお菓子の甘みに、そして蜂蜜酒に。生活には欠かせないものとして、長い間使われ続けてきた。甘みはともかく、その風味は、砂糖とは大きく異なるものであるため、伝統的なお菓子では、その使用が欠かせない。欧州諸国で、ミツバチに害を及ぼす原因である一部の農薬の使用を禁止する動きが急なのは、こうした歴史的な背景があるからだ。この農薬、米作の天敵カメムシ駆除に強力な効果があるため、ガラパゴスでは禁止できない。果たして、それでいいのだろうか。
滋賀県は琵琶湖の周囲を山地に囲まれ、県境が分水嶺とほぼ一致しているため、県内に降った雨のほとんどが伏流水や河川によって琵琶湖に注いでいます。比良山系の山々が連なる琵琶湖の西岸には太平洋高気圧の影響で大量の雪が降り、伏流水となって、ふもとの町に湧き出します。そうした町のひとつ、生水(しょうず)の郷として知られる針江を訪ねました。
針江集落の見学には、前日までの予約が必要。問い合わせは、針江生水の郷委員会 TEL:0740 -25-6566
琵琶湖北西部、高島市の針江地区は、安曇川(あどがわ)の扇状地に広がる集落で、湧き水を利用した「カバタ(川端)」で全国に知られています。公民館前の「針江生水の郷」の受付で、針江生水の郷委員会のガイド・福田千代子さんと待ち合わせました。公民館前を流れる針江大川には、清流にしか見られない梅花藻(ばいかも)が白い花を咲かせています。
針江大川は、針江の生活に欠かせない川です。町には沢山の舟着き場があり、かつては木舟に乗って漁に出かけたり、田んぼへの行き来や稲の運搬にも使われていました。舟着き場は昔、洗濯場も兼ねていて、上流で綺麗なもの、下流で汚れ物を洗うルールだったそうです。公民館脇の空き地には、針江で一番古いカバタが残され、新鮮なクレソンが生えていました。
福田さんの案内でカバタのある家を案内してもらいました。母屋の外にあり「外カバタ」と呼ばれます。針江の民家は「焼き板」を縦張りにして、柱などに赤いベンガラを塗るのが特徴です。
カバタの湧き水(生水)は四季を通じて13℃くらいで、夏は冷たく、冬は暖かく感じます。夏はスイカやキュウリ、麦茶を冷やしたり、野菜を浸けておけば新鮮なまま保存。冬の洗い物も冷たくありません。漬物にする野菜を洗ったり、調理の下ごしらえをするため、包丁やまな板、ザルなど台所用品も備えています。生水はポンプで母屋に引き込まれ、生活用水をまかないます。
針江の集落100軒以上に「カバタ」があり、深さ10〜25mに鉄管を打ち込めば、集落のどこでも自然に水が湧き(自噴水)、総量は1日4000トンにも及びます。山々の伏流水が地下水脈となって溜まり、琵琶湖からの水圧によって噴き出すと考えられています。
水路から水を引き込むのではなく、各家にとめどなく水が湧いているのが「カバタ」の特徴です。鉄管から水が湧き出している所を元池(もといけ)、綺麗な水を溜める所を壺池(つぼいけ)、コイなどを飼っている所を端池(はたいけ)といいます。各家で水の味も違うので、見学ツアーでは飲み比べも行われています。
カバタは3〜4軒が共同で利用する細い水路でつながっています。カバタの水を汚さいないよう、子どもの頃から躾けられるそうです。針江の町は元々、帆布など綿織物の産地として知られていました。昔、子どもたちが川で悪さをしていると「ガワタロウにお尻をカブられるゾ」と叱られたそうです。今は、夏になると川遊びをしたり、体験学習の場になっています。
美しくなびく藻類も、放っておくと生えすぎて川を汚します。そのため年に4回、集落の住民が協力して「藻刈り」を行います。刈った藻をせき止めて引き上げ、休耕田で堆肥にします。昔は農家の方が競って藻を引き抜き肥料に使いました(琵琶湖に流すと富栄養化につながる)。川底は自然の砂利のままで、側面のブロックには魚の産卵場所や休憩場所を設けています。
空き地に残された小さな元池から、静かに水が噴き出ていました。たとえ家を壊しても、水神様のいらっしゃる元池は潰してはならないと、親から教え込まれるそうです。元池は江戸期に作られたものが多いようです。
福田さんが、自宅のカバタを案内してくださいました。
