Colla:J コラージ 時空に描く美意識

被災された方の生活を支える〈令和6年能登半島地震災害義援金〉 (日本赤十字社)にご協力お願い致します。

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火の鳥能登島に飛ぶ 時空を超える美意識 https://collaj.jp/白木槿 2025 2024年 1月 1日に発生した能登半島地震は、未だ深い爪痕を半島に残しています。コラージは 2025年 1月の取材につづき、七尾湾に浮かぶ能登島を中心に、復興の道筋をレポートします。 藪田下田子線。長屋形式の家々は、隣家が解体された外壁をブルーシートで覆っています。 能登取材のたびにお訪ねしている氷見市栄町の井上菓子舗。栄町新道地区の藪田下田子線沿いは地盤沈下の被害が特に大きかった地域で、大半の住民が現在地区を離れています。長屋状の住宅に暮らす高齢者が多く、金沢など肉親の家に身を寄せたり、高齢者施設に入る方も多かったようです。氷見市ではいま栄町、北大町、伊勢大町で 3棟の災害復興住宅の建設を進めていますが入札の不調などもあり、完成の遅れが心配されています。 井上菓子舗向かいにあった約 15軒が解体され、海までの広大な空き地になりました。氷見市の復興プロジェクトの一環で市民や高校生によって約 500㎡に種が植えられ、今秋にはコスモス畑になるとのこと。地域コミュニティー維持支援事業として、地域を離れた住民が参加した花見やバーベキューが開かれる予定です。 明治10年創業の井上菓子舗は、正月の縁起物モナカ「福梅」をはじめ、創業以来の有磯羊羹など地域の行事に欠かせない菓子を作ってきました。地盤沈下によって道沿いの店舗兼住宅が傾き床が波打つなどして「全壊」と判定されたものの、裏手の菓子工房で操業を続けています。公的な支援を受けたとしても再建には大きな自己資金が必要なため、これからの事業と暮らしをどう続けるか、難しい判断に悩んでいるそうです。▲ 能登情熱和菓子「すぎもり」(七尾市田鶴浜町)が出店。 ▼旅のお供におすすめの七尾名物「笹寿し」。サバやタイの押し寿司は、祭り寿司とも呼ばれハレの日に振る舞われてきました。 七尾市のスーパーマーケット「どんたく ベイモール店」には、七尾港はじめ石川県産の鮮魚が豊富に揃っています。コゾクラはブリの幼魚で北陸では夏によく食べられます。チカイは磯釣りで人気のメジナ、チンタはクロダイ、ハチメはメバルの仲間など、ご当地ならではの名前も楽しめます。 和倉温泉はいま20軒以上の旅館、ホテルが大きな被害を受た和倉温泉では、解体・修復工事や護岸工事が進むなか、6つの旅館が観光客を受け入れ、通常営業を再開しています。「プロが選ぶ日本のホテル・旅館 100選」で長年日本一となってきた加賀屋は、加賀屋別邸 松乃碧の跡地に加賀屋の場所を移転して、全てオーシャンビュー露天風呂付き 40室程度の低層とすることを発表しました。ほかに、あえの風(80室)、虹と海(40室)を2026年度下期〜2027年度末にかけて順次再開するそうです。グループ全体の客室数は 425室から160室程度に減りますが、団体から個人客への路線変更には、地元からも期待の声があがっています。 Vol.74 原作:タカハシヨウイチ はら すみれ絵 : タカハシヨウイチ サンゴの森や小魚の群れの間をすりぬけてタツノオトシゴのラッパの音が潮の流れにのって広がっていきます海の音楽会がひらかれる合図です 能登島大橋 全長約1Kmの能登島大橋が開通したのは1982年。それまで島と半島はフェリーで結ばれていました。2024年元旦の能登半島地震で、能登島大橋は一時通行止めとなりましたが、1月 2日から片側通行が可能になり島の孤立を防ぎました。もう1本の橋「ツインブリッジのと」も 2025年 6月16日から片側交互通行(制限付)がはじまり、奥能登へのアクセスが便利になりました。 石川県能登島ガラス美術館 能登半島地震から 559日、7月12日に再開した毛綱毅曠さん設計のガラス美術館 語らい 横山尚人 ▼ 沢山の丸窓には設計図がプリントされていました。 能登半島地震から 559日ぶりに、石川県能登島ガラス美術館が再開しました。能登島町(現七尾市)と石川県による「ガラス工芸の島」構想から生まれたガラス美術館は、建築家 毛綱毅曠(もづなきこう)さんの設計により1991年に開館。チューブ状の展示室 1はチューブの先を細め床を傾斜させることで、実際より長く見えるよう工夫されています。再開した2025年7月12日から10月19日まで「第16回 '24日本のガラス展」を開催中です。 ▼ 手摺には輪島塗りが施されました。 展示室をつなぐ空中回廊には、あえて平衡感覚や距離感を狂わせる仕掛けが施されています。壁を斜めにしたり窓ガラスのドットの大きさを変え、日常から異界(ガラスの世界)へと移動する試みです。 ▲青龍を表した三角錐のオブジェが 1塔だけ残されています。 展示室 2の入口には螺旋階段とガラスのエレベーターがあり、ドーム状の天井には、能登の海に広がるあかね雲を表現したオブジェが浮かびます。彫刻家ブランクーシが創造した「宇宙卵」の影響を感じました。 2024年元旦、能登半島地震による作品の被害は、約130点の展示作品のうち14点が破損、9点が全損だったそうです。上は震災当時の特別展「光をまとう」の展示中に全損した作品で、破損作品については修復作業が進められています。美術館では地震から作品を守るため、揺れを吸収する ▼ 天井に設置されたプリズムが虹色の光線を壁面に映しだします。 展示室 3・4の建物は巨大な日時計のようです。毛綱毅曠さんはインドジャイプルの天文台はじめ国内外の古代都市や神社仏閣を訪ね、それらから得たコスモロジー(世界観)を作品に込めることで、土地のもつエネルギーを引きだし、福をもたらす神を招来して地域活性につなげる試みを続けてきました。 トーベとムーミン展 .とっておきのものを探しに. 