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時空を超える美意識
1月号 歌留多 2018
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秩父祭は毎年12月1日〜6日まで行われ、3日の大祭には全国から 30万人以上が集まります。明治以前は「霜月祭」と呼ばれ旧暦の11月 3日に開催されていました。街の中心部、秩父鉄道 御花畑駅に近い「お旅所」には、龍神と妙見菩薩のために斎場が設けられ、12月 3日早朝から参拝者で賑わっていました。夜になると秩父神社を出発した御神幸行列と笠鉾、屋台がお旅所に到着し、一般には公開されない「斎場祭」がここでとり行われます。斎場を望む秩父市役所は、2011年の東日本大震災で大破し、2017年 2月に新庁舎が完成しました。
▼室町時代に作られた秩父神社の貴重なお神輿。江戸時代まで、御神幸行列に使われていました。
秩父神社近くの「秩父まつり会館」には、お旅所の斎場に置かれていた先代「亀の子石」が展示されています。亀型の石に立てた大幣束には妙見の神霊が宿り、鏡餅など沢山の供物の前で、お面を付けない古式の神楽が演じられます。
▲昭和 2年開店のカフェ・パリー。今も食堂として営業中。▼ 御花畑駅は大正6年開業。駅舎は当時のままです。
御花畑駅から秩父神社へ(その昔、お旅所をお花畑と呼んだそうです)。参道となる馬場(ばんば)町通りには、沢山の屋台が並んでいました。商人の町として栄えた馬場町には明治から昭和初期に建てられた商店や医院が残されています。
1988年から運行されている秩父鉄道のパレオエクスプレス(C58363)が御花畑駅を出発。「秩父夜祭」のプレートを掲げた特別仕様で撮影攻めにあっています。秩父鉄道は武甲山から産出する石灰岩や材木の輸送によって大正時代に急成長し、私鉄の中では電化をいち早く進めていました。ちなみにパレオとは古代の海獣パレオパラドキシアちなんでいます。
▲明治 41年に開業した旧片山醫院。
▼ 秩父神社宮司の薗田家住宅。
昭和5年に建てられた宮前家住宅は「健康住宅」を提唱したことで知られる建築家・山田醇(じゅん)の設計です。
下見板張りの洋風建築「岩田医院」(明治 36年)。
Roche Bobois TOKYO(神宮前 3丁目)に日本初お披露目のコレクションが揃いました。上は高田賢三さんデザインの新作ファブリックスのクッション。下はジャン・コクトーをモチーフにしたシリーズ。
上)新作 BUBBLE SOFA(des ign Sacha Lakic)。網タイツを思わせる張地はカラーバリエーション豊富で、張り分けを指定できます。右)BELIZE SOFA(des ign Sacha Lakic)。ファブリックスとレザーを張り分けられるソファで、ラグ B lue Noteとの組み合わせがおすすめ。
左)ROCHE BOBOISを代表するソファ「MAH JONG」に、高田賢三デザインの新作ファブリックスバージョンが登場。ASA、HIRU、YORUの 3つのコンポジションがあり、バリエーション豊富な組み合わせを楽しめます(店頭での展示は 2月からを予定)。
下)太い角材の脚にガラスで構成した天板を載せたT.N.R. DINING TABLE(des ign Lionel Morgaine)。自然な木の割れ目を生かしたデザインが特徴です。
ASA HIRU YORU
秩父神社の妙見菩薩は女神として描かれていて、桑の枝を持っています。これは妙見菩薩が女神である養蚕神と習合し、江戸時代に女神の姿となったと考えられています。
秩父夜祭は12月1日「御本殿清浄の儀」から始まり、神社の宮司や禰宜(ねぎ)が本殿内部を清掃します。神職達は11月30日から12月3日までお籠もり生活に入り、肉やニンニクなどをとりません。12月3日10時半からは「例大祭・御本殿の儀」が行われました。神社本庁の遣幣使を迎え、氏子など 300名が参列します。
12月 3日午後から始まる屋台芝居のために、境内で舞台の設営が進められていました。秩父祭の屋台は歌舞伎などの舞台として使われるのが特徴で、屋台を巡航する 4つの町会が持ち回りで芝居を行っています。今年は秩父神社の地元・本町屋台が担当しました。
屋台の上手には本芸座、下手には仮芸座と呼ばれる張出し舞台を連結し、回り舞台を備えた大きな歌舞伎舞台を組み立てていきます。このような移動式舞台は全国でも珍しく、各バーツの複雑な組み立て方は、先輩から後輩へ口伝で伝えられていきます。本町屋台は秩父神社境内で公演しますが、町の中で演じる町会もあります。古くは祭を支援する大きな商家や陣屋の前で演じるのが習わしで、屋敷の 2階から歌舞伎を観劇したと伝わっています。
公演に先立つ「白浪五人男」の口上に、沢山の人が集まりました。演じるのは秩父歌舞伎正和会。明治初年、片岡十美之助等によって結成された和泉座座員、関口正(関竹寿郎)を指導者にして昭和 22年に創立された団体です。元々は江戸時代中頃に秩父出身の坂東彦五郎(初代喜熨斗屋)が帰郷して、若者たちに伝授したのが始まりといわれます。
ドラゴンシリーズ 41
ドラゴンへの道編吉田龍太郎( TIME & STYLE )
時代は繰り返す
ベルリンの壁が崩壊したのが 1989年のこと、あまりにも
突然、衝撃的で壁が壊れたことが近くに居ながらも信じられなかった。当時、僕はフランクフルトに住んでいたがベルリン移住を計画しており、フランクフルトとベルリンを行ったり来たりしていた。
1985年にソ連のゴルバチョフが登場してから、ペレストロイカが始まったことで東ドイツや東欧など社会主義国が変わって行くことを肌で感じていた。これから大きく時代が変化してゆくのだろうという漠然としたワクワク感が僕の中で日に日に大きくなって行き、じっとしていられなくなっていた。そう言うこともあって、 89年頃から友人の画家・長谷川と車に乗ってはチェコのプラハやハンガリーのブタペストやポーランドのワルシャワ、クラクフ、アウシュビッツ、そして東ドイツの首都東ベルリンなど夢中になって車で一日数百キロ走り、街中を夢中で歩きまわっていた。今でも不思議に思うことは、僕らにはそこに向かう目的は何も無く、ただ無意味に無尽蔵に、変わろうとしている東欧の国々を走りまわっていた。
なぜだか理由も無いままに走りまわっていたのは、大きな時代の変化を自分の目で見て感じ確かめたかったのだろう。チェコのプラハに着いた時、
