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陰陽師で知られる安倍晴明。五芒星を掲げたパワースポットとして人気の晴明神社は、京都を南北に走る幹線道路「堀川通」に面しています。平安時代は大内裏の東にあたり、検非違使庁や外記町などの官庁や、修理職町や木工寮など官営工房が連なっていました。織部町で綾(あや)や錦(にしき)などの高級織物が作られ、織物の町・西陣の原型となりました。
境内のクスノキは樹齢300年。延喜21年(921)に生れ朝廷に仕えた安倍晴明は、天文博士の卓越した能力を生かし、主計寮(財務省的な部署)の長としても活躍したと伝えられています。鳥居の横には、豊臣秀吉が「聚楽第」を造営した際、千利休に与えた屋敷跡があり、利休は晴明神社の湧き水「晴明井」を汲んでいたとも伝わります。堀川通を流れる「堀川」は平安時代に造営された人工の運河で、平安京を築くための材木など建築資材を運んでいました。かつては西陣の染め物で染まったともいわれますが、今は大半が暗渠となり、2002年から水流を取り戻すための工事が行われました。
京都を南北に走る地下鉄烏丸線の今出川駅は、「応仁の乱」の舞台となった室町殿「花の御所」に面しています。室町幕府3代目将軍・足利義満(在職1368〜1394)によって室町殿は開かれ、鴨川から水をひいた池のまわりには、四季の花々が咲き誇りました。4代目義持から10代に渡り、花の御所は政治文化の中心となります。
烏丸通から1歩はいった室町通は、室町時代のゆらいともなった由緒ある通り。「洛中洛外図屏風」(上杉本)にも描かれた福長神社は、水の神として信仰されています。鳥居の脇には鮮やかな錦をまとい、顔を白く塗られたお地蔵さんの祠。毎日、町内の人が持ち回りで花を飾っています。8月の「地蔵盆」には路上に町内の人がでて、床几や敷物を広げにぎわいます。京都では「もろまち」とも発音される室町通は、西陣と並び全国有数の和装産地でした。特に二条通から五条通の間には、帯や呉服、お召し、白生地、和装小物、日傘など1500社以上の卸業者が集中し、平成のはじめには全体で1兆円近い売上があったそうです。かつて祇園の花街に遊んだのは、西陣・室町の旦那さんと言われました。江戸中期の「洛中洛外図屏風」には、いまも残る京町家の原型が描かれています。
ヨーコの旅日記第4信ドイツの定宿ホテル川津陽子メッセフランクフルトジャパン
お正月気分の余韻に浸る間もなく、年明け一週目の週末にドイツ・フランクフルトへ。1月 9日から12日まで、世界最大級のホーム&コントラクト向けテキスタイルの見本市
『ハイムテキスタイル』がフランクフルト国際見本市会場で開催されました。新年早々、今年も日本から沢山の方々にご出展、ご来場いただきました。年明け初の見本市らしい、会場内のいたるところで新年の挨拶が交わされる光景はハイムテキスタイルならでは。毎回いいなと感じます。振り返れば今年で連続 12回目のハイムテキスタイル出張。自身でも驚きです。現地では恒例の、Dan Project 南村弾さんによる、日本
▲南村弾さんと、セミナーの進行役をつとめた善明剛史さん(インテリアビジネスニュース)
▲ セミナーには 70名もの方にご参加頂きました
からの来場者を対象としたトレンドセミナーが開催されました。アジアで唯一、トレンドテーブルメンバーに選ばれた南村弾さんには、チームの一員として毎年ハイムテキスタイルのトレンド構成にご尽力いただいています。そんな弾さんとの事前打合せの中で、このトレンドセミナーが 10年目であることが判明し、互いに時の流れの速さに驚いた次第です。10年前の初セミナーの場でも司会を担当させていただき、弾さんとドキドキしたことなどを思い出し感慨深い気持ちになりました。ハイムテキスタイルについては、さまざまな方々がレポートを発信してくださっているので、この場ではここまでとさせていただきます。さて「メッセフランクフルトジャパンの皆さんは、会期中どの辺りに泊まっているの?」という質問をよく受けます。さぞかしメッセ会場近くに部屋を確保しているのだろうと勘違いされがちですが、実際のところはフランクフルト近郊の「バート・ゾーデン・アム・タウヌス (Bad Soden am Taunus)」という街に滞在しています。この機会に、Bad Soden am Taunusについて少し調べてみました。この街はフランクフルト中心から北西 15キロに位置し、中世には神聖ローマ帝国直轄の村でした。「Bad=お風呂、温泉」というだけあって、昔からこの街は製塩と温泉で知られ、1990年代までは世界的に有名な温泉地だったようです。ホテルとメッセ会場の往復の毎日で終わる我々は、実際には温泉地を見たことはありませんが……。この街の購買力はかなりのものらしく、2007年にはドイツ平均の188%を記録したそうです。つまりドイツでトップクラスの裕福な街というわけですが、ホテル周辺に広がる住宅地を見ればなるほど納得です。一体、部屋数はどれだけなのか、何世帯が住んでいるのか、実はアパートメントなのではと、さまざまな憶測が浮かぶ、巨大な庭付きの家が並びます。しかも同じ形状やデザインのお家はありません。家主の愛情を感じる個性的な家々に、住んでいる家族構成や顔ぶれを想像してみたり、自分の中でのトップ 3を決めてみたり、ホテルから駅までの道のりは勝手な妄想でひとり盛り上がります。そして我らの「Salina Hotel」は、個人経営のアットホームな雰囲気のホテルです。いつも優しい笑顔で我々を迎えてくれるフロントの Antoineさん。毎年夏が終わる頃になると「来年の1月、2月はどうする? 今回同僚は何人来るの?」とリマインダーのメールを忘れません。
▲ 駅からホテルへ。豪邸が建ち並ぶ街並み
▲ Salina Hotelのフロント Antoineさん
▲朝食のテーブルをリザーブしてくれます
朝食ルームでは、いつも会社のロゴ入りプレートを用意してくれて、滞在中はテーブル席をリザーブしておいてくれます。
(あ、”Mesago”が …… 次回修正をお願いせねば!)そんなおもてなしを受けながら、何万人の人々が交じり合うメッセ会場で一日を過ごす反動なのか、閑静なこの街のこじんまりしたホテルに、かれこれ 10年近くリピートしています。というわけで、街やホテルの雰囲気は良いのですが、唯一悩まされるのは電車です。街の名と同じ Bad Soden am Taunus駅は、ドイツ国鉄が運行する S-Bahnの S3線終点の駅。滞在中はこの電車でメッセ会場に通うのですが、なんと電車が来るのが 1時間に 2本、日曜日にいたっては 1時間に 1本なのです。朝一から大事なミーティングでもあろうものなら1本の見逃しが命取り。朝から緊張が走ります。乗ってしまえばメッセ駅まで 25分、フランクフルト中央駅へは 30分程でアクセスできるのですが、この利便性の問題があってか、この街で日本人に遭遇することはまずありませんが、実は、そのあたりを苦としないメッセ常連のツウなお客さまがこの駅周辺のホテルを利用されていたりします。さて、この原稿を書いている翌週には再びフランクフルトが待っています。次は世界最大級の消費財見本市アンビエンテの開催です。そのお話はまたの機会に……。