カバタには、福田さんが子どもの頃から一緒に育ったという丸々としたコイが泳いでいます。コイは家族の一員で、端池を綺麗に保ち、洗い物のクズを食べたり、鍋を綺麗にしてくれる存在です。そのほかニジマスやイワナもいて、アユやサワガニが入ってくることもあります。福田家は古い漁師の家系で、夜中に琵琶湖でアユをとり、朝早く町に運んでいた時期もあったそうです。カバタの深さは約60cmで、21mの地下から生水が噴き出しています。正月にはカバタの若水を汲んで1年がはじまり、12月30日には門松を飾って1年が終わります。ここは水神様のいる神聖な場所で、他所から嫁入りしたひとは、カバタを守ることを最初に教えられるそうです。また主婦にとっては、人には言えない思いを噛みしめる場所でもあり、コイたちは、そうした家族の営みを見つめ続けてきました。ご先祖のために、お墓参りにもカバタの水を持っていくそうです。「一軒だけでなく、町全体でないとカバタは守れない。カバタは水神様からの預かり物であり、次の人を思って、水を頂く感覚で使っている」と福田さん。カバタの水は琵琶湖に流れ込み、フナやアユなどの恵みを与えてくれます。
鍋を漬けておくと魚がコゲを食べてくれます。水を汚さなカバタの隣で、郷土料理であるニゴロブナのフナ寿司を毎年いため、各家庭から回収された廃食油で作られた粉石け作っています。塩漬けしたフナの塩を抜き、炊いたコシヒカリんをカバタで利用しているそうです。をサンドして樽の中で発酵させる手間のかかる料理です。
鈴木 惠三さんが
JAWAで活動中のため、コラージ編集局がレポート。
[ふじのフェルト展] メリーの5人 + BC工房12月 24日(日)まで
ふじのリビングアートギャラリー神奈川県相模原市緑区牧野4707 TEL.042-689-3755
B
C工房
今月は鈴木惠三さんが JAWAで活動中のため、コラージ編集局が神奈川県・藤野へ出向き、工房楽記をお届けします。
ふじのリビングアートギャラリーで開催中の、
「ふじのフェルト展」は、藤野で活動する 5人の女性グル
ープ「メリー」と、 BC工房のコラボレーション展です。メリーは、編み物や草木染めのグループとして
に発足し、今は一点もののフェルトづくりに力を注いでいます。太古からモンゴルのゲルなどに使われてきたフェルトと同じ製法とのこと。羊毛をタテ・ヨコ交互に 4層くらい重ね、温水に溶かした石鹸水につけながら、手で圧力を
かけていきます。石鹸のアルカリ成分によりキューティクルがひらき、互いに噛み合って不織布になってゆきます。フェルト作家のセミナーに参加し、最初は見よう見まねではじめたそうですが、羊毛を様々な色に染めたり、毛糸やリボン、シルク、オーガンジーといった様々な質感の素材と組み合わせることで、水彩画やレリーフ、掛け軸を思わせる、多様な表現をもった作品を生み出しています。 BC工房とのコラボレーションは、鈴木惠三さんが藤野の秋のイベント「サニーサイドウォーク」で購入した一枚のフェルトからスタートしたそうです。座面や背もたれにフ
10
年ほど前
椅子だけでなく、タペストリーやバッグ、アクセサリー、スマホケース、ジャケット、室内履きなど手頃な作品もあり、全てが 1点ものです。羊毛は主に京都から仕入れ、自分たちで染色してから使います。
ェルトを張った椅子を見て感激したメリーの大塚美恵さんは、お孫さんへのプレゼントにフェルト張りの椅子を依頼。そうした出会いが、今回のコラボレーション展へとつながりました。
「椅子に張られることで、今まで気付かなかったフェルトの
魅力が見えてきました」と大塚さん。フェルトに囲まれた展示室に入ると、気温だけでは測れない暖かさを感じます。羊毛が様々な素材と融合して一体となっている。そのことが包み込まれるような雰囲気を醸し出しているのかもしれません。 BC
工房の職人たちも、フェルトに裏打ちをして伸びを防
いだり、厚みを吸収する縫製方法を開発したりして、フェルトの良さを存分に引き出しています。ものづくりに対して厳しい目を向けてきた鈴木惠三さんですが、メリーのフェルトには、今までにない刺戟を受けたようです。作品にはあえて個人名は記されていませんが、それぞれにテーマを持った個性的な一点もの。こうした藤野の女性たちの個人力や芸術性の高さは、
