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時空を超える美意識
12月号 柚子湯 2017
http://collaj.jp/
駒込界隈 記憶の街歩き
江戸城の北、駒込駅を中心に文京区・豊島区・北区にまたがる一帯は、江戸の町の拡大とともに大名の中屋敷、下屋敷が多く建てられました。明治になると三菱の創業者・岩崎彌太郎の購入した広大な土地がその中心となります。江戸城と日光を結ぶラインが、その真ん中を抜けています。
旧古川庭園は、古川家の本邸として大正 8年(1919)に竣工しました。西洋庭園と日本庭園をあわせ持つことが特徴で、建物と西洋庭園(欧風花壇)はジョサイア・コンドル。日本庭園(池泉回遊式)は植治(7代目 小川治兵衛)により作庭されました。
旧古河庭園の特徴として、西洋庭園と日本庭園の共存があげられます。建物のプランと同様和洋折衷ではなく、洋と和をはっきり分けながらも、その接点に気を配っているのが特長です。コンドルは長年日本庭園の研究を行っていて、ここでは武蔵野台地の高低差を活かし、幾何学的な西洋庭園と自然主義的な日本庭園を違和感なくつなげることに成功しています。
3段になった西洋庭園の階段を下りていくと富士山の溶岩をで築いた石垣があり、日本庭園との境界となっています。古河市兵衛は足尾銅山を基盤に財閥を築きますが、鉱毒問題は虎之助の代になっても社会から強い非難を受けていました。古河の副社長を務めた原敬のアドバイスで、虎之助は北海道大学古河記念講堂などの校舎建設に多額の寄付をしています。京都の庭師・植治こと7代目小川治兵衛は、京都疎水を生かした南禅寺界隈の別荘庭園で知られます。植治は宝暦年間から続く作庭家で、近代造園の先駆者といわれる7代目は17歳のとき小川家の養子となり19歳で治兵衛を襲名。自然の景観と躍動的な水の流れを調和させた自然主義的な作庭が特徴で、庭内の渓谷は最も力を入れた場所といわれています。
第一世界大戦が勃発すると、銅の需要に後押しされた古河財閥は経営の多角化をすすめ 20社以上を束ねる一大財閥となります。旧古河邸が竣工したのは、まさに栄華の時代でした。1929年の世界恐慌で古河財閥は一時失速しますが、現在の古河電気工業や富士通、横浜ゴム、日本軽金属など工業部門の好況によって、1930年代に再び急成長しました。
旧古河庭園から西へ「染井霊園」まで歩いてみました。霊園入り口近くの天理教東京教務支庁敷地内に、近衛文麿(このえふみまろ)の旧宅「荻外荘(てきがいそう)」の約半分が移築されています。歴史的会談の舞台となった旧邸はもともと杉並区荻窪にあり、建物と庭は「荻外荘公園」として整備中です。この建物も荻窪へ再移築して復元する計画があるようです。
文人や芸術家の墓所も多く、高村家(高村光雲、高村光太郎、高村智恵子)や岡倉天心(右上)、二葉亭四迷(右下)のほか、建築家の佐藤功一、写真家の下岡蓮杖、築地小劇場の土方与志、『滑稽新聞』の宮武外骨など、枚挙に暇がありません。近くには芥川龍之介や谷崎潤一郎の d眠る慈眼寺もあります。
小林 清泰アーキテクチュアルデザイナー ケノス代表
ダ・ヴィンチ×ミケランジェロ展.2
昔からの違和感を解いた、切っ掛け展覧会
この夏に行われたこの展覧会は、世界的に有名な 2人の天才の素描を比較するという視点で展示のストーリーを構成していました。レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo・da・V inci、1452.1519)と、ミケランジェロ(Miche langero・Buonarrot i、1475.1564)。年の差 23歳で、ともにトスカーナ地方の比較的近くで生まれています。ルネッサンス時代の数ある芸術家の中で『神のごとき』と称されたミケランジェロ。それに対して絵画はもちろんのこと砦や兵器の設計、飛行機やヘリコプターの原理まで描いた『万能人』と云われるダ・ヴィンチですが、今回主に取り上げるミケランジェロはいうまでもなく彫刻家です。前回とり上げたレオナルドの「少女の頭部/《岩窟の聖母》のための習作」(1483. 85年頃)と並んで展示されたのが、ミケランジェロの素描の中で特に評価の高い「《レダと白鳥》の頭部ための習作」(1530年頃)でした。フィレンツェのカーサ・ブオナローティ(ミケランジェロ記念館的美術館)所蔵です。縦 355mm×横
ミケランジェロ・ブオナローティ
《<レダと白鳥 >の頭部のための習作》1530 年頃カーサ・ブオナローティ蔵 ©Associazione Culturale Metamorfosi and Fondazione Casa Buonarrot i