室町時代には、能や狂言、茶道、華道など、現代にもつながる様々な文化が育ち、武野紹鴎や千利休による「ワビ・サビ」といった美意識も生まれます。応仁元年(1467)から11年も続いた「応仁の乱」を避け、公家や町民は縁故をたよって地方都市に逃れます。都の栄華を偲んだ公家たちは京風の町づくりをすすめ、各地に小京都が形成されます。宮中の年中行事や祈祷は地元の祭となり、職人たちは、染色や織物、工芸、陶芸の技術を伝え、能楽師や茶人、僧侶たちによって様々なモードが広がりました。室町で生れた文化は、日本全体の様式として定着していくのです。「官休庵」の隣には、千家十職(せんけじっそく)のひとつ、塗師中村宗哲家があります。中村家は千宗旦の頃から千家に出入りし、棗や茶杓、香合、水指、懐石家具、棚など、多様な道具を手がけてきました。武者小路通は応仁の乱以前からある古い通りで、京都御所の警護をする侍たちが暮らしたことから、この名で呼ばれました。
戦端が切られてから550年。応仁の乱は、花の御所を陣地とした東軍(細川勝元)と、西陣を陣地とした西軍(山名宗全)の間で戦われました。一説には東軍16万人、西軍11万以上といわれますが、現地を歩いてみると、東軍から西軍までの距離はわずか500メートルほど。とても狭い場所で対峙していたことが分かります。全軍による大規模な合戦は少なく、新兵力となった「足軽」たちによる放火や盗難が戦火を拡大したと考えられています。11年に及ぶ闘いのなかで、庶民は町ごとに塀や木戸を設けて自治組織を強化。商売を営む、女性の社会進出がすすんだ時代ともいわれます。
天正2年(1574)に、織田信長から上杉謙信へ贈られたと伝えられる「洛中洛外図屏風上杉本」。左隻の下部には「花の御所」が大きく描かれ、商家の並ぶ町の様子もよく分かります。
武者小路通にて、典型的な町家のつくりを見ました。現存する京町家は江戸後期から明治以降のものが多く、通りには「ミセ」と呼ばれる店舗や仕事場が面し、「ダイドコ」、「オク」、「坪庭」と、奥に入るにつれてプライベートな空間になっていきます。玄関の横には折り畳み式の「ばったり床几」が据えられ、商品の陳列や作業台として使われました。家相上、「蔵」は北西か南東の位置に建てられ、シンプルな造形が特徴です。
ファサードの「格子」は職種によってデザインが異なり、「糸屋格子」「米屋格子」「お茶屋格子」「酒屋格子」「炭屋格子」などがあります。呉服商には、親格子の間に細目格子を入れた「子持格子」(千本格子)が多く使われます。
小林 清泰アーキテクチュアルデザイナー ケノス代表
人間の本能『食べる』からの街おこし IET(Incredible Edible Todmorden)
「企業や政府に幻滅し、政府による歳出削減に嫌気がさした英国民の間で活発化している動きの先駆者である」と英オブザーバー紙が伝えた街があります。イギリス中部ウエスト・ヨークシャー州「トッドモーデン(Todmorden)」地区で、今回はその想像外のユニークかつ実効性の高い取り組みをご紹介します。人口約 15,000人の小さな街トッドモーデンは、マンチェスター・ユナイテッド・フットボール・クラブを有する都市マンチェスターの北に位置し、鉄道で 30分程の距離にあります。マンチェスターの人口は約 49万人、周辺都市圏人口は約 224万人ですので、マンチェスターのベッドタウンともいえます。この街の事を知ったのは全く偶然です。今、リアル店舗の王者
「Walmart」がネット販売の王者「amazon」に対抗するため、懸命にネット通販を拡大中です。その担当役員の主張を youtubeの
「TED」で観ていました。それが終わり、次の人のアピールが始まりました。長身で眼鏡をかけ、黒く地味なジャケットの中年女性ですが、切れのある話し方です。ユーモアたっぷりに笑いをとり、聴衆を引きつけます。私も思わず引き込まれました。トッドモーデンのムーブメントを起こした中心人物 IET(Incredible Edible Todmorden)のパム・ワーハースト(Pam Warhurst)さんによって、熱く素晴らしい物語が展開されました。(以下、講演から抜粋)
思いがけない場所から生き方を変える動きが生まれました。トッドモーデンはごく普通の田舎町ですが、町中にフルーツや野菜、ハーブが茂り「プロバガンダ・ガーデニング」と呼ばれています(笑)。駅の駐車場や病院、民家の前庭、警察の前にもあります(笑)。食用の植物が運河の側道や墓地にも茂っています。ここは土壌がすごくいいんです(笑)。新しい観光も考えました。「ベジタブル・ツーリズム」です。信じられないかもしれませんが、私たちの畑を見るために世界中から観光客がやってきます。何も生えていない時もきます(笑)。私たちがこれに取り組んでいるのは暇だからではありません(笑)。革命を起こしたいからやっています。こんな事を考えたんです。年齢、収入、文化の垣根を越えて人々を結びつける方法は無いものだろうか? 新しい生き方を見つけたり、街を違う眼で見るようになったり、リソースの活用法を考えたり、人間関係を変える切っ掛けを作る方法は無いだろうか? そしてその活動を広める事は出来ないだろうか?答えは「イエス!」でした。キーワードは「食物」です。3年半前にキッチンのテーブルに集まった数名で全てを考案しました(笑)(拍手)。住民集会に提案する簡単な企画を考えました。誰にも相談せず書類も作りませんでした。面倒ですから(笑)。トッドモーデンの住民集会でこんな話をしました。3つの受け皿を中心に街作りを考えたらどうか。「コミュニティという受け皿」で暮らし方を考え、「教育という受け皿」で子供の学校教育や住民が共有する新しいスキルを考え、「ビジネスという受け皿」で自分たちのお金の使い道や支援する事業の選択を考える。そして食物中心の地域活動でこの 3つの受け皿を活性化する事は出来ないか?私たちはその全てを戦略書も読まずに実現しました(拍手)。しかも誰の許可も得ずに実行しました。勝手にやっています(笑)。郵便ポストに小切手が届くのを待った訳でもありません。そして最も重要なのは『そんな地道な活動は問題解決にはならない』というもっともらしい批判に耳を貸
さなかった事です。私は地道な活動の力を目の当たりにしました。驚くべき力です。(引用終わり)
3つの受け皿の一つ、コミュニティ形成の視点から見てみましょう。この街では、近所の裏山に入って山菜やキノコをとるように、町中のあらゆる公園や公的施設でそこに植えられている野菜や果実を市民が自由に採っているのです。駅にはハーブを寄せ植えした大型のプランターが、レンタル自転車パーキングにはブロッコリーやセロリ等野菜の植え込みが、街の中心部にあるヘルスセンターの駐車場にもハーブが植えられています。ゆったり流れる運河沿いの遊歩道にも野菜が、病院ももちろんですし、警察署前庭にはトウモロコシが植えられています。高齢者住宅では入居者が自分達で植え込み、収穫できるものを育てています。