警官隊の衝突があり、多くの負傷者を出した翌日だったこともあって、プラハの街は暗い緊張感に包まれていた。僕らは夜になるとそっと静かに真っ暗な闇のプラハの中心街を徘徊した。暖房用の石炭の匂いと煤けて汚れた冷たい空気、何十年も補修されていない弾痕の残る煤で真っ黒に包まれた街並みの中で、前日に警官隊との衝突で倒れた学生を偲ぶたくさんの蝋燭の火火に経験したことの無い恐怖と人間が社会を変えようとする真っ直ぐな勇気と同時に巨大で強固な社会に対する絶望も感じていた。何が世界を動かそうとしているのだろうかと言う疑問と期待がそこにはいつも同居していた。僕らは車で社会主義の国々を巡りながら、そこで生活を営む人々の姿や社会主義国家の矛盾、国家としての閉塞感や限界と言ったことに人々が耐えられず、一人一人が団結して国家や社会を変えようとしている人間の希望と理性を肌で感じながら、大きくて恐ろしい社会と闘う人々と時代を見ていたような気がする。
プラハの街は世界で最も美しい中世そのままの教会など、高い塔の建つ文化的な美しい所だった。僕らが訪れた当時のプ
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月下旬に学生と
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年の
ラハや東欧の街の多くは社会主義国家が長く続いていたと言うこともあって、
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ほとんどの建物が石炭の煤に覆われたモノトーンの街並みだった。それが、資本主義国の彩り豊かなドイツや日本などで暮らしてきた僕らにとって、本物の中世ヨーロッパ都市として強い印象を残し、今も僕自身の東欧の原風景となっている。数年前に訪れたプラハは全く別の街へ、色彩に彩られた街並みに変わり、その美しい面影は無くなっていた。
年頃のプラハには地下で活動する革命派の人々が運営するバーやレストランがいくつか存在した。当時の僕らもその地下の隠れ家であるバーに何度か行くことができた。バーの入り口には小さな小窓があって、ノックするとその小窓の中から僕らの顔を見て、会話も無くなぜだか分からないがドアを開けて中に入れてくれた。そのバーの内部は僕の大好きな Jugendstil(ユーゲントシュティル)の世紀末美術アールヌーボーの装飾が天井から床までびっしりと美しく施されていた。そこには、マルボロもラッキーストライクもあれば、ジャックダニエルもレミーマルタンも20置いていた。
当時、東欧には西ヨーロッパ、資本主義国の製品の持ち込みは官僚などの特権階層以外は禁止されていたはずだが、その地下の民主化を志す者達が集まるバーには資本主義の象徴的なタバコなども置いていて、芸術家や作家、音楽家など社会を変えてゆこうとしている人々が集まっていた。
僕はバーからホテルへの帰り道に暴漢達に襲われ、持っているもの全てを奪われた。でも、それは仕方のないことで、僕らがそのバーから出てくることを待って、密かに追跡されて暗闇で襲われただけのことだった。資本主義の生ぬるい社会、特に何の危険も経験したことの無い日本で育った僕が受けて当然の洗礼だったと思う。そこから、また自分たち自身に対して、日本という国や資本主義国家、社会主義国家との大きな違いを意識することになった。
ソ連ゴルバチョフのペレストロイカに始まり、東欧諸国の社会主義の没落、ベルリンの壁の崩壊、東西ドイツの統一からもう 年以上が過ぎた。今は、東西の壁の痕跡や国境さえも確認することが難しい。東ドイツで青年期を育った人々も、最近は西ドイツで育った人々よりも先進的になり、幼少期の経験や教育の差を感じることができなくなった。それだけ時代は人間を変えてゆくのだと思う。最近は北朝鮮と韓国のことを考えることが多くなった。東西ドイツも元は一つの国であり同じ民族の国家だったように、韓国と北朝鮮が同じ民族として平和を取り戻す日が訪れることはあるのだろうか。時代と世界と人間はその頃から後退しているように感じる。
秩父神社の神域は「ははその森(柞の森)」と呼ばれ(ハハソはコナラのこと)、沢山のドングリが落ちていました。秩父夜祭に笠鉾や屋台巡航など「付け祭」が登場したのは18世紀のはじめ享保の頃で、結城文右衛門という人物が伝えたといわれます。秩父絹が全国へ知れわたり、秩父の絹市が繁栄をむかえた時代。財を成した商人が江戸の芸能文化を誘致し、宮大工を呼び寄せて華麗な傘鉾や屋台を作らせたのです。午前 9時から正午過ぎまで屋台と笠鉾の引き回しが行われ、6台の屋台・笠鉾が秩父神社を中心として本町、中町、上町通りを行き交います。上町屋台の正面屋根彫刻(鬼板)は、一弦琴の名手「応夫人」。その下には音色にうっとりした龍が彫られています。屋根の上に登る人を「大工」、屋台の先頭に陣取る人を「囃し手」と呼びます。上町屋台は初めて女性の「曳き子」を認めたことでも知られています。女性の参加は年々増えているようです。
武甲山はセメントの原料となる石灰岩を採掘する山として、百年以上にわたり首都圏の建築を支え続けています。
こうした移動式の舞台は、秩父夜祭りにあわせて開催された「絹市」を訪れる商人や農民たちをもてなすものでした。江戸時代には秩父を治める忍藩の大名名代が祭を訪れ、代官たちと共に絹市を巡回して、屋敷の 2階から屋台芝居を観覧していました。自家焙煎珈琲店「ろぢばた」。メニューにはコーヒーしかなく、食べ物は持ち込み自由となっています。
夜想曲(ノクターン)鈴木 惠三 BC工房主人
オイラはピアノが好きだ。店の片隅にピアノがあって、いつも誰かが弾いているのが夢。インテリアのいちばんは「居心地の良さ」。光とか、風とか、匂いとか、音楽とか、お茶とか ……
「人の五感がインテリアのいちばん」だと思っている。家具は、その脇役のひとつかな。今回、ふじのリビングアートでの小さな X'masコンサート。
「フェルト展」の仲間の友達のピアニスト、田村明美さんと出逢った。そのチカラづよいピアノに感動した。
「X'masにピアノを弾いて下さい」
「私で良ければ、いつでもいいですよ」から自然に生まれたコンサート。オイラは懐かしい映画音楽などと注文したんだけど、ショパンのノクターン、ベートーヴェンの月光というクラシックの名曲といった本格派。スゴイ演奏だった。
「ふじのリビングアート」全体がホールになった。フェルト展最終日のサプライズ・コンサート。
田村明美さん プレイリスト 2018.12.24
. 「 Heart 」 S.E.N.S. (モンカフェ CMソング)
. 「夜想曲」(ノクターン) ショパン
. 「月光」(ピアノソナタ第14番)ベートーヴェン
. 「星に願いを」 When You Wish Upon A Star
.「アメージング・グレース」(上田麻朝リクエスト)