269mm、紙に赤のチョークで描かれています。眼の周りは点描のように緻密なシャドウが施され、耳部を紙の白を薄く残して、首の後ろから頭部に掛けての右上がり(右利き)の、ラフではあるが美しいクロスハッチングで頭のボリュームをまとめています。鼻筋、額、目の脇の部分の白等、顔部に残したハイライトが、彫刻(立体)にした時に斜め上から当たる光を受ける面のリズムを計算した「正に彫刻家の素描! 」です。レダと白鳥というテーマは西洋絵画・彫刻のモチーフとして、数多くの芸術家が取り上げています。白鳥に変身したゼウスがスパルタの王の妻レダを誘惑するギリシャ神話にもとづくもので、ミケランジェロはその時のレダの表情を男性モデルで素描しています。テーマ《レダと白鳥》はミケランジェロもレオナルドも描いていますが、両作とも弟子による模写作品で、オリジナルは現存しません。理由は、男女の性愛を暗示する危険なものとして、宗教的な観点から破棄されたのではと推測されています。
■ 彫刻家の素描と画家の素描の違い
彫刻家の素描は、彫刻制作にかかる前にモチーフの持つ形態の把握、特徴確認ワークと自身が目指す造形効果の推測ワークであると捉えています。立体造形が最終作品である彫刻家にとって素描の制作は、メモの様なものといえるでしょう。その一方、画家の素描はメモではなく、完成する絵の部分的な下書きであると考えています。素描でも作品とも云えるという事です。レオナルドの「少女の頭部/《岩窟の聖母》のための習作」に描かれた線一本一本を注視して気が付きました。今まで彫刻家の素描と画家の素描双方の持つメッセージ性の違いや意味を無意識に探し求めていましたが、今回見較べて初めて違いを納得できた、絵画好きな私の一方的な見解です。レオナルドは「絵画と彫刻では、どちらが芸術的な価値が高いか」と質問をされた時、ニュアンスとしてこのように述べています(正確な言葉ではありません)。「彫刻家は元々立体であるものを立体で作る。画家は元々立体(3次元)であるものを平面(2次元)上に表現するのだから難しい …… 」。
■ダビデ像の違和感はどこから?
最後の部屋に「十字架を持つキリスト」が置かれていました。真っ白い大理石で、十字架を右手に抱え復活した全裸のキリスト像です。ロ -マの貴族が叔母から受け取る遺産相続の条件として、ミケランジェロ作のキリスト像をその祭壇上に飾る目的で途中まで制作されたようです。十字架上のキリスト像といえば、常識的には髪は長くやせ細っていて小さな腰布を巻いた姿が思い浮かびます。また北欧で信仰され中欧に広まったピエタ(哀れみ、慈悲を表すイタリア語)信仰によるピエタ像(十字架からおろされたキリストを抱くマリア)のなかで、特に有名なのがバチカン・サン・ピエトロ寺院にあるミケランジェロ作のものです。マリアが若すぎて不自然とい
う声もありますが、マリアの膝に横たわったキリストは自然な痩せ方で彫られています。ところが展示の最後を飾ったこのキリスト像は、復活したキリスト(ジュスティアーニのキリスト)として両手・両足の甲に釘穴が彫られているものの、その体躯はオリンピックの金メダリストや若手のプロレスラーをも凌ぐような強烈で圧倒的な体つきで主張しています。十字架など眼に入りません。そして私がもっと大きな違和感を感じたのは背中側の表現でした。その背中は非常に幅広で、加えて筋肉が背丈にそぐわない盛り上がりで、気持が重くなるものでした。これは造形以上の別の思いで彫られていると感じました。復活したキリストは痩せているべきと決めつけている訳では全くありません。彫刻としての美が私には伝わって来ず、別の感慨が強く響きました。それはミケランジェロは本当に男性が好きだったんだな.という感慨です。この時はっきり、ミケランジェロは自分が美しいと考える男性の理想の姿を、この全裸のキリスト像に与えたのだと直感しました。フィレンツェへは仕事で 2度訪れていますが、代表作である「ダビデ像」はまだ見られていません。写真レベルでのダビデ像はよく目にしていました。でも若い頃、なぜか自分の中に素直に入ってこなかったのです。この像は彫像部だけで高さ 5.2mもあり、下から見上げることを想定しているため、頭部が大きく作られ、写真で見るとバランス悪く見えます。しかし今回の「復活したキリスト像」を直に見て、やっと気が付きました。ギリシャ時代の男性彫刻像とは異なると感じていた違和感はバランスの問題だけではだけではなかったのです。どんな作品でもオリジナルが放つパワーは全く違います。ダビデ像もフィレンツェで見れば全く異なることを感じ取ると思います。この夏の美術展巡りは、私にとっていくつもの得難い経験と気付きをもたらしました。 ■
