Colla:J コラージ 時空に描く美意識

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求道者たちのメッセージ 時空を超える美意識 htt ps://c oll aj.jp/除夜 2022 神奈川県 北鎌倉 松岡山 東慶寺のお茶会(観音縁日月釜) 席主武者小路千家有吉守聖 宗匠(両忘会) 創建700年を超える北鎌倉の東慶寺で、毎月18日の観音縁日にあわせ「月釜」が催されています。11月18日に、有吉守聖宗匠(武者小路千家)が担当した茶会の様子をレポートします。 ▲ 茶会の数日前から当日の朝まで、庭師によって、露地(茶庭)が丹念に手入れされました。 有吉守聖社中(「両忘会」といいます)は、茶会前日から東慶寺に入り、道具の搬入や準備などを進めました。茶室や水屋の準備が一通りすんだところで、茶会当日の役割分担を確認します。茶会というと点前をする人が目立ちますが、実際は、お茶を準備する「陰点(かげたて)」、茶碗やお菓子を運ぶ「運び」、点前の進行を水屋に伝える「取次」、茶碗の「洗い」、客の「案内」など様々な役割を分担する人達が、密接に連携しなければなりません。 ▲ 茶室では有吉守聖宗匠が花入に花を入れました。 「一番大切なのは炉の準備です」と有吉宗匠。下火の炭の火をおこし、それを炉の中心に据えて胴炭や毬打(ぎっちょう)、割毬打を入れていきます。客の入室時間に最良の状態になるよう炭を継ぐので、有吉宗匠自ら炭を継いでいきます。 9時、茶会に先立ち御本尊釈迦如来と、縁日の水月観音に供茶を行います。有吉守聖宗匠を先頭に、社中一同が本堂に向かいました。東慶寺井上大光ご住職が、有吉宗匠からお供えする天目茶碗を受け取り、経文を唱えました。ご本尊の隣には豊臣秀頼公の息女、天秀尼(てんしゅうに)像が祀られています。天秀尼は大阪城落城後、千姫の養女となり命を助けられ、東慶寺に入り20世住持となります。こうして徳川家と縁の深い尼寺として崇敬を集めました。 次に水月堂に入り、水月観音にお茶を供えます。水月観音は三十三観音のひとつで、補陀落山の水辺の岩上に座し、伏し目がちに水面の月を眺めています。その女性的で優美なお姿は中国では宋から元時代に流行しました。東慶寺の水月観音は鎌倉時代の作で、県の指定文化財です。女性からの離縁が許されなかった時代に、東慶寺は女人救済の寺として縁切りの寺法を引き継いできました。離縁状など800点近い東慶寺文書は国の重要文化財に指定され、幕府公認の女性保護制度があったことを示す貴重な史料となっています。 井上大光ご住職に、寺の歴史や月釜をはじめたきっかけを伺いました。東慶寺は、鎌倉時代1285年、第8代執権北条時宗夫人覚山志道尼により開山され、後醍醐天皇の皇女用堂尼が5世住持となったことから「松岡御所」とも称された男子禁足の地でした。しかし明治になると縁切りの寺法が廃止され、明治35年、尼寺としての歴史を閉じます。明治38年に円覚寺から釈宗演(しゃくそうえん)老師が入寺し復興。師を慕う哲学者や政財界人が集うようになりました。墓所には西田幾多郎(上)、鈴木大拙、和辻哲郎、岩波茂雄、安倍能成、小林秀雄、高見順、前田青邨、川田順、真杉静枝(敬称略)といった錚々たる方々が眠っています。 鎌倉に多く見られる岩の崖を掘った横穴(やぐら)は、5世住持皇女用堂尼の墓所です。 釈宗演老師は円覚寺の修行を経て、慶應義塾に入塾。福沢諭吉の薫陶をうけ仏教の原点を求めてセイロンに留学します。そこで師の見たものは、西洋列強に飲み込まれる仏教国の姿でした。危機感を抱いた老師は、明治26年シカゴ万国宗教大会に日本代表として出席します。大会に同行し英語のスピーチを書いたのが、のちの仏教学者鈴木大拙でした。 伝来の寺宝や古文書を収蔵する「松岡宝蔵」。 鈴木大拙は英文の著書によって仏教、禅、東洋思想をひろめ、国際的禅文化の基礎を築きました。晩年は「禅宗の研究拠点を設立せよ」という釈宗演老師の遺言にしたがい安宅弥吉や井上禅定住職(当時)などの協力をえて、1945年、東慶寺裏山に「松ヶ岡文庫」を設立。95歳までの20年間、この地で研究生活を続けました。今年10月には東慶寺で鈴木大拙生誕150年記念茶会が開かれ、金沢の奈良宗久宗匠(裏千家)が濃茶席を担当されました。 井上大光ご住職はいま、コロナ禍を経験した新しい時代に向けての活動をすすめています。その一つが拝観料の廃止で、境内には誰でも無料で入れます。コロナ禍により一時は鎌倉市から拝観謝絶を要請されたものの、非常事態だからこそ宗教施設は人を受け入れるべきと考えたそうです。「一度きりの観光名所ではなく、気持ちが沈んだり、不安な時に何度でも訪れる、心の拠り所であることが寺院の存在価値なのです」と井上ご住職。昨年3月から「観音縁日月釜」を始めたきっかけは「関西にくらべ関東はお茶会が少ない」という奥様の一言だったそうです。「千宗旦ゆかりの茶室寒雲亭でお茶会をひらき、人も風も通う、本当の意味で生きた茶室として維持したい」と語ります。月釜の収益は寒雲亭の維持管理にあてられます。 定刻10時となり、いよいよ茶会が始まりました。客は「寄付(待合)」に集合し、身支度を整えます。寄付に備えられた上段の間には、格天井に十六弁菊花紋が描かれ御所寺としての由緒を伝えています。客が最初に目にする床間に、有吉宗匠は「足柄山図」を掛けました。有吉宗匠は肥後藩家老家のご出身で、その縁と足柄山から東が坂東(関東)となり最初の都が鎌倉であることを掛けて、この軸を選んだそうです。肥後藩最後の御用絵師杉谷雪樵の作で、足柄関にて源義光が笙(しょう)の秘伝を奏した故事が描かれています。客はこの寄付の軸を見て、当日の道具組をあれこれ想像しながら案内を待ちます。 