2025年 7月16日.9月17日森アーツセンターギャラリー トーベ・ヤンソン「煙草を吸う娘(自画像)」1940年 油彩、カンヴァス 個人蔵トーベ・ヤンソン『遊び 1(アウロラ病院小児病棟の壁画のためのコンペティション用スケッチ )』1955年ヘルシンキ市立美トーベ・ヤンソン『遊び 2(アウロラ病院小児病棟の壁画のためのコンペティション用スケッチ )』1955年ヘルシンキ市立美 © Tove Jansson Estate Photo © Finnish National Gallery Yehia Eweis術館テンペラ、カンヴァス © Moomin Characters Photo © HAM / Hanna Rikkonen術館テンペラ、カンヴァス © Moomin Characters Photo © HAM / Hanna Rikkonen フィンランドを代表する芸術家 トーベ・ヤンソンの展覧会が、9月17日まで、森アーツセンターギャラリー (六本木ヒルズ森タワー52階)にて開催中です。小説ムーミンの第一作『小さなトロールと大きな洪水』は、フィンランドにソ連が侵攻した1939年に書かれ、ソ連やドイツへの怒りを投影した生き物がムーミントロールでした。第二次世界大戦が終わった1945年に出版されてから 80年。幸福な世界の実現を願ったトーベの作品は世界で愛され今も輝き続けます。彫刻家の父とグラフィックデザイナーの母に育てられたトーベは、13歳からすでに創作によって収入を得ていました。20代でフランス、イタリアへ渡り絵画技法を学び、フレスコ画法による壁画をヘルシンキ市庁舎や病院、学校などに描いています。 トーベ・ヤンソン「ムーミンたちとの自画像」1952年 インク、紙トーベ・ヤンソン『フェアリーテイル・パノラマ』左面 1949年 フレスコ・セッコ雑誌『ガルム』1945年イースター号 ムーミンキャラクターズコレクション ムーミンキャラクターズコレクション © Moomin Characters™フィンランド・コトカ市 ※映像で紹介 © Moomin Characters Photo © HAM / Maija Toivanen © Tove Jansson Estate 見る機会の少なかった油絵やスケッチ、愛用品など約 300点を展示し、絵画、小説、漫画、風刺画、絵本、壁画、舞台など、総合芸術家としてのトーベの魅力を伝えています。 一能登島(ひとつのとじま) 能登の海の幸と七尾湾を堪能する北陸初の「鮨オーベルジュ」。 鮨オーベルジュ「一能登島」は建築家中永勇司さん(ナカエ・アーキテクツ)の、能登への思いから生まれました。幼少期を能登で過ごした中永さんは、唯一無二の里山里海を多くの人に知ってもらい地域活性につなげたいと、自ら企画・設計・運営までを手掛け築 50年ほどの旅館を全面改修。2023年 9月に一能登島を開業しました。貸し切りの薪サウナとスパの外には、七尾湾が広がります。 七尾湾の絶景を望む広いバーラウンジ、薪ストーブのサウナ、日の出を眺められるスパなど、中永さんは自分たちが過ごしたいと思う空間を一能登島に創造したそうです。オープンからわずか 4カ月後の 2024年元旦 16時過ぎ、一能登島は最大震度 7の地震に見舞われます。スタッフは宿泊客をまず安全な高台の避難所へ案内しました。避難所はとても寒く食事や飲料もなく、水やトイレも使えないなか余震が続き不安な一夜を過ごします。津波警報が解除され一能登島に戻ると、宿泊客にはベッドでの休息と温かいおにぎりが提供されました。SUSO(須曽)など 8つの客室には能登島の町名が付けられました。 鮨オーベルジュの核となる「饗処(あえどころ)」。「鮨みつ川」光川浩司さんの協力によりメニュー構成やカウンター、厨房まわりの設計、仕入ルートの開拓などが行われ、能登の海を味わう思いを込めた食を提供しています。震災当日は 2本の橋が通行止めになり島は孤立しましたが、翌日には能登島大橋が片側通行できるようになり、スタッフは宿泊客を空港まで送り届けることが出来ました。幸い建物の損害は少なかったものの水道などインフラ復旧には時間がかかりましたが、クラウドファンディングなどの支援を得て2024年 4月19日に営業を再開。能登島での宿泊施設の再開は、人々に復興への希望を与えました。今回宿泊した「能登島家族旅行村Weランド」には、七尾湾に面したオートキャンプ場のほか、浴室、キッチン、トイレ、エアコンを備えたケビン棟(定員 4名)があり、気軽に宿泊できます。高台に建つケビンは震災の被害が少なかったこともあり、建築業者やボランティアの宿泊にも利用されてきました。 窯出しした製品を、家族が協力して梱包・発送していました。 今年1月に訪問した独歩炎藤井博文さんの陶房では、焼き上がった土鍋を窯出しする最中でした。窯はまだ80℃近くあり、近づくと額から汗が吹き出します。藤井さんは土鍋の蓋を載せた状態で焼くことで、本体と蓋の精度を高めています。釉薬で溶着するリスクはありますが、木槌で軽く叩くと蓋が外れました。土鍋でお米を炊いても吹きこぼれないようノリ受けの部分を深くしたデザインで、片口のような注ぎ口もポイントとなっています。 小さな1合用の炊飯土鍋は、ご飯茶碗とセットになったデザインです。蓋のすり合わせを滑らかに削ってから本体と合わせると、引っ掛かり無くクルクル回りました。 「蓋と本体の精度が腕の見せどころ」と藤井さん。夏場は暑いのであまり窯を焚かないそうですが、最近は海外からの注文も多く忙しいとのことでした。2024年元旦の能登半島地震で、独歩炎の陶房やショールームは大きな被害をうけ、沢山の作品が割れて窯も使えなくなりました。震災から1年半がたち、今は徐々に落ち着きを取り戻されてきたようです。▲秋元勇二さんのカフェ「実家ふぇ 烏兎色」は再開準備中。 親友のカフェオーナー兼漁師の秋元勇二さんが遊びに来てくれました。秋元さんの「実家ふぇ烏兎色(うといろ)」は今も休業中ですが、先日は幻の高級魚アラ(6.3kg)が釣れ、高値で取り引されたそうです。