. 「CHRISTMAS EVE」 山下達郎
. 「きよしこの夜」 フランツ・クサーヴァー・グルーバーピアノは大橋幡岩設計の「ディアパソン」。
ふじの羅須地人会
コラージ編集局
宮沢賢治の「羅須(らす)地人協会」(花巻市)。北上川を望む丘の上で、賢治は農業技術の普及にくわえ、レコード鑑賞や朗読、楽器の練習会など、農村芸術の拠点づくりを目指していました。農村の青年や子どもを巻き込んだ協会
の活動はわずか
カ月で幕をとじますが、その経験はのち
に「セロ弾きのゴーシュ」へと結実します。
クリスマスイブをむかえる
月
日、藤野のリビングアー
トギャラリーで、小さなピアノコンサートがひらかれました。ピアニストは相模湖在住の田村明美さん。幼い頃からプロを目指したレッスンを続け、音大を卒業。岩手出身の彫刻家
田村史郎さん(舟越保武や佐藤忠良の愛弟子)と結婚
したときは「音楽からはじめて開放された」と感じたそうです。そして子育てを終えたころ「心からピアノを弾きたい」と思った田村さんは、相模湖のホールで自らピアノリサイタルをひらきます。今回はホールではなく、思い思いの椅子に坐ったサロンコンサート。モーツァルトやリストの時代を振り返ると、貴族の館など「人の集まるサロンで弾くのが演奏会の原型かも」と田村さん。とても心地よく弾けたそうです。
会場にはフェルト作品展開催中の「メリーの
ろん、人形浄瑠璃保存会のご夫妻、藤野倶楽部の桑原夫妻などが集まり、さまざまに交流がひろがりました。
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大好評のうちに「メリーの 5人」とBC工房のフェルトコラボレーション展は幕をとじました。第二弾が開催されるかも。
人」はもち
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中近笠鉾は、大宮郷(秩父旧市街)の西、中村・近戸の2町により運営されています。八棟づくりの複雑な屋根が特徴で、極彩色の彫刻が四方を埋め尽くすさまは「動く陽明門」ともいわれ、中国の故事や日本神話、昔話などバラエティに富んだ彫刻が施され、まさに移動式の神社建築ともいえます。本来は屋根の上に三層の花笠を載せ、万燈やせき台を立て、高さ15mほどの高さになりますが、街路に電柱が設置された大正期に現在の姿で曳かれるようになりました。
秩父まつり会館に展示された傘鉾(左)と屋台(右)。秩父夜祭りには、2台の傘鉾と4台の屋台がでます。祭の最中、町中には大太鼓や小太鼓、笛、鉦で演奏される海の潮なりのような屋台囃子が鳴り続けます。しかし秩父夜祭の場合、屋台や笠鉾の上にお囃子の姿は見えません。屋台では舞台の襖の後ろに隠れ、笠鉾では土台に隠れています。お囃子は曳き子たちを囃す裏方の存在であり、姿を見せてはいけないという古来の姿が守られているそうです。一台の屋台には 25人位が乗り込み、交代で演奏を続けます。中心となるのは 30〜 40代の奏者でキャリアは 20年以上、姿の見えないお囃子こそ祭の主役というプライドに支えられています。外の景色は見えないため、運行係の支持に従って演奏を変えていきます。「大蜘蛛退治」など、故事や神話が至るところに刻まれています。祭を訪れる人々に物語を解説することで、他所から来た人とのコミュニケーションをはかっていたと思われます。
黒漆に金の金具をあしらった側面には、鯉が滝を登り、飛竜、龍へと出世する様子が描かれます。武甲山の神を龍や大蛇に見立てていることもあり、龍の彫刻が多く見られます。
ヨーコのまちてん旅日記第 3信川津陽子メッセフランクフルトジャパン
です。「キトラ」という名前だけでなんだか心惹かれ
千葉県・野田
ます。石室内部の東西南北・四方の壁面に描かれた
四神に、天井に描かれた現存する東アジア最古の天
文図。一生の果てにこんな空間で眠ることができた
新年明けましておめでとうございます。
なら……いろんな想像が巡り、威厳の中にロマンチ2017年も 365日が猛スピードで過ぎていきました。
ックさを感じました。『まちてん』の開催も終わり、気がつけば師走も後半
そんな奈良でのひと時から再び、猛スピードの日々に差し掛かるころ、何かせねば、どこかに行かねば、のなか仕事を納め年末年始の休業に入りました。思という衝動に駆られ奈良まで行ってきました。恥ず
い描いていた休み中の「TO DO」を見事にすっ飛ばかしながらの初奈良です。
し実家に帰省。これではいかん !と元旦の朝、重い腰東大寺、法隆寺、春日大社、奈良公園、飛鳥寺……
を上げて地元の神社に足を運びました。いわゆるガイドブックの表紙を飾る観光スポットば
千葉県野田市最古の社「櫻木神社」です。これもまかりを訪ねましたが、山川出版社の煉瓦色をした日
た初の参拝。社記によると、平安朝の仁寿元年(西本史の教科書が幾度となく頭をよぎりつつ、古代日
暦 851年)に、大化の改新で活躍した藤原鎌足公五本に想いを馳せる年の瀬となりました。
代の子孫で、藤原冬嗣の三男、藤原嗣良により創建そんななか一番印象に残った場所といえば、奈良県
されたとのこと。辺りには桜の大木があって、古く明日香村を代表する三大古墳のひとつ、キトラ古墳は「桜木村」と呼ばれ、後に「桜台村」と名称を変え、
▲ 奈良県 明日香村の「キトラ古墳」
▲ 初詣でにぎわう「櫻木神社」
桜が咲き誇る美しいところだったようです。神門に始まり、社内はいたるところサクラ、サクラ、サクラ……。雲ひとつない快晴の元旦の空になびくのぼり旗にもサクラ、みんなの願いが込められた絵馬もサクラ。日本の象徴とも言えるこの花に心が踊らないわけがありません。そして、更に目をみはったのは、わずかではありますが1月初冬だというのに桜の花が !この桜は彼岸桜の仲間で、10月と4月に咲くそうですが、はじまりの 10月は十月桜、11月は七五三桜、12月は師走桜、1月は正月桜と呼ばれるそうです。北風に散ることを必死に逃れ、元旦まで咲き残ってくれたこの桜の花たちにおもてなしを感じました。そして、もうひとつ感銘を受けたのは「トイレ」です。
「KAWAYAホール」なる建物の中にそのトイレはあります。ホール内の「川屋(かわや)神社」は、厠(かわや)神社と書いて「トイレ神社」とも呼ばれているそうです。古くよりトイレを綺麗にすれば、かわや神が大いに悦ぶとの言い伝えがあるそうですが、私たちが生きていくために毎日使う場所は神聖な場所なのだと改めて感じさせられました。ホールはもちろん、トイレ内の設計や間接照明が非常に美しく、とても気持ちの良い空間で
▲ 1月に咲いた「正月桜」
▲ 「KAWAYAホール」内の川屋神社
▲ 4世紀頃の住居跡「中根八幡前遺跡」