港区南青山 3丁目から、文京区本駒込 5丁目に移転して半年たったギャラリー「ときの忘れもの」。移転先の LAS CASAS(1994年)は、阿部 勤さん(アルテック)の作品です。
10月31日〜11月25日「細江英公写真展」のパーティ。細江さんは会期中、写真家として初の旭日重光章を受賞されました。
「ときの忘れもの」の開廊は 23年前。300回近い展覧会を開催し、磯崎新さんや安藤忠雄さん、石山修武さんなど、建築家によるアート作品も手がけてきました。そのパーティには多くのファンが集い、作家を囲んだサロンとなっています。本駒込は東方征伐にむかうヤマトタケルが味方の軍勢を見て「駒込みたり」といった駒込一帯に含まれ、昭和 22年、本郷区と小石川区が合併した際に、本郷区の駒込という意味から「本駒込」と名付けられました。こうしたエピソードを楽しく話してくださるのは、亭主の綿貫不二夫さん。都へ帰るヤマトタケルが、荒海に身を捧げた愛妻・弟橘媛を追慕したことから名付けられた、嬬恋村(群馬県)の出身です。代表の綿貫令子さんは「ときの忘れもの」のルーツともいえる「現代版画センター」の時代に、久保貞次郎氏の紹介で綿貫さんと出会い 40年に渡り活動を支えてきました。
現代版画センターが発行した会報誌のひとつ版画コミュニケーション誌『 ed 』(1984〜 85年)。表紙は磯崎新さん。会報誌はタイトルを変えながら、1975年〜85年までの10年にわたり105号発行されました。いま現代美術界や建築界で活躍する著名人の、デビュー当時の交流や発言、イベントの様子を伝える貴重な史料となっています。
現代版画センターは1985年に活動を終えるまでの10年間で、約 80人による700点以上の版画作品を制作しました。2018年1月16日〜 3月25日まで、埼玉県立近代美術館(さいたま市浦和区常盤)では「版画の景色 現代版画センターの軌跡」と題した展覧会がひらかれ、その活動の全容が初めて明らかになります。もともと住居として設計された「LAS CASAS」。床にタイルを張ったインナーテラス的な空間をエントランスや通路、リビングに配置し、都市にありながら自然を感じられるプランです。作品を掲載した『新建築 住宅特集』(1996年 4月号)の中で阿部勤さんは、断熱や遮音、気密性の向上と共に、光・風・視線・気配を「透す(通す)」機能が失われつつある。個室化のすすむなか、透過性の高い空間を平面や上下軸に展開し、光や風や気配の伝達空間とする、と記しています。阪神淡路大震災や東日本大震災、熊本地震をはじめ、9月のメキシコ地震など大災害のたびにチャリティーオークションを開催し、ファンからの支援を現地に届けています。
画廊の大切な役割として「新しい才能を見出し、その作品を次代に継承する」ことをあげる綿貫不二夫さん。草間彌生さんや磯崎新さんをはじめ、アーティストや建築家、評論家、編集者に、様々な試みの舞台を提供してきました。
今年も残りあと僅か。ワインの売場では、金銀のきらびやかな紙で包まれた泡立つワインが目立ち始める季節だ。スパークリング人気は上昇中で、伝統のフランス、ドイツ、イタリア、スペイン、ポルトガル、チリ等のワイン強国から、昨今はアルゼンチン、ギリシア、ブルガリア、ハンガリー、アルメニア、トルコ、ロシア、アゼルバイジャン、南アフリカ、イスラエルに至るまで、世界中から多種多様なスパークリング・ワインが輸入されている。十年前には考えられなかったことで、誠に結構なことだ。
そんな激しい販売競争が行われている泡立つワインの日本市場で、新たに販促活動に力を入れ始めた銘柄(地域)がある。イタリア・ヴェネト州のスパークリング「プロセッコ」だ。率直に言って、本誌の読者でも「プロセッコなんて発泡ワイン、聞いたことがない」という方が大半ではないか。「イタリアの発泡ワイン」と聞けば、ワインを多少知る人なら「アスティ・スプマンテ」と答えるはず。それくらい、こちらは知名度が高い。改めてこれに戦いを挑む形の、イタリア北東部ヴェネト州を代表する原産地呼称 DOCプロセッコ。中でも格別の
DOCG
プロセッコ・スペリオーレ
(Prosecco
Superiore)を産する地域は、世界的な観光地ヴェネツィアの陸側の玄関口メス
キロ
の急峻な丘陵の続く地
日、イタリア大使館貿易促進部、プロセ
ッコ・スペリオーレ DOCG保護協会並びに同ジャパンの主催で、販売促進のための記者発表とそれに続く試飲会が目黒の雅叙園で催された。当日は、ヴェネト州から来日した保護協会の理事、プロセッコ醸造元8社の代表者、ジャパン代表の林茂氏がそれぞれ挨拶を行った。プロセッコ協会はその設立が 1962年、同スペリオーレの DOCG認定が 2009年。十年前には存在しなかった「若い銘柄」であるわけで、それだけに、これから大切にブランドを育てていこうという、生産者の意気込みが感じられる記者発表だった。