子ども時代から貝や魚をとり、お小遣いを稼いだ思い出をお話してくれました。その時の海の経験が今に生きていると秋元さん。 建設中だった藤井さんの自邸が完成。藤井家の築 100年の古民家は、震災によって全壊・大規模半壊したため公費解体されました。新居の建設は能登島のSab.平田勇輔さんたちが手掛け、玄関には陶板のレリーフが飾られています。 ▼この家に合わせて新調された七尾仏壇は、七尾市で作られる伝統的工芸品で、堅牢・豪華なことで知られます。 9月-始めるための手放し月間 2025年9月は「9」のエネルギーが流れる1カ月。「9」は 2025年を通して流れるエネルギーでもあります。9月はより一層、今年のエネルギーを凝縮した一カ月となります。 「9」は ”終わり ””完結 ”を表す数字。社会全体にもそんなムードがそこかしこに現れているように感じますが、個人レベルも同様です。次に進むため、新しい世界を始めるために、抱え込んでいる古いエネルギーは一旦終わらせ、区切りをつける。半端なもの、不要なもの、足枷になっているものは、潔く手放します。 “手放し”は、“手に入れる”より難しいかもしれません。長年溜め込んでいるとしたら、なおさらです。「手放すなんてムリ」と思う方は、まずは自分の中にある小さな “ひっかかり ”を取り除いてみてはどうでしょうか。ひっかかりを取りのぞくには、まずはまっすぐ自問してみるところから。「これは自分にとって本当に必要な、大事なものだろうか?」と。 大事と思い込んでいるものほど、手放してみたら「そうでもなかった」ということ、意外とありませんか?手放すには勇気もいりますが、その分、今までに見たことのない新しい景色が広がるかもしれません。 本当に大切なものは残ります。考えすぎて頭がパンパンになったら、その思考をいったん頭の中から外してみる。頭でっかちにならず、知性を見方に付け、徹底的に学ぶことで確信に近づいていく。おのずと答えが導き出されることもあろうと思います。”潔く”進んでいきましょう。 心・体・思考の健康をデザインする とっておきの休み時間42時間目写真&文 大吉朋子 9年ぶりのホーチミン。 28年前に初めて訪れたベトナム。ねっとりとした熱い空気に、一日中鳴り響くバイクの音。そこら中から色々な匂いと、初めて見る食べ物の数々。アルファベットの文字には発音記号らしきがついて、読めそうで読めないベトナム語。いたるところにシクロが並び、運転手は反射的に客引きをして、皆やたらとニヤニヤしていた。 当時は、いわゆる安宿エリアと呼ばれる通りに毎度滞在した。まさにベトナム!という感じの、地元の人々とバックパッカーが入り混じるカオス。宿の中は穏やかだけれど、一歩外に出ればシクロとバイクと大きな籠を担いだ物売りたちが早朝からエネルギー全開。太陽の力が強く、とにかく暑く埃っぽい。ぼったくりやスリに警戒し、バイクや車にひかれないように、ぼんやりとはしていられない。安心安全の日本とは真逆の世界。にもかかわらず、一気にその世界に魅了されてしまった。 大学生の時はベトナムを ”第二の故郷 ”と言いながら、足しげく通った。写真にハマりだした頃とも重なって、撮影のためだけに訪れたこともあるほど。寝台列車の狭く怖い体験、少数民族の村を訪ねまわったこと、カラオケボックスのホテル、山歩きの危ない事件など、忘れてしまった出来事もたくさんあるけれど、双子の姉妹で北から南までよく旅をした。 社会人になってからも幾度となくベトナムを訪れ、その後、双子姉がベトナムに暮らし、ベトナム人と結婚したことでさらに身近な場所となった。そして、ネット環境が整ってくると連絡は簡単に取り合うことが出来、姉の身を案じることも減り、しだいに行く頻度は減っていった。最後に訪れたのは2016年。ホーチミンの中心地は、日本のODAによる地下鉄工事真っ最中で、工事現場だらけだったと記憶している。 また行こうと思いながら時間が過ぎ、コロナ禍もあり、さらに足が遠のいた。いよいよもう行くことはないと思っていたけれど、タイミングとはひょんなところにあるもので、あれよあれよとベトナム行きが決まった。 実に9年ぶり。飛行機着陸から入国までかなり時間がかかったものの、久々の雰囲気に気持ちは高まり、待ち時間も気にならない。姉の迎えがあるのも有難い。空港の外に出て、まずは整然とした駐車場に驚いた。古びた車が見当たらない。ナンバープレートを見なければ、ここがベトナムなの?と戸惑うくらい。最近は空港エリアには古く汚い車は入れないという。だから、タクシーも Grabも乗降者の車も近代的というのか、以前とは劇的に違う光景。あらためて時間の経過を実感した。 街中の道路もビルも、以前のような雑然とした雰囲気とは違う。バイクはビュンビュン走り、車とすれすれに交差していく光景は変わらない。けれど、明らかに発展を遂げているとわかる景色であった。姉が運転する車、助手席に初めて乗った。初めのうちは周囲の車両との距離の詰め方が独特すぎて、助手席にもブレーキがほしいと思うくらいドキドキした。しばらくして慣れたとはいえ、最終日まであの異様なまでの接近戦には緊張の連続。姉の見事な運転に、四半世紀の在住歴をとても頼もしく思った。 9年の間に街の様子は大きく変わっていた。地下鉄大工事が終わり、中心地に電車が通り、地上の工事区域は解放され、整備されていた。洒落たカフェが増え、若者のファッション感度もあがった様子。街全体が小綺麗になり、生まれ変わったような印象すらあった。一方で、一番の観光中心地と言われた通りは閑散として、空き物件もチラホラ。観光地の面影は薄れ、地元の人たちが集う場所となっていた。おしゃれ中心地と言われるエリアは隣の区に移り、そこはまだ整備途上のようだったけれど、外国人も多く、流行に敏感な人たちが集まってくるのだろうと、新しい街の雰囲気を感じた。 昨年12月に開通した地下鉄に乗ってみた。行く先にもよるけれど、渋滞も怖い運転もない電車移動は快適だった。一部区間は地上を走り、その時の初めて見る景色はとても感慨深かった。