12
年前からひらかれている
「ふじのサニーサイドウォーク」(
月末まで藤野の約
所で開催)からも感じられました。ぜひ実物を見て、触って、感じて頂きたいと思います(
1224
月
日まで)。
リーダー役の大塚美恵さん(右)と、初期メンバー佐藤陽子さん(左)。他に門田照与さん、林みどりさん、高橋令子さんの 5人で活動。
11
カ
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TOKYO MOTOR SHOW 2017 REPORT
小型で軽量、そしてエネルギー効率に優れたスポーツカー。私は自らが理想とするこうした.を探したが、どこにも見つからなかった。だから自分で造ることにした。フェリー・ポルシェ工学博士
ポルシェ 356 Speedster(1948)
小林 清泰アーキテクチュアルデザイナー
ケノス代表
21世紀に入って 17年が経過し、20世紀の工業化社会が残した弊害を解決するため、いま主要各国はグローバルな規模で、インフラを中心とした激変期を迎えています。
工業化社会の典型的な量産品の一つは、いうまでもなく「車」です。今年の東京モーターショーに出展されているプロトタイプや参考出品車にも「過渡期の戸惑い」が明確に表れています。
背景の第一は、車を走らせるためのエネルギー事情の変化で、車の駆動力をガソリンではなく電気モーターに転換し、地球温暖化ガス CO2(炭酸ガス)を削減しようとする狙いです。特に今年9月のドイツ・フランクフルト国際モーターショーでは、EV(電気自動車 )指向が鮮明になりました。フォルクスワーゲン、メルセデス、BMW等が、ガソリンやディーゼルから EVへのシフトを大々的に表明。ドイツだけでなく、イギリスや北欧を含むヨーロッパ各国で、に内燃機関(エンジン)の規制強化が叫ばれているからです。中国も EVシフトを強力に推し進めています。大気汚染の改善が大きな目的ですが、もう一つの理由は、内燃機関の開発・
メルセデスベンツのコンパクトEV「コンセプトEQA」。
BMWは非接触式のEV充電システムを提案。
製造技術が欧米や日本にかなわないためです。そこで中国政府は、エンジン車と比べ部品点数が約 60%も少なく、設計、製造が簡易な EVに着目しました。EVを主軸に自国の車市場を独占したいのでしょう。周囲に有無を言わせない、なりふり構わない国策といえます。
日本メーカーは世界に先駆けて独自に開発した低燃費車であるHV(ハイブリッド)技術を捨て切れていません。1997のプリウス第一世代に始まり、30年に渡り膨大な研究・設備投資を行って来ているのですから当然です。ヨーロッパにも HVはありますが、メカが複雑で日本のように行き渡っていません。そこでヨーロッパでは HVを飛び越えて EVに転換したいと考えているようです。資本力で自力のある TOYOTAは、エネルギーや動力源の動向を見極めたいと、EV、HV、PHV(プラグインハイブリッド)、FCV(燃料電池自動車 )とすべてを揃え、全方位で備えています。様子見ができる余裕があるのは TOYOTAらしいともいえます。
背景の第二はセンシング技術と A iによる自動運転技術の発展
▲ファルケンはレッドブル・エアレース年間チャンピオンに輝いた室屋義秀選手の愛機(実物大模型)を展示。室屋選手も来場したそうです。
▲日産はオーナーをもてなすための豪勢ラウンジを用意。
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トヨタ車体の「ワンダー・カプセル・コンセプト」は観光地でレンタサイクル的に使える EVを想定。フロントガラスに観光案内が浮かび上がる。
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ホンダは佐藤琢磨選手がインディ 500で優勝した実車を日本初お披露目!