そして、誰でも収穫できるのです。もちろん観光客もです。また公共施設だけでなく、「 IET」の趣旨に賛同する個人邸の庭にも野菜が植えられていて、やはり誰でも収穫できるのです。「IET」に関連するベジタブル・ベッド(プランター等)や植え込みには、必ず手書きの看板と、植物の受粉を仲介する蜂のマークが表示されています。街に住むデザイナーにこの植物が何なのか、またここまで成長したら収穫 OKと分かるボード等を作ってもらっています。そこでは共有の喜びと植物に対する
優しさが養われているのです。スーパーマーケットのケースに並べられているパック野菜しか知らなかった子供たちが、今や公園の植え込みの中を駆け回りながら、見つけた木の実や野菜を採ってきています。さて、教育の受け皿は次のように動きつつあります。地元の高校が「IET」の要請を受け農業教育を始めました。地元の園芸センターから土地の寄付を受けて、ボランティアだけの力で園芸教育センターを立ち上げました。高校の裏手の空き地に蜂のいる果樹園を計画中です。温室や畑も作るようです。最高の教育となるはずです。日本の教育界を想像すると、普通高校の授業に農業科目を入れる事など許可するはずがありません。柔軟ですよね。
ビジネス面での実績も上げています。募金によって黒板を買い
「インクレダブル・エディブル」と書いて市場の各お店に配り、販売している地元の食材を書き込んでもらいました。そうすると人が集まり、地元の食材はすごい人気となり売り上げが大幅に増えました。しかし農家の人たちは、にわかには信じなかったそうです。そこで「どの卵も大切」キャンペーンを行いました。簡単な卵マップを作り、自家消費で余った卵を売っている人の名前を書き込んだところ、地元の卵が欲しいという人が現れました。最初のマップは 4人でしたが、今では 64人に上ります。こうして実績を積み上げた結果、地元食材を扱う店が増え、街の食品関係者の売り上げが 49%伸びたとのこと。パム・ワーハーストさんはいいます。ただのボランティアであり、ただの実験です。どれも難しい事をしている訳ではなく、皆を巻き込んで力を合わせているだけ。皆のムーブメントなのです。「IET」のモットーは、「食べるなら参加」です。年齢、収入、文化の垣根もありません。必要なのは考え方を変える事です。予算や事業計画を変えてでも支援の枠組みを作ろうというコミュニティなら成功します。
これらの活動が地方政府を動かしました。地方政府の所有する空き地を資産登録し、それを食料バンクに入れて、地元民であれば誰でも使用できるライセンスを発行し保証する。また職員全員にトッドモーデンのようなコミュニティが成長するよう、それらのスペースを保持できるよう手助けする、という通達を出したのです。これらは声高に叫ばない正に草の根運動であり、全て自主的に、申請書など一切作らず、誰にも相談せずに、ただ許してもらうだけという住民からわき上がった機運が役所を動かし新しい街づくりが成功した「理想的なプロセスと結果」の一つの形です。今やイギリス国内 50の自治体のほか、アメリカやフランス等でも行われ、日本でも今後、このような取組みがすすめられることを期待しています。
元誓願寺通に店をかまえる小西リボンの直営店「BLANC DE CORE」。西陣を東西に抜ける元誓願寺通は機業(きぎょう)店の多い通りで、豊臣秀吉の京都改造によって作られました。昭和24年創業の小西リボンは、衣料品や手工芸品用リボンの専門メーカー。今後は色数を増やすとともに生産を国内にシフトし、西陣ブランドを強く打ち出していきたいそうです。
中二階の正面に設けられた虫籠窓(むしこまど)は、漆喰や大津土などで塗り固めた格子状の開口部で、盗賊を防ぐ工夫のひとつでした。夏場には、内側に嵌めた障子を開けっ放しにして、風を通します。クリーム色の大津土は、色土にスサや石灰を混ぜた左官材で、京町家に多い仕上げです。
西陣千両ヶ辻の糸割符商人「渤海(ぼっかい)家」跡を利用したデイサービスセンター「casa六瓢(カサむびょう)」。糸割符商人は、江戸幕府から生糸の輸入権を与えられた商人のこと。
西陣の「紋屋図子(ずし)」。図子とは通りと通りをつなぐ細い道のことで、辻子とも書きます。一方、行き止まりの通りは路地(ろうじ)と呼ばれ、裕福な商家が土地を買い取り貫通させた図子もあります。木部に赤い弁柄を塗った町家は、西陣の機業店に多い仕様でした。「応仁の乱」で京都を離れた織物職人たちは、国際都市として栄えた堺などで高機(たかはた)といった新しい技法を習得し、西陣と呼ばれるようになったこの地に戻ります。
紋屋図子に面して、三上家路地があります。昔は三上家の抱える職人の長屋として、今は陶芸家や設計事務所の入るテナントとして生かされています。路地の突き当りにある蜂蜜専門店「ドラート」は、日本、台湾、アフリカ、ヨーロッパなど、オーナー自らが探し求めた40種類以上の蜂蜜を扱い、インドで自然採取されたスパイシーな蜂蜜など、今まで知らなかった蜂蜜をテイスティングしながら選べます。京都のほか、神戸にも店舗があります。
120回を一冊に
鈴木 惠三 BC工房主人
10
70
ふじの工房は雪だった。
ジャワ工房は
℃だ。
オイラのカラダとアタマが、このギャップについていけない?
毎朝、
分のウォーキングで工房へ。
しっかり汗をかいて体調をととのえている。
歳の楽しみは、あったかい所で、
おもしろい椅子デザインを考えること。あったかいとアタマがなんとなくボケっとして、ゆっくり回転してくれる。やっぱり「ボケっと」が、いちばん大切な気がする。工房楽記で、この「ボケっと」をずっと書いてきた?
年間で120回、驚くような長期である。
続けるスゴさ?アホさ?コラージの「おかげ」に感謝して、工房楽記 120回分を小冊子にまとめた。
120回を
回へ。
まあ、とんでもない大胆な、まとめである。編集者の中野照子さんと
デザインオフィスの
A
ランチがやってくれた。
昔からのオイラの仲間たちである。長年の仲間じゃなければ、
120回分の原稿を 回にすることは出来なかった。
オイラの中心をつかんでくれる「気心仲間」だ。
30
30
12
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「あつき情熱
0
2」は、コラージへの感謝のキモチでもある。
No.
コラージの拡がりを、もっとつくるため!コラージのおもしろさを、もっと知ってもらうため!そして「工房楽記」はバトンタッチ。タイトル「銀座遊び」で、ギャラリー収納の大谷クンに、おなじみの銀座の店を紹介してもらいたい。山の中のオイラが夜毎、遊びに行きたくなる、銀座の店々を教えてもらう。コラージをちょっと柔らかい、遊びマガジンへ。 GOOD
な企画だと思うけど、どうかな?
℃の「ふじの」工房から
℃の「ジャワ」工房へ来て、
少々、アタマがフニャフニャになっている?