した(櫻木神社のトイレは、日本トイレ協会 2012年グッドトイレ審査員特別選奨を受賞したそうです)。最後に、境内一円は古墳時代前期の古代祭祀に関係する遺跡だそうで、平成 4年の御造営にともない御殿地
(宮司宅地内裏山)の発掘調査が行われ、古墳時代の住居跡などの他、祭祀関連の遺物が多く出土しました。石製品が主だったようですが、制作過程でできる石のかけらなども出土したことから、石製品を生産する集団(工人)の存在が推測されています。このあたりに工房があって、モノづくりがされていたのかと思うと、これまた色んな想像が巡ります。神社を出て、東側約 100メートルの位置にある古墳時代前期の住居跡「中根八幡前遺跡」にも立ち寄ってみました。今はだいぶ痕跡がわかりづらいですが、この地域一帯は野田の黎明期を知る上で重要な地域のようです。次は桜が満開の時期に訪ねたいと思います。というわけで、キトラ古墳からの余韻で、新年最初の舞台は我が故郷、千葉県野田市でした(笑)。年明け第一信は超近場における日記となってしまいましたが、地元の新発見につながる元日の散策となりました。原点に立ち戻り身近なものに改めて目を向ける、新たな発見に溢れる、そんな 2018年にしたいと思います。
宮地屋台は、享保年間(1716〜 35)に結城文右衛門の指導で作られたもので、当時の鬼板や懸魚が保存された資料的価値の高い屋台です。後幕に刺繍されているのは、能の演目で知られる「猩々(しょうじょう)」(酒好きの瑞獣)です。後幕と鶴の水引は文久 3年(1863)江戸越後屋(三越の前身)で作られ、約 127両かかったと記録されています。
秩父神社社殿の向かって左側にたつ神楽殿では神楽が奉納されます。江戸時代から続く古い神楽で「天の岩戸開き」が上演されていました。この物語には、秩父神社の祭神で知恵の神といわれる八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)が登場し、天の岩戸に隠れた天照大御神を外に誘い出すため、皆で楽しそうに踊って騒ごうと提案します。
秋蚕しもうて 麦まきおえて秩父夜まつり 待つばかりと「秩父音頭」の一節にあるように、養蚕農家の仕事は夏季に集中し、生糸の相場さえよければ、冬期は比較的のんびりと過ごせました。四季を通して、どこかの村では必ず歌舞伎や神楽、人形浄瑠璃、ロケット花火などの祭が開かれ、遠方の村に足繁く通っていた記録が残されています。それは娯楽のためばかりでなく、刻々と変わる生糸の相場や江戸の情報を交換するためでもありました。
名和高司教授の提唱 J-CSV(Japan Creating Shared Value)
特別セッションに登壇したた名和(なわ)高司教授(一橋大学大学院国際企業戦略研究科)は、世界のトップ企業が目指す経営戦略「CSV(Creating Shared Value)」を分かりやすく説明。「社会価値と経済価値を両立」したCSVによって、商品ファン層の獲得や優秀な人材の確保、企業リスクの低減、マーケティングコストの削減といったメリットが生まれる仕組みを、伊藤園、味の素、良品計画、中川政七商店、スノーピークといった企業を例にとり解説し、その先にある日本なりの価値を加えた「J-CSV」を提言しました。
まちてん2017実行委員長の笹谷秀光さん(伊藤園常務執行役員 CSR推進部長)と谷本有香さん(フォーブスジャパン副編集長兼WEB編集長)が加わり、地方の「稼ぐ力」をテーマに語りました。地方が稼いだ資金を再投資して、共感できる仲間を増やしていく。そのためには「発信力」が重要と名和教授。一方、笹谷さんは、地方の稼ぐ力を支える公的プラットフォームが整ってきた。中央から出向した役人や地域おこし協力隊の人たちが、地元では気づかなかった価値を見出し、住民の共感を生むことが大切といいます。
講演にはテクノロジーやファイナンス、居住、ツーリズムなど8つの講演テーマが設けられ、そのひとつ「農林水産プロダクツ」に登壇した小野 邦彦さん(坂ノ途中 代表取締役)。2009年に創業した「坂の途中」は、約150軒の契約農家のうち9割が新規就農者という、野菜のネット通販を中心とした会社です。新規就農者は、日本の農業の変革者である一方、条件の悪い農地や販路の問題で継続が難しいのも現状。そこで「坂の途中」では、新規就農者に対して珍しい野菜や地域固有の野菜づくりを提案し、年間で400種類という多品種の提供に成功しました。四季を通じたバリエーションの多さが評判をよび、野菜セットの配達をながく継続してくれる家庭が多いそうです。
展示コーナーには、102社・団体が出展し、沢山の来場者で賑わいました。民泊などツーリズムの支援や漁業・農業をITで支えるシステム、移住の支援策など、町を活性化するための様々なアイデアが提案されていました。
琵琶湖東岸に面した東近江市・栗見出在家(くりみでざいけ)町からは、魚のゆりかご水田協議会・藤村 政和さんが登壇。「魚のゆりかご水田」とは、田んぼの水路に魚道を設け、湖からフナやコイ、ナマズなどが遡上して産卵、稚魚が湖へ戻っていく「琵琶湖畔の田んぼの原風景」とライフサイクルを取り戻す試みです。栗見出在家では平成19年から魚道の設置をはじめ、現在30ヘクタールを達成。魚道づくりには住民や子ども達、地元企業も参加し、水田オーナー制度をつうじた地域外との交流も生まれ、農泊による環境教育や食育も行われています。酒造会社と連携して魚のゆりかご米(山田錦)を使った日本酒を開発して海外へ輸出したり、町づくりの推進と地域の所得増を目指していくそうです。「昭和50年代の農村風景を取り戻し、湖の保全や生物多様性への貢献を行うことで、地域への誇りが生まれます。魚のゆりかご水田を象徴的な存在として次世代に引き継ぎたい」と藤村さん。この取組は、今年度の地産地消等優良活動表彰交流促進部門農林水産大臣賞や農林水産祭内閣総理大臣賞を受賞しました。
本音で語り合うクロストーク