数日の滞在ではほんの一部分を覗いてきたにすぎないけれど、以前のワイルドな世界と「今」の世界が交差している只中で、とても面白かった。またすぐに訪れようと思えた、良いタイミングの旅だった。 能登島東部の野崎町に、秋元勇二さんの実家があります。秋元さんは 40歳頃まで新潟で仕事をしていましたが、能登島に戻りキャンプ場「能登島家族旅行村Weランド」に勤めました。その後、癌を患った秋元さんは奇跡的に回復し、友人から譲られた「第三新丸」をあやつり漁を続けています。能登半島地震の際は野崎港にも津波が押し寄せ、2隻の漁船が沈み1カ月ほど港が使えなかったそうです。地盤沈下により今もあちこちに崩落やひび割れが見られますが、修復にはまだ時間がかかります。 ▼魚群探知機の記録を見ると、水深が急に深くなる境目で魚が捕れていることが分かります。 「海にでると気持ちがいやされる」と秋元さん。子どもの頃から漁を手伝ってきた秋元さんにとって、魚や貝をとることが生きる励みとなりました。震災 3カ月前には「実家ふぇ烏兎色」をオープンし、自ら釣った魚を提供していましたが今は休業中。魚を下処理する環境を整え、カフェを再開するのが秋元さんの目標です。港に近い岩礁ではサザエ、アワビ、イワガキなどがとれます。能登島東部の内海は富山湾とつながっていて、水深が急に深くなるどんぶかの海の駆け上がりにプランクトンが湧き、それを餌にするマダイ、マアジ、ブリ、ノドグロ、メバルなどが豊富に釣れます。 海から見た野崎町。築 100年以上の古民家が多い集落では、建物が全壊・大規模半壊の被害を受けました。浄土真宗を信仰する一向衆の多かった能登島では、寺院創建のため大工や左官、建具などの職人が移り住み、その寺を中心に住民が増え集落を形成しました。野崎もそうした町のひとつだったようです。寺院は町の指導者であり、役場や学校の役割も担っていたのです。 ▲ 自宅向かいには織物工場や民宿を営んだ建物が残ります。 ▼ 改修工事をする大工さん。藤井邸も手掛けたそうです。 秋元さん一家は築 250年の古民家に暮らしていましたが、震災により大規模半壊しました。古民家の部分を解体し、40年ほど前に増築された家の部分を改修しています。能登では建築費の高騰が続いていて、七尾では坪単価150万円、珠洲など奥能登では170万円が相場といわれます。震災前の坪単価は 70万円程度だったため、公的支援制度などを利用しても建設費の上昇に追いつかないのが現状です。新築には数千万円の資金が必要となり、住宅ローンを組むのが難しい高齢者にとって自宅の再建は難しいと考えられます。 能登半島東側の静かな内海は、天然の生簀とも呼ばれます。 ドラゴンシリーズ 130 ドラゴンへの道編吉田龍太郎( TIME & STYLE ) 普段から感じること。 この数年の間に仕事で沢山の国々の多くの人々を訪ねた。初めて訪れた国には見知らぬ街があって当然のことだが、その土地では知らない人たちが日々の暮らしを積み重ねている。今日もその土地では僕らの知らない言葉を話し、馴染みのない食事をして家族や友人たちとの生活を送り、そして仕事に出向き、僕らと同じように日々に悩み、迷いながら毎日を送っているのだろうと想像する。それは僕らと何ら変わりのない平凡な日常なのかもしれない。そう考えると、ぼんやりとしていた地平線に明確な点と点が生まれ、その点は水平方向に放射状に広がりつながり、その点の一つである自分の存在と居場所を認識させる。幼い頃、空は青色の平面の広がりであり、雲はそこに描かれた、動きながら変化する絵画のような平面だった。 仕事でその国と目的地を訪ね、その国の人々と会話をする。彼らの店舗やプロジェクトを視察し、これからの協業について夢のある未来の話をし、そしてシビアな取引条件や契約の話まで、短い滞在の中で凝縮した時間を共に過ごす。日本の日常では、お互いの未来を左右するような緊張感のある時間を過ごすことはない。僕らにとっても、他国の彼らにとっても、全く違う文化と生活背景の人間同士が初めて出会い、彼らは僕らの製品や空間に大きな資金と時間と精神を投じ、生活の糧となる仕事として人生を共有しようとしている。そんな時を共に過ごしたあと、スポーツの対戦相手であり盟友同士のような夕食は、何とも形容しがたい緊張の連続の中にありながらも、ある種の条件的なシビアさから解放される特別で優雅なひと時となる。しかしその会話の先に、予測できない展開が訪れることがある。それは国と国の歴史の話に及び、それぞれの国と国民が抱く歴史認識を知らされる時であり、世代によっては日本との戦争や侵略に言及する時である。前向きな自分たちの良心では乗り越えることのできない、お互いが背負っている過去の大きな現実に向き合うことになるのだ。 現代に生きる日本の僕ら以降の世代は、現実の戦争を何も知らな い。僕が生まれるたった 年前、第二次世界大戦は広島と長崎の原 爆の投下と犠牲と共に終戦を迎えた。それから 辺のアジア諸国はもちろん、それ以外の国々にも日本と同盟国であったドイツやイタリアが侵攻し、交戦した結果、多くの犠牲者を生 み出した。実際に戦争を経験していない僕らは、 ジア諸国へ侵攻した事実や、日本軍が他国の人々を殺戮してきた事実を、自国のこととして十分に認識していない。同時に、当時の日本の若者たちの多くは戦地に赴き、争いで命を失い、罪のない子供や市民も戦時下の犠牲者となった。日本だけでなく中国や朝鮮半島、周辺のアジア諸国、世界中の多くの国々で、無実の市民の多くが戦 20 年が経過した。周 年前に日本がア 80 80 争の犠牲となった。それぞれの国に、それぞれの歴史がある。 様々な国や都市を訪れると、それぞれの歴史や国民感情が存在することを感じる。しかし、そのような歴史背景を意識する必要のない現代の国際社会の成り立ちの上に、僕らの活動や仕事、そして身の安全が担保されている。もちろん日常的に過去の歴史を意識しながら仕事を進めることも、侵略した土地に残る日本に由来するコンセプトや日本文化に対して背徳感を抱くこともない。