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Aランチマガジン『あつき情熱 No.2』は、3月中旬からBC工房などで配布。
ヴォーリスらしさを感じさせる階段には、葡萄をモチーフにした彫刻が刻まれています。同志社の創始者である新島 襄(七五三太)は、1843年江戸に生れ、1864年、函館から密出国してアメリカに渡ります。乗船したワイルド・ローヴァー号の船主・A.ハーディー夫妻の支援をうけアーモスト大学(マサチューセッツ州)に進学。1870年、大学を正式に卒業した初めての日本人となりました。牧師を目指し神学校に進学した新島襄は、明治政府が派遣した「岩倉使節団」を手伝いヨーロッパに渡ります。それまでは密出国者扱いだった新島でしたが、森有礼の斡旋で留学許可証とパスポートを入手することができました。神学校を卒業し牧師の資格を得た新島は、10年ぶりに日本に帰国します。アメリカを去るとき「日本にキリスト教主義学校を創設したい」という夢を語った新島のもとに、多額の寄付が集まります。学校創立の舞台となったのは、新島が所属した宣教師派遣団体「アメリカン・ボード」が拠点とした関西でした。明治19年(1886)に完成した礼拝堂は、現存する煉瓦建築のプロテスタント教会として最古のものです。建築費はアメリカン・ボードからの寄付で、神戸に赴任した宣教師ダニエル・クロスビー・グリーンによって設計されました。日本進出が他教派より遅れたアメリカン・ボードは、宣教師の手薄だった関西を活動の中心にしたのです。施工は京都の棟梁・三上吉兵衛。設立間もない同志社に学んだ徳富蘆花は小説『黒い眼と茶色の目』のなかで、ステンドグラスから「五色の光線」が降ると表現しました。1987〜 90年まで半解体修理工事によって建設当時の内装を復元し、定期的一般公開されています。明治 17年(1884)に完成した、同志社に残る最も古い建物「彰栄館」。同志社今出川キャンバスは、元は薩摩藩邸で「薩長同盟」が結ばれ、西郷隆盛や坂本龍馬が出入りしていました。新島はこの土地を、会津藩出身の京都府顧問・山本覚馬(新島八重の兄)からゆずりうけます。当時の御所周辺は天皇を失い急速に寂れていきました。同志社がこの地に根を下ろした背景には、京都再建に向けた学校誘致の側面もあったのです。設計は礼拝堂と同じグリーンで、施工は棟梁・尾瀧菊太郎。日本では珍しいアメリカン・ゴシック調の外観で、屋根は瓦葺き、内部の小屋組みは和風の寄棟造りになっています。
明治 23年(1890)に竣工した「ハリス理化学館」は、アメリカの実業家ハリスが「自然化学教育のために」と寄付した基金(10万ドル)をもとに、神戸異人館の設計で知られるイギリス人建築家 A.N.ハンセルによって設計されました。現在は資料館として使われ、新島襄の足跡を紹介するギャラリーになっています。明治のはじめ「キリスト教禁令」は廃止されたものの、キリスト教に対する風当たりは強く、新島は「校内では聖書を教えない」という誓約を府庁に提出しています。そこで新島は近所の豆腐屋を買い上げ、聖書の教室としました。学生からは「三十番教室」と呼ばれていたそうです。
明治 26年(1893)に完成したクラーク記念館は、ニューヨーク在住のクラーク夫妻が、23歳で夭折した息子バイロン・ストーン・クラークを記念した寄付金をもとに建てられた神学館です。2階には礼拝堂があり、設計は東京の官庁集中計画のために招聘されたドイツ人建築家リヒャルト・ゼール。来日前に手掛けた西プロイセン州議会議事堂(現ポーランド)をモチーフとしたネオ・ゴシック調に仕上げられ、天を突くような尖塔が特徴です。
同志社の門の向かいには、京都御所「今出川御門」があります。
京都御所の西側には、日本聖公会聖アグネス教会と平安女学院があります。
自動車レース 1。レースクイーン的存在であるグリッドガールズを登場させることは、今後禁止されることになった。全米中継クラスのプロボクシングの大試合。ビキニもしくはハイレグ水着にハイヒール姿で、ラウンド数の板を持ってリングに登場するガールズ。これも禁止せよとの声が。流れは加速している。その源をたどれば、奥は深い。だが、今回の一連の動きの発火点はただひとつ。今年のアカデミー賞授賞式に端を発する “Mtoo!”(私も被害者!)運動だ。映画出演を餌に女優に性的関係を迫る、いやったらしい大物プロデュ
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ーサー断罪の抗議運動で「私も被害者!」と声を上げる有名女優の告発が相次いだことは皆様も御存知の通り。このハリウッド「ミートゥー運動」のインパクトは大きく、事は芸能界から社会全般へと動きが
広がりつつある。それも思いも掛けない場所にまで。
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話は飛ぶ。英国ヴィクトリア時代末期に、独特の銀器を生み出した「アーツ &クラフツ」と呼ばれる美術工芸運動がある。その流れの中
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で造り出された銀器を、僅かながら好きで集めている。英国絵画の世界に、このアーツ &クラフツ運動と密接な関係がある、ラファエル前派と呼ばれる一群の画家たちがいる。自然とこの一派の絵画にも心惹かれるようになっていき、何冊かの画集が手許に溜まることになっ