です。日本やアメリカでは自動運転の定義があり、レベル1〜レベル 5の5段階に分けられています。 ■ レベル 1=「運転支援」。低速での自動ブレーキなど。 ■ レベル 2=「部分自動運転」。高速道路一車線走行などアダプティブクルーズコントロールシステム等。 ■ レベル 3=「条件付き自動運転」。システムが運転をコントロールし、ドライバーは運転から開放されるが、緊急時にはドライバーが危険回避するもの。スムーズに運転を移行できるか心配。 ■ レベル 4=「高度自動運転」。高速道路など特定の条件下ではシステムが全てコントロールするが、一般道などでは人が運転するもの。 ■ レベル 5=「完全自動運転」。すべての条件のもとで自動運転が可能。無人運転も可。日本国内ではレベル 2性能を持つ市販車がやっと出始めたところです。海外ではアウディが 2018年ごろにレベル 3を発売すると発表していますが、どうでしょうか。
自動運転技術の分野では、既存の自動車メーカーは主役にならないでしょう。自動運転には走行車の周囲を把握・判断・実行する技術が必要で、センシング能力やビッグデータを持つ A i
(人工知能)が欠かせません。アメリカでは goog leが広大な街を作り、そこで A iによ
TOYOTA「 FINE -Comfort Ride」。インホイールモーターのFCV。自動運転時には前席を回転させて、4人で打ち合わせもできる。2020年代の実用化を想定。
TOYOTA「CONCEPT-愛i」。Aiが浸透した社会を想定。運転者のパートナーとして会話しながら、レストランを探して予約したり、運転の安全を見守ったり、緊急回避したりする。
る自動運転を実験し、膨大なデータを蓄積しています
(場所は明かされていません)。また amazonも A iによる自動運転を模索中と噂されていますが、この企業も google以上に情報開示しません。高度な IT技術を持つイスラエルの企業なども自動運転市場を狙っているはずです。ITや A i企業は自動運転の心臓部であるビッグデータを生かし、培った能力と豊富な資金力で既存の自動車メーカーからモビリティ分野の主導権を奪い取ろうと狙っています。車というメカの塊を自動制御するのは A iなのです。自動運転時代になれば約 140年続いた車というメカは脇役となります。世界の主だったメーカーは自主開発か、 Ai企業との提携で何とか主役の地位を守ろうと、水面下で激しい競争が始まっています。
2017東京モーターショーでは、内外メーカーを問わず展示車のほとんどが、世界潮流になるであろう EVのプロトタイプを用意していましたが、どのメーカーも、本命はコレ!と思わせる車を出せていないと感じました。EVも自動運転も、ベースとなる技術はまだ発展途上で、本流が定まらないためと想像できます。
もう一つ、直接目には見えにくい側面があります。EVにとってもっとも重要な技術課題は、電池の蓄電容量な
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ダイハツ「 DN PRO CARGO」。現代のミゼットを目指した EVカーゴで、アタッチメントを変えて様々な用途に使える。展示は巡回医療の診察室型。
▲ヤマハ「 CROSS HUB CONCEPT」。陸上を走る4人乗りクルーザーがテーマ。2台のバイクを乗せられ、様々な遊びのハブとなる。チーク材を張ったヨットのような後部デッキが泣かせます。
▲ホンダの「 Sports EV Consept」。 EV専用プラットフォームを開発。
のです。EVのカタログ上の走行距離データは、ガソリ
ン車並の航続距離確保を目指して徐々に伸びています
が、実際に走ってみるとカタログ数値を疑います。昨
年末まで乗っていた「プリウス PHV」は EVとハイブ
リッドを合わせた仕組みで、リチウムイオン電池のみ
の走行可能距離はカタログ上 26kmとありますが、フ
ル充電して一番条件の良い時でも18km前後、実際は
15~6kmでした。純粋な EVを所持したことはありませ
んが、たぶん EVもカタログデータの 60%程度と思い
ます。EVの課題は、バッテーリーが無くなると充電時
間が長いことです。満足の行く走行可能距離を確保す
るためには、軽量で大きな蓄電力を持つ電池の登場が
待たれますが、まだまだ時間を要しそうです。
私は普段から遠距離を乗ることが比較的多いので、FCV(燃料電池自動車 )ホンダ「クラリティ」に乗っています。EVと違い水素の充填時間は約3分で済みますし、走行
可能距離もガソリン車に近いからです。
国内メーカーの展示には、2020年東京オリンピック、パラリンピックに向けた車が目立ちました。例えば東京都からは、FCVのバスが 100台発注される予定で、選手や役員の送迎用としてオリンピック会場を中心に運行されます(路線バスではないので、時速 70km以上は出ない)。実際に運用したら水素ステーションが全然足
トヨタ.体によるパラアスリートへの提案。スポーツ用.椅子に乗ったまま.内に移動し、運転席に移乗できるマルチバンは、介助者がいなくても競技場などでの練習を可能にする。
TOYOTAのFCVバス「SORA」。タンク内容積600Lの高圧水素タンクを10本搭載し、災害時の発電所としての役割も想定している。東京オリンピックに100台以上導入される予定。
りなくなるので、湾岸部などに水素ステーションが増設されるでしょう。パラリンピックを目指すアスリート向けには、選手自身が競技装備を積み込み、自ら運転できる機能を備えた流麗なインテリアのマルチバンが出展されていました。また、超高齢化社会に向けた特定用途車も目立ちました。小型で低床、乗降し易く、目的に応じて必要な機器類をワゴン風のカセットで組み込めるクリニックカーなどが印象に残ります。EVで的確なコンセプを感じたのは HONDAの「UrbanEV Consept」とスポーツタイプの「Sports EV Consept」でした。近距離専用のコミュータータイプから脱して、2台ともドライブの楽しさを感じさせる車らしい車です。
今回はバイクにも新時代を予感させるものが多数出ていました。YAMAHAはロボットライダーが乗り、時速 200kmでサーキットを駆ける「MOTOBOT Ver.2」、HONDAはヒューマノイドロボット(人間型ロボット)技術を応用し、超低速でも転倒しない「R iding Assist-e 」が注目を集めていました。
EVが急増すれば、次の課題は「EVが増大したときに、電力事情はどうなるのか」になります。これについては、また機会を見て取り上げたいと思っています。 ■
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ホンダ「 Honda Riding Assist-e」。地面から脚を、ハンドルから手を離したままで自立してくれる EVバイク。
2010年12月号に登場の岐阜県・関の刀匠高羽弘宗さんが、伝統的ものづくりの視点からクルマ界を斬ります。
ー 刀匠 高羽弘宗さんは、.はお好きですか?高羽:好きですよ。今乗っているのは、赤のマツダロードスター。二代目のNBというタイプで、アメリカ製の赤い幌をカスタマイズしています。昔はBMWの3シリーズや、W124(いわゆるベンツEクラス)にも乗っていましたね。モノ造りを生業とする人間は、生活全般を楽しまなくちゃいかんからね。ーそんな高羽さんが、今回のモーターショーで見たいのは、どんなクルマですか?