しかし、時に商談後の夜の会食の中で双方の国の歴史に関わる話に及び、戦時中に日本が行った侵略や蛮行についての違和感が、双方の頭をよぎることがある。それは逃れようのない日本の歴史の事実として、忘れてはならないことなのだろう。その歴史と事実を踏まえた上で、自分たちができる小さな建設的なこととして、これから共に築くべきことは何なのだろうかと考える。 日本は幸いにも海に囲まれ、自然にも恵まれた豊かな東アジアの島国であり、日本の歴史を振り返ると、文化、宗教、建築、工芸など、日本を形作るものの多くは長い年月をかけて周辺の諸外国からもたらされたものが基盤となっている。それを日本人が独自に時間をかけて醸成させたものが、日本文化の成り立ちといえる。そのような意味でも、日本は周辺諸国との関係性の中で築かれてきた精神と文化によって、他国と建設的なつながりを持つための共有資産と考えることができるのではないか。 日本の歴史と文化を遡れば、周辺諸国との強い文化的関係とその価値観は、逃れようのない尊い存在として、双方の建設的な関係性につながるはずだ。隣人に対して自らが前向きな意識を持つことで、その未来は大きく変化する。まずは自らの意識を変えることから始めたい。 最近は国民も政府も政党も、核武装の正当性を平然と語るようになった。幼児でもわかるように、武器を持って脅し合うことは良好な関係や友情にはつながらない。そして世界中で固く約束したことが常に破られ、多くの人々の犠牲には終わりがない。武器を持って相手を脅し、戦い、傷つけ合うことは解決できない恨みを生み出す。戦争は勝者と敗者をもたらし、不幸しか生まれない。 こうした幼児でもわかることから目を逸らし、核武装の必要性や正当性を訴える良識ある政治家や真面目な顔をした大人たちが存在することは、日本人の幼稚さを最も象徴的に表すものだ。被爆国である日本だからこそできる、言えることがあり、被爆者に対する大きな責任はアメリカだけでなく、戦争を始めた日本にも存在する。原爆という武器を持って脅し合うような政治的な「平和」ではなく、人間としての前向きな心の平和に向かうべきである。 私たちの海外での仕事の積み重ねと関係作りは、時間のかかるものだ。様々な日本文化の美しさと精神性を海外の企業や人々と共有することで、中国や韓国、台湾、アジア、ヨーロッパ、中東諸国から長い時間をかけてもたらされた素晴らしい文化と、そこに尽力した先人たちへ感謝と敬意を示し、お互いの未来へつながるような仕事にしたい。そして、協業する国々や人々との豊かな人間関係と生活文化に貢献できる活動にしたいと願っている。 こうだ 能登島の夏向田の火祭向田は古くは「神田」と呼ばれ、伊勢神宮へ御贄米(み 日本三大火祭りのひとつ「向田(こうだ)の火祭」がにえまい)を納めるための神宮の御領地だったそうです。7月 26日(土)向田の崎山広場(お旅所)でひらかれました 向田町の想いを束ねた柱松明 7月の最終土曜日、夏越の祓(なごしのはらえ )として長年続けられてきた「向田の火祭」(オスズミ祭)が今年も7月 26日に開催されました。火祭の前日、お旅所となる崎山広場には高さ 30mの巨大な柱松明が立てられます。柱松明は松の大木の周囲に柴(シバ)を結わえ付け縄で縛り上げたもので、頂点に白い御幣が付けられます。柴や麦藁は町民一人一人が集めたものを、柱松明に結集させました。 海の城「向田城」向田町は能登島で最も古い集落といわれます。湾に突き出た城ヶ鼻には、南北朝時代、能登島の地頭だった長胤連の向田城がありました。能登島には縄文時代から人が暮らし、野崎町では弥生時代に塩を作った製塩土器も発掘されています。鎌倉時代には伊勢神宮の御領地となり、島を治めるために派遣された 8人の役人が、島の草分けとして「島八太郎(しまはったろう」と呼ばれました。火祭の由来を、元町内会長で校長先生もつとめた高橋正俊さんが教えてくださいました。祭の中心となる伊夜比.(いやひめ)神社は延喜式にも記載された創建 800年以上の古社で、元々はイヤミ(伊夜見)の地にあり、現在地にあった八幡神社と合祀されたほか、神明神社、白山神社、菅原神社とも合わさりました。火祭のいわれの中に、伊夜比.(女神)と伊夜彦(男神)が、火祭の夜に邂逅するという説があります。伊夜彦(いやひこ)は越後一宮「弥彦神社」の祭神であり、火柱を目印に新潟からやってくるのです。「火祭は向田にとって大切な祭。祭が無くなったら地域のまとまりも無くなってしまう」と高橋さんは語ります。夕方 6時をすぎる頃、神社に人が集まり始めます。今年は初めて専修大学大学院や多摩美術大学の学生がボランティアとして参加。「いしかわ文化観光推進ファンド」を活用した試みで、2泊 3日で手松明の制作など準備段階から関わりました。そのほか柱松明の立ち上げには、石川県が創設したボランティア「祭りお助け隊」や七尾市地域おこし協力隊 20人が加わるなど、祭の継承に欠かせない関連人口の増加を目指しています。 火祭の運営について副町会長の上田さんに伺いました。祭 能登半島地震が起きた 2024年の開催については、町内 の準備には向田町の住民全体が関わるそうです。 で意見が分かれたそうです。住民の方々も柴(しば)の束 スタートは 7月1日で、小学生たちが神社で奉燈を洗って を7束用意するといった決まりがあり、生活が不安定な中、 清めます。以前はカマヒバシ(小学 4・5年)、フジキリ(小 負担が大きいと懸念の声が上がりました。そんなとき開催 学 6年・中学 1年)、マーカイ(中学 2年生)、ハヤシカタ(中 を強く後押ししたのが、若い壮年団でした。コロナ禍の 学三年生)と年代別の 4組に分かれ、綱ねり、手松明作 影響で 2年ほど中断した際に、祭の継承には継続が欠 り、囃子方などの役割を果たしました。中学を卒業すると かせないと考えたそうです。震災から半年ほどで開催され 壮年団に入り、男衆として運営の中心を担います。手松明 た火祭は、復興への希望として大きな話題となります。 