た。その中の一冊に、 J・W・ウォーターハウスの画集がある。ロセッティやミレーという有名どころに比べ、知名度はいまいちかもしれない。その絵のタッチからラファエル前派の画家として「分類」されるが、精神性においては古典派と評されることも多い画家だ。画集を買おうと決めたきっかけは「キルケー・インディヴィオーザ」と題された1892年の作品だ。そこに描かれているのは、古代ギリシア(ローマ)神話の世界を物語化したオイディウスの『変身物語』(中村善也訳、岩波文庫版)の一場面(下巻、巻 )に登場する「妖力の女神キルケー」だ。太陽神ヘリオスの娘で、自分に心を寄せない男どもを、毒草と妖術の力で化け物に姿を変え、これを思うままにあやつる。泉鏡花の高野聖を思い起こさせる神話だ。インディヴィオーザとは「嫉妬に燃える」という意味。憎き男をおびき寄せる洞窟の海に、嫉妬に燃えたキルケーが、呪文を唱えながら、緑色の妖液を注いでいるところが描かれている。その着衣の色彩、洞窟の海の深い青緑、注がれる妖液の淡い緑のコントラストが相伴って、一心不乱に呪文を唱える魔の女神の妖力が、目前に見えるかのようだ。作品の発表当時から、海の青緑と妖液の淡い緑の組み合わせと構図が「日本からの影響」と解説されている。浮世絵の一部の色調と構図を意味しているらしく、興味深い。この作品が展示された英国ロイヤル・アカデミーの展覧会を紹介した、当時英国を代表する雑誌『パンチ』1892年5月2日号に、面白い記事が出ている。この絵を茶化したイラストに「日本のジェニー」という題名が付されているのだ。ここで「ジェニー」とは、おそらく「ジーニー」(精霊・魔神)を意味していると思われ、そこに「日本(人)の」と頭に付くところに、一大ジャポズムブームの余韻冷めやらぬ当時の英国美術界の様子の一端が窺われる。また、この絵に描かれた緑色の液体は、当時パリで大流行していた依存性の高い緑色の魔酒アブサンを想起させる。この魔の酒の宣伝ポスターには若き女神が登場するが、イメージとして通底するものを感じる。「飲み始めれば溺れる」と分かっていながら、飲まずにいられない。「この女は危ない」と分かっていながら、引き込まれていく ……。男であれば誰しも、こうした妖美な女に心惹かれた経験が一度ならずあるはず。
ごく最近英国で、冒頭述べたミートゥー運動の
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ひろがりの中で、予想外の出来事が起きた。舞台はマンチェスター・アート・ギャラリー(市立美術館)。設立以来 百年近い歴史を誇り、絵画5千点、工芸品1万5千点を擁する、英国でも有数の美術館だ。特にヴィクトリア時代の絵画と工芸、中でも水準の高いラファエル前派の作品群で知られる。ここに J・W・ウォーターハウスの代表作の一つ「ヒュラスとニンフたち」(1896年)が収められている。勇者の「お小姓」である美少年ヒュラス。これが森の泉に水を汲みにやってきた。その泉を遊び場とするいたずら好きな美しき7人のニンフたち。美少年ヒュラスの容姿の溢れる美しさに欲求を抑えることが出来ず、その腕を掴ん
で、泉に引きずり込もうとする場面が描かれる。若き女性の秘められた性的欲求を象徴する、と一部で言われる作品だ。
この絵が、ミートゥー運動のとばっちりを食らうことになった。同美術館でフェミニズム色の濃い女性画家の個展が開催されるに当たり、広く一般に「美術における女性の描かれ方」を再考してもらいたいという意向が美術館の学芸員から表明され、その問題を考えるに格好の作品として本作が選ばれ、展示の壁面から撤去されたのだ。空となった壁面の前に小さなテーブルが用意され、そこに筆記具とポストイット。来館者それぞれの意見を自由に書いて壁面に添付して下さいと、いかにもイギリス的な措置で数十の紙が貼られた。中で次の意見が印象深い。「私はフェミニストだけれど、こんなやり方(作品の撤去)は許せない。自身がフェミニストであることが恥ずかしくなります!」。1枚の絵画の撤去は英国で大問題となり、 BBCはもちろん主要な全国紙が揃って記事を大きく掲載する騒ぎとなっている。美術館の学芸員は騒動の思わぬ拡大に慌て「美術館としては決して一方の主張に加担するつもりはなく、あくまで問題のあることを来館者に広く訴えたかったまで。もちろん撤去は一時的なこと。」と表明している。なおウォーターハウスの別の作品「アリアドネ」について、早稲田大学文学学術院の梅宮創造教授が主宰する雑誌「文学倶楽部」第7号(昨年7月)に、研究者・若名咲香さんの丁寧な論考が掲載されている。問題の背景を知るに役立つ。
「月輪町ハウス」の設計は建築家玄・ベルトー・進来さん。ファサードの千本格子や虫籠窓によって、街とも調和したデザインです。照明にさり気なく「TSUKINOWACHO HOUSE」のサインを示し、瓦には魔除けの「鍾馗さん」が立っています。玄関ドアは黒皮素地の鉄板。チェックインカウンターや廊下、階段、建具には木の素材を多用し、伝統と現代性の対比を見せています。木枠で囲んだ小窓を、水道の点検口にした工夫も。
玄関を上がってすぐの所に階段があり、廊下右側のドアは洗面・浴室。奥のドアは寝室になっています。海外からの宿泊者をメインに定員4名を想定し、洗面所にはドラム式洗濯機を備え、長期滞在にも対応しています。
1階奥のベッドルームには、たっぷりとしたダブルベッドを設置。L字型の開口を設け、白砂を敷いた坪庭の塀には杉皮を張り、庭石を置いて京都らしい雰囲気を演出。書斎スペースもあり、ホテルライクな仕様です。
2階には、キッチンとダイニング、小上がりの和室があります。IHクッキングヒーターや調理器具、食器類を備えたキッチンで、本格的な自炊も可能。市場で買った食材で、仲間たちと調理を楽しめます。1週間以上滞在する、ヨーロッパからの宿泊者を意識しているようです。既存の古い梁や束を生かしながら、新しい材料を添えて構造を補強。白い壁とのコントラストを美しく見せています。天井にはめ込んだ四角いガラスタイルは照明になっていて、まるで天窓から光が差し込んでいるようです。
和室は寝室を兼ねていて、壁の扉をあけると布団が収納されています。奥行の深い床の間は、間接照明で浮かび上がるシンボリックな空間。「月輪町ハウス」のオーナーは東京在住のフランス人で、運営はパリに本社をおく、Vivre le Japonが行っています。
部屋を出ると青が眩しかった(新しい季節)
鳥の声は遠くただ優しく(ストンと腑に落ちる)
鍵をかける乾いた音(これまで何度鍵をかけたのだろう)
雨上がりの光るぬかるみ(美しく危険なぬかるみ)
踊るように避けながら(時には汚れて)
小さな砂丘の間に見える(偉大な楼閣をすり抜けて)
あの海をめざす(いつも同じ場所へ)
いつのまにか子供の姿の(ただ無心に笑う)私がいる
カンナの花が揺れている(カンナの花が揺れている)
いざ、さようなら !
