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時空を超える美意識
9月号 詠月 2017
http://collaj.jp/
kai 北の国に生まれしもの
2008年に始動した 「Time & Style Factory」。スタート時は4人だったスタッフも約10年で26人に増え、技能五輪家具部門の金メダリストを輩出するなど、技術力を向上させています。
開設当初からの工場長・安藤勝人さんの案内で「ものづくりの現場」と描かれた扉から Factoryに入りました。Time & Style Factoryは誰でも見学できるオープンファクトリー。入社を希望する近隣の学生たちも訪れるようです。
20〜 30代が多く、来客への挨拶もしっかりしています。「若い人は吸収力があり、短期間で仕事を覚えてくれる」と安藤工場長。ここでは主にテーブルやキャビネットを制作しています。
工場に一歩入ると、活躍する沢山の女性たちに気づきます。研磨工程には 6名が関わっていて、LEDライトを当てながら精度の高い作業を行っていました。研磨は組み上がった家具を扱う、見かけ以上に体力のいる仕事です。オイルやビーズワックス、ソープフィニッシュなど、木地本来の美しさを活かした仕上げは、研磨によって支えられています。直線的なフォルムが特徴のTime & Styleでしたが、2011年に大きな変化がありました。人の手による削りの技を採り入れ、思わず触れたくなるようなフォルムへと変化します。それを実現するためには R状のパーツ加工など「工程や手間は 3倍ほどになった」と安藤工場長。その技術は木の目をつぶさない研磨の方法へと、さらに進化しようとしています。
現場をとりしきるチーフのひとり八木亮平さん。加工の責任者で工場全体を見ながらアドバイスをおこないます。「こうした家具工場は他にないので、色々なチャレンジができてやりがいを感じる」そうです。手仕事を重視する一方でキャビネットを加工する 5軸 CNCなど最新の加工機械も導入されました。CNCのチーフは女性がつとめています。
Time & Style Factoryから望むキトウシの山並み。
「山のない国の人々のための山のあるテーブル」は、オランダ・アムステルダムの Time & Style 新店舗にむけて作られました。山脈は木製で、脚部は高岡で作られた銅の鋳物です。
工場の奥にある「木取り」の作業場は、この道 40年以上のベテランが担当しています。ウォルナットの他にナラやヤマザクラ、最近では北海道産のタモも使います。生産する家具に合わせ、指定された樹種の良し悪しを見極めながら木取りは行われます。工場の隅々まで知らなければ出来ない、メーカーの経営さえも左右する重要な仕事です。
▲ペーパーコアによって強度を高めたフラッシュ構造。
木材を無駄なく使うため、杢目を揃えずに一枚の板にはぎ合わせる「ランダム張り」が行われていました。杢目をあえて揃えない表情は、Time & Styleの特徴ともなっています。その他、フラッシュ構造やフレーミングコア構造によって木材を有効利用しながら、突板には 0.6mmの厚突きを使うなど、木を素肌で感じるものづくりを行っています。
▲ Time & Style のショースペース。
今年 6月に開催された IFDA国際家具デザインフェア旭川 2017にあわせてリニューアルした旭川デザインセンター。30社以上を集めたショースペースに「Time & Style」も加わり、完成した家具を旭川で見られるようになりました。
10回目をむかえたデザインコンペティション入賞入選作品が展示されていました。
とうとう街の本屋さんがなくなった。小さな街だが駅前の商店街には薬局や美容院、メ
ガネ屋さんやパン屋さんもある。
この街へ引っ越して来た
年以上も前からあった
古い本屋さん。広くはないが、新刊がいつも綺麗に取り揃えてあり、読みたい本が手に取りやすく、何より店主が親切だった。父も生前よくここで好きな本を買っていた。商店街で買い物をすることはあまりないが、この本屋さんにはぶらりと出かけることは多かった。
隣は和菓子屋さん、新聞にも載ったことのある塩大福がおいしいと評判のお店だが、本を買った後は必ずここで甘いものとせんべいを買うのが、私と父の常だった。
駅を降りて自宅とは反対側の方向なので、いつも気にしていたわけではないが、駅前の化粧品屋さんが店じまいをし、長い間建て替え工事をしていたと思ったら、和菓子屋さんを挟んだ本屋さんがなくなっていた。
本が売れなくなっているとはいえ、住んでいる街から本屋さんがなくなるのはすごくさみしいものである。いつもたくさん買っていたわけではないので仕方ないかぁと思いながらも、商店街が急にしぼんで見える。
なんとはなしの時間つぶし、新しいものを手にするワクワク、甘いものを買う楽しみも半減してしまった。
アマゾンで読みたい本が即、手に入る時代だが、なんとはなしに本屋さんに行って、どんな本が出ているのか、平積みになっている評判の本を眺めたり、表紙の帯を読んだり、思いがけない本に出会ったりするのは、やっぱり本屋さんに行かないと味わえな
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つれづれなるままに街の本屋さん
い。
最近では多目的な本屋さんも増え、飲食をしながら試し読みができたりする店もあるが、どうも馴染めない。専門書が多く取り揃えられた大手書店で本探しをするのはくたびれる。欲しい本をメモに書いて店員さんにレジまで持って来てもらう。本
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を開ける楽しみが減っているのは、探す楽しみをなくしているせいかもしれない。
なんとはなしの時間つぶしに立ち寄る楽しみ、思いがけない本との出会いなどは時代遅れなのかもしれないが、積ん読も読書のうちと、ワクワク新しい出会いを求めて、やっぱり、本屋さんには出かけていきたいものである。
先の街の小さな本屋さんで買った最後の本は、全 巻の漫画本。今まで漫画を買ったことはないが、テレビで漫画作者がイタリアを案内し、歴史や建築を紹介していたものである。よく勉強していて面白くイタリアの隅々を紹介していたが、手っ取り早く知識を得るためには漫画はいいかもしれないと、デパートにある本屋さんに買いに行った。
漫画コーナは初めてでどういうジャンルなのか見当もつかず、すぐに店員さんに聞いたが、残念ながら全巻は揃っていない。まぁ漫画だから……そう躍起にならず、機会があればと諦めた。帰りに地元の本屋さんに寄って念のためにと聞いたら、全巻揃っていた。それも綺麗に一冊ずつビニールの袋に入っていた。即買った。これがここで買った最後の本だった。