各テーマの講演終了後、会場の一画に登壇者と参加者が集まり「クロストーク」が行われました。参加者の質問に応えるスタイルで本音の意見が飛び交い、大いに盛り上がりました。上は「農林水産プロダクツ」のクロストーク。小野 邦彦さん(坂ノ途中)、斉藤 俊幸さん(イング総合計画 地域再生マネージャー)、寺本 英仁さん(邑南町役場)、小谷 あゆみさん(ベジアナ)、藤村 政和さん(魚のゆりかご水田協議会)、藤田 香さん(日経BP社 日経エコロジー)などが参加しました。今回の『まちてん』は地方自治体の取り組みに焦点を当て、全国から11名もの首長が登壇しました。北海道の中央に位置する東川町からは、松岡市郎町長。1985年、世界でも類のない「写真の町」宣言をしてから30年がたち、恒例の国際写真フェスティバルは日本有数の写真イベントに成長。1994年からは高校生が作品を競う「写真甲子園」も開催され、昨年11月には映画「写真甲子園 0.5秒の夏」(菅原浩志監督)が公開されました。北海道のなかで人口増加率の高い町としても知られる東川町ですが、実は「3つの道がない」と松岡町長。1.国道がない 2.鉄道がない 3.上水道がない人口約8000人、北海道の町の未来について伺いました。■ 人口8千人の町に、世界最大級の「名作椅子」コレクション北海道のなかで、子育て世代に人気の町として知られる東川町。世界的な椅子の研究者・織田憲嗣さんを文化芸術コーディネーターにむかえ、名作椅子約1350脚の公有化を決定したことでも話題となりました。家具では隣接する旭川市が有名ですが、東川町にもTIME & STYLE FACTORYをはじめ、十数社の家具メーカーや木工房があります。「町にとって家具は非常に大きな資源で、織田コレクションは家具メーカーや町民にとって、人口8千人の町に世界最大級のコレクションがあるという文化的刺戟になります」と松岡町長。南に旭川空港、西に旭川市、東に大雪山系と、利便性と自然に恵まれた立地にあり、新しい東川小学校は、次世代型の環境システムを備えた長さ270mの平屋の校舎に、サッカー場や野球場、自由に遊べる広場を備え、地域交流センターの役割も担っています。「大人たちが子どもから奪ってきたのは、自由な遊び場です。それを取り戻すことで、子どもたち自身が大切なものを発見する教育を目指しています」。そうした町の教育方針を後押しする試みのひとつが、町の新生児に子ども椅子を贈る「君の椅子」プロジェクトです。10年をすぎて周辺の各町へも広がりました。「君の椅子は、写真の町にふさわしい事業と思います。我が子が椅子に坐ったシーンを写真に撮り、その思い出が次世代に継
承されていく。そうした文化を育てたい」と松岡町長。
■ 新しい文化は、みんなで作りだすもの「東川町文化芸術交流センター」として活用されている旧校舎では、公立では日本初となる日本語学校やギャラリー、カフェなどが設けられ、織田コレクション展も開かれています。ここで日本語を学び、介護福祉士や日本語教師、大学進学などを目指す留学生たちは町内の寮で共同生活を行い、町民との交流も自然に生まれていきます。「写真の町宣言から30年が過ぎ、町の財産となりました。写真フェスティバルには世界から沢山のゲストが集まり、通訳やボランティアを住民たちでこなしてきました。元々のフロンティア精神にくわえ、国際的にもオープンなマインドが育ち、写真映えするよう花を植えたり、掃除をしたり、町の施設もこまめに修繕して景観を美しく保とうという気持ちが生まれました」。こうしたイベントや観光をきっかけにした移住者も増えるなか、住宅や雇用の確保は、どのようになっているのでしょう。「移住の話は口コミで広がっています。北海道は雇用がないといわれますが、移住者自身が民宿やレストラン、パン屋、家具工房、観光ガイドなど、様々な仕事をおこしています。主役はあくまで彼らですから、自発的な試みをバックアップするのが町の役割です」と松岡町長。『まちてん』のようなイベントは、いろいろな人に出逢うことで、自分自身への刺戟にもなるといいます。年々増加を続ける訪日外国人。インバウンドに対応するため注目されているのが「民泊」です。日本の新しい宿泊体験オルタナティブロッジングを提唱する「STAY JAPAN」の運営元「百戦錬磨」の齊藤陽さんが登壇しました。インターネットで民泊の予約が出来る「STAY JAPAN」のサイトには古民家や農家、ホームステイなど9つのカテゴリーが並び、グリーンツーリズムや農業・漁業体験(農泊)のほか、お祭の開催時に期間限定の民泊を設定したり、お城での宿泊といった特別企画も提供できるそうです。2016年の訪日外国人は2403万人、消費額は3.7兆円となり、2020年には4000万人に増加すると予測されています。その多くはアジアからでしたが、ドイツやフランスなど欧州からの旅行者が1週間以上のロングステイをするスタイルが増えると考えられていて、何気ない田舎道を発信することで、世界的な価値となる可能性が広がっているそうです。
秩父名物、味噌仕立ての猪鍋。番場町の安田屋はイノシシの味噌漬けで知られた精肉店で、朝早くから土産物を求める人が並んでいました。
年の初め。少しは気持ちを大きく夢を語り、高く広い視点で自分自身の人生と世界を見つめ直したくなる。そんな時、何百年も昔の異国の人々の暮らしのあり様を訪ね、それと現在の我々の暮らしとを比べてみる。すると、思いも掛けず新鮮な視点で今の自分自身を見つめ直すことが出来たりする。この年末年始私は、中世からルネサンス期にかけての、欧州の食生活に関する様々な文献を読むことに没頭していた。この先数カ月間これが続く。というのも、早稲田大学オープンカレッジ中野校で、来る 5月 日から毎水曜日 5週連
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続で、この時代の欧州の食について、お話することになっているからだ。西欧ルネサンス期の食卓を描いた絵画を手掛かりとして、そこに描かれた絵の背景を探る。この広い世界には、そんなオタクチックな話を喜んで聴いて下さる方がいらっしゃるのがありがたい。
ところで、生ハムとメロン。ちょっとしたイタリア料理店なら定番だ。日本の伝統的な食の味覚にはない感覚の組み合わせで、子供の頃これを初めて食べた時、とても不思議な味わいと思った。この
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前菜、その昔イタリアの
どこかに天才的な味覚を
持った料理人がいて、「生
ハムと新鮮なメロンを組
み合わせたらおいしいだ
ろう」と考えた結果、生
まれたものなのだろうか。
1607年フランスのリ
ヨンで出版された料理書
(養生訓)に、次のような
記述がある。「メロンはソフトな味わいのチーズもしくは、塩か砂
糖で調味された少量の肉片と共に食すのが宜しい」。但しここでは、
そうするとおいしいぞ、という意味でこれを勧めているものではない。