客は待合から露地(茶庭)に案内されます。外露地に入ると、 一段高い場所に「腰掛待合」が見えます。 今回の茶会では、客は背の高い貴人口から茶室に入りました。 腰掛待合から中門をすぎて内露地へ入ります。掃き清められ、水が打たれた清々しい茶庭を歩くうちに、気持ちが整ってきます。 露地 寒雲亭は千宗旦の好みと伝えられ、明治時代、東京の元伊予松山藩藩主久松伯爵邸に移築され、後に鎌倉の女流茶人堀越宗円から東慶寺へ寄進されました。床間と一間幅の付書院を備えた茶室は8畳向切(むこうぎり)になっています。露地に面して背の高い貴人口があり、千宗旦の時代(17世紀)には珍しい、大人数の茶事に対応した間取りです。付書院の上の壁には、宗旦による「寒雲」の扁額が掛けられています。茶席での撮影の代りに、両忘会社中のリハーサル風景を紹介します。客が席に坐ると、銘々盆に載せたお菓子が運ばれます。お菓子は、日月堂(人形町)に有吉宗匠が特注した「初霜」で、銘々盆は武者小路千家流の代表的な意匠である「名取川蒔絵」(藤岡研斎造)でした。菓子が行き渡ったところで、濃茶の点前が始まります。今回はコロナ禍を考慮し、小ぶりの重ね茶碗が使われました。社中は「向切濃茶重茶碗(むこうぎりこいちゃかさねぢゃわん)」という難しい点前のために、厳しい稽古を重ねました。 武者小路千家相伝正教授の有吉宗匠は、肥後細川藩上卿三家老の一家である有吉男爵家第22代当主です。今回は有吉家に縁の深い道具と、鎌倉につながる道具を取り合わせ「山中の寺の静けさ」をテーマとしたそうです。掛け軸は、有吉家の領地だった玉名出身の豪潮(ごうちょう)律師による「山静如太古(山しずかにして太古のごとし)」。寄付きの「足柄山図」と呼応し、肥後と鎌倉のつながりを表しています。 床間の花入はケヤキをナタで削った村瀬治兵衛「銀彩鉈削掛花入」。花は西王母、白玉椿にヤマコウバシが添えられました。香合は「黄瀬戸宝珠」河村喜太郎の作。河村喜太郎は北大路魯山人の星岡窯を引きついで、東慶寺近くに其中窯を興しました。 釜は細川家伝来與次郎丸釜写(佐藤清光造)、炉縁は沢栗(サワグリ)で、内側の面に松葉の蒔絵が施されています。水指は有吉家伝来、室町末期、古備前の壺です。主茶碗は、古小代重茶碗「松風」と「村雨」です。400年以上前から有吉家に伝わる肥後藩窯 古小代(しょうだい)の重ね茶碗で、平安時代、在原行平の寵愛をうけた姉妹に依った銘「松風」「村雨」が付いています。茶入は古高取芋頭。仕覆は二重蔓牡丹唐草金襴です。茶杓銘「寂光」は一條智光尼公上人が、京都寂光院の竹を削られた作。肥後細川家は公家の一條家と、幕末に5世代に渡り婚姻を結ぶ関係にあったそうです。付書院に飾った小さな白衣観音像は、東慶寺水月観音にちなんで有吉宗匠がお持ちになった有吉家の持仏です。豪潮律師の「金銅宝筐印塔(1803年銘)」は有吉家に伝えられたもので、これをひな形にして豪潮律師が飢饉救済のため8万4千塔の宝篋印塔を九州を中心に建立されました。今も熊本県には沢山の石造の宝篋印塔が立ち、豪潮律師の偉業を伝えているそうです。風炉先屏風は「肥後藩年中行事抜粋貼」。肥後藩の年中行事のうち「正月の藩主登城」「春の藩校の卒業式」「秋の玄猪」の式次第が貼られています。 濃茶は本来、ひとつの茶碗を数人で回しますが、コロナ禍に対応するため、一人に一碗ずつ出す方法がとられました。濃茶を頂いたあとに、別に準備した薄茶も呈されました。陰点の担当は濃茶組と薄茶組の2つのグループに分かれ、茶席の進行に合わせお茶を準備していきました。 ▲ 準備から2日にわたり茶会を担った両忘会社中の皆さん。 茶席が終了し、有吉守聖宗匠が客を見送りました。来客の皆さんからは「有吉家伝来の品を沢山拝見し、宗匠の解説も楽しく伺いました」「濃茶に加え薄茶も頂き大満足でした」「お点前を興味深く拝見しました」など、好評の声が聞かれました。東慶寺月釜は毎月18日(8月を除く)に行われ、東慶寺のホームページから参加を申し込めます。 この 2 日本では印象派絵画の人気が高い。1年のうち日本全国に数ある 美術館で「印象派」と題された展覧会が開かれていない期間というのは、ほとんどないのではないだろうか。彼らが活躍した時代フランスは英国に少し遅れる形で、産業革命のうねりが高まり、鉄道が爆発的に発達し始め、万博が開催され、経済的にも文化的にも、パリと地方さらには世界との関係が大きく変わりつつある時代だった。こうした社会構造の激変は、印象派画家たちが活躍するひと時代前、ナポレオンの甥っ子であるナポレオン3世が皇帝として君臨 していた 20 年ほどの間(1852〜1870)に、その基礎が準備 されたものだ。それが、対プロシア戦争での敗北、プロシア軍によるパリ占領、そして、パリ市民の革命的な蜂起となったパリ・コミューン(1871)といった一連の悲劇的な出来事を経て、新しい形で芽吹き始める。そこに登場したのが、印象派の画家達だった。 彼らが盛んに描いたのが、モンマルトル、オペラ座周辺、そして 郊外のセーヌ河畔、といった場所だ。いずれも、印象派の画家たちが生まれる前後に、劇的に景色が変化し始め、彼らが生きている間にどんどん変化が進みつつある場所だった。こうした場所で暮らし、遊び、そして時にもがき苦しむ人間たちの姿を彼らは描いた。その作品の数々は、画家たちが生きた時代の景色と雰 囲気を、それまでにはなかった画法で切り取って描いたノンフィクション作品群であると私には感じられる。だからそこに描かれた人物たちの衣裳や仕草、その背景に広がる街や部屋やその調度品を見つめることで、画家た ちが生きた時代のパリの息吹を感じることができる。 会と経済の構造が劇的に変化しつつあった時代のパリ。これを描いた「時代の証言者」としての印象派の画家たち。