大人になってから初めて買った漫画本。正直ストーリを追うのはしんどいが、気長に読むというのか見ている。
ようやく秋の気配がやって来た。この夏は夏風邪をこじらせ往生したが、秋の夜長、街の小さな本屋さんに感謝しながらこのイタリア歴史漫画を楽しむことにしよう。
森林公園びふかアイランド。天然温泉やキャンプ場、カヌーなどを楽しめます。
北海道は古くから家具に使われるナラ、タモ、シナ、センなど広葉樹の産地として、1960年代まで北欧やドイツ、アメリカに盛んに木材を輸出していました。しかし良材の枯渇もあり、現在、北海道の家具メーカーの使う木は輸入品が大半です。北海道の木を家具にしたいという思いを胸に、安藤工場長と共に天塩川を北にさかのぼり、木とめぐり逢う旅にでました。
無類の釣り好きとして知られる安藤工場長は、魚道のある天塩川支流を視察。時期によっては魚の遡上を見られるそうです。天塩川は、幻といわれる「イトウ」の川としても知られています。
砂澤ビッキが、札幌から筬島に移住したのは昭和 53年(47歳)のこと。大作に集中してとりくめる環境と良材をもとめ、この地を選んだといわれます。アトリエとなった建物は、昭和10年に開校の旧筬島小学校。昭和 30年代には 60名以上の児童がいたものの昭和 53年に廃校。取り壊される直前にビッキに見いだされ、彼の亡き後も大切に守られてきました。▼ヒゲや脚まで可動する、精密なエビの彫刻。
記念館として公開されているビッキ創作の場「アトリエ 3モア」。学芸員の川崎映(えい)さんが案内してくれました。玄関を入ってすぐの「風の廊下」は、壁面に木煉瓦と鉄板、床には木材チップを敷き、ビッキが「四頭四脚の獣」と表現した筬島の風の音を流しています。ビッキの実弟・砂澤一雄氏によって経営されていた釧路市・阿寒湖畔の「トアカンノ・ビッキの店」の屋号も展示されていました。ビッキは阿寒湖で、濱田庄司や河井寛次郎と出会っています。
独特の「ビッキ文様」を刻んだ鮭の彫刻。ブロンズのような青みを帯びた仕上げや、可動するジョイントも初期作品の特徴です。こうした作品は「ビッキの店」でも販売されていました。
元職員室だった部屋「トーテムポールの木霊」には、昭和 55年、音威子府駅前に立てられた「オトイネップタワー」(完成時の高さ15m)が静かに眠っています。完成時には筬島から音威子府駅前まで人力で運ばれ、村の一大イベントとして全国的な話題となりました。教室は、ビッキの工房として使われていました。大きな鋸や斧は、筬島の人々から譲られたもの。ここでは中型、小型の作品づくりやデッサンを行っていたようです。
「アトリエ 3モア」という少し変わった名前は、札幌に開いた1番目の工房「モア」、2番目の「モアモア」につづく3番目のモアという意味で、新天地でより一層、創作に没頭するという決意を表したものでした。アトリエの近くを、旭川〜稚内を結ぶ宗谷本線が走っています。午前 3時 34分、筬島駅を通過する急行利尻の灯が天塩川に沿って消えるのを見届けてから、ビッキは創作をスタートしました。ある夏の夜、デスクライトに舞い込んだ可憐な蛾の姿を見つめたビッキ。そこから代表作のひとつとなる「午前 3時の玩具」が生まれました。
「午前3時の玩具」
▲ビッキの父・砂澤市太郎(アイヌ名・トアカンノ)作のレリーフ。
札幌時代のビッキが室内装飾を手がけた、ススキノ「いないいないばぁー」を移築したコーナー。ビッキの調度品(本物)に囲まれながらコーヒーでくつろげます。昭和 6年ビッキは旭川市近文で父・砂澤市太郎と母・ベラモンコロの間に生まれました。市太郎は狩猟にたけ旧土人保護法に異議をとなえた活動家で、彫刻も彫りました。母はアイヌ刺繍の名手でした。農業学校を卒業したビッキは旭川に戻り就農しますが、父の死後、21歳で鎌倉に移住。澁澤龍彦のサロンに出入りし芸術家との交友が生まれます。鎌倉と阿寒湖を往復しながら、東京や北海道で個展を次々と開催していきました。
47歳のとき札幌から筬島に工房を移したビッキは、校舎とは別に D型ハウスを立て大型作品に取り組みました。生涯生み出された作品は1000点以上といわれます。筬島は明治 41年から開拓が始まり、農耕に適し稲作も可能な土地として豊かな実りを生み出しました。大正 11年には宗谷本線の筬島駅が開業。駅前に商店ができ人口は 400名を超え、昭和 42年には筬島大橋の完成で生活も便利になる一方、過疎化も進行していました。そんななか、ビッキによって国内外から沢山の芸術家やファンが訪れるようになり、地域は輝きを取り戻していきます。そして平成元年にビッキが亡くなった後も、毎年数千人がここを訪れているのです。
学芸員の川崎映さんが筬島に来たのは 5年前のこと。札幌出身で北海道おといねっぷ美術工芸高等学校に進学した川崎さんは、卒業後、地域おこし協力隊として音威子府村に戻りアトリエ 3モアのスタッフとして働き始めました。来館者のいない時間帯は、筬島の風景を望むテーブルで
「色鉛筆画」の制作に集中します。画材となるのは筬島に生きる動物や昆虫、植物、爬虫類。子どもの頃からの夢だった画家を目指し、ビッキのポートレートに見守られながら創作はつづきます。
ファーバーカステル、カランダッシュ、三菱ユニといった様々なメーカーの色鉛筆を使い分けながら、水は一切使わずに透明感あふれる世界を描いていきます。
珍しい姿の昆虫や野いちごが見つかりました。
車を降りると、さっそく自然観察が始まりました。川崎さんが中川研究林から受けた影響は大きく、毎日のように森に入っているそうです。実際に自然のなかで見た生き物しか描けないといいます。
ビッキの木はアカエゾマツの巨木で樹齢 400年以上、樹高 30m以上といわれています。通常、アカエゾマツは蛇紋岩の土壌に群生しますが、この木は1本だけ林道沿いにたっています。その姿をビッキは気に入り、ここを訪れていたそうです。木の根元にはビッキが眠り、木の墓標がたっています。スズメバチが墓所を守るように飛んでいました。
よく自然の中を彷徨するけれども探求しよう 理解しよう とはしない .自然の中に入って自然と交感をする .
.そこに現れてくるのはあからさまな自己が見えてくるのだ
人工が加はらない状態 ,つまり自然の中の樹木の素材を使用する .
.したがって生きものである
生きたものが衰退し崩壊するのが至極自然であり,それをさらに再構成してゆく .現在ここに立った作品は風雪の中で自然はこの作品に加鑿してゆくはずであり,この変貌が楽しみなのである .この地の自然のもつそれは半年が凶暴的であり,そこに崩芽し爆發する繁茂 ,華麗な色彩で雪のない世界は瞬時に終わる .