中世以来 世紀に至るも欧州では、「果物を生で食べるのは体に毒だ」という考え方が広く浸透していた。中でもメロンは、その筆頭に挙げられるものひとつだった。ここで「体に毒」とは、どういう意味か。当時欧州では、あらゆる食材について、これを「冷・熱・乾・湿」の四要素で分類し、更にそのそれぞれの要素について 4段階別に等級化する、という考え方が行き渡っていた。この四要素すなわち冷熱乾湿のいずれの性質であっても、その度合が最高度 4とされた食材は、これをそのまま食べることは避けるべき、と考えられていたのだ。こうした「食材秩序」の中で、果物は一般に「冷たい度合い最高度 4で高湿度」と位置づけられていて、メロンはその筆頭に置かれていた。だから生のメロンをそのまま食べるなんて、とんでもない、だったのだ。どうしても食べるというなら、せめて、その「冷たく湿った度合い」を下げる必要がある。具体的には、その反対の性質である「熱い度合いが高く乾燥度の高い食材」と食べ 合わせることで、人体に及ぼす影響力を軽減する。当時スパイス類と塩・砂糖などはいずれも「熱く乾燥した食材」と位置づけられていた。中でも「塩」は「熱さと乾燥度共に最高クラス」とされていた。だから、リヨンの養生訓では「メロンは、
(中略)塩もしくは砂糖で調味された少量の肉片と共に食べるのが宜しい」とされたのだ。メロンに生ハムは、欧州の中世以来のこうした食信仰の名残り、ということになる。
一方、これを食べる私たち人間についても、生まれつき備わった つの基本的な性格と体質に大きく分類されると考えられていた。古代ギリシアのヒポクラテスに源を発する考え方であって、食事については、それぞれの人の生来の性質をできるだけニュートラルな方向に近づけるのに役立つ食材を選び、それを上手く組み合わせた形で調理された食事をするのが望ましい、とされていた。
それぞれの食材の性質に応じて、調理法の適否が定められていて、調理の仕方次第で、各食材の冷熱乾湿の性質が変化する。当時の宮廷料理長は、この複雑な化学方程式
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のような、やかましい食材秩序と調理の関係を踏まえた上で料理をする必要があったわけで、「美味しいものが好きで手先が器用 !」
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だけで務まる仕事ではなかった。中世欧州では先進地域でも識字率は全人口の 5〜 6%程度と推定され、トップクラスの宮廷で働く料理長は、この中に含まれていた可能性が高い。とはいっても当時は、現在のような料理書そのものがほとんど存在していない。あのフランスでさえ 世紀半ば以前の「料理書」は十指に満たない。その僅かに残された中の一冊というか羊皮紙を綴り合せた巻物のひとつが興味深い。あるページだけ、油と思われるシミが多く残り、擦れて傷んでいるのだ。調理場に持ち込み、何度も確認しながら料理
をしていたためと推定されている。では、多くの料理人たちはどうやって、その化学方程式のような世界を知ることができたのか。口伝えと親方の実践する料理を見ておぼえたのだ。毎日台所で親方に怒鳴られながら、手を動かし大きく目を見開き、一つ一つの食材の「固有の性質」を体でおぼえていった。
このように中世の欧州人は、人間と食との関係について、現代の我々とは全く異なる考え方を規準に、その世界を眺めていた。その精緻で複雑な食の世界観を知り始めると、これが「錬金術」と呼ばれる世界の思考と密接な関係があることが見えてくる。実際、調理によって食材の性質が変化することを表現するに、錬金術で「物質が変化する」という意味を表す動詞が使われていたようで、そうなると突如として、料理は錬金術の一種、料理人は様々な素材を組み合わせて新たなものを生み出す魔術にすぐれた陰陽師的存在、と思われてくる。私はその果なく面白い陰陽師の世界にタイムトラベルしてさ迷い歩く旅人なのだ。年の初めは、祖先に祈りを捧げつつ、そんな時空を越えた旅をするにふさわしい時節だ。
メインホールでは、主に1910年〜1945年のスウェーデン軍用機を展示。ライト兄弟によって動力飛行の時代が幕を開けた1903年以降、アメリカやヨーロッパの先進国は、こぞって飛行機の開発に乗り出し、スウェーデンも独自の飛行機を設計・製作していました。海軍航空隊を経て1930年には早くも「空軍」が組織されています。展示の機体は大変綺麗に整備され、世界にここだけの機体も多く含まれています。
北欧スウェーデンといえば、核兵器廃絶をすすめる平和中立的な国として知られています。その一方、歴史的には他のスカンジナビア諸国と同様に大国ロシアの侵略の脅威に晒され続け、第二次世界大戦から冷戦期にかけては、中立を守るべく独自の航空機を数多く開発しました。その歴史を伝えるスウェーデン国営軍事史博物館(SFHM)には、ストックホルムの陸軍博物館と、今回ご紹介する空軍博物館があります。
第二次世界大戦中、国土を他国の侵略から守ることに成功したスウェーデンですが世界は東西の対立という、新しい緊張の時代を迎えることになります。このホールは1950年代から現在までのスウェーデン軍用機が展示されています。ヘリコプターなどは他国製のものもありますが、戦闘機は全てスウェーデン(SAAB=スウェーデン航空機製造会社製)のものです。スウェーデンらしいと思ったのが、冷戦期の1950年から10年ごとの家庭のインテリアを再現した展示です。北欧デザインに包まれた暖かな部屋からも、ソ連と地続きである冷戦期の緊張感や時代の空気が伝わってきました。他に、スウェーデンによる核兵器開発に関する資料なども展示されています。
1950年代のインテリア
リビングやキッチン。家具や食器、小物類まできっちり当時が再現されていて、その時代を生きた人なら懐かしい気分になるのでしょう。1952年にはソ連によるスウェーデン空軍機撃墜事件などもあり、スウェーデンの人の緊張感は日本と違ったものがあると感じさせられました。右のリビングでは、壁の肖像画の口がファスナーで閉じられていたり、壁の所々に血痕のペイントがされていたりと、東側社会に対する風刺と恐れが表されています。
1980年代のインテリア
1981年にソ連のウイスキー級潜水艦が、領海侵犯をした挙句にスウェーデン沿岸に座礁するという事件(ウィスキー・オン・ザ・ロック)が発生し、このインテリアの外には、その詳細が展示されています。リビングの床からも潜水艦が浮上しつつあります。
スウェーデン空軍のラウンデル(識別章)は、国の紋章である三つの王冠をモチーフにしています。識別章は飛行機が武器として使用された第一次世界大戦時にフランス軍機に付けられたのが最初と言われています。写真の「SAAB J21A」は、1940年代に登場。プロペラが機体の後方にあり、機体を推進力で押すプッシャーという方式を採用しています(通常のプロペラ機は機体を引っ張る)。そのため、乗員が脱出時に後方のプロペラに巻き込まれないよう、射出式の座席が採用された最初の機体の一つです。エンジンをジェットに換装した、J21Rも展示されていました。エンジンがレシプロからジェットに移行する過渡期のデザインとして、ユニークなものです。