僕らのリズム
Vol . 21
野田 豪 (AREA )
京都を代表する繁華街「祇園」。花見小路通と新門前通が交差する一角に、まるで虫籠のように光るのは、高野竹工の直営店「篁(たかむら)」です。
無数の竹格子は、真竹と孟宗竹を幅5ミリに揃え20ミリ間隔で並べたもの。ガラス板を挟んで2重に配置され、奥深い世界を感じさせます。篁を運営する高野竹工(長岡京市)は、竹林整備から伐採、油抜、製作までを一貫して行う竹工芸メーカー。店をきり盛りする林智子さんは、現代美術作家として活動しながら、海外からの人々に竹工芸の魅力を伝えています。
店舗デザインは、京都・静原町の建築家・森田一弥さん。竹工芸の手技や、自ら身につけた左官の技術を生かしています。「竹工芸の高い技術力を店舗全体で表現したかった」と森田さん。
竹格子は長期間寝かした材料を使い、茶杓をつくる一流の職人によって狂いなく精緻に作られています。同社には指物や漆、蒔絵の職人もいて、国宝「待庵」に使われた、こけら葺(サワラ)の古材を利用した茶道具箱など、京都ならではの希少な工芸品を生み出しています。竹をロクロで薄く削りだす技法から生まれたカップや、竹の節を利用した盃。
左官の土壁は、石膏の塗材をスプレーガンで吹付け、生乾きのうちに砂利を手で投げて埋込み、その上から土を刷毛で塗るという手法で、ラフな表情を見せています。森田一弥さんは、京都の「しっくい浅原」で左官職人として修行。金閣寺など文化財の修復にたずさわった経験を設計に生かしています。
金閣寺、平成大修理の古材を使った道具。
高野竹工の創業者、竹工芸の家に生まれた.野不窮斎(ふきゅうさい)氏は千利休の影響をうけて、竹の美しさを生かした茶道具作家となりました。茶杓、蓋置、花入などに新しい創作を取り入れた作品が評価され、今も由緒ある寺院に道具を納めています。そうした縁から、待庵や金閣寺、銀閣寺、相国寺の古材を引き取り、次代へと継承する道具に仕立てています。
昨昨年暮れから正月にかけて、病院通いのオンパレードとなった。
冷房がかかり始めた6月、長時間の講義を受けていたのがいけなかったのか、秋口になっても肩こりが治らず右手が上がらない。だんだん身体が固まって寝返りもままならない。
こうなったら昔診てもらった鍼灸院に行くしかない。新幹線に乗って小田原まで。親の代からだから40年以上になる。もう何年も行っていなかったが、母が鍼灸院開業当時の患者ということで、私のこともよく覚えてくれている。すでに息子さんの代になっているが、大先生が一通り診てくださる。外傷や内臓疾患ではないので、ゆっくりと全身の経絡をたどり、コリの元を探る。名医にかかれば、身体が軽くなるのが不思議である。加齢による金属疲労は容易なことでは取れないが、鍼・灸はじんわりと効いてくる。治療の後は、腕も上がり手が後ろに回る。交通費も時間もかかるが、痛みで顔をしかめる癖がついてはいけないと、しばらく通うこととした。何回か通ううち、腕も上がるようになり、お風呂場と窓ガラスの拭き掃除ができたのが嬉しかった。お正月の買い物、煮しめの野菜皮むきもできた。普段は横着を決め込んでいるが、日常生活の些細なことがだんだんとできなくなるのは情けない。身体が動くことに感謝した。
親譲りのクシャミは知る人ぞ知るダイナミックなものだが、本人も周りも慣れっこになっていてさして気にも止めなかった。が、暮れの大掃除の後、呼吸が止まるのではないかという発作に見舞われた。生まれて初めてのことである。すぐに近くの耳鼻科の病院に行ったが、診察時間前にもかかわらずマスクをした子供がいっぱい。小児科医院と間違えたかと、看板を確認したが耳鼻咽喉とある。間違いではない。ここでインフルエンザに移っては身も蓋もない。マスクで防御して診察を待つ。待合室は混んでいたが、診察室には2人の子供を連れて入
マッチポンプ
る人もいるので、案外早く中へと呼ばれる。チョコレートにするかイチゴにするか親と話している。なんのことかと見回すと、吸引台で子供が慣れた手つきで吸引器を口に加えている。ああ、そういうことかと診察の順番を待つ。口元を押さえながら、昨夜の状況を話す。呼吸困難になるほどのことだから、よっぽどのことだと思ったが、鼻の奥を診て、少しただれていますね。とあっさりとしたものだった。アレルギー検査の採血をしたが、薬はクシャミ止めと点鼻薬が1本。診察後は吸引場所に移動。吸引器の先にはバナナやイチゴの絵が書いてある。子供と並んで口にくわえるが、大人用は何の味もしなかった。薬を飲んでも点鼻薬をしても、出るクシャミは止まらない。結局薬局でメンソレータムの大瓶を買って、たっぷり鼻に塗り込んで、マスクをして過ごした。クシャミのしすぎで頭がボッとしたままお煮しめの味も決まらない。お重詰めも美しくない。紅白歌合戦も乗らず、石川さゆりの津軽海峡も見損なう。それでも寝込むことなく、新年を迎え三が日を無事過ごせたのはありがたかった。
4日、今年最初の定期診察。新年早々でも病院は大勢の人。新年の挨拶どころではない。お正月気分は一遍に飛んでしまった。10日、歯科医検診。12日、健康診断。1月に予約を入れたことを後悔しながら、胃カメラを飲む。友人に勧められた病院での健康診断だったが、診察の先生が超イケメンなのは参った。思わず見とれてしまって診察内容を聞き逃した。病院の先生はあまりハンサムでない方がいい。
そんなこんなで2018年をスタートしたが、こればかりではない。松飾りが終わった後どうもやっていることにロスが多い。みんな自分で決めてやっていることだが、マッチポンプのような気がしてならない。じっとして居れば、何事もなく過ぎていくが、性分が邪魔をする。黙って居れば、風は頭の上を通り過ぎるが、一言発してしまう。で、その後始末にバタバタする。どうも暮れからのひと騒動は、マッチポンプが起因しているように思う。どうしたもんかと悩んでいたら、「マッチは点かなくなったらオシマイ」と、嬉しい?一言。これを褒め言葉と思うことにした。
京都の中心部から北へ車で30分ほど。大原三千院へ向かう街道沿いの「静原」は、里山の南斜面に築かれた日当たりのいい町。昔ながらの民家や土蔵、石垣の町並みが残っています。
和銅4年創建の静原神社。平安京よりも古い8世紀の始めには祭事が行われていました。逆賊に追われた天武天皇が、この地で御心を静かにされたため、静原と呼ばれたと伝わります。
静原町の高台に、京都祇園の「篁(たかむら)」をデザインした森田 一弥さんの事務所(一級建築士事務所森田一弥建築設計事務所)があります。
森田さんの事務所には世界各国からインターン希望者がやってきます。
古いガレージを改装した森田一弥さんの事務所。静原一帯は市街化調整区域のため、基本的に新築は許されず、それが古い町並みを残すことになりました。森田さんが静原に暮らし始めたのは10年ほど前。京都市内には「伝統的建築物保存地区」の古い街並がありますが、改装には厳しい規制があります。一方で、静原など市街化調整区域の改装は自由。歴史や観光に縛られず、創造的な挑戦ができるフロンティアとしての魅力を感じたそうです。
事務所の窓は鞍馬から大原へと続く「東海自然歩道」に面していて、ハイキングの人たちが建築模型を覗いていくそうです。
京都大学の建築学科で学んだ森田さんは、建築・都市研究で知られる布野修司さんに師事し、アジア、ヨーロッパ、アフリカ諸国を巡りました。チベット高原など極限的な自然環境の集落を観察するなかで、そもそもの建築は、地域の材料と自然環境に対する必要から生まれたと感じたそうです。伝統的な建物の内部を深く知りたいと感じた森田さんは、京都の「しっくい浅原」で修行し、清水寺や金閣寺など文化財修復の現場で働きます。大工や塗師の話を聞いたり、解体中の現場を見て回ったりしながら、数年で左官の技術を身に着けました。静原に事務所を開いて最初に依頼されたのは、神社の基礎となる漆喰を補修する仕事だったそうです。