に使う麦藁を集めたり、太い縄をつくる「綱ねり」や囃子 「子どもたちに祭の準備を経験させることが一番大切」と 方の太鼓や笛を子どもたちに教えたり、奉燈の組み立て、 上田さん。壮年団と向田町約 100世帯が力を合わせ、火 柱松明の立ち上げなど様々な仕事をこなします。 祭の伝統を次代へと受け継いでいます。 今年は七尾市で活動する「鵜浦豊年太鼓」の演奏から祭が始まりました。鵜浦豊年太鼓は 50年ほど前に、鵜浦町(うらのまち)の青年団が中心となって結成され、能登伝統の雨乞い太鼓の流れをくんでいます。あたりが暗くなると、御神輿を先頭に、囃子方を乗せた奉燈(ほうとう)が崎山広場へ向けて出発です。奉燈に書かれた「協和萬邦」は世界平和の理想を、「以和為貴」は和をもって貴しとなすを表します。伊夜比.神社の向かいに能登島で一番古い「さわだ旅館」があります。ご主人の沢田さんと藤井さんは保育園からの幼馴染で、沢田さんは子どもの頃から火祭を手伝い手松明を 600本も作ったそうです。さわだ旅館は明治時代、向田の海岸を干拓して田んぼを広げた際、関係者を泊める旅館から始まり、新鮮な魚料理を堪能する旅館として140年以上続いてきました。能登半島地震では、天井が落ちたり壁が崩れるなど大きな被害を受け、海岸近くの家々は津波に襲われます。沢田さんは不便な暮らしのなかで自ら応急工事を進め、2月初めから工事関係者を受け入れました。奥能登の復旧工事のため車中泊していた土木・建築業者が泊まれるようになり、朝 4時の出発に合わせておにぎりを作るといった対応を続けることで、奥能登の復興に貢献しています。御神輿に先導され、お囃子を奏でながら 5基の奉燈が練り歩きます。小型の奉燈は子どもたちが運行。崎山広場に到着した御神輿と奉燈は、柱松明のまわりを7回まわります。島の史跡「小浦左幸屋敷跡」には、重い年貢に耐えかねた村民が新潟へ逃げたという伝承があり、移住先 上越市塩屋新田の子孫たちとの交流が今も続いています。新潟の伊夜彦が能登島にやってくるという伝承は、能登島と新潟のつながりを感じさせます。 号令と共に一斉に柱松明に駆け寄り火をつけます。 四方に張ったハイヅナが切れると、火焔を上げる柱松明が倒れます。男衆は綱に駆け寄り支柱の丸太を引っ張り出し(来年も再利用するため)、柱が倒れた方向によって豊漁か豊作かを占います。伝説によると、伊夜彦は伊夜比.との逢瀬を楽しんだあと海へ舟を出し、火柱が見えなった場所を永住の地としました。そこが弥彦神社となったそうです。標高 80mの丘の上に位置する須曽蝦夷穴古墳(すそえぞあなこふん)は、能登島と大和王権、蝦夷地の関係を示す古墳です。この古墳が作られた 660年代は、越の国(北陸地方)の国守阿倍比羅夫が 180艘の水軍を率いて蝦夷征伐にでた頃で、古墳から望む七尾南湾には、水軍の拠点となる港 鹿嶋津(かしまづ)がありました。2つの石室をもつ珍しい形の古墳で、水軍を率いる権力者や船を作る技術をもった人の墓かもしれません。 今回はガンマン亡き後のサルーンの料理の話で、と思っていた けれど、もう少しだけ、ガンマン時代のサルーンのお話を続けよう。西部劇映画に出てくるサルーンでは、「タバコを吸っているシーン」がほとんど出てこない。ふつうウィスキーのような強い酒を飲むと、タバコ常用者は吸いたくなる。半世紀前の私がそうだった。だから酒飲みが集まるサルーンならタバコの煙がもうもうとしていたはずだ。だが、映画のサルーンでは、カウンターでもテーブル席でも、誰もタバコを吸っていない。ごくごく稀に、葉巻(シガー)を吸う男が登場するが、これはだいたい「意味ありの場面」で、例外的。ではなぜ、サルーンの男たちはタバコを吸っていないのか。理由は簡単。もっと強い形でタバコを喫していたからだ。当時西部のサルーンでは、誰もが「噛みタバコ」を口の中でくちゃくちゃさせていた。「嗅ぎタバコ」ではなく、「噛みタバコ」。英語ではふつう Chewing Tabaccoという。今も販売されていて、日本でも入手可能だ。カウボーイや農夫のように、 風が吹く野外で両手を使う仕事をする男たちには、紙巻きよりもずっと便利だった。 写真にご注目。前号でも掲載した、西部劇時代のサルーンの再現写真だ。画面のカウンター左端の男の足元に真鍮のツボが置かれている。あれが、痰壷ならぬ「噛みタバコ壺」。で、あの壺に向けて、喫し終わったタバコをぺっぺっと口から飛ばし入れていた。噛みタバコは、口に入れてからある程度噛んでほぐしたら、歯と上唇の間に押し込み、ニコチンが葉から抽 出されてくる間、しばし、その味わいを楽しむ。で、味がしなくなってきたら、壺にめがけてペッ。壺が近くになければ、床にペッ。なので、多少高級なサルーンでは、朝床に木くずを撒いておき、一日の終りに、これを掃き清めて掃除をしていたという。 煙草の葉を直接口に入れてニコチンを口中から入れるのだから、紙巻きタバコよりもずっと刺激が強く、当然、口腔内や喉の癌になる確率も高い。ニコチンの刺激が強いということは、常用性が高いということでもある。そして何より歯と口腔内が黄色味から茶色のヤニ色になる度合いも高くなる。最近の西部劇映画だと、誰も彼も老いぼれ爺さんまでもが、歯は真っ白に光輝いていて、さすがに歯までメーキャップはしないらしい。現代アメリカの「白い歯信仰」はちょっと行き過ぎなのではないだろうか。 いま一度再現写真に注目を。後ろ姿を見せるカウボーイたちの間に、白い大きな布がかけられているのが見える。あれは何か。 白いナプキン噛みタバコ壺 ナプキンだ。どうやって使うのか。客が勝手に手を拭いたり、時には、口ひげについたウィスキーをぬぐったりした、というから恐ろしい。たぶん、風呂はおろか、手を洗うことさえめったにしないような男たちだ。そんな男たちが「共同で使うナプキン」なのだ。このあたりのワイルドさは、ウェストでは当たり前だっただろうと思う。オクラホマ州の田舎で歴史的建造物として残されている「白人移民の開拓最初期に建てられた家」(明治維新直後)を訪れたことがある。