高羽:EV(電気自動.)かな?ーもっとこう、戦闘的なスポーツカーみたいなのではなくてですか?高羽:それもいいけど、これからはやっぱEVが主流になっていくんでしょう?ー確かに、先日のフランクフルトショーでは、EVに冷淡だったドイツ勢が揃ってEVへの移行を打ち出したり、選択肢は増えています。他に自動運転など注目点は多いですから、楽しみですね。
ー色々と見て来ましたが、何が一番心に残りましたか?高羽:トヨタの「新型センチェリー」かな。ー20年振りのフルモデルチェンジだそうですね。先代は国産唯一のV型12気筒エンジンでしたが、V8ハイブリッド.に生まれ替わりました。高羽:一見、何の変哲も無い大きな黒いセダンだけど、実際に目にすると存在感が凄い。最近のクルマはどれも色々な要素を詰め込んで、精一杯自己主張しているけど、これは細部を徹底的に磨き込んで、意識して控えめに表現している。細かな気遣いに満ちたデザインと、それに応える精緻な工芸的手法の積み重ねが、この凄みにも似た雰囲気を造っているというのは、日本刀の世界にも通じるものがあるんじゃないかな。ー確かに、実.の素晴らしさを賞賛する声は、あちこちで聞かれましたね。高羽:他の高級.は、社会的地位=権力=強さ、みたいな表現一辺倒でしょ。これは「控えめ」に徹しているのが、新鮮だよね。顔つきだって、優しい感じじゃない。ーヘッドランプは複数の光源を組み合わせて、眼力が強くなりすぎないように配慮されているとのことです。単眼だと、どうしても強くなると。開発者の方が言うには「仏像の半眼」だそうで……。
高羽:半眼は外面だけでなく、内面も見ることが大事という思想だね。そんなクルマは他に無いよ。ドイツ.だとアウトバーンで前方の.を威嚇するぐらい強烈な顔だよね。それも魅力だけど、クルマの魅力は強さだけじゃないぞと。ー一方、テールランプは、ほのかに路上を照らす「行灯」のイメージで、走り去る後ろ姿の余韻まで考えられているとの事でした。円筒に見えるレンズも実際は半円で、トランクスペースを犠牲にしない薄さを追求した、機能的なデザインだそうです。高羽:何とも美しい、日本的な価値観だね。そういう細かな気配りも、造形に力が無いと弱い印象になってしまう。フロントグリルの鳳凰も、なかなか見事だね。ー彫金師の方の手作業だそうですが、この繊細な鳳凰の裏に、衝突防止システムのミリ波レーダーが潜んでいるというのも、流石の日本な感じですね。高羽:折り上げ天井のお陰で頭上もゆったりしているし、本当に特別な空間という感じだね。ー身分の高い人が座る場の天井を、周囲より一段高くしつらえる、伝統的な建築様式を取り入れています。前席との天井の境にウッドトリムが貼ってありますが、これはフロントガラスの上端より高い位置に目立つものを配置して、開放感を高める為の工夫だそうです。天井の張地は紗綾形崩し(さやがたくずし)柄の織物です。着物の地紋などに使われる、卍の繰り返しパターンですね。高羽:不断長久のしるしで、格調が高いよね。他にも伝統的な柄が、あちこちに入っているね。ーフロントグリルやランプのレンズなどの外装から、カーテン、スピーカーグリル、シフトレバー横のパネルや、スカッフプレート(上がり框の部分)などの内装まで、永続を意味する七宝柄で飾られています。高羽:そういう伝統的なものを見直して、注意深く最新のものに再現しているところも感心したんだけど、自分はこのクルマを見て、大きさを感じさせない事に驚いた。カタチをまとめる技術にね。ー全長は5.3メートル、全幅は1.9メートルもありますが(現行のトヨタクラウンは約4.8メートル)。高羽:刀でも「姿の良い」と言われる物は、小さく見えるんだ。刀の面って、シンプルの極みでしょ。それでも全体をまとめた上で、ちゃんと個性もある。反対に小刀の優れたものは、大きく見える。ー外観の印象は、深みのある漆黒の塗装や、効果的に使われたメッキ部品の効果も大きいです。高羽:大きくてシンプルなものは、ごまかしが利かない。自分がこのクルマを評価したのは「逃げていない」からなんだよ。難しい表現に正面から真摯にぶつかっていく姿勢が、カタチから感じられたんだね。