砂澤ビッキの日記より『砂澤ビッキ作品集』(用美社刊)
川崎さんの母校でもある「北海道おといねっぷ美術工芸高等学校」では、夏の学校祭の準備が進んでいました。道内唯一の工芸科高校で、クロスカントリースキーの強豪としても有名です。
技能五輪家具部門の金メダリストも輩出しています。
玄関ホールに並んだ卒業作品。同高は昭和 59年に全寮制工芸高校へと転換し、道内や全国から学生が集まるようになりました。今は隣接する「チセネシリ寮」で115名の生徒が共同生活を送りながら、木工芸や絵画を中心とした実践的な教育をうけています。村民約 750人の音威子府村にとって「おと高」の存在は大きく、材木の提供など様々な支援が行われています。東海大学と高大連携を行い札幌でデザインスクールを開いたり、スウェーデンとの国際交流も盛んです。
筬島の天塩川の川岸に立つ「北海道命名之地」の碑。幕末の探検家・松浦武四郎は、安政 4年(1857)、アイヌの人々と共に天塩川を往復し『天塩日記』を残しました。筬島のコタンに立ち寄った際、武四郎がアイヌの通称「カイナー」の意味をアエトモという古老に尋ねたところ、「カイ」は「この国に生まれたもの」で「ナー」は敬語と教えてもらいます。明治 2年(1869)「蝦夷地」の改称が検討された際に、武四郎は日本の「北」にある「カイ(加伊)」という意味から『北加伊道』を提案。北海道はアイヌの国であることが歴史に刻まれたのです。
こき
鈴木 惠三(BC工房 主人)
オイラは「古希」
70
「古来、稀なり
」。
かつて 今は、
さて、
707070
才は、まれな老人だった。才はゴロゴロいっぱい、その他大勢老人。
才になっちゃったオイラは、どう生きよ
うか、などと頭を悩ませている。
それから、
・映画を年間
①若い人への応援が、いちばんだ。②好きな椅子とテーブル作りが2番だ。③広告コピーをずっと書き続けるのが3番だ。
・陶芸を、ボチボチやる。・好みのアート・工芸に出逢う旅をする。
・知らない街をフラフラ歩いていたい。
50
本は観る。
・本を年間
50
冊読む。
才になって、あらためて考えてみても、
今までと大差ない中味になっちゃう。だから、まあ、今までどおり、現役で、好きにやらせてもらうことにする。
今年、初めて参加した「富良野自然塾」で出逢った「地球の道」を、藤野に作るのも、これからの夢だ。
黒岩まゆ バケーション展 @ふじのリビングアートギャラリー
地球
「KEIZO
「ありがとうの
46
22
億年の500mの道。
夢は、いつも描いて、皆に話していると実現する。これはオイラの人生訓だ。
「夢は、楽観的に追いかける。」
椅子デザインをやりたい若者を育てるのも夢。小泉さん、村澤さん、南雲さん、若杉さんたちは、若い頃からの付き合い。オイラが育てたなどと思ってないが、良き刺激役だった。お気楽に、次なる若手デザイナーの刺激役でありたい。ふじのの工房まで遊びに来てくれ。
の会」を、今年も、
タケオとジョージと仲間がやってくれた。ひとりさみしく、山の中暮らしのオイラを心配して?ヘンコツ爺の昔話しなんか聞いてもつまらんのに、ありがたいことだ。さて、古希のオイラのデザイン四方山話は、何を話そうか?などと考えていたが、今回もジョージの家具界のウラ話で盛り上がった。久しぶりの親しい仲間との飲み会は、楽しいかぎり。
KOKI
の酒」
KEIZO 22の会 -古希@ 銀座にこらしか市
試作中のウィングバックチェアたち
「ポンピラアクアリズイング」の下を流れるトヨマナイ川でも、ニジマスなどの釣りを楽しめます。
その日の気候や状況に合わせた適切なルアーを選び、キャスティングを繰り返します。それはフィッシングであるとともに、故郷の川と対話する時でもあるのです。
朝霧が川を流れてゆきます。
河川敷に群れる若いシカたち。
道の駅でも販売されている十一名物「豚丼のたれ」。
中川町の居酒屋十一(といち)。地場産材活用の補助金を活用して、Time & Styleで座面回転式のスツールを制作しました。安藤工場長のことを小さな頃から知るマスターと同窓生たちが集まり、深夜まで盛り上がりました。
中川町に子どもたちを招き、川くだりや化石発掘体験、木工体験などを行う「森の学校」を開催しています。
中川町エコミュージアムセンターは、自然史博物館と宿泊研修体験施設をあわせ持った複合施設です。中川は世界有数のアンモナイトの産地として知られ、国内最大のクビナガリュウや 9千万年前の新種の魚ナカガワニシンも発見されました。北海道第 2の大河・天塩川が形成されたのは約 800万年前。はじめはオホーツク海に注いでいましたが、パンケ山やペンケ山などの蛇紋岩体が上昇をはじめる以前の 400万年前ころ、現在のように日本海に注ぐようになったと考えられています。中川町で一番古い暮らしの痕跡は「ポンピラ遺跡」(11〜12世紀)のもので、擦文文化期の土器や住居跡が出土しました。その後アイヌ民俗が定着し、幕末には松浦武四郎をはじめとする探検家が川を分け入り、明治 30年代になると中川御料地(皇室の直轄地)の貸付をもとめ沢山の農民が入植しました。アンモナイトは、恐竜の栄えた白亜紀(1億〜7000万年前)の海で堆積した地層から多く発見されます。明治の頃、天塩川を行き来する舟は重要な交通手段で、川に囲まれた地域に中川の旧市街が形成され、大正 11年に鉄道が開通してから現在の市街地が形成されました。、当初の家々は草葺きで、夜はカンテラの明かりが頼り。主食は小麦やキビ、馬鈴薯などの他、天塩川の魚介類も貴重な食料源で、畑作の北限地でもあります。しだいに菜種やハッカ、エンドウなど販売作物が作られるようになり、特にハッカの生産は盛んでした。北海道大学中川研究林でとれた、アカエゾマツやカツラ、シナノキ、ハリギリ、ウダイカンバ、ヤチダモ、キハダ、オニグルミなど、樹齢 300年以上の巨木が展示されています。
中川周辺の森林には 448種もの高等植物が自生し、カタクリやキタコブシ、カツラなどの北限でもあります。林業が盛んだった中川では、主に冬に伐採が行われ、馬を使って山から運び出しました。木は天塩川で流送されましたが、宗谷本線の開通と共に製材所ができ、鉄道で運ぶようになりました。
牡蠣缶詰工場の子供たち大原千晴
食文化ヒストリアン英国骨董おおはら
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殻が散乱する作業場では、ボロ布のような靴をはいて作業した。昼食時間を挟んで午後五時まで、毎日約 時間、日曜を除く週六日、少年は牡蠣の殻剥き作業の現場で働き続けた。作業場に送り込まれる生の牡蠣は、女性と年少の子供でも殻が外し易いようにと、事前に 分ほど蒸す工程を通し、牡蠣の口が開いた状態で、スノコ状のカートで作業場に運び込まれる。これを女性と子供たちが取り囲み、金属製のヘラ状の道具を手に、次々と身を殻から取り外して缶に投げ入れていく(次ページ写真)。マヌエルが両手に持つ、穴の開いた缶が、それだ。二枚貝の口が開いた状態とはいえ、牡蠣の殻は刺々
きら星卓上たの15