その絵を熟視することで見えてくる世界は、しかし、時に意外なものであったりもする。 その「意外なもの」が何かといえば、まず、夜の女性たちが怪しくうごめく世界の驚くべき繁栄ぶり。そして、それに通ずるものとして、上層市民階層に見られた「愛人文化」の盛り上がりだ。実は つの要素が、パリの飲食の文化のあり方に大きく反映された 結果、これが「世界に冠たるフランス料理」の基礎を築き上げる土台の重要な要素となっていく。 先日、六本木のレストラン「レグリス」を会場として、石澤季里 『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』ルノワール(1877) 世紀末、社 19 主宰プティ・セナクルで私が担当する「グルメ・レクチャー」周年記念の会が開かれた。通算第回目。コロナ禍での休止を経て年ぶりの開催であったこともあり、会は熱気あふれる盛り上がりのうちに終了した。その時のテーマが「英国王エドワード7世のパリ」。カサノヴァも真っ青になるほどの「夜遊びの帝王」の世界 について、詳しくお話をした。 ヴィクトリア女王の後を継ぐ形で、絶頂期大英帝国の王様となったエドワード7世が「我が庭」としたのが、印象派の画家が描いた時代のパリ。王様は、モンマルトルで、オペラ座周辺で、さらにはモンテカルロで、「夜の大帝王」だったのだ。彼抜きで当時のパリの夜を語ることはできない、と言っても決して過言ではない。 39 では、こうしたパリの夜遊びの庭は、どのような背景のもとに形作られていったのか。当時のパリには地方から多数の若き独身女性たちが、衣服や帽子やアクセサリー作りの工房に、また商店や家事労働の下働きとして働きに来ていた。男たちも 2 同様で、若い独身男たちが、工場や建設などの現場肉体労働者として、また、様々な職人や商店の見習いとして、徒手空拳でパリに働きに来ていた。劣悪な住環境に 20 置かれていた若き男女が長時間カフェで過ごし、時にダンスホールやセーヌ河畔にアヴァンチュールを求めて出かけていたことは言うまでもない。カフェとダンスホール的場所の繁栄は、パリの飲食文化を象徴するものであると同時に、印象派の画家たちが好んで描いた題材でもある。地方から出てきた、若く寂しき男たちは、心の乾きを癒してくれる女性の肌のぬくもりに飢えていた。その相手をする夜の女性たちの世界が特にモンマルトルを中心に大いに栄えたのは当然のことだったのだ。 こうした若く貧しき男女がパリに多 数参集する一方で、これを雇用する立場にあった男たち、一般にブルジョワジーと呼ばれる階層(商工民のお金持ちや高級官僚や軍人)で、特にその上流に属する男たちが、若く貧しく寂しき女性たちを「愛人として囲う」ことが急速に一般化し始める。「世界に冠たるフランス愛人文化」の誕生だ。貴族階級では昔から当然のことだった愛人文化が、この時代、貴族ではないブルジョワジーの間に急速に広がり始める。フランス革命とパリ・コミューンを経て、既存のキリスト教的倫理観から解放されたことも、この動きを生み出した大きな背景の重要な要素と言われている。 当時、これほどまでに解放的な男女関係がおおっぴらに認められていた地域は欧米ではほとんど存在していなかった。地位とお金と自由に恵まれた欧州貴族(特に英国貴族)や米国の大金持ちたち、更には開発の進む中南米の大金持ちたちは、この蜜の味わいを求めて、こぞってパリに吸い寄せられていく。彼らが宿泊するための超高級ホテルが準備され、一流のレストランも洗練されたメニューを競い始める。少し遅れてポール・ポワレを産み出すオート・クチュールも大繁盛。いずれも、パ 英国のファッションリーダーとも『ムーラン・ルージュの英国人』なったエドワード7世。ロートレック(1892 ) リの愛人文化の隆盛と関係が深い。ここで高級ホテルの代表がオテル・リッツ・パリ。高級レストランの代表が、カフェ・アングレ、カフェ・リシュに、メゾン・ドレー。これらのホテルやレストランの料理やサービスの様式が、「世界に冠たるフランス料理」の土台となっていく。 ひと時代前のナポレオン3世時代、パリのレストランは徐々に発展を遂げていく。そこで忘れ去られがちなのが、その発展を支えたある重要な要素、すなわちレストラン内の区切られた個室的空間の存在だ。最初は個室ではなく、店内の一部のテーブル席をカーテンで仕切り、外からの視線を遮る形で個室的な空間としたのが始まりだった。当時の絵の中には、そのカーテンの中で男女がかなりきわどいことを行っている様子を描いたものが、いろいろ残されている。そのカップルが若き男女である場合もあるが、中年男と若き女性というパターンも多い。言うまでもなく、愛人関係だ。これがパリ・コミューン以後の高級レストランとなると、1階のレストランの上階に、個室がずらりと並ぶ、という形になっていく。カフェ・アングレ、 カフェ・リシュ、メゾン・ドレーといったところが、その代表格だ。いずれも当時パリの最高級のレストランで、顧客の中心は海外からの貴族や大金持ち。個室で共に過ごす美しく若きお相手たちは、当然、奥方たちではなかった。リッツを含めて、こうした場所の最高の顧客の一人が、英国王エドワード7世だったのだ。 要するに、ナポレオン3世時代以降、印象派の画家たちが活躍した時代も含めて、パリの超高級レストランに求められた最も重要な要素のひとつ、それが、社会の最上層の男たちが「愛人と共に限りない歓びの時を過ごす場所」としての役割だったのだ。「美食+美色」=「果て 19 19 なき快楽」なのであって、当然、金に糸目はつけない。こうした海外からの贅沢顧客の求めに応じる形で、超高級レストランの様々なメニューとサービスが贅沢に開発されていったことも大いに力となって、「世界に冠たるフランス料理」の世界が誕生する。