その「家」は、外から見れば土饅頭で、地面から土壁(文字通りの土)が立ち上がり、そこにガ ラス窓が嵌めてある「土の家」だった。周辺に森林がなく家を建てるに足る木材がなかったのだ。その地域で「木造の家」が建つようになったのは、1870年に鉄道が開通して木材の調達が容易になって以降のこと。要するに明治維新以降ようやく、その地域では木造の家が建ち始めた、ということなのだ。それを思えば、木造2階建てもしくは2階建てのように表側を飾るサルーンの建物は、当時の移民農民の目には、輝かしく立派な建物として目に映ったに違いない。それに近い木造の建物が立ち並び教会の塔が見えるのが「街」だったのだ。土の家もしくはバラックに近い農家から馬もしくは馬車で「街」に来て、立派なサルーンで酒を飲み、博打をする。日々肉体を酷使する農作業に追われる男たちにとって、サルーンは日常を忘れて気分転換をする大切な場所だった。普段の暮らしを思えば、バーカウンターに掛けられた白いナプキンは、それが不潔だなんて、絶対に思わなかったはずだ。アメリカの中西部から西は、歴 史の長いスパンで見れば「ついこの間まで」こんなワイルド・ウェスト気分がいっぱいだったのだ。というよりも、今だって、その雰囲気は大いにある。善し悪しは別にして、このワイルド・ウェスト的精神の荒っぽさがアメリカの「強さ」を支える大きな柱になっていると思う。 では次に、サルーンの入口の「ドア」のお話。サルーンの入口と言えば、映画では「スウィンギング・ドア」に決まっている。ガンマンがガラスの入った重い扉のドアノブを回しながら店に入ってくる、なんてシーンは見たことがない。だが、西部のサルーンの入口は、本当に、あのような簡単なスウィンギング・ドアだったのか。西部劇の舞台はカラカラに乾燥しきった土地柄が大半で、風が吹けば土埃(つちぼこり)が舞う地帯だ。ガンマンが馬で登場する時、風に吹かれた根無し草がくるくると回りながら土埃の舞う道を転がっていく、なんてシーンもよくあるではないか。そんな土地柄で、サルーンの入口が、あの簡単なスウィンギングだけだったら、どうなるか。分もしない間に店の床からバーのカウンターまで、土埃でジャリジャリになってしまうはずだ。いくらワイルド・ウェストでも、それはなかった。まがりなりにも 開拓最初期に建てられた家 1 886年頃 飲食の店だったのだから。本当に開拓初期の、荒野にようやく町が開かれたばかりで、建物も臨時のしつらえの店であればまだしも、一部の例外を除いて、スウィンギング・ドアは「映画のおはなし」だと見ていい。実際には、大半のサルーンではガラスがはめられた分厚いドアが入口に据えられていた。ガンマンもドア ノブを回してドアを開いて店の中に入っていったのだ。 こうしてガンマンが店に入ると、いかにも悪漢ずらした男たちがテーブルを囲んでポーカー賭博の真最中。時には主人公のガンマンもポーカーの卓を囲み、同じ卓に座るイカサマ賭博師のインチキを見抜いて口論となり、撃ち合いになるという展開も珍しくない。だが、史実だと、だいぶ話が違う。何が違うのか。ワイルドウエスト時代のサルーンで男たちが熱狂したテーブルゲームは、ポーカーではなく、「ファロ」(Faro)というカードゲームだったのだ。これはディーラー(親)が札をテーブル上にトランプの柄と数字が見えるように3〜4枚並べる。参加者はめいめい、次に来る札を予測しながら、それぞれの札に金を賭ける。ブラックジャックのようなゲームで、参加者同士の腹の探り合いなんてゼロ。極めて単純な丁半賭博に近いゲームだ。 ご存知のようにポーカーはかなりの頭脳ゲームだ。それなりに時間の掛かるゲームの間中、あれこれ迷いながら頭を絞る必要がある。ワイルド・ウェストのサルーンで、客の大半は肉体で仕事をする男たちだった。一日の仕事を終え、疲れた体で、そんな悠長な頭脳ゲームなんて興味がなかったのだ。だから、丁半賭博。面倒な腹の探り合いもなく、すぐに結果が出る博打。それだけに、当時ファロへの熱狂は大変なものだった。それなりの規模の街のサルーンでは、テーブルを十も二十も並べ、それぞれのテーブルに人が群がり、酒の入った男たちの博打への熱狂が渦巻いていた。そのようなサルーンではやがて、ラグタイムピアノ、バンジョー、フィドル(ヴァイオリン)、そしてハーモニカなどの演奏で、否が応で も酒と博打の気分を盛り上げていくことになる。こうしてサルーンは新しい音楽が生まれる源ともなっていく。酒・博打・音楽による感覚の高揚感そして非日常的な室内演出。今は亡き大歌手フランク・シナトラ( 1915 -1998)は、ライブの舞台で口癖のように「俺は最後のサルーン・シンガーさ」と言っていた。シナトラはラスヴェガスの帝王と言われた男だ。「ラスヴェガスのカジノ的世界はワイルドウエストのサルーンから産まれた」と言っても、決して大げさではない。 このようにワイルドウエストのサルーンは働く男たちの酒場としてスタートする。だがやがて、料理こそがサルーンの人気を左右する時代がやってくる。次回は、その料理とサルーンの興味深い変遷の歴史をお話してみたい。 サルーンでの音楽カードゲーム ファロガラスを嵌めたサルーン入口のドアスウィンギング・ドア のとじま水族館 巨大水槽にジンベイザメ「モモ」が帰ってきた日 1982年に開館した、のとじま水族館(のとじま臨海公園水族館)は、日本海側で唯一ジンベイザメのいる水族館として人気です。コロナ禍により一時来館者は減ったものの、2024年は 40万 7000千人以上と 9割程度まで復活していました。2024年1月1日の能登半島地震では、元旦営業で賑わうなか閉館時間4時30分のわずか20分前に地震が発生し、スタッフは津波に備え来館者を高台の駐車場へ誘導。当日は 2本の橋が通行止めとなり、島外からの来館者 200人以上が車中待機して一夜をあかした人も多かったようです。魚たちが勢いよく回遊する「のと海遊回廊」(2018年新設)では、ブリ、ヒラマサ、カンパチ、マダイ、イサキ、メジナ、ハタ、クエ、スズキ、イシダイなど身近な魚たちを、プロジェクションマッピングが盛り上げます。