しく、ある程度力を込めて握らなければ、身を殻から外すことは難しい。ちょっと油断しただけで、殻を持つ手の指先が簡単に傷つく。これだけは何としても避けなければならない。破傷風につながりか
第73回ち歳。まだ幼い。裸足でボロボロの膝丈のズボン、汚れ腐った前掛け。両手に大きな空き缶を持ち、しっかりとした目で、こちらを見つめている。1911年2月、アメリカのニューオリンズ東方約百キロに位置する、人口4千人ほどの港町ビロクシーで撮影されたものだ。その足元から背後にかけて、少年の背を優に越える高さにまで積み上がった、がれきのようなものは一体何か。牡蠣(カキ)の殻だ。なぜ、これほど大量の牡蠣殻が積み上がっているのか。ここが、牡蠣の缶詰を作る工場の、殻捨て場だからだ。5歳のマヌエルは、この牡蠣殻を拾い集めに来たのだろうか。そうではない。幼き少年は、この牡蠣缶詰工場に、働きに来ているのだ。住まいは、目と鼻の先。工場主が建てた季節労働者用の、ペラペラの小屋で家族と共に暮らしている。炭鉱のボタ山さながらに山積みされた牡蠣殻に囲まれた一帯は、強烈な腐臭が漂う。工場の労働者は、牡蠣のシーズンである秋から冬そして初春までの約半年間をここで過ごす、季節労働者だ。マニュエルは前の年、4歳のときから、牡蠣工場で働き始めている。4歳の幼児に、一体何ができるというのか。これが、ちゃんとできる仕事があったのだ。牡蠣の身を、殻から外す作業だ。牡蠣工場の朝は早い。毎朝午前三時、労働者たちを叩き起こす警笛が大音量で一帯に鳴り響く。マヌエルはこれを合図に、朝食をとる間もなく、眠い目をこすり、ボロの上着を引っ掛け、まだ暗い道を、両親と共に缶詰工場へと向かう。南部とはいえ、二月のビロクシーの早朝、気温は7〜8度。裸足はきつい。鋭く尖った固い牡蠣
まず、中央の写真を見て頂きたい。少年の名はマヌエル、当時5
ねないからだ。で、牡蠣の殻を持つ方の手の指先を、ボロ布で保護しての作業となる。マヌエルが右手に持つ空き缶に、そのボロ布らしきものが置かれているのが見える。マヌエルと同年代の、まだいたいたけない幼女が、実際にボロ布で指先を保護しながら作業する様子を写した一枚がある。その表情は真剣そのもの。如何に幼いとはいえ、間違いなく、彼らは労働者だ。
この牡蠣工場の労働者は、主に、ポーランド移民と「ボヘミア移民」が中心だった。
「ボヘミア移民」とは今で言う「ロマ」、かつてジプシーと呼ばれた人々を意味する。それが家族単位で雇われて、住み込みで働いた。マヌエルは英語をほとんど理解していないようだったと、撮影者が書き記している。両親もまたそうであったに違いない。では、殻外しの作業場でほとんど姿を見ない父親たちは、何をしていたのか。牡蠣漁船からの荷降ろし、荷降ろしされた生の牡蠣を満載した重量のあるカートを作業場に運ぶ作業、作業場であっという間に山積みになっていく牡蠣殻を捨て場へと運び出す作業、外した牡蠣の身を真水で洗浄する作業、煮沸殺菌、出来上がった
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缶詰を倉庫に運ぶ作業。これらは、力のある大人の男と、十代後半の少年が担当した。朝の三時から夕方の五時まで、週に六日間、肉体重労働が続く。牡蠣の旬が終わる晩春から、夏そして初秋にかけて、彼らは別の工場で働いた。果物や野菜の缶詰を
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作る作業場だ。こうして季節ごとに、家族単位での移動を繰り返しながら、彼らは働き続けた。
現在から見れば、極めて劣悪な労働環境という他はない。だが、当時飢えと背中合わせの暮らしが日常であった欧州の在所のことを思えば、家族揃ってアメリカで働く意義は十分にあった。アイルランドのポテト飢饉を例に挙げるまでもなく、欧州には食うや食わずの農民が溢れていた。第一次世界大戦を経て後、数十年の内に
「世界一の豊かな超大国」となるアメリカ合衆国も、 世紀末から 世紀初頭にかけては、幼児を含めて児童が朝から晩まで肉体労働の現場でこき使われるのがごく当たり前の国だったのだ。このビロクシーの牡蠣缶詰工場は決して「例外」ではない。工場で、路上で、店屋で、他人の家庭で、子供たちはあらゆる場所で、労働者として働いていた。アメリカが急速に豊かになり、児童教育の義務化が進展し、人権意識が高まり始める1920年頃に至って、連邦法による規制厳格化もあって、児童労働は急速に減少していく。
ところで、ごく最近、無料の食料配布所フードバンクを命綱とする貧困層が、全米で5千万人の大台に乗ったらしい。格差拡大が止まらない。米国では劣悪な環境で児童が肉体労働に追われることはもうないかもしれない。だが、新たに貧困児童のジャンクフードによる超肥満と糖尿病、そして薬物常用という大問題が生まれている。一方、我が国でも、貧困家庭で暮らす児童が増え続けているのだ。
▲ 8時 7分、旭川行き宗谷本線特急サロベツ。
特急の停まる無人駅として知られる「天塩中川駅」。月に 7日間だけオープンする「 otocafe」のオーナー・尾藤(おとう)剛弘さんと、中川に移住した木工作家・斎藤綾子さん、カゴ編み作家・小林紗織さんにお集まりいただき、移住のきっかけや日々の活動を伺いました。町長の発案で駅が改築されたのは 2014年のこと。昭和 20年代を復元し、木の窓やトドマツの外壁などレトロな雰囲気になりました。
2014年4月に移住した木工作家・斎藤綾子さん(左)と、今年5月に移住したばかりのカゴ編み作家・小林紗織さん(右)。元幼稚園を改装した工房をシェアして暮らしています。
仙台出身の斎藤綾子さんは、環境調査会社で山林のアセスメント調査に携わっていました。東北の山を歩きながら「山に入ると立派な木が沢山生えているのに、なぜ輸入材ばかり使うのだろう」と素直な疑問を抱いたそうです。そこで斎藤さんは自分自身で木工を学び、地場の木を使った作品づくりを目指します。しかし個人のために地場産材を提供してくれる町は見つかりません。そのとき出会ったのが中川町のイラストマップ「森林文化の再生」でした。▲ イラストマップ「森林文化の再生」(詳しくは◯ページ)
中川町役場に連絡した斎藤さんは、総務省の「地域おこし協力隊」制度を紹介されます。これはおおむね3年まで、町おこしに協力する移住者に活動費などを支給するもので、斎藤さんもこれに後押しされました。「友人から道北の冬は厳しいと言われましたが、実際に暮らすと冬を好きになりました。キラキラした雪の白さが違う」と斎藤さん。器の材料は主に「どんころ」と呼ばれる丸太の端材を実際に見て選び、工房として元幼稚園を使うことになりました。移住から3年がたち4月に独立した斎藤さんは、中川で暮らしながら新たな作品づくりをすすめています。
キハダ、ホオノキ、クルミなどを木旋盤で加工した作品たち。中川で育った木の生き様が伝わってくるようです。仕上げは天然素材を中心に、クルミオイルや蜜蝋を使い、最近は漆にも挑戦中。