普段語られることの少ない、この「高級愛人文化」というポイント。フランス料理発展の歴史の中で、見過ごしにできない重要な要素のひとつであるということを、あえて強調しておきたい。 レストランという空間も料理も、これを産み出す社会を映し出す鏡なのだ。それは、印象派の画家達が残した絵画と同じく、時代の証言者なのだ。食文化ヒストリアンたる私は、こうした世紀末のパリの飲食の世界へと通じる扉として、印象派画家たちの作品を熟視しているわけで、背景を知れば知るほど、その面白さは深くなっていく。その扉を開けて、史料を読み込み、そこに想像力の翼をひろげてみる。そこに見えてくるのは、世紀末パリの愛人文化の主人公たちの姿。彼らの姿が動き始めれば、いつしか、冷えた体もほてりを感じてくる。寒い季節には印象派の絵画がオススメだ。 『The Caf.-Concert』マネ(1879)カフェ アングレ サンタさんってどんな人? しろいお髭がすごーく長くって自分の足でふんずけて転んじゃうんだって 今年はぜったい会うんだぜったい来るまで待っているんだからね! Vol.42 原作:タカハシヨウイチ はら すみれ絵 : タカハシヨウイチ 「旅のこと」 写真&文 大吉朋子 小学生の頃は「日本全国の温泉巡りをしたい」と言っていた私も、大人に近づいてくる年頃になると、海外の見たことのない多様な文化に惹かれていった。人生初めての海外旅行はタイ・バンコク。何もかもが初めてで、明るい陽射しも日陰に感じるくらいドキドキしたことしか記憶がない。 その後はベトナム通いを経て、ヨーロッパ、インド、ネパール、アジアの国々へと出かけるようなるけれど、そんな中「一生のうちに一度は行こう」と、心に決めた場所があった。アリゾナ州、ナバホ族の土地にあるという「アンテロープキャニオン」と「ホースシューベンド」。あるとき、たまたま見た雑誌でそれらの写真が目に飛び込んできた。ひと目でモーレツに感動して、当時は毎日毎日その写真を眺めていた。その雑誌には他にも世界中の美しい壮大な景色が掲載されていたのだけれど、私には「アンテロープキャニオン」と「ホースシューベンド」の写真しか目に入らず、他の景色がなんだったのか覚えていない。 いまや SNSやネットで簡単にたくさんの情報がキャッチでき、あたかもその場にいるような気 分にもなれるけれど、当時は紙の写真を眺めるしかなく、その憧れ感は異様に強かったと思う。 そして、その場所に行くためにはそれなりの時間とお金を用意しなければいけないという思いもあって、「いつか」という気持ちでいた。 その時から数年後、「いつか」がやってきた。タイミングとは突然やってくるものだとこの時ばかりは思った。転職するまでの移行期間、「旅をしよう」と長めの休みを作ったものの、国内外の旅計画を着々と入れすぐに予定がいっぱいになった。がしかし、なぜか1週間、出かける予定のない時間ができた。なぜそこがぽっかり空いていたのか不思議だけれど、その時ふと、アリゾナの写真を思い出した。 (当時は日本国内の行ったことのない場所や再訪したい場所への熱が高まっていたため、アリゾナのことはすっかり忘れていた)すぐに詳しそうな旅行会社に電話をし、飛行機とホテルを予約した。出発の1週間前だった。 私にとっては初めてのアメリカ大陸。憧れの場所であるものの、地理も現地の様子もよくわからないまま、出発。その頃の記憶は、もういきなり機内にいる自分で、機内はとにかく人がいっぱいで、LAの大きな空港ではひたすら歩き、国内線への乗り継ぎを待つベンチでの光景。小柄な自分がさらに小さいサイズに思え、そのかわりに視界はぐんと広がるような感覚になった。あの時の空気感は今も思い出す。 そこからの1週間、一人旅。なかなか濃い時間を過ごすことになった。アンテロープキャニオンも、ホースシューベンドも、写真で見た以上に本当に素晴らしかった。 憧れの場所に自分の足で立てたことが心底幸せだったことはもちろん、今こうして書いていてあらためて思うことは、当時の潔い自分への気持ち良さ、だったりする。思い切って「行こう!」と決め、現地で「そうしよう!」と、自然と湧き出る思いを行動にしていた姿は、なんだかいい。年を重ねるうちに経験や知識、さまざまなものが混じり合い、人として少しづつ成熟してはいくものの、あのスカッと抜ける潔い切れ味は、同時にまろやかになっていると感じるこ とがある。それはそれでいいじゃないかと思いつつ、まだまだあのスカッとした潔さはいつだって持っていたいな、とあらためて思う。 ヨガ数秘学 -大吉朋子 . 2022年12月は 9のエネルギーが流れます。 「9」は、達人・マスター、終わり、執着と手放しを表す数字。今年も残すところ数日となりますので、今年一年を通して不要となったことは潔く手放していきましょう。こだわりすぎず、潔く手放すのですが、ほんとうに大切なものは残ります。また「知恵」の数字でもある「9」の月は、学びを深める時間としてもおすすめです。気忙しい時期ではありますが、頭でっかちにならずに粛々と進めてまいりましょう。 2023年1月は 8のエネルギーが流れます。 2023年はパワフルなエネルギーからスタートします。「8」は、生命力、パワー、力強さを表す数字。お正月休みの名残を感じることなく、いきなり全力で突き進んでいくようなエネルギーが満ちています。お休みモードとは無縁な感じかもしれません。新年は早々にエネルギッシュに参りましょう。お休みモードが残る方はしっかり喝を入れて、流れに置いていかれませんように。 【 1月生まれの方へ ワンポイントアドバイス 】 1月生まれの方は、自分の世界をしっかりと持っていて、自分の世界に住んでいる方々。それが故、人に頼らず、人に頼ることが苦手だったりもして、ひとりの世界で進み続けることもしばしば。