地震の被害で最も大きかったのは、館内に巡らされた配管の破損です。至るところで漏水がおこり水槽の水位が低下していくと、循環ポンプ、ろ過装置も故障し水質が悪化。水温の管理も難しくなり、水槽のなかで密集した魚たち 4000匹以上が犠牲となりました。 水族館に隣接する、のとじま臨海公園「海づりセンター」は、桟橋の上から海釣りを楽しめる人気の施設です。貸竿、エサ・釣具の販売もあり、手ぶらで楽しめます。クロダイ、チヌ、メジナ、アジ、マダイ、カサゴなど様々な魚が釣れ、指定された魚を釣ると水族館に展示されるサービスも行われています。 2025年 3月には、人気のイルカショーも再開しました。 水族館の環境が悪化するなか、日本動物園水族館協会などの協力により、イルカやペンギン、ウミガメなどの移送が始まります。協会は過去の重油流出事故や大震災の教訓から、災害時に各施設が協力して生き物を預かる体制を整えていました。カマイルカは越前松前水族館、アドベンチャーワールド(和歌山)、横浜・八景島シーパラダイス、ペンギンは富山市ファミリーパーク、いしかわ動物園、すみだ水族館、アザラシ・アシカはいしかわ動物園、天王寺動物園、ウミガメは越前松島水族館など 63匹が全国 9カ所へ運ばれ、大切に飼育されました。 「クラゲの光アート」では、神秘的なクラゲの姿が暗闇に浮かび上がります。震災時はクラゲ水槽の天井が落ちるなどの被害がありました。修復作業はスタッフ総出で、配管の漏水を見つけることからスタートしました。地面にスコップで穴を掘って地下の配管を確認したため、至るところ穴だらけになったそうです。2024年 3月になると、生き物を予備プールに移動して水槽の補修や洗浄、塗装を行い、ガラスを磨いて綺麗にしました。職人の不足からスタッフ自らが作業を行うことも多く、実際に水を送ると新たな漏水が見つかることもありました。6月には各水槽の修復が終わり、2024年 7月 20日から営業を再開します。ジンベイザメ2匹が暮らす巨大水槽の被害は甚大で、水深は半分以下となり、白く濁って中が見えなくなりました。ついに1月 9日には雄のハチベエ、10日には雌のハクの死亡が確認され、冥福を祈るメッセージと共にクラウドファンディングによって 3千万円を超える寄付が集まります。2024年 10月には志賀町沖の定置網にジンベイザメの雌 1頭がかかり、その日の内に水族館に移送されました。「モモ」と名付けられたジンベイザメは、タカサゴ、ノコギリダイ、クロハギ、ツバメウオ、トビエイ、ホシザメ、コロダイなど沢山の魚と共にゆうゆうと水槽を泳ぎまわり、能登島復興のシンボルとなりました。 おんば様伝説 能登島 祖母ケ浦(ばがうら)町の山中には、飛鳥・奈良時代に島を開拓したといわれる御祖母様(祖母ケ尼行者)の塚が佇んでいます。おんば様は白山をひらいた泰澄大師の弟子で、臥行者(ふせのぎょうじゃ)の母ともいわれます。臥行者は飛鉢の呪法を身に着け、鉢を飛ばして布施を求めることで知られました。おんば様は飛鳥時代の貴族の生まれで、比叡山で修行したのち、女性天皇であった持統天皇の命を受けてこの地にやってきます。村人に稲作の技術をつたえ、向田の村民などをこの地域に集め田畑を開拓。696年には五穀をたち、入定して生き仏と成りました。土に竹筒を刺した洞のなかで、7日以上も鈴を鳴らし続けたと伝わります。 祖母ケ浦町の沿岸には、青々とした田んぼが広がっています。 早稲の香や分け入る右は有磯海芭蕉 祖母ケ浦のバス停は、 宮脇俊三著『ローカルバスの終点へ』に登場する能登島交通バスの終点です。フレンチオーベルジュ能登島サンスーシィや石坂荘、御祖母さまのお宿など、静かな能登島の暮らしを体験するにはぴったりの場所で、学生の研修旅行先にもなっています。能登島で一番古い寺院といわれる専正寺。祖母ケ尼行者が即身仏となったことを知った比叡山 5代目座主円珍(智證大師)がこの地を訪れ、おんば様の祠を建てたことが専正寺創建の由来といわれ、おんば様の像が安置されています。現在は浄土真宗の寺院です。 さて近年、モーレツな暑さに日本列島が襲われ、真剣に命の危険を感じているのは自分だけではないと思うのですが。夏バテする間もなく、追い打ちをかけるがごとく押し寄せる熱波はどうにもとまらない猛威となりました。いよいよといいますかとうとう、エアコンに頼らなければ生きられない世界に到達してしまったようですね…… 日中、買い物や病院に出かけることさえはばかれるんですから。帽子に日傘を差しカバンを持って歩きだしては見たものの、またたく間にマスクを付けた部分は息苦しくジワリ首元から汗が流れ落ちる状態になってしまいます。 「日が落ちるまで待とうよホトトギス」実のところ夏に弱い自分の行動パターンは出来ちゃってたんですけれど。イチ都民の切なる願いを申し上げるなら加速度を増す温暖化に歯止めをきかせられる身近な対策を早急に実行してもらいたい。これに尽きます。都心のど真ん中で、しかも外の現場で汗だくになりながら働く人の頭上を 80年以上前に起きた戦時中を思い起こさせる低空飛行、大型旅客機までがまるで特攻部隊なんじゃない?とみまごうばかりに飛んでゆくなんて、本来ありえないでしょ? 私はせっかくの南風が吹く夏の日を疎ましく想うようになりました。今日もまた表参道交差点に立つ「和をのぞむ -山の手空襲追悼碑」の上を旅客機が轟音を撒き散らし飛んでゆく。 『和をのぞむ』碑文太平洋戦争の末期、昭和二十年五月、山の手地域に大空襲があり、赤坂・青山地域の大半が焦土と化しました。表参道では、ケヤキが燃え、青山通りの交差点付近は、火と熱風により逃げ場を失った多くの人々が亡くなりました。戦災により亡くなった人々を慰霊するとともに、心から戦争のない世界の平和を祈ります。港区政六十周年にあたり、この地に平和を願う記念碑を建立します。 平成十九年一月港区赤坂地区総合支所 区政六十周年記念事業実行委員会 【 Webマガジン コラージは、オフィシャルサポーターの提供でお届けしています 】