京都に生まれ、大型家具販売店につとめていた小林紗織さんは、新しい価値観に触れたいと会社を辞めて海外への長期留学や旅に出かけます。帰国後は大学で事務や学生向けのキャリアカウンセラーを経験し、再び海外へ。ヨーロッパへの移住を考え数カ月滞在したとき、難民や移民の人たちを目の当たりにして、やるべきことをいるべき場所でやろうと思い帰国。日本に足りないことはヨーロッパのマルシェ(市場)に凝縮されていると思った小林さんは、農業を考えるようになります。wwoof(ウーフ)の制度を利用して農家を訪ねるうちに、冬の手仕事のカゴ編みに惹かれ、海外で年配の男性がカゴを持ってマルシェに来ている姿を思い出し、趣味でもよいからカゴを編めるようになりたいと思ったそうです。
中川町に白樺樹皮細工があることを知った小林さんは、旭川市のイベントで中川町役場・高橋直樹さんの講演会に参加します。そのとき隣の席にいた斎藤綾子さんと意気投合。「その場で中川町へ行ってみることに……」なったそうです。中川にはカゴ編みの材料となるネマガリダケやクルミの樹皮、ヤマブドウのツルもとれることを知り、今年 5月から中川で暮らし始めました。元駅事務室は「交流プラザ」として開放され、多目的スペースになっています。そこで 1カ月に1週間だけ「 otocafe」をひらく尾藤剛弘さんは、フリーランスの WEBデザイナーとして札幌で活躍していました。「現場でクライアントと苦楽を共にしながら、自らコンテンツを作り出し、さらに説得力のあるデザインをじっくり仕上げる仕事をしたい」と考え始めた頃、幼なじみでもある中川町役場・高橋さんの誘いを受けた尾藤さんは、WEBデザイナーとしての新しい境地を開拓するとともに、自分なりのカフェ文化を築いてみたいと中川での暮らしを選んだのです。
尾藤さんがイメージしたのは、公園や駅にあるスタンドのようなカフェ。そして自分の目で選んだ地元の食材や器、
家具で店づくりをすることでした。特に中央の大テーブルは、空間の性格を決定する大切なもの。そこで尾藤さんは、
中川産の木材を使ったテーブルをTime & Styleに依頼。センをはぎ合わせた天板と鉄水で染色したミズナラの脚を組み合わせたテーブルのほか、中川産材のスツールも完成しました。中川周辺の特産品をカフェで扱ううちに「一次産業者との出会いが増え、パッケージやホームページを依頼されるようになりました。人とのつながりを大切に
し、販路を拓くのが僕らの仕事。共に成長していきたい」と尾藤さん。 otocafeは、様々な出会いを生んでいます。
▲ソバやセンの蜂蜜は、辻井養蜂場が中川で採蜜したもの。
ドラゴンシリーズ 39
ドラゴンへの道編吉田龍太郎生きていることを感じ生きてゆくことが生きること。( TIME & STYLE )
食べたい時に好きなものを買い、好きなものを選び、お腹いっぱい食べる。ドライブすれば数百メートル毎に何でも買えるお店が 時間待っている。そこには、新鮮なパンや弁当から、数えきれないくらいの飲み物、お酒から野菜やフルー
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ツからデザート、生活用品からスナック菓子の類まで、必要なものは何時でも全て揃ってしまう。そんな食べ物の多くも
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数時間、数日後には廃棄される。余裕を持った消費期限の食物も期間を過ぎると行き場がない。
見たい時にリモコンを押せば、数えきれないくらいの番組が流れ、好きなだけ自分の欲求を満たすことができる。電話にはコンピューターが搭載されて、どんな場所でも電波を受信できるようになり、子供達は 時間携帯電話を手放すことができなくなり、ベッドの中では無作為にネットを閲覧して、無防備な子供達に犯罪を超えた性的動画や殺戮の動機となる情報が蔓延しているが世界の誰もそれを止めようともしない。
そんな機械や情報の垂れ流しで稼いだお金で仕事や事業や社会的価値が計られている。子供達に病的で凶暴なゲームを大金を投じて開発し、信じられないような大きな利益を上げている企業が資本主義の論理で上場してさらなる躍進を遂げる。そしてそのようなゲーム開発に人生を投じることで豊かな生活を送ることができる。
それが今の世の中でもある。コンピューターでは様々な動画サイトからどんな種類の映像でも直ぐに誰でも無制限に見ることができる。映像から得られる情報は私達の頭の中を混乱させてゆく。何が真実なのか架空なのかが実感できなくなる。街を歩いていても、信号待ちの車内から歩道を見ると、立ち止まった信号待ちの人々の目は手元の携帯電話の中にある。そして、信号が変わって歩き始める人々の目には人間としての生きている感情を読み取ることができない。電車を待つ人々の頭は斜め前に倒れ、右手には小さくて薄い画面がいつも握られている。そして、その右指は会話をするような速さで画面のキィを押し続けている。誰かと話すように口は一文字に閉じたままで無表情な会話を指先
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を動かしならが、誰かに向けてメッセージを送り続ける。
時間があれば誰かを探して無作為に必要もない会話が続いてゆく。街角にはロボットが置かれ、人間よりも人情味溢れる言葉で子供達や老人の感情を巧みに揺さぶりながら、人間の心の隙間を埋めてゆく。子供達はロボットと人間、そして機械と動物を混同し始めて、動物の生命の価値や意味、その命の尊さを知ることができない。全てはロボットやコンピューターが自由にしてくれる。
そして、時にはきらびやかに飾られた場所で、無駄に思えるくらいの一家の生活費に匹敵するくらいの豪華な食事を取って満足した時間を過ごす。窮屈な座席では物足りず、脚を伸ばせるような待遇をステータスとして旅の条件に求め始める。高速道路が制限速度が時速 100キロメートルの国に時速 300キロメートルを超えるスピードの車がゴロゴロとして、都内の地下駐車場はまるでアラブの富豪の駐車場のように世界の高級車のショールームさながらである。
福島の原発は何事も無かったかのように政治家は目と口を閉ざしているし、福島の原発廃炉や撤去に向けた具体的な話が話題になることも政治家から語られることも無くなった。休止していた原発の再稼働に政治家はコソコソと姑息に動き始める。そして、戦後 年以上に渡って沖縄を苦しめてきた米軍基地の移転を少しだけ横に移動させて、美しい珊瑚礁の海を埋め立てて作り、沖縄の本当の平和的な生活を保障しようという気持ちは微塵も無いし、将来も沖縄の人々に日本国民の苦しみを負担させようとしている。まさに見殺しにすることに平気なのが日本人であり、日本の政治家であり、日本人の国民気質なのだ。
昔からずっと変わっていないし、自分達だけが良ければよいのだろう。親が死ねば必ずと言って良いほど財産分与で兄弟子供達の争いが絶えないのが日本人の現実だろう。墓にも持って行けないような土地や家や金を目掛けて恥も無く群がるのが日本人の特徴だ。他人に優しいとか温厚だとか謙虚だとか、羞恥心があるとか、と言われる日本人像などは幻想に過ぎない。
中川の町有林は、面積約 2100ヘクタール。中川町の山林の約 5%を占めています(他は国有林 67%、北大研究林 24%、私有林 5%ほど)。町有林の管理・運営を担当する町役場の高橋直樹さんに、町有林の現状と将来の展望をうかがいました。町有林の入り口に積まれた広葉樹は、大半が名寄などのチップ工場に運ばれ製紙工場で紙の原料となっています。