内へ向く意識はなくさずに、外へも意識を向けてみると世界が広がります。ひとりの世界に閉じこもっていると感じたら、ふっと周りを眺めてみて。協力者がいますから 井上円了の謎かけテーマパーク 東京都中野区哲学堂公園 社会人に「考える場」を提供しようと、明治37年、井上円了により「精神修養的公園」として開園した哲学堂。園内を歩くうちに哲学を体系的に学び、宇宙の真理を味わい、人生の素晴らしさを楽しめるという、天下唯一の意匠をもりこんだ公園です。東洋大学の創始者として知られる井上円了。安政5年(1858)新潟県長岡の慈光寺に生まれ、明治18年東京大学の哲学科を卒業。3度もの世界一周旅行に出掛け、哲学は西洋だけでなく東洋にもあると主張して日本の哲学研究の基礎を築きました。明治20年、東洋大学の前身「哲学館」を創立し、明治39年から国内の半数以上の市町村で5291回、130万人におよぶ講演を行います。精神修養や教育勅語、世界周遊、迷信と宗教など、聴衆にあわせテーマを変え、講演後は漢詩などを揮毫して収益を哲学堂の建設・運営にあてました。大正8年、円了は講演先の大連で倒れますが、その思想を今に伝えるのが、東京都中野区の「哲学堂公園」なのです。 ▲哲理門の瓦には「哲」の字が入っています。 ▼ 幽霊と天狗の彫像は、田中良雄の作品です。 明治36年、井上円了は当時の野方村に哲学堂の敷地約15,000坪を自費で買い上げました。高台を「時空岡」、妙正寺川に面した斜面を「万有林」と名付け、低地に「唯心庭」、「唯物園」をつくり、15年かけて哲学をテーマにした77の場を設けます。正門「哲理門」の両脇には、幽霊と天狗の彫刻があります。哲学には「唯物論」と「唯心論」がありますが、それだけでは説明しきれない「理外の理」のシンボルとして幽霊と天狗を配置し、物質界の不可思議として天狗を、精神界の不思議として幽霊をあてています。 円了の最後の論説「哲学における余の使命」(大正8年)には「哲学堂は名義としては精神修養の公園であって、社会教育の道場であるが、内実に入りては哲学宗の本山であり、之を道徳山哲学寺と自称している」と書かれています。それを形として示すのが「四聖堂」です。哲学的思考を本尊とした四方正面の建築で、天井中心に吊った赤色の球燈が精神界、その下の黒色の香炉が物質界を表し、香炉の煙で燈が曇る様子を、物質によって欲情妄念が引き起こされる様に例えています。天井の銀色のガラス板は宇宙の神髄を示し、放射される光を垂木で表現しています。 四聖堂の四聖には、東洋から中国の孔子と印度の釈迦、西洋から古代のソクラテスと近代のカントが選ばれました。中央に置かれた石塔「南無絶対無限尊」は、井上円了の考える哲学の極意を示しています。果てしない空間を「絶対」、終わりなき時間を「無限」、時空の超越を「尊」として、これを唱えれば宇宙の真源から発する霊気が心に湧き上がるといいます。11月には四聖堂祭が開かれ「南無絶対無限尊」が唱えられます。 海外をターゲットに見据え、日本文化を伝える家具たち AREA TOKYO 新作発表会 12月1日、AREATOKYO、Teria、Roche BoboisTOKYOにて、新作発表会が開かれました。AREA TOKYOには待望のPersonal sofaHUB( 1)が登場。奥行き160cmの大きな一人がけソファで、手元にはPC電源を装備。ファーストクラス感覚で、パソコンやスマホを一日中いじれそうです。Board BRAHMA 老梅図( 2)は、リビングボードにアーティスト Fujiyoshi Brother’s(藤芳太一郎+藤芳幸太郎)が幽玄な老梅図を描いた作品。家具デザインは野田豪さんです。 Table Stone age Round( 3 )は、野澤 健さんのデザイン。丸い大理石の天板に、6本のスポーク脚を軽やかに配置。脚が邪魔にならない効果もあります。同じく野澤さ んデザインのLight吉光( 4 )は、独楽をモチーフにし た照明器具。伝統的な提灯職人、ろくろ職人とのコラボから生まれました。Side board 侘助( 5)は、襖(引き戸)式の書院造りを思わせるサイドボード。カウンター上を日本庭園にみたて天然石(伊達冠石)をおいています。アウトドアブランドTeriaには、Bastingage社のエクス テンドテーブル( 6)が登場。簡単な操作で210cm〜315cmに伸びます。FUERTE LOUNGE SET( は、手元にテーブルを備えた使いやすいアウトドアソファ。 宇宙館は、方形の角を入り口にしたユニークな形状の建物です。「哲学は万学の王」「哲学の目的は宇宙の究明」と考えた井上円了が、講話や講習会を行う会場として利用しました。 普段は四聖堂、宇宙館などの内部は見られませんが、春と秋に特別公開されています。宇宙館内部には横斜めに「皇国殿」という8畳の一室が、世界の中の日本を表すものとして設けられています。建物の設計施工は、棟梁の山尾新三郎が行い、建築家・武田吾一、大澤三之助、古宇田實のアドバイスを受けていました。平成30年には中野区により修復工事が行われました。 「絶対城」は円了の蔵書を収めた図書館でした。2階テラスから階段を登ると屋根の上の「観察境」に出られ、かつては妙法寺川の向こうに、富士山や秩父の山並みを遠望できました。 万巻の書を読み尽くせば「絶対の妙境」に到達できると考えた円了は、図書館を「絶対城」と名づけました。1階には数万冊に及ぶ蔵書(国書、漢書、仏書)を並べ、一般に公開していました。2階には「観念脚」と呼ばれる閲覧室があり、天窓からの光を受ける畳敷の吹き抜け空間になっています。その一画には婦人専用の閲覧室も設けられていました。 たびたび氾濫した妙法寺川の治水のため、公園の地下には調整池が設けられ、増水時に水を貯めるようになっています。 