月号)を参照頂きたい。ところで我が国でのスパー
クリングの販売状況は、一過性のバブリーな波ではなく、着実に普及が進みつつあると感じる。そんな日本の現状にピッタリなのが、
千円のシャンパンに比べ、半値弱の価格帯で提供されること。
そして何より、醸造元によっては、その価格を疑うような素晴らし
女性だけで立ち上げた醸造元ラ・
ヴィーニュ・ディ・アリーチェのオ
ーナーチンツィア・カンツィアン氏。
回
3
8
展を導いていくことに代表としての責務がある、と立場にふさわしい発言だった。次いで、地区で唯一、女性だけの経営陣で一から立ち上げた醸造元レ・ヴィーニュ・ディ・アリーチェ( Le Vigne di Alice)代表。圧倒的に男社会の業界で壁もあるが、繊細な味わいと包装や宣伝に女性らしさを強調することで確実にファンを獲得しつつあるとのこと。そのスペリオーレは言葉通り、きめの細やかな繊細な味わいだった。 人目が、地区でおそらく唯一というオーガニック・ワインの醸造元ランティーカ・クエルチャ( L‘Antica Quercia)輸出担当者。前職は日本を含め世界を飛び回る大企業のセールスマン。その仕事に疲れ始めていた頃、縁あって本ワイナリーに転職し、新たにこの地区に移住。地区の長い伝統を考えれば「よそ者かつ異業種からの新参者」であるにもかかわらず、ワイン造り論に関しては最も言葉が熱かった。そのスペリオーレ・ブルットは、今回試飲した中で、一番私の好みに合う、深みとキレのある力強い味わいだった。
プロセッコ・スペリオーレの醸造元 人全員にお話を聞けなかったことが残念に感じられるほど、それぞれ個性的な魅力があった。これからが楽しみな DOCG銘柄だ。では皆様、どうぞ良いお年をお迎え下さい。
ランティーカ・クエルチャのクヴァル・ドーガのディレクターラウディオ・フランカヴィッラ氏。アルド・フランキ氏。
3
産業だ。そのイタリアで国内一の輸出量を誇る地域がヴェネト州であり、その中でも発泡酒を売り物にする数少ない DOCG銘柄のひとつが、プロセッコ・スペリオーレなのだ。試飲会の会場で幸運にも、英語に不自由のない 人の醸造業者から個別に話を聞くことができた。まずは統一ブランド名ヴァル・ドーカ( Val D’Oca)で、 600の零細農家を束ねる組合の長。 EU域内では北欧と英国への輸出が伸びている。多人数をまとめる苦労は尽きないが、常に世界のトレンドを見据えながら、地域の発直な感想だ。
現代の発泡ワインは、その製法が つに大別される。 1炭酸化製法 :白ワインに炭酸を注入して発泡化させるもので、お手軽かつ安価。 2伝統製法 :フランス・シ
2
ャンパーニュの誇る製法で 度発酵に加えて、幾つかの手間を掛ける。香り味わいの
3
深みとキレが特徴で高価。 3移転製法 :基本的には の手順を踏みながら、最後の香りを深めるための熟成をタンクで行い瓶詰めする。 4シャルマー製法 : 2度発酵
452
までの工程は ・ と同様ながら、以後の手順がタンク内でより合理化されている。プロセッコ・スペリオーレは、 4の製法で造られる。上記製法の 〜 の違いは、
4
手間の掛け具合が価格に反映される。しかしワインばかりは、栓を抜いて飲んでみるまでわからないものであること、発泡ワインについても同様だ。だから、面白い。
プロセッコ・スペリオーレのぶどう畑は、その多くが丘陵地帯に位置する。紹介映像によれば、平均斜度は約 度 !大変な急斜面だ。そこに棚田状にぶどう畑が展開する。手入れと収穫に手間が掛かる地形であること言うまでもないが、この地形と土
2
壌がブドウのおいしさにつながっているという。イタリアにとってワインは一大輸出
14
い深みとキレのあるスペリオーレが存在すること。実際に 種類ほどを試飲しての正
10
初代 岩崎彌太郎、2代 岩崎彌之助、3代 岩崎久彌と庭園の再興がすすめられました。彌太郎には、若い頃から庭園の趣味があり、土佐の生家には小石を日本列島に配した小庭が残っています。「吾は性来これという嗜好なけれど、常に心を泉石丘壑に寄す。これを以って憂悶を感ずる時は名庭園を見る」。広大な規模の庭園を好み、特に石には並々ならぬ関心を寄せていたようです。2代 彌之助は明治 19年(1886)に下総の山林(末廣農場)から樹木数万本を移植し、全国から庭石をあつめて瀟洒な小亭を建てました。六義園はながく非公開でしたが、昭和 13年(1938)3代 岩崎久彌によって東京市に寄付されます。ちなみに「清澄庭園」(1924)