樹齢数百年は経つだろう御神木。貴重な大木を使わずに、小さな木材で効率的な大空間を作りたいと森田さん。細い間伐材を有効利用した、新しい木構造の建物にも挑戦しています。
京都市左京区に建設中の「A資料館」は、公益財団法人の貴重な資料を保存・公開する施設です。2階建ての木構造は、間伐材を挽いた9センチ角のヒノキ材をだけを使い、沢山の柱、梁を長尺ビスで接合することで最大スバン5.4メートルを実現。壁は小舞を組んだ土壁で、外壁に杉板をはった土蔵のようなスタイルです。
静原は大工や職人の町として知られ、古くから京都の建築を担ってきました。大工や左官、庭師など、森田さんの仲間も周辺に多いそうです。自然石の石垣には、穴太衆の流れを感じます。
町のあちこちで土壁の蔵を見かけます。これは漆喰で仕上げる前の途中段階で、お金が貯まった分、年数をかけて工事を進めているようです。静原に暮らしはじめた森田さんは、2007年と2011年の2回、家族を連れてスペイン・バルセロナにわたり、故エンリック・ミラージェス氏の建築事務所などで研修しました。古い建築を現在に生かす方法や、スペインに伝わるレンガ・漆喰の技術を学びたいと思ったそうです。バルセロナといえばガウディをはじめ、現代建築家の奇抜な作品で知られますが、現地で暮らすうちに、それらは伝統の延長線上にあり、技術や材料、気候風土に根ざしたものであることが分かってきたといいます。典型的な静原の民家。玄関を入った土間にはかつて竈(カマド)があり、屋根には煙突の役割をする「煙出し」が見えます。玄関の上には虫籠窓を設け、木部には赤い弁柄を塗っています。
撮影:表恒匡
町家を改装した「御所西の町家」は、リビングを土間にした斬新な手法が話題となりました。元々の土間はコンクリート床で、壁面は漆喰で仕上げられていましたが、コンクリートや漆喰を剥がし、よりプリミティブな方向にリノベーションされています。ひび割れた荒土の壁やしっとりとした土間の質感が、心地よい空間を生み出しています。静原に暮らすことで、京都の数寄屋や町家が生まれた社会背景や気候風土など、様式のバックグランドが見えてくると森田さん。京都の庭でよく使われるツバキやアセビが、静原の山には普通に生えていて、それを都市の庭に植えたのが「坪庭」の成立。山里の要素を都市住宅に持ち込んだ例を探っていくと、京の町のルーツが浮かび上がってくるといいます。
設計事務所の脇の階段を下りた所に、森田さんが自宅として改装中の民家があります。築60年ほどの静原の典型的住宅で、壁は黄色がかった大津壁(色土に石灰を混ぜた左官材)、柱や梁、腰壁には弁柄を塗っています。
玄関を入った土間の中央には、この家のシンボルともいえる竈「おくどさん」が据えられています。地元の人の話によると、竈は一日中、火が絶えることはなく、家族は竈のまわりで暖をとり、食事も土間で済ませていたようです。右端の黒い竈は神様を祀る神聖な場所で火は入れません。静原を訪れた人に、貴重な土間と竈を体験して欲しいと森田さんは考えています。
土間の吹き抜けには、ススで真っ黒になった天井や壁、煙出しの明かりが見えます。竈を使わなくなると、土間は寒くて使いにくい場所となり、多くの家では床や天井を張って、普通の部屋として使うようになります。
静原の民家と風土が一体となっています。
2階から静原を一望。南に面しているので、とても暖かです。最近は人の住まない空き家も増えていて、若い移住者への継承が課題となっています。
生活の場となる予定の2階。内部の柱にも弁柄を塗っていることが分かります。漆喰壁には、茶室「待庵」のような美しいサビが出ていました。小舞を組んだ厚い土壁はそのまま利用して、外側に断熱材を張った「外断熱」に改修しています。
ドラゴンシリーズ 42
ドラゴンへの道編吉田龍太郎( TIME & STYLE )
会って話したいですね
できれば前向きなことを書きたいと思いながら、どうしてもこの世の常識が理解できずに、どこにこの感情をぶつけて良いものか。皆さんはこの世の最近の出来事をどう思っているのだろうか。
ぜひ、ご意見を聞かせていただきたいと思うのです。真面目な話、最近の安倍政権のアメリカ傾倒について、安倍政権を主観的に考えても客感的に見ても、トランプ大統領が万が一に間違って北朝鮮を攻撃したとしたら、ほぼ間違いなく日本に向けてミサイルが飛んでくるでしょう。
アメリカまで届くかどうか分からないミサイルの射程圏内にある沖縄の米軍基地や東京などが標的になることは子供でも理解できることです。それでも、安倍さんはどこまでもアメリカの「核の傘」の安全を抑止力として信じているようです。先日アメリカはオバマ政権時代の核軍縮から方向転換して、小型核弾頭を増強して小回りが効く攻撃ができるように核増強に方向転換すると決定しました。河野外相はその政策を日本政府は支持します、とおっしゃっているのです。この日本政府の判断を皆さんはどう考えられますか。
核軍縮の会議をボイコットして、核軍縮に同意しない核被爆国がこの世にあるのです。それが日本です。日本は第二次世界大戦で広島と長崎で本当に多くの命を原子爆弾によって失った唯一国だということを、日本政府も全ての政治家も国民も本当に理解できているのでしょうか。
アメリカが核弾頭を増強すれば、ロシアも中国も北朝鮮も大手を振って堂々と、私たちも核弾頭を増強しますと宣言されることでしょう。もうそんな次元の話ではなく、皆さん一生懸命核弾頭の製造に没頭していることでしょう。もし、どこかの国がそのボタンを間違って押してしまったら、全ては終わるのです。株価の暴落やビットコインがどうのこうのといった話ではなくなるのです。もちろん、ビットコインなんかも大嫌いです。そんなあぶく銭、どうするんですか?
何の根拠も無いところから生み出された銭に一喜一憂して何が嬉しいのですか? パチンコやカジノと同レベルの話だと思うのですが、金融機関も各国政府も仮想通貨の将来性について
可能性があるとか、勝手にやってくれと言う感じです。
どこかの会社でつい先日、数百億円のコインが盗まれたそうですが、仮想なのだからまた、作ればいいだけじゃないんですか?仮想なんだから。大損した人達はここの読者にはいないと思うので、皆さんもバカバカしく思われていることでしょう。しかし、世の中ではそんなことを言っている僕らの方が時代遅れのアンポンタンだと思われているようです。
最近も多くの軍用ヘリが沖縄で墜落する事故が多発しています。正直、沖縄にはアメリカ軍の核弾頭は現在も沢山あるでしょう。アメリカは日本を属国として、何でも自分達の自由にできる国だと思っているようですし、あのアホで野蛮なトランプ大統領の一番の友人は我が国の首相であり、何でもかんでもアメリカの言うことには賛成するし、アメリカ軍を守るために日本の自衛隊が海外でも戦えるように法律さえも変えようと必死になって努力しています。こんな国にしてしまったのは、誰でしょうか。私たち一人一人です。
政治家の横暴を、沖縄で苦しむ人々を、被災した人々を私たちは見ないふりをしていませんか。今の日本は平和かもしれません。しかし、地震や災害は突然に私たちに襲いかかります。そこから復興しようとしても、年老いた人々は仮設住宅の生活から抜け出せません。こんな無情な国や国民が日本人だと思います。