妙法寺川に沿った低地は水が豊かで、菖蒲池や心字池があります。井上円了の死後、跡取りの井上玄一氏は、財団法人哲学堂を設立します。大戦時は陸軍が公園に高射砲陣地を造ろうとしたため、財団はやむなく土地を東京都へ寄付して計画を阻止しました。昭和50年には東京都から中野区に移管され中野区立哲学堂公園となり、古建築6棟を改修しました。平成に入ると哲学堂公園ルネッサンス整備工事がスタートし、豊かな水脈や梅林が復活しました。 今月の茶道具 7 一閑張中棗 江戸時代 19世紀 京都国立博物館蔵 「一閑張」とは和紙を貼り重ねたものを、漆を塗って固める技法です。江戸初期に中国・明から亡命した飛来一閑(ひきいっかん)が京都・大徳寺の保護をうけ、千宗旦(千家 3代目)の注文によって棗や香合を作りはじめたと言われます。木地に蕨糊(わらびのり)で和紙を貼り漆を塗って仕上げたものや、木型に和紙を貼り重ねてから型を抜き取り、張子にして漆を塗ったものがあります。木型や漆の仕上げ方によっては木目や紙肌の表情が現れ、手に持つと軽く感じられます。写真は一閑張の名工といわれた神楽丘不入(1771〜 1850)による中棗と小棗。仕覆も紙製です。箱書きによれば、神楽丘不入が熱海温泉逗留中に12組作り、松江藩主松平不昧に花押を書いてもらったそうです。不昧は花押をばらばらに分解して、蓋と身に分字で記しました。 「不入」という名は、誘っても一度も松江に来ない神楽丘に対して「松江に入らず」という意味から不昧が授けたといわれます。 ドラゴンシリーズ 97 ドラゴンへの道編吉田龍太郎( TIME & STYLE ) 父の香り 10 宮崎の実家を訪ね、それから東京に戻る時の玄関先で父が 『龍、ちょっと待て。』と必ず僕を引き留めてジャケットの胸ポ『これはお守りだから。』と一言だけ付け加えて ケットにひと枝のローズマリーを無理やり押し込んでくれた。 年も昔に亡くなってしまったけれど、昨日のことのように父がローズマリーの枝を胸ポケットに差し込んでくれた姿が鮮明に浮かぶ。今でも父のことをくっきりとした姿で瞼に描くことができる。ローズマリー、金木犀、レモングラスの香りが流れてくると、その姿が鮮明に現れる。 月半ばになると実家の庭先の木々の下を抜ける時に、一本の 大きな木にオレンジ色の可愛らしい花々の房から流れてくる金木犀の香り。それは僕にとって心地よい秋空の澄み切った透明な空気にブレンドされたフレグランスのようだ。大好きな秋の金木犀 の香りは、多分今の僕よりも若かった時の父の元気な姿に結びついている。僕がまだ小さな頃から父は日常の生活の中で香りを楽しんでいた。 僕が生まれる以前、 年くらい前、 代の父はブラジルで数年 間仕事をして帰国し母と結婚した。僕の二人の姉が生まれて母が僕を身籠った時に海岸に近い丘陵の砂地4000坪を購入し、そこにコンクリートにスレート葺き の平屋という当時としては随分と洒落た 建てた。今では鬱蒼とした森のような土地となっているが当時はまだ砂地だけだったので、そこに大きな緑色の芝生の庭を作り、昔の写真から数本のソテツやヤシの木を植えていたようだ。 ブラジルから戻り、父は町役場に勤めながら色々なアイディアを考えついてはそれを実行に移した。4000坪の土地の半分2 65 20 40 ……父はもう 25 坪くらいの小さな家を 000坪には、自分達で研究をして当時は南国の砂地では育たないと言われた葡萄を母と二人で作り始めた。ブドウの房を絡ませるための葡萄棚の支柱はコンクリートを購入し、幼少の頃から小さな港の砂利運びで慣れ親しんだ小石や砂に水を混ぜ、型枠に流し込んで葡萄棚の支柱を何十本も作った。支柱を2000坪の畑に均等な間隔で深く埋め込んで並べ、支柱の頭の真ん中に開けた穴に直径5ミリくらいの針金を通し、支柱を縦方向と横方向に縦横無尽に繋いだ。歪な形で所々から大小の小石の頭が飛び出している手作りコンクリート柱の葡萄棚は意外にも美しく整然としていたが、そこに2〜3年後には豊かな葡萄の蔦が絡まり、そして数年後にはキャンベルや巨峰の芳醇で瑞々しい豊かな葡萄の房をたわわと蓄えた。 町役場の仕事から戻り、それから葡萄畑で実った大きな葡萄の房を大切に収穫しては、庭先の土間に簡易の電灯を灯して夜中まで箱詰めをしていたことを今でも鮮明に思い出す。 そして母が、綺麗な葡萄箱を自転車に乗せて近所の市場まで出荷するのだ。当時はまだ葡萄は珍しく市場では直ぐに売り捌けて良い稼ぎとなった。明確 な理由はわからないが葡萄の木が病気になったのだろうか、 とんど全ての葡萄の木を切り倒してしまった。それから父は庭に多くの植木を植えるようになった。 近所の山々に無断で入り、自分好みの木を選んでは持ち帰り庭に植えた。時間の経過と共に庭はどんどんと森のようになった。木々は日本だけでなく、僕がドイツに住んでいる時には菩提樹の苗木が欲しいと言っては取り寄せたり、また、父が海外に行った時にはその土地の木々の種子を何でも採取しては日本に持ち帰って庭に植えて変なクネクネした植物が生えたり、やたら大きな棘棘のある変わった植物などが生えて来ては母や僕を驚かせた。 父の趣味と人生は独創的だ、脈略が無いようで何故だか全部が繋がっている。そんな沢山の植木の中にレモンユーカリの木があった。レモンユーカリ年ほどしてほ 10 ブッダのことばを伝える 島根県松江市中村元記念館 インド哲学、仏教学者として偉大な業績を残した中村元(はじめ)博士。大正元年(1912)、松江に生まれた博士の生誕100周年を記念して島根県松江市の大根島(だいこんしま)に開館した中村元記念館は、その生涯を紹介するとともに、北陸における東洋思想研究の拠点として「東洋思想研究所」「東方学院松江校」を併設しています。 