半世紀の眠りから醒めたDC3
重要な展示のひとつは、バルト海から引き上げられた偵察機「DC3」の残骸です。1952年6月、スウェーデン空軍のDC3がバルト海の公海上で姿を消し、大規模な捜索が行われました。しかし見つかったのは機銃の弾痕が残った救命ボートのみ。当時のソ連が墜落への関与を否定したため、事件の真相は謎となりました(実際は外交上の配慮によって秘密にされた)。事件から40年近く経ち、ソ連のミグ15戦闘機により撃墜されたという真相が明らかになり、2003年に海底120メートルに沈んだ機体が発見されました。翌年機体は引き上げられ、博物館の展示室に収まりました。機体の残骸の他、事件の背景、撃墜当時の様子、乗組員の遺留品、引き上げミッションの詳細など、事件の全容を知ることができます。
SAAB 37 Viggen(1971〜2005年) デルタ翼にカナード翼を加えた特異な形状は、多くの戦闘機に踏襲された。他にも短距離で着陸するため戦闘機では珍しい、スラストリバーサー(逆噴射装置)を装備したり、高速道路の路面を傷めないように接地圧の低い車輪を採用。
スウェーデン独自の技術を伝える
独自の設計コンセプトから生まれる飛行機は、その形状も独特です。機能美という言葉で語られる事の多いレーシングカーや航空機ですが、美意識を抜きにして、成り行きで形が決まるわけではありません。重要なのは人が考える目的であり、その実現のためのアイデアです。スウェーデンは北欧でも随一の工業力を持ち、戦闘機のような高度な機械を設計・製作することができる数少ない国家です。核攻撃で基地を失っても防空戦力を維持できるよう、高速道路を滑走路とするための短距離離着陸能力や、偽装した納屋を格納庫として使えるコンパクトな機体など独特な用兵思想に基づくコンセプトは、米ソとは異なるユニークな機体デザインを生み出しました。近年では兵器も開発に膨大なコストがかかるようになり、一国が自国の都合のみで先端兵器を作ることは不可能になりつつあります。つまり、他の分野でも見られる均質化、汎用化のような動きです。しかし、ここにあるユニークなコレクションからは、思考やアイデアの広がりを学ぶことができ、ものづくりに大きなヒントをもたらしてくれる気がします。
SAAB 29トゥンナン 独特のずんぐりした形状から、スウェーデン語で「樽」の愛称を持つ。1940年代後半に登場した最初の世代のジェット戦闘機で、中翼に境界層を制御する後退翼を採用するなど、アメリカやソ連の機体に劣らない最先端の技術が盛り込まれている。
SAAB 18 1930年代に設計された、SAABが設計した二番目の飛行機。現存するのはこの機体のみ。
新たな取り組み
『 I-GRACE inerior 』プロジェクト
新年あけましておめでとうございます。
今年から新たにスタートする住宅向けのデザイン提案
『 I-GRACE inerior 』デザインプロジェクトをご紹介いたします。提供させていただくデザインのコンセプトは ■インテリアの全要素が調和し、上質で洗練された素材感を感じられる空間 ■時を経ても変らないシンプルな美しさの中で、心地よく感じる空間 ■品よく控えめなカラーリングイメージによる空間 ■お客様のご要望に寄り添い、お客様の生活の質を高め、機能的にもより良く過ごしやすい空間づくりを目指すというものです。リビングルームを例に『 I-GRACE inerior 』がデザインを行う主な要素は、
■ 床、壁、天井のカラーを含む素材選定
■ インテリアイメージを左右するドアや窓等の開口部、ウインドトリ
ートメントやラグ類の選定
■ ソファー等の人体系家具、テーブル等の準人体系家具の選定
■ TVボードや音響機器サゼスチョン、飾り棚等の建築系家具選定及びオーダーデザイン
■ アート作品選定、グリーン選定
■ 緻密な照明計画と機種選定(建築化照明、ベース照明、アート作品用スポットライト、アクセントとなるスタンド照明等、また素材の持ち味をしっかり表現するテクニカル照明計画)。
このプロジェクトを思いついた頃、スタッフに素材見本帳の中から自分がいいと思うものを選ぶよういったところ、揃ったように近いものを選ぶのです。それも家具でもフローリングでもカーペットでもカーテン、照明でも、カタログや見本帳の中で色彩も素材感もシルエットも、一番シックで品が良いものを必ず選びます。あまりにも色彩も素材もシックで一見地味なものばかりセレクトするので、これで出来上がった空間を想像して「これはジミテリアだなー」と思わず云ってしまいました。今まで行ってきたナショナルチェーンのような規模の店舗デザインで
は、コスト面から質の高い素材の採用 OKはまず考えられ
ません。ですから弊社が開発するデザインのコンセプトは、
第一に建物のプロポーションの良さ、第二にシンボルロゴ
のデザインクオリティー、第三に景観に付加を与えないカラ
ーリングのバランスに視点を据えて、考え開発してきました。
ですからかなり長期間、高品質な素材とデザインに飢えて
いたといえます。
充実したインテリアデザイン開発プロジェクトを改
めて立ち上げようとして、シックで品のいい空間を
開発するのに「ジミテリア」というネーミングは覚
えやすいし、意味もいい !と思ったのですが「地味
という言葉はマイナスイメージが強く良くない !」と
周囲からお叱りを受けました。
そこでいつもお願いしているネーミングプランナー(社名や製品名、施設名等を考える専門家)に20数案、プロジェクトネーミング案を創ってもらい、ネイティブチェック(英語などが母国語の人に
案を見てもらい、おかしなイメージを持たないか、こちらの
狙いを理解できるかどうか意見をもらう事)を掛けました。
その結果が今回のプロジェクトネーミングです。
『 I-GRACE inerior 』プロジェクトスタートにいたるまでのこれまでの弊社の生い立ちを少しお話しいたします。29歳ではじめての海外視察が、ノルウェーを除く北欧 3国でした。季節が一番美しい 5月はスカンジナビアファニチャーフェアー開催期間でもありますので、コペンハーゲンのメッセ会場「ベラセンター」の視察も旅程に組み込まれていました。しかし私の中で一番印象深かったのは、スウェーデンのストックホルム中心街、噴水のあ
500㎡程の広大で優美な「総合 .る大きな広場地下の4