(江東区0も久彌によって大正13年東京市に寄付されたもので、ジョサイア・コンドル設計の「旧岩崎邸庭園」(明治29年)は久彌によって建設され、戦後、財閥解体の際に国有化されました。じつに東京都立 9庭園のうち、3庭園が岩崎久彌に関連しています。昭和 23年、旧岩崎邸を追われた久彌は末廣農場(千葉県富里市)の別邸に転居します。末廣農場は実験農場として、岩手の小岩井農場と共に久彌の夢を形にした事業で、憧れの牧場暮らしを楽しんだといわれます。農地開放によって農場の大半は村や県に払い下げられますが、久彌は淡々と 90年の人生を全うしました。六義園の西側、本駒込 6丁目を中心に大和郷(やまとむら)という高級住宅街があります。ここは元々、加賀藩前田家の中屋敷の土地で、岩崎久彌によって大正 11年(1922)に分譲された中産階級向けの住宅地です。久彌は実業家には「noblesse oblige」(高貴な義務)があると考え、大和郷もその一環といわれます。欧米の田園都市構想にもとづき、建築家・佐野利器(さのとしかた)によって道幅を広くとった碁盤の目状の街並みが計画されます。大正 12年には関東大震災に見舞われますが、耐震構造建築の父といわれた佐野は、震災の建物被害を予見していました。そのためか大和郷を離れる住民は少なく、三菱の重役や政治家、高級官僚、実業家、学者が暮らす高級住宅街として知られるようになります。大正14年には住民の自治組織・大和郷会(一般社団法人)が結成され、初代名誉郷長は元首相の若槻禮次郎がつとめました。独自の建物高さ制限や建築ルールを設けた街並みの保全を行い、今も同会によって運営されている「大和郷幼稚園」は、有名人の子弟が通うことで有名です。ちなみに大和郷と名づけられたのは、六義園をつくった柳沢家が、幕末に奈良の大和国郡山藩主であったことにちなんでいるようです。
今年のアトリウム特別企画「He llo, NEW LOCAL」は、UDS黒田哲二氏によるディレクション。出展メーカーの地方色を感じさせる構成になりました。
▲
が評価され、 を受賞しました。
新潟県・燕三条の中野科学は、ステンレ
スの表面処理で知られた会社。昭和
創業以来はじめてオリジナル製品「 As it is」を開発し初出展。燕三条製の高級ステンレスカトラリーを美しく酸化発色させた製品
Best Buyer's Choice 2017(授
与者カッシーナ・イクスシー田中新也さん)
▲木材用塗料でおなじみの和信化学工業は
「塗ってはがせる水性ストリッパブル塗料」
を出展。ホテルやブティック、レストラン
などの家具・什器などに塗っておき、
カ
月に一度くらいのペースで、剥がして塗るを繰り返すことでメンテンスの手間を省き、製品を美しく保つことを想定しているそうです。
3
年の
▲かねみつ漆器店のオリジナル籐家具ブランド「 TOU」。旅館には欠かせない籐家具三点セットの新しい提案として、 DRILL DESIGN林裕輔さん、安西葉子さんがデザイン。スタッキングできたり座面を交換できたりと、長く美しく使えるよう工夫されています。
▲東京都中小企業振興公社による「東京手仕事」で実演する江戸指物師・益田大祐さん(指物益田)。墨田区伝統工芸保存会に所属する益田さんは、著名な歌舞伎役者の化粧道具を制作したり、ミラノの展示会に招待されたり、 LEXUS NEW TAKUMI PROJECT 2016に選ばれたりと江戸指物界のホープとして活躍されています。
漆喰や木材、石、金属など、古くから使われてきた伝統的な材料と、現在の技術や素材によってコストをおさえて作られた材料を対比させた企画展示 POST MATERIAL。建築家・芦沢啓治さんと雑誌「コンフォルト」のコラボで実現し、注目されていました。
会場内のLIFESTYLE SALONでは、2018年1月9日.12日、ドイツ・フランクフルト国際見本市会場で開催される「ハイムテキスタイル」と、2月9日.13日に開催される「アンビエンテ」の合同記者発表がありました。ハイムテキスタイルからは、メッセフランクフルト・テキスタイル関連見本市総責任者のオラフ・シュミットさんと南村弾さん(DAN PROJECT)が参加。テキスタイルの新マーケットとしてアフリカ諸国が注目されていることや、サスティナブルな再生繊維の需要が拡大していること、デジタルプリント技術の出展が増えていること、都市への人口集中に対応した空間デザインの変化やカラーのトレンドなどを語りました。一方、アンビエンテからは総責任者のニコレット・ナウマンさんとオランダのデザイナー・ロバート・ブロンヴァッサーさんが出席。2018年パートナーカントリーとなったオランダの特別展示について、展示内容の発表がありました。
本を
30
月めくりカレンダーも最後の
枚となった。
毎月
日、新しい風景写真を眺め、書いてある「心得」