滋賀院門跡への参道は「御殿馬場」と呼ばれます。坂本に多い「里坊」という寺院は、比叡山をおりた老僧の隠居ずまいでした。一方、僧侶でありながら妻帯や名字帯刀を認められた「公人」(くにん)と呼ばれる人々もいました。公人は治安維持や年貢を管理する寺務を務め、大きな屋敷に暮らす実力者もいました。校倉を模したつくりの「叡山文庫」は、1921年、最澄一千百年御遠忌の記念事業として開設されました。徳川家康の側近・慈眼大師天海の「天海蔵書」をはじめ、平安から江戸までの貴重な写本・版本を数多く所蔵しています。
「滋賀院門跡」は、元和元年(1615)に天海が後陽成天皇から賜った御殿を移築したことから始まりました。それ以降、天台座主法親王(比叡山延暦寺の貫主)の御座所として歴史を刻んできました。「門跡」とは特に、皇族や公家の子弟が暮らす寺院を示します。
険しい山を切り拓き、トンネルを穿った坂本ケーブル。高度が上がるにつれ、琵琶湖の景色も楽しめます。
坂道をのぼり続け息が切れはじめた頃「ケーブル坂本駅」が見えてきます。比叡山延暦寺への玄関口として、昭和 2年に開業。現存する日本一長いケーブルカーで「霊山の山肌に開発の爪痕が一切残らないように」という延暦寺の要望を受け、トンネル 2カ所を含むカーブの連続した 2025mの路線を難工事の末に完成させました。
ふもとのケーブル坂本駅は木造ですが、山上の「ケーブル延暦寺駅」は鉄筋コンクリート造。スパニッシュスタイル風の屋根に縦長の窓を開けたモダンなスタイルで、比叡山の厳しい風土と積雪に 90年間耐えてきました。建物琵琶湖を望むデッキを備えた 2階は、かつて貴賓室として使われていました。
壁面の出隅は、金茶の陶製パーツをあしらった「ビード繰り出し状装飾」で彩られ優美な雰囲気をだしています。冬期は自動.道が不通になる日もあり、降雪に強い坂本ケーブルが唯一の交通手段となる日もあるそうです。
隈 研吾×TIME & STYLE .NEW PRODUCTS
TIME & STYLE MIDTOWN(六本木・東京ミッドタウン)にて、建築家・隈研吾さんとTIME & STYLEが開発した新作家具の発表展示会がひらかれました(2017年11月13日〜18日)。
F U(エフーユー)フカフカした座布団をそのままソファに … がコンセプト。
記者発表会では、隈研吾建築都市設計事務所の宮澤さん、成澤さんと、タイムアンドスタイルの泉澤さんが、2008年の根津美術館改築設計からスタートした家具開発の経緯や、デザインのコンセプトを語りました。
手前のNCサイドチェアは、根津美術館 NEZUCAF.のためにデザインされた。PEテーブルは、天板をペラペラに薄く仕上げたカフェテーブル。奥のGCスタッキングチェアは、GCプロソミュージアム・リサーチセンター(春日井市)にあわせて開発されたもの。
ケーブル延暦寺駅から徒歩 10分ほどで、比叡山延暦寺の入り口に着きます。標高 848mの比叡山は山全体が寺域であり、東塔(とうどう)、西塔(さいとう)、横川(よかわ)の 3地域をあわせて比叡山延暦寺と呼ばれます。延暦寺というと京都のというイメージがありますが、じつは所在地は滋賀県大津市で、かつては京都側の西坂本、琵琶湖側の東坂本をおさめ、山中にあって都の物流や金融をコントロールする存在でもありました。
▲ 比叡山の宿坊「延暦寺会館」。
朝 6時 30分。朝のお勤め」に参加する宿坊の宿泊者が東塔の根本中堂に集まり、本尊・薬師如来の仏前で祈りのひとときを過ごします(工事中も参拝可能)。最盛期には 3000にも及ぶ寺院が立ち並んだ比叡山でしたが、元亀2年(1571)織田信長の焼き討ちにより、僧侶や女性・子どもを問わず数千人が惨殺されたと伝えられています。その後、豊臣秀吉や徳川家、天海の尽力により復興され、現在の根本中堂は寛永 19年(1642)3代将軍家光によって再建されたものです。