博士が86年の生涯になした業績は論文・著作だけで1500点をこえ、その多くが執筆された自宅書斎が再現されています。その研究領域は広大で、①インドの歴史、思想を解明、②難解な仏典を分かりやすく訳す、③インド、中国、日本の思考の違いを解明、④ 倫理と論理の究明、⑤ 世界思想史の構築など、ひとりの学者の研究とは信じられないほどです。 中村元記念館近くの「由志園」は、約1万2千坪の広大な池泉廻遊式日本庭園。出雲の風景をテーマとした四季折々の景色を楽しめます。中村博士の膨大な研究のなかで特に知られのがスッタニパータなど、原始仏典を分かりやすく邦訳したことでしょう。インドから中国にわたり漢訳された仏典は、日本人には難しいものでした。そこで中村博士は「実在した人物であるブッダが、実際に何を伝えたかを明らかにしたい」という思いから、スッタニパータなど東南アジアに伝わる南伝仏教のパーリ語経典を日本語にしました。通常なら研究者向けの専門書になるところを、平易な日常語にした岩波文庫「ブッダのことばスッタニパータ」はベストセラーとなり、多くの人がブッダ本人の言葉に触れました。 中村博士による原始仏教とは、ブッダ(紀元前460頃〜380頃)の教団があった紀元前3世紀頃までの仏教を示します。その後、上座部仏教や大乗仏教が現れ、神聖視されたブッダは超人のように仏典に描かれるようになります。しかし中村博士は、ブッダには宗派を興す気持ちはなく、人間として生きる真実の道を説いた。それを聞いた人々が心を打たれ、今日に伝わったと考えました。その研究の拠りどころとなったのが、7つの原始仏典(右上)です。これらには仏教の専門用語が見られず、誰にでもわかる平易な地の言葉によって、弟子たちと対話しながら詩作を楽しむように語られたそうです。 ■ 中村元博士が邦訳した原始仏典(「 」は岩波文庫のタイトル) スッタニパータ →『ブッダのことば』ダンマパダ 、ウダーナヴァルガ →『ブッダの真理のことば 感興のことば』大パリニッバーナ経 →『ブッダ最後の旅』テーラガーター →『仏弟子の告白』テーリー・ガーター →『尼僧の告白』サンユッタ・ニカーヤ1 →『ブッダ神々との対話』サンユッタ・ニカーヤ2 →『ブッダ悪魔との対話』 先の世界大戦で犠牲を払った歴史的事実を、人間は何処かへ置き忘 れてしまった? 自国だけが良ければいいし、自分の家族だけよければ OK? 最近とみにそんな傾向をひしひし感じてしまう。 危機感の鈍った時間の経過が、三年に及ぶコロナ禍を招き、北京オ リンピック直後のウクライナ戦争を長引かせ、世界的物価高騰を引き起 こしたといえなくもない。どう考えても出来すぎのシナリオでしょ? 日本では夏以降、統一教会ネタばかりでお茶を濁され、年末のどさくさに防衛費まで大きく上乗せなどと言い出す始末 …… 2022年の年の瀬を迎え、実のところ日本の地上と上空は自由に身動きできないほどの切迫感に包まれている。アジアの大国、中国でさえ広い国内の暴動を抑えられない状況だ。コロナ騒動で右往左往してる間に、着々と世界的な軍備が整えられていたと考えられる訳だし秘密裏の武器開発は現在進 その33行系で研究開発なされているはずである。でなければ、原発の再稼働や耐用年数の延長を執拗に求めるはずがない。結局、地球温暖化への配慮はどこ吹く風、蚊帳の外なのよね。このままじゃ地球の未来は破滅の道へまっしぐらでございますねぇ。 青山かすみだからといって笑って済ませるわけにはいかない。これ以上地球を汚して 南風なれども はならない。全ての生きとし生けるものの命を汚してしまう。命は繋がり合い、支え合うものだからね。かつてはもっと豊かな地球だったはず。こんな時代になっちゃったからこそ命を譲り合うことの大切さを謙虚に学び直すべき時でしょ。人やものを壊し、戦争する暇があるならもっと再生させること、喜ばれるものを作ることすべき。地球の尊厳と命の尊厳はイコールなのよ。 今年に入りウチの骨董マンションの西側で、また集合住宅の建設工事が始まりまして、解体工事とか、意外と目立つことなく静かめに進めてらした。それであまり気になりませんでした。 近隣住民への説明会はお向かいさんと両隣くらいまでだったらしく、我がマンションへはお知らせや連絡、挨拶など一切なかったとのことでした。が、ある日突然、生コン車がミシミシ道路をきしませ立て続けに通過し始めたのです。一方通行の通りは通学路であり、横断歩道のそばで 生コン車がエンジンを吹かしながら待機しているではないですか!!誘導員も見当たりません。あぁ、また始まっちゃった。。ため息しか出ませんでしたが、早速二人して現場へ駆けつけたのでした。「やらかしてくれちゃったな」お隣とお向かいの工事現場ですったもんだやりあったことが甦りつつも何度かの経験のおかげで現場の方々には直ぐに対応していただくことが出来ました。 また、我がマンション内でもリノベ&改修工事が各階ごと何箇所もアチラコチラで大流行中。ギシギシ、カンカン、ビービーとマンション全体に響き渡るオーケストレーション攻撃に、こちらの頭痛も鳴り止む暇がない状態。今冬の北風のおかげで新航路便がめっきり減ったにもかかわらず、いま大きな節目といっていい種々さまざまな近隣工事による騒音被害と日米入り乱れたヘリによる低空飛行騒音に煩わされる、年の瀬はあいも変わらず悩ましげです。 スッタニパータ蛇の章「慈しみ」 スッタニパータは、セイロンに伝えられた南伝仏教のパーリ語経典に収録され「スッタ」は縦糸、「ニパータ」は集まりを示します。古い経典は木簡を糸でつないだことから、この名がついたと思われます。この「慈しみ」は、南方仏教で特に重視されています。 究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達してなすべきことは、次のとおりである。