を読む。慌ただしく日を追っているが、カレンダーをめくる時はゆっくりと一呼吸する。「心得」は、忘れていた事柄や教訓を思い出させてく
れる。
2度
3
度読み返し得心する。思い出しては忘れ、
忘れてはまた思い出す。そんな繰り返しの平成 りわずかである。
今年は
月から市民大学の講義を聴講している。高齢
者のための市民大学とはいえ、その内容は多岐にわたり、
聴講生は毎回
〜
名。みな熱心に
ている。講義は座学だけではない。美術鑑賞やウォーキングで外にも出かけていく。
東京ステーションギャラリーでは、早朝誰もいない美術館で館長から直々にシャガールの彫刻や絵画の説明を受ける。なんとも贅沢な鑑賞会である。ウォーキングは山の手歩きと下町歩きのコースを選択。室町、白金台、目白、浅草、両国、
出るが、基本姿勢を意識して美しく歩くよう、時々先生が声をかけてくれる。おしゃべりしながらも足は速い。階段の手すりを
谷中を
3
回に分けて
2時
間歩く。毎回歩き方の基
分やってから外に
持つ私の横をスイスイと降りていく。聞けば毎日
は歩いているという。私よりはるかに年配の婦人は、
時間では物足りないと
時間コースに参加しているとい
う。オドロキモモノキの連続である。
この市民大学は今年で
期目となるが、こういう学び
の場があることは知らずにいた。
地域の交流活動やコミニュティに参加することも初めて、まだまだ新参者で要領を得ないが、だんだんと顔馴染みも出来てきた。人生の大先輩から教えてもらえることはたくさんある。人生いろいろ実に様々だが、元気は好奇心に比例するのかも知れない。いつも楽しそうにおしゃべりしているが、一人行動で楽しむ術も知っている。
1
1
4
60
70
90
10
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年も残
分講義に耳を傾け
時間
1
2
発信力は受信力 ……
1
12DVD
経緯とベートーヴェンの ”しつこさ ”を実際にピヤノを弾いて説明。とてもわかりやすい。講義のあとに、カラヤン指揮、ベルリンフィルの交響曲第 番を 映像付きで鑑賞するが、失意の底から書き上げた交響曲はより深く胸に響き、演奏が終わるとみな拍手をしていた。 月の最終講義は第九。暮れの定番、今まで何度も聴いたことがあるが、講義を受けた後どう響くか、今から楽しみである。
知らなかった世界が少しづつ広がっていくのはとても楽しいことである。身体の無理は効かないが、怠け心や億劫を決め込んでの怠惰な生活には、少し無理をしてでも自分を励まし、「今日行く」(きょういく)と「今日用」(きょうよう)の仲間入りをして受信力を高めていくことが大事。好奇心にチャレンジして発信力を磨いていかれるよう、残りの 2017年を頑張っていこうと思う。くという。健康寿命とは、自立して生き生きと生活すること。先輩たちから元気な秘訣を聞き出すのは少し勇気がいるが、声をかければみな親切に教えてくれる。
20
数ある講座の中で、毎回後ろの席までびっしりの講座がある。没後 年となる司馬遼太郎の「名著再読」。講師の元 教養部プロデューサーは、司馬遼太郎と長い付き合いのあった方だが、思い出話しは、いつも司馬遼太郎がそこにいるような臨場感があり、至福な時間でもある。
父の本棚には司馬遼太郎の本がたくさんが並んでいるが、その中から再読の講義を受けた本を見つけると、とても嬉しい気分になる。もう一つ、好きな講座に音楽鑑賞がある。講師は著書もたくさんある女性音楽評論家。後期は「没後 190年記念ベートーヴェンの第九への道」と題して、 3回の講義が組まれている。
NHK
今が一番若いと、思い立ったら海外でもどこでも出かけてい
ベートーヴェンの生い立ちから、最初の曲を発表するまでの
六義園の南側、不忍通りに面した所に、世界5大東洋学研究図書館のひとつ「東洋文庫」があります。蔵書は国宝5点、重要文化財7点を含む約100万冊。漢籍40%、洋書30%、和書20%、他アジア言語(韓国・ベトナム・インド・イラン・トルコ・アラビア語等)10%と言語も多様で、本国にも現存しない貴重な書物が残されています。東洋文庫の礎となったのは、オーストラリア出身のジャーナリスト アーネスト・モリソンと、三菱3代目社長 岩崎久彌(ひさや)でした。若い頃から世界中を旅したモリソンは、1897年にロンドン・タイムズの北京特派員となり中国奥地を探検。現地人と親しく交流し、その報道は最も信憑性の高い情報として欧米諸国で重用されていました。「東洋文庫」の中核となるモリソンコレクション約24,000点は、1917年、3万5千ポンド(現在の70億円)で岩崎久彌に譲渡されました。中国・東洋関連の欧文書籍や図鑑、銅版画のほか「モリソンパンフレット」と呼ばれる小冊子や雑誌・新聞の切り抜き、招待状など、当時の情勢を生々しく伝える資料はコレクションの白眉として専門家に評価されているそうです。