高橋さんが町有林の担当となって約 10年。産出量は少ないものの、町の財産である広葉樹がパルプになっていくのを残念に感じていた高橋さんは、イラストマップ「森林文化の再生」を描き実現に尽力してきました。そして今、絵図はひとつづつ現実となっています。そのひとつは北海道大学中川研究林との包括連携協定。これによって北大から森林管理のアドバイスをうけたり、お互いにゲストを案内できるようになりました。また木工作家・斎藤綾子さんの移住を後おしした「木工クラフト作家の育成」も、このマップに描かれています。中川のクルミ材を利用する東川町の家具工房・工房宮地では、町有林に注文主を招待しクルミの伐採式を行っているそうです。またTime & Styleでは東京のショップスタッフを町有林に派遣し、木に対する理解を深めています。また旭川家具工業協同組合に対しては、家具材料となる広葉樹を定期的に供給しています。こうした家具メーカーとのつながりを大切にしながら「中川産材ブランド」の木を確立していきたいと高橋さん。鳥のさえずりや木漏れ日の心地良い町有林は傾斜のゆるい土の道で、崖の方に表土を集め、木の芽が生えやすくなっています。
オニグルミの樹皮やヤマブドウヅルもよく採れます。林業は素人だった高橋さんですが、町有林の担当となり、各地の林業関係者とも連絡をとりあって、木々の知識を蓄えたそうです。
町有林にはウダイカンバ、シラカンバ、ダケカンバ、イタヤカエデ、ミズナラ、ホオノキ、クルミ、トドマツ、オニグルミなど多様な木々が生えています。家具材料として有益に利用される木を育てるためには、定期的な「間伐」など森林整備をすすめる必要があります。間伐は樹種によって適切な時期が異なり、早めに間伐しないと曲がってしまう木や生長を止めてしまう木があるそうです。何世代にもわたる森林の運営には、過去の作業の記録と管理が欠かせないのです。高橋さんの案内で、ハリギリの芽やシナの花など、森が命を繋いでいく仕組みを学びました。「今まで、北海道の広葉樹生産は自然の恵みを収穫するだけでした。これからは人の手で積極的に広葉樹を育てていきたい」と高橋さん。そのことを理解してくれる家具メーカーなどのパートナーに材料を供給しながら、目標林形にそった森に近づけたいそうです。
谷に突き出たデッキの上から、木々を観察できます。町有林を歩く体験は、山登りともハイキングとも違いました。家具に使われる広葉樹がどんなに貴重なものか。日本の森林を維持し、利用していくためには何が必要か。山道を歩きながら、木を育てること、利用することの大切さを心と身体で感じとれました。
小林 清泰アーキテクチュアルデザイナー ケノス代表
この夏、美術展巡りデッサンの魅力 その1
私にとってこの夏は、好きな 2人の作家の充実した美術展に恵まれ、ときめく夏となりました。一つは彫刻家アルベルト・ジャコメッティ(A lberto・G iacometti)展。もう一つはレオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo・da・V inci)とミケランジェロ(Miche langero・Buonarroti)展です。充実した美術展だと感じたのは「デッサン」が多いからです。デッサン(dess in)という言葉はフランス語で、日本語では「素描」、英語では「draw ing」です。著名な画家や彫刻家は、誰もが素晴らしいデッサンを描いています。まず、ジャコメッティの人物デッサンですが、一度見たらその不思議さを忘れる事が出来ません。オーソドックな上手さとは全く異なり、描く対象を自らが感じるままに突き詰めに突き詰めた人物の顔や体を描く線が、画面の中央部に集中して細く、強く、重なり合いそして交錯して踊っているのです。版画を含む見応えあるデッサン系の作品が 80点ほど集められていて、そ
アルベルト・ジャコメッティ《ディエゴ》1949年、鉛筆、紙マルグリット &エメ・マーグ財団美術館、サン=ポール・ド・ヴァンス ©Archives Fondation Maeght, Saint-Paul de Vence (France) Photo Claude Germain
れを見るだけでも作風の変遷が大きく感じられ、展示企画の意図も素晴らしいものです。ジャコメッティ(1901. 1966)はスイスに生まれ、主にフランス・パリのモンパルナスで創作を行いました。パブロ・ピカソやコンスタンティン・ブランクーシも同時代に近辺にアトリエを構えています。20世紀を生きた作家なので、制作途中の様子や自宅を出てカフェで気持を整えるモノクロ映像が残っています。そのなかには、小さなアトリエで白い画面にデッサンを描き進める様子やその画面のアップ、針金のような細いフレームに粘土を張り付け削ぎ取り、それをイメージするままに繰り返す姿も記録されています。ジャコメッティはとにかく、モチーフ(人物・モデル)を絶え間なく見つめ観察しています。手を動かすよりも観察時間の方が長く、描く対象を把握しそこでつかんだものを次々と画面に描いていく姿は、デッサンという行為の本質を表す感動的な映像でした。さて最近は、撮影可能な展示室を用意する美術展が増えました。インスタグラムやフェイスブックに対応し、作品の画像をその場でアップロードしてもらおうという、SNS時代の重要な集客手段なのでしょう。メインは当然ながら彫刻で、彼の作品の中では大型の3点です。高さ183cmの「歩く男Ⅰ」、95cmの「大きな頭部」、276cmの「大きな女性立像Ⅱ」が、高い天井と広いスペースの部屋に置かれていました。どの作品も顔も体も足もすべて細く、「消え入りそう」に見えます。作品と置かれた空間の対比も計算済みの効果です。話は飛びますが、デンマーク・コペンハーゲンの北、車で1時間ほどの海沿いに、世界的に有名なルイジアナ美術館があります。そこにジャコメッティの作品ルームがあり、やはり大きな作品が展示されています。2回訪れましたが毎回時間が足りず悔しい思いが募っていました。今回は美術鑑賞用7倍双眼鏡を持参し、時間も充分とってじっくり対象に迫ることができました。そのお陰で新しい発見が数多くありました。細く消え入りそうな人体の各部に、肉眼では見えなかった彫りの深さと空間の奥行き、複雑で表情のある面があります。その角度によって陰影を与え、それにそった人の視線を繊細なディテールへと導き、またもとの全体像へと戻すといった、計算され尽くした造形意図の見事さを初めて感じ取れました。またジャコメッティ作品は細さが個性とされますが、それはほんの一部です。私なりに気づいたのは脚部の大きさです。前述のように顔も体も腕も手先も腿も膝下も全
大型作品を展示した撮影可能な部屋。