自分だけ良ければ他人のことや苦しむ人々のことは見えない、見ないようにしている卑怯者の国だと思いませんか。みんなでこの国を何とか優しい心を分かち合うことができるような国に少しでも近づけたいと思いませんか。インターネットも本当に便利だと思いますが、子供たちや青年たちにとって、人間にとって大きな有害な存在だと思いませんか。
人々の会話は、携帯の文字やメールでほとんど済まされます。手紙を書くことも無ければ、電話をすることも無くなりました。デジタルとかインフラとか、色々新しい言葉が飛び交いますが、それには虚しさしか感じません。人と人が会って顔を見て話をする、そして電話でもいいので自分と相手の声を聞きながら会話する、時々、自分の手を使って手紙を書く、ゆっくりと活字を見ながら読書する。携帯の画面を見ながらこの文章を書いていると、どんどん頭痛がしてきました。今日はこれくらいにして ……皆さんのご意見も聞かせていただけると嬉しいです。できれば会って話をしてみたいですね。討論会ではなくて、個人として一人で。
伝説の「現代版画センター」33年をへて、その全容が明らかに……
1974〜1985年の11年間、現代版画センターは、版画を制作する版元「メーカー」オークションや展覧会、シンポジウムを開催する「オーガナイザー」定期刊行物を出版する「パブリッシャー」という3つの役割を軸に、学生運動のまだ冷めやらぬ熱気に包まれながら、多面的な活動を繰り広げました。突然の倒産から33年が過ぎたいま、その活動をはじめてまとめた展覧会が、埼玉県立近代美術館でひらかれています。
現代版画センターが初めて制作した版画、靉嘔『 I love you 』(1974)。刷師は岡部徳三。限定11,111部、1,000円で頒布されました。
現代版画センターの機関紙『画譜』創刊準備号には、センター設立の主旨が記されています。
美は、私達がその存在に気付かなければ、永遠に私達の前に姿をあらわしません。自ら美を見出し、そこに喜びを求めるという人間本来の欲求がひとつの作品に向けられたとき、はじめて芸術はいきいきとしたものになります。ひと握りのコレクターと少数の作家達だけの世界からは決して未来に向かった創造的な芸術は生れ得ないでありましょう。美術が、もっと広汎な人々に愛され、身近なものとなることを私達は願ってやみません。作家、コレクターをはじめ、自由な精神の自由な表現を愛するすべての人々に、この会の運動を支持し、参加されることを呼びかけます。
現代版画センターのルーツは、毎日新聞の文化事業にありました。渋谷・清桜ハイツの一室からスタートし、1976年、綿貫不二夫さん(現「ときの忘れもの」)を代表とした法人組織となります。以降、80人以上の作家による、770種類を超える版画作品を発表。靉嘔(あいおう)にはじまり、オノサト・トシノブ、島州一、関根伸夫、磯崎新、宮脇愛子、元永定正、山口勝弘、安藤忠雄、舟越保武、草間彌生、アンディ・ウォーホールなど、彫刻家や工芸家、建築家を巻き込み、石田了一など刷師による制作システムを確立することで、全エディション限定部数の総数は11年で15万点に及びました。現代版画センターはオリジナル版画の普及のため、コレクターの組織づくりを試みます。全国に60カ所以上の支部を設け、3,000人以上の会員を募ることで、コレクターも作品作りに参加し、作家を支える力となる「共同版元」という考えを実現していきました。全国の画廊や喫茶店などで全国一斉の新作展やオークションを開催し、手頃な価格で誰でも版画を入手できる環境を整えました。その一方、支部や会員から予約金を募り制作費に当てます。「版画の限定部数をきちんと刷り、作家には印税を払うことを決めていました。そのためには大量の資金と流通先が必要で、毎年、版画制作の企画を立てて趣意書を書き、それを各支部や会員に送って制作費(予約金)を集め、支部や会員には特別価格で版画を提供しました」と綿貫さん。クラウドファンディングの先駆けとなる仕組みを確立していたのです。『版画センターニュース』1977年11月号の特集は、北川フラムさんが実行委員長をつとめたイベント「現代と声」の開催レポート。磯崎新さんなど9人が作品を制作し、全国で展覧会と作家を招いたシンポジウムを開催。600名の参加者を集めた渋谷エピキュラスをはじめ各地で熱い議論が繰り広げられ、活動をまとめた書籍も刊行されました。「70年代は作品について議論することも、作品の一部と考えられていた時代」と梅津さん。センターは出版社としての側面を持っていました。会員に郵送されていた月刊の機関誌『版画センターニュース』、『PRIN TCOMMUNICATION 』、『 Ed 』は、10年間で合計105号発行され、往時の活動や社会背景を伝える貴重な資料となっています。展覧会を企画した主任学芸員梅津元さんは、105号にのぼる機関誌を半年ほどかけて読破したそうです。「1980年代を知る先輩学芸員には機関誌を大切にファイリングしている人もいて、当時からセンターの活動は注目されていました。当館の収蔵品にも、センターの版画であることが今回の調査で判明した作品もあります」と梅津さん。同館の学芸員と「ときの忘れもの」スタッフによって制作されたカタログは、展示作品のほか、作品の総目録や機関紙の総目次、全国で開かれた1400回以上のイベントリスト、関係者へのアンケートをまとめた労作です。センターの元スタッフで、福岡県久留米市の「筑後画廊」を運営する貝田隆博さんの呼びかけによって、展覧会場に元スタッフのみなさんが集合しました。30〜40年ぶりの再会です。貝田さんは元々、毎日新聞社の社員で、上司の紹介でセンターに入りました。初期スタッフには、毎日新聞関連の方が多かったようです。役割分担は特になく、作品を梱包・発送したり、会報の編集をしたり、作家や評論家の取材をしたり、イベントの運営など、綿貫さんの指示に従って、様々な役割を全員でこなしていたそうです。館内のレストランでは、主任学芸員・梅津さんが、歓迎の挨拶をしました。1980年代、最大のイベントとなったアンディ・ウォーホール全国展。センターはウォーホールのアトリエに「菊」と「桜」の写真を大量に持ち込み、そこから『 KIKU』3部作が生まれました。全国展は東京を皮切りに、盛岡、名古屋、秋田、前橋、岡山、久留米、鶴岡、浜松、小浜、奈良、宇都宮、名古屋、横浜などを巡回し、特に宇都宮の大谷石地下採掘場跡を利用した展覧会は話題となりました。オリジナル版画を挿入したウォーホール展のカタログには、最晩年の寺山修司をはじめ、横尾忠則、愛川欽也、赤瀬川原平、赤塚不二夫、荒井由泰、荒木経惟、栗津潔、池田満寿夫、植田實、内田繁、大林宣彦、久保貞次郎、黒田征太郎、黒柳徹子、コシノジュンコ、坂井直樹、佐藤忠雄、立花ハジメ、谷岡ヤスジ、萩原朔美、浜野安宏、福田繁雄、藤本義一、松岡正剛、松山猛、三宅一生、室伏哲郎、山口勝弘など170人もの寄稿がありました。1985年、センターは倒産の時を迎え、数万点に及ぶ作品は21世紀までの長い眠りにつきました。今回の展覧会は33年の時をへて、センターの作品が一堂に展示された初めての機会となります。全国の隅々まで、あらゆる壁を版画で飾ろうとしたセンターの試みは、スタッフとコレクター、作家が一緒になり、版画というアートを確立する大きな目標へ向かい疾走しました。「喫茶店やホテルを利用してゲリラ的に展覧会を開催したり、作家の講演によってファンを募ったり、コレクターが作家を支える共同版元という仕組みを確立したり、新聞社のような全国スケールで同時多発的にイベントを実行し、地方と都市の時差をなくしたことにも興味をひかれます」と梅津さん。センターの多面的な活動には、未来へ向かう様々なヒントがあると感じました。