1900年、赴任先の北京で「義和団事件」が起こると、外国人や中国人キリスト教徒は激しい攻撃にさらされ、公使館地区に籠城します。55日におよぶ戦闘でモリソン宅は焼失しますが、搬出されていた図書は火災を免れました。モリソンは籠城戦の指揮をとった柴五郎中佐や日本兵の活躍を報じ、日本人の能力を欧米に示すきっかけをつくりました(籠城の様子は映画『北京の55日』に描かれています)。それ以降も日本寄りの記事を書いていたモリソンでしたが、日露戦争に勝利した日本が欧米列強並みの力をつけるにつれ、反日的な言動が多くなります。マルコ・ポーロ『東方見聞録』の企画展がひらかれていました(2018年1月8日まで)。ラテン語のピピノ訳本として最も古くコロンブスも愛読したと伝わる1485年版(上写真)は、西洋の初期活字印刷物インキュナブラにもあたる希少本です。モリソンは『東方見聞録』関連の45種の刊本を収集し、現在は80件以上のコレクションとなっています。
モリソンがコレクションの譲渡を決意したのは、1915年頃といわれています。当時モリソンは袁世凱(初代中華民国大総統)の依頼で中国の政治顧問となっていました。米国の大学や中国も購入を希望しましたが、モリソンは資料の分割を拒否し、
■1カ所に永く保管し「G.E.Morrison Library」と呼ぶこと。
■ 引き続き書籍を購入し、コレクションを拡大すること。
■ コレクションを秘蔵せず、学者等に閲覧させること。を条件にあげます。後に日銀総裁となる井上準之助は、横浜正金銀行北京支店の小田切萬寿之助の報告うけモリソン文庫の購入を岩崎久彌に提案。若き日、米国に留学した岩崎久彌は、カーネギーなど大実業家が図書館やホールを建設する姿を見て、文化的な貢献は実業家の責務と考えたのかもしれません。
アジア各地の名言を原語で刻んだ「知恵の小径」。回廊の先にある「オリエント・カフェ」は、東洋文庫と小岩井農場のコラボレーションで、展示にちなんだメニューを提供しています。
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▼魏志倭人伝1739年刊
岩崎家に伝わる貴重書を展示した「岩崎文庫」のコーナーでは、国宝『春秋経伝集解』をはじめ、『徒然草(嵯峨本)』や『魏志倭人伝』、『日本書紀』、『解体新書』など、教科書で見た書物の実物を見られます。上の『日本書紀』は後陽成天皇の勅使版(1599年刊)で、朝鮮から伝来した金属活字にならい、木製活字を使った日本最初期の活字印刷物です。
19世紀の英国で剥製師として活躍し、ダーウィンの協力者でもあったジョン・グールドは、鳥を実物大に描いた大型の鳥類図鑑を残しました。
『ヒマラヤ山脈の鳥類』(左)は、グールドの原図をエリザベス夫人が石版画にして彩色は手作業で行われました。『アジアの鳥類』(右)は刊行に 30年以上をかけた全 7冊のライフワークで、鳥類図鑑の最高傑作といわれます。1924年(大正13年)に竣工した東洋文庫本館・書庫は、ジョサイア・コンドルの弟子で、呉の海軍施設や丸ノ内ビル街の開発で知られる桜井小太郎の設計です。同年に建てられた世田谷の静嘉堂文庫(現存)も桜井の設計で、まるで兄弟のように形が似ています。1917年(大正6年)、横浜港に上陸したモリソン文庫は、到着間もなく、深川の三菱倉庫で高潮による浸水にあい、2年にわたる修復作業を受けます。大正12年の関東大震災は、丸ノ内のビルで整理作業中だったため難を逃れ、第二次世界大戦中は宮城県の蔵に疎開していました。理化学研究所(理研)に隣接した東洋文庫周辺もはげしい空襲をうけますが、建物は奇跡的に焼け残りました。しかし戦後の財閥解体によって支援を失った東洋文庫は資金難となり、疎開先から書籍を移送できたのは昭和24年になってからでした。
『インドシナ探検行』(1873年刊)
東洋文庫のミュージアムは、誰でも、いつでも楽しめるよう工夫され、定期的な東洋学の公開講座や市民講座もひらかれています。インターネットで蔵書を見られるデジタルアーカイブ化もすすめられ、東洋学の知の源泉として、モリソンや岩崎久彌をはじめとする先人の思いを今につないでいるのです(休館日などは、左下リンクのホームページでご確認ください)。
20
鈴木 惠三
(BC工房 主人)
ふじの
BC
工房で、スタッフ皆のランチづくりを始めて
年。
今日、 周年?「ほうとうランチパーティー」をやっている。
20
いつもは 人なんだけど、今回は
10
人。
プラスの 人は、工房のお客さん。
20