て細いのですが、足首から下のボリュームが異様に大きいのです。普通のバランスではありえません。そこで足首の部分だけを指で視界から隠しながら鑑賞してみました。予想通り、ただ細いだけの存在感の薄い彫刻が目に飛び込みます。改めて指を外して全体を視界に入れると、細さに加えて施された表面の凹凸感が深い精神的な思索を語り、大きな足首の存在感が、その上部の全てを弱めて存在のデリケートさを強烈に強調するのです。先ほどの弱さは微塵もありません。きわめて強い存在感を放つのです。ものの認識や意味、あるいは美しさは全て相対感で決定されている事、また作家の造形意図を改めて理解できました。
今回のジャコメッティ展は、国立新美術館の 10周年イベントであり、初期から晩年まで総数135点ほどの大回顧展でもあります。ここで面白いエビソードをひとつ。後日、当美術展の企画者で、「エ!こんなに若い女性なのか」とびっくりさせられた学芸員の方のお話を聞く機会がありました。実はジャコメッティはマリリン・モンローが大好きだったそうです。作品との対比というかギャップが凄まじいですね。あの禁欲的なイメージのジャコメッティもやはり一人の男性なのだと分かり、何とも愉快な気持になりました。次回は主にダ・ヴィンチのデッサンを取り上げます。 ■
横浜出身の酪農家・丸藤英介(がんどう ひでゆき)さんは、大学で経営工学を学んだのち酪農家を目指して北海道や神奈川で修行。平成 20年に中川町の牧場を購入し移住しました。丸藤牧場の特徴は牧草地に牛を放し、自然のなかで育てる 「放牧酪農」。北海道といえば牧草地で草を喰む牛たちの姿を連想しますが、今は酪農家の多くが牛舎の中で牛を飼っています。一方、丸藤牧場では 5月から10月にかけて、できるだけ牛たちを放牧場で過ごさせ、牛や昆虫、ミミズ、太陽など、自然の力を最大限に活かした牧場経営を実践しています。
夏の午後、去年の秋に生まれた子牛たちがヤチダモの木陰で休んでいます。「牧場の落葉樹は日陰を作ってくれるのでありがたい」と丸藤さん。生まれてから約 2カ月間はミルクをあたえ、その後は牧草だけで育て、濃厚飼料(コーンや麦、豆類などを配合した飼料)は一口も与えていないそうです。子牛は病気などにデリケートなため、放牧場にいるのは珍しい光景です。分娩を控えた母牛たちも、木陰でのんびりしています。秋になるまでは夜間も放牧場に出しっぱなしですが、暗くなっても目は見えるようです。草を食べた牛の糞には虫が入り込み、小さな穴が沢山開いていました。糞は虫によって分解され、ミミズによって土が耕され、草の繁殖地となり自然な循環が生まれます。牧草は主にペレニアルライグラス、オーチャードグラス、リードカナリーグラス、ホワイトクローバーが育っていて、そこから成長や産乳に必要なエネルギーとタンパク質を充分にとれているかどうか、その見極めと対処が難しいと丸藤さん。お乳のはった搾乳牛たち。メス同士で背中に乗る(乗せる)行為は発情のサインで、発情期を見逃さず人工授精を行います。12〜 14カ月ごとに妊娠させることで、生乳の生産と子牛の繁殖を維持することが牧場経営には欠かせないそうです。北海道の牧場では、一頭あたり年間平均 9,000kgの生乳を生産し、濃厚飼料を3トン与えます。一方、丸藤牧場では年間 7,000kgの生産に対し、濃厚飼料を1.3トンにおさえ牧草でまかなうことで、飼料にかかるコストを下げています。
丸藤さんが牧場に魅力を感じたのは、酪農によって大地から牛乳が生み出され、ひとつの家族が豊かに生活できることだったそうです。それを持続するにはシビアな経営判断が不可欠で、濃厚飼料に頼らない理由のひとつは、外国の穀物相場に左右されにくい経営を行うことといいます。丸藤牧場の面積は約 62ヘクタール。牧場の購入には、新規就農にあたり 5年間までリースにできる国の制度を利用しましたが、リース料の半額補助や固定資産税の免除、長期資金の補助など、中川町の補助制度は他の町に比べ手厚いとのこと。中川を選んだのはペレニアルライグラスという栄養価の高い牧草が育つことと、町が協力的だったことだそうです。
放牧酪農には牛舎の掃除や餌やり、糞尿処理の手間が減るといったメリットがあり、労働時間の短縮にもつながります。そのかわり冬は牛舎、春から秋は放牧といった四季の変化に応じたノウハウが必要で、特に牛舎から外にだす春先は気を使うそうです。丸藤さんは牧草からの搾乳量をより高める研究をすすめ、今は町内の酪農家たちと勉強会を開いています。
「牛を飼うというよりは、気持ちよく過ごす環境を整える感覚」と丸藤さん。今朝とれたばかりのミルクは、生クリームのような濃厚な味わい。牧草が牛によってミルクへと変化していくことの不思議を感じました。
ペンケ山とパンケ山を望む、中川で最高の景色。人も牛も気持ちよさは一緒です。日が少し陰ると牛たちが草を喰みに出てきました。
7月 21日、中川町生涯学習センター 「ちゃいむ」にて恒例のぽんぴら市が開催されました。居酒屋十一や otocafeも出店し、太鼓の演奏などで夜まで盛り上がっていました。小さな子どもたちも沢山集まって、中川の若いパワーを感じます。
僕らのリズム
照明入る。右袖から半二郎が登場。あばら家。
黒い着流し。幾多の刃が身のすれすれを引きちぎった跡。ボロボロの黒
衣。あばら家は天井にぼっかりと穴が空いている。月光がしらじらと足元に落ちている。半二郎は左右を見回し、安堵するように小さなため息をついた。しゃがみこみ小さな童女、手毬の肩を優しくつかむ。生きろ、逃げよ、と諭す。ふたたび立ち上がり妻に裏木戸から逃げよと命じる。手毬の腕を引く女。しかしその腕を振り払い、走り戻り、父の膝にしがみつく手毬。背中を向けて立ったまま目を閉じ何かに堪える半二郎。しかしすぐにもう一度しゃがみこみ、今度は少し強く諭す。2人を見送ると裏木戸に背をつけ守るように立つ。下を向く。表情は見えない。入り口からドカドカと三人の追っ手が乱入してくる。ゆっくりと顔を上げる半二郎。体の大きな2人の従者には目もくれない。後ろにひっそりと立つ、ひょろりと痩身の若者に目を合わせる。じりじりと体を移動させる半二郎。いつの間にか右手に小刀を握っている。仮に同じ形の小刀を二本合わせると柏の葉の形になる。これが半二郎の必殺の武器。その名も、半葉の小刀。半二郎はこの刀で何百人の命を奪ってきた。目の前の若者に刃を教えたのも半二郎だ。二人の従者がスルスルと近づいてくる。後ろで浅く呼吸する、若い男、月光左膳もぬらりと細く長い刀身を抜いた。そして近くの山寺の鐘が鳴る。それがバーサスの合図となった。半二郎が地面をゴロゴロ転がる。転がって飛び込んでは相手の後ろから五寸の小刀を突き入れる。従者たちの太刀が半二郎の黒衣を引きちぎっていく。しかし半二郎の身には傷一つつかない。逆に従者二人の体が血にまみれていく。飛び込んでは転がる。血の花
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野田 豪(AREA )
が咲く。飛び込んでは転がる。またもう一つ血の花が咲く。従者たちの動きが緩慢になるや、半二郎が宙に舞った。肩に飛び乗り、首を掻き切る。瞬く間に従者二人は死体となり転がった。月光左膳がそれをまたいで前に出る。半二郎は首を振る。よせ。お前を切りたくはない。お前のことはなにもかも知っている。若者が刀身を担いだ。くそっ。半二郎も右手の小刀を担ぐようにして背中に隠した。左手は前に突き出し、手のひら
!!