インテリアショップ」でした。記憶をたどると建材以外の全てが揃っていたと思います。その時「自分でこんなお店をやってみたら楽しいだろーなー」とインテリア産業に憧れた率直な感慨が先ず浮かびました。それから間もなく独立、5年程外部デザイナーとして住宅リフォーム設計、その後「株式会社 環境デザイン」として法人化。人を包み込む『存在としてのインテリア環境』は『人を創る大きなインパクトである』ととらえ、法人名としました。1980年の事です。次に大手在来木造ハウスメーカーの外部デザイナーとして、都内と近郊 10数カ所の住宅展示場モデルハウスをデザイ
ン。立地地域に会わせたテーマを決め、内外観の相関を強く意識したインテリアデザイン開発とその空間を生かすコーディネート(家具の選定、窓まわり、絵や掛け軸、観葉植物、生活シーン演出のテーブルセッティング、家電セレクトなど)全てを任され、5年ほど東京中を飛び回りました。この時期に『I-GRACE inerior』のコンセプトである「インテリアデザインは空間を構成する全要素が調和し、上質で洗練された素材感、色彩感、光の質でそこに暮らす人の心を創り上げる」という確信が醸成されました。
長い時間を過ごすインテリア空間は、人の心に大きな影響を及ぼします。ですからインテリア空間全てをデザインする事、言い換えればワンストップによるコンセプトのぶれがないデザインソリューションを提供させていただく事で、お客様の暮らしがより良く豊かに、また利便性が向上し充実した時間を過ごしいただきたいと願っています。 ■
秩父神社では、恒例の「蚕糸祭」がとり行われていました。秩父夜祭はかつて「お蚕祭り」と呼ばれ、蚕を主役とした祭でした。今は養蚕農家やJAの関係者約60名が本殿に参列して、繭を奉納しました。秩父地方には10件ほどの養蚕農家があり、秩父限定品種「いろどり繭」(薄緑色の繭)を生産しています。
12月4日午後から、3年ぶりの「流鏑馬(やぶさめ)神事」が行われました。秩父神社を出発しお旅所を目指す隊列には、秩父市長の姿も見えました。流鏑馬を披露する「倭式騎馬会」(東京)の方々が続きます。
秩父の流鏑馬は、700年前の古文書に記録されて以来絶えていましたが、秩父神社創建2100年を記念して2014年に復活。古式にのっとった儀式が行われます。まずは倭式騎馬会の森さんが秩父一族の儀礼にのっとり、清めの鏑矢を放ちました。次に華麗な巫女たちが、鈴を鳴らしながら扇の舞を披露。
約170mの出走コースには3カ所の的が置かれ、50cm四方の的を射抜きます。命中のたびに大きな歓声が上がっていました。
2050
僕らのリズム
130
とある昼下がりの 50歳
5050
歳になりました。びっくりだよ。自分が になるなんてさ。
140
になった時、 になった時、 になった時。それぞれ思い起こして考えるに、やっぱり今回が 番感慨深いかな。
いろんな意味で。
こういった年齢のピリオドで、人の何かが急に変わるわけではないから、まぁ、大抵のことはそれなりに今まで通りやってけばいいのかなって思ってます。とか言いつつ、でも、いくつかのことについては、もっと意識を高めなきゃなって考えてることもあるんだ。今回はそんなことを書いてみよ野田 豪 (AREA ) うかな。
というわけで、以下、 歳のリアル、野田の場合です。
食事
美味しいものを栄養を考えて厳選していきたい。ホントにさ、いまだカップ麺とか食べてるんだよ。コンビニ飯とか。でもね、この歳になって思うよ。ごはんはやっぱり大事。しっかりしたい。誰と食べるかもね、厳選したい。付き合いでしょうがなく食べたくないものを …なんて席はもう無くしたいって思う。イタリアンやフレンチはツラい。和食か 番好きです。食の好みは少しずつ変わるものですね。
女性
そこ書く?まぁ書くよ。生々しい所は避けるけど。僕は生来すごく女好きなんだと思う。時々この世の中に女性がいてよかったなって、しみじみ思うもんな。たぶん僕は家具でもビジネスでも何かをクリエイトする時、必ず女性を意識している。個人一般にかかわらず。それくらいとてもファンタジーな存在。でも、縁や情はこれ以上は増やせない。最初は妖精でも、実際捕まえたらその時点でファンタジーではなくなるわけじゃんね。遠くから眺めていればいいんじゃないかな。そういう歳にようやくなったよね。
Vol . 20
小説
人の小説は、さんざん読んで来た。二千冊なんて余裕で読んでると思う。これをインプットとするなら、もうアウトプットしないとなぁ。毎年言ってるんだけどね。でも最近、ようやく書けそうな気がしてる。そろそろ長編を一本、しっかり書きたいね。それと、最近は、昔読んだ本で手元に残っていない本を、もう一度買い揃え始めてます。これがですね、残ってる本と残っていない本があるんですよ。チェーホフとかカミュなんて名作はいくらでもあるんだけど、山川健一とか平井和正くらいになってくると絶版してるんだよね。もっと早く集めておけばよかったな。
音楽
これも青春時代の買い戻し運動をしています。 YMOとかストリートスライダーズや ARB、大瀧詠一などなど。最近ではゆらゆら帝国とか今後、手に入らなくなりそうなものはなるべく買うようにしてます。活字も音もダウンロードではなく物質で欲しいよね。最新のものは DLで充分なんだけど。青春補正ってやつ?時を経て聞き直してみると、うわーひどいなって思うものもたくさんあるけど。でも呼吸困難で胸が苦しくなるくらい懐かしい気持ちになるものもあるね。その時の情景がアリアリと浮かんで来てもうねっていう。
家具
僕はあとどのくらい生きるのかな。あとちょっとのような気もするし、まだまだ人生半ばのような気もする。いずれにしても僕は家具をやるために生まれて来たんだなって思う。うん。そう思います。家具という職業に出会えて本当に良かった。それだけでも僕の人生はなかば成功してるってね。だからもう今のこれで充分。けどね、欲を言えばなんだけど、 1000年の時を超えて愛される椅子を作りたい。 ……謙虚な気持ちから一転してすごい我欲が出たな。まぁ、でもそう思うんだからしょうがないな。がんばります。前の部分を打ち消すようだけど、僕のこれからは全部が家具でいいんじゃないかな。それ以外は全て煩悩!みたいな。今はそんな気持ちです。
今日は 2018年1月9日。事務所にて、この文章を携帯で入力しています。窓の外は陽が照っていて、ポカポカしてて暖かい。ここから見て、外の小道が右に折れてるんだけど、あの陽だまりの門の向こうを今すぐに見に行きたい気持ちを抑えながらこれを書いています。曲がった先は、もちろんよく知ってるいつもの景色なんだろうけど。だけど、何かね、いつもと違う景色があるかもしれないって。書き終えたら行ってみよっかなって。そんな心持ちです。
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