織田信長の活躍した戦国時代。比叡山をはじめ高野山や根来寺、石山本願寺などの大寺院は、戦国武将をしのぐ領地と資産をもっていました。中世から比叡山は、皇族や公家から寄進された荘園を全国に 300カ所近く保有し、当時、日本一の繁華街だった京都五条町にも広大な領地をもっていたといわれます。そこから得た資産を元に「土倉」と呼ばれる現在の質屋に似た金融業も営まれ、「市場」の開催権を支配するとともに、絹や酒、麹、油、酒などの主要産品の物流も支配していました。比叡山は日本最大の財閥企業ともいえる存在で、それを疎ましく思うのは信長だけではありませんでしたが、公家出身の僧侶をを多く抱え、加持祈祷によって恐れられた比叡山と対抗しようという武将はいませんでした。そんななか、寺社勢力と正面から闘ったのが信長だったのです
延暦寺会館前の急な坂道を下りた所に、法然上人が得度した地と伝わる法然堂があります。
▲法華総持院の東塔。最澄は全国に6か所の宝塔を建て、日本を護る計画を立てました。その中心の役割をする塔です。
439
(承前)翌朝ホテル自慢の露店風呂へ。海に浮かぶ岩
風呂から見る景色は絶景そのものである。
震災後被災した人たちの避難場所となり、今でも露天風呂を開放していると聞く。天皇皇后両陛下がお立ち寄りなったとのことで、ここ南三陸の方々にとっては誇りの場所である。まだまだホテルとしては機能充分ではないかもしれないが、地元の方にとっても、また南三陸を訪ねる旅人にとっても、なくてはならない自慢の岩風呂である。
時ホテル出発。名が津波の犠牲となった、防災対策庁舎のあった
志津川へと向かう。津波の被害が大きく鉄道が寸断されたところだが、
2011年
7
月、
地元の方の案内で、街がさらわれた様子やご自身のお店の流された跡、少し高台にある築 300年の古民家のご自宅がぐるりと1回転した様子を見せていただいた。
防災対策庁舎の最後の様子も生々
しく、遺体の見つからない親族の話もしてくださった。賑わっていた駅前の商店街、ビルの上に乗ったままの車がある通りも案内してくださった。どうしていらっしゃるかと気になりながら、残念ながら、今回お会いすることはできなかった。
訪ねた防災対策庁舎は、すでに
3
階部分までかさ上げ
が進み、近寄ることができなかった。多くの工事車両が行き交い、ブルドーザーやシャベルカーが音をなしている。献花台は別のところに移動され、見学者を乗せた車がひっきりなしにやって来る。
「槌音」なんてもんではない。国の土木工事というのはこうやって進めるのかと、呆然とするばかりである。
重い気持ちを引きずりながら、南三陸さんさん商店街へ。ここは地元の方もよく利用していて、お店の人も元気そうで少しだけホッとした。佐藤信一さんの「南三陸
南三陸 てんてん商店街から見る防災対策庁舎。かさ上げが進んでいる。
東北大震災 6年半の今を訪ねて
6
になっている。桜の苗木も植えてある。立ち寄った「岩沼みんなの家」では、地元の方々が作る野菜が売られている。研修旅行もここで終わりとなるが、広々とした公園で復興の気配が少しだけ感じることができたのは救いだった。
あんなに望んだ復興、復旧を目の当たりにしながらも、なぜか複雑な思いがしている。
本当に暮らしを取り戻すことができるのだろうか。海の見えない暮らしができるのだろうか。夢や希望を持って、復興を待ち望むことができるのだろうか。復興を実感できるのはいつになるのだろう。非力なんてもんじゃない。せいぜい復興税を払うことしかできない。寄り添うことしかできないと思っていたが、寄り添って「ナンボ」のもんかと、つくづく思う。東北大震災から 年半。忘れないことの他にできることは何か……
もう一度、あの震災の時に感じた思いを振り返り、自分に問いたいと思う。
岩沼 千年希望の丘に唯一残る建物。青印のところまで津波が押し寄せた。
写真展「 東日本大震災(3.11) 6年半の今 」A&A カフェ・Sweet JAM(御茶ノ水)東京都千代田区神田駿河台 2-3-15 12月11日(月)〜 12月 22日(金) 12:00〜17:30(土・日・祝休)