テーブル&椅子をショールーム用に買っていただいた。「買う」と言っても、 BC工房独自のワークショップ型販売。「作る+買う」を、楽しんでもらう。
最近は、このワークショップ型販売が多くなっている。毎週1組は、作る体験の人がいる。
もともと、 BC工房は〈企画+作る+販売〉の3つを基本にしてきた。「いっしょに考え&一緒に作るが、販売なんだ。」スタッフも、当然1人3役=企画・作る・販売の人だ。
「作る現場を知らずして、売る人にあらず。」などと言ってきたから、スタッフの皆は、必ず作る人。なんだけど、販売が苦手の人が多い。まあ「作る」が得意が、いちばんでも良しなんだ。
テーブルワークショップの先生役が「オマタ」楽しい会話で、作るに引き込んでくれる。
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年、20年、
無垢板テーブルは、ちょっとでも作るに参加してもらえるとうれしい。
年と使い込んで、味の出るテーブルだから「選んで、作る。」
想い出もプラスしてほしいのだ。大きな工房で200枚、300枚の板から、自分好みに出逢う。出逢いこそが、ワクワク、ドキドキなんだ。そして、無垢板に手で触れる。作る原点は、手の感触なんだと思う。線を引き、切って、削って、磨いて、作り上げるのに1日でだいたい OKなのだ。皆さん、「思ったよりカンタン」「すごく楽しい」を味わってくれる。
手づくりと称して、今までモノづくりを難しく秘密にしてきた木工の世界?もっとカンタンに考える。もっとカンタンにチャレンジする。多分、オイラが木工の素人だから出来るやり方かもしれない。今回のテーブルワークショップをやった「健幸工房シムラ」は、青梅市にある工務店。若社長さんの新しいチャレンジは、古民家移築のショールーム&カフェ。こんな楽しい企画に参加できる喜び。いい企画、いいモノづくり、いい販売は、ワークショップのようなコラボレーションから生まれるかな。
小高い音羽の丘にたつ鳩山邸は「音羽御殿」とも呼ばれていました。門はいつも開きっぱなしで、鳩山家を訪ねる政治家や官僚の車が、頻繁にこの坂を上がっていったようです。
車寄せから玄関を見ると大理石の階段。ポーチを見上げると鳩山を象徴するハト、シカの彫刻が飾られ、政治家として大成してほしいという岡田信一郎の思いを感じられます。研究者の道を歩んでいた岡田の転機となったのが、日本一の美女と謳われた赤坂の芸妓・萬龍(静)との結婚(大正 6年)でした。スキャンダルの渦中にあった岡田を、鳩山一郎は自邸にあたたかく招き入れ、それが鳩山邸の設計へつながっていきます。岡田はその設計料を受け取らなかったといわれています。大理石の階段を上がって振り返ると、大村友雄がデザインした19羽のハトのステンドグラスが目に飛び込んできます。鳩山会館はハトや花をモチーフにした、小川三知の貴重なステンドグラス作品でも知られています。小川三知はアメリカのステンドグラス技法を日本に伝えた作家です。慶應3年(1867)静岡の医者の家に生まれ医学を志すものの、絵画への思いから東京美術学校日本画科に入学。岡倉天心のすすめで橋本雅邦から日本画の伝統技法を学びます。卒業後は教職につきながら全国を転々とし、神戸で出会ったのが教育者アニー・ライオン・ハウ女史でした。ハウ女史の紹介で明治 33年(1900)、シカゴ美術院の日本画教師として渡米した小川三知は、美術院のフレンチ学長からステンドグラスを学ぶようすすめられます。
生き生きと飛び回るハトには、日本画のような躍動感があります。帰国した三知の工房は著名建築家から次々と注文を受けますが、特に親しく仕事をしたのが岡田信一郎でした。岡田は雑誌への寄稿のなかで、小川三知をはじめ建築に協力した工芸家の名を頻繁に記し、賛辞をおくる気遣いを欠かしませんでした。
2つある応接間やサンルーム、食堂は壁のない広い1室空間で、180度フルオープンできる特殊な折戸で仕切られ、必要に応じて間取りを変えられる和館のようなつくりです。南面した開口部を多くとり、明るく開放的な空間は「友愛」を標榜した鳩山の精神をあらわしているようです。第一応接室の内装は重厚な木製で暖炉があり、ガラス窓に鳩山家の紋章を入れています。
関東大震災の翌年に完成した鳩山会館は、鉄筋コンクリート製で屋根の部分は木製です。震災ののち実践的な耐火・耐震建築を目指すことを提唱した岡田信一郎は、日本の風土に根ざした生活スタイルと、沢山の要人を招くという特殊な条件を折り合わせながら、洋館としてのバランスを見事に表現しています。明治期に導入された洋建築を日本のものとして完成させ「様式の天才」といわれた岡田信一郎は、49歳で若くして亡くなります。鳩山会館は戦争の空襲で屋根を焼きますが、修復され、数々の歴史に彩られた鳩山家の暮らしを長く支えました。