は開いて相手との距離を測っている。その格好のままゆっくりと右に回る両者。半二郎が口を開いた。左膳よ。人は人を殺すために生まれてき
!!
たのではないのだ。半二郎は絶叫した。人は人を生かすために生まれてきたのだ。俺たちは間違えていた。国の勝った負けたなどどうでもいいのだっ。気づいたのだ 俺は 小さな娘に、手毬にそれを教えて貰ったのだ !!問答無用と左膳の刀身が宙を駆けた。刀身が月光の残像を引き、上から下へ、後ろに飛んだ半二郎を追うようにして、下から上へと疾った。それをのけぞり避けた右のこめかみにジリッと熱風の予感が弾ける。とっさにしゃがみ込んだ。半二郎のこめかみのあった場所を、左膳の月光剣が横薙ぎに走り抜けた。前に転がり左膳の背中へ逃げる半二郎。左膳 !!刀を収めよ !!嵐のような左膳の刃圏をかわしながら半二郎が吠えた。わからぬかっ !!ついに半二郎が半葉を右手逆手に持った。その手で左膳の目を突く。頭を振って避ける左膳。しかし右手に刃はなかった。突く寸前に左手に落とした半葉。密着した左膳の脇腹をその刃が浅く削った。左膳が小さく呻き、思わず距離を取ったその瞬間。半二郎が背にしていた裏木戸の向こうから声がかかる。とうさーん !!背筋が凍った。なぜだ !!手毬 !!なぜ戻ってきた !!足が硬直したその瞬間を左膳が見落とすわけがなかった。右肩の首元近くから左膳の白い刃がもぐり込んだ。月光の蒼い残像がそれを追うように縦に走る。目の前に左膳の顔。血の涙。少年の頃の左膳の瞳。左膳よ。そうだな。一緒に行こう。ごつんと半二郎の背骨が断ち割られた刹那、右手の半葉がくるりと舞った。下から左膳の喉を貫いた。半二郎は左膳を抱くように崩れ落ちた。行け !!手毬よ !!この世はもっと……。
照明が落ちる。暗闇の中、半二郎は愛しいものを抱きながら、ゆっくりと崩れ落ちる。
幕
北海道大学北方生物圏フィ.ルド科学センタ.の「森林圏ステーション」は、北海道の天塩・中川・雨龍・札幌・苫小牧・檜山と和歌山の計 7カ所に、面積約 700k㎡ (日本の国土の約 500分の1)という広大な研究林を所有しています。そのなかで中川研究林は中川町と音威子府村にまたがる約 190k㎡の森林で、明治 35年(1902)に北海道国有林より所管替えを受け創設されました。中川のシンボルでもあるペンケ山、パンケ山を含む地形は起伏が激しく、数多くの川が流れています。地質は大部分が中生代白亜紀の堆積岩で、一部に蛇紋岩が分布し、さまざまなタイプの森林が存在するのが特徴です。
今回は、森林圏ステーション北管理部技術室の技術班長・奥田篤志さんのご協力で、普段は入れない中川研究林を案内して頂きました。林道は天塩川に流れ込む小さな沢をいくども渡ります。シャケやマスなどが、川で生まれ、海で育ち、やがて産卵のため川に帰ってくることで、まるで生き物の毛細血管のように山〜海〜山へと栄養の循環が行われています。
ペンケナイ川を車で遡っていくと、樹木のバリエーションが多い混合林がひろがります。クマザサやチシマザサなどが密集した場所は地面に日光が届かず、若木の生長を阻害しています。
60年に一度といわれる笹の花が咲いていました。開花のあと笹は一斉に枯れるので、木々にとっては生長のチャンスとなり、ミズナラが一斉に更新することもあるそうです。中川研究林では、木を全て伐り倒す「皆伐」を行わず、樹齢 100年弱の木を計画的に伐採しながら、資源回復とのバランスを図った森林の運営を研究の一環として行っています。
左はニレの木などに生えるタモギダケ。右は地衣類と苔がついたケヤマハンノキ。洪水や崖崩れなど「撹乱(かくらん)」の起きた場所には、真っ先にヤナギ類が生え、次にハルニレやヤチダモなどが育ち、河畔林が形成されていきます。
小川にはカジカの姿が見えました。カジカは団子のような姿をした魚で、シマフクロウの餌になります。研究林には他にも様々な鳥がいます。家具には欠かせないシナの木も立っていました。
ペンケ山を登っていくと、マツの木にマーキングされたクマの爪痕を見つけました。クマは一頭ごとに縄張りや餌場をもち、それを主張するためのマーキングを行います。人との接触が少ない個体ほど長生きする確率は高くなるそうです。
クマの糞を見つけると、奥田さんは車を止め観察に出ます。北海道のクマは大半が植物食で、たまにシャケやシカを食べるそうです。このクマの糞も植物を食べたものでした。
パンケ山を上ると、笹の背が低くなっていることに気づきます。笹の高さは積雪の高さに対応するため、積雪が少ないことを示しています。強い風に吹かれながら山頂へ登っていくと、ハイマツ帯に入ります。ハイマツの生長量を長期間計測することで、温暖化の影響を調べているそうです。枝の先が千切られているのは、クマが食べたあとです。
標高は600mほどしかありませんが、ペンケ山の山頂からは強い風に吹かれ山にへばり付くように生きてきた樹々が見えます。山頂付近にはコケモモの密集したベッドがあり、実りの季節にはクマがやってくるそうです。
天気のいい日には、北の方向に日本海が見えます。右の方向はオホーツク海です。アイヌの伝承ではペンケはお父さん、パンケはお母さんの山と伝えられています。
パンケ山に初めて登った安藤工場長。天塩川に沿って発展した、生まれ故郷の中川町を見つめます。
蛇紋岩はマグネシウムを多く含み樹木の生長には適しませんが、アカエゾマツの根は必要な物質を選択して吸収して、根を浅く張るため、蛇紋岩地帯に純林を形成すると考えられています。
林道の脇に倒れたアカエゾマツの大木。若い木は生存競争を耐えながら、大木が倒れ、自分が生長するるチャンスを待っています。倒木は朽ち果て木の芽が育つ土壌になります。▼フキの茎が蛇紋岩の影響で紫色になっています。
パンケ山を下り、蛇紋岩が多く見られる河原にでます。山の標高や地質の違いなどが組み合わさり、針葉樹と広葉樹の入り混じった、多彩な森林が生み出されたことがよく分かりました。
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