の記憶」写真展が常設されている。志津川小学校の裏側から撮影したとする、震災当時からこれまでの歩みが展示され、防災対策庁舎の上に必死でしがみついている姿も写している。過酷で凄惨な写真もあるが、ここ南三陸の 年半の軌跡を見ることができる。
最後に、仙台空港近くの名取市閖上(ゆりあげ)地区と岩沼へ。津波が緩やかにそして大きく広がった地域である。海から遠く、まさか津波が来るとは誰も思っていなかったところだが、学校も住宅も工場も全てを飲み込んだ。がれきは片付けられていたが、人の営みがあったことを示すものは、片側の塀だけがわずかに残る加工商品会社の看板だった。長く続く高い堤防が海を塞いでいた。
岩沼は「千年希望の丘」公園が造られ、所どころに高台がある。
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そこに登れば海が見える。青い空、碧い海。護岸工事は続いているが、圧迫感はない。公園には羊を放し草を食べさせるよう
大津市の琵琶湖畔に佇む大津館は、昭和 9年、外国人観光客誘致のため建設された琵琶湖ホテルの本館でした。
▲国際リゾートホテルだったことを思わせるフロントのキーキャビネット。ちなみに岡田信一郎婦の人は、日本一の美女と謳われた赤坂の元芸妓「萬龍」でした。
設計は、旧歌舞伎座や大阪市中央公会堂、明治生命館の設計で知られる岡田信一郎(1883〜 1932)。岡田は着工の直前に 49歳の若さで亡くなり、弟の捷五郎が完成させました。桃山様式を思わせる和の外観に本格的な洋の内観。歴史建築を鉄筋コンクリートで作ることにたけた岡田信一郎の実力が存分に発揮され「湖国の迎賓館」といわれました。
寺社のような装飾をコンクリートで表現した「繰型出組」は、昭和初期の職人の技術力を物語ります。ホテルの営業終了後、取り壊しを惜しむ市民の声によって大津市は耐震・改修工事を行い、2002年から文化施設として活用されることになりました。館内には会議室や市民ギャラリーのほかレストランもあります。
琵琶湖をのぞむレストラン「ベル ヴァン ブルージュ」。
▼ 国際観光ホテルとして多くの外国人でにぎわいました。
ヘレン・ケラーやジョン・ウエインなど著名人が訪れ、戦後の一時期は米軍宿舎だったこともある大津館。琵琶湖畔には船着き場が設けられ、今もびわ湖クルーズ船「ミシガン 80」が就航し、大津港などと結ばれています。
かつて琵琶湖の水運は、日本海の産物を京都・大阪へと運ぶ交通の大動脈でした。敦賀に陸揚げされたニシンや昆布は、琵琶湖の北・塩津港で船に積み込まれ、大津へ運ばれました。一方、京都・大阪からは、綿や飴、醤油、酒、織物、煙草などが日本海側へ運ばれました。湖上の物流は巨大な利権を産み、戦国武将はその覇権を競いました。
滋賀県立琵琶湖文化館(昭和 36年)大津城をモチーフにしたデザインは吉田森雄氏によるもの(現在は休館中)。滋賀県庁は琵琶湖の南、JR大津駅の近くにあり、京都駅までは JR東海道線でわずか10分です。
滋賀県庁舎本館は、早稲田大学教授・佐藤功一と大阪を拠点とした國枝博の共同設計で、昭和 14年に竣工しました。早稲田の建築学科を創設した佐藤功一は、大隈講堂や日比谷公会堂を設計し、コンドルの弟子たちが築いた重厚な東大工学部スタイルとは異なり、左右非対称や軽快さをだした早稲田スタイルの基礎を築いた建築家です。しかし、この滋賀県庁舎では、左右対称に両翼を伸ばした堂々たるつくりを表現しています。建設が承認された昭和12年、軍事体制に備えた「鉄鋼工作物築造許可規制」が出され、軍施設以外の重厚な鉄筋コンクリート建築は立てられなくなります。大理石やステンドグラスをふんだんに使った骨太の内装は、これから来るであろう戦争の時代を乗り切るための備えだったのかもしれません。
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