能力あり、直く、正しく、ことばやさしく、柔和で、思い上がることのない者であらねばならぬ。足ることを知り、わずかの食物で暮し、雑務少く、生活もまた簡素であり、諸々の感官が静まり、聡明で、高ぶることなく、諸々の(ひとの)の家で貪ることがない。他の識者の非難を受けるような下劣な行いを、決してしてはならない。一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。(中略)何人も他人を欺いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない、悩まそうとして怒りの想いをいだいて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。あたかも、母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の(慈しみ)のこころを起すべし。また全世界に対して無量の慈しみの意(こころ)を起こすべし。上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき(慈しみを行うべし)。立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥しつつも、眠らないでいる限りは、この(慈しみの)心づかいをしっかりとたもて。 鳥取・島根の県境。江島大橋からの中海と大山。 戦後「インド古代史」を手掛けるなか、中村博士はインドへの思いを募らせます。初めてのインド旅行は1952年39歳のこと。アメリカスタンフォード大学の客員教授に招かれたあと、ヨーロッパ各地を経由して真夏のインドに入りました。デリー、アグラ、ペナレス、ブッダガヤー、パトナなどブッダゆかりの地をめぐり、五体投地、ガンジス川の沐浴など、仏典に描かれた光景を目の当たりにしました。その後、20回以上インドを訪れるなかで、現代のインドにも仏典に描かれた生活習慣や慣習、言葉遣いが色濃く残ることを発見します。インドに行かないインド学者が多いなか、古典を真に理解するためには、現地を深く知ることが必要と訴えます。そのたゆまぬ歩みは、生涯をかけて編纂した「佛教語大辞典」へと昇華しました。 中村博士はNHK「こころの時代」などTV番組に積極的に出演し、ブッダの思想やインドについて分かりやすく解説しました。 スッタニパータ小なる章「こよなき幸せ」 適当な場所に住み、あらかじめ功徳を積んでいて、みずからは正しい誓願を起していること、ーこれがこよなき幸せである。 深い知識あり、技術を身につけ、身をつつしむことをよく学び、ことばがみごとであること、ーこれがこよなき幸せである。 父母につかえること、妻子を愛し護ること、仕事に秩序あり混乱せぬこと、ーこれがこよなき幸せである。 施与と、理法にかなった行いと、親族を愛し護ることと、非難を受けない行為、ーこれがこよなき幸せである。 悪をやめ、悪を離れ、飲酒をつつしみ、徳行をゆるがせにしないこと、ーこれがこよなき幸せである。 尊敬を謙遜と満足と(適当な)時に教えを聞くこと、ーこれがこよなき幸せである。 耐え忍ぶこと、ことばのやさしいこと、諸々の(道の人)に会うこと、適当な時に理法についての教えを聞くこと、ーこれがこよなき幸せである。 修養と、清らかな行いと、聖なる真理を見ること、安らぎ(ニルヴァーナ)を体得すること、ーこれがこよなき幸せである。 世俗のことがらに触れても、その人の心が動揺せず、憂いなく、汚れを離れ、安穏であることーこれがこよなき幸せである。 これらのことを行うならば、いかなることに関しても敗れることがない。あらゆることについて幸福に達するーこれが彼らにとってこよなき幸せである。 中村博士の名著「東洋人の思惟方法」は、戦後間もない1948年に出版されました。インド人、中国人、チベット人、日本人、それぞれの思惟(思考)方法の特徴を捉え、国の文化にどう現れているかを検証するという試みでした。敗戦の反省から、世界平和実現のためには、まず民族とその思惟方法を理解すべきと考えた中村博士は、世界の思想史を比較することで人類に普遍的な考え方を解明し、東方・西洋を問わず人間性は変わらないことを立証したのです。「実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。」と法句経(ダンマパダ)にあるように、中村博士は終生にわたり世界平和を望み、そこへ至る道標としてブッダの言葉をはじめ、仏教の教えや東洋思想をひろめました。その活動は、中村博士が設立した東方学院に受け継がれています。 スッタニパータ八つの詩句の章「武器を執ること」 殺そうと争闘する人々を見よ。武器(杖)を執って打とうとしたことから恐怖が生じたのである。わたくしがぞっとしてそれを厭い離れたその衝撃を宣べよう。水の少ないところにいる魚のように、人々が慄えているのを見て、また人々が相互に抗争しているのを見て、わたくしに恐怖が起こった。世界はどこも堅実ではない。どの方角でもすべて動揺している。わたくしは自分のよるべき住所を求めたのであるが、すでに(死や苦しみなどに)とりつかれていないところを見つけなかった。(生きとし生けるものは)終極においては違逆に会うのを見て、わたくしは不快になった。またわたくしはその(生けるものどもの)心の中に見がたき煩悩の矢が潜んでいるのを見た。この(煩悩の)矢に貫かれた者は、あらゆる方角をかけめぐる。この矢を引き抜いたならば、(あちこちを)駆けるめぐることもなく、沈むこともない。 【 Webマガジン コラージは、オフィシャルサポーターの提供でお届けしています 】